フィリピン大学College of Allied Medical ProfessionのCBR

初めに
 マニラのフィリピン大学(UP)同盟医療専門校(CAMP)はCBRを教育プログラムに対する要請に応えて始めた。1960年代の初めに国立フィリピン大学(UP)は LagunaのBayで包括的地域社会保健プログラム (Comprehensive Community Health Program、CCHP )、後にLeyteのPaloで保健科学研究所 (Institute of Health Sciences)を設立した。目下、UPの種々の学校の学生がRodriguez(Montalban)、Rizal、Pila、Laguna、Laurel、BatangasとCavite県のいくつかの都市で地域に根ざした訓練プログラムを実施している。
 1973年からのLagunaのBayから現在のRizalのMontalbanでのCBR実施におけるUP- CAMPの経験は、UP- CAMPの信念を実証している。つまり、「障害者と一緒に地域社会で起きる本物のエンパワメントのためになければならないことは、
・ 障害者のニーズに取り組む際の全体論的見解;
・ 障害とリハビリテーションに関係する問題への開発的アプローチ・ 部門間や機関間の協力と資源の分かち合い;
・ プロラムのすべての段階での障害者の積極的な参加
・ 障害者と地域社会の他の人々の間の本物の協力

CBRの前身となった事業
 1971年理学療法にインターンたちが物理療法サービスが農村地域が利用できる理学療法サービスを予測した研究(「LagunaのBayでの理学療法サービス設立の可能性」)を行った。1973年にグループメンバーの当時すでにUPーCAMPの教員となっていたMa.Lucia M. Magallonaが、LagunaのBayでのUP- CCHPと提携していた自分の学校の学生のためのCBRの開発しようと申し出た。 1974年にCBR でのPTの学生の訓練が始まった。 2年後に、OTの学生がTeresita Camiling MendozaをOT訓練プログラムの教授責任者 としてCBRを初めて経験した。CBR プログラムは次の重要な要素を持っていた。
・ 学生は里親と一緒にスペイン系人種区域に住む
・ 後に学際的なアプローチ(IDA )に発展した多角的アプローチ(MDA)を使用する
・ プライマリー・ヘルス・ケアサービスにリハビリテーションサービスを統合する
・ 障害のある人の家庭レベルでのケアを行う
・ 障害をもつ人の家族を訓練する
・その土地の材料を利用する
・必要なら市立保健センターPTクリニックまたは県の病院へのリファーラルを行う

CBRの特徴
1 アプローチ
 CCHPのの早期に各専門部門は自分たちの研修プログラムを行った。 各専門部門の多様性を地域社会の保健問題に対応させようと多角的アプローチ(MDA)を採用した。 MDAからIDAへのの移行は地域社会の保健問題に関して調整し互いに相談しなければいけないとの種々の専門部門での最も緊急のニーズに対応するためであった。 これはリハビリテーションサービスがLagunaのBayのプライマリー・ヘルス・ケアサービスにとって不可欠になったからであった。
 1989年にCBRがRizalのRodriguez(Montalban)に再導入されたとき、当時の農村社会の人々は物理的、経済的にリハビリテーションサービスを利用することがより一層不可能になってきた。このためCBRにおける新しいアプローチ、つまり超専門部門的アプローチ(TDA)の開発が必要とされた。 障害をもつ人の状態によっては2、3人が介護にあたったが、TDAの下ではただ1人のセラピストが障害者につく。このアプローチでは、「責任者セラピスト」 (TIC)は他の人たちと自分の専門的知識を共有し、かつ値段を上げることなくさらにもっと全体的で包括的なリハビリテーションサービスの供給のために他の分野から学ぶことを促される。 従ってセラピストは自分の専門的知識を深めながらもジェネラリストの役割を果たす。
2 チームワーク
 チームワークは保健部門での単なるコンサルテーションとリファーラルから、チームメンバーとの専門的知識の実際的分かち合いと学習に変化した。 リファーラルは様々な部門と政府機関の間で行われた。 障害をもつ人はチームの受動的な対象となるのが常であった。後に彼らはリハビリテーションチームの活動的メンバーとなった。
3 社会問題、開発問題としての障害観
 障害をもつ人と居住し障害者自身やその家族にリハビリテーション技術を移転するというインターンの存在があるので、CBRでは通常の医者患者関係は重視されず、障害者に影響を与えているより広範な問題が扱われるチャンスがある。 これは単なる医学のケースとしてではなく人として障害者のニーズを深く認識しているからであり、単独な保健問題ではなく、社会問題、開発問題として障害観を変化させる。

今までの主要な業績
1. CBR における専門枠を超えたアプローチの開発。
2、 CBR 労働者のためのキャリア道の開発。
3、セイブザチルドレン日本 のフィリピン・オフィス (Save the Children Japan - Philippine Office、SCJ - PO) の援助による感覚統合遊戯場(Tulong - Dunong sa Palaruan)の建設。
4.Quezon市 DilimanのSentro ng Wikangの援助による「 Manwal para sa mga CBR Workers」の出版。
5.「Balikatan ng Pamayanan 、 Kaisa ang May Kapansanan 」と名付けられた、UPーCAMPの CBR プログラムに関するビデオ教材の製作。これもSCJ - POのプロジェクトである

受益者
1.RizalのSan MateoとMontalbanの障害者(すべての年齢層とあらゆる種類の障害)
2. 障害者の親と親類
3.RizalのMontalbanの選らばれた小学校の生徒

パートナー
1.何人かの障害者と彼らの家族
2.RizalのMontalban市の行政
3.RizalのMontalban市の農村保健ユニットと教育文化スポーツ省、社会福祉開発省
4. 最も聖なるロザリオの聖母クレジット協同組合(Our Lady of the Most Holy Rosary Credit Cooperative)
5.日本セイブ・ザ・チルドレンフィリピン事務所
6.Anawlm Lay Mission Foundation, Inc.

RIZAL県RODRIGUEZ(MONTALBAN)における CBR プログラムとサービスの歴史
<1988年11月から1989年5月>
 Rizal県Montalban市でのCAMPのCBRプログラムの開始に先立って、1988年11月から1989年5月まで社会調査が行われた。これには、目の検査、データ収集、インタビューと人々との共同生活が含まれた。
 Montalban市は、次の理由で選ばれた。
場所: マニラからそう遠くない大都市の周辺にあり、しかしRizal県最北のいまだ基本的に田舎の町であった。
アクセス度: 陸上交通機関で行くことができた。
地域社会の支援: 地域社会のリーダーは、プログラムを非常に支援してくれた。
障害者数: 障害の割合は、WHOの10%を超える11%であった。
 一般の人々の障害者への態度は肯定的でさもなければ受け身であった。
地域社会の中に必要な構造がきちんとあった。
CAMPの学生によって行なわれた2回の予備調査の結果は、好ましいものであった。
プログラム担当者が地域社会をよく知り、主要人物との親密な関係を確立するに至った。
<1989-1990年>基盤づくり
 最初の学生の一団が配属された。
 学問分野を超えた訓練のアプローチ (TDA) は、それぞれの家で障害者をケアする際使われた。
 障害調査と分析は、障害の種類と障害者の管理法を決定するために行なわれた。
 バランガイにCBRを導入するために、教育キャンペーンが開始された。
 CBRワーカーのための訓練マニュアルが準備された。
<1990-1991年>基盤強化
  第1団のCBRワーカー(障害者 、教師2人、障害調査を手伝ってくれたバランガイ保健ワーカー)が訓練をうけた。
 以下の活動をを含む障害者の家庭レベルでのケアが着手された。
a 家族とCBRワーカーの訓練
b 各障害者のための指導マニュアルの準備
c 障害者の状態を家族とチームが一緒に話しあう家族の会議
  教育の仕事がゾーン(purok)レベルで行われた。
 サンホセとサンラフェル小学校は身体障害と学習障害の予防と早期発見のためのパイロット学校であると認知された。
<1991-1992年>他のプログラムとサービスの開始
(1)学校保健プログラム(SHP)
 全低地バランガイの1年生の身体障害と学習障害の有無について診断が行われた。 診断手順に関する教師のためのセミナーが開かれた。学習障害者のための指導クラスが開かれた。診断で見つかった態度での 問題を扱うために小学校教師に運動プログラムが提案された。
(2)特殊教育クラス(SPEO)
 市立保健センターのガレージで最初の子供たち5人のクラスが持たれた。SPED は社会化、身辺自立活動と基本的認知療法を学ぶ場所を特別な子供たちに用意することを意図した。 数カ月後に、SPEDクラスはロドリゲス家の祖先の家で入った。
(3)生計プロジェクト (LP)
 手作業でのcogon 草から紙づくりをする生計プロジェクトが始められた。 その目的は障害者と家族のために訓練して暮らし技能を提供すること、そして良い作業習慣を身につけて、そして産業、共同、正直、敬意と辛抱強さの価値観を形成することであった。 (4)CBR ワーカーの養成
 訓練生の大部分が「KMKs(障害を持っている友人たち)」の親であり、若干数が我々の「隣組」の会議に出席した障害者の隣人であり、若干数が障害者自身であった。 彼らの訓練では学校保健プログラム、生計プロジェクトとSPEDクラスで何らかの運営職につくための準備が含まれた。
<1993-1994年>CBRサービスの拡大
 障害のある人の苦境に対する認識と理解が深まることで、CBR サービス拡大のための道が開かれた。障害者は患者としてではなく、障害を持っている友人(KMK )として見なされ始めた。社会・開発問題として障害を認識することは、CBRサービスでのこの注目に値する変更に影響を与えた。
(1)学校保健プログラム(SHP)
 標準診断法のほかに、感覚統合(SI)法が行われた。感覚統合とは、環境に応えて認知や活動をするために個人のニーズに関連して脳で感覚がろ過され、調和され、統合化されるプロセスである。Jean Ayresによれば、Sl理論には、感覚の情報処理で起こるかもしれない欠陥を説明する際に重要かもしれない3つの基礎条件がある。
a学習は、中枢神経系の中でこれらの感覚からのインプットを処理し統合するために、環境や個々人の体の動きから引き出される感覚情報をえる能力による。
b計画と行動での欠陥は、感覚的インプットと処理し統合する個人の方法での欠陥から生ずる
c感覚での摂取量増加のために機会を提供することは、概念と行動においての立案を速めるよう感覚上の欠陥を処理し、統合する中枢神経系の能力を向上させる。
 San Jose小学校とBurgos小学校(本部と付属)の3校が SHP のために選ばれた。 Slのオリエンテーション・ワークショップがすべての教師と校長を対象に彼らをプログラムの実行に巻き込むために行われた。 Ate/Kuya(兄 / 姉)制度を通して SHP 活動の実施を助けるために、5、6年生のリーダーが指導力訓練を受けた。 これは研究プロジェクトとしてUP Manilaに提出され、1995年8月に承認された。
(2)SPED クラス
 SPED クラスの子供の数は5から10人に増えた。SPEO クラスは地区監督者 (District Supervisor) であるMrs. Leticia Bautistaの許可を受けて、Eulogio Rodriguez 小学校の教室の一つをもらった。
(3)生計プロジェクト
 ドアマット、ろうそく、頭のバンドとブレスレット、紙製品と食肉加工などの多くの製造プロジェクトが地域社会での最も良いプロジェクトを探そうとして試みられという、調査段階を経て行われた。 CBR ワーカーの若干がインターンと一緒にトレーナーの役を務めた。
(4)CBR ワーカーの養成
 Marikina の Sukob, IncのメンバーとしてのMontalbanの住民と同様、 RizalのSan Mateoの若干の住民も訓練プログラムに出席した。 しかしながら、彼ら全員がうまく訓練を終了したわけではない。
<1994-1996年>連係とアウトリーチの月日
 1989年から地域社会のリソースに頼っていたCBR プログラムは外部のソースから何らかの援助を得ようとし始めた。
a.日本セイブザチルドレン (Save the Children Japan)
カントリー・ディレクター上田としひろ氏とMs. Edelweiss Silan を通して日本と韓国の青年商工会議所との連係ができた。 彼らの寛大な援助で TULONG - DUNONG SA PALARUAN(感覚統合運動場)がSan Jose小学校 ( Elementary School) の敷地に建設された。SPEDクラスはこの建物に永住の地を得た。
b.Sukob, lnc 。
Sukob によってCBRのKMKs のために、医療援助のための非常に多くのリファーラルが広がった。 お返しに、CBRワーカー養成の一部にSukobの会員が参加できるようにした。
C. フィリピン整形外科のセンターとフィリピン総合病院
フィリピン整形外科のセンターとフィリピン総合病院のこれらの病院との連係は病院リハビリテーション医学科のサービスをもっと簡単に利用できるようにした。
d.Antipolo の特別な人々
Cericos の家族と一緒に住んでいた10人の身体障害者は、MontalbanのKMKsに食肉処理の専門的知識を教えた。 途中で、彼らは技能以上のものを伝えた。彼らは KMKS を自助活動と未来を期待しつづけるよう奮い立たせた。
 計画的な救済活動
a.RizalのSan Mateo
Montalban で訓練されたSan Mateoからの3人の CBRワーカーを通して、CBR サービスがSan Mateoに広がった。
b.Anawimの地域社会
Bo Sanchez修道士によって率いられたカトリックのカリスマ的なグループが管理するこの地域社会は、捨てられた人たち、高齢者、孤児、障害者の世話をしている。 Anawim は CBR のパートナーの一翼をになった。 松葉杖と車椅子が、この地域社会のメンバーによってCBR に寄付された。
<1996-1997年>持続性の年
(1)CBRワーカーの専門性の開発
CBRワーカーは自分たちの臨床技能に重ねて、マネージャー、組織者とトレーナーとして自己の技能を磨く種々な機会を次第に与えられた。
(2)Montalban CBR評議会の組織化
これは種々の省庁とNGOの長で構成される。3人の障害者が評議会のメンバーである。 この評議会を通して、 CBRワーカーは市の予算で決められた毎月の手当てを受け取る。
(3)Montalbanの障害当事者団体 
 すでに政府に登録した。
<1998年ー現在>
 現地コーディネーターのJoselito de Lionは、プロジェクトの場所が決まってから、その場所出身者を学内で公募し、彼が育った場所であることから選ばれた。彼自身は、コンピューターを専攻し障害に関しての知識はなかった。プロジェクトの場所は7000人程の人口である。CBRワーカーはボランティアあり、行政から小額の謝礼が出る。その中には障害者も多い。彼らは黙想会の中にCBRワーカーの会議を入れて、問題を分かち合っている。プロジェクトが運営するSPEDは特殊教育教師がいないことを理由に、」教育文化省によって正式に認められていない。SPEDでは肢体、知的の障害児が主である。そこから普通校に移ったのは今のところ2人である。
 地域に保健センターが一ケ所あり、そこで一ヶ月に一回母親が障害児を連れてきて、センターの一般医による検診がある。
 政府がマニラのゴミの山等での不法居住者のために再居住住宅をつくり、彼らが移ってきた際にはプロジェクトでケアが可能か心配である。
 障害者当事者のグループを育成しようとして彼らの集会を開き、役員も決めたが、皆責任を取りたがらず、彼ら自身の会への参加者が少なくなっている。プロジェクト側が呼び掛けると、かなりの数の障害者が集まるのだが。

連絡先
 Prof. Ma. Lucia M. Magallona
 Head, UP-CAMP, CBR Program
 Dona Monica Adona Puericulture Center, Malite,
 Rodriguez (Montalban), Rizal
 PHILIPPINES

以上は、上記CBRの発効するパンフレット(A Primer on Community-based Rehabilitation、発行年不明)とJoselito de Lionとの2001年7月10日のインタビューに基づいて、中西由起子がまとめた。

(8/8/01)