カンボジアの地雷被害者支援の実体と展望


2000年度 学部卒業論文

津田塾大学 学芸学部 国際関係学科
菊池セミナー
弓削 陽子

目次

はじめに 

沛ヘ 地雷問題
1. 地雷とは何か
1) 地雷被害の現状
2) 地雷という兵器
 @地雷の目的A対人地雷B対人地雷の種類
3) 地雷除去
2. カンボジアでの地雷敷設の経緯
1) 概要と略史
2) 地雷敷設の経緯
3) 被害者となる人々

章 被害者支援の実態
1.被害者の置かれている現在の状況
  1)救急医療
  2)身体のリハビリテーションと補助器具
  3)社会的立場
2. 現在行われている支援活動 
1)赤十字国際委員会
2)日本政府
3)草の根レベル
@日本のNGO:日本・カンボジア交流協会
AカンボジアのNGO:リハブ・クラフト・カンボジア

。章 カンボジアに障害者福祉を定着させるには
1. 被害者側への対策
2. 受け入れ側への対策

おわりに

謝辞

参考文献表


はじめに
 カンボジアはヒマラヤ山脈から中国、ラオス、カンボジア、そしてベトナムを通って南シナ海へと流れるメコン川の流域に位置し、肥沃な土地に恵まれ、その豊かな土地を農業に生かしてきた。ところがベトナム戦争に巻き込まれ、続いて起こったカンボジアの内戦によって地雷に汚染された。このため、農業も思うように進めていけず、企業誘致をしようにも工場を建てることも困難な状況にある。このように地雷汚染は戦争の後遺症として国の経済的な立て直しにも深刻な影響を与えている。
 1999年の夏、ごく短い期間ではあったがカンボジアを訪れた。この短い滞在の間にも地雷で手や足を失った人を多く見かけた。人々は手や足を失うことで差別され、職を失ったり、家族をも失ったりする。高嶺は「アジア太平洋地域には、三億人の障害者が住むといわれている。その80%が農村地域に住み、その多くは経済発展から取り残されている。多くの障害者は家族の庇護を受けて生存し、中には乞食をせざるをえないものもいる」と報告している 。障害を持っても、自立的な生活を営むことは可能である。しかし、そのためには社会の支援がいくつか必要である。その必要な支援が整っていないために、貧困に陥る障害者は非常に多い。P.デービスは「切断者が偏見に打ち勝って社会復帰を果たすには、医療の改善、義足の供給、リハビリテーション、職業訓練、さらに障害者の権利、人間としての権利についての啓蒙と教育、障害者の自助組織の組織作りまでを全て一歩ずつ進めていってはじめて突破口が開ける。」と述べている 。毎年多くの人が地雷の被害にあっていることを考えると、地雷被害者に対する支援を充実させていく必要があると考えられる。
 本論文の中では、地雷が引き起こす様々な問題の中で、障害者となった人々への支援策、特に救急医療、義肢・リハビリテーションの提供、就労についての現状を見ていき、その展望を考察したい。障害者への支援策、そしてそれを含む福祉政策を改善し、充実させることは地雷による被害者に限らず、長期的に見ても全ての障害者に有益である。また、その支援策によって貧困者の発生を防ぐことができればカンボジア国家にとっても有益であると思われる。
 本論文では、沛ヘで地雷とは何か、そしてカンボジアで地雷が使用された経緯を述べ、続いて被害者に対する支援策について章で見ていく。。章では、カンボジアに障害者福祉を定着させるためにはどのようなことが考えられるのかを述べていきたい。

沛ヘ 地雷問題
1. 地雷とは何か
1) 地雷被害の現状
 現在、地球上では毎年2万4,000人もの人々が地雷という兵器の犠牲となっている。これを単純に計算すると20分に一人の割合で地雷による被害者が出ている計算になる。国連の発表では世界には1,900万個の地雷が埋まっているが、1年間に取り除かれる地雷は10万個であるという。これでは全ての地雷を取り除くには1,000年以上かかることになる 。しかも、地雷は現在も年間200万個から250万個というペースで埋められ続けているといわれている。カンボジアの対人口比の対人地雷被害者数は世界で最も多く、236人に一人(全人口の0.4%に相当)の割合で手足の切断を余儀なくされている。
2) 地雷という兵器
@ 地雷とは
 地雷とは、「地中や地表に置かれ、人や車両が近づいたり、接触することにより爆発する兵器」 であり、「一度埋設すれば生きた兵士の代わりとなり、24時間365日無休で防御が可能」 である。地雷の本来の目的は「敵の進軍を遅らせたり防御拠点を守るという軍事的なもの」 である。ところが第二次世界大戦後の内戦などでは、地雷を埋設することで敵の農業生産に打撃を与えたり、難民化を促すなどの非軍事的目的で使用されている。
 地雷という兵器は「疲れを知らない門番」ともいわれているように、50年から100年という長期にわたって効力を持ちつづける。埋設されてから実際に人に被害を与えるまでのタイム・ラグは、地雷の大きな特徴である。このため戦争が終わった地域でも、地雷が埋められているため元のように生活することができなかったり、それどころか難民となっていた人々が元の土地に戻ることでかえって地雷の被害者が増えてしまうこともある。タイム・ラグを示すデータがいくつかある。ヨーロッパでは第一次世界大戦中に埋められた地雷によりベルギー、フランスで現在も毎年10人前後の犠牲者が出ている 。第二次世界大戦で地雷が使用されたポーランドでも大規模な地雷除去が行われた後の1977年以降も毎年30人から40人もの犠牲者が出ている 。
 地雷が使用され始めたのは、アメリカ南北戦争(the Civil War:1861年から1865年)や、北ヨーロッパのシュレスウィッヒ・ホルスタイン戦争(Schleswig-Holstein:1863年から1864年)である 。地雷が使用されるようになってから1世紀以上が経っている。現在では地雷の研究開発も進み、製造は容易になり、安価な地雷は1個3ドルで購入できる。そのため、「貧者の守護神」という呼び名も持っており、安さ故に途上国が地雷を使用することが多い。
A 対人地雷
 地雷は、大きく分けると対戦車地雷と対人地雷とに分けられる。対戦車地雷は130キログラム以上の重みに反応して爆発し、対人地雷は子どもの片足程度の小さな重みにも反応する。この対人地雷は人を即死させるだけの力は持たず、あえて体に障害を残す程度の力に設定されている。戦闘中でも自分側の兵士がケガをすれば、手当てのために周りの兵士がケガ人を運び処置をする。つまり、ケガをした人数以上に戦力を減らすことができるのである。また即死しないように作られているため、ケガをして苦しんでいる仲間を見ることによって戦闘意欲を失わせることができる。神保は「人間にとって手や足を吹き飛ばされるということは、場合によっては命を奪われることよりも、より深い恐怖感を呼び起こす場合もあるようだ。」と記している 。さらに、負傷した兵士の救護、治療、リハビリやその後の生活保護のことを考えると、兵士一人を殺すよりもはるかに大きく長期的な負担を強いることができる。このような理由で破壊力を抑えてあるのである。
B 対人地雷の種類
 踏むと爆発する圧力式爆風地雷、信管から伸びたワイヤーにつまずくなどして圧力がかかると爆発する張力式地雷、爆発の瞬間、金属片や金属ボールが高速で飛び散る破片式地雷、威力を高めるために、予め設定された高さまで飛び上がってから炸裂する跳羅式(空中炸裂型)地雷と様々な種類の地雷が存在する 。
 新しい地雷も次々に開発されている。対車両地雷という、人と戦車と両方を狙うことのできる地雷も開発された。これは対人地雷と同じくらい小さな重みに反応して爆発するが、対人地雷とは異なり戦車を破壊するだけの力を備えている。従ってこの対車両地雷は人を殺害することが目的として使われている。
 一定期間を過ぎれば地雷についた自己不活性化装置によって自動的に効力を失う地雷も開発されている。これは、それまでの自己不活性化装置のついていない地雷を「バカな地雷(dumb mine)」とするのに対して、「スマート(賢い)地雷(smart mine)」と呼ばれている。しかしこの機能が正常に作動しない確率は30%ともいわれており、全く意味をなしていないといえる。地雷廃絶の方向に動いている中で、スマート地雷なら地雷の効果が自動的に失われるため、使用を許可してもいいのではないかという意見もある。しかし、問題は自己不活性化装置の有無や100%正常に作動するかどうかではなく、地雷が無差別に人を傷つける兵器であるということである。スマート地雷なら残してもよいのではないかという意見は地雷廃絶反対派の意見でしかない。その上スマート地雷は他の地雷と比べると値段が高いため、地雷が主に使われている途上国はこの意見には反対している。
3)地雷除去
 地雷の開発が進み、地雷の製造コストは一個300円から400円程度であるが、それに比して地雷の除去にかかる費用は一個当たり約10万円といわれている。地雷を除去するためには、人が金属探知器を使って地面の上を探り、探知器が反応したら地面を金属棒で少しずつ掘っていくという方法が最も多くとられている。これが現在のところ最も地雷を確実に除去できる方法なのである。手作業以外にも火薬のにおいに反応する地雷探知犬を使ったり、特殊な音響器を使ったりする方法もあるが手作業の方が確実に除去できる可能性が高い。そのほかにも、特殊ローラーのついた車で地雷原を走り回る、爆弾を打ち込んで地雷を爆発させる、などの方法があるがこうした方法が適用可能な場所は限られてしまう上、その場所の全ての地雷を取り除くことはできない。それゆえ結局その後に再び人が地雷探知器を使っての作業をすることになる。つまり二度、手間がかかるのである。さらに悪いことに、それらの方法で地雷除去が行われた土地では、残っている地雷の状態が半分だけ壊れた状態になったりと不安定になっていて、その後の手作業がより危険になる可能性がある。またプラスチック製の地雷も多く出回っているが、この地雷は使用されている金属の量が少ないため金属探知器のレベルもそれに合わせて高度にしなければならない。一方、金属探知機は地雷探知機ではない。つまり、地面の中に埋まっている金属片や土の金属成分にも反応する。地雷が埋められているということは、そこが戦場であったということであるから、当然通常よりも爆弾の破片など金属探知器が反応する物が多いということになる。金属探知器が反応するたびに地雷であるかもしれない可能性を考えなければならないから、少しずつ地面を掘っていき、探知器が何に反応したのかを調べなければならない。地雷探知器が反応する50回から100回に一回の割合でしか、反応の原因が地雷であることはないというデータもあるという。また神保はカンボジアでもタイ国境に近い西部の土地では「地質がラテライトという金属分を多く含んだ土からなるため、金属探知器が使えない」と報告している 。
 またアンチ・ハンドリング・ディバイス(除去を防止するための機能)のつけられた地雷も開発されており、除去はますます困難になってきている。傾きに反応する地雷、金属探知機の磁力に反応して爆発する地雷、ようやく地雷を見つけたときに地雷を持ち上げると、地雷の底部が光に反応する仕組みになっていて爆発する地雷などが挙げられる。また、敷設する際に、金属探知機を差し込む角度に地雷を設置することも行われている。これは地雷除去のとき金属棒でどこにあるかわからない地雷を探すために掘っていくときに作業をさらに困難にする。
 実際にデマイナー(deminer:地雷除去活動者)が防弾チョッキとヘルメットを着用して行う作業以外に、情報収集と地雷回避教育も重要な地雷除去の一環である。地雷が国中に敷設されているとはいっても、一度に全てを取り除くことができない以上、優先順位をつけていくしかない。まず、地雷原にはフェンスをつけて囲ったり、看板を立てたりして危険地域に人が足を踏み入れないようにする。そして、どこから地雷除去をするべきなのか決めるために、地雷や不発弾による被害状況を調べたり住民からの情報を集めたり、NGO同士や赤十字国際委員会とも情報を交換している。子どもの興味を引くようにと空から散布するタイプの地雷は色が美しかったりするため、子どもに対する地雷回避教育は重要となってくる。カンボジアでも国連児童基金からの資金援助を受けて子どもたちが地雷の被害にあわないようにと教育が行われている。
 地雷除去については、これからも国際機関や国際NGOの技術力を借りて地道に取り組んでいくことが必要になるだろう。対人地雷全面禁止条約が成立 し、この成立に貢献したNGOの代表がノーベル平和賞を受賞するなど国際的に地雷をなくす方向に向かっている。また、日本でもジオ・サーチ という企業が路面下空洞探査に対して開発してきた技術をもとに新型地雷探知機(マイン・アイ)が開発された。ジオ・サーチは路面下空洞探査技術を評価され、地雷の発見に活かせないかと国連DPKO地雷除去責任者ブラグデン氏に地雷探知技術開発の協力を打診された。さらに国連の推薦と外務省の要請で、国際地雷除去会議に参加したこれらがきっかけとなり、他のいくつかの企業と「人道目的の地雷除去支援を考える会(Japan Alliance for Humanitarian Demining Support:JAHDS)」 を設立し、現在も地雷探知機の開発に力を入れている。この地雷探知機が実際に地雷汚染現場で大きな活躍をするにはもう少し時間がかかるとのことだが、地雷除去に関する技術が大幅に進歩する可能性もあり得る。また、このように一般の企業が技術を人道目的に活用させるためにNGOを設立するという流れが起こっていることも評価に値すると思われる。

2. カンボジアでの地雷敷設の経緯 
1)概要、略史
 カンボジアはインドシナ半島の南東に位置し、タイ、ラオス、及びベトナムの3国と国境を接し、また西はシャム湾(タイ湾)に面している。国土面積は約18万平方キロメートル(日本の約二分の一弱)で、1999年現在人口は1,180万人 である。ポル・ポト時代の大虐殺で多くの男性が犠牲になったことと、高い人口増加率により(表1)人口の半数以上が20歳未満の青少年で、成人男性は人口の15%を占めるにすぎない。人口の8割以上が農業を中心とする第一次産業に従事している。1997年度の一人当たり国内総生産(Gross Domestic Products:GDP)は260ドル(表2)で、後発開発途上国(Least Developed Countries:LDC) の一つである。1993年の総選挙後、GDPは着実に伸びてきていたが、1997年の7月政変により、GDP成長率も鈍化し、1997年はわずかに1.0%、1998年は0%となった。

表1 人口増加率(%)
1990 1991 1992 1993 1994 1995 1996 1997 1998 1999
2.9 2.8 5.1 4.1 2.5 2.6 3.0 2.0 2.3 2.2
1990年から1994年 アジア経済研究所『アジア動向年報』1996年 p.276
1995年から1999年 世界銀行http://devdata.worldbank.org/external/  より筆者作成

表2 一人当りGNP(USドル)とGDP成長率(%)
1990 1991 1992 1993 1994 1995 1996 1997 1998 1999
一人当りGNP 250 250 250 260 260
GDP成長率 1.2 7.6 7.0 3.9 5.2 7.6 7.0 1.0 1.0 4.5

一人当りGNP 世界銀行 http://devdata.worldbank.org/external/
GDP成長率 1990年から1994年 アジア経済研究所『アジア動向年報』1996年 p.276
      1995年から1999年 世界銀行 http://devdata.worldbank.org/external/
                   より筆者作成

 1893年から続いたフランスによる支配から独立を果たした1953年以後、シハヌーク時代、ロン・ノル政権、クメール・ルージュのポル・ポト時代、ベトナムのプノンペン侵攻後に作られたヘン・サムリン政権と3派(クメール・ルージュ、シハヌーク派及びソンサン派)による連合政権が同時に存在していた時代と、カンボジアは紛争を繰り返してきた。ポル・ポト時代には100万人以上(一説には300万人ともいわれている)の人が虐殺された 。
 1991年10月包括和平合意文書である「カンボジア紛争の包括的な政治解決に関する諸協定」(パリ和平協定)が調印され内戦が終結し、1992年3月から一年半にわたる国連カンボジア暫定統治機構(United Nations Transitional Authority in Cambodia:UNTAC)による平和維持活動が開始された。1993年総選挙が行われ、同年9月新憲法が制定され 、ラナリットを第一首相、フン・センを第二首相に任命し、連立内閣が成立した。
 総選挙後カンボジアは国内の治安整備や経済に力を入れ、1995年7月には東南アジア諸国連合(Association of Southeast Asian Nations:以下ASEAN)のオブザーバーになり、また8月からASEAN地域フォーラムにも参加を認められるなど、国際社会へ復帰しつつあった。ところが1997年に「7月政変」 が起こった。この政変は国際社会の批判を浴び、97年7月に予定されていたカンボジアのASEAN加盟は延期され、国連代表権獲得も保留された。しかし98年に第二回総選挙が実施され、この総選挙が平和裡に行われたと評価されたことにより、99年4月にはASEAN加盟が実現した。更に同年クメール・ルージュ幹部の投降により同派は事実上消滅した。
2)カンボジアでの地雷敷設の経緯
 カンボジアではじめて地雷が使われたのは、隣国でのベトナム戦争 時であった。北ベトナムは、北ベトナムから南ベトナムへ物資を輸送するためのルートをカンボジア国内につくり、そのルートを守るためにルートに沿って地雷を敷設した。さらに北ベトナム軍がカンボジア領域を通って物資を輸送していることを知ったアメリカ軍は、その経路を遮断するためカンボジアにも空爆を開始し、空から散布型の地雷をばらまいた 。1970年にクーデターが発生し、シハヌーク政権が倒され、ロン・ノル政権が誕生したころからカンボジア国内の勢力争いに地雷が使用されるようになった。1975年からのポル・ポト政権下で都市無人化計画が断行されたが、この強制移動の手段にも地雷が使用された。1979年に、3年半に及ぶポル・ポトの恐怖政治はベトナム軍の侵攻によって終わりを迎えた。ベトナム軍は、ポル・ポト軍をタイ国境に追い詰め、再びカンボジア国内に戻ってこないよう地雷を使用した。一方、ポル・ポト軍はタイ国境付近のジャングルの中へと逃げ込んだ際に、これ以上攻めて来られないようにとタイとの国境線上数百キロメートルに渡って地雷をばらまいた。1979年、ベトナム支援のもとにヘン・サムリン政権が誕生したが、これはベトナムの傀儡政権であるとして国際社会はカンボジアへの援助を停止した。このため1989年にベトナム軍が撤退を決定するまでカンボジアはまとまった援助を受けることができなかった。長期にわたる内戦での疲弊に加えてポル・ポトによる大虐殺で人材不足に陥っていたカンボジアは、自国で地雷除去を進めることはできず、地雷は放置され被害者は後を絶たなかった。
 ベトナム戦争と同様、カンボジアの内戦は東西冷戦の影響を強く受けている。1975年に誕生したロン・ノル政権はアメリカの支援を受けていたし、ポル・ポト政権は中国からの支援を受けていた。そしてヘン・サムリン政権は、ベトナムの支援を受けていたが、そのベトナムの後ろにいたのは旧ソ連であった。したがって使用された地雷も支援国で製造されていて、カンボジアではあらゆる国で製造された地雷が見つかっている。また、タイ国境ではポル・ポトの恐怖政治から逃れてきた難民に対してNGOや世界食料計画(World Food Program:WFP)、国連難民高等弁務官事務所(Office of the United Nations High Commisioner for Refugees:UNHCR)による難民キャンプが設置されたが、タイ国境はポル・ポト軍の陣地でもあった。ポル・ポト軍は難民に対して行われる援助を横領し、その横領した援助で軍が潤っていたとされている。ポル・ポト軍にとって難民がタイ国境の難民キャンプから元の土地に帰還することは、財源を失うことであった。このため、難民がキャンプから逃げられないようにと難民キャンプの周りに地雷を敷設したり、元の土地に戻っても生活ができないように農地に地雷を埋めたりした。こうして戦闘上の必要性だけでなく、政権争いのためでもなく地雷は使用され、カンボジアの国土全体が地雷漬けにされていった。
3)被害者となる人々
 カンボジアでは、対人地雷の被害者の87%が成人男性であるという。しかし、この数値は生存者の数値である。子どもの犠牲者の85%は病院に運ばれる前に死亡しているといわれている 。兵士は地雷原をパトロールして歩くことが多いため、地雷の被害にあう確率も高い。しかし、兵士であれば単独行動は少ないため病院に運んでもらえる可能性も高い。一方、農作業中など単独で行動している民間人は、被害にあっても誰にも気づいてもらえず、そのまま病院にたどりつくこともなく、死亡率が高くなる。(図1、図2)それゆえ、地雷犠牲者の半数はその場でなくなっていると推測されている。

図1 ICRC病院に収容された対人地雷の犠牲者

出所 長『地雷問題ハンドブック』p.41

図2 負傷時の行動(ICRCデータベースより)
出所 長『地雷問題ハンドブック』p.50

章 被害者支援について
 沛ヘでは地雷汚染の現状についてみてきた。そして現段階では今すぐに地雷をなくすことは不可能であり、それゆえこれからも被害を受ける人が出つづけることは否めないことも述べてきた。従って地雷による被害者に対する継続的な支援活動を整えることは重要だと考えられる。被害者は障害を持つことで職を失い、差別を受け、自分自身の力だけで生活を営むことが非常に困難になる。章では地雷によって障害者となった人々が置かれている状況と、障害者に対して行われている支援活動の内容を見ていきたい。
1.被害者を取り巻く現在の状況
1) 救急医療
 対人地雷は設計上、人を即死させることはないため負傷そのものが致命傷とはならない。しかし実際には多くの人が命を落としている。カンボジアの10万人当りの医師数は58人と非常に少ない(表3)。さらに病院数が少ないことやインフラの未整備のため、治療を受けられるまでの時間がかかりすぎて手遅れになってしまうケースが多いためである。

表3 10万人当りの医師数・看護婦数
カンボジア 全開発途上国平均 先進国平均 世界全体
10万人当りの医師数 58 76 287 122
10万人当りの看護婦数 136 85 780 241
UNDP『人間開発報告書』1999年 p.195

 地雷でのケガは致命的ではないといってもその傷口はひどい場合が多い。地雷が爆発したときに地雷の破片や周りの草木がその傷口に食い込んでいて、骨がぼろぼろになっているため、手足の切断を余儀なくされることがほとんどである。ケガをしてからどのくらいの時間で治療を受けられるかによって、切断しなければならない部分が変わってくるため、なるべく早く治療が受けられるようにする必要がある。足の切断にしてもひざの関節を残すことができれば、義足を付けられるようになってからも、かなり自由に動けるようになるという。ケガをしても6時間以内に病院に到着して手術を受けることができれば、かなりの確率で死を防ぐことができるが、この6時間以内に手術を受けられる人は全体の25%にすぎない (図3)。

図3 被害者の病院到着までの所要時間 ICRCデータベースより
出所 長『地雷問題ハンドブック』p.45


2)身体のリハビリテーションと補助器具
 現在カンボジアでは、赤十字国際委員会やNGOによって義足が提供されている人々は義足を無料で受け取ることができるが、どれくらいの人々が無料でこのサービスを受け取っているのか、正確な数値はわからない。また、リハビリテーションに関しても義足がその人に合っているかどうかを確かめるため、無料でサービスを受けることができる。リハビリテーションを有料にしてしまうと人々はリハビリテーションを受けないだろうが、義足が合っていなければ手術を繰り返すことになってしまう。また義足というのは、傷口に当てる器具で、傷口が十分に治っていなければ使用することができない。それにせっかく治っても義足が合っていなければ治った傷口が再び悪化することになり、また切断を繰り返すことにつながってしまうから、そうならないようにとの配慮からこのサービスが提供されている。被害者は大人でも3年から5年に一度、子どもであれば半年に一度義足の取替えを行わなければならず、そのたびにリハビリテーションを受けなければならない。これは、例えば10歳の子どもの場合だと、その後40年から50年生きると考えても、一生のうち25回ほどの取替えが必要となる。義足は一つ約125ドルかかるが一生では約3,125ドルにもなる。これが大きな負担となることは明らかである。現在このサービスは、赤十字国際委員会に寄せられる寄付や各NGOによって行われている。
3)社会的立場
 カンボジアでは、多くの地雷による被害者がいるにも関わらず障害者に対する偏見が根強い。上座部仏教の影響のためか、現世での苦しみは前世での悪行の結果であるとして、障害を持っていることを他人に知られないように暮らしている人も多い。
 特に女性に対する偏見は厳しい。ポル・ポト政権下で虐殺された人の大半は男性であったため、カンボジア国内の人口構成の男女比は非常にアンバランスである。また、東南アジアの他の国と比べて識字率や就労において比較的男女差のある国で(表4)、女性は一人で自立して暮らすのが大変である。しかし男性が圧倒的に少なくなってしまったため、地方によっては一夫多妻制が黙認されているところもある。このような状況の中で結婚前の若い女性であれば結婚の可能性もなくなり、地雷の被害にあった女性は離婚されたり、未亡人であれば再婚の可能性もなくなるという非常に苦しい立場にある。

表4 ジェンダー格差
UNDP『人間開発報告書』1999年pp.167-1

成人識字率(%)1995年
女性 男性
カンボジア 53.0 80.0
タイ 91.6 96.0
マレーシア 78.1 89.1
インドネシア 78.0 89.6
フィリピン 94.3 95.0
ベトナム 91.2 96.5
ミャンマー 77.7 88.7
ラオス 44.4 69.4

2.現在行われている支援活動
1)赤十字国際委員会による取り組み
 赤十字国際委員会 (International Committee Red Cross: 以下ICRC)は、バッタンバンとプノンペンで補綴工場を設置、運営している。バッタンバンでは1979年から、プノンペンでは1991年から運営されており、プノンペンの工場には輸血バンク(blood bank)も併設されている。これらの補綴工場では義肢を製作しているが、義肢製作をしているのは障害者である。ICRCでは義肢製作の技術者を養成する際に、障害者の雇用の場を確保する目的で障害者に対して訓練を行っている。ICRCはカンボジアで使われている義肢の規格を統一し、2000年2月の報告では、1979年からこれまでに5,000以上の松葉杖と9,000以上の義肢を製作し、このうちおよそ80パーセントはカンボジアで活動するNGO(英のカンボジアトラスト、仏のハンディキャップインターナショナルなど大きな国際NGOも含む)に無料配布され、それらのNGOから障害者に届けられている。また、コンポンスプー州には、アメリカの赤十字によるリハビリテーションセンターがある。バッタンバンでは遠方から来る患者のために150人分の宿泊施設を用意し、彼らが安心して治療を受けられるように、往復の交通費も負担している。またこのセンターでも障害を持ったカンボジア人43人を雇っており地元の人々に雇用の機会を与えている。またICRCでは、患者のリハビリテーションにゲイト(gait:歩きぶり、足取り)トレーニングを取り入れているが、このトレーニングは義足をフィッティングすることと同様非常に重要である。現在このゲイトトレーニングのためにICRCでトレーニングを受けた6人のカンボジア人を物理療法師として雇っている 。
 また、ICRCは英のNGOであるMAG( Mines Advisory Group)と提携して、カンボジア人のデマイナー(地雷除去活動者)を養成している。デマイナーの多くは自身が地雷による被害で障害者となった人か、夫を地雷でなくした未亡人である。
 ICRCの本来の目的は戦時救済である。そのためカンボジアのICRC本部は1999年をもって閉鎖され、現在は東南アジアを統括するタイのバンコク支局の管轄地域である 。
 義肢の規格を統一したことは、どこのNGOセンターに行っても義足の交換が可能になるので、障害者にとってはより負担が少なくなり、大変評価できると考えられる。また、他のNGOをまとめて義肢の規格を統一してきたそのリーダーシップを生かして、義肢がより広範囲により多くの人に届くように、活動を続けていくことが望まれる。この活動は、戦時救護を目的としているICRCから平時救護を目的とする各国赤十字社に、委譲していくことが望ましいのではないだろうか。現在、カンボジア赤十字は存在するものの、積極的な活動は行っていない。ICRCがこれまでカンボジアで行ってきた活動のノウハウと、現在カンボジアも統括しているタイ赤十字社のバンコク支局からの組織の運営についてのノウハウを提供して、カンボジア赤十字社が障害者福祉をリードしていけるようになることは、長期的にもカンボジアの障害者のためになると思われる。
2) 日本政府
 日本政府は現在カンボジアに対して無償資金協力と技術協力を実施している 。二国間援助で、日本はカンボジアに対しての最大の援助国であり、1998年度における日本の対カンボジア経済協力は、総額96.73億円、無償資金協力が78.23億円、技術協力が18.50億円 となっている。これにより、トンレサープ川架橋修復工事、プノンペン市上水道整備事業、道路建設センター改修建設、プノンペン港拡張工事、母子保健センター建設、プノンペン市電話網整備等の大規模プロジェクトをはじめ、医療、教育、食料、食料増産、文化施設等々多数の援助プロジェクトを実現した。また、地雷対策として1998年度に、カンボジア地雷対策センター(Cambodia Mine Action Centre:以下CMAC) への90万ドル拠出及び専門家派遣、無償資金協力案件「地雷除去活動機材整備計画」(4億7,000万円 )のほか、CMACのフォーラム開催への援助も行っている。さらに専門家の派遣、研修生の受け入れ等の技術協力も盛んに行われている。
 日本政府では、国際協力事業団(Japan International Cooperation Agency:以下JICA)、社団法人国際厚生事業団(Japan International Cooperation of Welfare Services :JICWELS)が研修員受け入れ、専門家の派遣、そしてプロジェクト方式での技術協力などの形で様々な分野にわたる研修を行っている。その中で障害者を支援する研修がいくつか実施されている。それら障害者支援の研修は、主に財団法人日本障害者リハビリテーション協会や国立身体障害者リハビリテーションセンターなどに研修実施を依頼して行っている。研修員受け入れ事業の中で、カンボジア人が参加している障害者や福祉問題についてのプログラムは「補装具政策技術」「リハビリテーション専門家」「障害者リーダーコース」「障害者自立支援技術セミナー」「医学リハビリテーション専門家研修コース」となっている。このうち障害者リーダーコースの研修中に行われるプレゼンテーションに参加することができ、さらにこの障害者リーダーコースに参加しているカンボジアのヌン(Nunh)氏にお話を伺うことができたので、このコースについての詳細を述べてみたい。
 障害者リーダーコースは7週間のプログラムで、目的は「開発途上国において障害者リハビリテーションに従事する指導者に対して、我が国のリハビリテーションの知識及び技術を習得させ、その資質向上に寄与するとともに参加研修員各国の現状等の相互理解の促進を図る」、到達目標は「身体障害者の置かれている現状を分析し、そのニーズを把握する。身体障害者の組織的活動を推進する。身体障害者の権利やニーズに関する総合的な広報プログラムを改善する。政府及び国民の協力を得た我が国の身体障害者組織による社会参加推進活動に対する理解を深める」となっている。コース概要は討議、質疑応答、講義、関係機関の見学実習などで、見学は国レベルのリハビリテーション・サービス(国立身体障害者リハビリテーションセンター、国立職業リハビリテーションセンター等)や教育機関、民間レベルの活動で行い、地方の障害者施設なども視察するといった内容になっている。研修員の資格要件は「自らも身体障害者であり、身体障害者リーダーとして3年以上の経験を有する者。25歳から40歳の者。日常生活動作及び移動が自分でできること」、主な研修実施機関は「JICA東京国際研修センター、財団法人日本障害者リハビリテーション協会」である 。
 アジア・ディサビリティ・インスティテュートの中西由起子はこのような政府を通して行われる研修は、研修に参加する人が政府関係者、役所に勤めている人、また研修が英語で行われるため、英語を学べる環境にあるエリート層が多くなってしまうことがあると指摘している 。障害者リーダーコースでは、日本の障害者のための大きな研修施設やNGOも見学するが、見学する際にはそのような施設の長所しか見る機会がなかったり、また途上国から来日している研修生にとって大きな研修施設を見たところで、自国に帰ってからそれを生かすことができるかというとかなり疑問でもある。このような問題点がある一方で、参加者同士が自国での障害者の置かれている状況を報告し、それについて意見交換をしたり、プログラムの途中で、参加者一人一人が自分の行きたい見学施設を選べるようにしたりときめの細かいプログラムを提供しようとしているJICAの姿勢は、評価できるのではないだろうか。
3)草の根レベルの取り組み
 国際NGOは1979年以降国際社会が援助を停止した後も被災民や難民に対する支援を行ってきた。また、カンボジアが国際社会から取り残されていた頃から復興に取り組んでおり、NGOがこれまでに果たしてきた役割が大きいこと、及び今後果たすべき役割が大きいことに鑑み、NGOはカンボジアの開発戦略上重要な位置を占めている。
 これは、「カンボジア復興開発国家計画」(National Programme to Rehabilitation and Develop Cambodia:以下NPRD)においてNGO代表2名をオブザーバーとしての参加資格を与えられており開発計画の策定にも積極的に関与することができること、またICORC(カンボジア国際復興委員会)会議においてもNGO代表4名の参加資格が与えられ、発言の機会を得ていることなど開発政策においてNGO側の意見が反映されていることにも示されている 。
 カンボジアの独立以降、NGOの活動が盛んになったのはポル・ポト時代のことである。この時期のNGOは、ポル・ポト政権つまりクメール・ルージュによって破壊されたインフラの整備、農業、保健衛生といった分野の活動が行われていた。現在カンボジアではさまざまな内容のプログラムが実施されている 。1978年末に始まったベトナム軍によるプノンペン侵攻によってヘン・サムリン政権が成立したが、西側諸国はこの政権をベトナムの傀儡政権であるとし、対カンボジア援助を凍結した。そのため、この時期国際社会に認められていたカンボジアで活動する国際機関は、国連児童基金(UNICEF)のみとなり、外国からの支援はNGOによる支援だけとなった 。 
 しかし、最近ではNGO間の連携を深めるためにNGOフォーラムが定期的に開催されている。またNGO同士のコーディネートを目的として作られたカンボジア協力会議(Cooperation Committee for Cambodia:CCC) の活動にも期待がかかる。
@日本のNGOによる取り組み:日本・カンボジア交流協会
 『国際協力NGOダイレクトリー2000』に載っているNGOに限定すると、現在カンボジアに支部や事務所を置いて開発協力を行っている日本のNGOは35団体あるが、地雷被害者対策以外のカンボジアに対する開発協力は主に、病院建設、医師や看護婦・保健婦の派遣、医薬品の提供、保健教育等にみられる医療に関する協力事業、小学校建設・修理と運営、識字教育、図書の贈呈や図書館建設等文化・教育に関する協力事業、また農村開発に関する協力事業が多くなっている。
 また、障害者 に対して支援をしている団体の支援策において共通して見られるのは、職業訓練学校の設置・運営、車椅子の配布、義足の配布である。
 日本・カンボジア交流協会(Japan Cambodia Interactive Association: 以下JCIA)は、障害者が自立した生活ができるようになることを目的に、プノンペン・トゥマイ職業訓練センター(Phnom Penh Thmay Vocational Training Center)を1997年に設立し、縫製、バイク修理、ラジオ・テレビ修理の三つのコースを開設している。現在、この職業訓練センターに所属しているのは二期生(2000年11月に卒業予定)で、それぞれのコースに10名ずつ、合計30名が学んでいる。コースはいずれも1年間で、卒業後は習得した技術で自立生活を目指す。昨年度この訓練センターを卒業した訓練生(昨年度のコースは縫製とバイク修理で、各15名ずつ)は、ショップを出すなどして、30名中27名が自ら収入を得られるようになった。
 JCIAはめぐみグループによって設立されたNGOである。JCIAの母体となっているめぐみグループという団体はキリスト教の精神に基づいて1948年から日本で障害者のための授産施設を運営してきた。このNGOの会長である山田二三雄がカンボジアを訪れた際にカンボジアでも何かできることがあればしたいと感じたことと、その時にスイ・サエム社会問題・労働職業訓練・青少年社会復帰省(福祉省に相当:Leadership of Ministry of Social Affairs Labor Vocational Training and Youth Rehabilitation:以下MOSALVY)元大臣(現在は鉱工業大臣)がこのNGOに協力を要請したことがきっかけとなり、カンボジアでの活動が始まった。
 それゆえJCIAはカンボジア政府をカウンターパートとしており、日本のNGOにしては珍しく現地の職員は全員カンボジア人だが、職員採用はMOSALVY(福祉省)が担当している。この職業訓練校のあるプノンペンの近郊に在住し、他の団体の支援を受けていないという条件のもと、訓練生を募集している。
 現在(2000年)訓練を受けているのは二期生と、カンボジアでの活動をはじめてからはまだ長くないが、現在の30人という訓練生の枠を増やしてほしいという要望がカンボジアの人々から出ている。しかし、資金面の問題から職員の確保は現段階ではまだ困難であるという。
 JCIAは設立からまだ5年ではあるが、それまでの日本での障害者支援から得た知識を活かして活動を行っている。現在カンボジアで行っている活動は、教育、職業訓練、孤児受け入れ、などの分野で資金助成、物資供給、人材派遣、職業訓練センターの運営を通じて支援活動を行っている。日本国内でもカンボジア児童画展を開いたりして、資金を集めたりすることも行っている。
 これまで日本で障害者支援を行ってきたことを活かしているので、障害者にとっては非常によい環境を整えながら活動を行っていると感じた。ただ、これほどのノウハウを持っているにも関わらず、資金面での制約からプログラムや人数の拡大ができないことは残念である。
A カンボジアのNGOによる取り組み:リハブ・クラフト・カンボジア
 リハブ・クラフト・カンボジア(Rehab Craft Cambodia:以下RCC)は、カンボジアでもっとも有名なNGOの一つであり、カンボジアの障害者の自立生活を目指して1995年に設立された。
a.RCCの目的
 RCCの最大の目的は良質のハンドクラフトの製造・販売することで、障害を持ったカンボジア人に雇用を創出・提供し、雇用支援、自営支援をすることである。RCCでは障害者が健常者と同じように働けるということだけでなく、意識的に責任を持って働くことができ、また技術を学びそれを利用することができると証明したいと考えている。
b.設立からこれまでの経緯・スタッフ
 RCCは、1995年にカンボジアに設立されたNGOで、オランダがインドネシアで成功させたプログラム をニュージーランドのコリン・マクレナンが創設した。1999年9月RCCはディレクターにケム・パーナを指名し、スタッフは全て障害を持つカンボジア人となった。運営方針はマネジメント担当スタッフと数人の代表スタッフからなる会議で決められるが、コリンら外国人から時々アドバイスを受けながら活動しているもののこの会議も現在全てカンボジア人である。会議では、スタッフの権利やトレーニング、そして職場でのあらゆる問題を話し合っている。
 スタッフの年齢は20歳から40歳代までで、元軍人や元少年兵である人も数人おり、スタッフの半分が地雷によって、三分の一はポリオによって障害を持つことになった人々である。また、スタッフの三分の一は女性の障害者であるが、RCCで手織りのシルクを使った製品を作るときに女性の障害者の共同組合からシルクを購入するよう努めているので、RCCと関わっている女性の数はかなり多い。
c.資金援助
 RCCの設立にはオランダの援助団体である開発協力国際組織 (International Organization for Development Co-operation:ICCO)が資金を拠出し、その後約1年半の間、米国国際開発庁(Agency for International Development:USAID)から資金援助を受け、現在はニュージーランド外務・貿易省(Ministry of Foreign Affairs and Trade New Zealand :以下MFAT)が資金援助を行っている。しかし、徐々に資金助成を減らし、RCCが資金助成を受けずに運営していけるようになることが目標である。  
d.活動・製品
 RCCでは初めは伝統的な手織りシルクと皮を組み合わせた製品を主に製作していたが現在では木、シルバー、ココナッツ、刺繍、手織りシルク製品、絵、縫い物、皮製品など製品の幅を広げている。RCCの製品は「アプサラ」(クメール神話の美しい踊り子)というブランドネームで売られているが、「リハブクラフト」ではなく、「アプサラ」をブランドネームに選んだのは、障害者が作っているということよりも製品の質を強調したいという意図があったからで、RCCではより大きなマーケットをねらって材料、製作技術の両方における質を高くすることに重点を置いて製作が行われている。「アプサラ」製品はカンボジアに訪れる旅行客や国外居住者向けの製品である。
e.トレーニング
 RCCではトレーニングに力を入れており、売上の多くをトレーニングの資金としている。RCCの製作者は「アプサラ」ラベルのついた製品を作る前に1年間のトレーニングを受けることになっている。設立当時は製造スタッフのトレーニングはインドネシア人のインストラクターによって行われていたが、彼ら自身も障害者であり一年の契約で教えていた。今では三人のカンボジア人がインストラクターを後継し、指導、監督そして品質管理を担当している。一年間のトレーニングを終了した後、木の彫刻のコースにいた数人が家具メーカーに職を見つけることもあるし、何人かはRCCの小売店を通してクラフトを製作することを契約する。また、自営でクラフト作りを行う者もいる。
 また、製作トレーニング以外にも予算作成、コミュニケーションスキル、生産性、メンバーの指導などを行うマネジメントトレーニングやクメール語、英語、コンピューター、小売経営、マーケティングなどインハウストレーニングが行われている。
f.販売方法
 RCCでは二つの小売店を経営しており、一つはプノンペン市内に、もう一つはシェムリアップにある。ここではRCCのスタッフが作ったクラフト以外に、他の障害者や障害者支援を行っているNGO、コミュニティグループの製品の委託販売を行っていて、小売店の売上の半分はRCCのスタッフ以外による製品である。このようにRCCは、障害者の関わっている他のNGOやコミュニティグループ、自営の職人と協力関係にあり、彼らの製品の改良のサポートも行っている。
g.自営業者支援プロジェクト
自営に対する支援活動には、4つのプロジェクトがある。一つが「ビジネススキル」で値段のつけ方などから運営方法まで、二つ目が「無利子のマイクロファイナンス」で技術や運営方法を学ぶことに利用されることが主な目的となっている。三つ目は「マーケットアクセス」でRCCが委託販売を引き受けること、4つ目が「テクニカルサポート」でクラフト製作者に対してRCCのトレーニングコースの受講ができるようになっている。
h.障害者のための学校支援
 RCCは障害を持った人全てと彼らのニーズに関心を持っていて、オーストラリアのNGOが運営している障害児のための特別学校に資金援助を行っている。この学校はサラワラ(Sala Lavalla)スクールという名前で、プノンペンにあり、今まで学校に行ったことのない、またはほんの短い期間しか行ったことのない10歳から15歳の子どもが15人所属している。カンボジアの国家カリキュラムの6年分を2年間でカバーするため、公立の学校では週に24時間の授業であるのに対して、週に39時間で、長期休暇も少ない。生徒の多くはプノンペン市内に家族と住んでいるが、この場合はRCCが交通費を負担している。サラワラスクールの生徒のうち五人と、中学校に通っている二人の子どもはRCCのワークショップに宿泊していて、食事も無料である。サラワラスクールの生徒の中で、卒業後も勉強を続けたいと望む生徒は国の中学校には入れるように、RCC奨学金基金から資金援助を受けている。
i.運営
 運営は順調にも見えるが、まだカンボジアの政治が完全に安定しているわけではないため、RCCの運営もカンボジアの政治の状況に大きく左右される。1997年の七月政変によってRCCを含む多くのNGO、民間企業は大きな打撃を受けた。特にこの七月政変は旅行者の大幅な減少を招き、RCCの売上も1997年の7月から激減した。売上の大幅な落ち込みにより生産を減らさなければず、数ヶ月間のレイオフをせざるを得なかった。数人のスタッフがこのレイオフによってRCCを辞めたが、幸いにも彼らは他の場所で職を得ることができる人々だった。また時期を同じくしてアジア金融危機に見舞われたため輸出も落ち込んだ。タイやインドネシア、フィリピンなど東南アジアの他国の製品と価格で競争することは非常に難しい。それは、カンボジアのシルクが手織りであることや交通機関や市場へのアクセスが未整備なことが原因である。一時は、スタッフを二つのグループに分けて交代で働くという方法をとるなどして、RCCをなくすことなく切り抜け、2000年になってからはフルタイムワークに戻すことができた 。RCCがプノンペンの店を改装し、接客スキルの向上、シェムリアップの店を半分他のNGOに貸すなど経営に工夫を凝らしたことなどが、経営改善につながった。
j.目標
 現在のRCCの目標は、「独立した組織(independent organization)」、つまり誰からも資金援助を受けず、カンボジア人だけで全ての運営を行う団体となることである。そのためにはさらなる雇用の創出、援助に頼らない財政、継続して仕事ができる環境作りをする必要がある。この目標を達成するために財政管理やマーケティングにも力を入れている。
 1999年には製品製作所を改装して換気システムを採り入れ、そのことによって生産性を24%上げることに成功した。2000年現在では、製造ラインを見なおし、市場調査に力を入れ、色やデザインを刷新している。またインターネットの利用も開始し、それを生産へ活かせるようにしている。これからは在庫とオーダーの管理がシステム化される予定となっている。こうしたことや予算抑制によって1999年、RCCはコストの削減に成功し、それによって製品価格を国内価格は16%、輸出価格は35%下げることができた。製品価格は下げたが売上は1998年度の売上をしのいでいる。これは、援助に頼らない団体となるための大きな進歩である。
k.他の団体の協力体制
 RCCは、他のNGOとの情報交換やセミナーを開くなどして協力し合っており、また合意メモ(Memorandum of Understanding)にサインしてからMOSALVY(福祉担当省)との協力体制も一段とよくなった。
l. RCCについての考察
 RCCは障害者が自立生活を営めるようにと障害者に雇用の場を提供することを目的にはじめられた。RCCで働く障害を持つカンボジアの人々は、自分自身が自立した生活を送ることだけに満足していない。より多くの障害者が職を得て、自立生活ができるようにとRCCのスタッフ以外にもトレーニングサービスを開放し、RCCの中でも少しでも生産性を上げられないかと工夫し、RCCを資金面でも援助なしで運営できるようにと取り組みを進めている。こうした積極的な活動を展開しているNGOがあることは、カンボジアの他のNGOにも大きな影響を与えていることだろう。外国人が設立・運営し、外国から資金援助を受けているNGOは数多くあるが、その援助に頼りきってしまったり、メンバーが援助によって行われている食事や宿泊施設だけを目当てにしていることも時々起こっている。RCCが援助に頼るどころか援助を受けずにやっていきたいと考え、運営方法を改善しているなど自立心を持っていることは評価できると筆者は考えている。それでは、なぜRCCが自立心をもって運営できているのだろうか。それは、よいディレクターやメンバーに恵まれたことも理由の一つであるだろう。しかしそれ以上に、カンボジアには障害者の働ける場が少ないということの表れともいえるのではないだろうか。障害を持っていても、個人の能力を生かして働き、自立的な生活を送りたいと考えている障害者は多いはずである。しかし、現実にはそのような能力があるか否かを見る前に、障害があるという理由だけで働くことができない、そのような悔しい思いを何度もしてきたからこそRCCが現在あるように明確な目標を持ち、それに近づけるように努力することのできる団体になっているのではないだろうか。障害を持っていても仕事ができる、健常者と同じく援助を受けなくても運営していけると示したいという気持ちがRCCを支えているのではないだろうか。RCCを「独立した組織」にすることは、障害を持っていても働けるということを証明することだとRCCのメンバーが感じているのだと筆者は考えている。
 しかし、「独立した組織」となるには多くの解決しなければならない問題点が指摘できる。まず、RCCの中でどれだけコスト削減を行っても材料や完成品を輸送するための交通が他の東南アジア諸国に比べてかなり未整備であるため、海外に輸出したときに価格競争において不利であり、ハンドメイドであるため機械による大量生産を行っている企業のように
大規模なコスト削減は不可能であるといった価格の問題がある。そして、価格で競争するのではなく製品の質で競争するとすれば、製品の質を改善することがもっと高いレベルで要求されるだろう。つまりRCCは障害者に雇用を創出することで障害者が自立生活を営めるようにすることだけを目的にしている限り、援助を受けずに運営を行っていけるようになるのは困難ではないかということである。RCCのメンバーはこの問題を考えながら運営を行っていかなければならないだろう。

。章 カンボジアに障害者福祉を定着させるには
 カンボジアをはじめ東南アジア諸国では村落共同体が大きな役割を果たしており、萩原は国家が福祉などといわなくても、地域の中での相互扶助が大変盛んである現状を指摘している 。自然に生まれたコミュニティと宗教が、地域の中での相互扶助を支えているのである。家族制度が強いため、人々は生活苦に陥ったりした場合に家族や親戚の中でもっとも豊かな者の所に行って、全面的に生活を見てもらうということが多いという。そういった状況があるからこそ今まで人々は何とか生活を続けてきた。一方、政府も強固な家族制度が存在するため、国家の福祉政策を整えなければならないという状況に追い込まれていなかった。しかしこの家族制度に依存できない多くの人々がいる。現に、乞食生活をせざるを得ない状況に置かれている障害者が多く存在している。
 地雷による被害者が自立的な生活を送るためには様々な要素が必要となるが、今回はその中でも救急医療、義肢・リハビリテーションの提供、就労の現状を見てきた。地雷によって障害者となった人々が自立的な生活を営むためには何が必要なのか。地雷被害者に対する支援策について考察していく。
1. 被害者側への対策
 第一に救急医療について述べたい。地雷の被害にあった場合、迅速な治療を行うことが重要であることは章でも述べた。切断というのは、医療の中では比較的高度な機材を必要としないので、最低限の器具を清潔な状態で保つことができればいいといわれている。今回章の中で取り上げることはできなかったが、日本のNGOも含めて数多くの国際NGOが医療に関する支援(医師や看護婦の派遣、病院建設など)を行っている。これらのNGOと協力して地雷汚染地域に救急救護の受けられる施設を増やすこと、ケガ人が出た場合の連絡方法と患者の輸送手段を確立することが重要だと考えられる。さらに、最低限の治療にあたることができる人を教育することにも力を入れることは地雷被害者の救済と、被害者のその後の人生を少しでも楽にするために有益なことだと考えられる。
 第二に、救急医療、義肢・リハビリテーションの提供、職業訓練のいずれもNGOと行政側とが協力して定着を図っていくことが望ましいと筆者は考えている。障害者福祉を含む福祉分野全体において、カンボジアでは政府による支援策よりもNGOによる支援策のほうが歴史的にも長く、プロジェクト数も多い。しかし、NGOのプロジェクトが評価に値するものであってもそれを個々のNGOがカンボジア全土に同じレベルで拡大することはなかなか困難である。したがって筆者はこれらの分野でNGOと政府が協力するほうが、カンボジアに福祉を普及、定着させることができるのではないかと考えている。現在、政府のカンボジア復興開発国家計画(NPRD)にNGOの代表が参加しているが 、政治的に安定し始めた現在では、政府の裁量拡大を考える人々の間からNGOと政府との関係を縮小しようとする動きもあるという。カンボジアでの福祉の普及・定着を目指すのなら、政府よりも豊富な経験を持つNGOの意見を取り入れることはカンボジアにとってこれからも有益だと筆者は考える。NGO側も成功しているプロジェクトを拡大し定着させることが有効であること、MOSALVY(福祉担当省)に提供できるノウハウがあるということを政府に伝えてカンボジアの福祉のために協力する体制を整えることにも目を向けてほしい。そのためには、NGO同士のコーディネートを目的として作られたカンボジア協力会議(CCC)の役割強化をすることもできるのではないかと考えられる。 
 第三に、国際NGOの活動にカンボジア人がかかわっていくことを提案したい。ICRC(赤十字国際委員会)や国際NGOによる取り組みは評価できる点も多い。しかし、ICRCや国際NGOによる支援は外からの援助である。RCCのようなカンボジア人によるローカルNGOも最近いくつか出てきているが、障害者への支援をカンボジアに定着させていきたいと考えるのなら、支援活動をカンボジア人による活動に移行していくことも視野に入れるべきではないだろうか。 
 第四に、被害者へのサービスを普及させていくための方法について述べる。タイでは障害者と認定された人は障害者であることを証明するIDカードを発行してもらい、そのIDカードを持っていると、福祉省が認定した窓口で車椅子を無料で受け取ることができるサービスがある 。これをカンボジアに導入することはできないだろうか。障害者に認定証を発行してMOSALVYの出張所やMOSALVYと提携したNGOの窓口で義肢や車椅子を受け取ったり、リハビリテーションを受けられるようにすることも可能ではないだろうか。赤十字やNGOによるプログラムで義肢やリハビリテーションが供給されているが、そのサービスを享受できない人々がいる。その格差解消のためにもMOSALVYとの提携が必要になると考えている。
2. 受け入れ側への対策
 障害者に対する偏見をなくしていくことが障害者の就労環境改善には不可欠である。章でも触れたが、障害者を持つ人に対しては、宗教的な考え方もあって人々の間に差別的な見方が根強く残っている。障害者への偏見が根強いままでは障害者に対する政策やサービスの充実はもちろん、障害者の就労環境を改善することはできないだろう。しかし、このように地雷で汚染された土地に生活している以上誰にでも障害者になる可能性はある。それが、自分の身に起こったときに、十分なサービスを受けられない苦しさと、前世での行いの報いだと受けとめる諦めとによって、自立的な生活が営めなくなってしまう。こうして毎年多くの人が新たにより深刻な貧困状態に陥ってしまっている。この悪循環を断ち切るためにはやはり障害者に対する考え方を変えていかなければならない。障害を持つことに対する考え方をかえるためには教育を通じての長期的な取り組みと、早急に障害者の人権を守るための法律を整えて実行することが重要となるのではないだろうか。職業訓練を受けた人たちなど働く能力を持つ障害者が実際に企業で働くことができているかというと、そうではない。雇用の場を広げるためには企業に障害者の雇用を義務付けることもひとつの方法である。例えば日本には、事業主が常用労働者のうち1.8%の障害者を雇用しなければならないと定めた「障害者の雇用促進等に関する法律」 があるが、これを参考にすることもできるのではないかと考える。

おわりに
 カンボジアでは、地雷による被害者が自立的な生活をするために必要な支援策は、ほとんどNGOによって個々に行われているといっても過言ではない。カンボジア政府やカンボジアのローカルNGOは、国際NGOの支援に学べる点を学び、国際NGOもカンボジア政府やカンボジアのローカルNGOとノウハウを共有していこうとする姿勢が必要だと思われる。そしてカンボジア人自身でカンボジアの障害者福祉を作っていくという意思を持つことがカンボジアに福祉を普及、定着させるためには必要だと思われる。カンボジア赤十字の活動を整えていくことも一考に価すると思われる。またCCCの活動の強化や、カンボジアのローカルNGOが集まってNGOフォーラムをつくり、協力体制を築いていることに期待がかかる。さらに、MOSALVYとNGOフォーラムとが協力体制を築くことで障害者に対するサービスをカンボジア全土に、全ての障害者に行き渡せることができるのではないかと思われる。
 国際NGOやカンボジアのローカルNGOでリハビリテーションを受けたり、職業訓練を受けた障害者の多くは、RCCのようなNGOの職場や理解ある受け入れ先で働き、自立的な生活を送っている。リハビリテーションや職業訓練を受ける機会と、受け入れ側の理解が整えば、障害者も一人一人の能力を生かして働き、自立できる。そして障害者が自立して働くことは、障害者の生活や障害者を支える家族にとってプラスになるだけではない。障害者の多いカンボジア国家にとっても労働力をもたらすことになる。自立を支援するためのサービスを受けられる機会をカンボジア全土で提供すること、そして障害者に対する偏見をなくすことが今後の課題であると考えられる

謝辞

 この論文を書くにあたって、多くの方の支援を受けた。日本・カンボジア交流協会の松本美子さんには、協会の活動の情報に加えてカンボジアの国民性について教えていただいた。アジア・ディサビリティ・インスティテュートの中西由起子氏には国際協力事業団のカントリーレポートのプレゼンテーションに参加する機会をつくっていただき、RCCのRout Thuam Nunh氏を紹介していただいた。そしてインタビューを快諾してくださったRCCのRout Thuam Nunh氏、インタビューの際に通訳をしてくれた貫山淳子さんに感謝の意を表明したい。

    2000年12月                      弓削 陽子

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