障害をもつ女性たち [1]

    アジア・ディスアビリティ・インスティテート 中西由起子

本稿は、福祉労働(88号、2000年9月、155-162頁、現代書館)に掲載され「連載 アジアの障害者2−障害をもつ女性たち」を基に作成された。



初めに
 アジアには世界人口の半数以上が居住し、WHOの統計では1割が障害者であるので、その半数を占める1億5千万の女性障害者がアジアにいると推定される。
 女性ゆえに受ける差別に加えて、障害者としての差別が加わって、女性障害者は二重の差別に直面しているといわれる。その70%は各種サ−ビスへのアクセスの悪い農村部に居住している。その中で生産手段を持たない女性であるがために、貧困も加わり、3重の差別を受けていると言われている。

問題点
1生きていても厄介者であると見なされ、生まれてきても受け入れられない。
 女性の地位が低い社会では、女の子が生まれただけで大問題になるのであるから、さらに障害をもっていた場合どうなるか、簡単に想像できる。インドのHaryana では、カウンセリングを行い、NGOや医師が支援を保障したにも関わらず、二分脊椎の女の子の新生児が両親や家族が食べ物をあたえず餓死させてしまった。[2]
1家の中に無能な存在として閉じ込められ、孤立している。
 家族や社会は女性障害者に対して力も知恵もないやっかいものという偏見をもっている。インドの盲学校でソーシャル・ワーカーとして働くモンガは12才の女子生徒の例を挙げる。

 「兄が二人いて、私はたった一人の女の子なの。いつもずーっと部屋の隅に座っていたの。時々はお母さんが来てくれて、何か食べるものをくれるんだけれども、それも私が長いこと泣き叫んでいた時なの。おしっこしたい時はいつも同じ部屋の別の隅まで這っていってそこをトイレとして使うように教えられていたの。ある日兄二人がいなくなって、それからマダムが私をここに連れてきたの。」と彼女は言った。
 ここで幸せか彼女に聞いてみた。ほほえんで私の周りをダンスして、大きな声でそうだと言った。「家では自分は死んでいたと思っているわ。今は出来ることがたくさんあると知っているわ。だから見えないからってどうなるの。読み書きや手でものを作ることも習っているわ。ちょっとでも何かの仕事でお金をもらって、自分で食べて、乾いちゃったチャパティ一切れをもらうのに何時間も叫ぶ必要はないわ。」
 この話しの心痛むところは、この小さな女の子の兄二人も視覚障害であり、二人は学校に送り込まれていたと言う事実である。そして学校の責任者は視覚障害の妹もいると分かって、彼女を連れてくるために人をやった。聞かれた両親は、娘を学校にやることにお金や力を使う必要を感じないと申し述べた。「どっちみち、あの子は役立たずなのです。先ず彼女は女の子で、その上目が悪く、あの子を結婚させるなんて決してできっこ無く、生きている限り死なせないために彼女を養っていくことが父親や兄たちの義務となり続けるのです。だから何で邪魔するんですか。」[3]
 障害者は介助がなければ外出が難しい。家から一歩出るとそこは石ころだらけの道であり、雨がふればふぐぬかるみ、歩いている人を蹴散らして、猛スピードで車が走っている。外に出たくても誰も助けてくれなかったり、外出自体を危険だ、近所に恥ずかしいとの理由でをゆるされず、家に閉じ込められ、孤立している。
 家の中に隠されるのは、障害は遺伝すると家族が考えるためでもある。そうしなければ、他の障害のない娘の結婚に響くからである。彼女たちが結婚できるのは、家に多額の財産があるがために親が花婿を見つけてこられた場合のみである。しかし実際に結婚しても、財産を取られて捨てられるのが一般的なケースである。
 車椅子の女性ヘマが創設したインドのバンガロール身体障害者協会では、[4]女性障害の職業訓練プログラムも力をいれている。若い女性障害者たちは訓練終了後もしそのまま家に戻れば、結婚の見込みないやっかいものとして修得した技術を使う機会もなく、結局家の中に再度閉じ込められてしまう。そのためヘマは、女性終了生に家族から別れて自分たちで自立生活グループを形成することを奨励している。
2医療や教育、訓練を受ける機会がないので、自立への道を阻まれている。
 保健や医療サービス担当者が自分の地区の女性障害者の存在を知らなかったり、家族がサービスがあることを知っていても彼女には無用だと考え、せっかく用意されているリハビリテーションを初めとするサービスが利用できていない。また近所のヘルス・センターに行けたとしても医療スタッフが男性だと宗教上の決まりで診療を受けられない。女性の医師や医療専門家の数は少ないので、診断を受けるチャンスが限られ病気の予防や治療ができない。
 医療や教育を受けられないと言うことは栄養不良、貧困、無知につながり、健康状態も悪い。
 女性障害者は車椅子、白杖、補聴器などの自助機器も手に入らないので、自立することが不可能となる。ビカシ・バーラティ福祉協会(Bikash Bharati Welfare Society)の「補助機器・補装具の購入・装着のための障害者援助制度」によって車いす、3輪車いす。補聴器、補装具等の支給を1996-97年度に受けた450人のうち男性72%に対して女性28 %でしかなかった。[5]
 女性障害者に対する教育の必要性が認識されていないので、識字率の低い障害者の中でも最も識字率が低い。そのため、自分の権利についての認識も低い。例えば、女性障害者たちが私たちだって綺麗なんだからと、欧米の女性運動家が反対している「ミス・コンテスト」を企画しようとの話を時々耳にする。外見的な障害故に差別されてきた障害者にとって当然容認できないイベントのはずであるが、1998年4月にはフィリピンの障害者の作業所「階段のない家」がマニラで「ミス車いすコンテスト」開催した。障害者の権利擁護団体KAMPI(フィリピン障害者連合)まで当初は啓発のためこの活動を奨励したいとの意見を持っていた。
3女性障害者は一生家族に依存して生きていかなければならない。
 教育や訓練を受ける必要がないとみなされているので、家族、特に父親、夫、兄や弟、長男、おじたち男性に一生依存していきていかざるをえない。
 家の中では家事をこなせないので、結婚はおろか子育てもできないと見なされる。途上国での女性にとって結婚は生存を経済的に保障するほとんど唯一の手段であり、社会的地位を獲得する手段である。それがない女性障害者は一生家族に依存して暮らすことを余儀無くされる。
4結婚していて障害者となると、妻や母親としての仕事をとりあげられる。

 妻として障害者になると、大半の場合には子供を取り上げられ離婚される。例え夫に離婚の意思がなくても、社会がそれを許さない。
 10年ほど心の病にふせっていたバングラデシュの農村に住むプトールの場合は、最初の子供を身ごもって2,3ヶ月の時に土地の人が言うところの「悪い風」にあたり、意識が戻らないまま病院で子供をおろした。その後の精神的なショックのためか全ての人間関係を拒絶し薄暗い部屋の中で、蝋人形のように無表情なまま8年間過ごしていた。夫はとても愛情深い人で彼女の母親とともに彼女の介護に尽くし、自立歩行は出来ないもののその後徐々に自分の感情を表現できるまでに回復してきた。しかしこの家族に対して、「再婚して早く子供をもつように」、「寝たきりの娘のために十年も娘婿を縛っておくのは自分と娘の食い扶持のため」などのヒンドゥのアウトカーストの人々で構成されるコミュニティのプレッシャヤーが強まり、夫は再婚を余儀なくされた。結局プトールの母親と夫が自分たちで再婚話をまとめた。結婚式の朝、プトールの泣き叫ぶ声を背後に支度をする夫はげっそりと痩せこけ、母親は疲れ切った表情をしていた。嫁いできた若妻には、ほとんど歩行も困難なほどに老いた母親も一緒だった。老いた母親以外に何ももたない極貧の女性とその親を引き取る代わりに、彼女にプトールやその親を世話をすることを求めていた。生き延びていくために成立した再婚話だが、果敢に与えられた状況にチャレンジしていく強さも感じられる。[6]

問題の解決に向けて
 一番障害を持つ人たちがエンパワメントの機会を享受できるはずの障害者の運動に於いてすら、女性障害者は十分にうけいれられていない。障害の部分において彼女たちの問題を共有する障害当事者団体では、女性が参加しやすいように奨励策を取ってはいるが、[7]まだ男性中心で運営が行われている。DPI(障害者インターナショナル)でのアジア太平洋地域でも、特に役員レベルで女性障害者の参加はいまだ少ない。[8]  
 一番有効な問題解決の方策は、女性障害者が草の根レベルで自助グループを作って、問題の解決を計ることである。前に述べたインドのバンガロールのような方式をとっているところは多い。スリランカの女性障害者協会は北部の乾燥地帯であるタワラで自分たちの縫製の作業所を開いているほかに、中央政府の人をアドバイサ−として、その地域の紛争地帯の複雑な問題を抱える女性障害者への訪問も行っている。また知的障害女性の職業訓練の援助も始めた。[9]マッサ−ジやはり治療師として働く視覚障害の女性の子供ために奨学金を支給することを目的に、1978年に韓国視覚障害女性協会が設立された[10]
 前述のKAMPIでは国内の失業率が高いので、自分たちで特に女性障害者を対象に小規模な資本3万ドルを用意し、ローンとして提供し、小規模事業を奨励している。KAMPIは技術支援も行い、販売方法や、必要な資金の入手方法なども指導している。、観葉植物栽培、生花販売、雑貨店経営、手工芸品販売、野菜や魚の販売、養鶏などの事業がおこなわれている。[11]
 CBR(地域に根ざしたリハビリテーション)の活動の中でも女性障害者の組織づくりが奨励されている。バングラデシュ身体的弱者社会援助・リハビリテーション協会では、コックス・バザ−ルの3ヵ所のタナでの調査で所在が明らかになった身体障害者に自助グル−プを結成させた。グループは20-30 人ほどから成るCBRユニットとして1996年まで6つが誕生し、その1つは女性のみとされた。障害者自身が中核となるために、活動は障害者の地域社会への統合に焦点が当たっている。識字教育や啓発、治療や授業料などの一時的な要請への援助、自助具の提供、所得創出にあって必要な技術の訓練などのサ−ビスがあるが、ロ−ンの貸付に最も力が入れらえている。バングラデシュで1978年に貧しい女性のために始まったNGOとして設立されたグラミン銀行のマイクロ・クレジット(小規模無担保融資)の方法を取り入れている。ロ−ンは1年かけて毎週分割して返済される。障害者は10%を手数料として協会に支払い、2.5 %は預金として、さらに2.5 %は払い戻し可能な開発資金として預ける。[12]そしてこの活動に基づいて、協会の中に「女性障害者と開発」が結成された。ヘマのグループもCBRプログラムで家族内での役割を果たし、家庭の生計の一部を担える女性という前向きなロールモデルをつくり出そうとしている。若い女性障害者を身だしなみや家事技能、社会的技能などを自宅や仲間同士の自助グループを通して、1対1またはクループで訓練している。[13]

アジアでの取り組み
 女性障害者問題を重視したDPIアジア大平洋評議会は1986年に韓国で開催した第4 回リーダー養成セミナーのテーマとして、初めて女性障害者を取り上げた。この段階ではアジアの障害者の発表は個人や小グループでの実践が主で、カナダやオーストラリアの組織だった女性障害者の権利擁護活動とは大きな違いを見せていた。
 その後アジア大平洋のDPI内部でも、パキスタンの視覚障害のファティマ・シャー医師、同じく視覚障害のサルマ・マックブール博士など差別と闘って国内で指導的位置を得るにまで至った女性障害者を中心に活動を行ってきた。また世界盲人連合もスウェーデンのイニシャティブでアジア太平洋の盲人女性のセミナーを開催してきた。
 次世代の女性リーダーが徐々に育ってきた1995年には、ESCAP(国連アジア大平洋経済社会委員会)がアジア大平洋障害者の十年第1回評価会議に関連づけて女性障害者の会議を開催した。この会議から出てきた要望は、本会議である評価会議での女性障害者の分科会に引き継がれた。本会議では十年の行動課題(アジェンダ)の12の行動分野各々に対する勧告に加えて、特に女性障害者の視点を協調した女性障害者分科会による勧告も採択された。[14]
(1)国内調整ー国内で女性障害者の問題に関する政策や決定に女性障害者が関与できるようにすること
(2)法律ー女性障害者の権利の保護と推進
(3)情報と(4)啓発ー政策策定と活動の基盤づくりと国民の理解の推進を目的とすル、女性障害者の状況に関する情報作り、収集、提供
(5)アクセスの度合いとコミュニケ−ションー 一般の障害者に対する勧告と同じ
6)教育ー全ての障害を持つ女子や女性が教育の機会を与えられることの保証
(7)訓練と雇用ー障害を持つ女子や女性の職業訓練や雇用での平等な機会の提供
(8)障害原因の防止ー一般の障害者に対する勧告と同じ
(9)リハビリテ−ション・サ−ビスー障害を持つ女子や女性が保健やリハビリテーションのサービスを平等に利用できる保証
(10)福祉機器ー障害を持つ女子や女性がもっと福祉機器を利用できるようにすること
(11)自助団体ー自助団体の討議事項に女性障害者の問題を入れるよう彼女たちの能力の強化、ならびに団体での政策や決定に影響を与えるための平等な機会の提供
(12)地域協力と支援 障害を持つ女子や女性の向上に関する情報や経験の推進と分かち合い、ならびに地域会議に必要な彼女たちの能力の強化
 この時に誕生した女性障害者のネットワークの責任者として選ばれたインドの視覚障害の女性アヌラダ・モヒットは、その活動をDPIアジア大平洋評議会に持ち込んだ。その年の北京での世界女性会議への参加や、女性障害者の情報交換誌She can ....の発行など積極的に活動した。しかし、インドで障害者団体のデモによる要求にもかかわらず長いこと空席にされていた1995年の障害者(機会均等、権利保護と完全参加)法に規定された中央調整委員会首席コミッショナーの任命に伴い、昨年実質的な事務局長となる副コミッショナーにアヌラダが任命され、活動が中断している。

終わりに
 女性障害者は、障害、女性、貧困という3重の差別に直面しているがために、現状へのフラストレ−ションや劣等感が強いエンパワメントに必要な、自己の向上に結びついていたり、人間としての尊厳を認められる機会がない。
 障害者の自助グループの中での、ピア・サポートによって自信と尊厳を取り戻している。エンパワメントのもう一つの方法は、一般の女性団体との共闘である。韓国の例では、1992年にさまざまな女性団体と女性障害者を中心とする「別途に健常な人の権利研究所」が性的虐待に関する特別法の制定にあたって、女性障害者への性的虐待への重刑の条項を挿入することに成功した。[15]
 まわりの差別的な態度から、社会的、経済的、物理的に極めて不利な状況に置かれているアジアの障害をもつ女性は、ニーズを共有する団体と共に運動を進めていくことが肝要となっている。


[1] 本稿は、福祉労働(88号、2000年9月、155-162頁、現代書館)に掲載され「連載 アジアの障害者2−障害をもつ女性たち」を基に作成された。
[2] Hosamane, Sakshi Broota. メDeveloping the Gender Dimension in Indiaユs Disability Rights Movementモ, Women in Action, No. 2, 2001, ISIS International-Manila, p.22
[3]Monga, Preeti.(1997) "On the Women's Day", She Can..., Vol. 1, No. 4, Summer Edition, pp. 19-21, NAB-CBR Network, New Delhi
[4] ピーター・コ−リッジ(1999)アジア・アフリカの障害者とエンパワメント、235頁、明石書店
[5]Bikash Bharati Welfare Society. Annual Report: 1996-1997, Bikash Bharati Welfare Society, Calcutta, 1997

支給日
支給場所 支給品数 対象者(男性 女性)
1996年 4月30日 Calcutta, D.S.W 04 04 (03 01)
5月7日 Kotalpur, Bankura 15 15 (10 05)
8月7日 Jhargram, Midnapore 13 13 (01 12)
9月30日 Calcutta 17 17 (17  0)
10月17日 Tolygunj, Calcutta 21 21 (16 05)
11月23日 Jhargram 19 19 (17 02)
12月16日 Thakurangore, 24 Parganas(N) 19 19 (17 02)
12月27日 Dhanbad, Bihar 21 21 (16 05)
1997年 1月28日 Calcutta, D.S.W 09 09 (05 04)
2月26日 Tarakeswar, Hooghly 51 51 (35 16)
3月9日 Durganagar, 24 Parganas(N) 29 29 (22 07)
3月15日 Cossipore, Calcutta 29 29 (21 08)
3月28日 Andul, Howrah 33 33 (26 07)
3月29日 Tata, Bihar 44 44 (31 13)
3月30日 Berhampur, Murshidabad, D.S.W.O 44 44 (33 11)
3月31日 Ramganga, Patharpratima South 24 Parganas D.S.W.O 82 82 (54 28)
合計 16カ所 450 450(342 126)
[6]岩本直美(2000)「ワーカーからの手紙」、みんなで生きる、310号、2000年5月、p.11−12、日本キリスト教海外医療協力会
[7] カンボジアやタイ、スリランカのDPIには女性障害者のグループや委員会がある。
[8]DPI国内会議役員の男女別割合
役員 男性 女性(人数、%)
フィリピン 204 112 55 92 45
バングラデシュ 42 36 86 6 14
タイ 52 38 73 14 27
インドネシア 11 10 91 1 9
インド 11 8 73 3 27
韓国 20 18 90 2 10
シンガポール 10 9 90 1 10
日本 20 17 85 3 15
マレーシア 11 8 73 3 27
カンボジア 9 7 78 2 22
ニノミヤ・アキイエ・ヘンリー(1999)アジアの障害者と国際NGO−−障害者インターナショナルと国連アジア太平洋障害者の10年、明石書店
[9] 上野悦子(2000)世界の開発NGO−SHIAの活動を中心に、第102回アジア障害者問題研究会報告
[10] Kang Cho-Kyung, “Country Report", Souvenior book of the Women's Forum of the 4th WBU  Wast Asia Pacific Regional Assembly, pp.238-45, Korea Blind Union, ed. by Jeong Jong Yu, 1998, Seoul, Korea
[11]Ilagan, Venus (1998) Development of Small Enterprises for Women with DIisabilities in the Philippines: The KAMPI Eeperience. Paper presented by at the RI Conference in Hongkong
[12] 中西由起子、久野研二(1997)障害者の社会開発−CBRの概念とアジアを中心とした実践、114頁、明石書店
[13]Thomas, Maya., Hema, N. S., Raja, Shoba., and Prakash, Sudha., "Women with Disabilities in South Asiaモ, Women in Action, No. 2, 2001, ISIS International-Manila, p. 15
[14] ESCAP (1995) Hidden Sisters: Women and Girls with Disabilities in the Asian and Pacific Region, New York, United Nations
[15] Park In-Duck. (1998)"Welfare Promotion and Social Participation of Visuallu Inpaired Women," p.37, Souvenior book of the Women's Forum of the 4th WBU Wast Asia Pacific Regional Assembly, Korea Blind Union, ed. by Jeong Jong Yu,, Seoul, Korea