タイにおける障害者リハビリテーション
 - Community Based Rehabilitation の現在と今後

一橋大学大学院社会学研究科地域社会研究専攻
修士課程2年 関 明水  

(本稿は2000年1月に一橋大学大学院社会学研究科に提出された修士論文である。)

目次

序章                             ・・・・・・・ 1

第一章 タイの障害者福祉                 
  1. タイの障害者                    ・・・・・・・5
    (1)障害者に関する統計
    (2)障害者登録制度
  2. 障害者に関する法律の歴史              ・・・・・・・11
    (1)1991年以前
    (2)1991年障害者リハビリテーション法
    (3)1991年以降
  3. 実際に障害者の受けられるサービス          ・・・・・・・16
    (1)医療サービス
    (2)教育サービス
    (3)職業サービス
    (4)社会サービス
  4. 施設等の現況                    ・・・・・・・22
    (1)病院
    (2)リハビリテーションセンター
    (3)学校
    (4)職業訓練施設

第二章 タイの障害者をめぐる思想             
  1. タイの精神文化                   ・・・・・・・25
    (1)タイの精神文化と障害者
    (2)精神文化とタイ仏教
    (3)助け合いの精神と国王への尊敬
  2. 障害者は「可哀想」か「前世の業」か?        ・・・・・・・28
    (1)バープとは
    (2)タンブンとは
    (3)ナムチャイ精神
    (4)「障害者は『可哀想』か『前世の業』か?」への答え
  3. 「障害者は出家できるのか?」という問い       ・・・・・・・35
    (1)出家の意味
    (2)閉ざされた障害者の出家
  4. 障害者へのサービス提供をしている寺         ・・・・・・・38
    (1)二つの寺の活動紹介
    (2)寺が社会活動を行うことの意味

第三章 タイにおけるCBR                 
  1. CBRとは何か                    ・・・・・・・44
    (1)CBRとは何か
    (2)IBRとアウトリーチ
    (3)本来のCBRとは
  2. タイに来たCBRのこれまでの経過           ・・・・・・・47
  3. タイでの実際のCBRのケース             ・・・・・・・48
    (1)民間主導のCBRのケース(FHC・ノンブアランプー県)
    (2)政府主導のCBRのケース(SNMRC・パヤオ県)
    (3)二つのケースから見えるもの

終章 タイにおけるCBRの今後               
  1. CBR実施の問題点                  ・・・・・・・63
  2. コミュニティーレベルで必要なこと          ・・・・・・・65
    (1)タイにおけるコミュニティーの性質
    (2)より良いCBRの導入方法とは
  3. 国家レベルで必要なこと               ・・・・・・・69
  4. 国際機関・NGOの役割                ・・・・・・・71
  5. おわりに                      ・・・・・・・72

謝辞                            ・・・・・・・74

資料1: 1994年制定 公共保健省 省令第二号 「障害の分類と規準について」

資料2: タイ全土 及び パヤオ県・ノンブアランプー県 地図

参考文献

序章

 <はじめに〜調査地・タイの概要>
 現在、タイの人口は約6150万人で、そのうちの9%の約570万人が首都バンコクに住む。しかし、出稼ぎなどでバンコクに住民登録を移さずに住んでいる人々を含めると、実際のバンコクの人口はその倍の1200万人と言われている。他の途上国同様、タイも首都への一極集中が極端に進んでおり、地方とバンコクとの格差はインフラ、サービス、交通・通信等、全ての面において大きい。
 全国は76の県(チャンワット)に別れており、普通これを、中部・東北・北・南の4つの地方に分ける。もっとも貧しいとされるのが19県からなる東北地方で、人口も最も多いが、土地が痩せていて、産業がとりわけないため、バンコクへの出稼ぎが盛んである。北部地方の17 県においても、出稼ぎは盛んである。特に北タイの女性は肌が白く美しいと言われ、都市の性産業で女性を働かせるためにブローカーが暗躍している。北部では、特に中国やラオス、ビルマとの国境を有する県に山岳民族が居住しており、タイ人への同化は徐々に進んでいるが、山中で独自のコミュニティーを築いているグループもある。縦に長く連なる14県から成る南部では、南下してマレーシアに近づくほど、イスラム教徒の数が増え、他の地方とは異なる文化様式を持っている。また、熱帯の島が周辺海域に多くあり、国内外から観光客を集めている。中部タイはアユタヤー王国(1350~1767年)以来のタイの政治、文化の中心地であり、チャオプラヤー川中下流域はタイを代表する穀倉地帯である。中部タイでは河川交通を軸として、商業も古くから発展していた。 
 県(チャンワット)は幾つかの郡(アンパー)に分かれ、ひとつの郡がさらに区(タンボン)に分けられ、区の中にいくつかの村(ムーバーン)がある。
 一つの村は、およそ500~800人の人口を擁し、寺と小学校は一つか二つの村に対して一箇所はある。1997年の統計局調査によると、全国に寺は30377箇所、小学校は34133箇所ある。また、保健所は9472箇所あり、おおよそ区にひとつある計算になる。私立、公立を合わせた総合病院は1212箇所あり、地方では郡に一つしか総合病院がない場合が大多数である。私立のクリニックは全国で11441件あり、病院だけでは不足している医療サービスの隙間をうめている。

  <地方別の各行政単位数と、小中高校の総数>
  人口

チャン
ワット 数
アンプー
タンボン  数 ムーバーン  数  小学校・
 中学校・
 高校の
 総数
バンコク

周辺地域
9,114,852   6 79 462 3361 2769
中 部 2,941,524   6 61 613 4847 1947
東 部 4,064,872   8 67 522 4481 2434
西 部 3,562,936   6 52 489 4077 2245
北 部 12,091,337   17 194 1562 14507 8774
東北部 21,095,841  19 321 2678 29437 14563
南 部 7,944,865   14 151 1084 8042 5259
全 国 60,816,227  76 925 7410 68752 37991

           (出所:統計局 1997年度調査)
注) @アンパー数は、準アンパー(king ampher)も含む。
   Aバンコクと周辺地域、中部、東部、西部をあわせて中央部または中部と呼ぶことが一般的である。
    B学校数は、私立と公立を合わせたもの
 

 <近年のタイの障害者福祉をめぐる状況>
 1997年以降、他のアジア諸国同様、深刻な経済危機を迎えたタイにおいて、道路、鉄道、オフィスビル等の大規模なインフラの建設は各所で中挫し、バーツは急速に下落、輸出の伸びも低下、ホワイトカラー層の失業問題も深刻になった。が、1999年はこれまでの経済の低迷も底をつき、景気も徐々に上向きになってきたと言われはじめた。長らく完成が待たれていたバンコクの中心部を貫いて走るスカイトレインも、ようやく1999年12月5日の国王誕生日に開通した。
 そして、98年頃からしばしばニュースに登場するのが、そのスカイトレインの駅にエレベーター建設を要求するデモを行う身体障害者たちの姿である。「98年12月末に数百人の障害者が建設途中の高架駅に要求デモをかけたが、事業主体であるバンコク都の担当者がエレベーター設置を彼らに約束したのは、エックス型に交差する二路線の四起点駅と中央乗換駅のたった5カ所だけ。残り18の高架駅には階段だけしか建設されないのである。(岡本 1999)」 彼らの要求は完全には通らなかったが、このデモに関する一連の報道を通じて、障害者の権利という思想が、以前よりもタイ全体に普及したのは確かである。それまで障害者福祉への関心が薄かった人々も、アクセスビリティーを求める障害者の存在を知って、バンコクの交通がいかに障害者にとって閉じられたものであるかに気づいたであろう。この流れを受けてか、他の交通機関にも、アクセスビリティーを改善する動きが見れ、BMTA[注1] の運営するバスの中に、初の車椅子専用のリフトが付いた公共バスが99年7月から登場し、まだほんの数台ではあるが、障害者の利用頻度が高いとされる3つの路線を走っている。
 さらに、98年のアジア大会に続いて、1999年1月タイが開催国となり、バンコクが会場となった第7回 FESPIC GAMES [注2] の期間中は、障害者の活躍の様子を連日テレビでも目にすることが出来、障害者の持つ能力が広くアピールされた。
 また、文部省は1999年を「障害者教育年」と定め、障害者への義務教育の浸透を進めている。特殊学校だけでなく、一般の学校でも障害児を受け入れるための準備が進められ、各学校の入り口には「障害者教育年、統合教育の推進」と書かれた看板が掲げられている。統合教育のための教師の育成や、学校設備の改装など、計画に追いついていない部分が多く、まだ教育年の成果を評価出来るような段階ではないが、それまで障害児には閉じられていた学校側に受け入れの姿勢が見え始めた。
 このように、近年タイにおいては障害者福祉に対する関心の高まりが徐々に見えつつある。

 <この論文の目的>
 社会福祉の整備が遅滞している発展途上国のうち、タイを調査地として取り上げ、タイにおける障害者福祉の状況を国家レベル、村レベルの両方から調査する。さらに、80年代に入って途上国の障害者リハビリテーションに効果的であるとされ、タイにも導入されたCommunity Based Rehabilitation (CBR)に焦点を絞り、その有効性をタイ東北部のノンブアランプー県、および北部のパヤオ県において行ったCBR実施状況の調査に基づいて、分析する。その有効性および問題点を明らかにすることによって、今後のタイにおいて、障害者のリハビリテーションを進める上で現在有効な手段は何か、どのような障害者福祉制度が適正なのかを模索したい。

 <論文の構成>
 第1章では、法律、実際の社会福祉制度、公共施設の整備を中心にタイの障害者社会福祉サービスの現状について述べる。第2章では、タイ人の持つ障害観を明らかにするために、タイ文化の中枢をなす仏教の思想と社会福祉、及び障害者自身と仏教の関わりを調べる。第1章、2章において、タイの障害者を巡る政治的、社会的、文化的な環境を把握した上で、第3章では、近年、障害者リハビリテーションの一つのあり方として、タイでも注目されているCommunity Based Rehabilitationを紹介し、その実施について民間主導型、政府主導型の二つのケースを追い、それらの評価と比較を行い、CBRの有効性を検討する。終章では、CBRの抱える問題は何かを明らかにし、CBRを有効に活用するために求められるコミュニティー、国家、国際機関・NGOのそれぞれの役割を追求し、今後のタイの障害者リハビリテーションの進むべき道を探る。

__________
注1 Bangkok Mass Transit Authority、公営企業の一つで、バンコクの一般市民にとって最もポピュラーな交通手段である市バスの運営を行う。

注2 FESPIC GAMESとはThe Far East and South Pacific Games for the Disabled(極東・南太平洋身体障害者スポーツ大会)の通称。発展途上国の多いこのブロックの身体障害者スポーツの振興を願い、故・中村裕博士が提唱し1975年大分市と別府市で第一回大会が行われた。 この大会は東アジアと南太平洋の国・地域の38カ国が加盟しているが、加盟だけにはこだわらずお互いに援助しあい、パラリンピックやストークマンデビル競技大会などに参加できない発展途上の国々の身体障害者スポーツの進行に大きな役割を果たしている。(BLIND SWIMMERSのホームページ) 

第一章 タイの障害者福祉

1. タイの障害者

(1)障害者に関する統計
 タイにおける障害者数の統計は、政府機関や医療関係のNGOなど複数の団体が独自の調査を行い、数値を出しているが、どれも調査手法やもとにする情報がバラバラであるため、はっきりとした数字を示すことが困難である。
 保健省管轄下にある、タイで唯一最大の国立リハビリテーションセンターであるシリントン国立リハビリテーションセンターの発行したレポート[注3] にも、「1996年現在、タイの障害者の割合は人口の1.8-8.1% であり、これは107−483万人にあたる。この中のリハビリテーション・サービスを必要とする障害者のうち、2.31−10.4%のみしかと障害者登録を行っていない。」と非常に幅のある数値の報告がされている。
 世界の中でも国によって、障害者と定める規定が微妙に異なっているが、これまでのタイ国内の障害者に関する人口統計調査においても、どの程度の障害を持つ人を障害者と定めるか、という指標が調査主によりそれぞれ異なっていた。また、地方の農村などに住む、隠された障害者を全て見つけだすことは非常に困難である。農村部などの一部の人々の間では、未だに障害者を家族に持つことを近所に恥じる傾向があり、家の中に障害者を閉じこめて、出生届も出さない場合もある。このような障害者数までをも全て数えることは、不可能であろう。
 1991年に制定された「障害者リハビリテーション法」により、障害者とは何を指すかという基準がはじめて明文化され、ここでは「障害者とは身体的、知的もしくは精神的異常、損傷を持つ人を指す」[注4] と書かれている。そして障害の種類や段階の判断基準が定められた1994年の省令では、障害の種類は視覚障害、聴覚障害、身体障害、精神障害、知的障害の五つに分類され、各障害の程度が規定に応じて5段階にレベル分けされている。
 これら一連の障害者関連の法律により、障害者の享受すべき権利、国が保障する障害者へのサービス等がようやく明示され、制度化された。それらの社会福祉サービスを受けるための第一歩としては、障害者の登録が必要であり、地方役所、病院や保健所などの経路で登録の呼びかけがなされ、登録促進のための様々な企画が実施された。現在もこの登録促進のための活動が各所でなされているが、特に地方においてはなかなか登録が進まず、現在の登録者数は全体の障害者数の3分の1程度と見られている。
 以上のような理由により、タイの障害者数に関する明確な数値が分かるのは、労働社会福祉省の公共福祉局に障害者登録を行った障害者の統計のみである(表1) 。これによると、障害のうち、身体障害者数が最も多く、全体のほぼ半数を占める。そして、地方別に見ると、東北地方の障害者数が飛び抜けて多いが、これは東北地方の人口がタイの中で最も多いためであり、障害者の割合が東北地方において特に多いというわけではない。

(表1) <タイにおける登録障害者数 登録期間:1994年11月1日〜1998年12月31日>
人口
(千人)
視覚
障害
聴覚
障害
身体
障害
精神
障害
知的
障害
重複
障害

 合計   

障害者

割合
バンコク  5,648  1407 2765  4840  454 1370 712 11,048 (6.5%) 0.20%
中・東部 14,280  3271 4389 20006  573 4677 3548 36,664 (20.2%) 0.26%
北部 12,160  4906 5007 20692 1072 6407 5198 43,282 (23,5%) 0.36%
南部  8,067  1719 3476  9906  336 3225 1941 20,600 (11.3%) 0.26%
東北部 21,312 10210 8008 33952 1766 10620 5332 69,888 (38.5%) 0.33%
合計 61,466 21513
(11.8%)
23618
(13.0%)

89396

(49.2%)

3901
(2.1%)
26299

(14.4%)

16731

(9.2%)

181,485
(100%)
0.30%
        出所:労働者会福祉省公共福祉局障害者リハビリテーション委員会事務局 
                            (人口は1998年統計局調査)

 全体的な傾向としては、国民中の障害者数のパーセンテージは増加の傾向にあり、業務上の事故や、その他の事故、慢性の病気や高齢者の増加がその原因と見られる。一方で、伝染病や先天性の障害は減少傾向にある[注5] 。
 近年は先進国同様、タイにおいても、社会の高齢化問題が徐々に取り沙汰されるようになり、障害者の中でも高齢者の割合が多い。1996年の統計局の調査によると、(表2)のように、0−14歳の子供層の障害者は、1000人あたり5.99人であるのに対して、60歳以上の高齢者は52.29人である。人口全体のなかでは高齢者層は8.1%を占めるのに対して、障害者全体のなかでは25.4%が高齢者層であり、特に障害者において高齢者の占める割合が高いことがわかる。

(表2)<年齢層別の障害者数>
年齢層 1000人あたりの
障害者数
人口全体における
分布
障害者全体における
分布
0−14 歳 5.99 人 27.9 % 9.6 %
15 - 59 歳 17.29 人 64.0 % 65.0 %
60 歳以上 52.29 人 8.1 % 25.4 %
                      出所:1996年統計局調査
                (注:人口全体における分布は95年のNESDBの統計による)

 また、1986年から、5年おきに同統計の推移(表3)を見ると、10年間で障害者のなかの高齢化が進んでいることが分かる。1986年には障害者全体の14.1%が高齢者だったのに対して、96年には25.4%と大きく増えている。一方で、14歳以下の子供の障害者の割合は10年間で22.4%から9.6%へと、大きく減少した。これは、タイ社会全体の少子化、高齢化の傾向が一因であると考えられる。加えて、ポリオ等の幼児期に発生する、障害をもたらす可能性のある病気の予防が進んだことも影響していると言えよう。1000人あたりの障害者数を見ると1986年よりも1996年のほうが全体的に障害者数が増えているが、これは障害者登録がこの間に促進され、1986年の段階では障害者として数えられていなかった人が、1996年には登録を済ませて障害者となったためであろう。

(表3)<5年おきの年齢層別障害者分布>
 1000人あたりの障害者数   障害者全体における分布
年齢層 1986 1991 1996 1986 1991 1996
0-14 歳 4.57 人 8.44 人 5.99 人 22.4 % 15.0 % 9.6 %
15-59 歳 8.10 人 19.73 人 17.27 人 63.5 % 64.9 % 65.0 %
60 歳以上 19.42 人 60.01 人 52.79 人 14.1 % 20.1 % 25.4 %

               出所:1996年統計局調査

(2)障害者登録制度
 この制度は、1991年の障害者リハビリテーション法により、はじめて確立されたもので、「同法で述べられた福祉サービスやリハビリテーションを受けることを望む障害者は、中央登録センターもしくは居住する県の公共福祉事務所で登録を行わなければならない」と第14条で述べられている。
 登録を管轄する省庁は、労働社会福祉省であり、この下に県公共福祉事務所、郡公共福祉事務所が枝分かれしている。バンコクに住民登録を持つ障害者は、バンコク中心部にある労働社会福祉省の公共福祉局に行き、登録を行い、地方に住む障害者は住民登録をしている郡の公共福祉事務所に村から赴き、登録を行う。また、他県やバンコクで仕事をしており、住民登録された場所に住まない障害者については、現在住んでいる場所で登録を行うことが認められている。
 
 登録をする際に必要なのは、
1.医師による障害を証明する診断書
2.国民IDカードなどの身分証明書(未成年の場合は出生証明書)
3.住民登録証明
4.写真2枚
 の以上4点である[注6]。

 <登録のプロセス>
 では、地方の農村に住む障害者が登録制度を知り、登録しようと思い立った場合、どのようなプロセスを踏めばよいのであろうか。
 まず、登録についての情報を得る先としては、アンパー(郡)の公共福祉事務所、タンボン(区)の保健所、村の保健ボランティア、などがあるが、障害者リハビリテーション法制定以降、登録促進活動が各自治体で進められ、県公共福祉事務所の指導を受けて、郡公共福祉事務所の職員が各区に赴き、区長や村長、保健所の職員や村の保健ボランティアと協力して、村の中の障害者を訪問し、登録を勧めている。しかし、この登録促進活動も、各公共福祉事務所の仕事をこなす能力と、どれだけ余裕があるか、そして職員に意欲があるか、という個別の状況に依るところが大きく、進行状況は地域によってバラバラである[注7]。
 村の保健ボランティアから登録についての情報を得たとすると、その次は登録に必要な診断書を医師に書いてもらうために、病院への照会が必要となる。これは、保健ボランティア(村レベル)→保健所(区レベル)→病院(郡レベル)という経路で行われ、最終的には障害者自身が病院に赴き、医師の診断を受ける。ほんの一部ではあるが、診断と登録の出張サービスを行っている所もある。例えばノンタブリー県では、公共福祉事務所と公共保健事務所が協力して、医師を含むチームを作り、車で県内の各区(タンボン)に直接出向き、医師の診断と障害者登録をその場で同時に受け付けるような出張サービスを今年から始めた。たまに、登録以前の問題として、出生届けが両親によって出されていないケースもあり、その場合は、先に出生届を提出して、それから登録作業に入る[注8]。
 医師による障害の評価は、障害者リハビリテーション法制定から3年たって出された1994年の省令に従って行われる。障害の分類は先に述べたように、視覚障害、聴覚障害、身体障害、精神障害、知的障害の5種類に分けられ、視覚障害者とは「良い方の視力が通常の眼鏡使用で6/18以下、もしくは20/70以下[注9] から全盲までの人、もしくは視野が30度以内の人を指す」[注10 ]というように、各障害ごとに基準が定められている。
 診断書を得て、その他必要書類を公共福祉事務所に提出し(この作業は障害者自身でなくても代理人で行える)、障害者手帳を受領することで、国からの社会福祉サービスを受ける権利を手にしたことになる。障害者手帳は各種社会サービスやリハビリテーションを受ける際には提示が必要で、5年ごとに更新する[注11]。   とはいえ、社会サービスの行き届かない農村部に住む障害者は、登録を行ったとしても障害者手帳を活用する機会は滅多にない。

 <登録に関する問題点>
 先の登録者数の統計からも分かるように、登録促進が行われているにも関わらず、未だに登録者数は全体の推定障害者数の3分の1にすぎない。登録が進まない原因は何であろうか。
 まず考えられるのが、登録に関する情報自体が十分に広まっていないことである。登録を統括する公共福祉局の障害者リハビリテーション委員会事務局も登録を呼びかける掲示や、上記のような登録促進活動を一部ですすめているが、末端の障害者の住む村、とくに僻地にあり、交通の便が悪い農村にまで情報を行き届かせるのは困難である。県の公共福祉事務所・公共保健事務所→郡の公共福祉事務所・公共保健事務所→保健所→村の保健ボランティアという、保健・社会福祉関連の情報伝達のシステム自体が確立されたものではないので、村に住む障害者は、同じ村の保健ボランティアの積極性に頼らざるをえない状況である。
 また、登録についての知識があっても、登録をしないケースもある。例えば、医師の診断を受けに病院まで行くことができないために登録を行わない障害者もいる。これは、病院までの交通費が捻出できない、障害のために移動が自由にならないことが原因である。郡の病院まで何十キロも険しい道を越えて行かなければならないような村は沢山あり、乗り合いバスなどの公共交通機関がない村から病院まで行くには、近所の人の車やオートバイを借りて行くしかない。このための費用は、貧しい家庭には負担が出来ず、結局は病院と隔絶されたままで過ごすのである。障害のために遠出が困難な場合や、残りの家族が昼間は働きに出ているために余裕がなく、付き添いで行く人がいない場合などもあり、障害者と医療機関とのアクセスの悪さは根本的な解決が必要とされる問題である。
 また、このような制約を受けていなくても、登録によるメリットが登録するために費やす労力よりも少ないと判断した場合、登録しない障害者もいる。つまり、「どうせ手間をかけて登録をしても、大したサービスは受けられないだろう」と考える人もいるのだ。実際、登録をしたからといって、適切なリハビリテーションや福祉サービスがすぐに受けられる訳ではなく、法で定められた「障害者の権利として受けられるサービス」自体も、なかなか実際には手に入らない。たとえば、下半身の麻痺を持つ人が、登録を行い、車椅子が欲しいと申請を出したところで、車椅子提供の条件に合わないと申請を却下されたり、要請が認められたとしても、実際に手元に来るまで長く時間がかかったりするのは、普通のことである。
 このように、登録の徹底化に関しては幾つかの障害があるが、これらを改善するには、情報伝達ルートの確立、貧しい家庭の障害者のために、登録やリハビリテーションを受けに行く際の交通費の支給など、大規模な改革が必要となるだろう。

2. 障害者に関する法律の歴史

 タイにおける障害者関連の制度や組織の設立は、外国のNGOや障害者団体からの働きかけ、諸外国の動向に背中をおされる形で進められた場合がほとんどである。この項では、タイにおける障害者に関する法制度の確立を、世界の障害者ムーブメントの状況と照らし合わせて追って行く。

(1)1991年以前
 国連は1981年の「International Year of Disabled Person(国際障害者年)」に引き続いて、1983年〜1992年を「U.N. Decade of People with Disability(障害者の十年)」として各国に障害者政策の実施を迫った。1982年に採択された「障害者の十年」の概念を明示した「障害者に関する世界行動計画」は「障害者の十年」には十分に実施されず、アジア太平洋地区では特にその成果が乏しかった(中西 1996 : 16)。
 タイでは1970年に最初の戸別の聞き取りによる障害者の実態調査が行われ、1974年には障害者についてのサンプリングによる聞き取り調査が実施された。これは、タイの障害者福祉の重要なはじめの一歩であると考えられるが、実際に政府による福祉サービスが実現するには、まだその基盤が出来上がっていなかった。1973年から76年までの間は、WHOによる理学療法の普及などを含む、医療リハビリテーションのプロジェクトが実施されたが、大規模なものではなく、ほんの一部の地域でしか行われなかった。しかし、次第に障害者団体や国連、外国のNGOなどの圧力を受け、障害者のための社会福祉を法制化し、システムを確立させようとする動きが高まりをみせ、1976年11月には内閣の諮問機関として「障害者の社会復帰と福祉に関する委員会」が設立された。この委員会は29の政府機関および非政府機関の長によって構成されており、内務大臣が議長を務め、事務局は内務省公共福祉局[注12 ]に置かれた。この委員会の内部に4つの小委員会が置かれており、その一つが「障害者の援助のための行政および立法に関する小委員会」である。この小委員会の主たる業務は、障害者のための福祉並びに社会復帰に関する計画及び法制を研究し、制度化することであった。79年には「障害者リハビリテーション法」の草案が出来たのだが、これは内務省の承認を得ることが出来ず、この計画は一時中挫した(萩原 1993 : 32)。
 しかし80年代に入り、「障害者の十年」の影響を受けて、タイ政府も建前上、障害者福祉に本腰を入れる姿勢を見せ始めた。公共福祉局の当時の局長も「障害者リハビリテーション法」を「障害者の十年」を記念して障害者へのプレゼントとして成立させる、と公言した。1983年にはタイ全国障害者評議会が立法化を勝ち取るために設立され、障害者やその他関係者間の連絡や、セミナーの開催を行い、先の小委員会も草案の練り直しを進めた。
 1986年に総選挙で第一党となった「タイ民族党」の党首チャートチャーイが首相に就任し、タイは久しぶりに文民政権を迎えることとなった。このチャートチャーイ政権は、当時のタイ経済の成長ブームに乗じて、私腹を肥やした腐敗政権としてたたかれるのだが、当初は民主主義の実現という国民の大きな期待を担っていたこともあり、88年に女性、青少年、高齢者および障害者の発展に関する政府、非政府間の調整促進を旨とする政策を発表した。さらには、民主党や社会行動党が承認を後押ししたことも手伝って、「障害者リハビリテーション法」は構想から10年以上経って、ついに1989年、内務省の承認を得ることが出来た(Aim-Orn 1996 : 50-51)。

(2)1991年障害者リハビリテーション法
 89年に承認を得た後、内閣の承認を得るために閣議に3回提出され、閣議の承認を得た後、司法委員会に回付されて法律としての検討を受け、さらに国会の議決の後、国王に言上されて、1991年10月25日にタイ最初の障害者に関する法令として立法化された。
 「障害者リハビリテーション法」は全20条からなるシンプルなもので、主たる内容は以下である。

1.障害者、および障害者リハビリテーションの定義(第4条)
2.障害者リハビリテーション委員会の設置とその組織概略、役割(第5条から11条)
3.障害者リハビリテーション委員会事務局の設置と役割(第12、13条)
4.障害者登録システムの確立(第14、15条)
5.障害者リハビリテーション基金の設立(第16条)
6.公共の建物等へのアクセスおよび障害者の雇用の促進(第17条)

 各内容について、以下で詳細を紹介する。

 <障害者とリハビリテーションの定義> 
 第4条では、「『障害者』とは身体的、知的もしくは精神的異常、損傷を持つ人を指し、『障害者リハビリテーション』とは職業訓練を含む、医学的・教育的・社会的戦略を通じて障害者の能力や適性を促進することを指す」とある。
 
 <障害者リハビリテーション委員会>
 障害者リハビリテーション委員会は、内務大臣を委員長とし、5つの省(防衛省・内務省・教育省・公共保健省・大学庁)の各事務次官、および予算局長(大蔵省管轄)、医療サービス局長(公共保健省管轄)、公共福祉局長(労働社会福祉省管轄)、普通教育局長(教育省管轄)、さらには少なくとも2名の障害者を含む6人以内の学識経験者からなる。委員会の権限と職務は以下の7つと規定されている。

1.障害者の福利、発展、リハビリテーションに関する政策と実行計画および運営計画
  を、内閣の承認を得るために関係省庁の大臣に提言する。
2.この法律の施行に関して、関係する大臣に助言や意見をする。
3.政府または非政府組織による障害者のための福利や発展、リハビリテーションに対し
  て、その実行への技術的・経済的支援、周囲へのアクセス整備などにより、適切な支
  援、促進を行う。
4.障害者に福利や発展、リハビリテーションを提供するプロジェクトを行う。
5.障害者リハビリテーション基金を利用するプロジェクトや計画の承認と、基金の管理
  と運営の規則をつくる。
6.この法に準じる障害者の福利、発展、リハビリテーションに関するプロジェクトや計
  画の実行を監督する規則や制限をつくる。
7.大臣により命ぜられた、その他の職務を実行する。

 <障害者リハビリテーション委員会事務局>
 委員会の事務局として、内務省公共福祉局内に障害者リハビリテーション委員会事務局[注13] が置かれ、その職務は、以下の9つがあげられている。

1.障害者のリハビリテーション・プログラムと福祉の提供に関して、国内外のNGOと
   政府組織との協力調整を行う。
2.障害の予防や治療、リハビリテーションのために、障害者に関するデータの収集を行
  う。
3.障害の予防や治療、リハビリテーションの計画を委員会に提出する。
4.障害者のための活動プログラムを提案、促進する。
5.関連する政府、非政府組織の協力を通じて、障害者のリハビリテーション、発展、福
  利を仕事とする人に対して訓練コースを組織する。
6.リハビリテーション・プログラムを修了した障害者の職場と仕事の機会を拡大する。
7.障害者関連の技術的な情報の普及と広報活動のセンターとして機能する。
8.政府、および非政府組織の障害者のための政策、福祉計画、発展とリハビリテーショ
  ンのプログラムに従って、プログラム分析、調査、プログラムの実行、監視、評価を
  行い、その結果を委員会のメンバーに報告する。
9.委員会の決定、もしくは命に従って、その他の職務を行う。

 <障害者登録>
 この法で定められたサービスやリハビリテーションを享受する権利を持つためには、障害者は登録を行わなければならないとされている。登録方法については先に書いたとおりである。登録を行った障害者の享受すべきサービスとして挙げられているのは、

1.医療リハビリテーションサービス、医学治療費用、身体的・精神的・心理的障害のリ
  ハビリテーション用器具、能力向上のための支援。
2.国の教育計画に則った義務教育、職業教育、大学教育。これらの教育は、特殊学校で
  の教育や技術革新センターが支援を行う普通校での統合教育によって提供される。
3.障害者の働く潜在能力を保証するための仕事や職業訓練に関する相談、アドバイス。
4.社会活動への参加と各種施設、サービスへのアクセス。
5.訴訟や政府組織との折衝に関するサービス。

以上の5つである。これらのサービスの幾つかは以前から実施されていたものだが、障害者の権利として明文化されたのはこれが初めてである。

 <障害者リハビリテーション基金>
 この基金は政府からの交付金、国内外の一般の人々や法人や組織などからの寄付金、その他の収入から成り、障害者リハビリテーション委員会事務局のなかに設立される。障害者への援助および、医学・教育・社会的リハビリテーション・職業訓練を行う施設への支援の資金として使われる。 

 <障害者の雇用>
 この法律の目玉とも言えるのが、この障害者の雇用を義務づけた規定である。民間企業の経営者、雇用主は適切な割合で障害者を雇うことが定められ、障害者雇用数が割合を下回る企業は代わりに障害者リハビリテーション基金に寄付を行わなければならないことになった。この雇用の割合や、寄付金の詳細は94年の公共保健省の省令に記された。

(3)1991年以降
 @ 障害者リハビリテーション法の省令
 障害者リハビリテーション法に関して、公共保健省の省令が1994年に出され、障害者雇用・障害の基準・医療リハビリテーションと治療及び器具への補助金の3つの項目について、それぞれの規定を詳しく説明している。
  
 <障害者の雇用と障害者リハビリテーション基金への寄付>
 200人以上の従業員を持つ民間企業は200人に一人の割合で障害者を雇用しなければならない。200人超過分については、各100人ごとに一人の障害者を雇わねばならない。例外が適用されるのは職場が障害者にとって適切でないと公共福祉局によって判断された場合のみである。
 障害者の雇用が規定に満たない企業は毎年1月30日までに公共福祉局に報告しなければならない。障害者を雇用する意志を30日以上掲示し、それでも障害者の応募がない場合、もしくは企業の雇用の意志を受けてから30日以内に公共福祉局が応募者を見つけられなかった場合は、その企業は雇用規定を免除される。
 障害者を雇用する意志がない企業は、「その地域の最低賃金の半額×365×達成されていない障害者雇用数」の寄付金を障害者リハビリテーション基金に送らなければならない。

 <障害の種類と判断基準の指定>
 ここで障害の種類が5種に分類され、指定医による障害の診断と、診断基準が載せられている。 
 <医療リハビリテーションサービスの供給と治療及び器具の提供>
 登録を行った障害者の受けることのできる医療リハビリテーションサービスは以下13種がある。^診断や検査、特殊な診察、_カウンセリング、`薬、a外科手術、b医療リハビリテーションと看護、c理学療法、d職業療法、e行動療法、f心理療法、g社会サービスと社会療法、h言語療法、i視聴覚療法、j器具、補装具の使用
 公共保健省の指定した国立病院、公共保健省の施設または政府の施設で医療リハビリテーションを受ける障害者は、上記の医療サービスと治療期間の宿泊と食事を無料で提供される。
 医療リハビリテーションを受けた障害者が義肢やその他の補助具を必要とする場合は、
その医療機関がその必要に応じるか、もしくはシリントン国立リハビリテーションセンターに要請を行う。供給された義肢等が修理や交換を必要とする場合も、医療機関が無料でそれを行う。

 このような幾つかの補則が出され、その結果、1991年のリハビリテーション法の実施が現実的なものとなった。とくに、障害者の雇用規定に関する補足は、障害者を雇用しない企業に対する規定を明確に定めたことが、評価される。しかし、実際には、規定数の障害者を雇うよりも寄付金を払うことを選ぶ企業が多く、障害者の就職は依然として困難である[注14]。今後、障害者雇用規定に関しては、さらなる検討が必要とされるだろう。
  
 A 1997年新憲法と1998年障害者人権宣言
 1997年に制定された新憲法は、政党政治の腐敗防止を眼目とし、汚職防止の制度改革、国民の政治への参加、人権・環境への配慮が特色となっている。第3章において国民の権利と自由が記されているが、これは旧憲法ではふれられていなかった項目である。障害者に関する項目としては、第55条「障害者あるいは虚弱者は、法律の規定に基づき、国の保健サービスおよび他の援助を受ける権利を有する」、第80条「国は高齢者、貧困者、障害者あるいは虚弱者および機会に恵まれない人の生活改善及び自立のために援助しなければならない」とある[注15]。
 「タイ障害者の人権宣言」は新憲法を補い、障害者の有する権利と自由を一般社会とタイ国内の障害者に知らせるものとして、タイ政府が1998年12月3日に発表したものである。草案づくりには障害者団体や障害者に関わるNGOも加わった(斉藤 1999 : 7)。その内容は、障害者の政治や社会活動への参加の権利、リハビリテーションや教育、職業訓練を受ける権利、そして情報を知る権利などが記されたものである。

3. 実際に障害者の受けられるサービス

 障害者に対する行政は、労働社会福祉省、公共保健省、教育省の3つが主に担当している。それぞれの下に局や、地方には事務所が置かれ、サービスの実際の提供窓口として機能している。各行政の流れは次のようになっている。

「公共保健省 → 県立病院

       |     
       → 県公共保健事務所 → 郡公共保健事務所
       | 
       → 医療サービス局  → 管轄下の病院
                  |
                  → シリントン国立リハビリテーションセンター
                

「教育省 → 普通教育局 →          普通校
     |        |
     |         → 障害者教育課 → 特別校、特別教育センター
     |
     → 職業訓練局 → 職業訓練校 
     | 
     → 課外教育局 → 各地方ごとにある課外教育センター
 

「労働社会福祉省 → 公共福祉局 → 障害者リハビリテーション委員会事務局                    |
         → 技能開発局 → 技能開発センター
         |
         → 県公共福祉事務所 → 郡公共福祉事務所 
 

 障害者リハビリテーション委員会が障害者向けに発行している小冊子 「障害者ハンドブック」(1998年発行)によると、登録を行った障害者は、1991年障害者リハビリテーション法の規定が定めた権利に則って、以下の4種類のサービスを受けられる。

(1)医療サービス
 障害を治すための医学治療、障害者が使う器具、医学上のアドバイスや相談は、全国の政府系の医療機関で無料で受けられる。
 車椅子や、義肢は労働社会福祉省公共福祉局が、配付を管轄しているが、場合によってはシリントン国立医療リハビリテーションセンターから配付されることもある。
 また、登録を行い、治療が必要であるが最寄りの医療機関にその設備がない場合は、リファーラルを受けて、他の医療機関で無料で治療を受けることができる。この場合、治療期間中の本人の食事や宿泊費は支給されるが、交通費や付き添いの費用などは自己負担となる。

(2)教育サービス
 各種教育機関での教育、教育に必要な道具や学費の提供、教育に関するアドバイスや相談は特別教育局、普通教育局、または全県の普通教育事務所で受けられる。

 <障害者のための教育年> 
 1999年は教育省の定めた「障害者のための教育年」である。1997年の新憲法にある、障害者の権利に関する記載として、第55条、第80条を前述したが、それに加えて、第43条には「国民は政府の定めた12年の基礎教育をもれなく、無料で受ける権利を持っている」と書かれ、障害者や貧困層などのこれまで教育を受ける機会に恵まれなかった人々にも、義務教育を浸透させる方針が明確となった。現在は、小学校教育6年間のみが義務教育であるが、制服代や本代などを出せずにこまっている家庭も少なくない。特に、現金収入の少ない半自給自足の農家では、子供を学校に行かせるために、親が日雇いや出稼ぎに出ることも珍しくない。政府は、新憲法により、2002年までに、中等教育までの12年間を学費のかからない義務教育とすることを定めたが、現実的に見て、現状が法律に追いつくためには、さらに時間がかかると思われる。
 この新憲法を受けて、1999年に「全国教育法」が発布され、その第10条において「身体、精神、知能、情緒、社会、コミュニケーション、学習の上で能力を欠く人、もしくは障害者、もしくは自立する能力がない人、もしくは監督者のいない人、機会に恵まれない人は、特別の義務教育をうける権利と機会を与えられるべきである。」とされた。これに続いて、「前述の障害者への教育は、生まれた時から、または障害を受けてから無料で受けることが出来、また、教育に関するサービスや援助を受けること、教育を受けるために障害者に利便を図ることも法の定める範囲で保証される。」とある。
 教育省は、「40年以上に渡って、障害者への教育機会の拡大をはかってきたが、教育を受ける年齢(3歳から21歳)にある障害児を対象に行った調査の結果、現在においても教育を受けた障害者は30000人程度で、全障害者数の20パーセントにしか満たない」とこれまでの障害者教育の不十分さを自認しており、全国教育法の発布と同時に、1999年を「障害者のための教育年」と定め、ここにおいて障害者教育の促進を再確認する運びとなった。
 この教育年で具体的に実施される内容は、

・すべての教育機関に障害者を受け入れる旨の掲示をさせる。
・障害児を持つ両親や保護者に対して、障害に関する知識と理解を持つための研修を行
  う。
・障害者のための各種スポーツ大会を開催する。
・今年を障害者教育年とする政府の意向を広める。
・2000年の予算を、関係する各局において、障害者教育のための特別予算として割当て
  る。

 の五つが挙げられており、「教育年」を受けて、教育省の普通教育局が予定している実際の活動は以下の通りである。

・35県にある、41校の障害児向けの特別校の質を向上させる。
・普通校での障害児統合教育の促進をはかる。また、そのために13カ所の特別教育セン
ターを設置し、センターはService Center, Coordination Center, Resource Center,
Support Center, Information Center として機能する。
・教育拡大を確実に行うために障害者に関する情報収集を行う。
・特別教育校のない県、40県に「障害者のための特別教育サービス所」を設ける。これ
は、元々ある施設や建物を使い、そこが上記の特別教育センターの役目を果たすものと
する。
・統合教育のために、教師および関係者の指導を行う。
・障害者教育のための予算配分を行う。
 
(3)職業サービス
 仕事に関するアドバイス、職業訓練、仕事を始める際の資金貸し出し、仕事の紹介などが、障害者リハビリテーション法の規定に則って、受けられる。また、何らかの技術を持った障害者が、自分で事業をおこしたい場合や、自宅で仕事をしたい場合、起業資金として、20000バーツまでを公共福祉局が適正審査を行った上で、貸し出すサービスもある。自宅で縫製の仕事をするためのミシンを買う資金や、パソコンで仕事をするためのパソコンを買う資金などがそれにあたる。
 職業紹介の窓口として公共福祉事務所がある。障害者雇用規定に当てはまる企業からの求人や、その他、障害に応じて就労可能な職業をここで紹介する。また、全県の職業斡旋事務所においても同様のサービスを提供している。
 では、障害者が実際に選ぶ職業には、どのようなものがあるのだろうか。むろん、裕福な家庭に生まれ、家業を手伝うなど、仕事を探す必要のない障害者や、教育の機会に恵まれ、コンピューターなどの技能を身につけ、それを生かした職業に就く障害者もいるが、ここでは、そのような少数の人々以外の障害者が手に出来る雇用の機会を探ることにしたい。
 
 <宝くじ売り>
 視覚障害者、身体障害者などに最も人気のある職業が宝くじ売りである。タイの町中では、首から宝くじを並べた台を下げた宝くじ売りをよく目にする。タイでは宝くじが貧しい層から豊かな層まで、広く親しまれていて、売れ行きも良い。障害者ではない宝くじ売りもいるが、目や手足の不自由な売り手をよく目にする。宝くじを売るためにはその権利を宝くじ局から買う必要があるが、障害者の場合、それを優先的にもらえる権利がある。
 1960年に民間組織の連絡機関として設立されたNPOであるタイ社会福祉協議会では、20年以上前から、障害者への宝くじの提供を行っている。協議会は大蔵省の宝くじ局から無料で宝くじの配布を受け、それを障害者に安く販売している。購入した障害者は、それをどこでも売ることができ、売り方は個人に任されている。利益は自分のものとなる。これにより家族を養えるほどの収入を得ることが出来るため、希望者が多く、新聞広告や色々な関係組織に掲示して、希望者を募っているが、希望者の中からさらに人選するために、一人一人について、ソーシャルワーカーがインタビューして個人の素質を調べている。
 また、県の公共福祉事務所でも、同様に障害者のための宝くじ販売を扱っているが、こちらは利益の10パーセント程度を事務所に納める方式になっている。

 <按摩>
 タイ式の伝統マッサージは、歴史もあり観光客に非常に人気がある。タイ人のなかでは、豊かな層の中年男性が主な顧客である。視覚障害者向けに幾つかの職業訓練所でマッサージ習得のコースを設けている。技術を得た目の不自由な人同士で資金を集めて、自分たちでマッサージ店を開業したりするケースもある。収入は、店の繁盛度にもよるが、他の職業に比べ、時間あたりの単価が高く、チップも期待できるため、比較的良い。

 <作業所>
 公立のものやNGOによる運営のものなど、数カ所ある。籠や絹の小物、人形などの手工芸品の製作を行っている。高く売れるため、観光客向けの土産物が多い。販売ルートは作業所によって異なり、作業所で直販している場合や、デパートなどの小売店と契約している場合、仲介業者に販売を任せている場合などがある。
 バンコクにある Goodwill Industry of Thailand は、1966年にタイ社会福祉協議会によって設立された作業所である。現在、17歳から50歳までの男女の障害者48人が働いており、障害は身体障害、知的障害、聴覚障害である。廃品を利用した籠や造花、置物、シルク製の小物、ポストカードを作っている。製品の販売はバンコク中心部にある観光客向けの土産品専門のデパートの一角にコーナーを持っているほか、作業所の一階の店舗や、各種フェアや展示会で行っている。寄付された品物や、作業所以外の障害者が製作したものも扱っている。この作業所で作られたものには、「Goodwill Industry of Thailand」の名の入ったシールが貼られ、障害者が作ったことをアピールして付加価値を付ける販売方法が取られている。ここで働く障害者の半分がバンコク、3割が東北地方出身で、地方出身者は共同で作業所の近くにアパートを借りて住み、そこから毎日歩いて、もしくは車椅子で通ってくる。作業は月曜から金曜の朝8時半から夕方4時半までで、昼食は作業所内で無料で出される。給料は経験や技術によって、一日145~180バーツが支給され、アパートの家賃は自己負担である。ここでは、働ける期間が無制限なため、希望すればいつまでも働き続けることができる。将来的には、100人の受け入れを目指しているが、そのためには設備の拡張と、製品の宣伝、販売ルートの確立が必要である。

 <裁縫、皮革縫製、修理工>
 ほとんどの職業訓練校のコースにあるのが、主に女性の障害者向けのミシンを使った被服縫製、主に男性対象の鞄や靴を作ったり修理したりする皮革縫製、またはテレビ、ラジオ、扇風機、エアコン、車などの修理の3課程である。たいてい一年間かけて技術を学び、卒業後は工場に就職したり、自宅や、道ばたなどで自分で店を開いたりしている。

 <農村では>
 上記のように、訓練を受けたことによって、技術を取得し、自立して仕事ができるようなものもある。しかし、問題はそのような職業はおもにバンコク、地方でも都市部に限られたものであり、地方に住む障害者には手の届かないものであることだ。大多数が農村部に住む障害者の実状を考えると、就業の機会と種類のさらなる拡大が必要である。
 地方に住む障害の重い障害者にとっては、住み慣れた村で、家族と一緒に生活をしながら出来る仕事が理想的である。このような仕事の一つとして、この数年、一部のタンボン(区)管理組織が始めたプロジェクトで、ひよこと餌を無料で障害者や高齢者に配布し、もらった人はそれを家の下などで育て、成長したら売って収入を得ることができるというものがある。これは、重度の障害者や、知的障害者にも出来る仕事であり、何より、家族と一緒に出来るために、家を離れて施設で作業を行うよりも精神的な安定が得られる。しかし、鶏が病気にかかって死んでしまったり、長期間の仕事の割には利益が少ないことなど、難しい点も幾つかある[注16 ]。

(4)社会サービス
 経済的に困っている貧しい層の障害者の家族や、障害児への支援、そして自分で仕事が出来ない障害の重い人のための生活費の支援が受けられる。公共福祉局または各県の公共福祉事務所で受付をおこなっている。
 登録を済ませた障害者のうち、貧しく仕事のない人を対象に、毎月生活費として500バーツを支給する。障害者からの申請を受け付けた公共福祉事務所の職員やソーシャルワーカーが審査を行い、支給の可否を判断する。また、さらに生活に困った子供や家族のために緊急の支援金として2000バーツを支給することもある。
 ノンタブリー県の場合、現在2038人が障害者登録を済ませているが、このうち500バーツの生活費援助を受けている人は約180人、また、2000バーツの緊急支援金は年間で約70ケースに支給している[注17] 。

4. 施設等の現況
 
 上述のように、法律上では、障害者に対する4つの側面のサービスが保証されている。それでは、実際には、そのようなサービスが提供されている場、つまり障害者が利用する施設はどのように整備されているのだろうか、そのアクセスビリティーなどを考慮に入れつつ、病院、リハビリテーション施設、学校、職業訓練施設の4つについて調べる。
 
(1)病院 
 障害者が無料でリハビリテーションや治療を受けることの出来る病院は公立の病院のなかでも、政府指定の場所と限られている。障害者は、指定の病院に障害者手帳を持参し、治療や、補助具の申請を直接行う。仕事で他県に住んでいる場合などは、住民登録を行っていない区の病院に行っても同様のサービスが得られることになっている。
 政府の指定した病院は、
 ・各県立病院、または17カ所の医療センター
 ・数カ所の国立大学病院(バンコク、チェンマイ、コンケーンの3県のみ)
 ・公共保健省医療サービス局管轄の病院(バンコク周辺の数カ所のみ)
 ・内務省管轄の警察病院(バンコクに1カ所)
 ・国防省管轄の病院(バンコクに3カ所)
 ・バンコク都管轄の病院(バンコクに3カ所)
 上記の病院には、車椅子の提供サービスのみを行う病院も含んでおり、身体障害者に対する理学療法や、視聴覚障害や精神・知的障害に対する治療やサービスを行える病院はほんのわずかである。ちなみに、知的障害、学習障害者へのサービス提供を行っている病院は、バンコクとチェンマイのそれぞれ1カ所ずつの病院のみである。
 医療センターは、まだ大きな病院がない、比較的僻地にある17県におかれているが、それでも、大きな病院も医療センターもない県が東北部、南部を中心に10県ほどある。障害者に対する医療サービスに限らず、全ての医療について言えることだが、タイの医療機関・医療施設はバンコクに集中しており、特に理学療法や視聴覚の精密検査などの技術を必要とする治療は地方では受けることが出来ない。地方に住む障害者は、バンコクに来て適切な治療技術を持つ病院で治療を無料で受けることも出来るが、バンコクまでの旅費などは、自己負担となるので、結局は治療を受けずに諦めてしまう場合が大部分である。

(2)リハビリテーションセンター
 バンコク中心部から車で20分程のところにあるシリントン国立医療リハビリテーションセンターは、国内最大の障害者のためのリハビリテーションセンターである。1983年からの「国連障害者の十年」に後押しされたこともあって、当時の日本の国立リハビリテーションセンター所長と公共保健省医療サービス局との協力のもと、1986年に国立医療リハビリテーションセンターの建設が提案され、その後、このプロジェクトがシリントン王女の庇護を受ける形となったので、1988年にシリントン国立医療リハビリテーションセンターとして診療が開始された。
 現在、9名の医者と、5人の理学療法士、3人の作業療法士、6人の補装具技師及び整形外科技術者が治療にあたっている。1997年の統計によると、年間で802人の外来患者と263人の入院患者を治療している。センターでは、直接の治療の他にも障害者に関するあらゆる活動を行っている。障害に関する情報の収集と分析、広報活動をはじめ、地方でのCBR(Community Based Rehabilitation)プロジェクトや、リハビリテーションに関するセミナーの開催など、タイにおける障害者リハビリテーションの中枢機関の役割を果たしている[注18 ]。

(3)学校
 先にも記した「障害者教育年」のスローガンのもと、普通校での統合教育が進められているが、身体障害以外の障害児の受け入れは、学校の設備の問題や、教師の技能の問題などのためになかなか進んでいない。
 また、障害別の特別校も聾学校の場合は比較的多く、全国21県にあるが、盲学校は8県のみで、地方ごとに一つようやくある程度である。さらに、知的障害、学習障害児向けの学校はバンコクとその隣のノンタブリー県に集中しており、施設を兼ねている場合が多い。ノンタブリーの施設では、地方に住む知的障害児を持つ親が、子供を一人で送りだしているケースが沢山見られる。
 障害児が最寄りの学校で教育を受けられるように、普通校の教師への指導法トレーニングと、学校側の受け入れ体制および設備改善を性急に進めることが今後の課題であろう。
 
(4)職業訓練施設
 公立の職業訓練施設には、3種類あり、労働社会福祉省公共福祉局が管轄する障害者だけを対象としたもの、労働社会福祉省技能開発局が管轄する一般向けであるが、障害者も一部受け入れているもの、そして教育省職業訓練局が管轄する職業訓練学校での統合教育がそれにあたる。 
 公共福祉局の運営する職業訓練センターは全国に9カ所あり、学校ごとに訓練コースが異なるが、被服縫製、電気製品の修理、美容師、車の修理などが主である。これらを半年から一年かけて学ぶ。最近、人気があるのがコンピューター技能コースであり、9校のうち3校がこのコースを持つ。しかし、応募者に対してコンピューターの数が足りず、常に順番待ちの状態である。
 技能開発局管轄の技能開発センターは、障害者の受け入れも表明してはいるが、実際に受け入れているケースはまれで、応募があっても、公共福祉局の職業訓練センターの方を紹介したりしている。コースの内容は、ほぼ職業訓練センターと同様のものである。
 職業訓練校においても、統合教育推進の対象になっているが、やはり教師のトレーニングや施設の改装などが追いついていない。
 また、職業訓練施設に限らず、障害者が教育を受けに行く場合の大きな問題が、どのように通うかという交通の問題である。タイの交通の便は、障害者に対して非常に閉鎖的であり、バスや電車の公共の交通機関も障害者に対する配慮を行っていない。今年、初めてバンコクの路線バスに車椅子リフト積載のバスが数台登場したくらいなので、交通機関の障害者向け整備はまだまだ夜明け前といえるだろう。このような問題の解決策の一つとして、訓練所の敷地内に居住するという方法がある。9つのセンターのうち、3カ所が宿泊施設を備えており、学費はもちろん、宿泊費、食費、および生活に必要なもの全てが無料で提供される。そのうちの一つ、プラプラデン職業訓練センターでは、15歳から40歳までの70人の男女の障害者が敷地内に生活し、各種の訓練を受けている。年に一度、4月に生徒を募集しているが、つねに応募者数が定数を上回るため、審査を行い、貧しい家庭の障害者を優先的に受け入れている。現在最も人気のある学科がコンピューターのコースであり、10人がほぼ一人一台のコンピュータを使って指導を受けている。一年のコースを修了すると、生徒は施設を出なければならないが、やはり就職先が見つかりにくく、現在のセンターの課題は生徒を雇用してくれる企業を探すことである[注19] 。

__________
注3 Medical Rehabilitaion Service System in Thailand,Sirindorn National Rehabilitation Center,1996

注4 障害者リハビリテーション法 第4条

注5  Medical Rehabilitaion Service System in Thailand,Sirindorn National Rehabilitation Center,1996

注6 労働社会福祉省公共福祉局障害者リハビリテーション委員会事務局「障害者ハンドブック」1998

注7 労働社会福祉省公共福祉局障害者リハビリテーション委員会事務局「障害者ハンドブック」1998

注8 ノンタブリー県公共福祉事務所 Wanida 氏へのインタビュー(1999年8月)より。

注9 6/18はヨーロッパ、20/70は米国の測定法によるもので、日本では視力0.4に相当する。

注10 規定についての詳細は巻末資料1の本文を参照。

注11 労働社会福祉省公共福祉局障害者リハビリテーション委員会事務局「障害者ハンドブック」1998。

注12 1993年に労働社会福祉省が内務省から独立し、その中に公共福祉局も移った。

注13  現在は労働社会福祉省公共福祉局内。

注14  現在は労働社会福祉省公共福祉局内。

注15 新憲法和訳は、斎藤百合子氏の訳(斎藤 1999 : 5)を引用。

注16 パヤオ県ジュン郡シーマーライ保健所 Sitichai氏へのインタビュー(1999年9月)より。

注17 ノンタブリー県公共福祉事務所 Wanida氏へのインタビュー(1999年8月)より。

注18 シリントン国立医療リハビリテーションセンター発行「1997年度レポート」

注19 プラプラデン職業訓練センター所長Cheewaporn氏へのインタビュー(1999年8月)より。

第二章 タイの障害者をめぐる思想

1. タイの精神文化

(1)タイの精神文化と障害者
 その国の障害観というのは、障害者福祉をすすめる上で、大きな鍵となる。例えば、障害者に対する蔑みや差別が強い国では、具体的な福祉策を進めるのと同時に、またはそれより先に、健常者及び障害者に対して、障害に関する教育や障害観の啓蒙活動を行う必要がある。つまり、障害者は無力だ、自分では何もできないと思われているところでは、障害者の能力を広く知らせる必要があるし、障害者は罪深いために障害を負って生まれてきたのだと考えるところでは、障害者本人にはなんら責められるべき点はないこと、障害はいつ自分の身に降りかかるか分からない身近な問題であることを理解してもらわなくてはならない。障害者福祉の重要なファクターとなるのは、周囲の協力と理解、そして障害者自身が自信をもって取り組む主体性である。このファクターなくしては、どのようなプロジェクトも効果を上げることは出来ないだろう。
 そして、障害観を作りだしているのは、その国の精神文化と呼ぶべきものであり、宗教に限らず、道徳観念、伝統的制度、指導者の性格など、あらゆるものが混ざり合って出来上がったのが、精神文化である。タイでの障害者福祉を見る上でも、障害観をつかさどるタイの精神文化について知るのは不可欠な作業であろう。よって、この項ではタイの精神文化の2大要素である「タイ仏教」と「助け合いの精神」の概略を説明したのち、次の第2項でそれらが具体的に、障害観に対してどのような影響をもっているのかを分析する。また、第3項と第4項では、タイ仏教が障害者に対して持っている二つの異なる側面として、それぞれ「閉ざされた障害者の出家」と「寺が行う障害者福祉活動」を取り上げ、それらの持つ矛盾点や利点を明らかにする。

(2)精神文化とタイ仏教
 国民の95%が仏教徒である、アジアでも珍しい、まさに仏教国タイでは、地方農村はもとより、都市生活の中でも仏教文化が根強く息づいている。
 大抵のタイ人は生まれながらに仏教徒であり、幼い頃から僧侶に敬意を払うことや、托鉢に応じたり、寺に寄附をすることの大切さを教えられている。小・中学校では仏教の教えに基づいた道徳教育が行われ、仏教の教義や戒律などについての知識を得る。さらに、男子であれば、結婚前には短期間の出家生活を経験していることが望ましいとされ、数日から3ヶ月まで、期間の長さは人によって異なるが、出家は男子の通過儀礼になっている。僧侶の毎朝の托鉢に応じるのは主に女性の役割である。一年を通じて、万仏節や仏誕節、三宝節など、寺ではさまざまな儀式や祭りなどの行事が行われ、大勢の人が寺に集まる。タイの季節は仏教行事によって回っていると言ってもよいだろう。現代においても、人々の生活と仏教との結びつきは変わらず強く、タイ人の道徳観念の基盤には仏教がある。しかし、タイ仏教の様相は、社会の状況に同調して少しずつ変化してきているようだ。
 最近のタイの社会現象ともなっているのが、特定の寺や僧侶にたくさんの寄進することに生き甲斐を感じる人々の増加である。これはタイの中間層の拡大とも関連した現象である。寄附をすればするほど功徳が積まれると信じる人々は、生活にある程度の余裕ができれば、余財をあたかも来世のために貯金をするかのように寄進にあてるのだ。また、瞑想を日課とする人が増えているのも最近の現象である。寺で瞑想法を習い、精神の安定を得るために家で好きな時間に実践するのだ。これは、ストレスの増えた現代人が、賢く仏教を利用している方法であるともいえよう。
 いずれにしても、仏教はタイ人の生活の傍らに常にあるものであり、あまりに生活に密着しているために、その存在に意識的になることは稀であるが、いざというときには頼りにする、まさに空気のような存在なのである。

(3)助け合いの精神と国王への尊敬
 タイを旅するほとんどの外国人が持つタイ人の印象として、「タイ人はにこやかで親切だ」というものがある。道を聞けば分かるまで一生懸命に教えてくれる。バスの中では、老人と子供が乗ってくれば、座っていた人は無言で席を譲り、重い荷物を持った人が前に立てば、座っている人は当たり前の顔で荷物を取って自分の膝に乗せる。そして、赤ん坊を連れた物乞いの母親の稼ぎは非常によい。通る人通る人が小銭をカップに入れていく。こんなことを書けば、タイ社会を不要に美化しているように思われるかも知れない。確かに、タイ人は他国の人に比べて親切であるとか、人を助けるのが好きだとか、「タイ人気質」なるものを述べるのは容易ではないし、適切ではないだろう。実際、公共の場での秩序や犯罪の少なさでは遙かに日本がタイを上回っているし、タイ人にも「親切でない」人が沢山いるに違いない。しかし、多くの日本人がタイに来て、「タイ人は親切だ」と感動するのはなぜだろう。
 よく言われることに、昔の日本が持っていたものを現代のタイが持ち合わせているということがある。その昔、江戸の町では、義理と人情が尊ばれ、町人文化の誇りのように唱えられたが、これは逆に考えると、都市化によって失われつつあるものへの危惧がそのような風潮を生んだといえるだろう。生活のなかに当たり前のように存在していれば、わざわざ取り立てて唱える必要もないのだから。町行く人が横を通りすぎる人に全く関心を持たないのが都市である。都市生活者は、他人と自分との線引きを明確にし、自分の領域を守って生活していくので精一杯なのである。都市化によって、どんどん人と人との結びつきを失ってしまった日本に比べて、現在、急激な都市化の真っ最中であるタイは、現時点では他人への関心が、まだ多く残されているかも知れない。しかし、すでに大都市となったバンコクにおいても、かつての江戸の町人文化ような助け合いの人間関係は、まだ存在していると言えるのだろうか。
 タイでも近年、メディアや様々なスローガンを通じて、頻繁に「助け合い」とか「協力」とか言う言葉が聞かれる。やはりこれも、失われつつあるものへの危機感の現れなのだろう。たしかに、バンコクの都市化は、その他の地域を極端に引き離して都市化が極端に進んでいる。公害や渋滞、スラムなど、大都市の抱える問題も山積みにしている。それと同時に、コミュニティーの崩壊や、人間関係の希薄化も進んでいる。しかし、タイ人が助け合いの精神を貴ぶのは、今も昔も、都市も農村も、変わらない事実である。
 タイ語で、この助け合いの精神を表す言葉が「ナムチャイ」である。タイではなにかにつけ「ナムチャイ」の大切さが説かれる。メディアや教育を通じて、タイ社会のあらゆる場面で「ナムチャイ」がキーワードとして使われている。ナムチャイの思想はもともとは、仏教伝来以前からタイに存在したと考える思想家が多いが、現在では仏教の慈悲の精神と合わさって、仏教の教えの一つとして理解している人が多い。ナムチャイという言葉が一般的に使われる場合は、タイ人なら持っているべき助け合う気持ち、という理想のような意味合いを含んでいる。
 さらに、タイでは国王の権威が偉大で、国民は国王を敬愛し、国王の指導のもとにタイ人同士が助け合って、勤勉に生きようというような内容のスローガンが頻繁に唱えられる。これは、現国王の人徳に依るところが大きい。王室は多くの慈善事業を行っており、また公共の福祉関連の施設や事業は王室の名を冠にしたものがほとんどである。よって、タイ人にとって、慈善事業の象徴は王室であり、特に人望の篤い現国王は、タイ全体に慈悲をもたらすようなイメージを有している。この敬愛する国王のために、タイ人は助け合って国を発展させようという風潮をタイ政府も意識的に作り上げているようだ。
 ちなみに、タイの祝日は一年に14回あるが、そのうち、憲法記念日と大晦日と新年を除く11回が全て、仏教もしくは王室関係の祝日である。学校教育の場においても、仏教の教えと国王への尊敬は、教育の根幹に据えられている。大抵の建物には国王夫妻の肖像が正面に掲げられており、タイ人は子供の頃から王室へ敬意を払うことを躾けられている。

 (2)、(3)で上述したように、タイにおける障害観を語る際には、タイ人の精神文化を司る、仏教の思想と助け合いを重んじる精神を分析することは不可避である。さらに細かく見ると、仏教の思想の中で、タイ人の障害観を決定しているのが「バープ(罪業)」の教えで、寄附や慈善などのモティベーションになっているのが「タンブン(功徳)」の教えである。そして、仏教の枠を越えて、国王の影響なども受けてタイ人の精神文化として発達したのが「ナムチャイ」の精神である。次項で、これらの3つを巡って、タイの障害者福祉に対する精神的な枠組みの分析をさらに進めたい。

2. 障害者は「可哀想」か「前世の業」か?

(1)バープとは
 <バープの思想>
 仏教の教えの因果応報と輪廻転生は信者の行動をつかさどる重要な思想である。タイでも「良いことをすれば良い結果が得られる」という考えと「悪いことをすれば不幸が降りかかる」という考えが、人々の規律の規範になっており、「現世で良いことをすれば来世はもっと幸せになれる」、また「前世で良いことをしたから現世では幸せだ」という輪廻転生、生まれ変わりが信じられている。これは反対に、「現世で悪いことをすれば、地獄に落ちたり、来世で虫けらや動物となって大変な目に遭う」「前世で悪いことをしたから、現世ではこんなに悪いことが起きるのだ」などとも考えることができる。いずれにしろ、現世での善行の奨めと悪行の防止を目的とした、社会規律のためのシステムなのである。「バープ」とは、後の世まで影響を及ぼす悪行・罪障のことであり、広くは罪の意識を生むような悪いこと全般を指す。人を殺傷するのは非常に大きなバープであり、動物を殺すのもバープ、盗みもバープ、親不孝もバープなのである。この世で悪いことをすれば、その分、次の世では悪いことが身にふりかかってくるのだ。これは、犯罪にストップをかける精神的な縛りであり、非常に大切な教えである。しかし、この考え方は障害者への偏見につながるとして危険視する人もいる。

 <バープと障害者>
 これまでタイにおける障害観は、バープの思想のせいで障害者は偏見を持たれ、軽蔑される傾向があると言われてきたが、実際にそうなのだろうか。
 バープは、上座仏教を信仰する国では、人間がこの世に生きる根拠を示している。この世の他に、前世と来世の存在があるために、この世には前世から受け継がれたものがあり、来世に受け継ぐものがある。現世で身に降りかかった悪いことは、前世でのバープが原因であり、現世のバープはまた来世への影響を持つのだ。また、バープの思想は、この世での悪行を防ぐ役割も持っている。前世で悪いことをしたから、今、苦しみがあり、さらには今のこの世で悪いことをすれば、来世では良い暮らしが出来ないという、来世のための保険として、善行をこの世で蓄えておくという考えである。さらには、現世における自分の境遇をありのままに受け入れる態度も、バープの思想が根幹にある。この世の不幸は前世のバープのせいだから、今の自分はただそれを受け入れるしかないのである。
 したがって、自分はなぜ障害者に生まれたのか、自分はなぜ障害を持つに至ったのか、なぜ自分が人より多くのハンディを負わねばならぬのか、という疑問に対して、バープの思想は「それはバープのせい」という明快な答えを与えてくれる。今の自分にはどうにもならない力の働きで、現在の状況があるのだから仕方がない、それを受け入れて諦めなければ、と納得させてくれるのだ。これにより、疑問のために苦悶する必要はなく、確かに気持ちが楽になるかもしれない。しかし、見落としてはならないのは、「諦め」の気持ちが「進歩」の機会を奪ってしまう可能性もあるという点である。「今の状況はバープによる定めなのだから、抵抗しても仕方がない、諦めよう」という論理が、「自分が障害を持っているのはバープのせいだ、努力しても仕方がない、諦めよう」に通じるかもしれない。さらに、健常者が、障害を持った人を「あの人はバープでああなった、前世で悪行を働いたからだ」という目で見ることは、一種の差別を生み出しかねない。
 これらのことが、障害者の自立や社会福祉サービスを進める上で支障になるのではと危惧した外国のNGOを中心として、「障害はバープのせいではない」という教育活動がその他の活動とともに行われてきた。タイ全国社会福祉協議会でも、障害に関する人々の意識を変えることを活動の一つに盛り込んでいるし、タイやその他の上座仏教国で障害者福祉を研究する者も常にこの点を指摘してきた。しかし、この点に固執することは、現時点でさほど重要ではない、と言うのが今回の調査で得た私見である。タイの障害者福祉・リハビリテーションの進展を阻む原因は、たとえば障害に関する知識一般の不足といった、バープの思想とは関係のないところにあると言えよう。
 確かに、障害者はなぜ障害を持って生まれたのか、と言う問いかけに対して、「前世のバープのせいだ」と答える人は、以前に比べて少なくはなったものの、まだ沢山いる。だからと言って、タイや、その周辺の上座仏教国において障害者が特に差別されているとは言えない。タイ仏教では、バープの思想よりも、もっと包括的で大きな教えとして、憐れむことの大切さを強調している。その好例が、自らも医師であり、現在はタイにおける障害者への医療リハビリテーションを総括する立場にあるシリントン国立リハビリテーションセンター所長の意見である。彼女は「障害の原因はバープである」と信じている。だからといって、障害者に対する偏見や差別意識は持っていないし、そういったものは撲滅されるべきだと考えている。この考え方は、「バープにより、ハンディを負ったのは気の毒だ、助けてあげなければ」というものである。これは彼女に限ったことではなく、タイ人全体の中でも、かなり一般的な考え方であると思われる。
 よって、人々の心理には、「バープ→軽蔑」ではなく、「バープ→憐れみ→援助」という作用が働くのである。「憐れみ」と言う言葉は、特に先進国の障害者福祉の場面では嫌われる言葉であり、障害者と健常者との対等な関係を否定するものと受け止められている。しかし、タイ人にとって憐れみ=「ナーソンサーン(可哀想)」という気持ちが福祉を進める上での原動力になっているのは事実であり、これを分析することは重要な意味を持つ。そして、この憐れみの精神の基軸となるのが、以下に述べる「タンブン」のシステムと「ナムチャイ」の思想である。

(2)タンブンとは
 <タンブンの意味>
 タイの民衆は現世における幸福の度合いを「ブン」の大きさとの相関としてとらえている。「ブン」とは「福徳、善行、功徳」の意味で、「タム」という「つくる、する」という意味の動詞とくっついて、「タンブン(タムブン)」となる。「タンブン」とは「ブン」を作ること、つまり善行をすることにあたる。タイ人にとって、「タンブン」は非常に大事な行為である。先に述べた因果応報、輪廻転生の思想をベースに、良いことをすれば良い結果が、良い来世が得られる、つまり、タンブンをすればするほど、幸福が得られ、来世での幸福が保証されるのである。タイ人に「なぜタンブンをするのか?」と聞くと、大抵は「サバーイチャイ」のためだと言うだろう。「サバーイチャイ」とは、気持ちよいこと、気持ちが安らぐことである。タンブンすることで、幸せの貯金が出来、安心感が得られるのだ。
 「ブン」とは神によって与えられるものではなく、みずから生み出すところのものである。「『タンブン』の宗教とは、創造の宗教だ。それは、みずからの運命をみずからが支配する可能性を教える希望の宗教である。苦しみから解脱するという消極的なものではなく、『ブン』を築きあげ、積極的に幸福をつくり出す道を教える宗教なのである。〜中略〜 タイの民衆の関心事は、現状からの向上、より大きな幸福をめざしての飛翔であると言ってよい。自己の力によって、それを可能とする図式が用意されていること、そこに彼らの宗教があり、『救済』があるのである。(石井 1995 : 116)」
 では具体的にはタンブンとはどのようなことを差すのか。代表的なのものは、僧侶への寄進や食事の提供である。毎朝托鉢に回る僧侶の鉢に食事を差し入れることにはじまり、寺の建立や修理のための金品の寄付、様々な仏教の年中行事を通じての僧侶への金品の寄付がそれにあたる。男子にのみ許される特権とも言えるのが「出家」によるタンブンで、これが最大最良のタンブンの方法ともされている。この方法でのタンブンができない女性は息子を産んで、息子を出家させることで、そのお裾分けに預かるという構造がある。さらに、広い意味でのタンブンは「良い行い」全般を指し、村の美化のために掃除をするとか、他人に親切にするとか、孤児院に寄付するとか、ひいては物乞いにお金をあげることもタンブンの一種と考える人が大多数である。現代のタイ語で使われるタンブンには宗教的な意味が薄れているように見える。

 <タンブンと障害者>
 タンブンと障害者の関係は、二つの側面から見ることが出来る。一つは、他の人からのタンブンの恩恵を受ける障害者と障害者を通じてタンブンをする人がいるという側面で、もう一つは、障害者自身がタンブンをするという側面である。 
 公共の社会福祉制度の整っていない国では、それに代わるものを、一般の人々の善意に大きく頼らなければならない。タイでは、政府やNGOによって、障害者福祉政策は遅ればせながらも、80年代以降、力が入れられるようになってきた。しかし、いまだに公共のサービスを全く受けることのできない障害者は大勢おり、障害者福祉は発展途上の段階である。障害者はもとより、一般の貧しい人々の生活さえ、政府は改善することができないのだから、貧しい家庭に生まれた障害者の状況は非常に苦しい。もちろん、医療サービスなどの公共サービスもなかなか届かないし、それらのサービスの存在さえも知らされていない者が多い。障害者が現金収入を得るためには、安易な手段として物乞いをすることが選ばれやすい。自分で仕事を探すことが難しい貧しい障害者にとって、最も手近で実入りの良い仕事、というのが物乞いなのである。バンコクでは、毎日同じ場所に座って「商売」をする障害者の物乞いを各所で見かける。ショッピングセンターの前など、人が大勢いる場所には必ず物乞いがいる。バンコクに限らず、地方でも、町中や市場などの人の集まる場所では、物乞いを頻繁に目にするが、彼らの多くが身体障害者である。または、片腕を隠したりして、身体障害があるかのように見せかけた人である。楽器を演奏したり、歌を歌ったりする者、地べたに座ってワイ(合掌)をくりかえす者、また、だれかに運ばれて道に置かれた四肢が不自由で動けずに寝ている者など、彼らの様子は様々であるが、共通しているのは、物乞いをするには障害をアピールする必要がある点である。可哀想と人に思われれば思われるほど、実入りがよい、というのはどこの国の物乞いでも同じことだが、タイで特徴的なのは、「可哀想だ→恵んであげよう→タンブンになる」という思考システムがあることだ。つまり、人に恵むことは、その人のためでもあるし、さらには自分のためでもあるのだ。ブンが欲しい人と、生活費が欲しい人、それぞれがお互い様なのだ。これは恵む人から恵まれる人へという一方通行の関係ではなく、お互いの必要を補いあって、相互作用しあっていると言うこともできるかも知れない。タイでは、物乞いに関して、まるで一つの職業のように、あげる人ともらう人の需要供給バランスが取れているように見える。それは、現在のタイ経済の発展段階が、貧しい者と豊かな者を二極で生み出している状態にあるためであろう。しかし、そのような状況に上手く入り込んで、物乞いの様相に一風変わったスパイスを加えているのが仏教であり、そのなかでも「タンブン」の考え方なのである。
 一方、障害者自身も仏教徒である以上、タンブンする側でもあるのだ。バープを負って生まれてきた身であるならば、現世ではブンを沢山積んで、少しでも来世を良くしなければならない、というのが教えに沿った考え方である。前世での行いにより、現世の状態が左右され、各人がそれぞれ異なるスタートを切ることになる。障害を持ったり、何らかのハンディを負って生まれた者は、苦しいスタートを切ることになるが、目指すゴールは皆同じであり、ゴールへのプロセスも同じである。障害者も当然、タンブンをして来世への貯金をすることが重要になるが、障害のために寺へ行くのが困難であったり、以下に述べるように出家に関して問題があったりと、タンブンをする機会は他の人々よりも得にくいのが事実である。

(3)ナムチャイ精神
 タイ社会の障害観を語る際のキーワードとなるバープ、タンブンというタイ仏教の二つの側面をこれまで紹介したが、さらに重要なキーワードとして、仏教の教えと合わさって、タイ文化に広く行き渡った伝統的な精神文化である「ナムチャイ」の精神が挙げられる。
 農村開発がNGOや活動家、ひいては政府によって行われる場合、必ずと言って良いほど、スローガンとしてあげられ、開発活動の精神的支柱として期待されるのが、共同体の中に存在すると考えられている「ナムチャイ」である。また、農村に限らず、都市でもナムチャイの大切さはしばしば口にされる。ではナムチャイとは、どのようなことを指すのであろうか。
 タイの共同体文化論の先駆者である、チャティップ・ナートスパーは、タイの村落共同体とナムチャイの精神について、次のように述べている。「タイ社会は成員がやさしく、友好的で、互いに助け合うような社会であり、農村には世界のいかなるところよりも濃縮されたかたちの強固な共同体文化が残っていて、村落共同体は安定した状態にあるのである。(チャティップ 1992 : 544)」ここで言われる「共同体文化」とは「やさしさ、兄弟・姉妹関係、寛容、相互扶助、他人を利用しないこと、無欲、非暴力、自己依存、誠実(ibid : 543)」といったことであり、その最も重要な特徴は、「至高の財産として保持し、いっそう振興すべきものであるナムチャイの精神(ibid : 553)」である。ナムチャイとは、思いやりとか、優しい心という意味であるが、ここでは、「村人が誠心誠意をつくして行う相互扶助のこと(ibid : 553-554)」をさす。
 つまり、ナムチャイとはタイ社会に古くから存在してきた相互扶助の精神であり、家族のように助け合っていこうという考え方なのである。チャティップの主張のように、これ程までにタイ人の精神文化を単一視して、タイに特有の文化として、思いやりや相互扶助の精神があるとは言うのは、あまりに過剰評価であるが、タイ人は実際、「タイ人はナムチャイを持った国民である」と言うのを好むし、「ナムチャイ」は普段からよく使われる言葉である。
 前述したように、「タンブン」というのは善行全般を指す言葉であるので、ナムチャイを持って行動することは、たいていはタンブンにつながる。よって、ナムチャイとタンブンとの線引きが難しい場合が多々ある。例えば、物乞いにお金をあげる行為は、自分に貯金される善行のタンブンであり、また、困っている人を助けるのだからナムチャイの働きもあるのだ。

(4)「障害者は『可哀想』か『前世の業』か?」への答え
 これまで言われてきたように、タイでの障害観は確かにバープによって支配されている。タイ人の間に広く信じられているのは、「障害者は前世の業のせいで障害を負ったのだ」という考えである。しかし、これが障害者に対する差別を生み出し、障害者蔑視に繋がるとは言えない。それは、タンブンやナムチャイの考えが、差別や蔑視の芽が出るのを防いでいるからだ。障害者も健常者も助け合って行く、AがBを助け、BはAが「タンブン」するのを助けることができるのだ。だから、「可哀想」と思う人がいて、「可哀想」と思われる人がいたからと言って、これを頭ごなしに良くないことと決めつけることはできない。
 よって、命題に対する答えは、「確かに障害者は『前世の業』を負っており、そのために『可哀想』でもあるのだ」ということになる。だが、これは決して否定的な見方ではなく、障害者を支援するシステムとして、タンブンやナムチャイといった仏教の教えが有効に働く可能性を秘めていることを示している。

3. 「障害者は出家できるのか?」という問い

 タイ仏教の教えの中で、出家は非常に大きな意味を持つ。最大のタンブン手段であり、男子の通過儀礼である出家は、自身は出家が出来ない女性にとっても、息子の出家を通じて間接的にブンを得るという道を開いている。それでは、障害者の立場から出家を捉えると、どのようなものが見えてくるのか。そもそも障害者は出家できるのだろうか?タイ社会では、これまで障害者の出家についてはほとんど語られてこなかった。この問いに対する答えも曖昧であり、はっきりした答えはない。よって、この問いについて検討することは、障害者と仏教の関わりについて新たな側面を浮き上がらせる可能性を持っている。

(1)出家の意味
 タイでは、雨期に入る7月頃、毎年何万人もの男たちが髪を剃り僧侶となる。僧侶数は雨安居(パンサー)には、僧侶とサーマネーン(見習い僧)を合わせて37万人にも膨れ上がる[注1]。雨安居入りの「カオパンサー」から雨安居開けの「オークパンサー」までの3ヶ月間、彼らは寺に籠もって修行をし、外界との接触を断って全ての生産活動を休止するのである。この出家者のほとんどが、3ヶ月以内に還俗してふだんの生活に戻る一時出家者である。出家というのは、伝統的な意味では、一人前の成人男性として社会に認められるようなものであり、人生における大きな通過儀礼である。
 現在でも公務員を始め、大きな会社では、男性社員に出家のための3ヶ月の休暇を認める制度がある。しかし、3ヶ月間も仕事を離れるのは現実的には難しいため、多くの寺では、雨安居以外の時期でも1〜数週間の短期凝縮型の出家を認めており、多くの人はこちらを利用する。極端な例では、一日だけ頭を剃って、出家の儀式を済ませてハイ終わり、というものもある。就職前や、結婚前などの暇が出来た数週間を一時出家に当てる人が多い。また、身内に不幸があった場合、特に母親の病気や死をきっかけに出家する場合も多い。いずれにしても、出家の理由の大多数は「母親のため」である。
 では、本人や母親、家族にとって、出家は具体的にはどんな意味を持つものなのであろうか。
 タイにおける一時出家の習慣は二つの背景を持つ。「第一にサンガが教育機関としての機能を果たしていた点である。近代的な教育制度が成立する以前のタイでは、教育はもっぱら寺院で行われていた。〜中略〜 寺院は単なる宗教施設ではなく、高等教育機関であり、技術を保持し伝承する機関として機能していた。〜中略〜 一時出家は宗教行為というよりも、むしろ学校に入ったり卒業したりすることに近い意味を持っていたとさえ言えるのであろう。タイ人にとって、出家は学ぶことであり、その観念は現在も失われていない。第二に一時出家が功徳を積む行為『タンブン』の一つとして理解されている点である。〜中略〜 仏教教団に対して善行、具体的には金品の寄付や食事を供養したりすることをタンブンと呼んでおり、出家という行為もその一種としてとらえられているのである。〜中略〜 タンブンとしての性格が最も明確に現れているのは、出家式で行われる『功徳を母親に転送する儀式』である。これは、聖水を呪文とともに滴らすことによって、女性であるが故に出家の機会がない母親に、一時出家で得た功徳を転送し親孝行するというもので、ここには出家の、家族や社会を捨てるという意味合いは全く払拭されている。一時出家はサンガと一般社会との重なる場ではあるが、以上述べたように、その本質は在家信者の学びの場であり、タンブンの場なのである。」(山田 1998 : 139-142)
 このように、出家は男子にとっての成人式のような意味を持ち、また、出家というシステムから除外された母親への恩返しをするチャンスでもあるのだ。家族の絆を再確認するためにも、出家することは男子にとって非常に重要な通過点なのである。

(2)閉ざされた障害者の出家
 一年にわたるタイでの調査中、色々な場所で、色々な人々に、「障害者は出家できるか」という問いをしたところ、返ってきた答えのほとんどが「分からないが、多分できないだろう」であった。できないという理由は、「障害があっては僧侶のつとめが果たせないから」である。自分で自分の世話が出来ないようでは論外であり、教典を読んだり、托鉢に出たり、寺の掃除をしたり、祭事を司ったりする能力がなければ僧侶にはなれない、というのが一般的な意見である。そして、男性の障害者も「出家したい」と考えている人は稀なようで、寺に行く機会も少ないと答えた人が多かった。しかし、女性の障害者の場合、寺によく行き、僧侶の話を聞くと言う人が多く、息子がいれば、出家させたいと考えている人も多い。
 これまで見てきたように、タイ人男性にとって、出家は大きな意味を持つまさに成人式のような通過儀礼である。この通過儀礼から障害者が疎外されているということが本当ならば、それはどのように受け止めればよいのだろうか。
 寺や僧侶に関する法律の中にも、障害者の出家について触れたものはない。出家は出家を行う場である寺が受け付けの場であり、どのような人を受け入れるかは全て各寺の判断に任されている。出家にかかる費用や、内容なども、基本は同じくするが、各寺が独自で決めて寺の特色を出している。出家期間中に、非常に厳しい修行を行うので有名な寺もあれば、一日だけの短期の出家を認める寺もある。
 しかし、障害者が寺に来て、出家をしたいと言った場合、それを認めるか否かは寺の考えによるが、出家の大原則として、僧侶が行うべき日課を全て果たすことが出来なければならないという条件がある。修行を行うために出家するのだから、修行に関すること一切を自分ひとりで出来なければならないのだ。読経、托鉢、瞑想はもとより、境内の掃除や洗濯、身の回りの雑務などを一人でこなすためには、歩くことの不自由な身障者や、視聴覚障害者、精神・知能障害者では難しいのである。
 つまり、障害者だから出家が出来ないのではなく、障害があるために出家が出来ないのだ。いわばこれは、社会・文化的な制約ではなく、物理的な制約だといえよう。しかし、例外的なのは、一度出家してから、僧侶である内に障害を負った場合である。たとえば、僧侶が年老いて目が不自由になったり、足腰が立たなくなったり、一人で身の回りのことが出来なくなったとしても、寺から追い出されることは決してなく、サーマネーン(見習い僧)や男性信者の助けを得て、一生涯を寺で送ることが出来る。とくに、アラハンに達したとされる僧侶は、その尊さ故に、たとえ寝たきりであっても介助が付き、死ぬまで寺で修行を続ける。たとえ痴呆になったとしても、僧侶であることに変わりはないのだ。つまり、出家後、障害者になった者は、そのまま僧侶でいられるが、出家前に障害を持っているものは、出家の道は閉ざされているということになる。障害者は僧侶になれず、僧侶は障害者になってもよい、というのは一体どのように解釈すればよいのだろうか。
 これは、「入門である出家をする時点では、見習いの身分であるため、全てが自分で出来なくてはならない。そのうち修行を重ねて、人々の尊敬を集めるようになったならば、身の自由が利かなくなっても、僧侶の役割を持ち続けることが出来る。」ということなのである。
 もちろん、軽度の身体障害で、僧のつとめをこなすことが出来れば、出家は開かれているだろう。しかし、生まれながらに重い障害を持つ者にとっては、生まれつき、最大のタンブン手段を行使する権利も奪われていることになる。彼らには、出家の外部者としてタンブンに励むことしか救済の道はないのである。つまり、障害者は男性であっても、自ずと女性と同じ役割に甘んじなければならないのである。本来仏教の教えに従って理解される定理としては、次のように言えるはずである。「障害はバープのせいである。バープを負っているならば、ブンを沢山積む必要がある。ブンを沢山積むためには、男であれば、出家が最大最良のブンであるのだから、出家をすればよい。出家をすれば、ブンが得られて、バープは軽減される。」しかし、この定理は「出家できない」という点で、大きくくじかれている。仏教のその他の面においては、特に障害者が阻まれている項目はないのに、出家に関しては、大きく道を閉ざされているのだ。
 しかし、このことに疑問を持っているタイ人は少ない。「障害者は出家できるか」という疑問自体も生じない。なぜならば、障害者が出家できないという事実があまりに明白すぎて、あえて問おうという気にもならないからである。障害者自身も、出家に関しては、はなから出来ないものと思っているので、出家したいという意欲も湧かないのだ。出家は確かにタンブンの最も手っ取り早い手段であるが、出家が出来ない女性達がそうであるように、僧侶や寺にタンブンを行うことで、精神的な安定と満足が得られるというのがタイ人の基本的な考えなのである。よって、出家が出来ないということから、障害者が仏教から疎外されているとは言えない。
 では、障害者と仏教とはどのように関わりを持っているのか?次の項では、障害者に対して寺の方から働きかけて支援活動を行っているケースを紹介する。

4. 障害者へのサービス提供をしているお寺

 出家の道の閉ざされた障害者が、出家のほかに仏教と関わる接点として、寺の存在がある。仏教の教えが凝縮された場所である寺と障害者との関わりの例として、ここでは二つの寺(ワット)の活動の様子を紹介し、障害者と寺との関わり合いの一つの形を見たい。
また、寺が障害者支援の活動を行うことは、一般の人々のタンブンが、間接的に障害者福祉に貢献していることになり、タンブンの思想が生み出した、また別の働きがそこに見いだされる。

(1)二つの寺の活動紹介
 <ワット・スアンゲーオ>
 ワット・スアンゲーオはバンコクの北、ノンタブリー県にある大きな寺である。バンコクの中心部から車で40分ほどで、水田が広がるのどかな風景に囲まれた寺に着く。境内には、様々な慈善活動のためのセンターが建っている。この寺が慈善活動を始めたのは1986年、住職のプラ・パヨムの意志によってスアンゲーオ財団が設立されて以来である。住職はユニークな説法と積極的な社会活動により徐々に高名になり、今では、プラ・パヨムの説法を聞くために遠方から車でタンブンにやって来る信者が大勢いる。土日には、寺の敷地内一杯に車が止められ、まるで何かのテーマパークのようである。
 財団によると、現在行っている活動は14種類あるが、目的は主に青少年の健全な育成と貧者救済の二つに分かれる。学校の夏休みを利用して、少年達を寺に集め、仮の僧侶として模擬出家させることで、心身の健全な育成をはかり、仏教の基本的な思想を教える活動が毎年行われている。また、失業したり、火事で焼け出されたり、行き場のなくなった人々を受け入れるシェルターもある。ここでは、食事と住居が無料で提供される。希望するものには、家電製品や家具などを修理する職業訓練を行っている。障害者や、捨てられた老人も受け入れており、一生、寺で面倒を見ると約束している。
 寺を訪れる信者は金品の寄付の他に、壊れたり、不要になった家具や電気製品を持ち込み、寄付としておいていく。寺の敷地内には、古い家具や冷蔵庫、エアコンなどがうず高く積まれた場所があり、一見粗大ゴミ捨て場のようである。これらを修理をして、新たに販売するのが寺に住む貧しい人々である。彼らは、修理や販売による収入はもらえないが、食事と寝場所は寺によって保証されている。修理の仕事を覚えたら、寺を出て、自立して修理工になるように、というのが寺の計画だ。現在、寺で生活する人々は500〜600人いる。
 このシェルターは、バンコクに5カ所ある労働社会福祉省公共福祉局が管轄するシェルターの一つに指定されている。しかし、寺によると、政府からの支援は特にない。
 この寺では障害者を対象に特別な活動を行っているわけではないが、シェルターで暮らす人々のなかには障害をもった人が多く、財団の運営をするスタッフの一人も障害者である。健常者に比べて、仕事を見つけることの難しい障害者が、貧困状態にあった場合、物乞い以外の道で暮らして行くには、このような寺の存在が必要になるだろう。タイでは、寺に行けば食事と寝る場所は提供されると言われているが、多くの寺は社会活動に関心を持っていないため、ワット・スアンゲーオのように、寝食の提供に加えて、その先の自立のための方法までもは示してくれない。しかし、この寺でこのような活動が可能となるのは、人気がある寺で、寄付が沢山集まるからであって、そうではない一般の寺に、社会活動を始めるような資金はなかなか出せないだろう。また、住職の人徳や思想が、寺のあり方を大きく左右するため、社会活動を行う際には、僧侶個人の力量も大きく問われる。

 <ワット・ウモン>
 北部タイの中心であるチェンマイにも、障害者を対象とした活動を行っている寺がある。チェンマイの町の中心から車で10分ほど西へ向かい、丘を登っていくと、鬱蒼とした林の中のワット・ウモンに着く。この寺の歴史は古く、14世紀に遡る。境内は森に囲まれ、14世紀に作られたと言われる洞穴遺跡の中に収められた仏陀など、価値のある文化財があり、国内外から観光客が絶え間なく訪れる。
 寺が障害者を受け入れ始めたのは10年以上前のことである。当時の住職が怪我をした際、体が不自由になるということがいかに大変かを実感したため、障害者のために活動を行おうと決意したのが始まりであるという。境内に障害者のための住居と、仕事場である手工芸品の製作所、そしてその販売所を設け、境内で障害者が自立して生きていけるようにとプロジェクトを始めた。食事は、僧侶が托鉢で集めた食料の残りを障害者に提供している。住居と食事の無料提供は、ワット・スアンゲーオと同じシステムだが、異なるのは、生活する障害者に売り上げに応じた収入を認めたことである。この収入により、障害者は食事と住居のほかに、必要な物を買うことが出来るし、養われているのではなく自活しているのだという自信がつく。また希望すればいつまでも寺で過ごすことができるので、将来の不安はない。
 数年前までは十数人が生活し、籠などを作って販売していたが、そのうち、政府やNGOの運営する障害者向けの新しくできた施設に移ったり、独立して販売を始めたりして人数が減り、現在暮らしているのは3人のみで、手工芸品の作成は現在は行われていない。3人のうち一人は昼間は寺の外で宝くじの販売をしている。残りの二人が、境内の入り口にある、飲み物や菓子、魚の餌などを観光客向けに売る小さな店の番をしている。
 なお、一人の僧侶のアイデアで、人に頼んで伝統的なマッサージを手足の麻痺した障害者に施してきたところ、10年で相当の回復を見ることが出来た。この障害者は、現在店番をする女性の一人である。しかし、これは、僧侶の個人的な「ツテ」で行っている活動であり、正式な寺の活動ではない。
 この寺も、古くて有名であるために、人を集めることが出来、寄付もその分集まる。よって、社会活動を行う資金は他の寺よりも持ち合わせている。また、この寺で出家をした僧侶にたまたま社会活動に熱心な人がいたため、この10年、障害者の数が減った後も、活動が途絶えることなく続けられてきた。
 この寺のケースで注目すべきことは、寺に生活する障害者の一人がクリスチャンだということである。彼女は下半身の麻痺を患い、手術やリハビリテーションも受けてきたが、あまり効果はなかった。医療サービスなどの面で、キリスト教系団体からの支援も受けており、自らも昔からクリスチャンである。家族は10キロ離れた、そう遠くない場所に住んでいて、ほぼ毎日、姉が訪ねに来る。自立を望んでいるために寺に住み、寺の境内の売店で店番をする生活を送っている。クリスチャンの障害者が、仏教寺院に住み、寝食の提供を受けているというのは、外国人の目には不思議に映るかも知れないが、タイ人にとっては、特に変わったことではない。彼女にとっては、寺はあくまでも生活の場所であって、宗教的な意味は持っていない。持っていたとしても、神仏に近いところで厳かに生活しているという雰囲気を感じているだけであろう。タイにおいて、寺はあまりにも身近で、生活にとけ込んでいるために、言うならば、地域の公民館のような役割をも持っているのだ。
 このことから明らかになるのは、寺の持つ機能の潜在的可能性であろう。人々に、あらゆる用途で場を提供できるというのは、寺が持つ重要な役割の一つである。

(2)寺が社会活動を行うことの意味
 以上の二つの例のように、寺が障害者に対して社会活動を行う際の利点と限界はどのようなところにあるのだろうか。また、寺でそのような活動を行うことの意味は何であろうか。

 <寺で行う利点>
 まず、寺は安全な寝場所を提供できるだけでなく、食事も提供できる。ふつう、僧侶が托鉢に回ると、自分達だけでは消費しきれないほどの食料が集められる。この残りを一般の人にも施すことができるのだ。さらに、寺には自己資金がある。あらゆる年中行事の際の信者の寄進や、僧侶が式辞を執り行った場合の報酬など、主に現金が寺に集まってくる。この資金の運用は、全て寺の自由であり、お堂にエアコンを付けたり、僧侶の住居をきれいにしたり、基本的には主に寺の美化に使われるが、「これに使わねばならない」という決められた資金ではないのだ。よって、住職の意志次第では、寺が独自の活動を始めることも可能であり、寄進によって集まった資金をそのために使っても問題はないのである。
 つまり、上記の二つのケースのように寺が障害者福祉活動を行うことは、一般信者がタンブンのために寺に寄付した金品を、寺が仲介役となって障害者に届けるという、間接的ではあるが、タンブンが非常に自然な形で障害者福祉に役立っている好例なのである。寄付した者も、それを享受する者も、寺という介在機関の存在ゆえに、お互いに得をする良いバランスがとれるのだ。福祉関連の活動を行っているNGOが常に抱える悩みは、資金のやりくりであり、善意の寄付のみに頼っている場合、安定した収入源を確保することは難しい。それに比べ、寺が同様の活動を行う場合は、寺が寺である以上は安定した収入を望むことができ、しかも寄付した者には「ブンが積める=来世ヘの貯金ができる」というおまけが付いてくるのだ。

 <寺での活動の限界>
 ケーススタディーとして取り上げた二つの寺もそうであるが、このような活動を行なえる寺は、人が集まる、収入の大きな寺である。僧侶が人気があったり、寺が有名であったりすれば、それだけ沢山の寄付が集まり、活動の資金にまわすことができる。また、活動の様子もおのずと人々に知られるところとなり、協力者も得やすい。都市から近いところにあり、豊かな階層の信者が続々とやってくるような寺であれば、より心強い。しかし、これを逆に見ると、人気もない、収入も少ない普通の寺は活動を自力で行うのは難しいということになる。加えて、こうした活動を行うことは、本来の寺の役割を拡大した、異例の状態であるために、活動を始めるには住職をはじめ、その寺の僧侶の社会活動への強い関心と熱意、そして活動を運営する技量を必要とする。よって、普通に出家をして、普通の寺で修行を行っている僧侶に、このような活動を始めようというアイデアは、なかなか浮かぶものではなく、また、できるものではないのだ。
 さらなる限界としては、対象を障害者に限定してこのような活動を始めることの難しさがあげられる。寺はすべての人の救済の場であるし、タイには障害者に限らず、貧しい老人や子供など苦境にある人々が沢山いる。これらの人々の中から、特に障害者だけを取り上げて、活動を行うのは、何かよほどの切っ掛けと理由がない限り周囲の理解は得にくいだろう。そして、こうした活動を発展性のあるものにするためには、障害者が収入を得られるような仕事を作る上手なシステムや、障害に関する専門家の協力、医療機関との提携など、寺だけの能力では追い付かない事項が必要となってくる。

 このように、寺による障害者福祉活動には、寄付が自然な形で福祉に運用できるというメリットと、寺が単独で活動を行うことの難しさがある。それでは、もし寺とコミュニティーが協力しあって活動を行った場合、どのような結果を生むのだろうか。
 タイでは地方農村ほど、コミュニティーに対する僧侶の影響力は強い。特に人徳のある僧侶の場合は、精神面だけでなく、あらゆる面で村の指導者の役割を果たしうる。もし、寺がコミュニティーを巻き込む主体となって、コミュニティーもろとも障害者福祉に対して取り組もうという風潮に持っていくことが出来たらどうだろうか。寺が資金面で活動のバックアップを行い、仏教が活動の理念を支える柱となり、実際の活動はコミュニティーが主体になって行う。こうした図式は成り立たないものだろうか。次章ではこの図式を成り立たせる可能性を秘めた CBR(地域に根ざしたリハビリテーション)をとりあげる。

__________
注1 1997年の統計局の調査によると、同年の雨安居外の僧侶数は243,615人、雨安居の僧侶数は368,416人であった。これは二つの宗派(マハーニカイとタンマユット)を合わせた数である。

第三章 タイにおけるCBR

1. CBRとは何か

(1)CBRとは何か
 CBRは、Community Based Rehabilitationの略で、「地域に根ざしたリハビリテーション」と訳される。多くの途上国では1960年代初頭から、CBRの試みは存在していたのだが、広く注目を集めるようになったのは、WHO(世界保健機構)によって提唱された「全ての人に2000年までに健康を」という1978年のアルマアタ宣言以降である。このときWHOのとった施策は、PHC(プライマリーヘルスケア)の拡大であり、このPHCを障害者リハビリテーションに応用したのがCBRである。コミュニティーを実施主体とする、リハビリテーションへの革新的なアプローチとして、公共福祉制度の整っていない途上国を中心に普及が進められた。
 1994年にWHO、ILO、UNESCOが共同で発表したCBRの定義によると、CBRとは、「地域開発を進める上での、すべての障害者のリハビリテーション、機会均等、および社会への適応のための戦略」であり、またCBRは、「障害者自身、家族、コミュニティーの努力の結合と、適正な保健、教育、職業、社会サービスによって実施される」とされている[注1] 。
 先進国で発達した従来のリハビリテーションは 、障害を疾病・事故に基づく身体機能不全ととらえ、それを有する人(障害者)の身体機能回復のために設備の整った施設、または障害者住宅において、教育を受けたリハビリテーション専門職が治療、訓練にあたるというものだが、この方法は途上国では有効ではなかった。それは、途上国においては、医療機関は都市部に集中し、多くの人が住んでいる農村部には、サービスが届かないからである。また、障害者問題は貧困や社会システムといった社会問題に根ざしていたからである。障害者問題を解決する方法として多くの途上国の政府や民間団体が、施設中心の方法からCBRへの転換を図っている(FHCYのホームページ http://www2u.biglobe.
ne.jp/~fhcy/)。

(2)IBRとアウトリーチ
 CBRのシステムを見る際に、同時に他のリハビリテーションのシステムも重ねて見る必要がある。多くのCBRの実施ケースでは、CBRと組み合わせて、またはCBRを補う形で、IBR( Institution Based Rehabilitation、施設に根ざしたリハビリテーション)とアウトリーチが行われている。
 IBRでは、病院やホームなどの施設の中で、医療サービスを行うことに焦点が置かれている。施設は特定の目的のために設置されているため、施設のサービスに合致した対象者だけがサービスを受け、その施設に適さない人はサービスから除外される。施設で適切なサービスを提供できるのは専門家であるため、障害者と専門家の間の関係は「与える者と与えられる者」であり、コミュニティーの参加は考慮されない(Kuno 1998 : 17)。
 アウトリーチとは、施設で働く専門家が施設から出向いて、設備のない村にサービスを届ける方法である。しかし、アウトリーチはIBRの発展型であるために、IBR同様のデメリットを持ち合わせる。つまり、専門職によってサービスが提供されるため、サービスに適した人だけが対象になりやすく、治療効果がないと見なされる重複障害者や高齢の障害者などは除外されやすくなる。コミュニティーの参加は動員されることもあるが、多くの場合、サービス提供時のマンパワーとしてであり、実施の主体とはならない(FHCY のホームページ)。
 CBRは、それまでのIBRを基本とする障害者リハビリテーションに代わるオルターナティブなリハビリテーション方法としてスタートしたものだが、すでにIBRが確立した先進国では、都市に限らず、地方でも比較的安定した高度の医療サービスが手にはいるため、コミュニティーにリハビリテーションの主体となることを求めるのは難しい。もともと、政府の公共福祉制度や医療機関の未発達な地域で、障害者リハビリテーションをいかに進めるかという問題への解決策として持ち出されたものなので、実施されている国はアジア、アフリカ、南米の途上国が主である。IBRに対するオルターナティブと言っても、IBRやアウトリーチを否定するわけではなく、それらをうまく利用しつつ、障害者自身、そして障害者の暮らすコミュニティーの主体性を強めていこうというのがCBRである。しかし、何もかもをコミュニティーで行おうと言うのではなく、CBRには施設から来る専門家の参加も欠かすことのできない要素であり、コミュニティーの能力を超える技術は施設などの協力を得て、照会を行う必要がある。
 CBRの考え方が広まるにつれて、Community Level と Community Based との混同が見られるようになってきた。つまり、より小規模にした施設を地域に作ったり、よりアウトリーチの範囲を広げたりする、地理的な意味でのサービスの拡大がCBRであると誤解されるようになったのだ。このようなサービスは、Community Level でのIBR、アウトリーチであり、本来のCBRのめざすところではない。CBRが画期的であるのは、障害者のリハビリテーションをコミュニティー開発の起動力にし、ひいては社会の変革までも起こそうという大きな目標を含んでいる点なのだ。

(3)本来のCBRとは
 それでは、CBRの実施方法とは、どのようなものなのだろうか。以下に、中西由起子氏のまとめたCBRの具体的な実施方法を紹介する[注2] 。
@ コミュニティーの主要メンバーである村長、行政や地域団体の代表にくわえて、障害
 者やその家族など、サービス提供者、利用者の双方をふくむCBR委員会の結成。委員会
 の任務は、CBRの政策づくり、すなわち方針、プログラム、実施方法、評価についての
 決定などである。
A 定期的奉仕が可能なCBRワーカーを募集、選考し、図解されたCBRの手引書を参考と
 した専門家による訓練を行う。CBRワーカーの仕事は、障害の発見、障害者の能力の基
 本的評価、家族への適切な訓練についての情報の提供、家族による訓練をチェックし監
 督すること、リファーラル、訓練や成果に関する記録、障害の原因と予防についての地
 域の教育、地域の指導者や団体との連携、障害者の自助団体組織化への援助、随時開催
 される技術研修プログラムへの参加など、多岐にわたる。
B 障害者の調査を実施する。どの程度のニーズに対応しなければならないかという情報
 の把握と、CBRを始めるというPRを兼ねての調査である。
C 小数の障害者を対象とした試行プログラムを計画し、着手する。家庭でリハビリテー
 ションができるように、CBRワーカーが家族にマニュアルを渡し、それに基づいて必要
 な知識や技術を指導する。
D 地域で手にはいる技術、材料を使い、補装具、自助具を製作する。
E 正しい障害観や障害予防の知識を育てるために、啓蒙キャンペーンを行う。 
F 障害者の雇用を進める。所得創出プロジェクトとして、障害者個人または障害者の当
 事者団体が小規模事業を始められるように、CBR委員会が資金の貸し出しをする方法が
 最も一般的である。
G 障害者の自助団体を育成する。
H 評価およびフォローアップを行う。CBRの評価においては、^政府のやる気やNGOの
 支援、地域の参与、参加団体の責任を含むCBRの運営の方法、_リファーラル、障害予
 防や医療リハビリテーション、教育、雇用などに及ぶサービスの提供の制度、`障害者
 のADL(日常生活動作)等の機能、教育、職業、社会活動などの技術的観点が含まれて
 いなければならない。

 しかし、実際に実施されているCBRのほとんどのケースは、上記のような方法のいくつかを省いた形で行われている。CBR委員会への障害者の参加が名目だけのものになっていたり、CBRワーカーの育成が不十分なために、仕事のすべてを担うことが時間や能力の制限を受けてできなかったりというケースもある。また、CBRの普及が障害者の家庭のみで終わってしまい、実際にはコミュニティーを巻き込むことができないことも、かなりのケースが経験する限界である。このように、CBRの理念は持ち合わせているが、実際に行われる活動はその一部であったり、アウトリーチの延長にすぎなかったりする場合が、現在のCBRの実施例では大多数であり、理念通りのCBRを実現することができているのはわずかなケースに過ぎないのが実情である。

2. タイに来たCBRのこれまでの経過

 タイでも他の途上国と同様に、80年代にWHOの指導や、海外のNGOの支援を受けて
CBRが導入された。CBR導入以前から、タイ政府はPHCの普及に強く力を入れてきたので、保健所の設置や、保健所で、薬に関する知識や簡易救護措置方法を村から募った保健ボランティアに指導したりするシステムが地方にも浸透していた。
 80年代にも公共保健省の試験的なプロジェクトとしてWHOのマニュアルをもとにしたCBRが行われていたが、国内外のNGOの参与や、NGOと公共保健省の協力がはじまり、CBRが広がりを見せるのは90年代に入ってからである。
 1991年から公共保健省、タイ全国社会福祉協議会、Save the Children Fund、IMPACT、HANDICAP INTERNATIONALが共同で、CBRに関するニューズレターを年に3回発行し、県、郡、区の各レベルの役所関係者を中心にCBRの知識を広める活動を始めた。[注3]
 タイのNGOであるFoundation for Handicapped Childrenは、1986年に東北地方のナコンラチャシーマー県 でCBRを他のNGOに先駆けて始めた。また、もともと施設を建てて、IBR型のリハビリテーションや治療活動を行っていた欧米のキリスト教系団体も、
CBRの手法を活動に組み入れるようになり、地域を選んで独自のCBRプロジェクトを始めるようになった。
 現在までに、主に医療の発達の遅れている県で、主なものだけで20ケース以上のCBRプロジェクトが行われてきたが、成功例として評価されているのは、ほんのわずかである。ほとんどのケースが、アウトリーチの地理的な拡大をCBRと称しており、障害者のエンパワーメントやコミュニティーの協力などのCBRの最終的な目標は達成されていない。これはなぜなのか、どこに原因があるのか、またこのような活動によって障害者のリハビリテーションはどこまで実現されているのかを以下の2つのケースを例に考えてみたい。

3. タイでの実際のCBRのケース

(1)民間主導のCBRのケース(FHC・ノンブアランプー県)
 1983年に設立されたタイ生まれのNGOであるFoundation for Handicapped Children(タイ障害児協会、以下FHC)では、1986年からCBR活動を行ってきた。ナコンラチャシーマー県ブアヤイ郡(1986~) 、ノンブアランプー県シーブンルアン郡(1988~)、スリン県ガープチューン郡(1992~)、チュムポン県パティウ郡(1992~)、バンコク都ヤーンナーワー地区(1992〜)、ナコンシータマラート県ムアン郡(1997~)と、現在までに6箇所でCBR活動を行っている。これらの地域でのCBRは、FHCの性質上、主に子供を対象に実施されている。日本にはFHCの支援団体として「タイ国障害児のための財団横浜連絡事務所(FHCY)」があり、資金援助やFHCの活動紹介を日本で行っている。
 FHCは自己の経験からつちかったCBRのノウハウを生かし、CBRを他県でも独自に実施してもらうために、県の公共保健事務所を通じて、郡や区の保健関係者を集め、「Training of Trainers(トレーナーの研修)」を開催している。1995年から現在までに全9回の研修が開かれ、300人以上がCBRの理念や、簡単な理学療法等の技術を身につけて各地域に持ち帰っている。

 ここで紹介するのはFHCによって1988年から始められたノンブアランプー県シーブンルアン郡でのCBRである[注4]。FHCでは、ここでのCBRを自らの活動の成功例として対外的にアピールしている。
 
 <ノンブアランプー県シーブンルアン郡について>
 地方行政の細分化の流れに沿って、1993年にウドンターニー県から分立してできたタイで最も新しい県が人口50万人弱のノンブアランプー県である。タイの中でも貧しい地域とされる東北地方に位置し、主要産業は稲作であるが、国内外への出稼ぎが多い。シーブンルアン郡は県庁所在地から車で一時間ほどの場所にあり、人口約10万人の比較的大きな郡である。郡は12の区に別れ、一つの区には10〜14の村がある。郡にある公立病院はシーブンルアン病院の一箇所で、18年前に出来た。ベッド数は60以上あり、最近改築されて広くなった。

 <CBR導入のきっかけ>
 1986年からはじめた、ナコンラチャシーマー県でのCBRの成果を広げるべく、東北地方で次なるCBR実施地を探していたFHCの意欲と、当時のシーブンルアン病院の院長のCBRへの関心が合致し、始められる運びとなった。病院スタッフが活動的であったことと、障害者数が多いことも決め手となった。 

 <CBRの準備>
@ シーブンルアン郡の、人口や地理、資源などの全般的な情報収集が行われた。
A FHCと保健所、郡病院、県病院、郡公共保健事務所、県公共保健事務所、教育委員会
 などの行政側との役割分担が話し合われた。
B 保健事務所の責任者と学校教師への障害に関する初歩的な知識の研修と、地域の保健
 ボランティア[注5] に対する研修が行われた。
C シーブンルアン病院内に障害者のためのクリニックが設けられ、公共保健事務所や保
 健所の協力のもと、医師による障害の診断を行い障害者登録を進めた。その上で、ソー
 シャルワーカーが面接を行い、各人に合った支援方法が決められた。また、クリニック
 では障害に関する知識の講習も開いた。
D 関係者全体の支援計画会議が開かれた。ここでは医療リハビリテーション、障害児の
 発達促進、教育の整備、職業訓練の4つの面での支援計画が話し合われた。
E シーブンルアン郡障害者のリハビリテーション及び障害の予防管理委員会が設立され
 た。
F 既存の保健システムを利用した提携、連絡体系を確立した。

 <具体的な実施事項>
 1988年の保健ボランティアを使った障害者調査では、507人の障害者が発見されたが、その後の調査でさらに増え、シーブンルアン郡には690人の障害者がいることが分かった。94年までにそのうちの290人に対して手術、教育、職業訓練、補装具提供などのなんらかのサービスが提供された。また、月に一回、ウドンターニー病院から理学療法士を呼び、41人の脳性麻痺の子供に対して理学療法を施し、各家庭でも簡単な理学療法が行なえるように保護者にもその方法を習わせた。97年にはシーブンルアン病院でも理学療法士が雇われ、週に二回、脳性麻痺の子供を対象に理学療法のクリニックを行っている。また、子供を連れてきた両親にも指導を行っている。シーブンルアンの脳性麻痺の子供がリストアップされ(1999年現在で64人)、クリニックに来るように、手紙で通達している。この理学療法士は、クリニック以外の日には地域にアウトリーチに出ており、障害者の家庭を回り、健康チェックや、家庭で出来るリハビリテーションの普及につとめている。
 また、FHCは障害児を対象とする団体であるために、障害児への教育機会の拡大に力を入れ、身体障害や、脳性麻痺、片方だけの視覚障害を持った子供など、軽度の障害児に対しては普通校での統合教育をすすめ、また普通校での教育が難しい障害児に対しては、近県の4つの特別校への照会を行った。学習障害を持つ子供に対しては、郡内の3つの学校をモデル校に指定し、統合教育をすすめた。また、教師へのトレーニングや、保護者の集まりを開いたりして、統合教育への理解を深めてもらった
 CBRでは、障害者がコミュニティーの中で自立できるような職業を持つことが、重要な鍵となるため、シーブンルアンでは、2つの方法で職業機会の拡大を計ろうとしている。一つは、社会福祉事務所のサービスを通じて、職業訓練所へ障害者を紹介し、修理工などの技術を身につける方法。もう一つは、地域内で仕事をするために、障害者にできる仕事や手工芸などを指導する方法。これには、障害者だけでなく障害者の家族も参加でき、養鶏、機織り、かご編み、点滴チューブを使ったキーホルダー作り、トウモロコシの皮を使った造花作り、村内での乾物販売などが含まれる。2000年には、新たな試みとして理容師の資格を取るコースを設けることを予定している。また、職業訓練を経て、自分で開業したい障害者のために、5000バーツを超えない範囲で開業資金を無利子で貸し出すことも行っている。
 さらに、障害の予防活動と知識の普及のために、コミュニティーの主婦会や青年会などを対象に研修会を開いたり、ポスターやスライド、放送やパンフレットなどで広報活動を行った。また、小学生向けに障害の予防に関する冊子を作成し、学校教育の中で使ってもらったりもしている。障害児と健常児の合同キャンプも行い、障害児と健常児がふれあう機会をつくり、家に閉じこもりがちな障害児を外に連れ出すきっかけ作りもした。

 <ケース>
 CBRの成功した代表例としてFHCが内外に紹介しているのが、スリヤくんという脳性麻痺の少年とその祖父によるリハビリテーションの取り組みである。
 シーブンルアン郡の中心部から20キロ程離れたところにあるサーイトン区サーイムーン村では、1988年にFHC によるCBRの一環で障害児の調査が行われ、このときに4歳の寝たきりのスリヤくんが脳性麻痺であると診断された。スリヤくんが生まれた当初から、家族は長生きはしないものとあきらめ、医者にすらみせていなかった。その上、家庭の経済状態も貧しかったため、両親とも働きに出ており、スリヤくんの面倒をみるのは、祖父のプライさんだけだった。CBRが始まり、FHCによりプライさんに脳性麻痺の子供も訓練次第で歩けるようになり、麻痺の症状も良くなると説明がされ、プライさんは理学療法を受けさせるために、毎月、シーブンルアン病院にスリヤくんを連れてくるようになった。さらに、理学療法の方法も習い、家庭でもスリヤくんに運動をさせるようになった。プライさんは廃材などを利用して、スリヤくんの運動のためのおもちゃを次々と作り、スリヤくんはそれで遊ぶことで、徐々に筋肉を強くし、自力で歩くことが出来るようになった。プライさんのおもちゃは、プライさんの創意工夫によるもので、木馬やクレーン車など、子供が楽しく遊べる上に、体も鍛えることが出きる非常に合理的なものだった。スリヤくんの症状が良くなるにつれ、シーブンルアン病院に来る障害児の両親や、近所の村の障害児を持つ親たちも、自分の子供のリハビリテーションに関心を持つようになり、スリヤくんのケースはいわば「希望の星」となった。1999年現在、スリヤくんは近所の学校に歩いて通う明るい中学校3年生であり、来年は高校にも進学する予定だ。
 プライさんはスリヤくんが大きくなった後も、他の脳性麻痺児の親の相談にのったり、自作のおもちゃを置いた庭を近所の子供達にも解放し、障害児も健常児も一緒に遊べるようにしている。FHCではこのプライさんの創作おもちゃ21品の設計図と効用などを本にまとめ、CBRが生み出した大きな成果として広めた。
 家の近所にあるものを利用して、特殊な医療に頼らず、地域でリハビリテーションをすすめたことで、これだけの結果が得られたということは、コミュニティーと家族、障害児にそれだけの能力があることを証明している。特に、障害の早期発見と適切な知識は、障害者の一生を変えるものであるだけに、CBR導入はそのきっかけになるだけでも効果があるといえよう。
 
 <CBRの展開>
 FHCがはじめたCBR活動を、FHCが関与しなくても地域の組織だけでCBRを継続していけるように、シーブンルアン郡の郡長を委員長とする「シーブンルアン郡障害者のリハビリテーション及び障害の予防管理委員会」が設置されたことは、CBRを外部者の指導のみで終わらせることなく、コミュニティーを主体として運営するために、有効であった。委員会は、「資金作り」「医療」「教育」「職業支援」「障害児の発達支援」「事故の予防」「広報」の7つの実行部に分けられ、FHCも委員会のメンバーに加わっている。ノンブアランプー病院だけでなく、郡長をはじめとする郡の役所関係者、警察、教育委員会などを巻き込んだために、CBRは郡をあげての大きな運動となり、地域に定着することができたのである。
 この後、1995年にFHCは、CBR活動を地域住民に任せるために協力者の立場に退いた。同年、日本政府の「草の根無償援助」により、病院の敷地内に障害者リハビリテーションセンターが建てられ、CBRの管轄や、障害者のためのクリニック、職業訓練、収入増加のための手工芸品作成もそこで行われるようになった。
 1999年8月にはCBRの実行の中心となる障害者支援財団設立のために、資金集めの目的で仏教行事の「トード・パー・パー」が2日間に渡って行われた。「トード・パー・パー」とは、「森に布を置く」という意味であり、本来は僧侶のために布や金品を木の下に置いて、誰がどの僧のためにしたか分からなくするタンブンの方法である。シーブンルアン病院の提案で、隣県のコンケーン県の寺にいる高僧から協力を得て、この行事が資金集めのために開かれた。僧侶を9名招いて、その僧にタンブンする形で、財団への寄附をシーブンルアンの人々から集めるのである。本来は、タンブンで集まった金品は僧侶のものとなるのだが、僧侶の財団への理解と協力のお陰で、ここでは財団設立の資金として使われる。行事に先駆けて、シーブンルアンではポスターなどを通じて財団設立の説明と、寄附の呼びかけがなされ、当日は僧侶への寄進と食事の供養のあとは、町の人々が夜通し宴を開いて祝う、町をあげての大きなイベントとなった。この儀式により37万バーツが集まり、法律で定められた財団設立のための必要資本金20万バーツを超えたため[注6] 、障害者支援団体が法人格を取得することができ、シーブンルアンのCBR事業は外部のNGOの事業としてではなく、地元に基盤を置く財団の事業として活動を行うことができるようになった。
 これで、シーブンルアンのCBRは、地域の人材で、地域の資金で、地域の運営によって行われることになり、内実共にコミュニティーに根ざしたものとなった。

(2)政府主導のCBRのケース(SNMRC・パヤオ県)
 1988年に完成したシリントン国立医療リハビリテーションセンター(以下SNMRC)は、タイで唯一の総合的な医療リハビリテーションを行える施設であり、障害者リハビリテーションの中枢機関としての役割を担っている。SNMRCの運営は管理全般、技術、治療とリハビリテーション、医療の四つの部門にわかれており、技術部門の中にはCBRを専門とする課が置かれている。SNMRCによるCBRの初めてのプロジェクトは1990年から3年間、イギリスのSave the Childrenの支援を受けて、ナコンパトム県で行ったものである。県内の二つの郡を選び、県、郡、区の開発関係者、保健関係者および教育関係者を集めてCBR理解のためのセミナーを開いた。セミナー参加者によって地域に持ち帰られた知識は、保健所職員や、村の保健ボランティア、障害者の家族に伝えられるように意図されている。センターではその後も次々に対象県を広げ、同様のCBR普及活動を続けている。

 以下では、1996年からSNMRCがHandicap International(以下HI)の協力を得て、パヤオ県で実施しているCBRを紹介する[注7] 。このCBRは、1999年でSNMRCとHIからの支援と指導が終わることになっており、今後は県と郡の管轄による、独立した活動となる。

 <パヤオ県チェンカム郡、ポン郡、ジュン郡について>
 パヤオ県は北部地方に位置し、県の東北端はラオスとの国境を有している。山岳部には少数ではあるが、山岳民族が住んでいる。県の人口は約52万人で、主要産業は稲作である。県民の9割近くが農業に従事しており、特に産業はない。エイズ患者が多いことと、貧しいことで名が知られる県でもある。
 チェンカム郡は県庁所在地から80キロと最も遠い、ラオスと国境を接する郡である。人口は8万人であり、他の郡と比べると栄えている。ポン郡、ジュン郡はそれぞれ県庁所在地から60キロ程の場所にあり、人口は5万人ちょっとである。各郡には公立の総合病院があり、ベッド数はチェンカム200、ポン30、ジュン30である。チェンカム病院には理学療法士がおり、リハビリテーション専門のセクションもある。
 
 <CBR導入のきっかけ>
 1990年からはじめたSNMRC主導のCBRは既に数県で実施され、1996年にはさらに対象地を広げるべく、医療サービスの乏しい県、南部のチュムポン県と北部のパヤオ県に対して働きかけをした。両県からの合意が得られたので、それぞれ同時にスタートを切り、同じ方法でCBRが始められた。パヤオの県公共保健事務所では、対象地となる郡を選ぶ際、郡の病院スタッフの反応と障害者数の多さを決め手として、上記の3つの郡を選んだ。

 <CBRの準備>
 SNMRCでは、パヤオでのCBRについて3年計画をたて、一年ごとに段階を設けて、1999年までに3段階が終了するようにプログラムをくんだ。3年目以降は、SNMRCとHIの手を離れてCBRが地域で一人歩きできるようにという目標である。
 プログラムの一年目は選ばれたCBR責任者の医療リハビリテーションの能力の開発と郡病院と保健所内のリハビリテーションのシステムを整備するために使い、二年目はコミュニティーについての調査と分析を行い、地域住民と共に検討をしながら、計画を立てる。そして三年目にCBRの実際の活動を始めるという算段である。

 <具体的な実施事項>
 (一年目にしたこと) 
@CBRに関する説明がSNMRCとHIから県保健事務所に対してなされ、保健事務所が対象
 郡の三箇所を選んだ。
A対象となった郡の郡病院では、看護婦の中からCBR責任者を2名ずつ決め、CBRの研修
 を受けさせた。また、三つの郡のそれぞれから、一カ所の保健所を選び、そこにもCBR
 責任者を一人決めて、研修を受けさせた。
B60時間のCBR研修がパヤオ県の保健事務所で実施された。各CBR責任者が参加し、CBR
 の理念、障害の知識、医療リハビリテーションの知識、簡単な理学療法などを学んだ。

 (二年目にしたこと)
@保健所職員や保健ボランティアが地域の実態調査を行い、障害者の数を把握した。未登
 録の障害者に対しては登録をすすめた。1997年までに登録した障害者数はパヤオ県全体
 では1971人、チェンカム郡397人、ポン郡190人、ジュン郡214人である。
A病院職員や保健所職員によるアウトリーチが、施設周辺に限って始められた。

 (三年目にすべきこと)
@障害者とその家族の状況、およびコミュニティーの障害者に対する考え方を調査する。
A上記の調査のために障害者支援ボランティアをコミュニティーの中から募る。
B調査結果をボランティアグループに知らせ、検討をさせる。
C協力体制を作るために関係者でミーティングを開く。
Dボランティアの障害者支援のための研修を行うベースを作る。
E問題発見とその問題の分析のために実際に研修を行う。
Fボランティアグループの障害者支援活動をフォローアップする。

 以上のように、3つの郡では3年をかけてCBRのイントロに当たる部分を形の上ではマニュアル通りに実行したが、3年目にあたる現在でも、ボランティアの障害者支援活動が独自に行われるまでには至っていない。障害者自身のCBRへの関わりも促進されていない。一年目に行われた研修により、CBRの知識を得た約30人の保健関係者は、本来の自分の仕事が優先であるため、その知識を広めてCBRの機軸となることが困難であった。その結果、現在3つの郡で行われているCBRと呼ばれている活動は、

・障害者の症状や生活状況の把握と障害者登録
・病院内での理学療法を用いたリハビリテーション
・病院または保健所周辺への障害者以外の一般患者も対象とするアウトリーチ活動
・障害者の家族への障害に関する知識の伝達と、必要な場合は理学療法の指導

 の4つを基本としている。アウトリーチの際に障害者から聞いた要望に答えて、リファーラルや、車椅子、生活補助金の申請を手助けしたりはしているが、障害者と保健関係者の二者の関係で完結しており、コミュニティーの関わりはない。

 <ケース>
^ ポン郡 70才男性  
 この老人は4年前に高血圧が原因で寝たきりとなった。奥さんと二人住まいで、介助をしてくれるのは奥さんひとりである。CBR活動によって変わったことは、
@障害者登録を済ませ、月に500バーツの生活補助金をもらえるようになった。
A社会福祉事務所から車椅子が支給された。
B2週間に一度、看護婦がポン病院から訪問にきて、健康面でのアドバイスや、奥さんへ
 の理学療法の指導も少し行った。
Cまた訪問の際に助言を受けて、室内に竹で手すりを付けたところ、ひとりでトイレに行
 けるようになった。
 しかし、老人の家はタイ式の高床作りになっており、出入りには不安定な梯子の昇り降りが必要である。この昇り降りが一人で出来ないために、長らく外出していない。家に籠りきりである。外出のためには力のある男性に抱えておろしてもらわなくてはならないが、近所には手伝ってくれる人がいないので、頼みにくい。

_ ジュン郡 16才男性
 生まれたときから脳性麻痺のため四肢が麻痺している。知能障害はないと思われる。病院からは遠く、保健所からは徒歩30分ほど。両親と5歳の弟と暮らしている。両親が留守のときは近所に住む70才の祖母が面倒を見る。食事等のADLは自力ではほとんどできず、教育および医療リハビリテーションは受けたことがない。CBR活動で変わったことは、
@障害者登録を行い、月に500バーツの生活補助金がもらえるようになった。
A保健所の職員が月に1、2回訪問にくる。
 ここの保健所からもCBR研修に参加した職員がいたが、研修を受けたあとしばらくして異動になり、現在アウトリーチに出ているのはここに来て半年目のCBRの知識がない職員である。前の職員から引き継ぎの際に、CBRについて多少の説明は受けたが、役には立っていない。
 また、少年の母親もリハビリテーションに関する知識がないために、生まれたときから子供はもう歩くことが出来ないと諦め、歩行訓練は今日までしてこなかった。文字や計算などはできる範囲で母親が教えてる。保健所の職員も知識不足のため、健康管理の注意程度で、リハビリテーションについての適切な助言などはできずにいる。
 この少年の症状はシーブンルアン郡のスリヤくんのケースに近く、知能障害はなく、早期にリハビリテーションを始めていれば歩行も可能なように見える。しかし、ずっと高床式の家の中に閉じこめられてきたので、学校に行くことも出来なかった。コミュニティーと家族への障害に関する知識の普及の必要性を痛感するケースである。

 <CBRの展開>
 3年目の活動を終えた今年以降、HIとSNMRCは直接はパヤオのCBRには関わらないこととなる。今後は、県公共保健事務所と郡の病院、保健所でこれまでの活動を続けていくこととなるが、アウトリーチを広げることをCBRと呼ぶ段階から脱することは難しそうである。CBR研修を受けた人材は、すでに自分の職務をもって、病院や保健所で忙しく患者の対応に追われている人々なので、CBRの活動に着手する余裕がない。彼らの持ち帰った知識も、コミュニティーに伝えられることなく、CBRのノウハウは理論のみに終わっている。コミュニティーとの接触は保健ボランティアに対する簡単な指導のみなので障害者やその家族が活動に関わる機会はない。
 しかし、CBR研修をきっかけとする障害者調査や、アウトリーチによって障害者の抱える問題が見えてきたことは、今後、活動を広げるための第一歩となるだろう。アウトリーチに終わらない、本来のCBR活動を始めるためには、コミュニティーを巻き込むことが不可欠であり、そのためにはコミュニティー内の種々のグループや、地域のリーダー、学校教師や僧侶などに障害に関する知識の普及活動を行う必要がある。

(3)二つのケースから見えるもの
 FHCとSNMRCの二つのCBRは、導入の手順と、めざすゴールは同じもののはずである。シーブンルアン郡の方は導入から既に13年が経ち、成熟した活動になっている一方、パヤオ県の活動はまだ導入から3年のベース作りの段階であるという時間の差があるとは言え、既にこの二つは今後の発展の方向が違っていることがわかる。シーブンルアン郡ではCBRを担う地域に根ざした財団が結成されたため、今後も活動は長く続いていくだろう。しかし、パヤオ県の方は、HIとSNMRCの直接関与がなくなると、CBR活動が立ち消えて行く可能性がある。この違いは何によって生まれたものなのだろうか。以下で、両ケースの比較を行うことで、CBR存続のための条件を探りたい。

 <人材および連絡体系>
 パヤオのケースではCBRの導入が公共保健省(SNMRC)→県公共保健事務所→郡病院→保健所というように、上から下に行政命令のような形で伝えられた。県事務所から通達が来たから仕方なく受けた、病院の上司から言われたからしかたなく責任者になった、というように、CBR導入に際して、不本意で受けた人が多い。実際に、ジュン病院のCBR責任者となった看護婦は、本来CBR研修にいくはずだった看護婦が都合で行けなくなったため、代わりに研修に出たところ、流れ上、CBR責任者となり、不本意ながらも引き受けざるをえなかったと言っている。彼女は本来の看護婦の職務が忙しいために、ジュン病院でのCBRの活動は、月に2回のアウトリーチと保健ボランティアへのトレーニングだけで手一杯であるとしている。今後、活動を広げていく予定はない。
 一方、FHCの導入の方法では、FHCがCBRを統括し、全ての面でのCBRの立ち上げを直接指導している。また、当時の病院長がCBR導入に積極的であり、病院スタッフも新しい取り組みに対して好意的であったため、リハビリテーションのクリニックを開くなど、それまでの病院内治療の枠を出た新しい活動に取り組むことが出来た。
 既存の人材や、資源、連絡体系を利用するというのはCBRの理念にのっとったものであり、導入に際する労力を節約することができるというメリットでもあるのだが、これを言葉通りに解釈して、従来の保健行政のピラミッドに沿って、上から下へ情報の伝達を行うだけになってしまったのがパヤオのケースである。この場合、CBRの実行が義務化され、自発的な活動にはなりにくい。そのうえ公務員は3,4年で人事異動により他の地域へ移ってしまうことがあるために、CBRを始めたところですぐに異動になり、活動が立ち消えになる恐れもある。

 <職業訓練と障害者グループの結成>
 シーブンルアンでは、週二回の理学療法クリニックの際、リハビリテーションセンター内で成人障害者対象の職業訓練も同時に行っている。死者の家族や病院などから注文を受けて、トウモロコシの皮を使った葬式用の造花(死者と共に燃やす花)を作ったり、不要な紙を原料にした籠作りなどの手工芸品の製作をし、市場や一般の店で売ったりしている。この職業訓練を受けに来ている障害者によって、自助グループが1998年に形成された。グループは月に一度ミーティングを開き、活動や予算について話し合っている。また、障害者ではないセンターの近所の主婦などもこの手工芸品制作に参加しており、センターは和気あいあいとして、井戸端会議の場所の役目も務めている。
 パヤオの三つの郡では、職業訓練とCBRがまだ結びついていない。クリニックは医療リハビリテーションに限られたものであり、CBR関係者の間でも、職業訓練は公共福祉事務所の仕事であると認識されている。またパヤオでのCBRは公共保健事務所が管轄しており、公共福祉事務所は直接関与していないために、役所間の連絡・提携が出来ていない。障害者グループに関しても、CBR活動をきっかけに作られる様子は見られない。
 
 <CBRに関与する行政機関>
 パヤオ県では、CBRがやって来た経路が、SNMRC→県公共保健事務所→郡病院→保健所という、保健の分野に限った縦の行政経路であったため、保健以外の分野の行政機関はCBRには関与していない。行政上、障害者福祉に関して大きな役割を担うべき県公共福祉事務所や、郡公共福祉事務所はCBRの知識を持っていない。
 シーブンルアンでは、保健行政以外にも、郡の警察署や、教育委員会、郡の開発課、ひいては郡長、県知事までをもCBRの組織に組み込み、郡をあげてのCBRという方向に持って行くことが出来た。これは、シーブンルアンでのCBR導入がNGOによる、フレキシブルなものであり、行政の役割分担にとらわれずに、広く参加を呼びかけることが出来たためであろう。

 以上のように、二つのケースの先行きを大きく分けた要因は、一方がいわゆる「お役所仕事」であったのに対し、一方は熱心な人材からなるNGOの仕事であったという違いに集約されると言えるかも知れない。それでは、行政の流れにのってやって来たCBRは成功しないのか、というとそうは言い切れない。役所内にも、CBRに熱心に取り組む人材がいれば、シーブンルアンのように発展していく可能性もある。
 ここで行政主導のCBRに対して提案できるのは、公共保健事務所内にCBR専属の係を設けることである。県公共保健事務所では管轄の範囲が大きすぎるため、郡の公共保健事務所に設けることが望ましい。この係は、本来の業務に加えてCBRにも取り組むのではなく、CBRの導入、実行、追跡のためだけに置かれた係であるべきである。さらに、郡の公共福祉事務所にも同様の係を設け、二つの事務所が共同してチームを作り、CBR活動の導入にあたれば、医療および社会保障の両面から活動をサポートすることができる。CBRのスタートとして、障害者の実態調査と登録作業は必須であるために、登録の統括を行う公共福祉事務所の参与は不可欠である。このチームを軸にして、病院、保健所、地域の保健ボランティア、地域の障害者の代表を集めて、どのようなCBR活動を行うかを話し合うことは、病院や保健所から強制的に人を集めてCBR研修に送り込むよりは、発展性のある活動となることが期待できるだろう。

 <これはCBRなのか?>
 ここまで、二つのケースを「CBRのケース」として取り上げてきたが、最後に根本的な問いをする必要がある。つまり、シーブンルアン郡および、パヤオ郡での一連の活動はCBRと呼ぶことが出来るのだろうか、という本来のCBRの定義に則った評価である。
 地域にある資源を利用して、障害者とその家族のみならず地域の人々を動員し、障害者リハビリテーションに取り組むことで障害者の生活の質の向上、ひいては地域全体の開発までもを達成するというのがCBRの理念である。
 パヤオのケースでは、「地域にある資源を活用する」ということが、病院や保健所などのすでにある施設で活動を行い、そこにいる人材を使ってCBRに取り組めばよいという
ように解釈されている。しかし、すでに出来上がっている保健行政の流れにCBRを乗せるだけでは、CBRは地域にまで届かないのは先に指摘した通りである。 障害者の生活の質の向上は、アウトリーチ活動による医療サービスの拡大と、障害者登録が進められたことによる生活補助金や車椅子、補装具の支給などで、CBR導入以前と比べれば、ほんのわずかではあるが実現している。が、障害者やその家族、地域の人々が参加するような活動はまだ行われておらず、CBRの知識の普及も保健ボランティアまでにとどまっており、一般の人々はCBRという言葉さえも聞いたことがないのが現状である。パヤオで行われているCBRは現段階ではアウトリーチの拡大の域をでておらず、本来のCBRの理念をもとに考えればCBRと呼ぶことは出来ないだろう。
 シーブンルアンの場合、地域の人々の動員という点は、仏教行事を通じた財団設立の資金集めが行われたことで、ある程度の達成がされたと評価できる。CBRの知識に関しても、郡全体の活動であることをスローガンにして、学校教育や地域の青年会、主婦会を通じた普及活動を行い、一般の人々にもシーブンルアンが障害者の支援のために郡をあげて活動を行っていることは伝わった。また就業機会の拡大も、センターで行われている手工芸の指導や、自宅で開業できる職業の訓練を無料で行ったりと、一部の障害者に対してではあるが実現している。しかし、現在のCBR活動の中核となっているのはセンター内で行われる活動であり、障害者が実際に暮らす村単位での活動はまだない。つまり、障害者とその周囲のコミュニティーが主体となった活動を行うというCBRの基本は、郡レベルという大きな規模では実施されているが、村レベルではまだ実施に至っていないのである。シーブンルアンでの活動をCBRの理念を体現したものとするには、よりミクロなレベルでの活動と人々の参加が必要である。
 総轄して評価すれば、両ケースともに、現在の活動はまだ厳密な意味ではCBRと呼べるものではない。パヤオのケースはアウトリーチの拡大の域を出ておらず、CBRのファシリテーターとしての役割を期待されている病院、保健所職員のなかでも、アウトリーチに励むことがCBRだと誤解している人がいる。シーブンルアンのケースは、地域の施設を中心とするアウトリーチ型からCBRへの離陸を図っている途中であるといえよう。コミュニティーの参加をさらに促進していくのが今後の課題である。

 <結論>
 これらのCBRの名を借りた活動は、不足な点は多々あるが、障害者リハビリテーションの質の向上には繋がっているといえよう。家の中に閉じこもっていた障害者を見つけて、登録し、医療リハビリテーションや社会福祉の存在を本人や家族に知らせるだけでも、大きな進歩である。さらに、障害に関する正しい知識を家族や近所の人々に学んでもらうことで、障害者に対する意識がかわる。厳密な意味ではCBRではないが、アウトリーチの拡大による知識の広がりも、現段階では評価できるだろう。
 CBRの理念の完全な実現はかなり困難であるが、CBRをめざすという発展途上の形で、今の時点でも行える重要な活動として、以下の4項目をあげることができる。

@ 障害の早期発見と予防
 保健所での乳児検診や、子供の健康管理に注意するよう母親に指導を行うなど、母子保健のさらなる充実を通じて、障害の早期発見と予防をはかるべきである。
A 障害者登録を進める
 タイでは未だに障害者登録数は全体数の三分の一程度と言われている。登録を行わなければ、医療サービスや社会サービスなどを無料で受けることが出来ず、障害に関する知識も手に入らない。保健ボランティアを使って、村内の障害者の把握と登録の勧めを行い、
医師による障害の診断を受けるようにすることがリハビリテーションのはじめの一歩である。
B リファーラル制度の明確化
 障害の種類によって、最寄りのリハビリテーション機関はどこかを明示したリファーラルのマニュアルを各郡ごとに作るべきである。また、その際の費用に関する正確な情報の記載も必要である。保健ボランティアや、保健所職員がそのようなマニュアルを持っていることが望ましい。
C 障害に関する知識の普及
 村の集まりを利用して、障害に関する正しい知識を広めることが必要である。障害者の家族でさえも、障害が良くなることや、障害者の能力について否定的であったりする。諦めて放って置かれた障害児には、自立への道はいつまで経っても開かれない。特に、障害児の親に対する教育は子供の一生を左右するだけに、保健所での障害児の親のための教室や、親同士のグループ作りに力を入れるべきである。

__________
注1  ILO,UNESCO,WHO 1994, "CBR for and with People with Disabilities," Joint Position Paper.

注2 中西由起子・久野研二「障害者の社会開発 - CBRの概念とアジアを中心とした実践」明石書店、1997。

注3 現在は廃刊となっている。

注4 シーブンルアン郡での調査はFHCの協力を得て、1999年8月18〜21日に行った。その後、数回に渡ってFHCのマネージャーへのインタビューを行い、シーブンルアンに関する情報を得た。

注5 タイには保健ボランティアという制度があり、村に数人、簡単な医療知識をもち、薬の販売を行なえるボランティアがいる。

注6 タイの法律では、法人格を有する財団となるためには20万バーツの基金を持っていることが条件とされている。

注7 パヤオ県での調査は、県公共保健事務所の協力を得て、1999年9月6〜10日の間に行った。

終章 タイにおけるCBRの今後

  第三章で見たFHCとSNMRCが実施したCBRは、厳密にはCBRと呼ぶことが出来ない発展途上のものである。しかし、CBRはすぐに成果が出る簡単な活動ではなく、長期的な目で見て評価しなければならない。現在、CBRの理念が達成されていなくても、将来、達成に近付く可能性は秘めている。
 この章では、CBRの実施に際して生じる問題点を指摘した上で、コミュニティー、国家、NGO・国際機関の三つの立場がそれぞれどのような解決策をとることができるのかを検討し、今後のタイのCBR、ひいては障害者リハビリテーションが進むべき道を探る。

1.CBR実施の問題点

 CBRは新しい試みであるとともに、かかげる理念の壮大さゆえに、マニュアル通りに実施することは非常に困難である。実施にともない、CBRが直面する問題点はこれまでにも多く指摘されている。
 アジアでのCBR実践に長く関わって来た中西由起子氏によると、一般的にCBRが直面する問題点は以下の六つである(中西・久野 1997 : 104-108)。
@CBR委員会のメンバーやCBRワーカー、サービス利用者、リファーラルネットワークに
 関わる人々などの間で意見が違ってくることがある。
Aプロジェクト資金が個人の利益のために流用されたり、事務所や備品などに使い過ぎ
 て、ソフト面に回らないことがある。
B障害者が無能力者とみられたり、地域の人たちが可哀相という考え方で接したり、医師
 等の専門家の権限が強すぎたりする、古い思考形態をなくすことが難しい。
CCBRがある程度の段階に達すると、それ以上の進歩がなかなか見られなくなり、CBRワ
 ーカーの熱意が薄れることがある。
D当初のCBRの目的である地域社会と障害者の参加が忘れられて、事業のみが存続してい
 くことがある。
E海外の資金援助に頼ってしまったせいで、援助が終わるとプロジェクトも終わらざるを
 得なくなることがある。自己資金を常に作っていくことが難しい。
  
 また、FHCのマネージャー、ソムチャイ氏は自己の経験から、CBR導入の抱える問題について次のように指摘している。
 「FHCでは3年前からCBRの実施を県の公共保健事務所に働き掛けて来た。その際、CBRの研修を県が指名した代表者に対して行い、その知識と技術を県に持ち帰ってもらう方法をとってきた。しかし、県側が送ってくる人材は、県の公共保健事務所の強制的な指示で郡の事務所や区の事務所から選ばれた人々であって、かなりの人が、自発的ではなくいやいや研修を受けに来ていた。これは、CBRの導入を縦の行政にのせて行ったことの悪い結果であり、多くのCBR実施が今一つ成果をあげない原因である。また、病院や保健所などの職員の入れ代わりによるCBRの消滅も問題であり、特に、3年に一度交替になる郡病院の院長はCBRの存続に影響を与える。」

 自身も障害者でありノンタブリー県障害者会議の議長を務めるトーポン氏は、CBRはタイでは普及しにくいと考えている。
 「CBRは貧しくて、施設へのアクセスが難しい、交通の便の悪い場所で普及しやすい。例えば、島で医療施設へのアクセスが分断されたフィリピンのような島国のほうが、タイよりもCBRに向いているだろう。タイではこれからもCBRよりもIBRが中心になるのではないか。地域の施設が徐々に充実していって、Community Basedではなく、施設の地方分散が進むだろう。CBRを導入することは大事だが、現在は各NGOや、SNMRCなど、それぞれのCBRに対する見解が異なっていて、別々の導入方法を取っている。タイ国全体でのCBRの理念を統一するためにも、これらの組織間での話し合いと意見の突き合わせが必要である。」

 これまでのことを総合すると、タイにおけるCBRの抱える問題は大きく、以下の三つに表される。
@ 実施主体の短期参与
 NGOをはじめ、SNMRCや地方自治体など、CBRを地域に持ち込んだ実施主体が3年程度の計画しか描いておらず、その後はCBRの定着の度合いに関わらず、予算の都合上、計画を引き上げてしまう。このため、CBRは導入部分だけで終わってしまうことがあり、実際の地域住民によるプロジェクトの実施までには至らないケースが多い。
A 技術を持った人材の不足
 CBR専門家をはじめ、医療リハビリテーションに関する技術者が不足している。理学療法士は、地方の県では県に2、3人しかいないところもあり、郡の病院では障害者リハビリテーションに関する専門技術を持たないところが大多数である。また、少ない専門家の中から、CBRに協力してくれる人材を探すこともさらに困難である。
B 情報の共有や連携の未整備
 さまざまな機関が独自の場所、手段でCBRを実施しているが、それぞれの経験から得た情報の交換が行われていない。CBRを実施している組織同士の連携もないために、互いの活動を知り合う機会がない。特に、 NGOの方が経験、知識ともに政府機関よりも優れているのに、NGOと政府機関の接点が少ないことは効率性に欠けると言えるだろう。国全体でのCBRの情報の統括が必要である。

 また、CBRの問題点の根本的な要因であり、かつCBR実現に不可欠である要素は「人材」、「資金」、「参加」の三つである。運営していく人材と、それを支える資金、そしてなにより障害者と地域の人々の参加がCBRを成立させる要素なのであって、なおかつ達成の難しいものなのである。
 では、これらの困難を克服して、本来の意味のCBR、地域に根ざしたリハビリテーションが実現されるには、何が必要なのか。地域コミュニティー、国家、NGO・国際機関の三つの立場それぞれについて、この点を検証したい。

2. コミュニティーレベルで必要なこと

 CBRのマニュアルはもともとWHOが途上国一般を対象に作成したものであり、各国の文化や政治制度等を考慮したものではない。アジアの途上国の中でも、国によって、また同じ国の中でも地方によって、コミュニティーの在り方は様々であり、統一的なマニュアルでは補いきれない多様な問題を抱えている。CBRは、コミュニティーを主人公とするからには、コミュニティーの性質を把握した上で、それに最も相応しい導入方法で行われるべきだが、これまでタイではこのようなコミュニティーの分析がCBR実施において疎かにされてきた。この項では、タイのコミュニティーの性質を明らかにした上で、それに応じたCBRの導入方法を提案したい。

(1)タイにおけるコミュニティーの性質
 <規模>
 コミュニティーとしての連帯意識があるのは最大でも行政上の村(ムーバーン)単位である。さらに一つの村でも、いくつかの集落に分かれており、顔見知り関係にあるのは集落単位になる。また、同じ寺に通う地域は村とは重ならないことも多々あり、二つの村から一つの寺にタンブンに来る場合や、一つの村のなかでも二つの寺に分かれてタンブンを行っている場合もある。さらに、あとからできた行政村の線引きと、もともとあった自然村の境界がずれていることもよくあり、村人の頭の中の「村」の意識が行政村とは一致しないことがある。
 これらと踏まえると、CBRを導入する際のコミュニティーの規模の選択は、行政村がせいぜいであり、区や郡単位ではコミュニティー主体のプロジェクトをたてることは難しい。また、行政村の中でも寺の布施者集団の違いなどで参加する行事が異なったり、「村」という枠組みに対する各人の理解がバラバラだったりすることもあるので、村内のグループ分けに注意を払う必要があるだろう。

 <リーダー>
 村の有力者は、村長、古老、寺の住職、学校教師である。特に、住職は村のよろず相談係のようなもので、病気や悩みごとを抱えた村人は寺に相談に行くことが現在でも一般的である。CBRがどれほどの重要性もって村人に受け入れられるかは、リーダーの説得によるところが大きい。また村人の障害者に対する態度や見方も、リーダーのそれに従って変わることがある。このためにも、まず、村の有力者に対し、CBRへの理解を求めることが不可欠である。

 <親族関係>
 タイの農村では共同体としてのつながりがルースであると、長らく考えられてきた。しかし、相互扶助や共同作業などは伝統的な共同体文化であり、現在も一般的に行われている。このことを根拠の一つとして、実は共同体のつながりはルースではないとする説もでてきている。特に、東北地方や北地方の貧しいとされている村の多くは、親族が一緒に移住して開拓した歴史があり、村落内に親戚同士が多い。このような場合、親戚同士で助け合って農業や家事を行っており、子供の面倒を見るのも両親に限らない。自助が出来ない障害者の世話も、両親が仕事で家をあけることが多い場合は、親戚が代わって引き受けている。CBRに際しては、同一家屋内に住む家族に限らず、障害者に接する機会の多い近所の親戚に対しても、家族と同様の知識の伝達を行うべきである。

 <仏教>
 村人の心の拠り所は仏教であり、寺であり、僧侶の教えは村人の考え方に影響力を持つ。僧侶が仏教の教えに基づいて、障害者の権利と障害者への支援について説けば、CBRへの村人の理解は得やすくなるであろうし、障害者に対しても、僧侶が励ましを行うことは、障害者が自信を持つことにつながるだろう。
 また、活動資金に困りがちな地方でのCBRには、シーブンルアン郡の例のように、仏教行事でタンブンを利用して資金を集めるのは、非常に有効な手段であろう。もちろん、そのためには僧侶の理解と協力が必要となる。
 さらには、村で行われる仏教の行事に参加できるかどうかは、コミュニティーのメンバーとして認められるかどうかを大きく左右する。障害者がコミュニティーの一員として役割をもつためには、このような行事に進んで参加する必要がある。仏教行事は障害者の社会参加促進にとって、良いきっかけ作りになるであろう。

(2)より良いCBRの導入方法とは
 急に降ってきたようにCBRがやってきてはあまり効果がないことは明らかである。まず、CBRの前段階として、障害に関する知識の普及が必要である。それから徐々に活動に巻き込む範囲を広げて行き、突然プロジェクトを立てるのではなく、毎日の生活の中で出来ることからはじめて行くことが大切である。
 これらのことに重ねてコミュニティーの性質もふまえ、村にCBRが入って行く際の最もスムーズと思われる手順を以下に提案する。

@ CBRを行う村の村長、学校教師、寺の住職など、村のリーダー的存在の人々に対して
 CBRについての説明を行う。また、保健所などで障害の予防や、障害者の能力に関する
 パンフレットを配り、人々の障害に対する関心の基礎を作る。
A 保健ボランティアを集めて講習を行い、障害者登録や障害に関する一般的な知識を伝
 える。特に、障害者の権利と能力について理解してもらう。
B 保健ボランティアに村の中の障害者を全員把握させ、保健所に報告させる。また、村
 内の障害者調査の再に、Aで習った知識を障害者の家庭に伝える。
C 保健ボランティアと障害者およびその家族を集めて、障害者が受けることのできるサ
 ービスの内容、リファーラル等の手続きの知識を伝える。家庭でもできる簡単な理学療
 法の指導も行う。場所は保健所、もしくは村の集会所で、正確な障害の診断のために医
 師が立ち会うことが望ましい。未登録の障害者についてはこのとき、登録を行う。
D Cのフォローアップとして保健ボランティアの話し合いを行い、さらに知識を深め
 る。保健ボランティアに、障害者リハビリテーションが「任務」という意識を持たせる
 ことが重要である。そのためにも保健ボランティア間の横のつながりを強くし、障害者
 リハビリテーションの知識を得た認定証のようなものを、各自に発行すると効果的であ
 ろう[注1] 。
E 保健所職員による家庭訪問によって、各人の障害に応じたリハビリテーションについ
 ての説明や、医療機関や学校へのリファーラル、車椅子や補装具の申請、簡単な理学療
 法の指導、生活相談を行う。
F 村の役員が集まる集会を利用して、保健ボランティアからCBRの理念を説明し、障害
 者も交えて、村で何ができるかを考える。障害者が困っていることなどを発言する機会
 も必ず設ける。この集会では、特にプロジェクトを立てる必要はない。次の村の行事に
 障害者を積極的に連れ出す、寝たきりで家の外に出ることが困難な障害者を外に出すな
 ど、村ですぐにできることでよい。また、村の役員の中からCBRの係を選出する。
G 主婦会や青年会でも同様の話し合いを行い、その際、保健ボランティアと障害者も参
 加する。CBRの係も選出する。
H 村のリーダー、保健ボランティア、CBRの係、障害者がグループを作り、話し合いに
 よって、その村の状況に応じた障害者の支援方法を考える。
I CBRの係が、支援方法について村内に広める。
J Hのグループの話し合いを定期的に行うようにする。

 このような段階を踏んでCBRの導入を行うことが、無理をせずに実施でき、かつ最も能率的な方法であろう。とにかく、今できることを、できる範囲で行うのが大切である。そして、活動の原動力として、ナムチャイの精神や仏教の教えをスローガンに加えることは効果的であり、また、寺と僧侶はCBRにとって重要なコミュニティー共有の資源となるだろう。

3. 国家レベルで必要なこと

 <人材の育成と地方への分散>
 タイでは医師の数がまだまだ不足している。途上国の中では比較的恵まれた状況ではあるものの、1996年の統計によると登録された医師は全国で約17000人で、医師一人が3500人の患者を見ることになる。また、医師はバンコクに集中しているため、地方ではこの数字は何倍にも膨れ上がる。特に、専門医のバンコク集中は激しく、例えば脳外科医の場合、80%がバンコクで勤務している[注2] 。医療リハビリテーションの専門家も例外ではなく、全国的に不足しており、かつバンコクに集中している。理学療法士の養成校は全国に7校あるが、養成は需要に追い付いていない。
 これらの医療に関する人材の育成と地方への分散を進めることが、政府にとって重要な課題であることはこれまでも各方面から指摘されてきた。これに加えて、CBRの専門家を政府が進んで育成し、ソーシャルワーカーのように一つの職業として確立することも必要である。

 <情報の共有と連絡機関の設置> 
 SNMRCが積極的にCBRに関する情報の収集と、NGO との連絡に努めるべきである。また、各NGOも、実施しているCBRの経過をSNMRCへ報告し、経験の共有をすべきである。タイでCBRを実施している団体数は、まだ一つの場所で集まって意見交換ができる程度の規模である。それならば、実施団体による意見交換の場を設けて、タイで最も相応しいCBRの型を共に探っていくのが望ましいだろう。
 また、障害者に対する行政サービスは、省庁や自治体など、あらゆるレベルで散らばっており、ある村に住む、ある障害者が、どのサービスをどれだけ、どのようにして受け取ることことが出来るのかが明瞭でない。例えば、区の管理組織が障害者のための養鶏プロジェクトをはじめて、希望者を募っているとか、郡の公共福祉事務所で障害者の職業訓練校への紹介を行っているとか、今度、保健所に公共保健事務所と病院の医療チームが来るとか、障害者は、誰かから教えられる以外は、いろいろな機関に自ら問い合わせて情報を得なければならない。よって、あるサービスを受けることができるかどうかは、障害者の置かれる立場によってバラバラである。サービスに関する情報の一括化と、その情報の家庭までの伝達を行うために、行政の手で障害者のための専門の連絡システムを確立すべきである。

 <IBRとCBRとの適切な併用>
 CBRの普及とともに、施設の内容の充実も図らなければならない。居住型の障害者ホームは、障害者に対して介護者の数が圧倒的に不足している。また、リハビリテーション施設も、視聴覚や知能の障害の治療ができるものは、バンコクやチェンマイといった大都市にしか存在せず、大部分の障害者にとって、手の届かないものである。医療施設の質の向上と地方分散化が必要である。
 また、CBRに際しても、医療機関での治療やリハビリテーションは欠かすことが出来ない要素である。CBRとIBRの適切な併用をしていくためには、医療機関のCBRへの協力が必要である。医療機関への呼び掛けは、保健行政が積極的に行うことが望ましい。

 <職業訓練施設、教育機関の充実>
 障害者のための職業訓練施設は全国にまだ9校しかない。このため、職業訓練を受けたい障害者の多くは、地域を離れて他県に住み込んで学ぶことを余儀無くされる。せめて、県単位に一つは開校されるのが望ましい。もしくは、障害者を対象としていない一般の職業訓練施設での障害者受け入れを積極的に行うべきである。教育機関でも同様の処置が必要である。聾学校などは、寄宿舎を敷地内に建てているところもあるが、やはり子供は親元から通わせるのが望ましい。統合教育を進めるにあたっては、教師の知識と技術がもとめられるので、教師に対する研修制度を確立する必要がある。

4. 国際機関、NGOの役割
 
 <情報の共有>
 上述のようにSNMRCを中心とする、官民の連携と情報の共有は必要である。CBRを実施しているNGOは積極的に自己の得た情報と経験を公開するように努め、他の機関からも学ぶという姿勢を持つことが大事である。特に、政府主導のCBRに対し、提言や批判を行うことはNGOの役割の一つだとも言える。 

 <長期的な取り組み>
 一つの対象地にCBRプログラムを導入してから、計画していた期間が過ぎてしまうと、自らは身を引いて、後は地域に任せっきりになってしまうのは危険である。まだ地域にCBRが根をおろしていないうちに、引き上げてしまうと、そこでCBRは立ち消えてしまい、導入が無駄になってしまう。CBRを導入するNGOは、長期的な視野で地域の発展を捕らえ、3年程度の短期間で一つのプログラムを終了させずに、形を変えつつ永続的にフォローアップを行うべきである。また、導入当初に資金援助や建物などのハード面の整備を行うことも、慎重な検討を要する。簡単に上からの資金がおりてくると、地域が自力で資金集めを行う力をつぶしてしまい、地域の人々は自分達が活動の主体であるという意識を持ちにくいだろう。

 <国の文化的背景に則したフレキシブルな対応> 
 国際機関やNGOで、すでに他国においてCBRの実績をあげている場合は、その経験を生かしたCBR活動を行うだろう。しかし、CBRはコミュニティーの性質や、行政システム、医療サービスの状況など、地域独自の環境によって大きく内容を変える活動である。国際機関やNGOは各国の状態に合わせて、コミュニティー研究を行った上で、CBRの導入に踏み切るべきである。また、現在行われているCBR活動に対する評価を行う際も、地域の主体性や障害者の参加が実現されていないからといって、間違ったCBRであるいう判断をしてはならない。無理にコミュニティーの主体化と障害者の参加を促すのではなく、現時点でコミュニティーで何が出来ていて、障害者の生活にどのような改善点が見られたかを評価し、今コミュニティーができることから、少しずつの進歩を達成していくべきである。

5. おわりに

 これまでのことから導きだせるのは、CBRにとって欠かすことが出来ないのは「障害の早期発見」、「治療・リハビリテーションの適切な技術」、「技術と知識の伝達」、「障害者と家族の信念と努力」、そして「周囲の理解と協力」である。これらが揃って初めてCBRは成立するのだが、現在タイで行われているCBRは、ある程度の成果を収めてはいるものの、このような項目を全て達成できているケースはごく少数に過ぎない。タイでのCBRはまだ発展途上であり、今後の発展の方向を探っているのが現在の段階である。しかしながら、医療施設のみに頼るリハビリテーションではなく、既存の資源を使って出来ることから始めるCBRは、障害者への行政サービスが不十分な今のタイにとっては重要な手段である。特に、サービスの行き届かない地方農村においてはCBRはオルターナティブなリハビリテーション方法として有効である。この章で提言したように、コミュニティーの状況に則したフレキシブルな導入方法をとり、障害者リハビリテーションを支援する政府やNGOのサポート体制が充実すれば、タイでもCBRは本来あるべき形により近づき、今以上の成果をあげることができるだろう。
 また、CBR以外の側面でも、タイの障害者リハビリテーションをめぐる状況は多くの課題を抱えている。医療リハビリテーション技術の向上と拡大、就業および教育機会の拡大、建物や交通機関へのアクセスビリティーの改善、障害に関する知識の普及、障害者の社会参加の促進など、1991年の障害者リハビリテーション法でうたわれた事項のほとんどはこれから実現がされていく課題である。
 そして、このような事項の総てを目標に含んでいるのがCBRである。今後、タイが大きく発展を遂げ、障害者への政府によるサービスが先進国並みに充実した場合、IBRが主流となるかも知れない。しかし、コミュニティーの中で障害者が自信を持って生活していくためには、人と人とのつながりや助け合いといった、CBRの理念に象徴されているようなことがらは欠かすことができない。IBRが取りこぼしているこのような部分を補うためにも、CBRの永続的な併用は必要であろう。

__________
注1 保健ボランティアは、保健所などで専門の講習を受けた村人で、村に1〜2人置かれ、保健関連の情報伝達や病人の応急処置、病院への搬送などを手伝う。無報酬だが、病院での自分の治療費が免除されるという特権がある。

注2 2000年1月2日付 Bangkok Post。

謝辞

 本稿を完成させる上で、以下の方々のご指導、ご援助を頂いた。ここに記してお礼を申し上げます。
 指導教官の浅見靖仁先生には学部三年から現在まで、五年間に渡って研究のご指導を頂いた。本稿はもちろんのこと、留学に際しても、あらゆる面で貴重なアドバイスとコメントを下さり、本当に感謝しております。タイ留学中にチュラロンコーン大学で指導教官となって頂いたスリチャイ・ワンゲーオ先生にも、調査をすすめる上で、障害者関連の機関を紹介して頂いたり、論文の方向性を決める際にアドバイスを頂いた。
 また、CBRに関して、斎藤百合子さんのお力添えなくしては十分な知識を得ることができなかった。CBRのケースの調査に関しては、シーブンルアン郡ではFHCのソムチャイ氏と郡病院の理学療法士であるヌンさん、パヤオ県では県公共保健事務所のワンナソンさんとパタナガーンさん、各郡の病院と保健所の職員の方々に大変お世話になった。特にFHCのソムチャイ氏にはお忙しい中、何度も快くインタビューに応じて頂き、篤くお礼申し上げたい。Goodwill Industry of Thailandのシリポーンさんには職業訓練に関する情報を頂いただけでなく、パヤオ県での調査の調整までして頂いた。
 障害者リハビリテーションに関する全般的な情報については、公共福祉局障害者リハビリテーション委員会事務局のカヌンニットさん、シリントン国立医療リハビリテーションセンターのパッタリヤ所長、HANDICAP INTERNATIONALのドュアンカモンさんからのご支援を頂いた。 言うまでもなく本研究は各地でお話を伺った、障害者とその家族のみなさんの御協力のたまものである。特に障害児たちの笑顔にはいつも励まされた。
 パソコンのトラブルの際は、岡本和之さんと吉田隆さんに大変お世話になった。本稿はお二人なくしては完成を見なかったと言っても過言ではない。
 また、調査地を同じくタイとする、修士論文執筆仲間の浅岡小都さんと森田敦郎くんには、随所で情報やコメントをもらい、とても感謝している。
 最後に、タイ文化に関するあらゆる助言や、タイ語の指導、調査のサポート、トラブルの解決など、総ての面で惜しみない支援をしてくれたジラチャイ・タンキットンガムヲン氏に心からお礼を言いたい。

参考文献

<和文>
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     A篤き信仰の風景南伝仏教』日本放送出版協会、1998年。
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