スリランカ ティー・プランテーションエリアにおける統合教育の推進についての一考察
〜サルボダヤ・スワセタ CBRプログラムを通じての教育改革〜
(Promoting Inclusive Education
in Neluwa, a Tea Plantation Area in Sri Lanka through the Community
Based Rehabilitation Program)
University of Sussex Institute of Education
International Education
修士過程
横谷 薫
<<内容>>
目次 I
図表一覧 IV
省略記号一覧 V
要約 VI
第1章 序説
1
1.1. 理論駅根拠と改革の概観 1
1.2. ねらいと具体的到達目標 2
1.2.1. ねらい 2
1.2.2. 具体的到達目標 3
1.3. 論文の構成 4
第2章 理論的解釈
5
2.1. 教育と開発 5
2.2. 途上国における障害者 8
2.2.1. 開発過程における障害者 8
2.2.2. 途上国における障害者の状況 12
2.2.3. ジェンダーと障害 14
2.3. 統合教育 15
第3章 スリランカにおけるマクロ的状況の分析
19
3.1. プロフィール 19
3.2. 公式指標;肯定的側面 20
3.3. 負の側面;実態の見えない人々の存在 21
3.3.1 民族間における不平等 22
3.3.2 地域間における不平等;プランテーションエリア 22
3.3.3. 教育の実態と質 25
3.4. スリランカにおける障害者 25
3.4.1. 公式指標 25
3.4.2. 現実 27
第4章 プロジェクト実施予定地区・ネルワ地域の状況 30
4.1. 社会的・経済的背景 30
4.2. ネルワ地域における障害者 32
4.3. サルボダヤスワセタCBRプログラム: 改革実践における中心的組織 33
第5章 改革具体案 39
5.1. 方法 39
5.1.1. 既存のアプローチ 39
5.1.2. 現象学的・参加型アプローチ 40
5.1.2. モニタリングと評価 43
5.2. 子どもから子どもへ伝えるアプローチ 45
5.3. 統合教育、CBR、子どもから子どもに伝えるアプローチの相関関係 49
第6章 実践 55
6.1. 期待される成果 55
6.2. 実践における方策 56
6.2.1. 具体的到達目標の優先順位 56
6.2.2. 現実的に到達可能なターゲットの設定 56
6.2.3. プロジェクトのファシリテーター 57
6.2.4. 学校の選定 58
6.2.5. ターゲットグループの設定 58
6.3. 考えうる障壁 59
6.3.1. 改革への抵抗 59
6.3.2. 文化的要素の考慮 61
6.3.3. 財源 62
6.4. 初年度計画の立案 63
6.4.1. 準備期間 66
6.4.2. 第一周期 −フェーズ1 67
6.4.3. 第一周期 −フェーズ2 68
6.4.4. 第一周期 −フェーズ3 69
6.4.5. 第一周期 −フェーズ4 70
6.4.6. 第一周期 −フェーズ5 71
6.4.7. 評価 71
6.5. 次年度計画の立案 72
6.5.1. 第二周期におけるプロジェクト 73
6.5.2. プロジェクト実施校の拡大 73
第7章 結論:より大きな変革へ向けて 75
APPENDICES 78
REFERENCES 92
<<要約>>
1990年にタイのジョムチェンで開催された「万人のための教育」世界会議を里程標として、基礎教育の完全普及の必要性は国際社会の関心事として、大部分の国家でその達成に向けての努力がなされている。しかしながら障害のある児童の教育機会については、十分に議論され向上にむけての取り組みが未だなされているとは言えないのが現状である。一般的にこの傾向は、開発途上国といわれる国々でより強く、障害者は"その実態が表に見えない存在"として議論の対象になりにくく、社会的・経済的制約によって基本的な権利が損なわれがちであるといえる。
スリランカは、教育分野も含めた公式な社会指標が経済発展指標のわりには高いとして注目をあびている国であるが、障害者の教育機会をめぐる上述のような状況は、社会指標の優等生であるスリランカにおいても見られる。特に地方に住む障害者が注目されることは少なくなりがちであり、機会平等にむけた政府の努力は障害者には届きにくい。障害と貧困の多面的側面をもち複雑にからみあった関係は、不可避にすら思える。
この研究では、まず最初に障害をもつ人々をめぐる概念的モデルを概説することからはじめる。その過程は、障害をもつ人々がいかにその存在が軽んじられ権利の行使を制限されてきたかを描き出すことになるであろう。そしてそれは、これまでの開発諸分野におけるの縮図:障害の有無にかかわらず、開発の過程においていかに社会的弱者が後回しにされてきたかということ、を映し出すことになるだろう。次にスリランカ、ネルワ地域特有の状況を検証し、既存のプログラム、サルボダヤ・スワセタ CBRプログラム(SSCBR)を通じていかに統合教育を推進していくかを考察、提案する。
提案するプロジェクトの主な焦点は、参加型アプローチを使って統合教育を推進することにより、障害児の初等教育への参加を妨げている障壁をいかに取り除くかという点である。またこの研究が、"ディプロマ・ディゼィース"と特徴付けられているスリランカの学校教育のあり方にも問題を提起し、改善を図るきっかけになることも視野に入れている。そして次のコーリッヂ(1993)の言葉に鑑みて、提案するプロジェクトがその地域でのディスアビリティーに関する知識の啓蒙を通じて、究極的にはこれまで軽んじられてきた地域全体をエンパワーすることにも貢献できることを期待している。
"障害をもつ人々は、個々人の生を尊重し深遠な人間の価値を重視した開発過程へと私たちを導き、これまでと違った開発過程の方法を示してくれるであろう。(Coleridge, 1993, p.11)"
<<第1章 序説>>
1.1. 理論駅根拠と改革の概観
教育がよりよい個人の生活とよりよい社会への鍵を握っているということは、おそらく間違いないことであり、そのような認識は、1990年にタイのジョムティエンで開催された「万人のための教育」世界会議を里程標として国際的なコンセンサスを得ている。
スリランカもその世界会議に参加し、「万人のための教育世界宣言」を採択し、教育開発に対する取り組みを強化する姿勢を示しているが、スリランカ政府はその会議以前から、より公平性の高い政策を実行してきた。そのことは、経済発展に比べ非常に高い社会指標を実現しているという事実に反映されており、スリランカはしばしば社会開発のモデルとして引用されている。また、障害者の権利に関しても1996年に制定された法令により法的に保護されている。
しかしながら、私がスリランカで出会った障害者・児は、そのように輝かしい公式指標とは違った現実を私に見せつけた。身体的にせよ知的にせよ、impairment−機能障害を持っているがために病院に置き去りにされたり、また、隔離された入所施設で一生涯を送らざるをえないような多くの子供たちに出会った。さらに、それらの障害者・児施設の多くは、彼らのニーズを十分に満たしているとはいえない状況であった。また、家族と共に住む者も含め多くの障害児は、サポートの欠如から学校に行く機会に恵まれなかったり、また恵まれたとしても中退を余儀なくされたりしていた。そういった状況は貧しい地方ほど顕著であるようで、基礎教育を含め、すべての基本的人権を障害者・児が行使することが極めて難しい状況をしばしば目にした。例えばネルワ地域で私が出会った脳性麻痺を持つ姉妹などはその一例である。
スリランカにおけるこの矛盾は、「万人のための教育」の実現にはトップダウンになりがちな政府主導の改革には限度があり、その改革の手が届かないばかりか公式指標にもその実態が反映されない「見えざる人々」が存在することを証明している。そして、違うアプローチを実行できる政府以外の機関が、教育改革においても積極的に活躍する必要があることを示唆している。非政府組織(NGOs)のような草の根団体などは、そのような機関のひとつであるといえだろう。
したがって、これから提案する改革は、地域のNGO、サルボダヤ・スワセタ が行う既存の「地域に根ざしたリハビリテーションプログラム(CBR)」を実施母体とすることを前提としている。その理由は、サルボダヤ・スワセタ・CBR
(SSCBR)がその地域内ですでに強固な信頼関係を構築しており、また草の根レベルで地域の事情に精通していると思われるからである。
この研究は障害を持つ人々を主眼においているが、提案する改革の実行が、障害者だけでなく、隅に追いやられた、恵まれない地域全体にも利益をもたらしうることを期待している。そのことは、Stone
(1999)のいう次の信念に基づいている。「持続可能な開発には社会を構成する一人一人の貢献が欠かせない。障害者のエンパワーメントはもうひとつの社会変革−障害者も比類のない社会貢献をすることができるということを認識する社会の創造−をもたらすであろう。」(p.34)
1.2. ねらいと具体的到達目標
1.2.1. ねらい
このプロジェクトのねらいは、万人のための教育実現に向けて、スリランカの貧しい地方であるネルワ地域において、障害児をターゲットとして統合教育を推進することである。したがって、このプロジェクトの主となる焦点は、初等教育への障害児の参加を妨げる障壁を取り除くことである。そしてより長期的なゴールは、その地域において障害者の権利に対する意識を深めることにある。
さらにこのプロジェクトは、障害児の教育機会の増加だけでなく、地域における総体的な教育の質の向上もねらっている。スリランカの学校教育に蔓延しているディスコースは、“ディプロマ・ディゼィーズ”と診断されており、試験志向の学校教育が出世のパスポートとしての学歴証明書の獲得へと人々をかりたて、学習の経験が機械的な暗記に偏る、という弊害が指摘されている。このプロジェクトは子供たちの主体的な学習を奨励することにより、そういった状況を改善することも視野に入れている。
また、統合教育は「a process of growth−成長への過程(Corbett and Slee, 2000, p.136)」であり、最終的に多様性が喜んで受け入れられるインクルーシブな社会を促進すること(EENET, 1008; Thomas et al, 1998)を目指しているので、究極的にはこのプロジェクトが、隅に追いやられた恵まれない地域のエンパワーメントを導くことを強く期待している。
1.2.2. 具体的到達目標
前述のねらいより、具体的に次の到達目標を掲げる。
a) 初等教育において障害児の参加を妨げる障壁を取り除くこと。
b) 障害の有無にかかわらず、すべての子供たちにとって学習する上で障壁となるものを取り除くこと。
c) すべての子供たちにとって主体的な学習が重要であるという認識を広めること。
d) 障害問題に関する地域の認識を高めること。
e) 地域ネットワークを強めること。特に、障害者とその家族、そしてそれ以外の地域の人々とのつながりを深めること。
プロジェクトを形成する際、これらの具体的到達目標は主に現存する問題点との関りの中で達成にむけて考えていく。しかし、現状は歴史的にそして複雑にからみあった多くの要因から生まれたものであり、現存する問題に深く根ざしたバックグラウンドを理解することは問題解決には欠かせない。したがって、問題はマクロレベルでも吟味していく。そのように深く根ざした問題のバックグラウンドを理解しながら、形成されるプロポーザルは現実的にまずは恵まれない人々が直面する問題解決に取り組むことに主眼を置く。もしプロジェクトが実行され継続していけば、より長期的な目標が順次達成されていくであろう。
以上のことを考慮し、まず最初に上記(a) 「初等教育において障害児の参加を妨げる障壁を取り除くこと。」の達成を目指していく。統合教育は障害児のためだけのものではなくすべての子供の利益になる(UNESCO, 1994)ものであるので、(a)に深くかかわる目標(b)(c)の効果も(a)の達成過程において期待されるといえる。(d)(e)はより長期的な目標であり、プロジェクトが長期的に継続され他の目標の達成される過程において、次第に現実化してくるものと考えている。
上記目標達成にむけて、このプロジェクトは、教育において子供たちの主体的参加を強調する“Child-to−Child アプローチ”−子供から子供に伝えるアプローチを採る。このアプローチを使うことで、サラマンカで行われた特殊教育についての世界会議でコンセンサスを得た統合教育の本質、「障害の有無にかかわらずすべての子供のためになる」を目指すものである。子供たちの主体的な学びを奨励することにより、すべての子供が主体的学習の重要性を認識し、結果的にネルワ地区全体の教育の質の向上を目指す。ジェンダーの視点もプロジェクトの各段階で取り入れていく予定である。
1.3. 論文の構成
関連する文献を参照しながら、第2章では障害者をめぐる概念的なモデルを概説する。そのフレームワークを使いながら、第3章では特に障害者に関わるスリランカの状況を分析・考察する。そのことにより、第2章で概説された一般に広まっている障害のモデルが、どの程度スリランカにおいても見られるかを示す一方、統合教育推進という教育改革を推進していく上で考慮する必要のあるスリランカ特有の事項を明らかにするであろう。第4章ではさらに地域を絞っていき、プロジェクト実施地区であるネルワ特有の状況を分析する。第5章は改革に使われる3つのアプローチの長所と短所を分析し、さらに3つのアプローチである、‘inclusive
education−統合教育’‘CBR‐地域に根ざしたリハビリテーション’‘Child-to-child−子供から子供に伝えるアプローチ’が、なぜこの改革にとって重要であり、どのように相互補完するかを論証する。第6章はネルワにおいて統合教育を推進するための具体的なプログラムを説明する。最後に、第7章では論文の要約と結論を述べる。
この章は3節からなる。第1節は最近の開発のディスコースを教育の役割に関連するところに注目して探求する。そのことは、政治的なレトリックと現実のギャップ−開発ディスコースの中で軽んじられてきた‘実態の見えない人々’が存在するということ−、を映し出すであろう。第2節は障害者に注目し、どのようにして彼らが社会的弱者においやられ、見えざる存在になったかを探求する。その過程で、貧困やジェンダー偏見など、開発における他の諸問題にも論及していく。これらの分析は、「障害」がいかに社会的に作りあげられたものであり、他の問題と密接に関係のある開発過程における問題であるのか、ということを描き出すであろう。第3節は、“統合教育”を吟味し、なぜそれが重要であり、いかに恵まれない環境にある人々が直面する現在の状況改善に貢献するものであるのか、を考察する。
2.1 教育と開発
過去数十年において、開発の概念はさまざまな意味合いをもって使われてきたが、新古典派のパラダイムはその信頼性を失いつつあるということは明らかなようである。国連開発計画(UNDP)が1990年に人間開発指標を導入したことを見ても、健康で創造的な生を全うするための機会と選択の拡大を強調する
“人間開発”が強調されるようになってきたことは明らかである。
このディスコースにおいて“開発”とは、持てるものが支配し、持たざるものに与えるというチャリティーの考えではなく、社会変革の過程を意味する。「チャリティーは現状に挑むこともそれを変えることもしない。それどころか現状を永続化する」、とColeridgeは主張している(1993, p.3)。人々が自分の置かれている状況に気づき、それら問題の原因を理解し、自分たち自身の生を自分で決定するために努力してはじめて、変化がもたらされるのである。
開発過程において教育が重要であるということは広く認識されている。Freireは、教育は、自覚的・主体的にその状況を変革していく過程−自己の“意識化”−を通じて、社会変革をもたらす役割を持つ、と論じている。歴史が証言しているように、基礎教育の重要性は過去50年にわたり国際的に議論されてきた。一番最近ではダカールで行われた「万人のための教育」世界会議において、「教育は個人の成長、発展の基盤となり、それが社会の発展へとつながる」ということが再度明言され、基礎教育の重要性が再認識されている。
これまでにも基礎教育の拡大へむけての努力はなされてきており、多くの国において相当に進展してきたことは事実である。しかしながら、全ての人々に基礎教育を提供することの必要性の再確認が歴史的に繰り返されているという事実は、質的・量的両方の意味において「万人のための教育」実現が決して簡単にはいかないということの証明であり、これまでの長い過程がさまざまな障壁にぶつかってきたことの顕れであるといえる。“基礎教育は普遍的な人権である”と、世界の国々が最初に公式合意してから50年以上も経っているが、次の状況がダカール会議で明らかにされた現実である。
一億一千三百万以上の子供たちが基礎教育へのアクセスをもっておらず、八億八千万人の成人が文盲である。性差別は教育システムの中に浸透し続けており、学習の質と人的価値の習得と技能は、個々人の社会の熱望とニーズにははるかに及んでいない。
(UNESCO, 2000a para.5)
さらにUNESCO(2000)は、政府主導の改革から排除され、無視されている人々が存在すると報告しており、この事実は、宣言の採択が必ずしもその達成を確約するものではないことを明らかに示している。
主だった理由の一つは、Littleが認識しているように、「リップサービスと政治的アジェンダの格差」(Little, 1994)と言えるだろう。さらに、たとえ政府が「万人のための教育」を真の政治的アジェンダと位置付けても、それを実行していくのは非常に困難なことである。政策上の明文化、法令化は必ずしも「万人のための教育」を確約するとは限らないということである。このことは、政府主導の改革に限界があることの顕れであると理解できるだろう。
また、別の要因として、経済的な力がしばしば政府のイニシアティブをも凌駕するグローバル化の影響があげられる。グローバリゼーションは、中心部と末端部両方を再構築していき、一国内および国家間において「中心と末端部の二極化」を行きわたらせる。経済の力は地理的な境界線をも越え、経済的に裕福な国ばかりでなく比較的貧しい国における「持てるもの」をも巻き込んで、中心部として力を持つようになっていく。その結果として、Wernerの言葉を借りて言えば、「この世の中では弱者の犠牲と引き換えに成される富を奨励する開発戦略がまかりとおり、貧困にあえぐ社会的弱者は、基本的なニーズ(例えば、十分な食料、きれいな水、ちゃんとした住まいや基礎保健など)を満たすことすら難しい状況に追い込まれていく」(Werner, 1995)。
グローバリゼーションの時代において、「万人のための教育」達成へむけてのもうひとつのチャレンジは、教育の質についての問題である。「グローバリゼーションの影響は経済の範疇をはるかにこえるものである」とTikly (n.d., p.15)は述べている。目に見えるもの・情報など目に見えないもの共に、グローバルに流通する製品が、人々が思考する方向性や、価値観、行動にまで影響を及ぼすということである。世界中の人々が、経済中心の国際社会を支配する一つの価値観を追い求めるようになり、学歴が“よりよい生活”への鍵であると考えるようになる。結果として「学習の経験は儀式的で、退屈になりがちで、好奇心や創造性は壊されかねない。自己成長のため、仕事をこなしていくために学ぶという意味合いはどんどん少なくなり、仕事を得るために学ぶというように学習の質は悪化していく」、とDore (1997, p.vii) は警鐘をならし、この学歴偏重の過程を“ディプロマ・ディゼィーズ”と命名している。これは、Freire (1970)が言うところによる「‘banking concept of education’−教師は知識をつめこみ、生徒はそれを貯め込み必要なときに引き出す、という銀行の発想による教育」に他ならない。
FreireとDoreは70年代に、目的を達成することが目的となった教育内容が人々をエンパワーするにはあまりにも質の悪い教育をもたらしたと、教育の目的に疑問をなげかけたが、25年以上もたった現在でもこの議論は十分有効であり、それどころか、世界的に同じ試験や教科書が広く使われるようになり、自分の国以外で勉強する機会も驚異的に多くなっているグローバリゼーションの時代に、その状況はさらにエスカレートしているといえるかもしれない。HawesとStephens (1990) はこの状況を検証しながら、普遍的な初等教育に関する学術的な議論の中で、基礎教育の質についての議論が強調されることが少ないことを批判している。受動的学習が抑圧の手段となるとFreire (1979) が強く非難しているように、質の悪い教育または教育機会の欠如は、“持たざるもの”から自己実現の機会を奪い、彼らを不利な状況に留めることにつながりかねない。
教育が経済成長に重要な役割を果たすということが広く認識されたことにより、基礎教育へのドナーの投資が増加したという事実は無視できない。しかしながら、特にしばしば経済力が威力をふるうグローバリゼーションの時代においては、教育と経済成長の相関性は批判的に考える必要がある。なぜなら、社会システムの一部分である教育は開発のディスコースに複雑に関係しており、グローバリゼーションの影響を受けずには存在できないからである。
2.2. 途上国における障害者
前節では、現在の開発過程のディスコースの中で見過ごされ無視されている人々の存在が浮き彫りにされた。本節は、「すべての開発過程の縮図」(Coleridge,
1993; Abu-Habib, 1997) と言われる障害者と彼らの軽んじられてきた経験に主な焦点をあてていく。
2.2.1. 開発過程における障害者
障害者は、見過ごされ無視される存在になりがちであり、国際的な開発のアジェンダからも排除されがちである。例えば、非人間的な状況を示すほとんどすべての見地を反映している、国連開発計画(UNDP)の人間開発報告書にも、障害という見地は欠如しており、“万人のための教育”のためのフレームワークにおいてすら、障害児の学習ニーズにへの取り組みはほとんどなされていない。“障害者の`生`についての国際的な研究はほとんどなされておらず”(Oliver,
1996)、“政策と理論における無視が、根深い現実の無関心につながっている ”(Harris-White, 1996) といえる。
障害者はしばしばまるで違う人種かのように扱われ、障害者問題は切り離されたところで議論される。「万人のための教育」実現にむけての取り組みがいい例であろう。まず、ジョムティエン会議では障害者への考慮がほとんどなされなかった。4年後サラマンカで行われた特殊教育についての世界会議で統合教育の重要性が唱道されたことにより、状況は改善されたかに思われたが、2000年のダカール会議でもジョムティエンと同じ経験は繰り返された。障害児の教育ニーズは全く直接的には語られなかったのだ。
障害者問題の国際および国内レベルでの扱われ方は、権利という認識ではなくチャリティーの考えに基づきがちである。障害者は、力のある社会のメンバーからの同情、特別な処置や配慮のもとに生きているとしばしば見られるのである。このチャリティー・ディスコースでは、問題は社会構造でなく個人の中にあると考えられる。これが「障害の医学モデル」として知られているモデルである (図1)。
このモデルでは、個人のニーズに合った適切なサポートの限界よりも、障害を欠陥ととらえその個人の不完全さを強調し、それがゆえにあらゆる困難なことの原因は個人にあると考える。医学モデルはimpairment−機能障害を“正常”に対しての“異常”と考え、障害者は、隔離された学校、職場、住居などの特別な場で、専門家による治療や介護が必要な受動的な受領者であると考える。
障害の医療モデルに裏打ちされたチャリティーディスコースは、障害者の自尊心の醸成を促進するというよりも、彼らを抑圧することにつながる。チャリティーはHevey(1992)がいうように「ハンディキャップがあるということを麻痺させる薬」である。すなわち、医療モデルは「障害がなんであるか」ということを決して十分に説明するものではないのである。社会構造と障害に対する人々の態度が変わらない限り、障害者をめぐる状況が変わることはないのだ。
さらに障害者を巡る状況は、彼らが見えざる存在であることによりさらに悪化しているといえる。障害者の実際の人数を把握することは極めて難しく、公式なデータですらあまりあてにならない(Khatleli et al., 1995; Lynch, 1994)。世界保健機構(WHO)は全人口の約10%が障害をもつと概算しているが、Coleridge(1993)が述べているのに、そのような一般化は、国や地域によって異なる障害のさまざまな現実をしばしば埋もれさせてしまう。結果として、個々が置かれている本当の状況は全く表に出てこないことになる。
なぜ彼らが見えざる存在になりがちなのかということについては、いくつかの説明が考えられる。第一に、障害の定義と分類が問題となる。誰を障害者と認定するかという基準が国により異なり、統計上の目的で国をまたがって標準化された定義がない(Coleridge, 1993)。第二に、いくつかの国では、障害についての調査がひとつもなされておらず、中には世界保健機構(WHO)による概算の10%という数字をそのまま当てはめて公表している国もある(中西, 2000a)。第三に、たとえ調査に基づいたデータがあったとしても、あまりにも古いものである場合がある。障害の種類によっては一度完治してもぶり返したり、また克服されたりするので、データは変動しがちであるにもかかわらず、そのことが全く考慮されていないデータもあるのだ。第四に、十分に訓練されていない調査員によって調査が行われた可能性もある(中西, 2000a)。またたとえ十分に訓練された調査員による調査であったとしても、家族が障害児をもつことを恥じに思ったり障害児がいることを隠したりというようなことがなされる文化的な状況があるところでは、データに反映されないこともしばしば起こる(中西, 1996; Lynch, 1994)。最後に、統計はしばしば政治的に操作されかねない。たとえば、紛争状況では、障害者人口はしばしばつり上げられることもある(Coleridge, 1993)。障害者が見えざる存在になりがちだということの上述の検証は、障害がどの程度社会的に、つまり、障害者自身がおかれている政治的、社会的、そして文化的な状況によってつくられているか、ということを示している。この障害に対する考えは、いわゆる「障害の社会モデル」とよばれているものである(図2)。
社会モデルは社会的・政治的なコンテクストを強調し、問題は障害者を排除しがちな社会構造にあると強く提唱する。障害者が排除されるのは、物理的、制度上共にアクセスが悪いこと、そして文化的・宗教的な信念に裏打ちされた偏見による態度上の差別によるという主張である。
しかしながら、「万人のための教育」実現にむけての経験が語るように、社会構造を変えることは簡単ではない。たとえ、障害者政策が明文化されたとしても、それを実際に行動に移すためにはさらなる努力と時間が必要である。
さらにいえば、それは資源の問題だけではない。政治的、経済的、宗教的、文化的な価値や様々な側面からの価値がからみあい、歴史的に受け継がれてきた人々の態度や信念をかえるということは、かなり難しいことであるといえるだろう。この資本主義、物質主義の世の中において、他の種類の抑圧とちがって、障害に対する人々の態度と障害を生む社会構造を変えることがいかに難しいかをAbberley(1997)は論じている。「生産性のみを追い求める社会にimpairment−機能障害のある人を完全にインテグレートすることを目指しても、それは障害者の自立を目指すムーブメントとしてのわれわれが熱望する未来ではない」(p.41)と彼は主張している。彼の考えでは、生産性のみを追い求める社会では、impairment−機能障害はずっと問題でありつづけるというのだ。この世界が経済的な力で支配され、人間性の観念と価値が最終的に労働に依存するという物質主義が優勢であり続ける限り、障害者が直面する問題が根絶することはないであろう。
2.2.2 途上国における障害者の状況
周辺に追いやられその存在が見えないという状況は、一般的に障害問題に十分な配慮が払われない、いわゆる発展途上国でより顕著であるようだ (Coleridge,
2000; 中西,1996)。ジンバブエの障害者運動家であるMalingaが指摘するように、
豊かな国に住む人々が、自立生活とサービスの向上について話している時、われわれは生存、生き残ることについて話しているのだ。
(1996 Stone, 1999からの引用)
南に住む障害者にとっては、基本的なニーズを満たすことが問題なのである(Werner, 1995)。資本主義が優勢であるこの世の中では、資源と情報が不平等に分配されがちであり、障害はしばしば貧困と結びついている。障害者の大部分は発展途上国に住んでおり、一般的に“彼らは貧困層の中でももっとも貧困にあえいでいる”(DFID, 2000 p.1)とこれまでの研究結果は示している 。タンザニアで行われた調査に基づいてWhite(1999)は「障害はアフリカの貧困の隠された顔である」(DFID, 2000 p.4からの引用)と結論づけている。
障害と貧困の複雑で様々な側面を持つ関係はまるで逃れがたい罠のようである。社会的・政治的な要因が複雑にからみあって構築された貧困と障害の悪循環から抜け出すことは非常に難しい。(図3)
Beresford (1996) はこの悪循環を、ひとつの要因が他の要因を助長するという意味で‘two-way one’(p.564) といい表している。学校での子供の適応力は、健康・栄養状態と入学までの家庭や地域における経験にかなりの部分左右されるとLockheed and Verspoor (1991)は説明している。したがって、力のないものはより少ないものしか得られないという社会構造の中では、障害はもうひとつの重荷になってしまう。教育や訓練の機会の少なさや欠如、融通の利かない、または少ない雇用機会、環境上の障壁や偏見などは、障害のある人々の意思決定、選択の自由、何が自分にとって役立つことであるかを判断する自由を制限する要因のひとつとなる。栄養失調、不十分な免疫接種、先天的な異常や紛争による損傷等など、発展途上の国々で見られる障害の原因の大部分は予防可能なものである。さらに、根強い伝統や宗教的な価値をもつ社会では、障害はしばしば宗教上の罪、前世の悪行や不道徳な行為の結果やたたりであると考えられる。そして一般的に、そのような価値観によって作られる態度の障壁(障害に対する偏見にみちた態度)は、途上国においてより顕著にみられることが多い (Coleridge, 1993, 2000)。したがって、より経済的に貧しい社会に暮らす障害者はもっとも不利益な立場にあるグループのひとつに属するといって間違いないだろう。
このような不利益を受けることの多い状況は、障害者の一生にわたって及ぶものである。発展途上国に暮らす障害児たちは、受けるサポートも生来もつ可能性を最大限に引き出す機会も少なくなりがちである。
現在、障害を持つ15歳以下の子供のうち85%が発展途上国に暮らしており、これらの子供たちの大半は関心を払われることがほとんどなく、もしあったとしても、せいぜい公的な保健サービス程度のものである。
(Khan and Durkin, 1995 p.1)
教育の機会を見てみると、障害を持つ子供たちは「教育システムのへり-on the fringe of the educational system」程度に対応されているにすぎない (Lockheed and Verspoor, 1994, p.154)。1996年国連開発計画(UNDP)の推定によると、発展途上国に暮らすほんの2〜3%程度の障害児が教育を受けているにすぎず、さらにその教育が個人のニーズに適切に応えたものであるかはかなり疑わしい(Price, 2001; Hegarty, 1990; Bellamy, 1999)。 さらに、発展途上国での統合教育を調査したMiles(1985)は、「全く計画性のない統合教育がはびこっている」という実態を報告している(p.1)。
2.2.3. ジェンダーと障害
何世紀にもわたって人類は男女間の不平等を途方もなく経験してきた。この不公平な社会において障害を持つ女性であることは、ジェンダーによる不利益だけでなく障害による不利益までも被るために、さらなる不平等に直面することがしばしばあると考えられる(Coleridge,
1999; Drake, 1999; Hastie, 1997)。「社会における彼女の低いステイタスは、障害そのものよりも障害のある女性であることで、しばしばより低められる」(Boylan,
1991, p.1) 。障害は女性からセクシャリティー、性を奪う。例えば、障害を持つことになった女性が離婚を余儀なくされるというケースが多く認められている。それは男性のケースとは全く異なる取り扱いである。男性の場合は障害を持つことが栄誉とみなされることすらあり、特に戦時中に障害者となった場合などはその傾向が強く見られる(Abu-Habib,
1997; Boylan, 1991)。また、障害を持つ女児の就学率は同じく障害を持つ男児よりもしばしば低い(DFID, 2000)。そして最後に、障害を持つ女性は、二重の差別や二重の不利益を耐え忍ぶという意味で、もっとも見えざる存在であり、声を持たないグループのひとつであると特徴づけられうる。
そういう状況でありながら、障害を持つ女性は女性運動からも障害者運動からもしばしば無視されているというのが現実である(Abu-Habib, 1997; Boyce et al., 2001) 。さらに、ジェンダーによる不公平は障害を持つ子供たち自身だけではなく、彼らのケアをする人にまで影響する。というのも、障害児の世話をするのはたいていの場合は母親か家族の中でも女性の仕事であることが多く、Boukhari( 1997)は障害児を世話する女性たちのことを“invisible victims −見えざる犠牲者”(p.36)と呼んでいる。
このように、ジェンダーによる偏見は障害者問題に深く広く及んでいる。さらに、ジェンダーと障害はしばしば互いに、そして貧困など他の不利益さと根深く複雑に絡み合っているが、そのような深いかかわりにもかかわらず、それぞれの不利益さは別々のセッティングで取り扱われることが多い。しかし、開発の過程における各段階において、それらの問題の関連性を無視して各問題の解決は望めないのである。Werner(1995)の言葉を借りると、「すべての開発へ向けての努力は、強い者・弱い者、お金持ち・貧乏、男性・女性、肌の色などに関わらず、すべての人々に平等な尊厳、機会と権利を与えるような社会秩序の構築を目指すところをゴールとするべきである」(p.11)。
2.3. 統合教育
「教育システムは、社会がそれによって社会を再構築していく最も重要な手段のひとつである」とBarton(1986)が証言しているように、教育はインクルーシブな社会へ向けてきわめて重要な力となりうる。しかし注意しておかねばならないことは、教育の役割はそのやり方によって、社会をより豊かにしたり、逆に悪くしたりと、両刃の剣として社会に影響しうるということである。例えば、“ディプロマ・ディゼィーズ”は後者の悪い影響から生まれた現象であると考えられる。加えて、障害者を隔離する教育システムの長い歴史も、障害に対する否定的な態度を強固にするという‘悪化’に貢献しているといえるだろう(Oliver,
1996; Vlachou, 1997)。
特殊教育は、前世紀に産業化の進んだ北の諸国において、障害児のもつ‘特別な’ニーズを満たすためには特別なセッティングが必要であるという信念のもとに奨励されてきた。しかしながら、北部諸国における障害者をめぐる現況は、その隔離政策を通じて期待していた結果の達成が、いかに限度のあるものであるかを示している。例えば英国において、15歳から64歳の障害のない人々の失業率は32%であるのに対し、同年齢の障害者の67%もが無職である(Disability Awareness in Action, 1995, Beresford, 1996, p.558からの引用)。60%以上の障害者の暮らしは貧困ライン以下であり(New Internationalist, 1992)、その約3分の2が慢性的な病気にかかっている(Bereford, 1996)。さらに、大部分の障害者は何らかの種類の差別を受けた経験をもっている(Drake, 1999)。
上述の事実は、医療モデルに裏打ちされた隔離教育政策が、いかに平等な社会の実現に貢献してこなかったかを描き出している。それどころか、それは障害者の抑圧された状況をいっそう頑ななものにしているとさえいえる。学校教育の中で障害をもつ者がいないということは、彼らの社会における‘見えざる存在’をより確固たるものにしていると考えられる。障害に対する認識や理解の欠如、学校教育が障害児にとっても重要な役割を果たす必要なものであるということへの無理解、障害者が価値ある市民の一員であるとみなされないことなどは、多くの場合において障害者隔離政策がもたらした結果であるといえる。そのような状況で、障害者の自己の意識化が阻害されることはしばしばであり、私たちはここに、図3で見た貧困と障害の悪循環が、国の経済状況にかかわらずいかに根深いものであるかを見ることができる。
経済力はその悪循環をたちきる大きな力とは必ずしもなってこなかった。それどころか、脆弱なグループの人々に、ネガティブなインパクトを与えていることさえある。次の引用に指摘されているように、グローバリゼーションの悪影響として国家間および同一国内における‘持てるもの’と‘持たざるもの’の差がどんどんひらいてきていることが、その一例といえる。
100万ドル(1億円強)以上の資産を持っている人は、世界に600万人(人類の0.1%)いるが、彼らの資産は昨年1年間で平均12%増えた。つまり、世界各地で金融危機が続いている間にも、大金持ちの人々は、ますます金持ちになっていた、というのだった。
一方、…世界人口の6分の1にあたる10億人以上の人々が、貧困ライン以下の貧しい生活をしている。 そして、世界全体でのモノの消費量は全体として増えているものの、人類のうち豊かな20%(12億人)が、全世界の消費の86%を独占している反面、最も貧しい20%の人々は、わずか1.3%しか消費していない、としている。
…とはいえ、アメリカの人々がすべて豊かになったかといえば、そうではない。米国民の間でも、貧富の格差は広がる一方だ。たとえば、アメリカ人で最も多くの給料をもらっている10%の人々と、最も少ししかもらっていない10%のとの給与格差は、1979年には3.6倍だったが、96年には5倍に広がっている。
(田中, 2000)
上述の状況は、植民地時代における力関係となんら変わりがないといえる。2.1で論じたように、古典派の開発パラダイムがその信頼性を失い、人間開発へとその焦点が移行しているにもかかわらず、実際にこの世で猛威を振るっているのは経済の力であるというのが現実のようである。大部分のシェアはより力のある一部の人々により占められ、一方で、より貧しい社会に暮らす障害者のようにより力のない人は、どんどん取り残されていくのだ。
改善への努力は、社会構造を変えることに向けられる必要がある。「学ぶものの多様性に応えながら何人もが除外されることを最小限にすることを目指す」(Booth,2001, para.1)統合教育は、前進への重要な活力となりうるだろう。統合教育は1994年のサラマンカ会議以来、実行に移されるべきアジェンダとして掲げられるようになった。会議で採択されたサラマンカ宣言は、より広い意味での統合教育を主張しており、障害の有無にかかわらずすべての学ぶものが社会参加し可能性を最大限に発揮できるように、流布している環境・文化・エトスが多様性を喜んで受け入れ、変わる必要があるというインクルージョンの原則を提唱している。
しかしながら、ユインクルージョンユは新しい考えではない。それはリベレルな進歩主義の思想に端を発しており (Thomas et al, 1998)、1980年代から国際レベルで議論されてきた (Ainscow et al, 1995)。サラマンカ・フレームワーク以前は、ユインテグレーションユという言葉がより一般的に使われていた。しかし、ユインテグレーションユの理念が実践へ取り入れられる際のやり方への批判を反映して、今ではユインクルージョンユという言葉が広く使われるようになっている。
インテグレーションは障害の医学モデル(図1)に裏打ちされた考え方として批判された (Corker, 1998; Fulcher, 1989)。‘インテグレーション’は、障害のない人々の規範により作られた環境に、専門家によって介護され、治療され、コントロールされることによって障害児が適応できるように、障害児が変化する主体であると考える。したがってその実践は、単に学ぶ場所を変えるなど、技術的な事柄になりがちであり、結果として分離待遇は持続することとなった (Armstrong et al, 2000 ; Ballad, 1999)。対照的に、ユインクルージョンユは社会構造を変化の主体であると考える。つまり、インクルージョンは障害の社会モデル(図2)に裏打ちされた考えであるといえる(Croker, 1998; Fulcher, 1989; Booth, 1999)。
この用語の変遷は、単に障害のある個人に焦点をあてた技術的な方法だけで障害が解決されるものではない、という認識が広まったということを暗示している。何が実際に障害という問題全体を作ってきたのかを人々が理解しない限り、排除はなくならないであろう。焦点は、個々人の長所とニーズにあてられるべきであり、障害のある子供だけでなく、性別・年齢・能力や民族・機能障害の有無・HIVの保持者かどうかにかかわらず、すべての大人と子供、すべての者の参加と学びへの障壁を取り除くことにあてられるべきである。子供、親、専門家などすべてのアクターが、ニーズを見分けて問題を解決するために関わっていく必要があるのだ。結果として、多様性が歓迎される協力的な環境が生まれるであろう。このアプローチが実践されたときにはじめて、すべての子供のためになる実践が生まれるであろう。
EENET(1998)は「統合教育は開発の一部分であり、開発はインクルーシブであるべきだ」 (para.4)と唱道している。ここでの‘インクルージョン’という概念は、学校教育の範疇での考察を超え、‘社会におけるinclusivity−インクルーシブな社会’というより広い概念をも包含している (Thomas et al, 1998, p.7)。なぜなら、これまで見てきたように教育は社会を形成するのにきわめて重要な力となりうるからである。インクルーシブな学校教育からその利益の享受してきた個々人は、‘インクルーシブな社会’の実現にむけて積極的にかかわることによって、その社会を変換していくことに間違いなく貢献することが期待できる(EENET, 1998)。そのような多様性を歓迎する社会は、きっとすべての人にとって望ましいものとなるであろう。Ainscowは次のように説明している。
統合教育(インクルーシブ教育)は、人々が自分自身の置かれている状況を問い直し、いかに発展していくべきかを考える過程そのものであり、それはprocess
of growth −成長の過程である。それは社会的な過程であり、自分自身の経験が社会的に有意義になるように人々を引き込んでいくことである。それぞれの経験に疑問を投げかけ、いかに物事が前進しうるかを考えながら、お互いに助けあっていくことである。
(1998年10月26日に行われたインタビュー。Corbette and Slee, 2000, p.136からの引用)
しかしながらある調査は指摘によると、いまだ世界の多くの地域において、隔離された教育政策に関する法的整備の方がなされているというのが現状である(Ainscowet al, 1995)。その結果として、持てるものはさらに得るが持たざるものは得ることがより少ないという現在の物質主義が主流の世の中において、インクルーシブな社会はまことに希少であるといわざるを得ない。これまで見てきたように、この世の中には抑圧された多くの人が存在し、障害者は極めてしばしばそのグループに属すことになるのだ。
障害やジェンダーのようにすべての種類の無視・軽視を含めて人類が直面するすべての問題を念頭におき、すべての開発プログラムにおいて人間性を否定するこれらすべての側面を考慮しながらインクルーシブな社会の実現を目指していくことが、健全な開発政策には必要不可欠であるといえる。統合教育(インクルーシブ教育)は現在の状況を打ち破る勢いをもたらしうるといえる。Coleridge(1993)がいうように、「障害をもつ人々は、個々人の生を尊重し深遠な人間の価値を重視した開発過程へと私たちを導き、これまでと違った開発過程の方法を示してくれるであろう」( p.11)。
この章ではスリランカのマクロレベルでのコンテクストを文献から考察する。まずは手短にスリランカの国のプロフィールを紹介し、次にスリランカが直面する肯定的な側面と否定的な側面を考察する。そうすることにより、前章で紹介された一般的な状況が、どの程度スリランカのコンテクストで繰り返されているのかが見えてくるであろう。そしてまた、スリランカにおける見えざる人々に影響する、いくつかの社会・経済的、文化的、政治上、そして教育上の鍵となる要素も明らかになるであろう。
3.1. プロフィール
スリランカ民主社会主義共和国は、インド洋上にうかぶ島国である。面積は約65,610H2 、1998年の人口は約1850万人と推定されている(日本スリランカ大使館,
n.d.)。1984年に英国植民地政府より独立し、同年議会民主制を確立した。
スリランカには複数の民族と宗教が存在している。1981年に行われた国勢調査によると、人口の大部分である74%はシンハリ人が占め、12.6%がスリランカ・タミル人、5.6%がインド・オリジンのタミル人、7.1%がムーア人、そしてその他0.7%からなる(Jayaratnam, 1998; Perera, 1999)。主な宗教は69.4%を占める仏教であり、15.5%がヒンズー教、7.5%のイスラム教、7.6%がキリスト教である(Sivasithambaram and Peiris, 1994)。72%以上もの人が地方に住み、7%がエステーとエリアと呼ばれる、茶・ゴム・ココナッツなどの輸出型農業が中心となるプランテーションエリアに住んでいる(Gamage, 1997)。
教育の状況については、11,272の学校に4,260,989人の生徒が通い179,589人の教員がいる。大部分である10,640校は各県の支配下にある国所有の学校であり、それらの学校には4つのタイプがある(表1)。さらに別のカテゴリーとして、国の支配下にある国立の学校があり、表1でいう1AB学校が教育省に直轄されている(Perera, 1999)(Appendix 1 参照)。そしてこれらの学校は、それぞれの民族の言葉、シンハリ語とタミル語で教えられるように分かれている。(Johnson et al., 2000) 。
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県 | 1AB | 1-13 or 6-13 | 理系・文科系・商業・美術において科学・芸術の課目において高等レベルのクラスがある。 |
1C | 1-13 | 理系以外の課目において、高等レベルのクラスがある。 | |
タイプ 2 | 1-11 | - | |
タイプ 3 | 1-5 | - | |
教育省 | ナショナル・スクール | 1-13 or 6-13 | 理系・文科系・商業・美術において科学・芸術の課目において高等レベルのクラスがある。 |
3.2. 公式指標;肯定的側面
国連開発計画(UNDP)(2000) によると、スリランカは開発途上国と分類されているが、1998年における国民総生産(GNP)は810米ドルであり、なんとか中所得国とランク付けされている。そしてスリランカがこの中所得国に仲間入りしたのはつい最近の1997年からである。一方、スリランカの人間開発指標は0.733を示し、それは人間開発指数中位国の中でも非常に高い指標である。そしてスリランカは、1990年に国連開発計画(UNDP)がこの指標を最初に取り入れて以来このカテゴリーに属している。
教育の分野における公式統計も非常に印象的である(詳細はAppendix 2を参照)。識字率は試験を受けた人々の内90%以上であり、初等・中等教育への就学率は南アジアの中でもっとも高い(Johnson wt al. 2000)。これらの指標が示すとおり、政府は教育に力をいれており、仏教の基本的原則としての‘entitlement (権利意識)’のコンセプトと国家精神の醸成養成を目指して(Tatto and Dharmadasa, 1995)、教育開発のため財政的にかなりの予算を確保してきた(Bellamy, 2000)。初等、中等、高等レベルの教育は1945年以来無料であり、教科書も無料、昼食や交通手段に対しても補助がある(Sivasithambaram and Peiris, 1994)。5歳から14歳の子供義務教育は、1997年に制定された政府法令により確約されている(Perera, 1999)。
さらにもうひとつ印象的なのはジェンダーの平等性についての公式指標であり、そのすべてが高いものである(Alailama & Sanderatne, 1998)。スリランカの女性憲章は国の政策として1993年に認められ、注目すべきことには、多くの女児が非常に不利な状況にある地域においても、女性の教育における機会平等が実現されている(Jayaweera, 1999)。初等レベルにおける女児の就学率は男児と同じであり、それは今やほぼ万人に近い(UNDP, 2000)。男児に対する女児の就学率は中等教育レベルでさらに上がり、100人の男児に対し109人の女児が就学している(UNDP, ibid)。
これらの印象的な社会指標が示すとおり、スリランカ政府はより公平な政策を推進していこうとしている。これらの肯定的な側面は、政府主導の改革がなせる可能性が、最大限に引き出された結果であると理解できる。
3.3. 負の側面;実態の見えない人々の存在
しかしながら、その肯定的側面はスリランカにおけるすべての状況を反映してはいない。Potter(1992)が論じるところの、植民地時代の負の遺産を背負いそれが自国の前途に深く突き刺さっている他のアジア諸国から、スリランカも例外ではないようである。さらに綿密な調査は、150年におよぶ植民地時代の負の遺産と理解されるであろうスリランカの別の側面を、描き出すであろう。
政府の努力にもかかわらず、民族グループ間や地域間における不平等は、独立後かなりの時間がたった今でも顕著である。このことは、スリランカにおける政府主導の改革にも限度があり、すべての人々−特にもっともそのサポートを必要としている人−には届いていないということを示しているといえよう。また、印象的な教育分野における指標は、質については何もあらわしていない。スリランカのもつこれらの負の側面は、スリランカもまた、資本主義優勢の開発のディスコースにより形成された現在の不平等な世界の一部であるということを示している。
3.3.1 民族間における不平等
国家の発展を引き延ばしてきた主要な要因である民族紛争は、数十年にわたり多民族国家であるスリランカの社会をかき乱してきた。最近よく知られている紛争は、元は植民地時代にプランテーション・ワーカーとして南インドから連れてこられたインド・オリジンのタミル人独立運動である。タミル・イーラム解放の虎(LTTE)と名づけられたこの部隊は、1980年代からシンハリ人が優勢を占める政府に対して紛争を行ってきた(Whitaker,
1997)。それらの紛争は、歴史的に様々な要素がからみあっており、それらをここで論じるにはあまりにも複雑である。しかしながら、植民地の歴史と半封建的な社会に深く根ざした不平等な格差は、スリランカのもつ負の側面の形成に何らかの形で影響しているといえるであろう。
防衛費はかなり高額にまでエスカレートし、そのことは間違いなく国の成長を鈍くしており、教育の改善もその影響を受けている。紛争地域にいる約35%の子供たちが、読み書きができないと報告されている。「世界でもっとも長く続いている内紛のために、スリランカは国家歳入の内すでに数十億ドルを失っており、経済成長が阻害され精神的・肉体的な苦痛が広がっている」とSamath(2001, para.2)は述べている。
3.3.2 地域間における不平等;プランテーションエリア
民族間だけではなく、地域間における社会・経済的な不平等も存在する。Gamage(1997)はスリランカにおける貧困の動向を調査し、貧困は特に地方において顕著であることが多いという調査結果を導き出している。その調査では民族間と違いを示す決定的な証拠を示してないものの、貧困は土地をもたない人々の典型的な特徴であるとRatnayake(1992
cited in Gamage, 1997)は報告している。プランテーション・ワーカーの大部分は土地なしであり、茶のプランテーションの80%がインディアン・オリジンのタミル人である(Samarasinghe,
1993)ことから、地域と民族間の不平等に関連性が見える。
主なプランテーション作物(茶・ココナッツ・ゴム)は国の輸出高の総計の90%以上をも占めており(Kurian, 1982)、茶はその中でも主要なプランテーション作物であり外貨の大きな部分を稼いでいる(Samarasinghe, 1993)。プランテーション・ワーカーが、経済歳入を産み出すことにより国の発展に大きく貢献してきているにもかかわらず、彼ら自身の生活レベルは教育レベルも含めて、他のセクターの人々よりも歴史的にかなり低いものである(表2)。茶のプランテーション・ワーカーは、その一番低い賃金(表3)に示されるように、もっとも弱者であるといえるだろう。
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1981/82年の所得分配 (%) | 7.2 | 18.3 | 74.5 | - |
1985/86年の所得分配 (%) | 4.6 | 28.2 | 67.2 | - |
1981/82年の識字率 (%) | 64.8 | 86.0 | 89.7 | 85.4 |
1991/1年の識字率 (%) | 66.1 | 87.1 | 92.3 | 86.6 |
1981/82年 6歳以上の不登校率 (%) | 36.0 | 14.5 | 10.6 | - |
水田労働者 | Rs. 1,921 |
店員 | Rs. 1,635 |
ゴム採取者 | Rs. 563 |
茶採取者 | Rs. 401 |
以上のことから、スリランカにおいてプランテーション・ワーカーは、もっとも不利な境遇にあるグループのひとつとみなされうる。プランテーション・セクターにおける労働条件は、長時間の労働にもかかわらず報酬はわずかというような無報酬労働的であり、それはもともと、低賃金で働く熟練を要しない労働者を多くの要とした植民地時代の輸出経済の影響といえる。プランテーション産業における経営体質は独裁主義的であり威圧的である。多くの労働者は一生涯、エステート・エリア内で働き暮らし、他のグループの人と会う機会を持たない。結果として、血縁関係が近親になりがちになる。この閉鎖的なシステムが不平等なプランテーション・セクターの構造を維持させるのに貢献してきたといえる(Little, 1999; Kurian, 1982)。
<プランテーション・セクターにおける教育システム>
これらの状況の中で、教育システムは労働者をエンパワーする手段としては機能してこなかったといえるだろう。それよりもむしろ、労働者を抑圧の状況に押し込めておくことに貢献してきたとすら考えられる。Little(1999)はそのことを次のように論じている「(教育の)機能は、プランテーション・システムとその地域の継続のために必要な知識と態度を再生する手段として考えられてきたのではないか」(p.34)。これは、第2章で論じたように両刃の剣として作用しうる教育が「悪い影響」を及ぼすものとして使われた例といえる。
しかしながら、カンガニーと呼ばれる労働監督者により主に経営されてきたプランテーション・セクターにおける不公平な教育システムの改善を、教育が試みているという事実はある(Sivasithambaram and Peiris, 1994)。1970年代には、大部分のプランテーション・スクールは主流のシステムに統合するために、政府によって統制されることになった。そのとき以来、外国の援助機関はエステート地域の学校と生徒のために使われる資金を援助を増加させてきた。1986年には、最も有名なプログラムのひとつであるプランテーション・セクター教育開発プログラム(The Plantaion Sector Education Development programme)が、スウェーデン国際開発庁(SIDA)の協力により、プランテーション地域における教育へのアクセスとその質を向上させることを目的として開始された。その後12年間以上の期間が経過し、セクター間の学校教育の格差は少なからず改善が見られている。しかしながら、プランテーション・スクールの子供と主流なシステムにいる子供の不平等はいまだに残っている(Sivasithambaram and Peiris, 1994; Little, 1999)。
<プランテーション・セクターにおける女性の役割>
上述の不平等に加え、特にプランテーション・セクターにおいてはジェンダー間の不平等も深刻である。このことは、プランテーション・セクターにおける女性の歴史的な働き方から理解できる。プランテーションの構造において、労働を監督するカンガニーはたいてい男性であり、女性は従属的な身分であることが多い。プランテーション・ワーカーの賃金は他セクターと比べてすでに低いが、女性の賃金はその中でも男性よりさらに低く、1984年に平等賃金の交渉が成立したあとですら、女性の労働時間はいまだに男性よりも長い(Little,
1999)。そして一般的に低級な仕事と考えられ無給である家事は、女性に更なる重荷を負わす。これらの不平等は、宗教的なしきたりや、インディアン・タミルが植民地時代に連れてこられたことにより出来たカースト制度に、深く組み込まれたものである。
3.3.3. 教育の実態と質
スリランカの教育における上述の事項以外の負の側面は、教育を受けた者が無職である比率が高いことにも特徴付けられる。これは、よく知られた“ディプロマ・ディゼィーズ”にみられる現象である。スリランカにおいて教育システムは、労働機会を拡大させると期待されていた現代経済セクターの成長よりもずっと早く成長した(Dore,
1997)。“きちんとした”仕事を得るために、人々はより高等な学歴を得ることに駆り立てられるようになり、結果として試験重視のカリキュラムが儀式的な学習経験に人々を導いてきた。一方、職業教育は重視されず時代を通じて低い優先順位をつけられてきた(Jayaweera,
1999)。Ekanayake(1996)は批判的にこの状況を調べ、“フォーマル教育の崇拝:cult of formal education”と」よびフォーマル教育の限界を主張している。
印象的なジェンダーの平等性における指標も、女性が社会において平等な立場であることを必ずしも意味しない。女性の失業率は男性よりも高く(Dore,
1997) 、
そのことは、平等もしくはより高い就学率が、女性が男性と同等の資源・資産をコントロールする力を持っていることを意味しなというJayawwera(1999)の議論を証明している。Jayaweeraはさらに加え、「特に顕著な男児ひいきはないが、家でも学校でも女の子は受動的、控えめで、従属的であることが期待されている(p.178)」というスリランカにおける男女の役割の固定観念を、教育の過程が補強しているとすらいえるかもしれないと述べている。このことは再び、教育が必ずしも個人の生や社会を変化させるとは限らず、時には抑圧を強めるという全く逆の作用を及ぼすことがあるということを暗示している。
3.4. スリランカにおける障害者
3.4.1.公式指標
1995年に、社会福祉省は公式にスリランカにおける障害者人口を約8%と推定した(Nakanishi, 2000a)。また障害者人口の増加率は、人口全体のそれよりも0.04%高い(Central
Council of Disabled Persons, n.d.)。障害者の基本的権利は憲法第4条と1996年に制定された障害者の権利条令のもと保障されており、また政府は1939年から障害児の初等・中等教育についての条項を盛りこんでいる(詳細はAppendix
3 参照)。
障害者問題を担当するのは、主に社会福祉省である。1980年から1990年には、国民総生産(GNP)の6%が社会福祉関連の支出であり、0.005%がリハビリテーションにあてられた(Nakanishi, 1996)。障害者教育は、国レベルでは国の教育委員会(National Educational Commission)、国立教育研究所(National Institute of Education)のアドバイスをうけながら、教育・高等教育省によって主に運営されている(UNESCO, 1996) (Appendix 1 参照)。地方レベルでは、州教育局(Department of Education)が、特殊教育理事会(the Director of Special Education)と養護学校の教員のアドバイスをうけて、特殊教育プログラムを実施している(UNESCO, 1996)。政策では‘インクルージョン’を奨励しており、それを特殊教育の目標と位置付けている。しかしながら、障害をもつ子供教育には、現在2つのアプローチが存在する。ひとつは、主流の教育システムへの統合であり、もうひとつは主流のシステムとは別に設定された養護学校である(Perera, 1999; MOEF, 1997; Appendix 3 参照)。
地域に根ざしたリハビリテーション−Community Based Rehabilitation (CBR) にはスリランカ政府も強い関心を持っている。既存のアプローチである施設に根ざしたリハビリテーション−Institutional Based Rehabilitation (IBR)は、障害の医療モデルに裏打ちされたアプローチであり、そのサービスには限界がある。CBRは1980年代、IBRにかわる有効なアプローチとして、国際的に障害問題に関する戦略として発展してきた(Mendis, 1999)。既存のアプローチは、専門家に頼り主に身体機能を回復させることに焦点をあており、社会的につくられた障害観には考慮していない。また開発途上国では資源が不足がちであり、障害者へのサービスがほんの一握りの人−必要とする人の約5%−にしか届かないという現実から、CBRは主に資源が不足しがちな開発途上国で取り入れられてきた(Chaudhury et al, 1995; Werner, 1995; Nakanishi and Kuno, 1997)。
1992年以来、社会サービス省(Ministry of Social Services)が国のプログラムとして多くの地域でCBRを実施しており(MOSS, 2000; Nakanishi, 2000b)、社会サービス省は次のようにCBRの目的を解釈している
障害の予防、障害者のリハビリテーション、地域と発展過程とにおいて障害者に参加と平等を与えること、そしてこれを達成する効果的な手段の実施
(MOSS,2000 para.2)
プログラムは保健省(Health Ministry)、教育省(Ministry of Education)、国立社会開発研究所(National Institute of Education)など様々な機関との協力で実施されている。最近では、国の実施するCBRのもと、18の地域で78,802名の障害者がサービスを受けている(MOSS, 2000)
3.4.2. 現実
公式には前節で見てきたように印象的な指標を示しているが、私自身がスリランカで出会った状況はそれとは全く違うものであった。
・プリティプラ・インファントホームにいる障害児の80%以上には家族がおらず、そのうち大部分の子供は、病院から送られて来たりこのホームに捨てられていた。
・CBRプログラムで私が出会った6歳以上の障害者21名のうち17名は、初等教育を終えていない、または終えることができないと思われる。
・メス・セバナ・チルドレン・ホームに暮らす障害を持つ女性たちは、適切なサポートを受けていなかった。例えば、彼らに基礎教育を与えることになっている教師はしばしば来なかったり、また時には食べるものが欠乏したりすることすらあった。それは、まるで彼女達が、単に住む場所を与えられているにすぎないかのようだった。
上述の現実は、スリランカにおける障害者の状況が他の開発途上国におけるものと変わらないということを示しているかのようだった。
公式指標のうしろで、多くの見えざる人々が存在するようである。貧困にある人々は政府に登記され無いことが多く、結果として公的なサービスを受けることができない。そのことを考慮すると、政府は全体像を把握しているとはいえないようである。第2章第2節でみたように、障害者は一般的にそういったカテゴリーに陥りがちである。また国内紛争は、関心と予算の点で、社会福祉政策にも影響しているようである(Hastie, 1997)。したがって、障害者は教育の機会に欠けるだけでなく、家族は彼らにヘルスケアを確保することすら難しいと感じることがしばしばある。さらにいえば、スリランカでは1997年まで教育は義務化されていなかったので、障害をもつ子供が教育を受けているかいないかについては、ずっと議論すらされてこなかった(UNESCO, 1995)。障害児のうち1.6%以下しか、基礎教育をうけていないと推定されている(Lynch, 1994)。
文化的、宗教的な価値観もスリランカにおける障害者問題に深くしみ込んでいるようである。それは、シンハラ仏教の信念であるカルマと呼ばれるもので、それは人々の態度に深く浸透しており、人々の日常生活を説明する。
カルマとは、道徳的な因果関係の法則であり、再生の信念に関連付けられる。善行は、今世であろうと来世であろうとよい影響をうみ、悪行は悪い影響を生む。現在は過去の産物であり未来への種まきである
(Little, 1998 p.5)
人々は障害を“カルマ”の所為と考え、障害を過去の悪行の結果と見がちである。またそのことは、障害者を受動的なチャリティーの受け手として、抑圧した境遇にとじこめることになる。このことは“ダンネ”といわれる慣習から理解することができる。“ダンネ”は、福祉関連施設に食べ物や衣類、文具やお金などを温情主義的な態度で与えるチャリティーの一種である。一尾とはダ“ダンネ”を、将来のための“善行”を積み重ねるため、そして過去に行った悪行を克服するために行う。そして、多くの福祉関連施設は、この“ダンネ”のおかげでなんとか運営できているというのが現状である。
このことはスリランカにおける障害者が、第2章の理論的解釈で浮彫りにされた一般的な障害者の実情と変わりが無いことをあらわしている。障害者の正確な数をつかむのは容易なことではなく、教育に関する対策を示している法制度や政策書類は、それらがいつも効果的に機能しているとは限らず、また、障害者の権利を保証するものではない。この研究におけるプロジェクトが焦点をあてようとしているのは、これらの見えざる人々である。
<<第4章 プロジェクト実施予定地区・ネルワ地域の状況>>
この章では、プロジェクトの実施を想定している特定の地域であるネルワに焦点を狭めていくことにする。ミクロレベルの問題を探求することにより、前章で考察された世界的なそしてスリランカ全体の構図が、どの程度この特定の地域の中で反復されているか、そしてまたこの地域内特有の問題が確認されるだろう。特有の状況を理解することは改革を提案するにおいて必要不可欠である。特に政府主導の改革が届きにくい人々を対象とするプロジェクトを提案する場合にはなおさらである。なぜなら、第2章で議論されたように、政府主導のプログラムはしばしば、それぞれの状況に独特の側面やそのプログラムに関わる人々の主観的な現実を反映できないことが多いからである。したがって、ネルワ独特の要素を見極めることは、提案される改革を効果的にするために何が必要かを考慮するのに役立つ。
しかしながら、情報源がかなり限定されているということを明記しておかねばならない。特定の地域についての情報は、提案されるプロジェクトの主体になると想定されているSSCBRのプロジェクト・マネージャーと自分自身の経験から得られたもの以外は入手不可能であった。さらに、そのプロジェクト・マネージャーの情報源は明らかではない。この情報の欠如はまた、障害者についての不可視性を示すもうひとつの例とも考えられる。
4.1. 社会的・経済的背景
ネルワは国の南部、ゴール郡の北東に位置している(Appendix 4)。SSCBRのプロジェクト・マネージャーであるBrahmana(2001)によると、ネルワ面積は1,513km2
推定人口27,836人、世帯数は約5,700である。地理的には、非常に山が多く多くの森があり、道や交通機関などの設備は必ずしもいい状態にはない。たとえば、多くの小川や川には橋がかかっておらず、それは居住地域ですら見られる。
主要産業はプランテーションである。茶が主要なプランテーション産物であり、350 km2 の面積をもつこの地域の中に11のプランテーション園がある(ibid.)。国全体においては、プランテーション・エリアに住む大部分の民族グループは大部分がヒンズー教を信仰するインディアン・タミルであるが、ネルワでは、仏教を信仰するシンハラ人が大部分を占める。しかし民族グループの違いはあるが、この地域はかなり貧しい。このことは約5,700世帯のうち2,337世帯が何らかの財政補助を受け、1,173世帯がトイレ設備をもっていないという事実からも見られる。また、トイレ設備の少なさからはこの地域の衛生レベルの低さもうかがえる。社会的資源に関しては、20の寺社、政府運営の病院が1つと2つの診療所、4つの家族保健センターと、伝統医療処置が施されるアーユルベーダ・センターがある。
教育に関しては、16の義務教育レベルの公立学校があり、231人の教師と5611人の生徒がいる(表4)。これらの学校の多くは、主要道路からかなり離れたところにあるなど地理的に非常に険しいところに位置している(ibid.)。そのうちのどの学校も障害をもつ子供たちのための特殊学級をもっておらず、養護学校はひとつもない。他のプランテーション・エリアと同様に、ネルワもまた教育機会においては不利な状況にあるようだ。障害をもたない子供たちの推定就学率は76%であり、これは国の公的指標よりも低く、さらにはその就学しているとされる子供たちの中には、すべての授業には出席していない児童もいくらかいるようである(ibid.)。一般的な中退率は8%である。障害児の教育状況に関するデータはかなり少なく、われわれはSSCBRがカバーする部分だけしか知ることが出来ない。それは次の節で考察するが、情報が非常に限られているというこの事実は、障害者がいかにみえざる存在であるかということを示しているといえる。
SSCBRのプロジェクトマネージャーの考えでは、低い就学率と高い中退率は主に地理的に困難な状況、家族の経済状況、また両親からの勉強に対する奨励の欠如−その両親たちの多くは教育を受けていないことが多いが−、などに起因していると思われる。さらにこれに加え、教師の低い勤務率から見られるように教育の質的側面についてはかなり問題があるようである。
学校名 | タイプ | 教師数 | 生徒数 | 1クラスあたりの平均生徒数 |
Ambelegedara | 3+ | 2 | 20 | 4 |
Lamkagama | 3+ | 14 | 159 | 19 |
Ihala Lelwala | 3+ | 5 | 117 | 14 |
Warukandeniya | 3+ | 5 | 45 | 5 |
Medagama | 3+ | 6 | 124 | 15 |
Milawa | 3+ | 9 | 212 | 26 |
West Batuwangala | 3+ | 5 | 59 | 7 |
Mawanana | 3+ | 12 | 233 | 29 |
Mawita | 3+ | 10 | 261 | 32 |
Dewalegama | 3+ | 3 | 51 | 6 |
Hppitaya | 3+ | 8 | 164 | 20 |
Gigimmaduwa | 2 | 15 | 434 | 43 |
Batuwangala | 2 | 17 | 435 | 44 |
Dellawa | 2 | 18 | 569 | 47 |
Kadihingala | 2 | 19 | 372 | 31 |
Neluwa | ns | 83 | 2356 | 45 |
Total | - | 231 | 5611 | - |
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3+: 1-8年生 (タイプ3の学校の派生タイプ) 2 : 1-11年生 (タイプ2の学校) ns : 1-13年生 (国立学校) |
4.2. ネルワ地域における障害者
上記の状況を考えると、ネルワにおける障害者は、スリランカにおいてもっとも不利な境遇にあるグループに属すると考えられる。貧困と障害の悪循環(図3)は、ネルワ地域のコンテクストの中にも見られる。まず第一に、地理的な特徴が障害を持つ人‐特に身体的な障害を持つ人‐にとって都合がいいとは言いがたいことである。人々がモーターバイクや車を使用することすらできないような険しい地域においては、障害者は家の中で十分なサポートもうけないままに閉じ込められがちにならざるをえない。なぜなら地理的な険しさは、彼らが保健医療をはじめとするサービスへのアクセスを確保することすら容易ではなく、また、サービスを提供する側にとっても彼らへそのサービスを提供することが容易ではないことを意味しているからである。この地域を訪れた私の個人的な経験からも、身体的な障害を持たない人ですら、このような急斜面の多い地域を動き回ることが容易ではないことがわかった。
第2に、その地域が経済的に不利な境遇にあるという事実も、障害者にとって都合よく作用しているとは言いがたい。両親や地域の他のメンバーの大部分は、第3章2節の2で見たように悪い条件のプランテーションで働くことで忙しい。その割に合わない労働条件は、身体および知的障害をもつ子供達を十分に世話することを難しくしている。経済的な不利と悪い健康状態は、しばしば並行して見られる。ネルワにおける多くの障害児が、風邪や肺炎、疥癬や発疹などある種の病気を持っているということも報告されている(Brahmana, 2001)。貧困と障害の悪循環(図3)はここでも繰り返されている。
第3に、スリランカの他の地域同様、障害に関する文化的・宗教的な価値観も深くしみ込んでいるようである。自分の子供が何らかの障害を持って生まれたとき、人々はそれを“カルマ”の所為にしがちであり、信仰治療師や手相占師のところに治療に訪れる人もいる。障害についてのイメージを聞かれたら、その答えの大体は、哀れみ、愚劣、絶望、役立たずなど、かなり否定的なものである(ibid.)。
4.3. サルボダヤスワセタCBRプログラム: 改革実践における中心的組織
障害者をサポートする主要なもののひとつは、スリランカのNGOであるサルボダヤ・シュラマダーナ・サンガマヤによって実施されている、サルボダヤ・スワセタ・CBR(地域に根ざしたリハビリテーション):SSCBRである。スリランカにおいて国のプログラムとしてCBRが実施される以前の1985年に、SSCBRは外国のNGOの支援をうけて国のプログラムからは独立したかたちで立ち上げられた。SSCBRは国の南部の2つの郡:カルタラとゴールにある19の村をカバーしている(Appendix
4)。
SSCBRへの私の関りはかなり限られたものではあったが、スリランカを含む開発途上国の他の地域で実施されているCBRと比べると、比較的全体としてはうまく実施されていることがわかった。その理由のひとつとしては、継続的に実施されている長い歴史があること、どんな種類の障害をもカバーしていること、そして学校や医療施設、宗教施設など地域にある他の関係者・組織と協力して様々なサービスを提供していることなどが挙げられる(Appendix 5)。アウェアネス・プログラムとよばれる障害に関する啓蒙と意識の向上を目的としたプログラムがしばしば実施されていることも、SSCBRの成功に大きく貢献している。SSCBRは、障害についての認識を高めることが、人々の障害に対する態度を変えるには必要不可欠であると考えており、学齢記の子供、妊娠中および子育て中の母親、障害者とその家族、村の委員会のメンバーや宗教のリーダーと仏教学校など、地域の様々な関係者を対象にこのプログラムを実施してきた(Sarvodaya Suwasetha Sewa Society, 1999)。SSCBRのもうひとつの成功の理由は、地域の人々によって主導権がとられていることにある。約180人のボランティアに支えられた、1人のプロジェクト・マネージャー、二人の郡マネージャー、8人のフィールドワーカーのすべてのスタッフがその地域のメンバーである(Appendix 6)。さらに彼らは、異なる種類の障害を持つ人々にサービスを提供するものとして、様々なトレーニングを受けている。
障害児の教育機会の増大に焦点をあてると、個々のケースは個人ベースで決定されるものの、地域の学校が障害をもつ子供達を受け入れることができるかどうかについて議論をするなど、SSCBRはその対策を策定している。たとえば、経済的な理由で子供が学校に行けない場合はSSCBRが学校教材を提供し、また、他の子供達についていくために事前のサポートが必要と判断された場合は、その子供の家でボランティアによる特別講座を行ったり、就学前教育に送ったりするなど、SCBRが取り計らっている。しかしながら、これらの地域全体の障害についての基礎データがないので、これらの地域の中で障害者が直面する問題の全体の中で、SSCBRがどの程度取り組んでいるのかを知ることは難しい。
ネルワ地域では、SSCBRは1994年に活動を始め、現在42人の障害児と250人の障害者をカバーしている(表5)。しかしながら、ネルワ地域における障害者をめぐる状況の全体像はわかっておらず、繰り返しになるが、SSCBRが実際どの程度まで問題に対処できているかは明らかではない。そういう意味ではSSCBRは、どの程度問題を克服できたかということよりも、障害者の不可視性に取り組まなければならない状況にあるといえるのかもしれない。
学齢前の女児 | 17 |
学齢前の男児 | 15 |
学齢期の女児 | 12 |
学齢期の男児 | 7 |
成人女性 | 129 |
成人男性 | 112 |
合計 | 292 |
別の地域での豊かな経験を活かして、SSCBRはネルワ地域でも医療施設や学校と協力関係を構築している。先に見たように障害者・児はある種の病気をもっていることが多いので、フィールド・ワーカーが障害者・児に出会ったとき、最初の仕事は、基本的な診察をうけるために彼らを診療所に連れていくことである。保健センターもまた、障害児に予防接種を与えたりアウェアネス・プログラムのために利用される。いくつかの学校ではすでにアウェアネス・プログラムやメディカルクリニック(医療相談や指導)が時々行われている(表6)。また何人かの障害児はすでにSSCBRのサポートをうけて学校に受け入れられている。しかしながら、障害児全体の就学率は、この地域内の障害を持たない子供達と比べてかなり低いようである。その理由は、この節の後半で考察する。
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アウェアネス・プログラム | メディカル・クリニック | その他 | |||
Ambelegedara | 3+ | 20 | - | - | - |
Lamkagama | 3+ | 159 | 1 | 2 | - |
Ihala Lelwala | 3+ | 117 | - | - | - |
Warukandeniya | 3+ | 45 | 1 | - | - |
Medagama | 3+ | 124 | - | - | - |
Milawa | 3+ | 212 | - | - | - |
West Batuwangala | 3+ | 59 | 1 | - | - |
Mawanana | 3+ | 233 | 1 | - | - |
Mawita | 3+ | 261 | - | - | - |
Dewalegama | 3+ | 51 | - | - | - |
Hppitaya | 3+ | 164 | 2 | 2 | 障害者のための地域福祉会が設立されている。 |
Gigimmaduwa | 2 | 434 | - | - | - |
Batuwangala | 2 | 435 | 3 | - | 5人の障害児が受け入れられている。 |
Dellawa | 2 | 569 | 3 | - | 3人の障害児が受け入れられている。 |
Kadihingala | 2 | 372 | - | - | - |
Neluwa | ns | 2356 | 7 | - | - |
Total | - | 5611 | 19 | 4 |
3+: 1-8年生 (タイプ3の学校の派生タイプ) 2 : 1-11年生 (タイプ2の学校) ns : 1-13年生 (国立学校) |
SSCBRの重要な仕事のひとつは、経済的に不利な境遇にある家族が月々の生活補助を受ける手伝いをすることである。なぜなら、彼らの多くはぎりぎりの生計を得るのに忙しかったり情報へのアクセスが欠如しているためにそれらの補助金を利用できていないことが多いからである。特に辺鄙な遠隔地に住んでいる人々は、必要な手続きをとることが難しい。
8年間の活動を通じて、SSCBRのプロジェクト・マネージャーとネルワのフィールド・ワーカーは、ネルワ地域の人々が次第に障害に対する否定的な態度や考えを改め始めていると感じている。しかし、どのように、どの程度態度や考えが変化したかの明確な指標はない。
うまく機能しているSSCBRの実績にもかかわらず、特にネルワ地域においてはまだ課題があるようである。まず第一はボランティアの働きである。SSCBRがカバーしている他の地域では、ボランティアが障害者/児と共に働くのに非常に重要な役割を担っているが、ネルワではそうではない。かつては何人かのボランティアが活躍していたが、社会経済的な状況の制約からSSCBRはそのボランティアグループを解散させざるを得なくなった。地理的な特徴から、継続的に障害者宅を訪問したり、月々のミーティングの開催したりするのが難しく、また、経済的に不利な境遇にある人々は概して、ぎりぎりの生計を得るために働くのに忙しく、ボランティアとして十分に活動することが出来ないことが多い。結果としてボランティアの数は限られ、その活躍が継続することができなかった。現在では、フィールド・ワーカーが障害者をサポートする日常の活動を計画し実行する唯一の存在である。そのような事情から活動の焦点は、教育を含む広範囲なサポートを提供するというよりも、最低限の医療処置を与えることに陥りがちになっている。そのことは、障害の医療モデルがプログラムを通じて顕著になりがちであることを示している。
第二には、第2、第3章で見たように、障害と経済的に不利な境遇の関連が根強いことである。現在SSCBRは学齢期の子供をもつ19の家族に関わっている(表5)が、そのうち10の家族が無職であったり安定した収入がなく、7家族が非常に低収入で働いており、経済的に安定している家族は2家族にすぎない(Brahmana, 2001)。第3章で考察したように、障害者が直面する経済的に不利な境遇は、歴史的・社会的につくられたものである。SSCBRは財政的なサポートや自営の手段を提供しているが、それらはその場しのぎなものになりがちであり、ひとつの草の根的な活動が、社会の仕組みが作り上げたものを抜本的に変革しようとするのは、あまりに野心的すぎるのかもしれない。しかしながら、地域の人がより深く関わることにより、全体の状況が改善する可能性はあるであろう。
第三に、SSCBRが障害児が基礎教育を受けられるように手助けをしているにもかかわらず、ネルワにおける障害児の就学率はまだ低い。現在、SSCBRのサポートにようり、19人のうち8人が地元の学校に受け入れられており、視覚障害をもつ2人の子供が全寮制の盲学校に通っている。しかしながら残りの8人は、障害や経済的な理由、またその両方の理由で学校には通っていない。
さらには、地理的な困難さからフィールド・ワーカーがすべての世帯にアクセスをもつこができないでいるため、SSCBRがカバーしている以外にも、この地域に障害者がいることが予想される。もし、フィールド・ワーカーと共に働くボランティアがいれば、SSCBRがカバーする地域は広がるであろうが、現実にはSSCBRがまだ完全にはアクセスしていない遠隔地が存在する。
最後に、障害に対する態度や考えを変えることは、誰が変化への主導権を持とうとも簡単なことではない。第2章で見たように、人々自身がその必要性を理解しない限り変化はおこらないのである。それには、継続的なアプローチと長期的なサポートが必要である。以上のことから、SSCBRが直面する課題を克服するには、地域の人々のより活発な参加が必要不可欠であるといえる。地域のより活発なプロジェクトへの参加は、これらの課題克服に貢献し、プログラムの質を向上させるのにも寄与するに違いない。
<<5-6章訳 省略>>
<<第7章 結論:より大きな変革へ向けて>>
この研究では、その実態が表に見えない人々の存在について論議を進めた。現在の世の中をみてみると、グローバリゼーションの影響は世界中誰をとっても不可避であり、不平等は決してなくならないように思える。世界のシステム全体が“持たざるもの”の犠牲によって成り立っているかのようにすら思える。そして障害をもつ人々が、最も“持たざるもの”のものになりがちなことはおそらく間違いない。何故なら、障害を持つ人々はしばしば隔離された環境に押し込められ、見過ごされたり無視されたりしやすい環境にあるからだ。
国際社会と各国政府は数十年にわたり現存する不平等を緩和しようと試みてきた。しかしながら、成果はなかなかあらわれず状況の改善はなかなか進まないようである。ワトキンズはその試みを以下のように批判的に表現している。“不平等が散見される多くのケースにおいて実際に最も欠如しているのは、現存する資源を利用可能にしそれらを平等に投資しようをする政治的な意志である。”(Wakins, 1995). これをリトルは“リップサービスの政治的アジェンダ”(Little, 1994)と批判している。その証拠として国際社会は、万人のための教育の実現に必要な額の約100倍ものお金を軍事費に費やしている(ユニセフによる概算)。同様の事実はスリランカにおいても見られる。
仮に政府が真摯な態度で臨んだとしても、政府の力だけでは“万人のための教育”を達成することはできないだろう、ということもこの研究では、議論してきた。したがって提案している改革は、“権利と機会平等を前提とした社会において、多様多種なグループの人々をサポートすることがによってのみもたらされる社会変革は、その変化を必要とする人が行動することによってのみ現実化するであろう”(Hurst, 1999)という信念に基づき、“ボトムアップ”“参加”を重視した現象学的アプローチを採用している。そういうアプローチを通じて、“実態が見えなかった人々”がこれまでとは違った視点を投げかけ、既存の体質に一石を投じることをることをもこの研究は期待ている。さらに、最も社会的弱者とみなされてきた人々が主導し変容した社会は、全ての人に住みよい社会、インクルーシヴ・ソサエティーにつながるのではないかと目論んでいる。
この研究で提案されている改革案は、フーランの「強力な公教育制度は社会的、政治的、経済的な社会の一新の鍵となる」(Fullan, 1999)という言葉をふまえて、公教育制度の制度の中で行われることを想定している。改革案は、隅に追いやられた地域に住む存在が隠れがちな人々の役割を活発化することにより、すべての子どもたちが公教育に参加し学習するための障壁を取り除こうという試みである。
提案されている改革案が、かなり規模が小さく個々人の力に頼りがちであることを筆者は認識している。小さい地域に住む非常に小さいターゲットグループの範囲内で実施されることを想定しており、また、サルボダヤスワセタCBR (SSCBR) という地元NGOの資源に頼った提案である。SSCBRは政府主導のCBRから独立した形でCBRを実施してきており、他で行われているCBRとはさしてつながりがない。その弱点は、提案されている改革に幅広いインパクトを期待することは難しいことを暗示している。そういう弱点を認識しているにもかかわらず、最初に提示されたねらいと具体的到達目標はかなり野心的である。
しかしながら、提案されている改革がより大きな改革に向けての出発点となることを筆者は期待している。ワーナーによる“子どもから子どもへ伝えるアプローチを通じての統合教育を推進についてのレポート”と照らし合わせて考えると、このプロジェクトの受益者たちがある一定期間の実施を通じて今後の重要なファシリテーターとなりうると期待できるからだ。障害のある子どもたちを学校教育の中に導くことにより、地域において、これまでその存在が隠れがちだった人々の存在感が増すことにつながる。そしてその障害のある子どもたちが成長し、他の利益から排除されてきた人々に手を差し伸べる様になったとき、長期的な到達目標が次第に実現化していくであろう。
またプロジェクトを始めた地域での経験が、その地域内だけではなくSSCBRがカバーするほかの地域でも生かされることも期待できる。もっとも難しいとされてきたネルワ地域での挑戦が他の地域のモデルとなる可能性も含んでいるのだ。さらに、他のCBRとのネットワークが広がれば、SSCBRで培われた戦略が他の実施母体による他のCBRでも応用されうる。このネットワーク構築はより大きな改革を現実のものとするには重要なことであろう。さらに、第3・4章で検証されたように、問題が歴史的に複雑にからみあったものに起因することから、マクロ・ミクロレベルで問題に取り組んでいくには、より政治的に強力な力が必要であることが予想される。
にもかかわらず、前述されたきた希望的観測はかなり理想主義であり、提案された戦略が決して楽観的に課題評価されるべきではないことを真摯に認識しておく必要がある。態度を変えるということは、文化的に微妙なことであり、特に短期間では目に見えないものである。特にこの提案は、実践的な経験よりも多くの仮説に基づいており、机上の諭である部分が多いということを認めておく必要がある。この改革案が実施される機会があるとするならば、改革による変化の影響を受ける人々の深い関わりが不可欠であり、提案が彼らによって柔軟に修正される必要がある。
これらのことを常に深く胸に留めながら、他の地域での経験から学びながら計画されたこの改革案が別の場面においてもなんらかの見識を与えることを期待している。特に筆者自身が、いつかこの世界のどこかで障害をもつ人々と共に働くかかわる機会に恵まれた時に。