インドネシアのCommunity-based Rehabilitationの現状と課題

≪卒業論文≫
提出日2002年1月16日(水)

大阪大学
ボランティア人間科学コース4回生
行動学専修  
川 上  陽 子

≪  目  次  ≫

第1章 背景および目的---------------------------------------1

第2章 CBRとは---------------------------------------------3
  1)CBRとは何か
  2)CBR導入の背景
  3)CBRの実践方法
  4)アジアにおけるCBR

第3章 インドネシアにおける障害者-----------------------------13
  1)インドネシアの概要
  2)インドネシアの障害者
  3)インドネシアにおける障害者政策
  4)インドネシアのCBR

第4章 CBR開発・研修センターにおけるCBR--------------------25
  1)CBR開発・研修センターの概要
  2)CBR開発・研修センターの活動
  3)CBR開発・研修センターが展開するCBR
  4)CBRの現状

第5章 考察-----------------------------------------------38
1)開発途上国にとってのCBR
2)CBRを定着させるには

謝辞------------------------------------------------------46

文献一覧--------------------------------------------------47


第1章 背景および目的

 
世界の人口は1975年以来約1.7%の割合で増えつづけており、現在約60億人であるとされている。アジアには、そのうちの約6割以上の人が居住し、全世界で最大の人口を抱えている。国連の推定によると、この地域の障害者の数は約3億人とされている(高嶺 1993)。
 世界銀行の推計によると、開発途上国では安全な水の利用が不可能な人口は12億人、衛生設備の利用が不可能な人口は8億人、非識字人口は8億人とされている(山田 2000)。このように開発途上国では、社会資源が不十分であるがゆえに、低レベルの教育、栄養、衛生という問題を抱えている。そして、障害に関する知識があまり普及していない。また、開発途上国では、人口の約70%が農村部に居住している(中西・久野 1996)。これらの農村地域は経済的状態が悪いばかりではなく、衛生・医療などの生活環境においても、かなり劣っている。これらの地域では、リハビリテーションや社会福祉の専門病院や施設が少なく、専門家はほとんどいない。つまり、専門家や専門機関にかかることができる障害者は、都市部中心に居住している障害者だけであり、それは全障害者の中のごく一部だけということになる。その数は全障害者のうちの、ほんの1〜2%だけであるとされている。農村部に住む障害者は、貧困と障害という、二重の困難を抱えている状態なのである。
 しかし、このような厳しい状況下でも、それに屈せず、地域社会の変革のために戦っているエネルギッシュなNGO(Non‐Governmental Organization:非政府組織)などが、アジアには数多く存在する。先進国にはみられないような自由な発想とエネルギーが、アジアに多く存在するのである。
 中でも私が一番関心を持ったのは、Community-based Rehabilitation(CBR:地域に根ざしたリハビリテーション)という概念である。地域住民が一体となり、自分たちの地域で生きる障害者の問題を理解し、障害者が地域で一生自立して生活してゆけるような地域に作り上げていこう、という発想であり、現在、アジアや中南米を中心とした開発途上国で実践されている概念である。施設中心のリハビリテーションに代わる有効な方法として注目されている。
 そこで私は実際CBRがこれまでどのように発展してきて、現在どのような状態で実践され、どのような課題を抱えているのかを考察したいと思う。
今回、インドネシアの中部ジャワ州ソロ(スラカルタ)市を中心に活動しているCBR開発・研修センター(CBR-DTC:Community-based Rehabilitation Development and Training Centre)というNGOで、プロジェクト・マネージャーとして働いている、ジョナサン・マラトモ(Jonathan Maratmo)さんにインタビューできる機会を得ることができた。また、わずかな滞在期間ではあったが、私も2000年の夏に観光でインドネシアを訪れたことがあるため、インドネシアは個人的に興味を抱いている国のうちの一つである。よって、本稿ではインドネシアに焦点をあて、CBRの現状と課題について考えたい。

第2章 CBRとは

1)CBRとは何か
 CBRとは考え方、概念である。特定のプログラムや、団体のグループを指すのではない。CBRは障害予防とリハビリテーションの分野における、地域社会発展に焦点をあてた概念であり、障害者、その家族、そして地域社会の人々の考え方や行動を変化させるプログラムの総体である。CBRは、障害者へのサービスの提供を改善し、より公平な機会を障害者に与え、彼らの人権擁護を促進することで、障害者たちの生活の質(QOL:Quality of Life)を改善していこう、という戦略であり、その活動形態は、政府、または社会など、さまざまな段階で実施していくことができる。つまり、多様な人々がそれぞれの段階において、貴重な資源となりうるのである。
 CBRは開発途上国における障害者問題の解決の方策として、1976年、「障害者の予防とリハビリテーション」に関する総会決議を行った際に、WHO(World Health Organization:世界保健機関)によって提唱された。このとき、CBRという言葉が初めて登場したのである。農村部に暮らす障害者は、専門機関でのリハビリテーション・サービスを受けられないままに放置されていた。そこで、学校などの地域にある資源を活用し、保健婦や教員の指導の下に、障害者自身、その家族、地域のボランティアなどが協力し、サービスを提供するという方法が提唱された。また、これまでの金・人・物という先進国の援助が、新たな依存や従属関係を生み出したことへの反省もあったからである。それ以来、大半の開発途上国で競って実施されるようになっている。CBRは、障害者が地域社会に参加するように奨励し、地域にある資源を利用することによって持続可能なものにしているという点で、施設中心のリハビリテーションに代わる有効な方法として、開発途上国で注目されているのである。
 CBRの定義を最初に打ち出したのは、1981年に開かれた、WHOリハビリテーション専門家会議においてである。委員会はCBRを、「障害者自身やその家族、その地域社会の中の既存の資源に入り込み、利用し、その上に構築されたアプローチ」と定義した(中西・久野 1997)。しかしその後いろいろな解釈が生まれてきた。そこで国際機関としてCBRを進めてきたWHO、ILO(International Labor Organization:国際労働機関)、およびUNESCO(United Nations Educational Scientific and Cultural Organization:国連教育科学文化機関)は、1994年にそれまでの実践をまとめ、CBRに関する合同政策方針(Joint Position paper)を出した。その中でCBRは、「地域社会の発展(Community Development)における、すべての障害者のためのリハビリテーション、機会の均等、社会統合のための戦略の一つである。CBRは障害者自身、その家族、地域の人々の力を結集し、(障害者とその地域社会に)適切な保健・医療、教育、職業、社会福祉サービスが提供されることによって実施されるものである。」と定義されている(日本知的障害福祉連盟ホームページ)。このようにCBRは、障害者自身を地域社会の問題として位置付け、当事者である障害者・家族・コミュニティーを障害者問題解決の主体とするものである。
 CBRの概念のもとでは、プライマリー・ヘルス・ケア(Primary Health Care)の方策に倣って、地域のメンバーは啓発され、訓練される。サービスの受益者である障害者は他の人々の指導をしたり、CBRの運営を行ったりする専門家とみなされて、CBRの立案、実行、計画に参加していく。つまり障害者はサービスの提供者にもなっているといえる。そして、地域社会の人々は、障害者を、障害をもたない人たちと同じように受け入れている。障害者もそうでない人も、ともに地域社会で暮らしていくことができるように、基盤整備を行っているのである。この点で、CBRは地域社会変革を目指した、社会開発の一つであるといえる。

2)CBR導入の背景
 CBRが導入される前までは、施設に根ざしたリハビリテーション(IBR:Institution-based Rehabilitation)が主流だった。IBRは1970年代の終わりまで、障害者に対するほとんど唯一のサービスだった。IBRにおいては、リハビリテーションは、主に障害者個人の変化、つまり機能回復という点に主眼が置かれていた。IBRは、大半の途上国に必ず1ヶ所はある国立のリハビリテーション・センターや、総合病院の整形外科、身体障害者療養施設などの障害者施設を実施場所としている。政府資金で行われ、医者やセラピストなどの専門家が施設でリハビリテーションを提供する。障害者はただ施設を利用するだけだった。つまり障害者は一方的な受益者であった。しかし、数少ない施設で、すべての障害者のニーズを満たすのは不可能であった。これらの施設はほとんど大都市にあるが、開発途上国では人口の70%以上が農村部に居住するため、これらの制度のもとでは、地方の障害者にまで恩恵は届かないからである。1980年代初めのWHOの推定では、このような施設を利用できない障害者数は、全障害者数のうちの98〜99%であるとしている(中西・久野 1997)。加えて、建物の建築費、維持管理費、人件費などの諸費用に多額の資金が必要となるので、施設をたくさん作ることは不可能であった。つまり、IBRにはサービスの限界があったのである。
 1978年にUNICEF(United Nations Children's Fund:国連児童基金)とWHOが共催したアルマアタ会議で、「2000年までにすべての人々に健康を」のスローガンが生まれ、プライマリー・へルス・ケアの理念が明確にされた。このアルマアタ宣言では従来の疾病予防としての保健だけでなく、社会的文化的意味までをも含めた保健が強調された。そのため、高度な医療を、選ばれたごくわずかな人々に提供するのではなく、全地域の人々を対象に、最小限の向上にしかならないかもしれないが、簡単な医療を提供し、少しの訓練で、専門家でない人も知識や技能を見につけ、周囲の人のために使えるようにすることが目標とされた。
 この流れに従い、1970年代の終わりから開発途上国を中心に、CBRが話題になってきた。それは、従来の施設中心のリハビリテーションではサービスの恩恵を受ける権利を侵害されていた障害児・障害者に対する革新的アプローチと考えられた。障害者の自立を目的に施設で訓練を行うのではなく、家族や地域社会に助けを求め、彼らが家族の中で暮らし、普通の社会環境の中で生活できることを意図している。
 WHOがプライマリー・ヘルス・ケアに基づいた新政策としてCBRを採択したのと同じ頃、メキシコで地域ケアを実践していたデビッド・ワーナー(David Werner)は、「医師のいないところで(Where There is No Doctor)」を出版し、インドネシアのハンドヨ・チャンドラクスマ博士(Dr.Handojo Tjandrakusuma)は、村落の脳性マヒ児の巡回指導を始めた。1986年になってWHOは、CBRの手引書「地域での障害者の訓練(TRAINING in the Community for People with Disabilities)」を発行した。このようにCBRは、WHOの「2000年までにすべての人々に健康を」を目的とする、プライマリー・ヘルス・ケア政策の一環として、新たな障害者施策を模索する開発途上国を中心に、世界で動き出した。既にプライマリー・ヘルス・ケアを採用し始めた多くの開発途上国の政府にとっては、プライマリー・ヘルス・ケアネットワークや人材、技術を活用できるので、CBRは推進しやすかったからである。
 CBRは、社会参加の機会に恵まれなかった、障害者の70%〜80%に当たる農村部に居住する人々を、草の根の運動の例にもれず、サービスの対象者としてではなく、実践者として発展してきた。草の根の人々の参加は持続可能な開発を進める鍵であり、特に1990年代初めから重要視されてきた。1994年の第47回WHO会議では、保健での地域アクション(Community Action in Health)の戦略を提案しているし、世界銀行では1995年にNGOとのパートナーシップによる、貧困層の人々の参加型立案・意思決定と組織能力強化のためのガイドブックを出版するなどの動きが、その傾向を物語っている。

3)CBRの実践方法
 CBRプログラムの実践の仕方は地域によって異なるが、基本的な流れは以下のとおりである。
 CBRの実践は、まずCBR委員会を結成することから始まる。CBR委員会は、地域の主要メンバーである村長、行政や地域団体の代表に加えて、助産婦、主婦など障害者問題に興味がある人たち、そして障害者やその家族など、サービス提供者、利用者の双方をメンバーとする。メンバーは大体15人前後であり、すべての人がボランティアである。CBR委員会は、地域社会レベルで、インフラストラクチャーを含む地域社会の資源、および保健、教育、住宅、交通などの、一般的なサービスへのアクセスを保障するための、立案、プログラム評価などを行う。
 次に、定期的奉仕が可能なCBRワーカーを募集し、その中で、十分にやる気があり、読み書きができる人を選考する。そして、図解されたCBRの手引書を参考にして、専門家が訓練を行う。徐々に知識と経験と経験を増していくことで、CBRワーカーは障害者や家族に信頼されていく。と同時に、CBRワーカーはボランティア活動の意義を見出していく。CBRワーカーの仕事は、障害の発見、障害者の能力の基本的評価、訓練法の選択、家族への適切な訓練についての情報の提供、家族による訓練のチェックと監督、照会、訓練や成果に関する記録、障害の原因と予防についての地域の教育、地域の指導者や団体との連携、障害者の自助団体組織化への援助、随時開催される技術研修プログラムへの参加など、多岐にわたる。時には、校長や雇用主を説得して、障害者の受け入れを認めさせなければならない。
その次に、障害者の調査を実施する。これは、とりあえずどの程度のニーズに対応しなければならないかを知るための情報把握のために行う。また、CBRを開始することに対する広報活動のためにも行う。
 そしていよいよプログラムの実施段階に入る。まずは少数の障害者を対象とした試行プログラムを計画し、着手する。家族でリハビリテーションを行うことができるように、CBRワーカーが家族にマニュアルを渡し、それに基づいて必要な知識や技術などを伝授する。また、地域で手に入る技術、材料を使って、補助具、自助具を製作したり、正しい障害者観や障害予防の知識を高めるために、講話やポスター、ラジオやテレビなどによる啓発キャンペーンを行ったりもする。
 また、所得創出プログラムとして、障害者の雇用の促進も手がける。CBR委員会が資金の貸し出しをする形が、もっとも一般的である。ローンを行う前に、障害者に対して、小規模事業を始めるために必要な技術の訓練、会計や運営の訓練を行う。
 他にも、障害者の自助団体を育成したりもする。また、評価やフォローアップも行っている。

4)アジアにおけるCBR
 一般に経済力の低いアジアの国々においては、生産能力の低い障害者への政策は、優先順位が低く、結果的に取り残されがちな傾向にあるとされている。では実際アジアではどのくらいCBRが普及しているのだろうか。
 WHO、ILO、UNICEF、UNDP(United Nations Development Programme:国連開発計画)、ESCAP (Economic and Social Commission for Asia and The Pacific:国連アジア太平洋経済社会委員会)などの国連の機関は、CBRを理論的にも、技術的にも、資金的にも援助してきた。CBRは国連が宣言した、1983年から1992年までの10年間の「国連・障害者の10年」の概念に一致するところがあったからである。しかし、CBRという名前は浸透していても、その概念はいまだあまり浸透していない。アジアの国々の大半では、CBRと呼ばれるプロジェクトが実施されてはいるが、活動を支援する国連機関やNGOがたった一つの障害に対しての知識や技術しか持っていなかったり、支援団体の性格からサービスの対象を一定の年齢層に限らざるをえなくなったり、地域改革を目的としているのに、団体から派遣されたスタッフや医療専門家が地域社会の力を信用せず、運営を任せなかったりするなどの弊害が見られる国も多い。それゆえ、村おこしのように地域の活性化にまで至らない国が多いのである。このように、特定グループのための地域レベル・サービスだけを行っているだけで、本来のCBRを実践するレベルに至っていない国が多々あるのが現状である。
 しかしこれらの国々のプロジェクトは、地域で活動することを重んじる姿勢を持っている。草の根の人々が気楽に必要なサービスにアクセスすることが可能なのである。また、彼らの活動のノウハウは、本来のCBRを発展させていくための下地として、十分役に立っているといえる。これらの点では非常に評価できる。だが、これらのプロジェクトの多くはアウトリーチ活動と呼ばれるものである。アウトリーチ活動とは、保健婦や理学療法士、看護助手、理学療法士助手などの人々が、障害者の自宅や村の公共施設に直接赴き、訓練を行うという、いわば在宅サービスといえるものである。この場合、地域の人々は知識や技術を得られず、参加の機会がない。これはCBRが本来意図しているものではない。
 しかしアジアにもいくつかCBR成功例がある。インドネシアのジャワ島にあるソロ市を中心とするCBRプロジェクトや、ネパールのバクタプールのプロジェクト、フィリピンのバコロッドやベトナムのCBRも、成功例として名高い。これらの地域では、10年以上もCBRを実践してきた経歴があり、地元の資源を活用し、障害者の社会サービスや保健、教育などの一般向けサービスの利用を可能にしてきた。そして、必要ならば専門的なリハビリテーション、訓練、相談事業へのアクセスも保障している。これらが成功に導いた原因になったともいえる。

第3章 インドネシアにおける障害者

1)インドネシアの概要
 インドネシアは正式国名をインドネシア共和国といい、政体は共和制である。首都はジャカルタである。インドネシア政府の1998年の発表によると、人口は約2億400万人である。これは中国、インド、そしてアメリカ合衆国に次いで、世界で第4番目の人口の多さである。面積は192万3,000平方キロメートルであり、日本の約5倍である(外務省ホームページ)。ニューギニアの東部を占めるイリアンジャヤは世界第一の島であり、ボルネオは世界第三の島である。これらと赤道に沿って5,000キロメートルにわたって散在している、1万3,700にものぼる島々が、領土を構成している。年間平均気温は摂氏約30度であって、湿度は平均約80%である(仲村・一番ヶ瀬 1998)。公用語はインドネシア語である。インドネシアには300以上の民族が生活している。これらの民族は250以上の、マレー・ポリネシア語系、およびパプア語系の言語を話しており、それぞれの民族集団はそれぞれ土着の宗教を信じている。ただし、政府が公認している宗教はイスラム教、ヒンズー教、仏教、カトリック、およびプロテスタントである。それぞれの内訳は、イスラム教87.1%、キリスト教8.8%、ヒンズー教2.0%となっている(外務省ホームページ)。つまりインドネシア人の約9割はイスラム教徒なのである。インドネシアと日本の経済社会指標を表3-1に示す。

表3-1  インドネシアと日本の経済社会指標

インドネシア

日本
面積 192万3000kF 37万8000kF
人口 2億400万人 1億2606万人
人口密度 103人/ kF 333人/ kF
首都とその人口 ジャカルタ 916万人 東京 798万人
人口増加率 1.8% 0.6%
平均寿命(男) 63.3歳 77.10歳
平均寿命(女) 66.1歳 83.99歳
通貨 ルピア
(1米ドル=9,975ルぴア)
1人あたりGDP 682米ドル(’99) 34,228米ドル
名目GDP 1,975米ドル(’99) 4兆3,469億米ドル

(外務省ホームページ、「知恵蔵2000」をもとにして再構成)


 国家の生成に関しては、さまざまな世界文明の影響を受けてきたとされている。インドネシア人の祖先は、紀元前2,500年から紀元前100年までの間に東南アジア本土から移住してきたマレー人であると言われている。そして、インド文明の影響は、紀元後400年ごろから始まっている。特にインド文明の影響は、ジャワ島、スマトラ島、およびカリマンタン島にあった旧王朝に残っている。ただし、インドの植民地には今までなったことはない。13世紀初頭に交易を通じて、ジャワ島、そしてスマトラ島にイスラムが渡来し、のちにそれぞれの王がイスラム教に改宗した。その後、15世紀には主流を占める文化となった。さらに中国文化およびヨーロッパ文明の影響を強く受け、現在のインドネシアができあがったのである。
 3世紀にわたって植民されていたが、インドネシア共和国は1945年、日本およびオランダからの独立を宣言した。独立後の10年間は、植民地化を続けようとするオランダと、連合国から独立を保持しようとするための戦闘が続いていた。1949年になってようやくオランダ政府は、新たに建国されたインドネシア共和国政府に主権を委譲した。そして1950年9月28日に国連に加盟した。
 1950年代初めから1960年代にかけては、経済的にも政治的にも発展せず苦しい状況だった。1967年に、初代大統領スカルノはスハルト将軍に権限を委譲した。この後30年間に渡ってスハルト政権は維持された。彼の政権は「開発独裁」の政権と呼ばれた。それは、先進国から巨額の援助を受け取り、大型開発プロジェクトで経済成長を実現して政権を維持するという体制であった。年平均6.7%経済成長、米の自給、貧困層縮小など、目覚ましい成果を上げた。
 1997年7月にタイから始まった通貨危機が、8月にインドネシアを直撃し、最大の打撃を受けた。上場企業の倒産が相次ぎ、物価も急上昇し、経済社会は非常に混乱した。このような中で、民衆はスハルト政権の縁故主義と汚職を糾弾し、1998年5月12日には国軍による学生射殺事件も起き、ジャカルタは収拾のつかない混乱状況に陥ってしまった。こうして、32年間続いたスハルト政権は退陣せざるをえない状況になり、5月21日にハビビ新大統領に政権が委譲された。ハビビ新内閣はスハルト一族や側近を排除し、政治犯の釈放、言論・結社の自由化、金融再編などの改革を進めたが、経済再建は成果をあげられなかった。その後1999年10月にアブドゥル・ラフマンワヒド氏が第4代大統領として選ばれたが、わずか1年9ヶ月でワヒド体制も崩壊し、2001年7月に故スカルノ初代大統領の長女メガワティ副大統領が第5代大統領に就任した。
 このように、現在のインドネシアは、政治的にも経済的にも、非常に混乱している状況である。

2)インドネシアの障害者
 インドネシアにおいては、障害者とは、身体・精神上にハンディキャップを有するために、生活やその他の活動に困難をもっている人々であると定義されている。具体的には、政府によるサービスの対象となるのは、身体障害者、知的障害者、視覚障害者、聴覚障害者、および慢性疾患患者である。1991年に行われた政府の人口調査によると、全人口の3.11%である574万263人が、障害者であると推定された(国際協力研究所 1997)。その内訳は、身体障害者が27.3%、視覚障害者が28.9%、聴覚障害者が10.0%、知的障害者が12.8%、もとハンセン病患者が21.0%となっている(ニノミヤ 1999)。しかし、障害を恥や罰と考え、家に障害者がいることを隠そうとする家族も多いので、実際にはもっと障害者がいるのではないかと推定されている。そのうち、全障害者数の6割強が医療の利用が難しい村落に住んでいる。医療機関が都市部に集中しているからである。ゆえに、医療機関からのサービスを受けている障害者は、全障害者数の1割にも満たない。
 インドネシアには、障害者団体がいくつかある。中でも特に有名なインドネシア障害者協会(Indonesia Disabled Peoples’ Association)は、1987年に創設された、障害者の全国団体である。この団体は、ボランティア団体の協力を得ながら啓発キャンペーンを行うなど、積極的な活動をしている。盲人連盟(Federation of the Blind)、身体障害者連盟(Federation of the Physically Handicapped)、聴覚障害者協会(Association of the Hearing Impaired)、精神障害者連盟(Federation of the Mentally Handicapped)、肢体不自由児協会(Foundation for Crippled Children)など、多くの当事者団体が会員となっている。また、これらの親の会も含まれている(中西・久野 1997)。

3)インドネシアにおける障害者政策 
 1945年に制定された憲法の第10章27条2項には、「すべての国民は、就労の機会と人間の尊重を考慮した生活水準を保障されている」と明記されている。しかし、その後長い間障害者に関する特定の法律は制定されず、それぞれの場面で適合する憲法など各種の法、規定に則っていた。しかし1997年2月28日、ようやく国会は第4号法律として、障害者法を採決した。そこでは、100人以上の従業員を雇用している企業では、従業員の1%以上の障害者を雇わなければならないことが定められている。もしこれに違反すれば、企業のオーナーは6ヶ月間刑務所に入るか、10万米ドル以下の罰金を支払わなければならないという罰則規定がある。この点で、この障害者法は非常に画期的であるといえる。しかし実際には、この法律はまだ完全に施行されている状況ではない。多くの機関や施設は、これらの法の存在さえ認識できていないのが現状である。
 インドネシア政府では、社会福祉省(Ministry of Social Affairs)社会福祉局が、障害者問題を担当している。その組織を図3-1に示す。

                社 会 福 祉 大 臣
                     │
             ┌───────┴───────┐
             │               ├──┐
            監察長官             │  │           
         ┌───┴───┐           │ 官房長官            
         │       │           │         
       社会福祉局   社会更正局         │
         │              ┌────┼────┐
         │             社会援助局 │ 教育研修
      研究開発機構                 │  センター
                             │
                             │
                       県レベルの社会福祉局事務所
                             │
                       郡レベルの社会福祉局事務所
                             │
                     地区・市レベルの社会福祉局事務所

          図3-1 社会福祉省の組織
         (出典 仲村優一 一番ヶ瀬康子 世界の社会福祉3 アジア 1998 p171)


これらの行政組織は、業務が未分化であり、また、中央集権的であった。しかし最近は中央集権ではなく地方分権が目指されている。社会福祉省には、障害者社会福祉調整委員会(Coordinating Team for the Social Welfare of Disabled Persons)が設置されており、そこに政府の関係省庁やNGOの代表が参加し、障害者に関する法律の制定や、行政政策を諮問することが、重要な仕事となっている。この委員会に参加している政府省庁には、保健省、教育文化省、労働省、社会福祉省などを含めた、計11省庁の専門官がいる。
 1996年のデータによると、政府は社会福祉全体予算140億9,837万7,000ルピーのうち、27億4,620万5,000ルピーを障害者関連予算にあてた。これは政府全体予算の19.5%にあたる(国際協力研究所 1997)。
 政府としては、CBRの推進、リハビリテーション・センターが不足している地域への障害者社会福祉の推進、民間のリハビリテーション・センターの設置の促進、社会リハビリテーションの質の向上、リハビリテーション・センターおよび人員の質の向上、政府内の社会福祉組織の調整促進などを、障害者施策の中に盛り込んでいる。
 社会福祉基本法(No.6/1994)によると、地域社会は社会福祉問題を解決する第一義的役割を期待されている。また、政府は政策決定に責任を有さねばならない。したがって、地域社会で行われる活動はすべて、政府の社会福祉政策に即したものでなければならないということになる。インドネシアには多くの社会福祉系のNGOが存在する。1993年のデータによると、障害者福祉関係のNGOが376団体、孤児に対する福祉関係のNGOが2,287団体、非行少年および薬物濫用者関係のNGOが21団体、社会的障害者関係のNGOが25団体、そしてCBR関係のNGOが1,256団体で、残りの522団体はその他のサービス関係のNGOとなっている(仲村・一番ヶ瀬 1998)。インドネシアでは、NGOと政府機関とは緊密な連携を保っているとされる。政府機関とNGOが協力関係を保ちながら、両者で社会福祉関係の機関・団を統制し、最終的には住民を統制していく。その関係を図3-2に示す。

     ≪政府サイド≫                    ≪NGOサイド≫

      社会福祉局     ‐‐‐全国レベルの協力--‐  全国社会福祉協議会
        ↓                          │
    県所在の社会福祉局                   社会福祉活動
         事務所    ‐‐‐県レベルの協力‐‐‐    調整委員会
        ↓                          │
    郡所在の社会福祉局                      │
        事務所     ‐‐‐郡レベルの協力‐‐‐   社会組織連絡会
        ↓                          │
   郡担当ソーシャルワーカー                    │
        ↓                          │
  地区担当ソーシャルワーカー ‐‐‐村レベルの協力‐‐‐  村落情報交換機関
                                   │
                               青年団・婦人団体

                  地域(個人・団体)
                                         ↓:命令系統
                                         |:協力系統
       図3-2 政府機関とNGOの関係図
      (出典 仲村優一 一番ヶ瀬康子 世界の社会福祉3 アジア 1998 p178)

 各地方にはプスケスマス(Puskesmas:保健所)やその支部が設置されている。1つの保健所の平均管轄人口は、約3万人であり、開業医、助産婦、看護婦、栄養士、歯科医師、歯科衛生士などの専門家が巡回している。
 国レベルでは、大きな国立リハビリテーションセンターが2カ所あり、各州1カ所にリハビリテーションセンターがある。54都市を含む246郡のレベルでは、職業訓練や障害者のリハビリテーションの地区センターがある。また、3,715地区にある地方自治体レベルでは、障害者や訓練を受けた障害者のリーダーが、ロカビナカリア(LBK:雑貨店)やバライ・アテアン(BLK:作業所)を運営している。農村地域にあるバライ・アテアンは、労働省が管轄している。バライ・アテアンは現場による職業訓練(On the job training)と就労を兼ね、障害者だけでなく、高齢者や貧困者等を対象とした施設である。6万7,448ある村では、村長が任命した5人のボランティアの開発ワーカーが働いている(ニノミヤ 1999)。
 環境面でのアクセスにおいては、障害者のことはあまり考慮されていないようである。公共施設でさえ、障害者のためにアクセスしやすいように設備されているところは少ない。中西の報告によると、ジャカルタとバンドンは比較的発達している方だとされているが、1994年のバンドンの調査では、大規模建築物のうち、病院の建物しか車椅子でアクセスできなかったし、信号のうち2つだけが、盲人用の音つき、有料高速道路にのみ、障害者用のスロープがあったという程度である(ADIホームページ)。

4)インドネシアのCBR
 インドネシアでは一般的に、CBRはILOのCBRの形態を継承している。ILOのCBRとよばれるものは、まず、ILOによる地域に根ざした職業リハビリテーションとして、1950年代の終わりに中部ジャワ州ソロ市にて始まった。そもそもの始まりは、1946年にリハビリテーションの大御所で、インドネシアにおける「障害者の父」といわれているスハルソ博士(Dr.Soeharso 1912−1971)が、独立戦争(1945−1949)での傷痍軍人を対象にしてリハビリテーションセンターを設立したことであった。このセンターが発展を遂げ、1948年にはこのセンターが保健省に移管されるとともに、サービスの対象が一般の身体障害者にまで広げられた。そして、1950年代に同センターは国連およびILOの援助を受け、総合リハビリテーション施設となり、医学的、職業的、および社会的リハビリテーション・サービスを、障害者に提供するようになった。そして1979年より本格的に、ILOによる地域に根ざした職業リハビリテーション・プロジェクトが行われた。
 そのシステムは、全国各州に1つずつあるリハビリテーション・センター(視覚障害専用リハビリテーション・センター、肢体障害専用リハビリテーション・センター、知恵遅れ専用リハビリテーション・センター、精神障害専用リハビリテーション・センターなど)を活用し、トラックに理学療法器具などを積んだ移動リハビリテーション・ユニット(MRU:Mobile Rehabilitation Unit)をつくり、村々を巡回していくというものである。
 移動リハビリテーション・ユニットは全国に計28ユニットある。このユニットのトラックの中には、日本の海外経済協力基金(Overseas Economic Cooperation Fund:OECF)および国際協力事業団(Japan International Cooperation Agency:JICA)の寄贈によるものもある。そのトラックには医師や理学療法士、医療ソーシャルワーカーなど20名ほどの専門家が乗る。1週間の旅で約4つの農村をまわる。移動リハビリテーション・ユニットが去るときは、村の人たちと事業継続資金の計算と、資金作りの話し合いをする。開会式では補聴器や杖、ブレーキのない車椅子などの贈呈を行うこともあった。具体的な活動内容は、公民館などで直接障害者に短期職業訓練を行ったり、ボランティアを募って医療、経済、教育などのコンサルテーションを行ったり、障害に関する啓発活動を行ったりして、障害者を支援する人材を育成したりすることである。短期職業訓練では、数週間から数ヶ月間にわたって、ミシン縫製や竹細工などの訓練をした。そして3〜4人でグループをつくり、交替で使うことのできるようにミシンを与え、障害者が働くことのできるロカビナカリアを村の中につくった。
 ロカビナカリアでは、10人程度の障害者が働くことができるようになっている。これらは、障害者の経済的向上を目指し、一定の収入を得させることで、家族の経済負担を軽減することを目標にしている。この形式は政府によって継続されている。ロカビナカリアは、各郡に建物がある。全国に179カ所ある授産所で、3ヶ月間にわたるリハビリテーションを行う。ボランティアのワーカーが、訪問調査や職業訓練、ガイダンス、識字教育、そして啓発活動などを行っている。それは、障害者が制服の縫製、手工芸、ニワトリやアヒルの飼育、ラジオや自転車の修理、床屋、小物店、下請けの自営業などを始めることができるようにすることを目的としている。初めにスラウェシ島のゴワ(Gowa)、ジャワ島のプロボリンゴ(Probolinggo)、ロンボク島のプラヤ(Praya)、スマトラ島のパレンバン(Palembang)の4ヶ所で、試験的なプロジェクトが実施された。
 また、ロカビナカリアではカバーできないリハビリテーションの知識や技術は、移動リハビリテーション・ユニットの専門家による技術で補っている。ロカビナカリアや施設でリハビリテーションを終えた障害者のために、小規模共同作業所であるKUPがつくられた。KUPは全国各州に4,040あり、それぞれ5名から10名の障害者が働いている。開業に必要な器材購入のために資金は、社会問題省から出る。障害者たちは雑貨店や車椅子の製造、電気修理、マッサージなどの店や作業所を開いて就労している。
 このようなロカビナカリア、移動リハビリテーション・ユニット、それに加え、障害者による共同作業所のKUPという3つの要素からなる形式は、民間のCBRに対し、移動リハビリテーション・ユニット中心である政府のCBRの形式といわれている。政府が中心になり、特に東ジャワ、南スマトラ他4ヶ所で推進されている。しかし、全国に6万7,448もある村を巡回するのは非常に困難なことであるため、あまり効果を発揮していない。現在の移動リハビリテーション・ユニットのマイクロバス数では、1週間ずつの訓練でも数年に1回の訪問ができるだけである。そこで、村レベルではなく、3,715もある郡レベルで実施する方が望ましいとして、対策を検討しているところである。また、ロカビナカリアは社会福祉省ほか、関係省が費用を負担することになっているが、実際にはあまり負担していないようである。
 ロカビナカリアは全国に179カ所、移動リハビリテーション・ユニットが28ユニットある。NGOが運営する共同作業所は、全国各州に4,000以上あると推定されている。しかし、作業所によっては活動していないところもあり、共同作業所の責任者のマネージメント技術にはかなりの差があるようである。地方における村の作業所では、ミシンによる服の縫製や、食器づくり、アヒルやニワトリの飼育、電気製品の修理などの作業を行っている。また、村レベルでも、NGOが共同作業所を運営している。社会福祉省、労働省の双方から資金援助を受けたり、他のNGOから援助を受けたりして、障害者が働くことのできるように運営している。
 また、村レベルでポシアンドゥ(Posyandu:住民参加を主体とした乳幼児と妊婦のための健診システム)が行われている。ポシアンドゥは、1977年に前身ができ、1985年に設立された、住民主体の民間組織であり、プスケスマスが保健費を出している。ポシアンドゥは、全国津々浦々の村ごとにつくられている。村の5歳未満の子どもを中心に、毎月1回、村役場などの集会所で体重測定、栄養指導、予防注射などをしている。その活動の中に、障害等の早期発見、早期予防をするシステムがある。これらの住民による健康組織と移動リハビリテーション・ユニットが連携すると、効率的で、地域に根ざしたリハビリテーションが行われることになる。現在、全国約20万ヶ所でポシアンドゥが行われている。
 このように、全国、州、郡、村の各レベルにおいて、地域に根ざしたリハビリテーションシステムができあがりつつあるが、1992年の政府発表では過去20年間のうち、全障害者のたった13%しかリハビリテーションを受けることができなかったと報告されている(ニノミヤ 1999)。多くの人口を抱えた国の島のすみずみにまで、その効果が完全に及んでいないのが現状である。

第4章 CBR開発・研修センターにおけるCBR

1)CBR開発・研修センターの概要
 CBR開発・研修センターはNGOであるインドネシア障害児ケア協会(YPAC)の一部である。このインドネシア障害児ケア協会は、スハルソ博士によって1953年に設立された。この頃インドネシアで流行していたポリオや脳性マヒの子どもたちのために、サービスの提供や、親の会の育成などを行っていた。この協会に所属するハンドヨ・チャンドラクスマ博士が、1978年に遠隔地のリハビリテーションとして、インドネシア中部ジャワ州ソロ市を中心に在宅訪問を始めた。それまでの取り組みでは、医療サービスへのアクセスが困難な、農村部に住む障害者が、どうしても取り残されてしまい、サービスを受けることができなかった。そこでこのような状況を考慮し、農村部での障害者問題解決の手段として、CBRの開発、そして実践に取り組み始めたのである。これがCBR開発・研修センターの活動の始まりである。彼はインドネシア国内で初めて、CBRに着手した人物である。
 彼は1978年にウォノソボ郡、バンジャラナガラ郡、カランガニャ郡の3つの郡で初めてCBRプロジェクトを実施したが、この活動は成功し、1982年には、村落部に取り残されていた大人までをも対象としたCBRが始まった。1985年にはCBRプロジェクトの地域を拡大した。また、CBRプロジェクトの中に、障害児の早期発見・療育に携わる人材へのトレーニングを取り入れながら、CBRの概念、そして基本的な実践方法を構築していった。また、同年Western Pacific Cerebral Palsyの国際会議も主催した。それ以後はボランティアを中心にサービスを提供しながら発展を続けた。1986年には中部ジャワ州のスコハルチョ郡、マクラン郡、クラテン郡、ウォノギリ郡、バンジャラナガラ郡、ウォノソボ郡、カランガニャ郡、スラゲン郡、クロンプロゴ郡、バントル郡の10郡でCBRプロジェクトを開始した。1987年には、インドネシア障害児ケア協会のヘッドオフィスとして、ソロ市に、CBR開発・研修センターの施設が設立されることが決まった。そして1989年にスハルト大統領夫人の寄付で、オフィスとトレーニング施設をオープンさせた。

                  施設長
                   │
                   │
         ┌─────────┼──────────┐ 
       予算部   プロジェクト・マネージャー   事務部
                   │
    ┌───────┬──────┼────────┬───────┐
  個人援助    研修部門    地域社会    フィールド    調査研究
部門               教育部門    ワーカー部門    部門
     
                        図4-1  CBR開発・研修センターの機構
                      (出典 中西由起子 障害者の社会開発 1996 p82)


1991年からは、毎年CBR創始者世界会議(INTERNATIONAL CBR INITIATOR’S WORKSHOP)が開かれ、例年20ヶ国、40名ほどが参加している。1992年にはWHOにCBRの実践、コンセプトの構築を評価され、CBR開発・研修センターは笹川アワードという賞を受けた。1994年に中部ジャワ州のカランガニャ郡、クラテン郡、ボヨラリ郡、グロボガン郡、バニュマス郡の5つの郡でCBRプロジェクトを開始した。1995年にCBRのマニュアル18冊を発行し、障害児早期発見のポスターを作成した。1996年には、第1回アジア・太平洋CBRHRDフォーラム(CONFERENCE FORUM OF RESOURCE GROUP CBR HUMAN RESOURCE DEVELOPMENT IN ASIA AND THE PACIFIC REGION)、同じく第1回PARTICIPATORY TRAININGを主催し、1997年にも第2回アジア・太平洋CBRHRDフォーラム、第2回PARTICIPATORY TRAININGを開催するなど、アジア太平洋を中心とした国際的な活動にも精力的に取り組んでいる。また、日本、カナダ、イギリス、オランダ、タイなどを初めとして、国際的な協力関係を保っている。たとえば日本を例にあげると、TOY工房どんぐりという団体は障害児のための遊具を製作し、CBR開発・研修センターに提供しているし(原 2000)、日本理学療法士協会は1993年から1997年まで、毎年3ヶ月間にわたって理学療法士を同センターに派遣し、理学療法の技術指導など技術協力プログラムを行っている。このように日本とのつながりは特に深く、日本財団、国際医療技術交流財団(JIMTF:Japan International Medical Technical Foundation)、ジャカルタ・ジャパン・クラブなどは財政的、および技術的交流を行っている。また、CBR開発・研修センターはバングラデシュの4つの民間団体と協力し、バングラデシュへのCBR導入を進めており、特に人的資源開発を担当している。このように、途上国間での技術協力も積極的に推進している。
 ソロ市にあるオフィスとトレーニング施設は、5,000平方キロメートルの敷地内にある2階建ての建物である。その中には研究室、宿泊室、講堂、施設長室、フィールド・ワーカー室、事務室、ミーティングルーム、トレーニングルーム、ダイニングルームなどがある。21部屋ある二人用宿泊室と、7部屋ある3人用宿泊室、ミーティングルームと講堂は、CBR開発・研修センターを運営していくための資金の足しにするために、他の機関などに有料で貸し出している。CBR開発・研修センターの機構を図4-1に示す。現在は医師1名、理学療法士1名、作業療法士1名、ソーシャルワーカー2名などを含めた、総勢33名のスタッフがおり、車椅子用のバスも配備されている。

2)CBR開発・研修センターの活動
 CBR開発・研修センターでは、CBRを「障害を予防するため、そして障害者の生活の質を改善するための地域発展プログラム」であると定義している。CBR開発・研修センターでは、CBRをリハビリテーションというより、むしろ地域社会発展の手段となるものと考えているのである。障害を医療の問題と捉えるのではなくて、社会の問題であると捉えているからである。それゆえ、障害者が社会活動に参加できるようにすることを目標としている。まずは地域住民が障害者問題に対してどのような要望をもっているのかを把握し、それを組織化することから始める。そのことで、障害者を含めて地域全体が、障害者問題解決の主体となる地域社会を築き上げることを目指しているのである。CBR導入時には、サービスの受益者が障害者本人だけではなくて、障害者自身も含めた地域社会全体となるように進めていく。また、施設や専門職による医療やリハビリテーションの位置付けも、CBRに必要な一つの要素として考えられている。農村部では対応が難しいケースのリファーラルなどのサービスも、CBRに包括されるとものとして捉えられているからである。
 ここでは、信頼できる活動状況の情報が入手できた、1990年代半ばの現状を記述する。
 障害者・障害児への機能回復訓練を含めたリハビリテーション・サービスは、CBRの導入期には、フィールド・ワーカーが活動の中心的な担い手であった。1994年2月には有給のフィールド・ワーカーを雇った。計11名のフィールド・ワーカーがおり、そのうち2名が障害者であった。彼らの任務は、障害者問題を解決するための意識変革や、知識・技術の導入、活動推進の中心となる村のCBR委員会の組織化、リファーラルのための各種施設・団体との連携づくり、具体的なサービスの提供などを行うことである。彼らは村に3年間住み込んでCBRを村に普及させ、3年経った後はCBR活動を村に委譲するために、村から離れてCBR開発・研修センターから3ヶ月ごとに村落訪問をする形をとる。現在、フィールド・ワーカーはCBR委員会の相談を受けるなど、CBRを裏から支える促進者的役割も担うようになっている。
 1996年にCBR開発・研修センターと1年間の有給契約によって、12人のリハビリテーション・フィールド・ワーカーが採用されてからは、障害者へのリハビリテーション・サービスはリハビリテーション・フィールド・ワーカーが担うことになった。その後、1997年には契約期限が切れたため、活動形態が、有給制からボランティアに変わり、現在は村に住んでいる住民の中でも、リハビリテーションや障害者問題に興味のある人たちが、ボランティアという形で活動している。現在、彼らの手によってリハビリテーション・サービスは継続して行われている。リハビリテーション・フィールド・ワーカーはCBR開発・研修センターから1年間、CBRに関することや障害者問題に関すること、そして理学療法、作業療法、言語療法など、基礎的なリハビリテーションに関する研修を受ける。そしてボランティアであるCBR委員や、障害者の家族などにリハビリテーションの指導をしながら活動している。
 障害児の早期発見活動は、CBR開発・研修センターによって実施された講習会をCBR委員が受け、彼らがポシアンドゥの中で実施している。
 フィールド・ワーカーはCBR活動全体の促進者であるが、リハビリテーション・フィールド・ワーカーは、CBR活動の一つである、医学的リハビリテーションの実行者であるといえる。
 CBR開発・研修センターでは現在、このようにリハビリテーション・フィールド・ワーカーの訓練をしたりするだけでなく、海外の実践者を招いて、ワークショップを開催するなど、活発な活動をしている。CBR開発・研修センターの当初の役割は土壌作りだったが、現在では活動の評価やフォローアップが多くなっている。評価やフォローアップは村落訪問をして、うまくCBRが実践できているかを調査しにいくという形をとっている。通常はフィールド・ワーカーと理学療法士が村落へと赴き、リハビリテーション・フィールド・ワーカーを含めたCBR委員が抱えている問題の相談を受けたり、活動を促進したりしている。

3)CBR開発・研修センターが展開するCBR
 CBRプログラムを成功させ、持続可能なものにするには、地域社会の政府機関やNGO、障害者の自助グループをプログラムに導入していく必要がある。CBR開発・研修センターは政府、障害者の自助グループ、同様の問題で働いているNGO、既に地域社会に基礎構造をもっているNGOと密接に協力している。CBRの開発と実施において、全部門での密接な協力が必要不可欠なのである。
 まずCBRプログラムを実施するために、CBR開発・研修センターは1日ワークショップを開く。これは、共通の理解を確立し、CBRプログラムの計画を発展させるために行われる。このワークショップは郡と小郡レベルで行われ、通常は地方自治体の施設で開催する。
 次に地域社会の障害者のさまざまなニーズを理解するため、その地域の生活様式、地域社会の障害認識、既存の資源、障害者の考え方など、さまざまな情報を集める。地方自治体とCBR開発・研修センターがこれを進めていく。
 そしてCBR委員会を設立させる。メンバーは地方自治体代表、障害者の自助グループ代表などから成り、すべてボランティアである。CBR開発・研修センターは地方自治体とともに、CBR委員会メンバーに、障害問題、地域開発技術、リハビリテーションに関する訓練を提供する。障害者の自助グループの中から進行係や講師を提供している。訓練を受けたCBR委員会は問題を分析した結果に基づいて、年間計画を作成する。その計画は地方自治体の役人や地域社会メンバーにも伝えられる。
 これらの準備段階を経て、プログラム実行の段階に入る。障害者のニーズと地域社会の資源に基づいて地域社会で実行できるプログラムは、さまざまなものがある。各村で実践されている主な活動は多岐にわたる。障害児の早期発見(early detection)、リハビリテーション・フィールド・ワーカーが主に実践している、障害者・障害児への治療的なリハビリテーション・サービス(ダイレクトサービス direct service)、手術など村レベルでは対応が困難なケースの、適切な医療への照会(reference)、障害者・障害児への車椅子、平行棒などの自助具の給付(self‐help‐device)、障害者、または障害者・障害児をもつ家族が現金収入を得ることができることを目的とした所得創出支援(income generation)、障害児が普通学校に通うことを支援する統合教育(integrated education)、村・地区の住民への障害に関する啓発活動、CBRの運営に必要な資金の集金などである。CBR委員が構成するCBR委員会のミーティングは定期的に開かれ、ミーティングではその活動について話し合われている。1994年から1996年までの中部ジャワでのCBR活動をまとめたものを表4-1に示す。これらのCBR活動は、導入期、推進期を経て、継続期に入っている。現在CBR活動は村の人の手によって継続されている。
 活動の件数がもっとも多いのは所得創出プログラムである。障害者が収入を得られるように、マネージメント訓練を行うものである。このことから、障害者、および地域の第一のニーズが、経済面の向上であることがわかる。所得創出プログラムの内容は、ヤギやニワトリの飼育、電気製品などの修理、縫製などである。支援方法は、既に行われている仕事の発展、または、新たに仕事を始めるときに必要な資金援助である。
 次いで活動件数が多いのは、リハビリテーション・フィールド・ワーカーによる、障害者・障害児への治療的なリハビリテーション・サービスである。これは、リハビリテーション・フィールド・ワーカーが、直接障害者・障害児の家を訪問して、治療的なリハビリテーション・サービスを実施するものである。医療サービスの利用が難しい農村部に住む障害者が、農村部でリハビリテーション・サービスが受けられるという点が非常に優れている。地域での評価も高い。これは、地域が障害者について認識することにもつながる。たとえば、障害者・障害児の発見方法は、隣人からの報告がもっとも多いとされている。これは、隣人が障害者・障害児が近所にいることをリハビリテーション・フィールド・ワーカーに伝えるようになったということであり、障害者・障害児への認識が地域に根付いてきた証拠であるといえる。
 障害児の早期発見は、プスケスマスによって毎月運営されている、ポシアンドゥの活動で実施されている。発見した障害児の中で、手術が必要とされるケースの場合には、適切な医療機関へ照会し、治療費などの支援を村が行うこともある。早期発見の活動は、障害に関する啓発活動にもつながる。障害児の早期発見は、村によっては実施されていないところもあるが、その必要性は徐々に認識されてきている。
統合教育とは、教師への障害児に関する啓発活動を通して、障害児への受け入れを進める活動である。特別なニーズをもつ子どもたちを普通学校に受け入れさせることによって、教育の機会を提供するのである。このプログラムはCBR開発・研修センターと他のNGOによって始められ、指導され、国民教育局(Department of National Education)によって実施される。統合教育を受けている障害児数は18人で、内訳は、知的障害者が15人、肢体不自由者が3人である。また、統合教育のための講習を受けた教師は32人である(国際医療技術交流財団 1998)。今後、統合教育を進める小学校を大幅に増やしていく予定である。
 他にもさまざまなプログラムが行われている。たとえば「子どもから子どもへ(CHILD TO CHILD)」というものがある。これは保健や福祉に関して、学齢期の子どもを中心に、学齢期以前の自分の弟や、それ以外の地域社会の子どもたちに対して、子どもから子どもへと情報を共有する輪を広げていこうというものである(CBR開発・研修センター 1997)。障害児をそうでない子どもと集団活動させ、両者の早期の統合をはかる。このプログラムはポシアンドゥに統合されると効率的なので、CBR開発・研修センターではこのプログラムに取り組むポシアンドゥのワーカーを訓練している。
 CBR委員会はモニタリングと、プログラムの評価を行うために、定期会議を開いている。プログラム評価の結果は年に1回、地方自治体の役人と地域社会メンバーに通知しなければならない。
 CBR運営費は、村によってそれぞれの集金方法があるが、大体どの地域でも資金はkotak−RBMというCBR活動の募金箱や、町内会、隣組からの集金などから得ている。つまり、CBRプログラムは地域の理解なしでは運営できないのであり、町内会や隣組の会合時の啓発活動は、CBRチームの重要な活動であるといえる。

4)CBRの現状
 CBR開発・研修センターのCBRプログラム実践地域は、1978年に始まったものから1996年まで、数えて13の郡に及ぶ(国際医療技術交流財団 1998)。ここでは1994年にカランガニャ、クラテン、ボヨラリ、グロボガン、バニュマスの5郡の中にある、17の村・地区で実施されたCBRについて述べたいと思う。
 この17の村・地区では、人口は99,591人であり、そのうち大半の人々が農業従事者であり、イスラム教徒である。登録されている障害者は、623人である。その内訳は、302人(48.2%)が肢体不自由者、112人(17.9%)が聴覚言語障害者、100人(15.9%)が知的障害者、69人(11.0%)が視覚障害者、44人(7%)が口唇口蓋裂などのその他である。CBR委員の人数は309人で、現在はすべてのメンバーがボランティアである。そのうちリハビリテーション・フィールド・ワーカーは11人である(国際医療技術交流財団 1998)。それぞれの村で活動するCBR委員は10人から20人である。隣組組織の50ほどから村落は形成されていて、この隣組と村落会議で、村の問題が話し合われる。婦人会と診療所が共同で、ポシアンドゥや出張診察を、月1回のペースで開いている。助産婦の常駐する地域診療出張所のある村落もある。

     表4-1  1994年から1996年までの中部ジャワでのCBR活動
人・数\郡 カランガニャ クラテン ボヨラリ グロボガン バニュマス 合計
人口 10,219 8,606 16,442 38,625 29,699 99,591
(人) CC 55 83 39 52 73 309
DP 97 84 92 242 156 623
RW 2 2 2 3 2 11
サービスを受けている障害者 ED 4 5 14 6 29
DS 11 12 9 20 20 72
RE 3 2 4 4 2 15
SD 1 11 4 4 5 25
IG 23 27 32 64 29 175
学校数 IE 2SD 1SD 3SD
ミーティング数
(回/月)
1〜2 1〜3

(注)CC:CBR Cadre(CBR委員) DP:Disabled People(登録障害者)
   RW:Rehabilitation field worker(リハビリテーション・フィールド・ワーカー)
   ED:Early Detection(早期発見)
   DS:Direct Service(障害者への直接のリハビリテーション)
   RE:Reference(障害者の病院への照会)
   SD:Self-help Device(自助具の給付)
   IG:Income Generation(所得創出)IE:Integrated Education(統合教育)
   −:活動がない SD:小学校
(出典 国際医療技術交流財団 インドネシアCBR開発センターにおける医療協力活動 第五次専門家派遣報告書 1998 p22)

 フィールド・ワーカーは村に住み込んで活動するが、それぞれの地方にはそれぞれの言語があるため、言語がわからなくて困ることが多いという。また、それぞれの村で信仰されている土着の宗教が違うというのも、フィールド・ワーカーにとっては悩みの種となっている。中でも若い人たちは、なかなか村になじめず、寂しくてくじけてしまうこともあるという。また、地域社会の人たちはフィールド・ワーカーに、リハビリテーションや障害に関するさまざまなことを尋ねてくる。そのため、フィールド・ワーカーは常に、リハビリテーションに関するあらゆる知識をもっていなければならず、この点で苦しむフィールド・ワーカーも多い。
 中部ジャワ州のCBR活動によって、何らかの支援を受けることができる障害者数は、その地域に住む全障害者数623人のうち、53.6%にあたる334人であるとされている(国際医療技術交流財団 1998)。地域との関わりをもつ障害者を考慮すると、その数はもっと多くなると推定されている。
しかしCBRの知名度はまだ高いわけではない。中部ジャワ州でCBRを展開している地域の住民のうち、全体の約45%がCBRの概念を理解しているだけである。
また、3年間フィールド・ワーカーがCBRプロジェクトを推進した後は、村の人たちだけの手でCBRを続けさせていかなければならないが、地方自治体がなかなか力を入れてくれない場合が多く、財政的に苦しい状況に陥ってしまうことも多い。

第5章 考察

1) 開発途上国にとってのCBR
 以上開発途上国、中でもインドネシア中部ジャワ州に焦点をあててCBRについて述べてきたが、開発途上国にとってCBRという概念はどういう意味をもつのかを考えてみたいと思う。
 開発途上国では概して障害者に対する差別がまだまだ残っている地域が多い。また、障害者は教育や訓練の機会に恵まれず、意識も高くない。よって障害者は家の中に隠されることが多く、社会参加することが困難な状況にある。まず障害者に対する意識を変革する必要がある。CBRの概念においては、障害を個人の問題として捉えるのではなく、地域社会全体の問題と捉えている。また、CBRプログラムの運営には障害者も大いに関わることができる。CBRを導入することにより、障害者はもちろん、その家族、その地域の住民なども含め、地域社会全体で障害者問題を含む、さまざまな問題を解決していこうという姿勢が育まれ、地域社会全体をよい方向へ変革させることができる。この点でCBRは画期的であるといえる。
 しかし本当に障害者が社会参加できるようになるか評価するのは難しいだろう。ソロ市の例をとると、CBR開発・研修センターが村を離れ、村の人たちの手だけでCBRプログラムを推進していかなければならなくなった後が問題である。いくら定期的にCBR開発・研修センターから村落訪問という形をとって調査したとしても、そのときだけ障害者を外に出し、普段はまた家の中に閉じ込めているという可能性も考えられなくはない。ここに村の人たちだけに任せるというシステムの問題がみえてくるだろう。
 次に財政的な面から考えてみると、CBRは開発途上国において非常に有効である。CBRプログラムを実践することによって、新たな病院、施設をつくらなくても、住民たちの手で障害者問題を解決していくことが可能だからである。開発途上国では資源が限られているため、地域で必要なことだけではなく、自分たちでできることは何かを見極めることが大切である。そのためには、限られた資源の中で、さまざまな人や機関と協力しあって問題を解決していく姿勢を築くことが必要不可欠である。CBRはそれを実現させうる概念なのである。
 それでも地方自治体が限られた予算の中でCBRにその配分を大きく傾けてくれることはあまり期待できない。あまり地方自治体に対して財政的に頼りすぎるのは危険だろう。あまりに地方自治体に資金面で依存しすぎてしまうと、地域が自力で資金集めを行う力をつぶしてしまい、地域の人々は自分達が活動の主体であるという意識を持ちにくくなってしまうだろう。
 以上のように問題点はいくつかあるが、資源の少ない開発途上国にとってCBRは、うまくプログラムが行われれば、障害者問題を解決するだけでなく、地域社会を発展させることのできる、非常に有効な概念であるといえる。特にCBRは貧しくて、施設へのアクセスが難しい、交通の便の悪い場所で普及しやすい。島で医療施設へのアクセスが分断されたインドネシアのような島国では、特にCBRが普及しやすいだろう。

2) CBRを定着させるには
 障害者の多くが施設や専門機関のない農村部に住む開発途上国において、CBRは非常に画期的で効果的な概念であることがわかった。ではCBRを農村部に定着させていくにはどうしたらいいだろうか。CBR開発・研修センターの活動をもとに考察したいと思う。
 CBRを農村部に定着させるには大きくわけて、CBRを多くの人に理解してもらうことと、リハビリテーション・フィールド・ワーカーの技術をレベルアップさせることの2つがあげられるだろう。
 まずCBRをより多くの人に理解してもらうことが先決である。CBRを実践するには、地域の住民や既存の施設、NGO、障害者の自助グループ、地方自治体など、さまざまな人、機関との密接な協力が不可欠だからである。特に資金的な援助を得るためにも、より多くの人・機関にCBRを理解してもらう必要がある。タイから始まった通貨危機の影響をもっとも深刻に受けてしまったインドネシアは、現在も経済危機から脱することができないままでおり、非常に苦しい状況である。障害者は全人口の3.11%しかいないという理由から、政府は障害者問題をあとまわしにして、どうしても経済回復にばかり専念してしまう。このような状況の中で、第1節でも述べたように、地方自治体に資金面で依存しすぎるのはよくない。地域の人たちで資金を集められるようにする必要がある。そのためにも一人でも多くの人にCBRを理解してもらう必要があるのである。
 それでもまったく地方自治体に頼らないわけにはいかない。地方自治体にももっとCBRを理解してもらい、サポートしてもらう必要がある。そのためには村の人たち、中でも特に障害者自身が、政府に対して働きかけをしていく必要があると思われる。そのためには、障害者の自助グループがもっと強くならなければならない。自助グループが強化することによって、障害者が果たす役割が増大し、自己決定権の保障にもつながるのである。
 また、地方自治体だけではなく、地域社会全体にももっとCBRを理解してもらわなければならない。CBR開発・研修センターがCBRを展開している地域では、まだ住人のうち、45%しかCBRを理解していないのが現状である。フィールド・ワーカーが村に住み込む際に、寂しいと感じたり、リハビリテーションのことだけでなくさまざまなことを質問されたときに、うまく説明をできなくて落ち込んでしまったりするのも、CBRを理解していない住民がまだまだ多いことが原因なのではないだろうか。CBRを本当に理解しているのならば、フィールド・ワーカーをよそ者扱いなどせず暖かく迎え入れ、質問に完璧に答えられても責めることなく、一緒にがんばっていこうという気持ちが芽生えるはずであろう。
 しかし開発途上国の、しかも農村部では識字率が高いわけではない。1995年におけるインドネシアの成人識字率は、男性が90%、女性が88%である(萩原 2001)。特に農村部の女性は、識字率が低い。住民の識字率が低い状況でCBRを多くの人に理解してもらうことは難しい。このような状況を考慮して、CBRの導入には、指導という形ではなく、障害者問題が対話の中で村人に認識されていくことを目指すべきである。地域社会が指導によってではなく、自らが気づくことによって、土壌が作られ、活動を確かなものにする。
 また、フィールド・ワーカーが村を離れ、村の人たちの手だけでCBRを推進していく際に、CBRを理解していない人が少しでもいれば、CBRはうまく機能しなくなる。障害者に対する差別は、特に農村部では非常に根強い。村の人たちの手に任されることになった途端、障害者に対する差別が再び生じるかもしれない。そんなことが起きないように、障害の有無に関係なく、フィールド・ワーカーを含め、村に住むすべての人たちどうしが気軽に交流できる関係づくりを作っていく必要があるだろう。
 このように、地域社会が、自分たちの直面する問題に自ら取り組んでいくことができるように、地域づくりを推進していくべきだろう。たとえどんなに時間がかかっても、そのための支援をじっくり行っていくべきだろう。
 また、契約期間終了後も永続的にフォローアップしていく必要がある。3ヵ月ごとの村落訪問では不十分であろう。もっとフィールド・ワーカー職員を増やし、頻繁に村落訪問するべきである。フィールド・ワーカーを増やすにはより多くの資金が必要である。各世帯から集金したり、役場や村の寄り合いで募金箱を置いたりするなどの工夫が必要であろう。そのためにもCBRを住民一人一人に理解してもらうことが必要不可欠なのである。
 そして次に、リハビリテーション・フィールド・ワーカーの技術をレベルアップする必要がある。リハビリテーション・フィールド・ワーカーは、単に医療的なリハビリテーションを提供するだけではなく、障害者と地域社会を結ぶ架け橋となり、地域社会を活性化していかなければならない。そのためにも、リハビリテーション・フィールド・ワーカーの人材育成にも力を入れなければならない。優秀なリハビリテーション・フィールド・ワーカーの存在は、その地域のCBRの継続的な活動にもっとも必要なものだといえる。なぜなら、フィールド・ワーカーがその村を離れている間、つまり、初めのCBRプログラム導入期間以外のほとんどの時間、実際にCBRを推進していくのが彼らだからである。
 では、人々にCBRへの理解をよりもってもらう、また、優秀なリハビリテーション・フィールド・ワーカーを育てる、という問題の解決法として何が挙げられるか。それは、深い専門知識と、地域の中でCBRを根付かせるノウハウを持った、優秀なフィールド・ワーカーの育成である。そこで私は、大学での「フィールド・ワーカーコース」の設置を提案する。現在、フィールド・ワーカーになるための条件としてあげられているのは、大学を卒業しているということだけである。しかしそれでは、彼らは障害者やリハビリテーション、地域社会への溶け込み方などの知識やノウハウを持っておらず、CBR活動としては非常に効率が悪いし、彼らに優秀なリハビリテーション・フィールド・ワーカーを育てることができるとは思えない。そこで、今後は大学の中にフィールド・ワーカーを育てるため専門のコースを設置し、専門知識はもちろん、住民からCBRプロジェクトへの理解を得るノウハウ、またCBR資金を集める方法、リハビリテーション・フィールド・ワーカーの育成法などをマニュアル化して教育すれば、その先のCBRプロジェクトの活動も効率的に行われるようになるであろうし、CBRプロジェクトの地域への浸透度もあがるようになる。
 この大学でのフィールド・ワーカーの育成には国だけでなく、NGO、WHOの協力も欠かせない。国やWHOがそのコースへの資金的な援助を行い、学費を安くする、もしくは無料にしてしまえば、多くの若者が入学希望者として集うであろうし、またNGOからは実際にフィールド・ワーカーとして働いている者を講師として迎え、実際の活動の中から得た経験やデータを授業に活かせば、それだけレベルの高いフィールド・ワーカーを輩出することができるようになるのである。
 1970年代後半に始まったCBRプログラムの理念、考え方はすばらしいものだといえる。しかし、実際にCBR活動を行っていくのは人である。優秀な人材抜きにしてプログラムの成功はありえないのである。
 今後ますますCBRは広がっていくと予想される。何より注意しなければならないことは、リハビリテーション・サービスの場を医療施設から村落にただ移転するだけのではなく、地域社会が継続性をもって実行でき、地域社会自身で障害者問題を解決できるように支援することを目指さなければならないということだろう。また、CBRが広がりうまく機能しているからといって、IBRをおろそかにしてはならない。医療機関での治療やリハビリテーションは欠かすことが出来ない要素であるのだから、CBRとIBRをうまく併用していくことが望ましいであろう。そのためには、医療機関のCBRへの協力が必要である。医療機関への呼び掛けは、行政が積極的に行うことが望ましいだろう。

謝辞
この論文を書くにあたり、多くの方の支援を受けた。忙しい合間をぬってわざわざ私に会うために大阪に来てくださったジョナサン・マラトモさん、CBRに関することだけでなくさまざまなお話をしてくださったADI(アジア・ディスアビリティー・インスティテュート)の中西由起子さん、CBR講演会に誘ってくださったり、さまざまな資料を提供してくださったりした渡邊雅行さんに、この場を借りて感謝の意を表したい。

文献一覧
・ADI(アジア・ディスアビリティー・インスティテュート)ホームページ
 http://www.din.or.jp/~yukin/
・朝日新聞社 2000 知恵蔵2000
・CBR開発・研修センター 1997 CBRその考え方と実践 社団法人日本理学療法士協会・国際部
・CBR研究会ホームページ
 http://member.nifty.ne.jp/CBR/index.html
・外務省ホームページ
 http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/indonesia/data.html
・国際医療技術交流財団 1998 インドネシアCBR開発センターにおける医療協力活動 第五次専門家派遣報告書
・国際協力総合研究所 1996 平成7年度国民参加型協力推進基礎調査「障害者の国際協力事業への参加」(第1フェーズ)報告書
・国際協力総合研究所 1997 平成8年度国民参加型協力推進基礎調査「障害者の国際協力事業への参加」(第2フェーズ)報告書
・萩原康生 1996 アジアの子どもと女性の社会学 明石書店
・萩原康生 1995 アジアの社会福祉 中央法規
・萩原康生 2001 国際社会開発  明石書店
・Handojo Tjandrakusuma 1991 Conceptual Framework of CBR and Some Strategic Issues on it’s Implementation 
・原章子 2000 「途上国の障害児ケアの活性化プログラム」 研究助成論文集 安田生命社会事業団 238−241頁
・稲葉一洋 2000 地域福祉の視点 高文堂出版社
・Irwanto,PhD 2001 PERSONS WITH DISABILITY IN INDONESIA  平成13年度環太平洋社会福祉セミナー発表資料 東京
・Jonathan Maratmo IMPLEMENTING CBR THROUGH COMMUNITY DEVELOPMENT APPROACH CBR-DTC
・小林明子 1995 アジアに学ぶ福祉 学苑社
・間苧谷榮 2000 現代インドネシアの開発と政治・社会変動 勁草書房
・中村安秀 インドネシアの障害者対策、経済危機後のインドネシアの保健医療 NIRA(総合研究開発機構) (印刷中)
・中村安秀 1991 「インドネシアのプライマリー・ヘルス・ケア(第1報)プライマリー・ヘルス・ケアとは何か?」 小児保健研究 89−94頁
・中村安秀 総論、経済危機後のインドネシアの保健医療 NIRA(総合研究開発機構) (印刷中)
・仲村優一・一番ヶ瀬康子 1998 世界の社会福祉3 アジア 旬報社
・中西由紀子 1997 「アジア・アフリカの障害者」 季刊福祉労働76号 現代書館 12−19頁
・中西由起子 1996 アジアの障害者 現代書館
・中西由起子・久野研二 1997 障害者の社会開発 明石書店
・生瀬克己 2000 共生社会の現実と障害者  明石書店
・日本知的障害福祉連盟ホームページ
 http://plaza6.mbn.or.jp/~jlmr/JLNEWS/jl22.htm
・ニノミヤ・アキイエ・ヘンリー 1999 アジアの障害者と国際NGO  明石書店
・パドマニ・メンディス 2000 CBRの手引き 日本CBRネットワーク
・集英社 2001 情報・知識imidas2001
・高嶺豊 1993 「アジア太平洋障害者の十年−開発途上国に住む障害をもつ人々の問題解決へ向けて」 季刊福祉労働60号 現代書館 14−22頁
・谷勝英 1991 現代の国際福祉−アジアへの接近− 中央法規
・山田陽一 2000 ODAとNGO 社団法人教育文化協会