命のボート

Telegraph Magazine, UK 22 July 2000niに掲載されたものを
Disability Information Dissemination Networkが9月2日付けでメールで配付)



常に極限の貧困、栄養失調と病気によって苦しめられている 国バングラデシュは、浮いている病院を建てることに挑戦しようとしていた。 厳しい予算でちょうど14カ月で手造りでそれを建てることは、今世紀最悪のいくつかの洪水が襲った期間のちょっとした奇跡であろう。 ジョン・ハットはすべての予測に勝利したことを報告する。



バングラデシュのゴモティ川川岸に停泊しているインパクトの病院船ジボン・タリ号

「バングラデシュ 」と「慈善」という言葉ののコンビネーションが、今いっそう興奮より疲労を誘発する可能性が高いことは現代の世界での悲しい現実である。恥ずかしいことに、これは、西サセックスのヘイワード・ヒースにある慈善団体であるインパクトの会長、ジョン・ウィルソン卿と5年前に話をしていたときに確かに感じたことである。彼がバングラデシュで病院船を作る計画について私に話していた間、希望に見えるが徒労と感じられる重荷を遂行することは望まないので、私は完全に耳を閉じていた。このような船が今までにゼロから作られたことはなかったし、まだインパクトが1ペニーの資金もつくっていなかったし、今のようにその時も新聞が、しばしば永久の大惨事地帯とみなされたバングラデシュに特に関連した言葉 である「同情疲労」と書いていた。

一般の認識にもかかわらず、マイクロ・クレジット(国家によってたいていは女性たちに貸される小額だが、足掛かりとなる金額)の創設と家族計画提供の増加を含めて、バングラデシュは実際自国を助ける多くのことを行っている。そして病院船の考えが生まれたのはバングラデシュであった。1993年に(ウィルソンがすべての避けられうる障害を終わらせようという意欲的な特徴を持つ目標で設立した)英国インパクトは新しい財団を始めるのを手伝うラザウル・ハックとモンスールに・チョウドリのバングラデシュ人2人に5,000ポンドを与えた。モンスールはウィルソンと同じように、幼年時代事故で視覚障害となり、今はバングラデシュ・インパクトの常勤の所長である。

インパクトが成功裏にインドですでに走らせていた病院列車を設立することが、彼らに提案された。しかしながら、モンスールの兄弟の実業家が国土の3分の1が水面下にあり、多くの村に水路でしか行けない国にとっては船がもっと適していると指摘した。 後に、船の考えは、より安全で安価に操作でき、新しい停泊所に動かなければならない時引っぱることができる、平底のエンジンがないポンツーンにしようとの提案が採用された。

英国ののインパクトチームが最初の資金を約束し、デザインが作られた。1995年の終わりまでに、多くの無給のプロジェクトのボランティアの1人 であった土木技師のジェフリー・マーティンが船のモデルを作った。 けれども750,000ポンドをまだ見つけねばならず、そして多くの困難が残っていた。

やさしい物腰だが手強い人物である、インパクトの最高経営責任者のクレア・ヒックスは英国航空に航空券4枚をもらい、そしてバングラデシュにチームと一緒に飛んだ。彼らは、 首都ダッカの多くを作っている、騒々しい造船所をよじ登ってから、いくつかの見積もりを集めて、一部直感の上で退職した士官シュバーン三等陸佐が提出したものを受け入れた。

適当なスチールが国のどこにもなかったので、シンガポール から注文しなければならなかった。そしてそれによって輸入関税の支払いのために資金集めの危機的時期が生まれた。いったんスチールが到着すると、建築のペースは凄まじかった。 ポンツーンが手で完全に建設されなければならないことを考慮すると、三等陸佐の14カ月の内に完成させるという約束は難しいからであった。そして、バングラデシュが世紀最悪のの2カ月間の洪水に見舞われた1998年のことであったので、プロジェクトに次々に問題が起きた。 シュバーン三等陸佐は時間通りに目的を成し遂げることに慣れている軍人であったので、ボートがしょっちゅう完全に沈んでいた長い期間にひるまなかった。構造の一部が波の上に現われたときはいつでも、彼のチームは直ちに仕事を始めた。

造船所に引き上げる機械がなく、それ故に穏やかに川の中にポンツーンを滑らせることは問題にならなかったから、およそ60人のやせっぽちの作業員のチームが川に向かって引っ張り、数日間で10フィートだけそれを動かすことに成功した。 シバーンによれば、彼らは引っ張っている最中「多くの下品な言葉を使う」歌を歌った。「この特定の仕事では良い言葉は役たたない。 ただ汚い言葉だけが彼らのやる気を起こす」 と彼が私に言った。

最終的に、1999年2月に、12日間引っ張った後290トンの 3ケ所に甲板がついたパイツーンは水の中に滑っていき、承認された予算の中で時間通りに終了した。公式の式典においてそれはジボン・タン、命のボートと命名された 。

6カ月後、私はそのプロジェクトを訪れるためにバングラデシュに飛んだ。かすかに光っている青色と白の船は、ゴモティ 川の川辺の3番目の停泊所にあった。 22人のスタッフ(管理者、3人の医者、4人の看護婦とコックが含まれる)は全力を尽くして働いていた。それぞれの停泊所でおよそ2カ月働き、前の停泊地では彼らはすでに3,000人以上の患者を治療し、そして視力修復の272人を含めて、500人以上の外科手術を行った。

船に到着する前に、私は、小屋の窓のところで待っている患者らしい人々の長い列を通り過ぎた。彼らは各自12ペンスの料金を支払う。それはただ物珍し気に船を見物して回ること人たちを除外するのに役立った。もし誰かが正真正銘に困っていて完全に貧窮しているなら、支払いは免除される。それぞれの患者が色のついた用紙(黄色は整形外科、ピンクは眼科、青は耳鼻科)を与えられ、それは船上でカーキ色 のガードが低いデッキの適切な診断部屋に彼らを行かせられようにしている。


上から、
ジボン・タリ号を就航させるのに引き上げる機械がなく、60人の作業員が12日間をかけて川へと船を引っ張った
14ヶ月で船を完成させるためひどい洪水に打ち勝ったシュバーン三等陸佐

木から落下して足を追った少年ショエルは、陸路で病院に行く途中ジボン・タリ号について聞いた



複雑な外科手術が必要な患者は政府病院に回され、そして援助ができない人もいる。多くが医者によって即刻治療され、そしておよそ10人のうち一人が上のデッキの最終的外科手術に送られる。 ここは、個人開業で請求する130ポンドの代わりに1日にたった20ポンドを支払われている外科医が長時間配置された手術台3台がある手術室である。


感染により完全に失明した後視力が回復したモハメッド・ナルル・イスラム

ポンツーンの現在の停泊所はダッカに近く、外科医が速く自分たちの職場に戻るには十分だが、船が遠い地区に移動するときはこれは可能である。 希望は、外国からの外科医が短いサバティカルの間奉仕してくれることであり、海外で居住するバングラデシュ人が理想的であるが、多くの者が訓練のために多額の借金しているので、めったに小額の謝礼のために働く余裕がない。

手術室と同じデッキには、パリパリした白いサリーで、机に座って権威を発散する上級看護婦が監督する、きらりと光っている11ベッドの回復病棟がある。船で5日間宿泊してみて、一度も誰かが悲鳴を上げたり、あるいはうなりさえするのを聞いたことがなかったので、私は彼女に患者は非常に勇敢にちがいないと述べた。「誉められるのは私たちだわ」と彼女が答えた。 「上手に彼らの世話をして、素晴らしい投薬をしています。」 病院船は明らかに非常に効率的に運営され、問題の原因となるようなことはほとんどなかった。しかしスタッフは100,000ポンドの年間予算ではすべてをカバーしないことを必然的に分かっている。 彼らは、手術のための顕微鏡もう一台、補聴器のための耳型と内反足の子供たちのための術後のくつを緊急に必要としている。

患者の多くがくぼんだほおと餓死することをおびえている目をしていて、ひどくやせ衰えている。多くが幼年時代から発育不全で、明らかに栄養不良である。患者と話したとき、私は彼らの大部分が土地を持たず、そのため通常奴隷よりずっと貧窮していたことに気付いた。少なくとも後者はふつう食べ物と住居をもらえるのに対して、バングラデシュ人の日雇い労働者は自分たちが働いているときさえ、生活を維持するのに十分なほど稼げぐことはほとんどなく、そして仕事がないときは餓死する。 時々父親はまきとして売るために、自分の木造の小さな家の竹の支柱を切らねばならず、そしてそれでもう1ー2日間彼の子供たちに食べさせる。

土地を持たないということには、何百万というバングラデシュ人 が、水のすぐ上にちょっと突き出た沖積の土壌の小さな土地で暮らさなければならないという問題である。この1つがボートから見えた。 ジョビン・タリ号の保健教育者であるカビールはそこに住んでいる患者を見つけるためにある日の午後私を連れていってくれた。 船頭が島のもっと近くに漕いで私たちを連れていったとき、その住民の生活が本当に危険であることが外見上明白であった。びっしりと人が詰まった木造の家々によって畑の場所は少しかなかったので、どのように村人が十分な食糧を育てることができるのかと思った。そして莫大な洪水波の一撃がそれらすべてを押し流すことができることも明白であった。

カビールは 、数年前に折れた腕に挿入された金属棒を取り去る手術を最近行った10歳の少年フセインを見つけた。人々がわーっと私たちを取り囲んでいる間に、少年の母親は典型的な物語を話してくれた。数年前に、フセインは2隻のボートの間に落ちて骨折した。苦しみんでいる少年を抱え、彼の家族が数マイル離れている最も近くの医者に行くために金を集めようとして1日が過ぎた。医者は6ポンドを請求し、もっとずっとお金がかかるダッカの病院に彼らを差し向けた。特に、巨大な、驚くべき都市では少年に親族が付き添ってくれることが必要であったからである。フセインの父親は良い給料を得るには年をとっていたので、必要な金額をつくるのに3日を要し、そして1カ月に10パーセントの高率で250ポンドのローンを受けて叔父が危機を解決せねばならなかった。 にもかかわらず、この膨大な金額でさえ不十分であった。そして、もう1回75ポンドを作るために、家族は所有する土地全体の3分の1にあたる1エーカーの4分の1を売らなければならなかった。 私は彼らのような、親族の病気のために土地を売ることを強いられ、それで永続的な貧困を宣告された家族にしばしば出会った。

フセインは叔父、義理の兄弟、母と従兄弟に付き添われてダッカで8日間を過ごし、金属棒が彼の腕に挿入された。村に戻った6カ月後には棒が取り去られることになっていたが、家族がもう1回350ポンドをつくる方法がなかった。土地からの収入は売却ために減額し、父親は弱く働けず、債権者が40ポンドを催促していた。病院船無しには、重い棒は一生フセインの腕に残っていたであろう。

最も感動的な手術は目の手術であった。メーカーであるライナーが眼内レンズ500枚を贈呈してくれた結果、 多数の患者が眼科の外科手術、大多数は白内障の手術を受けていた。 部分的な視力がただ1日間たっただけで回復したことに大多数の人が気付き、明らかに6週間後に見ることがほとんど全員が可能である。

私たちが船に戻った後、カビール は彼らの1人、きれいな、茶色の模様のナイロンシャツを着た発育不良の若者モハメッド・ナルル・ イスラムを私に紹介した。つい最近まで彼は完全に見えなかった。他の多くの村人のように、自分で年齢がはっきり分からず、別の時には自分が20あるいは25歳であると言った。彼は私に、視覚障害になる前に、1日1ポンドほどの収入を得る力車の運転手であったと言った。人力車の賃貸料の支払額を差し引くと、ちょうど自分と妻のために米とほんのまれに魚あるいは野菜すこしを買うのに十分な金を残した。しかし4年前に、ナツメヤシの木に登っていたときとげが眼を刺し、視力を失った。 目は感染し、感染は他の目に広がった。まったく見えなくなって、彼は毎日自殺しようと考えた。

彼が自殺しようとする前に、たった数マイル先にジボン・タン号が停泊していると耳にした。私の到着の時までに、手術によってすでに片目の視力が復元していた。彼は今、完全に成功することを見込んで、残りの目の手術を待っていた。それなら何故、彼はいまだにそんなに惨めに見えるのかと私は尋ねた。

恐ろしい話しだった。 「私が5才の時父が、12歳の時母が死にました。 父が生きていたとき、3人の姉妹の持参金を支払うため土地の大部分を売らなければならず、父が死にかけていた時薬を買うために残っている畑を担保に13ポンドの借金をしなければなりませんでした。ローンの返済が不可能だったので、すべてを失いました。今家族の主な稼ぎ手は叔父ですが、1日50ぺニ− を得る日雇い労働者に過ぎないからあんまり我々を助けることができません。目が見えなくなったとき働くことができず、隣人に施しを受けました。 魚を食べるられたのは何カ月前のことですし、最近の唯一の食物は妻が摘んでくる野生の植物です。

同様に見えなかった何年もの間私の姉妹にも助けてもらえませんでした。非常に若くして長女の夫は死に、それで彼女は貧窮しました。 真ん中の姉の夫はいつも不運で、我々は彼がすでに3回結婚していたことを知りませんでした。彼は間もなく彼女を見捨て、そして彼女も貧窮しました。一番若い姉は地方の町で住み込みのお手伝いとして働き、月収は4ポンドなので、我々を助けることができません。

自分の所の屋根用に波型鉄板を買う余裕がないので、雨が降り込んで、我々はぬれて病気になります。 ここに来るのに最大の問題はバス運賃をつくることでした。叔父は私に7ペンスだけを貸してくれることができたので隣人に残りの8ペンスを頼まなければなりませんでした。 唯一枚のシャツは穴があいてぼろぼろで、この船に適しているように見えたいと思ったから、このシャツを借りなければなりませんでした。」

悲嘆な物語に慣れてているカビールでさえ、心を動かされた。 彼は、「私のシャツ1枚を彼にやろう」とぼそぼそと言って、部屋から急いで出ていった。 私はモハメッドに十分な金を与えたいと思った。それは多分彼にとって何年間もにわたって幸せな最初の瞬間となるかもしれないが、慈善団体が全く正しいことに、訪問者による特別な寄付に強く反対することも私はよく知っていた。

にもかかわらず、すぐに誘惑に打ち勝てずにポケットから15ポンド相当のバングラデシュのタカを出して、テーブルの向こう側に渡した。 モハメッドは金を取って、それから信じられずに凍り付いた。 彼の腕は、しわくちゃの紙幣をしっかり握って、伸ばしたままであった。彼に乱暴に手ぶりで、必死に私がそうやったことがわかる前にお金を隠すように伝えた。 彼の腕は堅いままだった。私のもっと大急ぎのジェスチャーに、彼はゆっくりと自分の一番上のポケットに紙幣の束を詰め込んだ。それから彼の頭を横に回し、肩を震るわせ、そして涙がほおの下に吹き出した。

カビールは折り畳んだ青い綿のシャツを持って部屋に戻って、そして少し惨めさがなくなったモハンメッドにそれを与えた。私は質問を続けて、彼の妻が次のジャガイモ収穫の間に日雇い労働者としていくらの収入を得るのか尋ねた。1日 50ペンスほどだろうと思ったが、モハンメッドは知らないように思われた。それでカビールは彼をからかってひどく大きな数字をあげた。「彼女は1日恐らく2ポンドかそこら稼ぐんじゃないだろうか」

モハメッド はこのようなばかばかしい考えにひどく元気になった。 「全く、そうじゃない、もちろんそんなことはない」と答えた。 「そんなことは全くない」 そして、ちょっと、彼は微笑した。

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                                               中西由起子訳