マレーシアにおけるCBRの課題と活動事例の分析
       〜障害児・者を囲む関係変容の「場」としての可能性」〜
2005年度 修士学位論文

日本福祉大学大学院国 際 社 会 開 発 研 究 科
原田 真帆

目  次

第1章 序論  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  1 
第1節 研究の背景                            1 
第2節 研究の目的                            2
第3節 先行研究について                        2
第4節 研究方法                              3
第5節 論文の構成                            4
   
第2章 CBRの概要 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  5   
第1節 CBRの概念                            5
第2節 CBRの動向                            7

第3章 マレーシアCBRの背景と概要 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  8
第1節 マレーシア社会の背景                      8
第2節 マレーシア障害者関連政策・サービスの歴史的展開    11
 第1項 マレーシアの障害者サービスの歴史的展開        11
 第2項 マレーシアの障害者関連政策 12
第3節 マレーシアCBRの概要                       16
 第1項 マレーシアCBRの歴史的展開   16
 第2項 マレーシア社会福祉局によるCBRの定義・目的       18
 第3項 マレーシア社会福祉局作成CBR運営指針         19

第4章 マレーシアCBRの諸問題 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 20 
第1節 マレーシアCBRに対する諸見解                 20
 第1項 マレーシア社会福祉局関係者によるCBRの評価       20
 第2項 CBR専門家によるCBRの評価                 21
第2節 マレーシアCBRの実態                   22
 第1項 CBRの推進方法における問題                 22
 第2項 専門家の在り方                          26
 第3項 CBRの対象とする障害者の限定                28
 第4項 「障害」の捉え方に関する文化的宗教的背景        30
第3節 実例に見るマレーシアCBRの限界                31
第4節 まとめ                                 34

第5章 マレーシアCBRの可能性  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  35
第1節 CBR活動の積極的側面を示す諸実例              35 
 第1項 公立小学校のアクセスを改善した事例            35
 第2項 地域資源を活用する生産的活動を展開した事例      40
 第3項 障害者の主体的な活動を促進した事例            44
 第4項 日々の目的を生み出す「場」を提供している事例       47
 第5項 障害者がCBRワーカーとして役割を担う事例         51
第2節 CBRと自立生活運動                         56        
第3節 まとめ                                   60 

第6章 マレーシアCBRの展望 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  63                    
第1節 社会福祉局の今後の計画
    -One Stop CenterとしてのCBRセンターの役割         63
第2節 マレーシアCBRの今後の方向性                  64                    

あとがき ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  66

引用・参考文献  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  67

第1章 序 論

第1節 研究の背景 

 筆者は1998年から2001年、そして2003年から現在に至るまで、青年海外協力隊(以下、協力隊と称す)としてマレーシアで活動している。活動内容は、マレーシア社会福祉局が手がける「Community Based Rehabilitation(CBR、地域に根ざしたリハビリテーション)」プログラムへの協力である。1998年から2000年は一定地域における現場での活動、2001年と2003年以降は、全国を対象とする中央本部での企画、研修への協力や、調整業務等を行っている。
 CBRにおいては、障害関連の取り組みが「地域開発の戦略」として位置づけられている。これは、障害分野の発展が地域の発展につながる、という理念を意味し、障害問題を個人の問題ではなく地域の問題として捉える立場にたつ。つまり、CBRを通じて障害分野に取り組む時には、従来行われてきた「医療・個別モデル」ではなく、「社会モデル」による捉え方が重視される。医療・個別モデルは、「問題は障害者個人にある」という考えが基になり、一方、社会モデルは「問題は社会にある」という考えが基になっている。ここに、これまで少数者の問題として後回しにされがちな障害問題が、全ての人の問題として、全ての人が取り組むべき課題となる可能性を見ることができる。
 しかし、筆者が関わっているマレーシアのCBRプログラムの多くは、障害者に訓練を施し、彼らが「(機能的に)よくなる、変わる」ことで社会参加を達成させることを目指している。そのため、障害者個人に対する医療・教育リハビリテーションに重点が置かれ、障害問題が地域の問題として捉えられにくく、結果としてCBR活動がCBRセンターの活動に限定されて、そこに地域住民を巻き込むことが困難な状況となっている。そして、障害者はいつまで経ってもサービスを提供してもらう施される立場であり、本来CBRが目指していた本当の意味での障害者の社会参加には程遠い状態である。
 以上のように、「CBR本来の概念」に照らしてマレーシアのCBRを分析するとそのギャップは大きく、これについての論考も少なくない。しかし一方で、筆者が現場で接してきたCBR活動の実例一つ一つを見てみると、CBRに関わる人々の関係が変容した結果、積極的効果を生み出した実例がいくつか存在する。例えば、障害児個人へのサービスの提供という活動がきっかけとなり、多くの人々が関わり、様々な要因が重なり合った結果、「周囲の者たちが変わった」という実例がある。
 そのような実例を拾い上げ、整理し、分析する作業を通して、マレーシアCBRの今後の方向性を提示する際の枠組みを考えたい。

第2節 研究の目的 

 マレーシアで行われているCBRプログラムの実例を集め分析する作業を通して、マレーシアCBRの問題と独自な積極的効果を明らかにし、その要因を考察して、マレーシアCBRの今後の方向性を提示することを目的とする。 

第3節 先行研究について

 マレーシアCBRに関して研究している者として、久野研二や石本馨らがあげられる。
 久野は、マレーシアやインドネシアのCBRに携わった経験をもち、日本におけるCBRの第一人者としても知られており、マレーシアのCBRに関して論じている論文が複数ある。久野は、マレーシアの複数の州でCBRに関する調査を行い、マレーシアCBRの全般的な課題を分析したり、障害をもつCBRワーカーに聞き取り調査を行い、当事者としての障害者の参加について論じている。久野は、マレーシアのCBRが「知的障害児を対象とする小規模施設での狭義の意味でのリハビリテーションサービスの提供」という偏ったかたちで推し進められており、多くの課題を抱えていると指摘している。それは、対象者の限定や活動の制限、地域住民の実施への参加の不足、特に当事者としての障害者の参加が不足していることを問題として提示している。自宅に閉じこもっていた障害者がCBRセンターに通うことで、社会参加の道の1つを提供したと認めつつも、センターでの活動に限定されていることで、障害者の本当の意味での社会参加を果たせていないことを強調している(久野1999a、2003)。
 石本は、マレーシアでCBRに携わった経験等を生かし、修士論文の調査地としてマレーシアを選びCBRについて研究している。石本は、途上国における障害者へのリハビリテーションの現場で起きている問題の原因を世界保健機関(WHO)のCBRプログラムにあると仮定し、CBRプログラムが実施されているマレーシア・ケダ州の3つの地域で調査を行った。結果として、マレーシアのCBRは政府主導(トップダウン)のアウトリーチ型のリハビリテーションに属していると結論をだした。しかし、地域のCBR運営・実施者が主体的に参加することで、地域社会自治型に変化していく可能性を秘めていると分析している。そしてCBRがリハビリテーションの手段の完成形ではなく、地域社会自治型や当事者主体型への通過点であると述べている(石本2002)。
 以上、マレーシアのCBRについて研究した久野と石本の見解について述べた。筆者も、両者が提示するCBRの問題を認識できる。しかし、本研究では、それら課題を踏まえた上で、可能性を探っていくことにする。それは、久野がマレーシアCBRの効果として提示した、CBRが「障害者の社会参加の場としての1つの道を提示した」点と、石本が分析した「関係者が主体的に関わることで、CBRの形が変化していく可能性がある」という点に注目することとなる。本研究では、この2点に着目し、実例の一つ一つを掘り下げて分析することを通して、マレーシアCBRの可能性を探り、今後の方向性を考察していくことにする。

第4節 研究方法  

 第3章で説明しているマレーシアの国の概要や一般状況に関しては、マレーシア統計局のWebサイト、マレーシア日本商工会議所が出版した資料や、マレーシア社会に関して記載された文献を参考にした。
 続けて同章の関係省庁の政策や、障害者サービスに関しては、各省庁の政府刊行物や資料、関係省庁のWebサイト、関連文献を参考にした。
 第2、4章で記述するCBRやマレーシアのCBRに関しての概要、諸問題に関しては、論文、書籍、雑誌、政府刊行物、Webサイトを参考にした。更に、筆者が行政担当者やCBRワーカー(以下、ワーカーと称す)、協力隊等関係者との直接のやり取りや、会議、講習会等の場で見聞きしたことを参考にしている。
 また、同4章のCBRの限界を示すものとして上げた実例に関しては、筆者が2004年7月に同実例の地域を訪れ、実際にCBR活動に参加したり、ワーカーやCBR運営委員、障害者の家族や地域住民から見聞きしたことをまとめたものである。また、2004年5月から2005年8月まで同地域にてCBR活動を支援していた協力隊との会話の中で得た内容も参考にしている。
 第5章第1 項の実例に関しては、2004年から2005年にかけて筆者が行ったワーカーへの聞き取りと、2005年にワーカーが作成した手記(障害児のライフヒストリー)、ワーカーが撮影した写真を参考にしている。尚、ワーカーが作成した手記とは、本実例を成功例として他ワーカーや協力隊に紹介するためにワーカー自らが作成したものである。内容は、障害児が生後1ヶ月の時から関わっている自身の体験を基に、さらに障害児の両親と障害児の学級担任に聞き取りをした上で作成したものである。また、ワーカーが活動している州には協力隊が派遣されており、隊員自身も障害児と関わり、障害児の通学先を見学した経験をもっているので、同隊員への聞き取りも行っている。
 同章第2 、3項の実例に関しては、1999、2000年に筆者が同地域を訪問し活動に参加して得たことや、ワーカーへの聞き取り(2001、2004、2005年)、2003年にCBR運営委員が作成した活動紹介資料を参考にした、また、2名の協力隊が、それぞれ2003年と2004年に同CBRを訪問しており、彼らとの会話や、彼らが撮影した写真、ビデオも参考にしている。
 同章第4 、5項の実例に関しては、筆者が1999年3月から2001年7月まで協力隊としてCBR活動を支援し、生活していた地域で経験したことの個人記録に基づく。また、2001年7月以降は、一年に1、2度程の頻度で同地域を訪れており、その時に見聞きしたことや、ワーカー、利用者の両親との会話の中で得た内容を参考にしている。さらに第5項に関しては、ワーカーを務める障害者自身へのライフヒストリー調査を行っている。

第5節 論文の構成

 まず第1章では、本研究に取り組むことになった動機、背景について述べ、更に研究目的や方法について記述している。
 第2章では、本研究題材であるCBRに関する一般的事情を確認するために、CBRの概念形成や、CBRに関する論評についてグローバルな視野で整理する。
 次に第3章で、地域社会を基盤に実施されるCBRを分析することをふまえ、社会の在り様について確認するために、本研究のフィールドであるマレーシア国の歴史や文化概要について述べる。続いて同章で、マレーシアで実施されているCBRの概要および歴史的展開、マレーシアの障害者関連政策・サービスについて概観する。
 以上第2章、第3章が、論文導入部をなす。
 これらをふまえ、第4章では、マレーシアのCBRについて何が問題として批判され、本来のCBR概念に照らして何が限界とされてきたかを、諸問題の要因についての考察とともに、分析する。
 そして一方、第5章では、これら限界にもかかわらず、現場で萌芽的に観察される独自な積極的効果を、複数のCBR活動の実例の分析を通じて明らかにする。
 最後に第6章では、上述の限界と積極的経験とをマレーシアCBRの発展過程の中に位置づけ、今後の方向性を提示する。

 なお用語であるが、マレーシアにおいて、社会福祉局の監督下にあるCBRはPDKと呼ばれ、NGOが実施するものや、保健省が実施する地域診療所での障害児と両親を集めて行うリハビリプログラムとは区別している。PDKとは「Pemulihan Dalam Komuniti」の略語であり、CBR(Community Based Rehabilitation)のマレーシア語である。本論文では、原則として全てCBRの呼称の下に議論するが、とくにマレーシア社会福祉局監督下のCBRを区別する必要があるときはPDKと表記する。

第2章 CBRの概要

第1節 CBRの概念 

 CBRとは、「Community Based Rehabilitation」の略語であり、日本語では「地域に根ざしたリハビリテーション」などと訳されている。2004年にILO(International Labour Ofiice)、UNESCO(United Nations Education, Scietntific and Cultural Organization)、WHO(World Health Organization)が共同で提出した CBRジョイントポジションペーパーによると、CBRは「障害者のリハビリテーション、機会の均等、社会共生のための、総合的地域開発における一戦略」であり、「障害者自身と彼らの家族、組織や地域、そして保健、教育、職業、社会、その他のサービスの関連政府機関やNGOの共同の努力によって行われる」と掲げられている(2004, p.2, 筆者訳)。
 また、WHOの障害分野のアドバイザーを務め、CBRマニュアル「地域での障害者の訓練」の著者の1人であるスリランカのパドマニ・メンディス(1999, p.44)は、「CBRが第一に求めているのは、障害者が成長し暮らしている環境、つまり家族や地域社会の態度や人間関係、構造での変革である。CBRにおいては、平等な権利の概念を認め、障害児・者やその家族の特別なニーズを満たすことで平等な権利の推進に責任を持つという社会的風潮をもたらすことに焦点が置かれている。」と説明している。
 また、インドネシアのソロ地方にあるインドネシアCBR開発・訓練センター(CBRDTC)の所長であるハンドヨ・チャンドラクスマ(1998, p.13)は、CBRとは「地域社会の振舞い(態度、知識と技術を含む)を改めさせ、地域社会を構成するメンバーの一人ひとりが障害という問題(社会経済的問題、社会文化的問題、医学的問題、心理的問題)に対する理解を深め、障害の予防活動に参加し、その結果、障害をもつ人がその生活水準を高めることができるよう有形無形の社会文化、経済等の面において積極的に障害をもつ人を受け入れる環境を創り出すこと」と述べ、社会資源を活用しながらの社会変革を前面に出したCBRを実践している。
 CBRに対しては、様々な解釈がなされ実施方法も多種多様で、「これがCBRである」という唯一の答えは無い。筆者自身は、CBRは、障害問題が「限られた人、特別な人によって取り扱われる特別な事」ではなく、「全ての者によって行われるべき一般的な事と人々が意識する」ことを可能にし、全ての者が協力して取り組むことで地域が開発されるものだと捉えている。それは、障害問題に取り組むことが弱者である(と言われる)障害者を救うためではなく、自分自身そして社会全体のために当然の行為として行われることに繋がると考える。
 そのためCBRでいうところのリハビリテーションは、障害者個人の機能を改善させるための訓練的リハビリテーションに重きを置くのではなく、地域の資源を活用しながら地域の人々ができることを行うことを通して障害者を取り巻く問題を解決することに、より重点が置かれる。例えば、「高い輸入品の福祉機器の代わりに、地元の大工が地域の資源を活用して安価な製品を作り、それによって地域の障害者が福祉機器をより身近に感じるようになった。」という活動にあっては、単に障害者が恩恵を受けたというだけではなく、その活動に取り組んだ全ての人が恩恵を受けることになる。例えば、大工は福祉機器を作るために、障害について学ぶことができると同時に大工技術を深めることができ、さらには収入にも繋がる。また、障害者を含む地域の人々の中に関係性が生まれ、今まで「近所にいる障害者」と捉えていた人を「福祉機器を皆で手作りした時の〜さん」という見方に変わり、人々の交流が深まることが考えられる。そして、問題を自分たちで解決したという自負、誇りが生まれ、共同で障害問題を解決することの喜びを感じることが可能となり、次の行動へと繋がる。

第2節 CBRの動向 

 CBRは1970年代後半に世界各地で紹介、導入された。CBRという言葉が初めて公の場で使われたのは、1976年の「障害の防止とリハビリテーション」に関する総会決議でのWHOによるものと言われている。1978年にWHOは、「世界中のすべての人々に健康を」というスローガンの下、健康の増進、疾病の予防と治療、リハビリテーションを要素とするプライマリーヘルスケアーを打ち出し、その中で、障害の予防とリハビリテーションを推進していく方法としてCBRを位置づけた。その当時CBRは、国際機関や民間団体により、世界各地の途上国の農村部において独自の方法で実施されていた。  
 例えば、医療・保健関係者を中心にプライマリーヘルスケアーの延長戦上として実施されたCBRは、医療的・保健的視点を基に行われ、一方、ILOであれば労働・職業的視点を基に行われていたと考えられる。以上のようにCBRは各自の方法で展開されていたが、共通概念をもつため、1994年ILO、UNESCO、WHOにより以下のような共同声明が出された(1994, 筆者訳)。
 「CBRは、全ての障害者のための、リハビリテーション、機会の均等、社会統合のための、地域開発における一戦略」であり、「障害者自身、彼らの家族、地域社会、そして適切な保健、教育、職業、社会サービス機関の共同の努力によって行われる。」
 CBRは、それまで行われていた「都心部の大規模施設における、専門家による機能回復を主目的とするサービス」に替わる方法として注目を浴びた。また地域開発における一戦略としてCBRが置かれた背景には、地域住民が自分たちの地域に応じた方法で主体的に開発していくことの価値を、人々が認めたことがあげられる。
 当初CBRは、都市部でのサービスを受けることが不可能な多くの障害者を支援する方法として、また圧倒的に不足する専門家や専門施設の代替手段として、さらに経済的費用の問題を解決するための方法として、つまりどちらかというと従来の理念と方法を前提にしつつ、それを補完し代替する方法としての面が目立っていた。そのため、地域開発の側面よりも障害者への訓練の面が意識され、リハビリテーション専門家やワーカーが巡回訪問し、訓練サービスを提供することをもってCBR と称したり、地域に小規模センターを設立し、そこでリハビリ訓練を行うことでCBRと称しているものが世界各地でみられた。そして、障害者や地域住民のエンパワメントを目指ざすはずのCBRで思った以上に効果を奏しないという批判も現れた[1]。
 その一方で、CBRを通じた地域の発展という点に、障害分野の新しい価値を見いだす模索も続いた。2002年、国連アジア太平洋経済社会委員会(ESCAP)が中心となって各国で採択された「アジア太平洋障害者のための、インクルーシブで、バリアフリーな、かつ権利に基づく社会に向けた行動のための、びわこミレニアム・フレームワーク」は、目標達成のための戦略の一つとしてCBRを掲げ、以下のように述べている[2]。
 「地域に根ざしたアプローチが特に功を奏するのは、障害原因の予防と障害児の早期発見・早期対応、農村に住む障害者への対応をはじめとし、社会的・文化的・宗教的活動を含む、地域におけるすべての活動への障害者の完全参加を実現するための啓蒙活動や人権擁護活動においてである。教育や訓練、雇用におけるニーズを満たすことも、このアプローチによって可能となる。」そして続けて、「CBRでは、障害者自身がイニシアティブをとって、その選択・管理する主体となることが不可欠である。」と明記し、障害者がエンパワメントできるよう、障害者のイニシアティブを強調している。
 しかし、CBRは、こうした理念的な概念としては存在するが、方法は地域によって異なり明確なノウハウを提示することは難しい。そのため、CBRは多くの論文で取り扱われ、関連機関にて繰り返し議論されながらも、明確で具体的な解決策となりえていない。

第3章 マレーシア社会の背景と概要

第1節 マレーシア社会の背景 

 マレーシアは、マレー半島南半分(半島マレーシアや西マレーシアと呼ばれる)と、ボルネオ島の北部沿岸地域(東マレーシア)との、大きく二つに分かれた地域から成る、熱帯性気候の国である(図1)。2000年のマレーシア全体のGNPは、一人あたり3,544US$と途上国の中では比較的高い水準で、もはや中進国とも呼ばれている。そして、国家展望として2020 年までに先進国入りを目指す「2020年展望(Vision 2020)」を掲げ、経済発展に努めている。 


図1 マレーシアの地図

 マレーシアは複合民族国家であり、経済、政治、社会、あらゆる事柄が民族背景無しには語ることができない。マレーシアの人口は25,048,300人(2003年)で、民族の内訳は、マレー系とその他の先住民族が15,351,200人(約60%)、中華系が5,997,000人(約24%)、インド系が1,763,800人(約7%)、そして非マレーシア人を含むその他が1,936,300人(約8%)である。国語はマレー語、国教はイスラム教と憲法で定められているが、同時に個人の信仰の自由が保障されている。宗教人口は、イスラム教徒が約60%、仏教徒20%、キリスト教10%、ヒンズー教6%、その他儒教や土着信仰等である。 マレー系は100%イスラム教であり、改宗することができない(マレーシア日本人商工会議所調査委員会 2005)。また他宗教の者が結婚や養子縁組等でイスラム教家族の一員となった場合、必ずイスラム教に改宗しなければならない。
マレー系はイスラム寺院(モスク)を、中華系とインド系は、教会、ヒンドゥー教寺院、廟を建立し、これらの宗教施設は各コミュニティーの結束の象徴となっている。宗教や民族ごとに様々なしきたりがあり、それが生活様式や習慣、文化、人々の考え方に影響を与え、ひいては政治にまで影響を与える。マレーシアの政党が民族を基盤にして民族ごとに組織されていることもその表れである。複合民族国家であるマレーシアでは、民族ごとの文化、生活を守るため、お互いが棲み分け、折り合いをつけながら生活している。
 マレーシアには、もともとマレー半島やサバ、サラワク州に先住民族が住んでおり、その後現在のマレー人となる人々がスマトラ島から移住してきた。マレーシア半島の西に位置するマラッカ海峡は貿易ルートとして栄え、15世紀の首都マラッカでは、マレー人、インド人、アラブ人、中国人等の様々な民族が共存し、異民族間の結婚や文化的交流がなされ、異文化の同化、吸収がみられた。例えば、15世紀に出現したババコミュニティは、中国大陸から移住した中国人と、地元のマレー人の結婚によってつくられた。ババコミュニティの男性はババ、女性はニョナと呼ばれ、彼らは中国とマレーの両文化を兼ね備えていた。例えば、ババは仏教徒やキリスト教徒であるが主にマレー語で会話し、ニョナの衣装や料理はマレー文化の影響を受けていた。しかしその後、ヨーロッパによる植民地化によって、先述のような異民族の同化は消滅していくことになる。特に19世紀から(第二次世界大戦中の日本軍の侵略期間を除いた)1957年のマレーシア独立まで、マレーシアを統治したイギリスによる民族別の分割、統治を行う植民地政策は、マレーシア社会に大きな影響を与えた。
 熱帯性気候のマレーシアには、錫、ゴム、ヤシ油などの豊富な天然資源があり、当時マレーシアを統治していたイギリスは、それらの開発のための労働力が必要となった。しかし、マレー人は開発のための労働者となるよりも、農民や漁師としての牧歌的な生活を好む傾向にあった。そこで労働力不足を解決するために、イギリスは中国やインドからの移住者を多く受け入れ、中国人は錫鉱山へ動員され、インド人は主にゴム農園の労働者として働かされた。
 そして各々の民族居住地域に、民族独自の寺院や学校が設立され独自の文化を守り続けた。このようにして、マレー人は農業等の一次産業分野を担い、中国人は錫鉱山での労働などの近代的産業分野を担い、インド人はプランテーション農業の分野を担った。その中で、中国人は経済的な力と教育的水準において高い位置を示すようになり、商業やサービス産業の分野や錫鉱山関連の産業分野において、積極的に新しいことに取り組んでいった。
 これらマレー人と中国人の特質について、前マレーシア首相マハティール(1983)は次のように述べている(林田祐章 2001, p.66)。

「草木の繁茂した熱帯平野は、豊かな食料資源を持ち、初期マラヤの比較
的少数の住民を養うにはこと欠かなかった。食物を得るために、多くの努
力や工夫が要求されることもなく、年がら年中、だれでも食料は豊富にあ
った。中国のような国々ではありふれた状況である飢えや餓死は、マラヤ
においては珍しいことであった。このような条件のもとでは、誰でも生き
ていくことができた。病弱な者や勤勉でない者さえも比較的気ままに暮し、
結婚し、そして子供をもうけることができた。」
「マレー人の環境の変化で最も重要なもののひとつは、中国人移民の大量
流入であった。(中略)幸運を外国に求めて中国を離れた人々は、不屈の
精神と才覚に富んでいた。どこの移民もそうであるように、彼らは自分達
の運命に満足せず、より素晴らしい人生を望み、明らかに、それを得るた
めに働こうと決心して移住した人々であった。」

 その後、海外から移住してきた中国人は産業や商業分野で勢力を増し、それと同時にマレーシアは発展していった。マレーシアの豊富な資源を利用しての発展であるが、その豊かな土地の地元民であるはずのマレー人は依然として貧しく、発展の恩恵を受けたのは中国人の割合が大きかった。そして民族間の経済格差が生じ、その結果、民族間の緊張・対立が生まれ、1969年には民族暴動が起きた。1969年の総選挙の期間に民族間の衝突がいたるところで起き、終には戒厳令がしかれる程の惨事となり、196名の犠牲者をだした。
 これらの民族暴動がきっかけとなり、貧困の撲滅と、民族間の社会・経済的不均衡を解消し、民族構成をバランス良く反映した経済社会の実現を目標とする新経済政策が策定され、ブミプトラ政策が具体的な政策となって実施された。ブミプトラとはマレー語で「土地の子」を意味し、マレー系、半島・サバ・サラワク州の少数先住民族のことである。この政策は、ブミプトラ、特にマレー人を社会の主流に取り組むことを目指すものであるが、マレー人の割合が圧倒的に多いため、ブミプトラ政策はマレー人優遇政策と同義である場合が多い。   
 優遇内容の例として、大学進学におけるマレー人の割合の一定確保やマレー語を教育言語として定着させる等の教育課程におけるマレー人やマレー語の優遇、そして雇用、特に公務員採用の際のマレー人優遇等があげられる。実際に、筆者の配属先である政府機関、マレーシア社会福祉局本部の職員の9割はマレー系である。

第2節 マレーシア障害者関連政策・サービスの歴史的展開 

第1項 マレーシアの障害者サービスの歴史的展開

 マレーシアにおける障害者サービスは1910年代には確認されている。当時の主な担い手は、イギリス等海外からの宣教師や宗教団体、民間団体そして篤志家たちであった。障害者に対する施設設立に関して記録に残っているものは、1911年の「イエスの子ども」の修道女らによって始められた障害者のための家と、1926年のイギリス国教会の医療巡礼団による、視覚障害児に対する教育と保護を目的とした聖ニコラスホーム設立があげられる。
 障害者サービスを含む公的な社会福祉サービスは、1946年のイギリスの指示によって設立された社会福祉局により始められたが、当初は、第二次世界大戦後に生じた社会問題を取り扱うことが主目的であった[3]。そして、国立重度心身障害児者入所施設が設立されたのがこの時期である。当時の障害者支援の主な内容は、食事と寝場所の提供であり、リハビリテーション等の訓練を提供するには至らなかった。
 1957年にイギリスから独立して以降の1960年代は、国家発展の一部として障害者の発展プログラムを掲げ、障害者への金銭的支援、リハビリテーション、各種訓練などが提供されサービスの幅が広がっていった。そして、障害者支援に関する政府機関の連携は、1963年の「障害者リハビリテーションのための省庁間作業委員会」によって開始された。また、マレーシア国内の民間機関による障害者へのデイサービスが活発になってきたのもこの時期である。しかし、この時期のリハビリテーションに対する考え方は、障害者を「訓練できる者」と「訓練できない者」に分け、できる者にはリハビリテーションを施し、できない者は入所施設での保護生活というものであった。
 1970年代前後には、高等教育を受けた障害者が増え、彼らによって障害者自身で構成される自助団体・グループが結成されていった。例えば、盲者による組織(SBM、The Society of the Blind, Malaysia)が1964年、肢体不自由者による組織(POCAM、The Society of the Orthopaedically Handicapped, Malaysia)が1976年に設立。 中華系障害者による組織(The Society of the Chinese Disabled Persons, Malaysia)が1977年設立し、聾唖者による組織(SHM、The Society of the Hearing Impaired, Malaysia)が 1987年に設立されている。当時の彼らの主な活動は、障害者のアクセスの発展等具体的支援の保障を訴えるものであり、機会均等を求める等の権利主張までには至っていない。これは、マレーシアは政治権力が強く、法律により市民権、国の言語、マレーシアにおける主権などについて、公的な論争の場や議会において論じることや、デモ行為を行うことが禁止されていたことが影響している。そのため、障害者団体は攻撃的に権利を訴えることをせず、非攻撃的な形で活動していた。
 1980年代に入ると、障害者サービスは各省庁の協力によって行わなければならないという「マルチセクター連携」という概念をもつようになり、1981年に、福祉省、国家統一社会開発省、保健省、教育省の各省庁の役割を明確化するために「省庁間責任境界検討会議」が開催された。そこでは、福祉省は「身体障害者、中・重度の知的障害者、脳性まひ者の教育」を担当し、国家統一社会開発省は「学齢期(19歳)以上の障害者を対象とした障害者登録、経済的支援、補助具購入支援、CBR実施」を担当。保健省は「障害の早期発見、診断、検診」を担当し、教育省は「聴覚障害、視覚障害、"教育可能な"知的障害者の教育」を担当することを明記した。
 1990年、政府は国家社会福祉政策を策定し、障害者リハビリプログラムを含む社会福祉サービスの発展を明記した。国家社会福祉政策の戦略として、社会保障は政府だけではなく、政府と国民双方に責任があるとし、民間活力を用いる方針を打ち出し、社会福祉行政は民間活力を生かす「支え合う社会(Caring Society)」の実現を目指した。
 1992年から2002年の期間に実施された、「アジア太平洋障害者の十年」による「アジア太平洋障害者の十年太平洋地域における障害者の完全参加と平等に関する宣言」及び「アジア太平洋障害者の十年12の行動課題」はマレーシアでも採択された。1999年には、マレーシアにてアジア太平洋障害者の十年キャンペーン会議が開催され、日本を中心とするアジア各国から関係者が集まった。そして、2002年までの期間であった「アジア太平洋障害者の十年」は引き続き十年間継続され、2002年に策定された「行動のためのびわこミレニアム・フレームワーク」は、マレーシアでも採択されている。

第2項 マレーシアの障害者関連政策

 障害者関連政策を実施している主な政府機関として、保健省(Ministry of Health)、教育省(Ministry of Education)、人的資源省(Ministry of Human Resources)、そして女性・家族・地域開発省(Ministry of Woman, Family and Community Development)の4つの省庁があげられる[4]。

(1) 保健省

 障害者は、社会福祉局発行の障害者登録カードを所持していれば、無料もしくは安価な料金で医療サービスを受けられる便宜がある。
 保健省が障害者を対象として特別にプログラムを実施しているのは、主に7歳以下の障害児を対象とした地域診療所での医療リハビリサービスの提供であり、これは1986年から保健省家族保健開発局により実施されている「特別なニーズが必要な子どものためのプログラム(Program of care for children with special needs)」の下で行われている。同プログラムは看護師を中心として行われるものであるが、1週間に数回の頻度で、身体障害をもった乳幼児とその親(多くが母親)が集まり、グループ活動を行ったり、個別サービスを受けたりするものである。そして、医師、理学療法士、作業療法士ら医療専門家が、交替で月に1、2度の頻度で同プログラムに参加し、サービスを提供する。
 保健省は1998年に障害児サービスプログラム行動計画を策定し、2000年以降、毎年13の地域診療所(各州に1ヶ所)にて「特別なニーズが必要な子どものためのプログラム」を新しく始め、さらに、毎年13名の理学療法士と作業療法士(各州に各1名)、そして毎年2名の言語療法士増員を計画した。   
 このように具体的に目標数字をあげたことにより、保健省の障害児・者支援は緩やかながら確実に発展しており、保健省が地域診療所を基盤とする障害者支援を継続して発展させていくことが予想される。「特別なニーズが必要な子どものためのプログラム」を実施する診療所数は、1997年に54ヶ所で1,363人がサービスを受け、2001年には84ヶ所で2,132人がサービスを受けたと報告されている。しかし一方で、「重症患者や貧困患者の対応に追われ障害者へ手が回らない」と言う現場の看護師からの報告もある[5]。実際に、医療・リハビリ専門家の数が絶対的に少ないため、障害者への支援は立ち後れている状況である(表1)。

表1 マレーシアのリハビリ専門家数:各療法士協会会員数[6]
1998年 2003年
理学療法士 283人 約500人
作業療法士 180人 -
言語療法士・聴能訓練士 17人 61人

(2)  教育省

 教育省の中に特殊学習部が設置されたのは1964年である。1962年に視覚障害児、1963年に聴覚障害児への教育を始め、当初は知的障害児と肢体不自由児への教育は行われなかった。その後、先述の「省庁間責任境界検討会議(1981)」で初めて学習可能な知的障害児への教育が教育省の役割として明記されたが、本格的に知的障害児への政策が策定、実施されたのは1987年である。1987年に学習障害児教育実行委員会を設立し、全州に統合教育(公立学校での障害児の受け入れ)実施を指示し、そして全国初の学習障害児特殊学級が公立小学校に設立された。
1995年、特殊学習部が特殊教育局に格上げされ、同年、全国初の公立中学校への学習障害児特殊学級設置が行われた。特殊教育プログラム数は、1996年には学級数147、生徒数2,864人だったが、2003年には学級数660、生徒数11,880人と着実に増加している。
 2003年に小学校義務教育が制定されたが、現在のところ、学習可能でない児童(身辺自立が困難な児童)は義務教育の対象外とされており、教育省の障害児への対応はまだまだ十分とは言えない。しかし、重度の肢体不自由児を対象としたクラスをパイロットプロジェクトとして実施している州や、意志疎通が困難な自閉症児を受け入れている学校が少数であるが存在する[7]。

(3) 人的資源省

 人的資源省労働局は、障害者雇用に関し役割を担っている。1988年に政府が出した「公共機関の障害者雇用率1%目標」という政策を受けて、1990年に「民間セクターにおける障害者雇用促進委員会」を設立し、障害者の雇用登録と、就労支援プログラムをはじめた。政府は公共機関の障害者雇用率1%を目標としているが、1998年に新たに雇用された障害者で同省が確認している人数は536人であり、その数は1%に満たない。社会福祉局においては、2004年の段階で2,965人の職員中21人(0.7%)が障害を有する者である。
 2001年、「民間セクターにおける障害者雇用促進実施規定」施行、2004年に障害者雇用促進のための局が設置された。人的資源省の障害者政策は始まったばかりである。

(4) 女性・家族・地域開発省 

 障害者政策の中心をなす省庁が、女性・家族・地域開発省社会福祉局であり、国家予算から社会福祉局に割り当てられる年間予算の割合は20%前後である。社会福祉局は、「優れた効果的な社会開発サービスの提供や政策を通して、平穏で統合された社会を形成する」という目的の下、障害者、児童、高齢者、青少年、家族、貧困者、女性と少女、地域の8つの集団を対象グループとしている。社会福祉局本部は、各州にある州社会福祉局を統括し、州社会福祉局は各地区にある地区社会福祉事務所を統括している。障害者関連の業務内容は、障害者登録、経済的援助、福祉機器・補助具購入支援、各種福祉施設設立・運営、各種リハビリテーションの提供、NGO登録及び支援、福祉従事者養成 そしてCBRプログラム実施等があげられる。
 同局への障害者登録数は、2003年度末において、視覚障害者14,153人、聴覚障害者22,749人、肢体不自由者45,140人、知的障害者49,336人、その他1,080人の合計132,458人である。国連統計局の推定によると全人口の10%は何らかの障害をもち、その内、4?5%は重度・中度障害者だと言われているが、2003年において、障害者登録をしている者は全人口の0.53%のみである。さらに、社会福祉局管轄のCBRプログラムに登録している者は、6,229人(2003年)であり、人口の僅か0.02%だけである(表2)。
 障害者登録は任意のため登録者数は決して多いとは言えない。そのため社会福祉局は登録を奨励し、障害登録し障害者カードを持つことで複数の優遇措置が用意されている。障害者という理由だけで支給される障害者年金のようなものは無いが、一定条件を満たす就労している障害者に対しては補助金が支給されている。これは、障害者の就労を促進する目的で行われているが、受益者は都心部等の一部の人々に限られているのが現状である。

表2 マレーシア障害者数
2003年
全人口 25,048,300人 (100%)
国連統計局による障害者推定数(10%) 2,504,830人 (10%)
国連統計局による重・中度障害者推定数(4〜5%) 1,1271,735人 (4.5%)
社会福祉局への障害者登録数 132,458人 (0.53%)
社会福祉局監督下CBRプログラム登録数 6,229人 (0.02%)
資料出所:マレーシア社会福祉局

第3節 マレーシアCBRの概要 

第1項 マレーシアCBRの歴史的展開

 1983年、WHOからのパドマニ・メンディス等医療専門家によって、マレーシアにCBRが導入された。当初、パイロットプロジェクトとして、マレーシア半島北東に位置するトレンガヌ州の農村部バトゥラキット地域在住の55人の障害児・者へのサービスを始めた。そこでは社会福祉局を中心とする、保健省や各機関、地域の協力によって活動が行われた。WHOが作成したマニュアルを利用しながらワーカーを育成し、家庭訪問を通しての両親や家族へのリハビリテーション方法の指導を行った。そして、このプロジェクトは高い評価を受け、1986年と1987年にマラッカ州とネゲリスンビラン州でも始まり、その後続けて、ペラ州、ジョホール州、サバ州、サラワク州でもCBRが始まった。そして、1989年までに計14ヶ所のCBRセンターが設立された。
 CBRセンターが全国展開されるのは、1989年にイギリス大使館の支援にて開催された「マレーシアCBRアクションプランワークショップ」の影響が大きい。イギリスから専門家を招き、社会福祉局、NGO、教育、保健関係機関が集まったそのワークショップにて、当時の国家統一社会開発省大臣より、「CBRプログラム発展のために、各地区に少なくとも1ヶ所CBRセンターを設立するよう」指示が出された。1990年代に入りCBRが全国の地方に展開し始め、1992年には52ヶ所のCBRセンターが確認されている。1992年に、それまで複数のボランティアが交通費をもらう程度だったものを、一定の人物をワーカーと任命し、社会福祉局より毎月RM300支給するようになり、1998年にはRM500に上がった。
 全国的にCBRが展開されるにつれ、CBRセンターに障害児を集めて活動を行う形式が定着した[8)]。当時は、建物内で特に活動もなく時間を潰す「託児所的状態」であり、知的障害児を中心とする障害児者を「保護」することが日々の活動となっていた。  
 1990年代後半になると「託児所的状態」を改善すべく、社会福祉局は1995年にCBR運営指針を作成し、運営指針に活動内容を明記したり、講習会で具体的な活動内容を紹介したが、その内容は教育リハビリテーションと医療リハビリテーションに偏っていた。CBR活動実施者であるワーカーたちは、運営指針や講習会で得た情報を基に、CBRセンターに集まった障害児・者を保護するだけではなく、読み書き計算を教えたり、理学療法的な運動訓練を施すようになり、センター内で何らかの活動が行われるようになった。そしてCBRセンターは、障害児者を保護する「託児所的場所」から、学校に行けない子や、所属の場がない障害者のための「活動の場所」となる。
 1995年、教育省教育局下にあった特殊学習部が特殊教育局に格上げされて以降、教育省側の障害児教育政策が拡大していき、公立学校に受け入れられる障害児が増加していった。そのような教育省の変化に対応するように、CBRは「学校に入るための、身辺自立(食事やトイレの自立)の訓練の場所」としての性格が強くなってきた。
 また、CBR開始当初は幼かったCBR利用者たちも時が経ち、青年・成人期を迎えている。そして、先述のように学齢期の子が公立学校へ移動することで、学齢期以降の利用者の比重が増えてくる。そこで、今まで多くのCBRで見られた色塗りや読み書き計算等の机上学習だけでは対応できない部分がでてきた。
 社会福祉局においても、CBRの最近の状況を踏まえ、職業訓練的活動や就労支援活動を奨励している。例えば、2003年に開催された全国CBR大会での社会福祉局本部局長演説において、「社会福祉局は、障害者が自立し、社会統合する目標を達成するために、職業訓練や就労プログラム向上に関し深い関心を抱いている。今後、就労の機会を得るための職業訓練に重点が置かれるだろう。そのために、CBRを利用する障害者に対し職業訓練や就労プログラムを提供する役割を担う福祉作業所(シェルターワークショップ)の実現と発展のための計画が立てられるだろう。」と説明している。
 2005年現在、社会福祉局監督下のCBRプログラム数は313 、CBRプログラムに登録している障害児者は8,453人、社会福祉局から手当をもらうワーカー数は1,283人である。1984年から2004年までのCBRの数的変化を表したものを表3に提示する。

表3 CBRセンター数、ワーカー数、利用者数(1984?2004年)
1984 1988 1990 1992 1993 1994 1995 1996 1997 1998 1999 2000 2001 2002 2003 2004
1 1 14 - 52 75 93 108 158 179 196 203 229 243 259 274 293
2 - - 48 - - - - 306 300 418 453 496 520 518 615 1201
3 55 218 559 - - - 2734 2910 3130 4032 4781 5031 5572 5800 6229 7752

1:センター数、2:ワーカー数(9)、3:利用者数 
資料出所:マレーシア社会福祉局     


第2項 マレーシア社会福祉局によるCBRの定義・目的

 マレーシアにおいて、社会福祉局の監督下にあるCBRはPDKと呼ばれ、NGOが実施するものや、保健省が実施する地域診療所での障害児と両親を集めて行う医療サービスの提供とは区別している。PDKとは、Pemulihan Dalam Komunitiの略語であり、CBRのマレーシア語である。
 社会福祉局の監督下にあるCBRと、他機関が行うCBRの活動内容には、それ程違いはない。社会福祉局が予算を出し監督しているものと、そうでないものを区別するために、社会福祉局自らが敢えて区別している。そして福祉局監督下のCBRであるならば、社会福祉局発行のCBR運営指針に記載された運営時間や運営方法に従う必要があるが、監督下でないならば各機関の裁量で自由に実施できる。
 社会福祉局監督下になると、ワーカーの手当てなど安定した予算が確保できるため、当初はNGOや保健省が始めたものが、途中で社会福祉局監督下になったものもある。筆者が訪問した複数の社会福祉局監督下のCBRの中で、NGO関係者や医療関係者との関係が比較的密な所や、保健省管轄の地域診療所敷地内にCBRセンターを構えるものがあった。話を聞いてみると、そのようなCBRは途中で社会福祉局監督下になったというものが少なくなかった。
 2003年に社会福祉局が主催し、全国CBR大会が開催されたが、同大会は保健省、教育省、人的資源省、NGO、その他障害関連関係者を招待し、CBRに関して説明、議論し合う重要な大会であった。その大会にて行われた社会福祉局本部局長演説(2003、筆者訳)によると、CBRプログラムは「障害者の機会均等、社会統合を可能とするために、家族や地域社会の積極的な関わりによって予防・リハビリ・開発が実施されるという、障害者のための地域開発の一つの方法として定義できる。」、そして「本プログラムは、全ての障害、全ての年齢層のために用意されている。計画、サービスの提供、必要な便宜の提供は、様々な分野の連携協力を通して実現される。」と定義されている。
 続いて同大会でCBRの目的として、以下の事柄を上げている。
1. 家庭や地域での障害者へのリハビリサービスや早期介入・療育が行われる。
2. 家庭や地域の中で、障害者の完全参加と社会統合を確かなものにする。
3. リハビリのために障害者が家庭や地域から離れ、施設へ長期入所することを減少させる。
4. 障害者の潜在能力に応じた力を発揮・発達させる機会を提供する。
5. 障害者のニーズに敏感な慈愛ある社会の形成を支援する。
 以上のように言葉としての概念は知られているが、CBRを十分に理解するための時間や機会が提供されないため、概念が実践に結びつかず、具体的活動内容として「障害者を訓練すること」が主要なものとなっている。実際に同演説において「CBRプログラムは、リハビリや、運動・言語・特殊教育・ADL(日常生活動作)スキルにおける基礎訓練が必要な障害者のためにつくられた。」、「CBRプログラムは、障害者のリハビリを共に行うために、両親・家族・地域住民の積極的な関わりを概念としている。」と述べられている。
 さらに社会福祉局は、CBRプログラムは3つのモデルを基本とすると称し、「ホームベース」、「センターベース」、「混合タイプ(センター・ホームベース)」というモデルを独自に作り上げ、マレーシアの多くのCBRは、混合タイプ(センター・ホームベース)と明記している。それは、1週間のうち4日間はセンターでのリハビリを行い、1日は障害者の家庭訪問を実施する形をとっているからだと述べている。この1週間の活動形態は、次に述べる社会福祉局作成CBR運営指針に明記されている。

第3項 社会福祉局作成CBR運営指針

 CBR運営指針は、社会福祉局本部のCBR担当部署によって作成される。内容は、ワーカーの配置人数や、運営時間、ワーカー・運営委員・社会福祉局の役割、財政管理、記録すべき書類、CBRセンター設立方法、そして利用者の制服指定等が記されており、活動内容に関する指針というよりも、施設運営規則のようなものである。
 2000年にCBR運営指針改訂会議が行われ、その会議の内容を基に2003年にCBR運営指針改訂版が出された。地方の地区社会福祉事務所職員やワーカーは、その指針を基にCBRを運営しており、本指針はCBRの方向付けをする重要なものである。筆者は、2000年のCBR運営指針改訂会議に参加する機会を得たが、会議の参加者は、各州から集まったCBR担当公務員のみであり、障害者自身やその家族、ワーカー、障害者専門家等は全く関わっていなかった。

第4章 マレーシアCBRの諸問題

第1節 マレーシアCBRに対する諸見解 

第1項 マレーシア社会福祉局関係者によるCBRの評価

 マレーシア社会福祉局は、CBRの効果を肯定的に評価し更なる発展を目指している。2003年に開催された全国CBR大会の社会福祉局長演説において、CBRがもたらした効果として、「家族や地域社会と離れることなく、障害の種類やニーズに応じた適切な訓練やリハビリを受けることを可能とし、障害者に自立を促した。そして、家族を巻き込んだ早期発見・早期療育プログラムによって、障害が軽減されたり、二次障害を予防した。さらに重要な効果として、CBRにて実施される訓練や助言により障害児が発達し、そのことで我が子の潜在能力に対する両親の意識向上が促進された。」と評価し、障害者個人や家族、特に両親に対する効果を強調している。一方、障害者を取り巻く環境や地域の変化・発展に関しては特に言及されなかった。
 プログラムの普及、持続という面からみれば、全国に普及され、毎年数を増やし、さらに既存のCBRプログラムが途中で消滅することが少なく、その点においては評価できる。しかしプログラムの内容、質的な面をみると、多くの問題を抱えており、社会福祉局側も問題があることを認識している。
 例えば、2004年に開催されたCBR担当公務員を対象とした「CBR運営講習会」において、社会福祉局監督下のCBRの問題点を列挙する時間があった。その中で多く上げられた問題点は、以下の通りである。
   1. 関係者(ワーカー、CBR運営委員、障害者の家族、担当公務員)の協力、意識、責任感が乏しい。
   2. CBRワーカーの知識や経験が不足している。
   3. CBR運営委員の運営能力が不足している。
   4. 地域住民が財政面での協力が乏しい。
   5. CBR担当公務員がCBR以外の業務が多い。
   6. ワーカーが、運営委員ではなく社会福祉局に頼り過ぎる。
 また、2005年に開催された州CBR担当者と協力隊員の合同会議において、現場で活動する隊員が上げた問題は以下の通りである。
   1. ワーカーの待遇の問題。(役職が低く、昇給が無いため多数の辞職者がでる。)
   2. ワーカーの知識・経験不足。(研修の機会が少ない。)
   3. CBR関係者の理解、責任感にレベルの差がある。
   4. 障害者の参加に制限がある。(身体障害者や成人の障害者の参加が少ない。)
   5. 家庭訪問が少ない。(センター内での活動に偏っている。)
   6. 障害者の主体的な活動が見られない。
 以上が、社会福祉局関係者が問題として認識している事項である。
 第2項では、CBR専門家によるマレーシアCBRの問題点や、マレーシア以外の国で実施されているCBRを含めたCBR全体に対する評価について記述する。
 
第2項 CBR専門家によるCBRの評価

 CBR専門家は、マレーシアCBRの問題として以下の事柄をあげ、本来のCBR概念から大きく離れていると指摘している。
   1. 対象者が知的障害をもつ子どもに偏っている、
   2. 活動内容が医療や教育等の狭義の意味でのリハビリテーションであり、地域開発の概念に沿った活動がなされていない、
   3. 障害者自身の主体的参加がない
 
 例えば、協力隊(理学療法士)やJICA専門家としてマレーシアやインドネシアのCBRに関わり、日本におけるCBRの第一人者である久野研二は、マレーシアのペナン州で調査をした結果、社会福祉局監督下のCBRの3つの特徴・課題として「対象の限定」「活動の制限」「地域社会の実施側への参加不足」を提示している。久野は、対象と活動の制限について「州の登録者の7割を占める身体障害者(視覚や聴覚障害者、肢体不自由)がCBRの登録では3割以下になり、逆に知的障害者が7割を越している。」、「年齢では、14歳以下のCBRプログラム登録数が66%、20歳以下が90%を占め、逆に35歳以上の登録者は1人もいない。」と指摘している。また、活動内容においては「障害児のみを対象にした読み書きや生活指導などの狭義の療育活動のみとなりつつある。」と分析している。そして地域社会の実施側への参加の不足については、「障害者」「家族」「地域社会」についてそれぞれの参加の不足を指摘し、特に当事者としての障害者の参加の不足に注目している。これらの3つの特徴・課題が生まれた理由の一つとして、「マレーシアのCBR実施方法自体が障害者を排除してしまっている側面もある。」と分析し、社会福祉局発行CBR運営指針の不適さ・不備を指摘している(久野1999a, pp.16,17,18,19)。
 一方、協力隊(作業療法士)としてマレーシアのCBRに関わり、その経験を修士論文としてまとめた石本馨は、その論文の中で「これらの課題はWHOのCBR理念を具現化できないマレイシア政府の問題というよりも、理念を各々の現場や政府の状況に合わせて解釈することが困難な方法論しか提供できないWHO側に、問題の根本が存在すると思われる。」と述べている(石本2002, p.89)。
 また、アジア・ディスアビリティ・インスティテート(ADI)の代表として、障害者の自立を進める活動や、障害者問題、CBRの啓発に努めている中西由起子は、マレーシアのようにCBRという名称を使いながらも、実際は、地域に小規模センターを設立しそこでリハビリを行うことでCBRと称していたり、専門家やワーカーが各家庭を巡回訪問して訓練サービスを提供するアウトリーチ活動をもってCBR と称しているものが世界に少なくない、と指摘している。また中西は、CBRにおいて障害者の参加が進まない理由として、「専門家や行政担当者は障害者をサービスの受益者としかみられない」、「サービス供給がトップダウンの体制になっている」、「障害者団体育成のための努力が欠如している」、「CBRがリハビリテーションを通しての社会参加のみを目的とする」ということを上げている(中西1997a, pp.109,110,111,112)。
 また、WHOのCBRマニュアル「地域での障害者の訓練」の著者の1人でありCBRコンサルタントであるパドマニ・メンディス(1999, p.57)は、「重要なCBRへの批判は、CBRの過程において、障害者の『消費者』としての参加が不十分なことである。(中略)障害(者)運動は、CBRを彼らのエンパワーメントに貢献するものとして、挑戦して受け入れることをしなかった。障害者が人権の達成に向けた戦略発展に参加する機会は、施策決定者として参加することを通して、これらの戦略を方向付ける重要な機会と挑戦になっている。もし、障害者の参加が不十分なままであるならば、消費者のエンパワーメントというCBRの主要な目的は達成できないだろう」と述べている。
 そして、インドにおいて障害者リハビリテーション政策アドバイザー・研修マネージャーであり、CBRコンサルタントを務めるマヤ・トーマスは、CBRの問題点として、CBRは施設でのサービス提供と異なり費用がかからず安価であると言われるが、実際は、家族が掛ける努力や時間、お金の負担は見た目以上に高くついていることや、全ての人を対象にしているはずのCBRが、実際には一部の障害者にしか適用されず、特に重度及び重複障害者のことを考慮されていないと指摘している。またCBRでは住民参加が重視されているが、適切でやる気があるボランティアを見つけることの難しさや入れ替わりの激しさ、ボランティアのための研修資金の必要性、ボランティアへの報酬を支払う必要性等の問題を上げ、CBRボランティアは無報酬で活動をする余裕があるのか疑問を提示している。
 
第2節 マレーシアCBRの実態    

第1項 CBRの推進方法における問題

(1) トップダウン型の導入過程

 1980、1990年代のマレーシアにおけるCBRに詳しい人物として Ranjit Kaurが上げられる。彼女は、1980年代 マレーシアのNGOにて理学療法士としてCBR活動を行い、その後イギリスにて地域開発を基盤にしたCBRを学び地域開発学の修士を取り、帰国後CBR関係の第一人者としてCBRの普及や研修講師兼アドバイザーを務める人物である。彼女への聞き取りを通して、社会福祉局管轄下のCBRがセンター化していく過程を知ることができた。以下、彼女への聞き取りと、社会福祉局から出された資料、文献を基に記述する。
 
 CBRがパイロットプロジェクトとしてWHOにより導入された当初は、社会福祉局や保健省、地元機関らが共同で実施し、活動内容も家庭訪問が主であった。しかし、1989年にイギリス大使館の協力で行われた「マレーシアCBRアクションプランワークショップ」にて、当時の国家統一社会開発省大臣が「各地区に少なくとも1つのCBRプログラムを実施するように」という指示を出し、社会福祉局監督下のCBRセンターが全国に設立されていった。その際、CBR概念を十分に理解していない州や地区の福祉事務所担当者は、福祉局障害者登録リストの中から子どもを選び、障害児が多い地域をCBR対象地域として選定した。そして、結果が目に見えやすい「センターをまず設立して、そのセンター内でサービスを提供する」形のCBRが全国に拡がっていった。本来、CBRを始める前に社会調査を行い、地域住民と話し合い、地域住民の主体性、自主性をもって行われるべきCBRが、マレーシアの場合、政府の政策としてトップダウンで拡がっていった。また1992年に、WHO関係者によりCBRを含むマレーシアの障害者サービスの状況調査が行われ、その結果「マレーシアのCBRは託児所のようになっており本来のCBR概念に沿っていない。センターを減少させ、障害者自身が役割を担い、地域開発の方向に修正する必要がある。」と提言した。しかし、社会福祉局は結果的には変更修正することなく、マレーシア独自の方法でCBRを展開していった。

(2) CBRの小施設化

 マレーシアのCBRは、ワーカーによる建物内での教育や医療リハビリの実施を主な活動としている。現在の多くのCBR関係者は、CBRとは地域内に小規模の建物を用意し、そこで訓練やリハビリテーションを実施するものだと思っている。
 中西(1996a, p.32)は、「CBRが統合的地域開発の構成部分の1つであるなら、既存の集会所などが活用できるので『どんな建物も必要ない』はずである。しかし筆者自身の経験でも、プロジェクトが発展してくるとワーカーは器材や資料の収納場所を欲し、顔見知りとなった他のワーカーと経験を分かち合ったり、相談に乗ってもらえるような、いつも気軽に集える場所を欲しがる。場所を持てばその維持管理に資源が消費されるし、そこが技術的な中核となり小施設化される可能性がある。」と分析している。また、別の著書で中西(1997a, p.28)は、「CBRを始めるにあたって、まずワーカーが集まったりコーディネーターが事務をとるオフィス兼集会場の建物を欲しがったり、CBRがある程度発展してくると、母親を指導したり器材を収納する場所として小規模センターを持ちたがったりする地域の人を見る。CBRの精神は小規模施設化することでたやすく崩れる」と述べている。
 恐らくマレーシアのCBRも、場所を必要とする周囲の要望を受け入れながら、必要なこととみなしてセンターが用意されていったと思われる。さらに、マレーシア政府がある程度の予算を用意できる能力をもっていたため、地域集会所等の既存の施設を共同で兼用するまでもなく、比較的容易にCBR活動専用の建物を用意することができたことも、小規模施設化への傾向を強めた遠因となったのではないだろうか。

(3)  社会福祉局がCBR予算を担うことの利点と弊害

 社会福祉局はCBRを政策として実施し、CBRのための予算を毎年用意している。例えば、ワーカーの毎月の手当て(1ヶ月RM500)、CBRセンターの家賃(最高1ヶ月RM500)を負担している。またCBRセンター新設の際、活動開始のために必要な設備や備品を整えるための費用(RM3,600)や、何らかの事業や建物改築等のための予算が必要だとCBR運営委員が個別に提案・企画書を提出し、州社会福祉局が許可をすれば特別に予算を捻出する場合もある。さらに、資金集めが困難でCBR活動が思うようにできないという声が関係者から出されたことをきっかけに、社会福祉局本部は2003年以降毎年、CBR活動のために使用する特別予算(1つのCBRプログラムに対して年間RM5,000〜7,000)を用意している。この特別予算を使って、講習会やスポーツ大会、施設見学などの行事を実施することが可能である。
 社会福祉局本部は、CBRセンター数が増えプログラムが拡大していることを受け、年々CBRプログラムに対する予算を増加させている。例えば、1992年に52ヶ所のCBRに対してRM1,129,600.00の予算を用意したが、2005年には313ヶ所のCBRに対してRM11,168,732.00の予算を用意している(表4)[10]。

表4 社会福祉局本部によるCBR予算額(1992〜2005年)
予算額(RM) CBRプログラム数
1992 1,129,600.00 52
1993 1,129,600.00 75
1994 2,123,000.00 93
1995 2,661,000.00 108
1996 2,867,000.00 158
1997 4,038,640.00 179
1998 3,280,660.00 196
1999 3,300,160.00 203
2000 3,713,840.00 229
2001 3,954,352.00 243
2002 4,296,752.00 259
2003 4,579,392.00 274
2004 8,640,372.00 293
2005 11,168,732.00 313
資料出所:マレーシア社会福祉局

  国の一政策としてCBRが推進されることにより、安定した予算と全国規模での展開が可能となり、現在は313ヶ所のCBRセンターが全国に点在する。その一方で、「PDKは社会福祉局のもの」という意識が関係省庁にあり、CBRへの他省庁の責任感は皆無に等しい。例えば、福祉局監督下のCBRと、NGOが実施するCBRや保健省が実施する地域診療所をベースとするリハビリテーション活動は区別され、PDKという名称は福祉局監督下のCBRにしか使用できないという暗黙の了解がある。また、CBRが世間に知られるようになり、大規模組織や政治家、民間企業がCBRへの支援を申し出る機会が増加しているが、社会福祉局はこれらの介入を奨励しながらも、「PDKを育てたのは私たちだ」という自負がある。
 しかし一方で、予算の不十分さや利用者の交通移動の問題、ワーカーの待遇の問題等、解決困難な問題が上げられると、「CBRは地域で運営する者であり、全て社会福祉局が行ってしまってはCBRが社会福祉局に依存し過ぎてしまう。」と返答し、「地域住民のCBR」というスローガンが逃げ口上のように利用される場合もある。
 また、社会福祉局がワーカーの手当てを支給しているため、社会福祉局のCBR担当者とワーカーが「雇用主と被雇用者」または「上司と部下」のような関係になってしまっている。中には、経験が長く優れた人物として周囲から評価されているようなワーカーが、CBR担当者とパートナーとしての関係を築いているケースも存在するが多くはない。政府が予算を用意することで継続した活動が続けられるが、一方で予算、特にワーカーの手当てを政府が負担することによって、「与える者と与えられる者」という力関係が働いてしまい地域主体のCBRを形成できない、という矛盾が存在している。
 現場で働き、障害者に近しい存在であるはずのワーカーが、誰のことを考えながら仕事をするのか、自分の役割、使命を意識しない限り、利用者である障害者や地域住民ではなく、雇用主のような存在である社会福祉局の顔色を伺いながらの活動になってしまう。

(4) 社会福祉局発行CBR運営指針の問題

 社会福祉局本部は、地方の社会福祉局職員や、地域関係者から成り立つCBR運営委員が、予算を正しく使いCBR活動を円滑に運営するためのガイドラインとして、CBR運営指針を発行している。同指針が作成された背景には、どのようにしてCBRを運営していけばよいか分からない地方社会福祉局職員やCBR運営委員への対応措置として、また、監督局である社会福祉局がCBRに関する問題を事前に防ぐよう管理、監督するために用意されたものである。例えば、2003年にCBR運営指針が改訂された背景には、多くのCBRで金銭管理や寄付金の問題が生じたり、ワーカーの勤務態度が思わしくなかったり、逆にワーカーの福祉が十分に守られなかったり、CBR運営委員がCBRに全く関わらなかったりという問題が目立つようになったため、それらを解決するために運営指針で詳細に指定したという経緯がある。そして、CBR担当職員やワーカーはその運営指針に沿って業務を遂行し、運営指針から外れないように努めている。
 また、運営指針にはCBR設立過程が記されているが、そこには(地域)組織からCBR開設依頼の必要書類を受け、書類に不備がなければ社会福祉局が運営を許可するという流れのみ記されている。そのため、その組織がどのような過程で設立を申請するかは、社会福祉局の管轄外となり設立過程の評価が行われる機会はない。CBRは地域住民の主体性が必須であり、そのため設立過程への住民の主体的参加が必要である。しかし、実際にはごく一部の者によってCBRが始められ、後になって地域に協力を求めているのが現状である。
 久野(1999a, p.19)が「マレーシアのCBR実施方法自体が障害者を排除してしまっている側面もある。」と分析し、社会福祉局発行CBR運営指針の不適さ、不備を指摘しているように、社会福祉局公務員のみで作られた運営指針は、利用者に制服着用を義務付けたり、時間割や活動内容を定めることによって、教育リハビリのような画一的な活動への傾向を強める結果となった。
 以上のように、マレーシアのCBRは政府の強い管理の下での活動であり、地域住民の主体性を形成するには困難な状況ができあがっている。

第2項 専門家の在り方

(1) マレーシアの専門家とCBRの関係

 マレーシアは他の途上国同様、医療や教育等の専門家の数が不十分で、ワーカーが専門家の役割を担うことを期待され、本人たちもそれを望んでいる[11]。
 数が少なく貴重な存在である専門家は、自然と「他人から見上げられる立場」になる。そのような立場ばかりを経験し続けると、専門家たちはそれが普通のことと思い、その状況に疑問を抱かなくようになる。よって、「上の立場」にいる者がCBR概念を理解しないままCBR活動に介入すると、訓練中心の在り方を助長することになりかねない。
 現在、地元専門家の中でCBRに比較的関わっているのは、看護師や療法士ら医療関係者であり、一部のCBRセンターには、定期的に医療関係者が訪問するところがある[12]。一方、教育専門家の関わりは薄い[13]。
 食事や排便等が自力でできないため、公立学校への入学を拒否された子どもたちの行き場所としてCBRセンターが存在する。そのため、CBRセンターでの訓練を通して身辺自立が可能となると公立学校へ移る、という流れを社会福祉局も教育省も奨励している。ワーカーや関係者の中には、CBRを利用している子どもを何人公立学校に送ったか、という数字が個々のCBRプログラムに対する評価の基準としている者もいる。そのため「身辺自立が可能な子は学校へ。できない子はCBRセンターで訓練を」という区分けがなされている。学校教員は、(学問的)教育を提供することが役割であり、身辺自立等の支援は自分たちの業務ではないと、当然のように思っている[14]。
 障害児が、他の子どもたちと同じ場所で教育を受けることを実現するためには、学校環境をどのように改善すればよいか、第一に考えるのがCBR活動のはずである。しかし現状は、障害児の親を含むCBR関係者は、重い障害をもっている子どもは学校での教育は不可能であり、学校教育を受けられないことは仕方ないことだと諦め、「だからこそCBR関係者が現制度を変えるよう学校関係者に働きかけなければならない」という考えには至らない。そして障害が比較的軽い子に対しては、身辺自立ができるように訓練することで学校入学を目指している。そして日々の訓練に追われ、障害児を受け入れるよう学校環境を改善するために行動をとることは、なおざりになってしまっている。
 「全ての子どもに学校教育を」と考えた時に、現在のCBRのように一人一人を訓練して対応していく方法では、いつまで経っても目標は実現しない。一方、学校があらゆる障害をもつ子どもを受け入れられるような体制が整えば、実現可能な目標である。しかし、ワーカーや関係者は、後者の活動の方が困難で時間がかかり、先進国よりハードもソフトも立ち遅れている途上国では非現実的だと思っている。

(2) 障害者からの専門家の在り方に対する批判

 障害者自身が主体的になって活動するCBRとして有名な「プロヒモ(Projimo)」という組織がメキシコにある。プロヒモの創始者であり自らも身体障害をもつデビッワーナーは、プロヒモの仲間である障害者たちと共に「Nothing about us , without us(私たちなくして、私たちに関することは何もできない)」という本を出版しているが、この書名が、専門家中心の専門家の判断による障害者サービスに対しての批判を的確
に表している。中西(1997b, p.5)は、「デビット・ワーナーは、筋萎縮症による障害者である自分自身に対する誇りと、今までリハビリテーションと言う名の下に障害者を一定の社会規範に閉じ込めようとした専門家に対しての怒りをもっている。それは障害者中心のプログラムを主張する彼の多くの文献の随所に垣間みることができた。」と述べている。
 専門家が、障害者個々の人生に対しての「主役は誰か」心から理解し、さらに専門家であることがいかに周囲に影響を与えるか、その影響力を自覚し、脇役に徹する勇気と、主役を盛り立てる器用さを備えることが、CBR発展の鍵の一つになると考える。

第3項 CBRの対象となる障害者の限定

 障害者団体の一員として活躍したり、仕事をもち経済的に自立している身体障害者にCBR(PDK)について尋ねると、多くの者がその存在を知らず、知っていたとしても「子どものための訓練センター」という応えが返ってき、CBR(PDK)は自分たちとは別次元のものとして捉えている。そして社会福祉局関係者でさえも、CBR利用者を「子ども」と称したり、ワーカーを「先生」と呼ぶ者が多く、CBRの捉え方に偏りがある。
 障害毎のCBR登録者数は、サバ、サラワク州を除く半島マレーシアにおいて、知的障害が2,119人(約81%)、肢体不自由373人(約14%)、聴覚障害98人(約4%)、視覚障害17人(約0.7%)である。これは、2003年の障害者登録数における割合、知的障害者49,336人(約37%)、肢体不自由者45,140人(約34%)、聴覚障害者22,749人(約17%)、視覚障害者14,153人(約11%)、その他1,080人((約1%)からみても、圧倒的に知的障害が多いことがわかる(表5)。

表5 障害毎のCBR登録数と障害者登録数(2003年)
障害名 CBR登録数 障害者登録数
知的障害 2,119人 (約81 %) 49,336人 (約37%)
肢体不自由 373人 (約14 %) 45,140人 (約34%)
聴覚障害者 98人 (約4 %) 22,749人 (約17%)
視覚障害者 17人 (約0.7%) 14,153人 (約11%)
その他 1,080人 (約1%)

資料出所:マレーシア社会福祉局

 そして民族の割合をみると、マレー系約82%(2,148人)、中華系約14%(355人)、インド系約4%(103人)となっており、国民人口に占めるマレー系の割合60%よりも、その割合は多くなっている。
 またCBR利用年齢層については、久野が1999年にマレーシアのペナン州で調査した際に、「年齢では、14歳以下のCBRプログラム登録数が66%、20歳以下が90%を占め、逆に35歳以上の登録者は1人もいない。」と指摘したとおり、全州のCBRにおいて、利用者は就学前の幼児や学齢期の者が多くを占めている。
 CBRを利用するマレー系マレーシア人が多い理由は、CBRが政府監督下のプログラムだからである。国家政策のマレー人優遇政策により、マレー系マレーシア人は公務員採用で優遇され、政府機関従事者は高い割合でマレー系が占めている。そして社会福祉局監督下のCBRにおいても、CBR担当公務員、ワーカー、運営委員、利用者全てにおいてマレー系の割合が高い。そのため、言語、宗教、食生活等が異なる他民族の者は、利用しにくい状況となり、益々マレー系の比重が高くなる。
 また障害毎の利用率の違いについてだが、聴覚障害、視覚障害をもつ者のCBR利用が少ない理由は、教育省が視覚障害と聴覚障害への教育に責任をもち、彼らを対象とした公立養護学校を設立したり、彼らを対象とするNGOが存在する等、視覚障害、聴覚障害への対応は比較的早い段階から行われていたことがあげられる。また、仮に彼らがCBRに登録しCBRを利用しようとしても、ワーカーは手話や点字等、聴覚障害や視覚障害者への対応方法を習得しておらず、彼らへの対応ができず放置される場合が多く、CBRへ登録する意義を見出せない状況がある[15]。
 そして肢体不自由者のCBR利用者が少ない理由には、センター内での活動が中心となってしまった結果、移動が困難な肢体不自由者は利用できなくなったり、多数の利用者を小数のワーカーで対応するため、活動内容が一斉的なもの、集団的なものとなり、個別介助が必要な身体障害者は利用しにくくなったと考えられる。さらにワーカーが、これまで全く接することがなかった肢体不自由者に触れ、支援することに不安を感じているため、ワーカーが肢体不自由者の受け入れを拒否したり、逆に肢体不自由者の家族が、ワーカーに我が子を託すことをためらう場合もある[16]。
 一方で、知的障害者のCBR利用の比重が高まった理由には、公立学校の受け入れを拒否された知的障害児の家族が、学校の代替としてCBRを利用する傾向にあったからである。また、ワーカーの多くは専門知識を学ぶ機会がないまま働きはじめたため、活動内容は彼女ら自身の体験を基としたものになり、それは健常児の子育てや本人らが受けた普通学校教育に基づくものである。そのため、障害児の両親の(学校の代替として)教育を求める願いと活動実施者であるワーカーの考えが一致し、教室型の教育的活動へとCBR活動内容が偏っていったと考えられる。 
 建物内での教育を基盤とする集団活動は、活動を画一化、マンネリ化させると同時に、それらの活動についていけない重度の障害児や、逆に知的に問題がない肢体不自由児や成人の障害者は利用しなくなっていった。

第4項 「障害」の捉え方に関する文化的宗教的背景

 マレーシアで障害分野に関わっていて感じることは、障害者への支援の仕方が「慈善的、チャリティ?的」なものが多いということである。これはマレーシアに限らず、様々な国で起きていることかと思われるが、子連れの女性や、身体に障害をもつ者が道端でお金を求め、通りがかりの人々が抵抗無くコインを置いていく姿が日常の光景としてある。また、親がわざわざ小さい我が子にコインを渡し、その子どもがコインを置くという光景をマレーシアで幾度となく見た。一度、何故子どもにコインを置かせるのか尋ねたことがあるが、その行為を「良い行為(善行)」と捉え、子どもに教育しているとの答えが返ってきて驚いたことがある。持つ者が、持たざる者に与えることを良しとし、与えることによって、与えた者はより良い人生や来世を得ることができるという宗教観が、信仰心の篤いマレーシア人の生活に根付いている。
 また、農村部にて障害者の自立の話を家族や関係者に話す時、よく耳にする声として「何故無理をして、辛い思いをしてまで自立をするための訓練をする必要があるのか。あの子(障害者)たちは何もしなくていい。誰かが面倒をみてくれる。」というものがある。これに関しては、自立の捉え方についても考える必要があるが、「障害者は、'できない'存在でありかわいそうな者である。何もしなくてよい。与えられる者を受け取るだけでいい。」という考えが、人々の一般的な捉え方であり、このような見方は障害者に対する態度に影響を与える。
 最近放映されているテレビ番組の中で人気を呼んでいるものの一つに、障害者や貧困者が自身の困窮している状況を語り、有名人が彼らの家庭を取材し、視聴者に訴え寄付を募るという番組がある。その番組中は、もの悲しいバックミュージックが流れ、家庭内の子どもや女性が涙を流し、「かわいそう」ということが全面に出されている。
 以上のような富める者が不幸な者に施しを与える様子は、マレーシアのCBRにおいて良く見られる光景であり、外部者のCBR協力活動として最も多い活動は「寄付」である。寄付の内容はお金であったり、物であったりするが、とにかく寄付と、その寄付を周囲の者にアピールするための式典が頻繁に行われる。地位ある者や、権力者、政治家が、福祉活動をアピールするために寄付を行うことは日常茶飯事である。先述の Ranjitは、「単にお金や物をあげるのではなく、何か発展的なプログラムの支援ために寄付するべきだ。私は、その問題をどうにか解決したいと思い、民間企業からの寄付の一部をCBRワーカー研修費として使用し、毎年定期的に講習会を開催している。」と述べている。
 また、マレーシアでは、市民権、国の言語、マレーシアにおける主権などについて、公的な論争の場で論じたり、デモを行ったりする行為は反政府的運動として捉えられ、法律で禁止されている。そのため、一般市民は権利に基づいた考え方をしにくい傾向にあり、障害者もまた権利を主張することをためらう。そのことが、障害者への支援が「当然の権利」としてではなく、「かわいそうな人への救済措置」として捉えられ続ける要因の一つだと考えられる。
 しかし最近は、権利という言葉が一般的に耳にするようになってきており、今後、人々の考え方が段階的に変化していくことが期待される。
 障害者が公の場で権利を訴えた活動として有名なものに、1994年の公共交通機関(高架線鉄道営業会社)に対する、障害者のアクセスを求める運動があげられる。これは、鉄道会社が「避難等の際に障害者の安全確保ができないため、障害者の安全を考慮して、高架線鉄道の障害者の利用を"禁止する"」という口実をもって、高架線鉄道にエレベーターを設置しないという措置に対して、障害者がグループを結成し、街頭デモ行進による反対運動を行ったものである。この運動は、新聞やテレビ等のメディアで報道され話題となった。残念ながら、アクセスを求めた既存の高架線鉄道にはエレベーターが設置されなかったが、その後新設された第二路線は、エレベーターの設置等がなされ障害者が利用可能なものとなった。

第3節 実例に見るマレーシアCBRの限界 

 上記のように、マレーシアのCBRは多くの問題を抱えている。以下に上げる実例は、CBRプログラムが始まったことで障害者へのサービスが生まれ、地域が活性化されたという利点を得た一方、障害に対する捉え方やCBR概念を学ぶ機会が十分にないまま活動を始めたため、社会福祉局発行のCBR運営指針に従うことや、予算確保のために人々から資金を集めることを通して、障害者と非障害者を今まで以上に区別してしまう危険性が生まれた例である。
 同事例は、筆者が 2004年7月に同地を訪れ、実際にCBR活動に参加したり、ワーカーやCBR運営委員、障害者の家族や地域住民から見聞きしたことをまとめたものである。また、2004年1月から2005年8月にかけて同地にてCBR活動を支援していた協力隊の話しも参考にしている。
 Laput CBRは、ボルネオ島西北に位置するサラワク州ミリ地区森林奥地にある原住民族が生活するロングハウス集落にある。街からの交通手段は山道を切り開いた道を車で4時間程走るか、熱帯雨林の中を流れている川を船で上ることになる。キリスト教の少数民族から成る約300名の住人が居住する同集落には、小学校、保育園、教会、個人経営の雑貨店2件以外に社会資源はない。通常ならこのような奥地でCBRプログラムが始まることはほぼ無い。しかし、 同集落を担当する福祉事務所長が当地出身であり、また同集落の有力者と親しい関係であることがきっかけで、その有力者を運営委員長として2004年1月にCBRを始めることとなった。CBR運営委員長の家系は有力者として代々一目置かれており、彼女のCBR新設の提案はそのまま地域住民に反対されることなく受け入れられた。
 CBRは、運営委員長が所有するロングハウスの一部屋をセンターとして始まった。センターは集落の真ん中に位置し、人々が行き交う道沿いにある。若い男性を含め多くの住民が定職を持たないため、昼間、戸外の長椅子に座ってのんびりと過ごすことが珍しくなく、障害をもっている者も彼らと同様、日々を集落の中で過ごしている状態であった。
 そのような地域で始まったCBRだが、障害児・者が社会福祉局指定の紫の制服を着て毎日集会所に通う姿を見て、当初住民は奇異の目で見ていた。障害者本人たちは、初めから喜んで通う者もいれば、ふらりと表れふらりと帰宅する者もいた。社会福祉局監督下にある同CBRは同局発行のCBR運営指針に従い、紫の制服を着用し、時間割を決め、センター中心の活動を行っている。
 CBR活動を住民に理解してもらおうとワーカーと利用者たちは、毎朝戸外で体操を行ったり、毎週集落のゴミ拾いを行い、住民の目に留まるよう心がけている。また、集落内の土地を耕し野菜を育て住民に販売したり、枝を集めて箒を作り販売したり、お菓子をつくってプレゼントしたりと、住民に働きかけ理解を得ようと努力した。その結果、今では住民がCBR活動に理解を示している。筆者がCBRを訪問した時、CBR利用者やワーカーらと共に地域清掃を行ったが、ごく普通に住民が活動を眺めたり、声を掛けたりする場面が見られた。また、都心部のCBRセンターと異なり車の通りを心配する必要がないため、センターの戸は常に開け放たれ、近所の子どもが覗きにくる場面も見られた。また、CBR運営委員長が中心となってCBR利用者を含めた地域ぐるみのキャンプやお祭りを行い、日頃のんびりと変化が少ない生活を送っている住民が、大騒ぎをして心から行事を楽しんでいる姿を見ることができた。また、ワーカーと小学校教員が同集落の住民で、余暇の時間には共に過ごす友人の関係であるが、その余暇の時間に、経験が浅いワーカーが友人である小学校教員に、来年度就学を迎えるCBR利用児に対する教育方法や教材に関する助言を求め、ごく普通に協力し合っている姿を見ることができた。
 多くの住民が定職を持たずのんびりとした毎日を送っている故や、小さい集落の中の住民が皆、親戚同士や知人同士という地域性もあり、CBR活動と住民の日常生活がこれ程近くに感じるところを初めて見た。
 以上のような活動を実際に目にした筆者は、CBRの可能性を感じながらLaput CBRを離れて数ヶ月後、同CBRに関わっていた協力隊に近況を尋ねたところ、CBR発展のために資金集めが必要と、夕食会を開催し寄付金を募るチャリティーディナーを都心で開催し、多額の寄付を得たとのことであった。そして、その資金を使ってCBRセンターを新設するとのことであった。設立予定地は集落の端の丘の上にある空地とのことである。理由を尋ねると、適切な広さの空き地が集落の外れにしかないとのことであった。協力隊は、集落の外れに建物を設立することで住民との関係が遠ざかることや建物内中心の活動になることを恐れ、意見したが、CBR運営委員側としては、「現在の活動場所では手狭であり、さらに、より質の良いサービスを提供するためには設備を整える必要がある。また、受け取った寄付を活用している証を見せる必要がある。」と言うことで、センター設立計画を進めている。
 今まで、住民の居住地の中心部にCBRセンターを置き活動することで、住民とCBR活動が密接し良い関係を築いていた。しかし集落の離れを拠点地とすると、住民の目に触れなくなり、更にセンターの設備が充実すればする程、建物内での活動で完結してしまうことが予想される。そして結果として、障害者と非障害者が区別されていく恐れがある。
 同事例の様子を表した写真を以下に提示する(写真1)。

写真1 Laput 地域とCBR活動の様子(略)

第4節 まとめ

 本章では、マレーシアCBRの諸問題について述べてきた。社会福祉局監督下でCBRが実施されたことは、利点と弊害をもたらした。
利点は、政府の政策として実施したことで全国展開が可能となり、継続した活動を可能とした。そして、地域で行う障害児サービスへの人々の関心は、以前と比べると高まった。
 一方弊害として、地域における障害児サービスの実現を量的に普及することに重点が置かれ、一斉的、画一的にCBRが展開されたため、地域住民やワーカーがCBRの概念や意義を十分に理解しないまま活動が実施されたことが上げられる。そのため、限定された対象者のための限られた活動内容となってしまった。そして本実例で危惧されるように、CBRを発展させようとすればする程、障害者と非障害者を分けてしまう結果になる恐れがある。
 社会福祉局は、プログラム数を増加させることや、ワーカーの手当て等の予算を用意することには熱心だったが、関係者への研修に対しては十分な対応をしてこなかった。例えば、2004年にワーカーと利用者の割合を1対5にし、ワーカーを倍増させたにも拘らず、通常社会福祉局が行う新人ワーカー対象基礎講習会が行われなかった。原因として、CBRの政策や予算、そして各州の調整を行うCBR全体を担当する部署と、社会福祉局が実施する研修全般を担当する部署が異なり、現場に即した研修内容や適切な研修の時期を研修担当者が把握していないことが上げられる。さらに、その年の研修担当者が熱心であれば講習会が開催され、もし担当者が他業務に追われ余裕がなかったり、異動したばかりで状況を理解してないと、その年は講習会が行われないなど、担当者次第という状況で研修制度が整っていない。
 公務員は、複数の業務を兼任し多忙な日々の中で、CBRの中身、質を問うまでの余裕がないことや、CBR担当者と言えども全てを部長や局長の判断を仰がなければならず、「CBR発展は自分の責務」という意識を持ちにくい現実等あらゆる要因が重なり、現状を改革する程の力をもてず、日々の業務に負われている状態である。
 当事者(障害者)でないということや、当事者と直接触れあう機会がない状況の中では、問題意識が弱く、危機感が生じにくくなっているのではないだろうか。
 そのような中で考えることは、CBRの発展・改善の鍵を握るのは、草の根の現場の人々だということである。マレーシアの政策としてのCBRを考えると、可能性よりも限界を強く感じてしまうが、現場で行われている活動一つ一つをみると、可能性を感じるものが存在する。
次章では、そのような実例をあげ分析する作業を通して、マレーシアCBRの展望を探ることにする。

第5章 マレーシアCBRの可能性

第1節 CBR活動の積極的側面を示す諸実例

 第4章では「CBR本来の概念を基に、その概念に対してマレーシアのCBRはどのような状況であるか」という視点で考え、そのギャップをマレーシアCBRの限界として述べてきた。翻って本章では、筆者が現場で接してきたCBR活動の実例を一つ一つ分析し、その中から見えてくるものを整理することで、マレーシアCBRの将来的な可能性を考えていくことにする。

第1項 公立小学校のアクセスを改善した事例

 本実例は、ケダ州クアラムダ地区にあるCBRを利用する一人の身体障害をもつ子どもを公立小学校に入学させる目標に向かって、ワーカーを中心とする関係者が行動し、校舎の改善等を経て目標を実現したものである。さらに、この一連の活動の成功を通して、その子どもの未来だけではなく、学校の未来をも感じさせる結果となっている。
 以下は、2004年から2005年にかけて筆者が行ったワーカーへの聞き取りの内容と、2005年にワーカーが作成した手記をまとめたものである。ワーカーの手記は、本実例に直接関わった彼女の視点と、さらに、彼女が学校関係者や子どもの両親にあらためて面談し確認した内容がまとめて記載されている。また、ワーカーと同州でCBR活動を支援している協力隊からの話も参考にしている。

(1) Dila(仮名)のケース

  Dilaは、1999年に両手欠損、両足変形の障害をもって産まれた。生後1ヶ月の時に、ワーカーは近隣の病院の看護師からDilaのことを紹介されたので、Dilaの家庭を訪問したが、家族や親族は「障害児がいることが世間にわかると恥ずかしい」とワーカーを受け入れなかった。自分一人の力では困難だと判断したワーカーは病院側に支援を求め、看護師や医者と共にDilaをCBRセンターに通わせるよう勧めた。当時、両親をはじめDilaの親戚は彼女の障害を受け入れ難く、「Dilaの将来はひどい」と彼女を否定した。そこで、ワーカーは誰がDilaに最も近しい存在か確認し、その存在である母親と話し合った。その結果、父親はまだDilaを家庭から連れ出すことに抵抗があったが、母親がDilaと共にCBRセンターに通うようになった。
 ある日、Dilaを含めたCBR利用者とワーカーが地域に散歩や買い物に出かけたとき、多くの近隣者がDilaを知らないことに気づき、そのことを両親に伝えた。家族は、そこで初めてDilaにとって不足しているもの(外出すること)に気づき、Dilaの将来を考え、彼女と外出することを恥じるのを止めた。やがて地域住民がDilaの姿を頻繁に見、親しく声をかける状況になると同時に、Dila自身心身共に成長していった。その姿を見て父親もDilaを戸外に連れ出すことを理解するようになり、彼女の能力を信じるようになった。
 CBRセンターに医療専門家が来所することはなかったが、何か問題が生じればワーカーは病院を訪れ医療関係者に相談するようにしていた。このようにして、Dilaは生後1ヶ月から5歳までCBRセンターを利用した。
 ワーカーはDilaが5歳を過ぎた頃から、彼女の進路・将来について両親と話し合った。両親は、Dilaを通常の幼稚園、小学校に通わせ、できるだけ兄弟や他の子どもと同じ生活をさせたいと考えていた。そこで、Dilaに適切な幼稚園はどこか、複数の幼稚園側と話し合った結果、公立小学校敷地内にある幼稚園に入園することにした。同小学校には Dilaの 2人の兄、同幼稚園には従兄弟がいたので、何かあればDilaを支援でき安心だと判断したからである。幼稚園ではCBRセンターで使用していたものと同じ形の机と椅子を用意し、環境を整えた。幼稚園入園当初は母親が同行し、クラスが終わるまで待機していたが、やがて先生や友達が支援するようになり、次第に母親は待つ必要がなくなっていった。Dilaが幼稚園に通園している期間、ワーカーは幼稚園を定期的に訪れDilaの発達記録をつけたり、幼稚園教諭と話し合う等関係を維持していた。
 Dilaが小学校に入学する9ヶ月前に、ワーカーと両親は、幼稚園と同敷地内にある小学校の校長にDilaの入学を認めるよう相談したが、同学校では障害をもった子どもを受け入れた経験がなく初めは断られた。しかしワーカーは諦めず、Dilaの通学を可能とするには具体的に何が必要か、話し合う場を設けた。話し合いの主な内容は、校舎をDilaにとってアクセス可能なものにすることであった。具体的には、机、椅子、トイレ、通り道等の改善であった。その際には、Dila自身も学校を見学し彼女の意見を参考にした。例えば、彼女は「学校のトイレが落ちそうで怖い」と教えてくれ、そこで校長たちはトイレの改善の必要性を知った。
 そして、終にDilaは小学校に入学したが、彼女のための一連の活動が順調に行われたわけではない。本来Dila の入学前に改善すべき部分が改善されておらず、入学後慌てて改善したり、入学後新たに気づいた問題もあり、その都度関係者で話し合い問題解決に努めた。例えば、1?3学年は1階にクラスがあり、4?6学年は上階にクラスがあったが、高い階段を上れないDilaのことを考慮し、彼女のクラスは卒業まで常に1階に設置することが校長によって認められた。さらに、食堂にある通常の椅子と机ではDilaには高過ぎて利用できないことが分かり、床で食事をするコーナーを作ったのだが、マレーシアでは床に座っての食事が通常の様式であり、この食事コーナーは他児童も喜んで活用する共有の場となった。これは、当初は予想していなかった嬉しい出来事である。
 Dilaは積極的な性格で級友とも仲良く過ごし、勉強が大好きで学校生活を楽しんでおり、何か問題があれば自分で友達に伝え助けてもらっている。学校生活で困っていることはないか両親に尋ねたところ、「特に無い。強いて言えば、級友がDilaの世話をしたがり何でもやってあげようとすることぐらいだ。」とのことであった。
 校長は、Dilaの学校生活における発達を見た後、障害児が学校に通えるようアクセス可能な校舎に改善するための予算を行政から得ようと、ワーカーに提案した。そこで、ワーカー、両親、校長、教員らが話し合い、予算確保のための嘆願書を管轄行政である教育局へ提出した。この話し合いの中では、学校側は障害児に対する十分な知識と経験がなかったので、ワーカーの意見、提案を基に話し合いが行われた。嘆願書を提出した結果、教育局が予算を用意することが決定した。そして、次年度の予算を話し合う年度末には、校長よりワーカーに「障害児の教育のために来年度の予算を確保しようと思っているのだが、新たに入学できそうな子どもはいないか」という問い合わせの連絡があった。
 Dilaと関わった経験を通して、ワーカーは以下のような考えをもっている。
「Dilaはより良い将来を築く能力があると思う。しかし、周囲の者の支援がないとそれは実現しない。機会が提供されれば障害者は自立できる能力を持っていることを、私たちは理解しなければならない。Dilaの両親は、自分たち亡き後を考えると不安を感じている。今周囲の私たちができることは、Dilaが自立生活を送る準備をするために常に協力することである。より多くの機会と、障害者に適切な設備があればDilaは自立生活が可能だ。そのためには、学校、CBRセンター、家という特定の場所だけではなく、その他のあらゆる場所、設備を適切なものに改善する必要がある。ワーカーは、Dilaが自分の目標を達成するよう支援するだけだ。最も大切なことは、Dilaが両親や家族と地域で共に過ごしながら、Dila自身が自分の将来を築いていくよう支援していくことである。」
 そして、Dilaの両親は以下のように語っている。
 「Dilaのために何を用意したらよいか常に考えている。大変難しいが、何かあればワーカーや保健所に相談している。私たち親が知りたいのは、健康面や身体のことのみではなく、将来のために何を準備する必要があるが、どんな活動があるか、ということが知りたい。障害者にとって便利な設備や機会がより多くつくられることを期待する。これはDilaのみでなく全ての障害者のためにも必要であり、彼らの能力に応じた自立が可能となり、心地よい生活を送るために必要なことである。」
 続いて、Dilaの学校の担任教師は以下のように語っている。
「教育省管轄の特殊教育対象の多くが、聴覚障害児と視覚障害児であるため、多くの教員は肢体不自由や知的障害のことを知らない。学校に通っている障害児は、彼らの持っている力を十分に出し切れているとは言い難い。私たち学校側は、学校に通う障害児が危険なめにあったり、他生徒からの差別を受けないように、障害児・者にやさしい環境をつくろうと心がけている。」 
同実例の写真を以下に提示する(写真2)。

写真2 Dilaの写真(略)

(2) CBRと学校教育の関係

 以上が、一人の身体障害をもつ子どもを学校に通わせるために、様々な立場の者が協力した実例である。ここでは、ワーカーがキーパーソンとして活躍している。彼女は常に関係者と会い、話し合うことを好み、「自分は好奇心旺盛で、外に出て多くの人に会うことを好む」と自身を評価している。また、幼稚園入園や小学校入学の数ヶ月前に準備のための行動を起こす等、常に将来を見据えて行動を起こしているのも彼女の特徴である。また、相手に受け入れられない困難にぶつかったら、具体案を提示したり、話し合いの場を設けたり、第三者に協力を求めたり、解決に向けて様々な方法を考え実際に行動を起こしている。
本実例で興味深いことは、彼女を含む関係者が「目の前にいるDilaが、学校に通うためにはどうすればよいか」考えて行動した結果が、あらゆる利益をもたらしたことである。例えば、食堂の特別コーナー増築が他児童にも喜びをもたらしたり、校舎改築の予算を行政から確保できたり、学校が今後も障害児を受け入れる方針を決めたり、関係者が自信をつけ更なる発展を目指したり、とDilaを支援した結果が学校や周囲の者の発展に結びついたのである。
 今後の展望として、この成功例を糧により多くの障害児に対して学校教育を保障することである。Dilaは手足に障害をもつが独歩可能で、それ以外の障害をもっていないため、学校側も比較的受け入れ易かったと思われる。同実例が一個人への対応の好例で完結してしまわず、地域開発の好例へと発展するためにも、他障害児への学校入学支援のための継続した活動が求められる。
 現在のところ、学習可能でない児童は学校教育の対象外とされている。具体的には、教育省が対象とする児童は、視覚障害児と聴覚障害児の他に学習障害をもつ特別な対応が必要な児童とし、学習障害として「ダウン症候群、軽度自閉症、注意欠陥多動症候群(ADHD)、軽度知的障害、失読症等の学習困難」が上げられている。そして、社会福祉局が教育サービスを提供する対象は「重度肢体不自由、中度・重度知的障害、重複障害、教育省下の学校での教育が不可能な子ども」と区別されている。
そのためCBRは「学校に入るための、身辺自立(食事やトイレの自立)の訓練の場所」として位置づけられる傾向にある。実際に、CBRセンターでの訓練を通して公立学校へ送ることに成功した障害児の数を、CBRの良し悪しの目安としているワーカーもいる。しかし一方で、学校教員の対応よりもワーカーの対応が良いと親が判断し、学校通学を止めCBRセンターを再利用する子どもがいたり、中学校卒業後、行き場が無いということでCBRセンターに通い始める者がいる。
 以上のように、CBRの役割がセンターでの教育訓練となってしまっているために、「学校かCBRセンターか」という選択の一つとなったり、「学校に行けなくてもCBRセンターがある」というように学校の代替先となっている。これは、障害児を含む全ての子どもが同じ場所(学校)で学ぶための制度づくりを遅らせている遠因になっているのではないだろうか。ワーカーは、障害者個々の訓練という目の前の活動に重点を置き過ぎて、外部(学校)へ働きかける意識や活動が乏しい状態である。
 そのような状況の中で、Dilaの実例は、ワーカーがDila個人への訓練だけではなく、Dilaが他の子と同じ環境で過ごせるよう外部へ働きかけた好例であり、他ワーカーの参考となる活動である。また同実例以外にも、地域内に7名対象児がいれば、地域内の学校に障害児学級を新設できるという教育省の方針を活用し、対象児を集め障害児学級を新設するよう働きかけるワーカーも少なからず存在する。
 以上のような外部へ働きかけた活動を好例として関係者に紹介し、そのような実例を増やしていくことが、政策を決定する中央レベルに影響を与える一つの要因となると考える。

第2項 地域資源を活用する生産的活動を展開した事例

 本実例は、CBR活動として地域資源を活用しながら生産的活動を行うことで、障害者と地域住民の関係が保たれ、地域に密着したCBR活動が実現している例である。
 以下は、1999、2000年に筆者が同地域を訪問し活動に参加して得たことや、ワーカーへの聞き取り(2001、2004、2005年)、2003年にCBR運営委員が作成した活動紹介資料等を参考にした、また、2名の協力隊が、それぞれ2003年と2004年に同CBRを訪問しており、彼らへの聞き取りや、彼らが撮影した写真、ビデオも参考にしている。

(1) Felda BB(仮名)のケース1

 ジョホール州コタティンギ地区Felda(フェルダ) BBという入植地でCBRプログラムが行われている。Feldaとは、連邦土地開発公社が開拓した土地もしくは連邦土地開発公社自体のことを言う。連邦土地開発公社はマレー人のための地域開発を手がける組織で、土地をもたない貧困層のマレー人を新たな開拓地に移住させる事業を行っている。Felda での主な収入源はゴムやヤシの植林であり、Feldaの中には、基本的な生活基盤、住宅、学校、診療所、衛生環境などが十分に備えられている。
 CBR利用者はFelda の住人であり、利用者の3分の2は青年層である。他のCBRに比べると青年層の占める割合が大きい。ワーカーに青年層が多い理由を尋ねると、「周辺の公立学校の障害児受け入れが比較的良く、多くの子どもたちは小学校へ通っているため、自然と学齢期以降の利用者が多い」との返答であった。青年期の利用者が多いこともあり、同CBRでは生産的活動を重視している。具体的例として、地域住民から注文を受けての洋服製作、工場から下請けしたクッション製作、パンや菓子の製作と販売等である。パンや菓子は、CBRセンターや、地域の小学校、近所等で販売している。特に、イスラム教徒のお祭りの時期になると祝い菓子づくりと販売に大忙しである。また、CBRセンターの前の公道にパラソルを貼って小規模な駄菓子屋を開き、数人の障害者が飲み物や菓子を販売している。この公道は学校に通う子どもたちの通学路であるため、大勢の子どもたちや、子どもの送迎をする親たちが、ごく普通に買い物をしている。
 毎週金曜日に、男性イスラム教徒はモスク寺院にて集団で祈りを捧げる習慣があるが、同CBRは多くの住民が集まるその機会を利用し、ニュースレターを作成し配布している。ニュースレターは近隣の小中学校にも配布しているのだが、より多くの人に関心をもってもらうよう、宗教関連の話をメインに取り上げている。
 マレーシアでは、午前十時頃に休憩を兼ねて軽食をとる習慣があるが、同CBRでは軽食の準備を障害者自らが行っており、市場に材料を買いに行く者、料理をする者、配膳する者、片づける者、掃除をする者等役割分担をして取り組んでいる。当初、買出しは市場までワーカーが連れていき、物品・金銭のやり取りを介助する必要があった。しかし毎日繰り替えしている今では、障害者も市場の者も双方が慣れ、言葉を発することができなくても問題なくやり取りが可能となっている。また、顔見知りになるにつれて、食材を無料提供してくれる等、市場の者たちがCBR活動へ協力してくれるようになった。ワーカーによると、食材提供者は毎朝自分の店で障害者と直接顔を合わせ交流することで、CBR活動に協力している実感がもて、継続して支援してくれるとのことである。
 Felda BB のCBRはその活動内容が評価され、社会福祉局が授賞する「全国最優秀CBR賞」を受賞したり、政治関係者がCBRセンターを訪れたりし、CBRと共にFelda BBの名前が有名になり、地域住民はCBR に一目置いている。
 同実例の写真を以下に提示する(写真3)。



(2) CBR活動に地域を巻き込む鍵となる要因

 Felda BB のCBRが優れている点は、地域との関わりをもちながらの生産活動を行っている点である。
 生産活動、特に飲食関係の活動は、地域を巻き込む活動として、そして障害者が主体的になる活動として有効だと考える。マレーシアではインフォーマル部門として飲食業が盛んであり、誰でもが容易に商いを行い皆気軽に利用しているので、農村の人々にも受け入れ易い活動である。また、材料の調達も完成品の販売も地域内で可能なため、地域との関係を築き易い。そして、料理はワーカーや地域住民らのような専門家でない者でも指導が可能で、障害者も身近な素材であるため興味を持ち易い。さらに生産活動は、自分自身が作り、直接地域住民とやり取りをしながら売り、そしてお金という目に見える利益となるため、障害者、特に知的障害者にとって自分の活動が理解しやすく意欲が湧き易い。さらに、利益が具体的にお金という形となって現れるため、障害者、家族、ワーカーら関係者のモチベーションが維持され、継続した活動が可能となる。ワーカーは、「私たちは生産的活動を行う。これが基本である。生産活動を通して様々なことを学ぶことが可能である。彼ら(障害者)たちが自分たちで考え、行動を起こせるよう支援したい。」と筆者に伝えた。
 また、地域資源を活用し地域住民の協力を得ている要因として、地域性によるものが大きいと考えられる。Feldaは、マレー人を新たな土地に移住させる事業によって開拓された入植地という特徴をもっている。そして、入植地内に基本的な生活基盤、住宅、学校、診療所、衛生環境などが備えられ、その中で生活が完結される。そのため、比較的地域住民の絆が強い。Feldaや第4章で事例として上げたロングハウス集落のように、地域としての区域が限られた空間で、さらに地域内の住民がお互いを把握できる程度の広さであることが、地域と密接なCBR活動が実現しやすいと考える。逆を言えば、経済的に発展し近代的になればなる程、生活範囲、行動範囲が広がり、そして地域住民の関係性が浅くなり、地域を巻き込んだCBR活動は難しくなるのではないだろうか。
 実際に、街中にあるCBRにおいてCBRを取り巻くコミュニティを考えた際、CBRセンター周辺の地域という物理的な距離でのコミュニティではなく、親戚や知人、何らかの関係性を持っている者たちで成り立つコミュニティであり距離は関係ないことが多い。例えば、CBRセンターから離れた居住地から車で訪れるボランティアがいるが、彼女らは近隣の者としてCBRに関わるのではなく、障害者に対して何か支援したいという思いで訪れている。
 石本(2002, p.90)は、マレーシアの村落社会の構造を分析し「マレイシアでは、地域社会が生活の場以上の機能を持たず、生産手段を基盤とする住民の組織化も行われた経験がないため、現状ではコミュニティの役割を場の提供以外には求められないのは当然である。(中略)マレイシアのCBRの現場では当事者や親族を中心とした助け合いが見られる。これらのことから、マレイシアのCBRはcommunity-basedではなくnetwork-basedで行われていると考えられる。行政主導でも、対象が潜在的にマレー系に限定されたり、『知人のいない近くのセンターよりも、知人のいる遠くのセンターに行く』といった傾向なども、それを物語っている。(中略)マレイシアでは地理的な、あるいは組織としてのcommunityを基盤とするのではなく、事実上は人間同士の自由なつながりであるnetworkを基盤としたリハビリテーションに、その方向を変化させた。」と分析し、現在のマレーシアCBRは、地域そのものではなくネットワークを基盤として成り立っていると述べている。
 先述のFeldaや山奥の小さい集落は、親族や知人らが同地域内に居住し、石本の説明する「network-based」に基づいた人間関係が地域内で完結するため、CBR活動に地域全体を巻き込みやすいと思われる。
 マレーシアの村落社会が、単なる地理的なつながりではなく、人同士のつながり(ネットワーク)を重視しているからこそ、障害者を含むCBR関係者は、積極的に自らが地域の人々と接触し、関係をつくりネットワークを築いていく必要がある。
 CBR関係者が頻繁に上げる問題点として、地域住民の非協力が上げられる。しかし、日頃CBRセンターの閉鎖的な空間の中でのみ活動し、自らが地域に出、人々に働きかけるという活動をしない状況の中で、いくら「地域住民がCBRへの感心が薄い。協力してくれない。」と嘆いても、問題解決には結びつかないと考える。

第3項 障害者が主体となる活動を促進する事例

 本事例は、本節第2項で取り上げたCBRと同じく、Felda BB における事例であるが、特に障害者が主体となる活動の側面について注目して分析する。

(1) Felda BBのケース2 

 Felda BB CBRでは、障害者が主体となる活動が積極的に実施されているが、注目すべき活動の一つに、青年グループの障害者を中心に構成された「障害者クラブ」の設立がある。同クラブは2003年1月に設立され、メンバーはCBRを利用する障害者たちである。クラブの委員長、書記、経理担当は、メンバー(障害者)の中から自分たちで選び、助言者として一名のみ非障害者(ワーカー)がメンバーに特別参加している。
CBR運営委員が作成した活動紹介資料(2003, pp.14-15, 筆者訳)によると、同クラブの目標・目的として以下の事柄を掲げている。
 1. 障害者のリーダーとなることを目指す。
 2. 障害者同士の協力をより充実したものとする。
 3. 障害者が自由に物事を考え、自身が欲するものを選択し、決定する。
 4. 障害者がやりたい活動を現実的なものにし、実現するよう促進する。

 本節第2項で記述したように、Felda BB のCBRでは、ニュースレターを作成し地域住民に配布しているが、このニュースレターは「障害者クラブ」メンバーによって作成されている。記事の内容を皆で話し合い、やりたいこと、またはやれることに応じて、役割分担をし、文章をタイプし、印刷して配布している。ワーカーはニュースレターの全体的な構成や誤字脱字について助言をするが、あくまでも側面支援の態度をとっている。
 また、同クラブのメンバーは、知的障害者が多いが、車椅子利用者や聴覚障害者等の身体障害者もおり、障害の種類や度合いが異なる。しかし、障害の種類や程度によって優越がつけられたり、階級がつくられたりすることがなく、苦手な部分をお互いが補い合いながら共に活動している。
 同CBRは生産活動を重視し毎日行っているが、作業を分割し、全員に担当を割り振り、全ての障害者が何らかの役割を担っている。例えば、裁縫が得意な者は、工場から下請けしたクッションのミシン縫いや、地域住民から注文を受け洋服を製作したりしている。細かい作業が苦手な者は、仲間が縫ったクッションに、綿を詰め込むという簡単な作業を行う。料理作りが好きな者たちはパンや菓子をつくり、地域の小学校や近所、CBRセンター等で販売している。また、CBRセンターの前に設置した路上駄菓子屋では、店番をする者、お客からお金を受け取り計算ができる仲間にお金を渡す者、お金を計算する者等、それぞれができることを生み出し、全員が役割を担い活動に貢献している。
同実例の写真を以下に提示する(写真4)。

写真4 Felda BB CBRの活動の様子(2)(略)

(2) CBRワーカーの役割 ―障害者の主体性を導く環境づくり

 マレーシアにおいて、CBRを利用する障害児の親たちで作れられたグループは、少なからず耳にしたことがあるが、CBRを利用する障害者自身がグループを作り活動を実行しているところを筆者はFelda BB以外に聞いたことがない。
 多くの人々は、障害者、特に知的障害者を保護されるべき存在としてみなし、二十歳を超えた知的障害をもつ人に対して子どものように扱う者が少なくない。ワーカーでさえ、知的障害者に一度何かを教えて上手くいかなかったら、「あの子は教えても、わからない。できない。」と勝手に判断し、その人への働きかけ、支援を放棄してしまう者がいる。
 しかしFelda BBは、ワーカーが「生産活動を行うこと。そして、生産活動において全ての者が役割を担うこと。これが、障害者の主体性を導く。」という明確な方針・考えをもっており、その方針に沿って活動内容を考えている。その結果、初めは何もできないと思われていた障害者が、集団活動の中で役割を担うようになり、その姿を見て、ワーカーは自分たちが掲げている方針に間違いはないと確信している。また、障害者は役割を担うことで、自身の存在意義を感じることができ、自信へと繋がる。
 CBRセンターで休憩時間に食べる軽食用の食材を、毎日市場に買いに行く障害者について、ワーカーは次のように述べている。
「半年位は、毎日私たちワーカーが彼らを先導し、一ら十まで教えなければ買い物をすることができなかった。しかし、数年経った今では、私たちが付き添う必要がなくなり、自分たちで市場の人とやり取りができるようになった。時間はかかるが、彼らはできることがわかった。逆に言えば、時間をかければ、彼らはできるのである。」
 CBR活動において、当事者である障害者が主体性をもつことは重要なことである。そして障害者が主体性をもつためには、Felda BBのように、全員が何らかの役割を担うよう配慮したり、仲間同士のグループ作りを促したりするような、障害者が主体となれる環境、活動を用意することが必要である。その環境づくりを行うことが、ワーカーの重要な役割だと考えられる。
 マレーシアのCBRにおいて、活動実施の中心を担っているのはワーカーである。ワーカー達に、Felda BBのような活動例を具体的に紹介することで、ワーカーがイメージを持ちやすく、実行に移すきっかけとなる可能性がある。

第4項 日々の目的を生み出す場を提供している事例

 本項では、CBRセンターに通所する一人の女性のケースを通してCBRセンターの役割を分析する。CBRセンターは、スランゴール州サバ・ブルナム地区という首都クアラルンプールから車で2時間半程の農村部に位置する。同地域は、筆者が1999年3月から2001年7月まで協力隊としてCBR活動を支援し、生活していた地域である。2001年7月に同地区を離れた以降は、一年に一度程の頻度でCBRセンターを訪れ、ワーカーや、利用者、その家族との再会を楽しんでいる。
 同実例の内容は、筆者がCBRセンターを訪れた時に経験したことや、ワーカーや、女性の両親、その他の両親と話をした中で得た内容である。

(1) Sitira(仮名)のケース

 Sitiraは、スランゴール州サバ・ブルナム地区パシール・パンジャンで暮らし、同地域にあるCBRセンターに毎日通っている。同地域は、サバ・ブルナム地区に住むマレー系マレーシア人の中でも特に信仰心が篤い人々が住んでいる。CBRセンターは、宗教を地域の子どもに教える塾と建物を共有しており、午前中に宗教塾、午後にCBR活動が行われている。
 Sitiraの送迎は、父親か母親が自家用車で行う。母親が時間に余裕がある時はSitiraと共にCBRセンターで過ごすが、送迎のみの日もある。Sitiraは、脳性まひという障害をもち、手足、腰、背中が変形し硬直している。筆者がSitiraと始めて出会った1999年頃は車椅子に座ることができたが、今は体を曲げることできないほど硬直しており、寝たきりの状態である。音楽を聴いたり、友達を見ることが好きで、音楽が聞こえると喜んだり、友達の活動をじっと興味深く見たりする。また、おしゃべりも好きなようで、目が合ったり、話しかけると笑顔になり、言葉は発しないが僅かな声と表情で楽しく会話ができる。
 SitiraはCBRセンターに来所すると、部屋の隅に置いたマットレスに寝かされ、他の利用者たちが活動するのを傍らで見ているだけの状態である。
 筆者は、Sitiraが会話を楽しむことや、友達に関心をもっていることを考慮し、他の子どもたちと共にグループ活動に参加できるようにと音楽活動を紹介した。そして音楽活動のときは、Sitiraを車椅子に乗せるようワーカーや母親を促し、Sitiraは喜んで音楽活動に参加してくれた。
 しかし筆者がSitiraを誘わない限りは誰も彼女に集団活動に参加するよう促さず、部屋の隅に横にされているだけであった。筆者は、「せっかく、センターに来て皆が集まっているのだから、無意味に時間を過ごすよりも何か行うべきだ」と半ば焦燥感を抱きながら、CBRセンターに到着しては、直ぐに音楽活動を行い、ワーカーや両親、利用者とゆっくり話す時間を設けなかった。
 結局、Sitiraを活動に参加させることには成功せず、無力感と同時に、「SitiraがCBRセンターに通う意味があるのだろうか」と疑問に思ったまま隊員活動期間が終わり、同地域を離れた。
 筆者は、生活と仕事の場を別の地に移した後は、一年に一度の頻度でCBRセンターを訪れた。その時は仕事としてCBRセンターを訪れるのではなく、友人に会いに行くために訪れ、雑談を楽しんだ。
 2004年に一年程振りにCBRセンターを訪れた時に、Sitiraに関して初めてわかったことがあった。それは、彼女が毎日楽しみにCBRセンターに通っているということである。Sitiraの両親の話によると、彼女はCBRセンターに通うことを毎日大変楽しみにしており、センターに行く時間が近づくと声を出し両親に知らせ、センターに送る時間が少しでも遅れると、「おー」と声を出して送るよう催促するということだった。
 筆者にとって、それは衝撃的な事実であった。その話を聞いた日は、一年程振りにCBRセンターを訪れた日だったのだが、Sitiraは相変わらず、部屋の隅のマットの上に寝かされ、側で学習する友人たちを眺めていた。そして手足、背中、腰が変形し曲げることができず、車椅子に乗れない程の状態になっていた。その状態を見て筆者は、「やはり予測していた通り、何も対応されることなく、Sitiraの状態はますますひどくなっている。」と、ワーカーや両親の対応に憤りを感じた。
 しかしその直後、ワーカーや両親の話を聞く中で、「Sitiraが両親に催促する程楽しみにCBRセンターに通っている」ことを知った。
 その話を聞いてから、ワーカーや両親のSitiraへの対応を否定的に見ていた筆者の考え方が変わってきた。例えば、Sitiraは毎日、紫の制服を着て、イスラム教の女性が髪の毛を隠すために被るお揃いの紫色の布をきちんと被りCBRセンターに通う。体が上手く曲がらず成人したSitiraに洋服を着せることはかなり時間を要することだが、両親は毎日、Sitiraに制服を着せ、Sitiraの身だしなみを整えて連れてくることや、ワーカーはSitiraを決して無視しているわけではなく、毎日Sitiraに触れ、話しかけていることに、今更ながら気づいた。
 そして何よりもSitiraが、毎日センターに通い友人の姿を見ることを自分自身の楽しみにしており、彼女が与えられた状況の中で、楽しみをみつけていることを理解した。その時、初めて彼女をたくましいと感じたと同時に、今まで「集団活動に参加できず隅に寝かされる不憫な彼女」と勝手に解釈していた自分を恥じた。
 筆者は、今でもSitiraが、友人と共に活動に参加した方が良いと思っているが、「不憫なSitiraを援助しなくては」という身勝手な焦りはなく、Sitiraや関係者とじっくり話し合いながら、以前とは違う形でのアプローチがあるのでは、と思っている。
同実例の写真を以下に提示する(写真5)。

写真5 SitiraのCBRセンターでの様子(略)

(2) 所属の場としてのCBRセンター

 CBRセンターが、「場」としての意義をもたらしているという分析は、数名のマレーシアCBRに関わった専門家から行われている。
 例えば、石本は、複数のCBRプロジェクトの調査を通してマレーシアの社会福祉局監督下の成果と課題を分析する中で、成果の一つとして「障害児の社会参加の場を提供」を上げている。石本は、「生活圏に比較的近い地域にCBRセンターを開設したことで、農村部の障害児に医療や教育の機会を提供しただけでなく、当事者やその家族が集まる"場"をも提供したのである。これにより、当事者間での情報交換や、ニーズを声に出して要求するといった行為を生み出す可能性ができた。」と述べている(石本2002, p.84)。 
 また、久野は、プログラムのケース・スタディを通して「CBRの1つ1つの特徴において、利点と欠点が同時に内在している」と述べた上で、「CBRができたことによって、実際にどこにでも行けずに家の中にいた障害者に対して社会に参加する一つの道を提供した。」と分析している(久野2003, pp.95,96)。
 しかし石本は、障害者や家族が集まることがきっかけとなり、情報交換やニーズを伝え要求する行為へと発展する可能性を提示したが、自身が調査した3ヶ所のCBRプロジェクトうち1ヶ所においては、障害者(利用者)が被援助者としてのみの存在に止まっていることや、社会福祉局によるトップダウンの運営の影響を強く受けているために、「集まる場」の域を超えることができていないと、分析している。
 また、久野は、社会に参加する一つの道を提供したことをマレーシアCBRの成果としてあげた上で、「しかしその一方で」、障害者のための場として対象が障害者に限定されたため、地域社会への障害者の参加や、社会共生から遠去かってしまったと強調している。
筆者も、マレーシアのCBRが小規模施設化されたことによって、活動が閉鎖的になり、地域の理解を得られる機会が乏しくなった等の弊害をもたらしたと考える。しかし一方で、障害者自身が「地域に出よう、地域の人と交わろう」という思いに至るまでには段階が必要だと考え、CBRセンターが、その第一段階の役割を担っているのではないかと、Sitiraのケースを通して考えた。
 障害をもつ、もたないに拘らず、所属の場があることは人々に安心感をもたらす。その場所(所属の場)には、自分が知っている人、自分を知っている者がおり、自分を受け入れてくれるという安心感を得ることができる。そして、「その場所に行けば、自分を受け入れてくれる仲間がいる」という思いは、「その場所に行きたい」という欲求、更には「その場所に行く」という目的を生み出し、生きがいをもたらすと考える。家庭という場が所属の場の一つと言えるが、更にもう一つ、家庭以外に所属の場を持つことで、新たな社会性が生まれる。
 CBRセンターに通うことで、日々の生活に生きがいや楽しみを見つけ、さらに仲間を得、その日々の過程の中で、自信がつき、更に世界を広げようと地域へ心が向かうのではないだろうか。
 地域の人が障害者へ心を向けることと、障害者が地域の人へ心を向けることは、どちらかが先にあるべきというものではないが、双方が向きあった時に、新しい関係が生まれ、共に発展していく可能性があると考える。

第5項 障害者がCBRワーカーとして役割を担う事例

 本事例は、本節第4項と同じスランゴール州サバ・ブルナム地区における実例である。1992年、同地区にCBRプロジェクトが導入され、ワーカーとして地域の障害者が任命され、その後リーダー的存在として活躍する中で、仕事に誇りを持ち自信をつけていったものである。
以下は、1999年3月から2001年7月まで協力隊として、筆者が同地区で活動していた時に経験したことや、その後、4年間にわたる同ワーカーとの電話でのやり取りや、同地区への訪問を通して得た事柄をまとめたものである。

(1) Jon(仮名)のケース

 Jonは、先天性の両手欠損、手足の指が変形という障害をもっているが、両親や家族は、彼女を兄弟と別け隔て無く育て、他の子と同様に学校に行き育っていった。学生時代は、自分の人生において学問はそれ程重要と思わずあまり勉強しなかった。
 高校卒業後、地域のバスチケット売り場で働いたが、あまり関心をもてずしばらくして辞めた。その後、同居している共働きの姉夫婦の子どもの面倒を看ながら家事に専念した。この時、バスチケットを売るような仕事よりも子どもを育てることが自分にあっているし、楽しいと思った。当時、障害者登録をしようと地域の福祉事務所に出かけたが十分な対応はなされず、何度も事務所に通い待たされたが、結局その当時は障害登録ができなかったという経験をもつ。そのため、ワーカーとして務める今、障害者登録を待っている障害者や家族の気持ちがよくわかる、と後日話していた。
 1992年、Jonの地域でNGO主導のCBRプロジェクトが始まった。同NGOは海外団体からの援助を受けており、CBRプロジェクトには国内外の専門家が携わった。彼ら専門家は、CBRを始めるにあたって地域の障害者の状況調査のために戸別訪問を行った。Jonのところに彼らが訪れたとき、JonはCBRボランティアスタッフになるよう誘われ、それからスタッフとしてCBRに関わるようになった。当初、Johは障害児とその両親のためのグループ活動プログラムを担当したが、何もかもが初めてで不安を抱きながら活動していた。また、Jonと共にCBR立ち上げのための地元ボランティアメンバーとして選ばれた友人は、障害をもたず、英語が流暢だったため、外国人も参加していたプロジェクトメンバーの中では、自分より彼女の方が積極的に活動し、外国からの専門家に期待されていた、と当時を振り返り語っている。
 3年後、そのNGOは撤退し、変わりに地元のNGOがCBRプロジェクトを引き継いだが、資金面、運営面で不備が目立ち、そのまま行政(社会福祉局)に引き継がれた。CBRが始まった当初は、障害児のための活動プログラムの他に、地域や成人障害者を対象にした様々な活動があったが、最終的に残ったものはJonが担当していた建物内での障害児を主対象とするグループプログラムだけであった。このプログラムが社会福祉局に引き継がれた時点で、同局管轄下のCBRとなり同局の指示や運営指針に従わなければならなくなった。当時CBRは、財政面、運営面、活動内容、利用者への対応等様々な問題を抱えていたが、Jonは争いや対立を好まず、また自から積極的に前へ出て変化を起こすタイプではなかったので、与えられた状況の中で自身がやれることを日々こなしていた。
 月日が流れ、Jonと同時期にCBR立ち上げメンバーとして長期にわたり勤めていたワーカーがCBRから離れたり、CBR運営委員メンバーが変わったりする中で、地域内におけるJonの立場が少しずつ変わっていた。彼女が担当するCBRに新しく就任した運営委員長が、我が子がCBR を利用していることもあり運営に熱心で、彼女のCBRは一目置かれるようになっていった。それと同時にJonの人柄、仕事に対する態度が周囲の者の理解を得、他ワーカーや地区福祉事務所CBR担当職員が彼女に相談事を持ちかけるようになった。特に、当時新人であったCBR担当職員は、CBRに関して常に彼女に相談し、他ワーカーには「自分が彼女を尊敬している」旨を伝えていた。その話を聞いたJonは、自分の役割を意識しだし、積極的に地域内外の新人ワーカーらに助言を行うようになった。筆者自身、彼女と出会った頃と現在を比較すると、彼女の意識が変化していることが感じ取れた。慎重派のJonは、改造バイクをもらっても「運転が怖いから」と使わなかったり、日本の研修に誘ったときは「言葉も生活習慣も異なるので、難しい」と断っていた。しかしリーダー的存在となっている今、日本の研修に「機会があれば行きたい」と発言したり、「学生時代は、勉強は必要でないと思ってきちんとしなかった。今は、もっと勉強しておけばよかったと悔んでいる」と発言するようになり、今まで以上に前向きな姿をみることができる。そして何より、会話のときの彼女の表情を見ていると、「仕事が楽しい」という思いがとても伝わる。彼女自身、「ワーカーとして働き始めた頃と、今とでは全く違う。昔は何もかもわからず不安で自信がないまま活動を行っていた。私のワーカーとしての初期の活動を知る者が、今の私を見たら大変驚くと思う。」と言っている。
 また、筆者とJonの関係も変わっていった。Jonは手足に障害があるが、自力で何でもできるため彼女を障害者として意識したことがなく、障害者と捉えることが彼女に対して失礼なのではと勝手に思っていた。今まで、「CBRでは障害者自身の関わりが必要だ」という話はお互いにしてきたが、具体的に彼女の障害や彼女の障害者としての役割について話し合ったことはなかった。しかし月日が経つにつれて、お互いの生い立ちや私生活の話をする機会が増えてきた。
 そして、Jonの障害について話をするきっかけとなる出来事が、二人が出会って6年目の年にあった。それは、首都で「自立生活セミナー・研修」が開催され、その研修生候補者になるための面接にJonが参加したことがきっかけとなった。その時、初めて私に彼女自身の障害について話してくれ、地域に住む障害者のロールモデルになりたいと夢を語ってくれた。学生時代、周囲に活躍する障害者を見ることができなかったので、自分がそういう存在になりたいと話してくれた。
 同実例の写真を以下に提示する(写真6)。

写真6 CRBワーカーとして活躍するJonの様子(略)


(2)  障害者がCBRワーカーとなる意味

 障害をもっていたとしても、個人の生き方、職業の選択は自由であり、障害者だからといって、啓発活動を行ったり、障害者仲間を支援する義務はない。しかし、そのような活動を望む障害者がいたら望みが実現するよう支援したり、一人でも多くの障害者がそのような活動を望むよう情報提供等を行うことは大切だと考える。何故ならば、障害者による障害者支援は大変意義あることだと考えるからである。
 中西は、メキシコでCBRプロジェクト「プロヒモ」を推進しているデビット・ワーナーが考える村のリハビリテーション・プログラムへの障害者の参加の重要性として、以下の事柄があると紹介している(中西1997a, p.5)。
  1. 障害をもつ仲間の気持ちやニードの把握がすぐれている。
  2. サービス利用者の問題の解決への関与が容易。
  3. よりよい訓練や自助具を提供できる。
  4. ロールモデルとしての役割をもつ。
  5. 仕事に対して意欲的である。
 しかし、マレーシアでは障害者が主体的にCBR運営に関わっておらず、障害者が主体的に関わることができるような土台・環境をつくる動きはほとんどみられない。成人・青年のCBR利用者が、ワーカーの補助的活動(清掃、食事づくりや片付け、他利用者の介助等)を行うアシスタントとして働く者もでてきてはいるが、それは、彼らの働く場や成人としての役割を持つ場の確保という目的をもっての対応である。彼らの役割は補助的立場に止まっており、CBR運営の計画や実施のプロセスに参加したり、運営委員会議に参加し彼らの意見が参考にされる等の動きはみられない[17}。
 他障害者のロールモデルとなることを自身の夢とするJonにおいてさえ、筆者が「ワーカーや運営委員になるような障害者は地域にいないか?」と尋ねた際に、「自営業を営む障害者がいるが、ワーカーになれるような能力はない。運営委員の一メンバーとしてなら可能かもしれない。しかし、運営委員は地域の協力や資金集めを行う必要があり、彼にそのような仕事は務まらないと思う。」と言い、障害者がCBR運営や活動に関わる重要性や、それと同時に障害者がCBRに主体的に関われるよう周囲が支援することで初めて障害者の主体的参加が可能となることを、あまり意識していない。
 Jonと会話する中で、障害をもつワーカーに関して彼女自身異なる二つの考えを同時にもっていることを感じた。それは、「自分は一人で何でもできるし、ワーカーの仕事は"障害者だから"やっているのではなく、好きだからやっている。よって、自身が"障害者だから"という考えは持ちたくない」という思いと、「障害者故の役割があるだろうし、自分は活躍して障害者たちの見本となりたい」という思いである。
 久野は、障害者がワーカーとしてCBRに貢献者として参加することの意味を検討するために、マレーシアにてケース・スタディを行い、その対象の一人としてJonが選ばれている。彼女は久野のインタビューに対し、「障害者が希望すればCBRワーカーになれるべきであるが、障害者だけがなるべきとは思わない。CBRワーカーにとって重要なのは障害の有無ではなくその人の能力である。そしてCBRは地域社会のプログラムであって、障害者だけのプログラムではないのだから」と答えている。
 久野は結論として、「障害者が自己実現の一つの方法としてCBRの貢献者としての参加を望むならそれを支援」することは重要だが「それはCBR当事者の参加とは直接、関係のない参加形態であるということである。」と述べ、単に障害者だからという理由での障害者参加は、本来意味していた当事者である障害者自身の参加の重要性を覆い隠してしまう点があると指摘している(久野2003, pp.100,101-102)。
 確かに、その点は留意しなければならい。「障害者=その活動の当事者」という訳ではなく、また同じ「障害」を持つ者だからといって、必ずしも別の障害者の思いを汲み取り、代弁者となって支援する訳ではない。
 筆者は、1998年に協力隊として初めてマレーシアに来た直後の半年間、寮を兼ね備えた障害者のための保護作業所に住んでいた。そこには、寮に住みながら一般企業へ改造バイクで通勤する車椅子利用者もいれば、センター内の作業所で働く聴覚障害者や、知的障害者がいた。同センター内の一室にCBRセンターがあり、筆者はCBRセンターで活動していたが、CBRセンター利用者(軽・中度の知的障害児)と寮に住んでいる障害者は全くと言っていいほど交流が無く、筆者自身は、寮に住んでいる障害者とは余暇の時間に付き合う関係であった。その中で感じたことは、同センターの障害者の中に力関係があることだった。まず、外の企業に働きに出かけている車椅子利用者が上にたち、その次にセンター内で働く聴覚障害者やその他の身体障害者、そして、最後に知的障害者である。車椅子利用者が、知的障害者を小間使いのように扱っている姿が度々見られた。または車椅子利用者が、センター内で働く身体障害者に何か指示し、指示された身体障害者は、知的障害者にその指示をまわしていた姿もみられた。
 障害者は障害をもつ個々の人間であり、一まとめにすることはできない。しかし、非障害者しかCBRの運営、実施に関わらないマレーシアのCBRで、どのようにしたら当事者である障害者がCBR活動に参加できるか考えた場合、一人でも多くの障害者がCBRの運営、実施に参加することが重要であると考える。CBRの運営、実施に障害者が当然のように関わることは、関係者の間に共に発展を目指す仲間としての意識が芽生え、非障害者が抱いていた障害者のイメージを改めさせる可能性がある。
 より多くの障害者がCBRの運営、実施に参加し、さらに当事者主体の精神を活かす方法として、自立生活運動の理念や手法を参考にすることが考えられる。

第2節 CBRと自立生活運動 

 途上国の農村部の障害者が、当事者としてCBR活動に主体的に参加することは目指すべき目標である。しかし、実際にその目標を達成するためには、周囲の理解や、支援、働きかけが必要である。障害者を保護することを当然とする環境の中で、保護される立場として育ってきた障害者が、自身のことを自分で決め行動することは、障害者自身にとっても家族にとっても大きな変革と言えるのではないだろうか。主対象が知的障害児であるマレーシアのCBRに関わっていると、特にそのように感じる。当事者として障害者の主体的な参加を達成するためには、障害者自身の内からの変革と、外部の変革双方が必要であろう。筆者は、そこに自立生活(Independent Living, IL)運動とCBRの接点をみる。自立生活運動の理念に基づく自立の概念や手法が、障害者の内からの変革を導き、CBRの概念が障害者を取り巻く人々や社会の変革を導く。
 中西によると、自立生活運動は、1972年にアメリカのカリフォルニア大学バークレー校の重度障害をもつ卒業生たちによって設立された自立生活センターをきっかけに始まった。そして、彼らは以下の4つの思想を掲げている(中西1997a, pp.118-119)。
  1. 障害者は「施設収容」ではなく「地域」で生活すべきである。
  2. 障害者は、治療を受けるべき患者でもないし、保護される子供でも、崇拝さ
れるべき神でもない。
  3. 障害者は援助を管理すべき立場にある。
  4. 障害者は、「障害」そのものよりも社会の「偏見」の犠牲者になっている。
 また、日本福祉大学国際社会開発研究科教授の穂坂光彦が、自立生活運動についてのガーベン・デジョンの考え方として「自立とは自分が全部やるということではないだろう。むしろ、いろいろな人たちとの支え合いの中で、自分で自由にできる時間を有効に生み出したら、それでいいのだ。むしろその方が自立の概念に近いのではないか。」と紹介している(穂坂2003b, p.10)。
 さらに、全国自立生活センター協議会のホームページは、自立について以下のように説明している[18]。
「自立とは、自らの人生におけるあらゆる事柄を自分で選択し、自分の人生をじぶんなりにいきていくことです。選択をするためには選択肢の良い点・悪い点を知らされ、ある程度経験している必要がありますし、一部を選択したり全てを選択しないという選択もあります。」
 「自立生活とは、どんなに重度の障害があっても、全ての人がその人生において、自ら決定することを最大限尊重され、そのために起こる危険を冒す権利と、決定したことに責任を負える人生の主体者であることを周りの人たちが認めていくこと、そして哀れみではなく福祉サービスの被雇用者・消費者として援助を受けて生きていく権利を認めていくこと。」
 「基本的には、施設や親の庇護の元での生活という不自由な形ではなく、ごく当たり前のことが当たり前にでき、その人が望む場所で、望むサービスを受け、普通の人生を暮らしていくことです。」
 中西・上野(2003)によれば、自立生活を支えるのが自立生活センターであり、その自立生活センターの主な活動内容としては、ピアカウンセリング、自立生活プログラム、介助サービスがあげられる。
 ピアカウンセリングの「ピア」は「同士」という意味である。ピアカウンセリングを通して、「障害者」として同じ経験をもつ障害者同士が、社会の中で経験したことや感じたこと語り、仲間に受け止められる中で、自身を取り戻していくことを可能とする。
 また、自立生活プログラムは、ありのままの自分のままで、自立生活を送っていくための生活技術を学ぶものである。これは、自立生活を成功している障害者から、自立生活を始める障害者へ、自身の経験を活かしながら、具体的なノウハウを教えるものである。
次に介助サービスであるが、これは、自立生活センターに登録している介助者を、障害者の下に派遣する制度である。同サービスの特徴は、時間、障害の種類、介助の内容に制限が無い点と、有料であるという点である。有料にしたねらいは、障害者はサービスを買う消費者・客であり、 介助者はお金を支払ってくれる客に従う、という関係を築くことである。
 以上、自立生活運動の概念や自立生活センターについて簡単に述べたが、これらと、CBRの関係について、中西由起子は「CBRは、先進国の障害者のIL運動の概念に共通する」と分析し、両者は、「同様なサービスや援助を行っている。中心となるサービスの種類が異なっているだけである。」と説いている。そして、「CBRは、消費者主導の社会の動きに合わせて自然発生的に生まれたいくつかの概念が同じ方向に集合されたものと考える。その先はサービスの提供者が主役となるIL 運動である。」と、CBRの展望を分析している(中西・久野1997a, pp.118-119, p.123)。
 このようにCBRの「先に」ILを位置づける中西(1997a, p.120)は、「IL運動では、障害者がイニシャティブを取る。途上国でそれができないのは、障害者が教育や訓練を受ける機会に乏しく、意識も高まっていないので、障害者やその家族を含めた地域社会全体がCBRを推進していかなければならないからである」と、途上国がCBRに留まっている原因をそこでの障害者の意識や社会的条件の遅れに求めている。
 デビット・ワーナー(1999, p.4)は、CBRと自立生活運動を障害者にとって重要な運動としてあげ、両者を比較し、自立生活運動の長所は、障害者自身で自分たちを強め合い障害者のリーダーシップを可能とすることであり、短所は、同運動が比較的裕福な人々による運動という傾向にあり、貧しい状況にある農村部の障害者を結果として無視してしまうことだと分析している。また途上国の人々は、自身が自立して生活を営むよりも、お互いが支えあう相互依存の生活の方を大切にしているとも語っている。
 一方、CBRの長所は、農村の貧しい障害者に到達することができることとし、短所は、多くのCBRが障害者でない人たちによって運営されている点だと指摘している。
 結果としてデビット・ワーナーは、自立生活運動とCBRを統合し、双方の長所を取り入れることを勧め、彼自身はメキシコの貧しい村において障害者たちによって運営されるCBRプログラム「プロヒモ」を創始している。
筆者もデビット・ワーナーと同様に、途上国の農村部においてはCBR と自立生活運動の双方の長所を生かした活動が必要だと考える。当初、筆者は、マレーシアの農村部では自立生活運動の概念は受け入れられないのではと考えていた。マレーシアでは、一人暮らしをすることが一般的に珍しく、自立よりも相互依存を大事にし、持つ者が持たない者へ与えることが美徳とされ、強い自己主張は好まれない風潮がある。そのような文化をもつ社会では、自立生活運動の概念が十分に理解されない限り、誤解を受け、普及しにくいのでは、と考えた。
 しかし、先述のJonと参加した自立生活セミナー面接会での体験は、筆者の考えを改めるきっかけとなった。JonとはCBRについて幾度となく語り合ってきたが、彼女自身の障害の話をする機会はなかった。筆者がJonに問うこともなかったし、彼女が私に話してくれることもなかった。Jonは産まれた時から非障害者に囲まれ、彼らとほぼ同様の生活が可能な中で、敢えて障害者である自分を外に向けて伝えたり、障害をもつことを利点として活用する機会がなかった。しかし自立生活セミナー面接会の中で、Jonを含む参加者全員が、自身が障害者であることを前提に物事を考え語っていく機会を得た。面接会の公の前では彼女はあまり話さなかったし、自立の概念についても完全に同意したわけではなかったが、面接会終了後、障害者である自分のCBRワーカーとしての役割を少しずつ話しだし、最後に地域の障害者のロールモデルになりたいと筆者に語ってくれた。この出来事を通して筆者は、地域に住む障害者やCBRに関わる者が、自立生活運動の理念や、自立の概念を知る必要があると実感した。
 また、本章第1節第1項で取り上げたDilaの両親の「私たち親が知りたいのは、健康面や身体のことのみではなく、将来のために何を準備する必要があるが、どんな活動があるか、ということが知りたい。」という言葉からも判るように、障害児をもつ親は、我が子のために必要な情報を欲している。一方逆に、全く何も知らないが故に知りたいとさえ思いつかない親も存在する。そして、障害者自身も様々な情報を知りたいと思っていたり、逆に何も知らないがために「何かを知りたい」と言う欲求を持てなかったりする。ワーカーや運営委員等のCBR実施者でさえ、障害やCBRに関する情報・知識を得る機会は大変乏しい。Jonが、自立生活セミナー面接会で新しい自立の概念を知り、自身のことを筆者に語るきっかけになったように、従来とは異なる新しい考え方や方法を知る機会が、現場のCBR関係者に提供されることが必要であり、情報へのアクセスの確保が今後の課題である。
 また、本章第1節第3項で取り上げたFelda BBの障害者クラブについてだが、現在は、日々の活動の計画と実施を主体的に行うことが同クラブの主な活動となっている。同クラブが、個人が要求を発し、その要求を満たすことを可能とする組織として、また障害者仲間の代表として社会へ働きかけるような組織に発展するためには、自立生活運動の理念や手法を取り入れることが有効だと考える[19]。Felda BBのワーカーは、障害者が主体的に物事に取り組むことを理解し支援しており、障害者たちは、仲間と共に物事を進めていく楽しさを感じている。そのことを踏まえると、Felda BBのCBRには、自立生活運動の理念を導入することが可能な素地ができ上がっていると言えるのではないだろうか。ワーカーと障害者、そして周辺の人々の関係は、障害者が主体的になればなる程、大きく変容していく。自立生活運動の理念や手法が、その変容を可能にすると考える。
 次に、本章第1節第4項で取り上げたSitiraについてだが、従来考えられてきた自立の概念に沿って考えれば、彼女は自立できないことになる。従来の自立に対する考え方は、「独力で何でもできること」や「経済的に自立し、自活していること」であり、多くの人々がそのように考えている[20]。そして、ワーカーや両親も同様に考えており「Sitiraは自立できないので自分たちが守っていかなければ」と思っており、Sitiraを「できない」人だと思っている。もし、Sitiraの周囲の者が自立生活運動の理念に沿った自立の概念を知り、理解できれば、彼女の世界はもっと広がる。それは、Sitiraは「他者と同様、自分の思いを持っており、それを伝えたいと思っているし、他者との関わりを求めている」人とみなされるようになり、今まで以上に他者からの働きかけが増え、多くの刺激を得、より充実した日々を送ることを可能とする。
 マレーシアのCBRに、自立生活運動の理念を紹介したからと言って、即座に理解され、導入されるとは思わない。しかし現在のCBR活動に、新しいものとして自立生活運動の理念に基づいた自立の概念や、手法を紹介することは、CBRに関わる人々の関係性を変容させる可能性を秘めている。そして、センターに集まった障害者たちが派生的に新しい活動を始める可能性がでてくる[21]。
 まず初めに障害者と関わる人々が学ぶべきことは、どんなに障害が重くても、他者と同様、「思い」があり「気持ち」があることであり、そして、その思いを発することができるような環境づくりと、その思いを理解しようと努力することだと考える。
1986年に初めて日本に自立生活センター、ヒューマンケア協会を設立した中西正司は、「自立生活センターが、重度障害者のような自己決定ができない人に対しての対応が不十分ではないか」と意義を唱える者に対して、「支援者や介助者は、障害者が自己決定できない場合があると言いたてる前に、『どこまで自分に当事事者のメッセ
ージを受け取る能力が育ってきたか』をつねに問うべきであろう。」と説いている
(2003, p.41)。

第3節 まとめ

 本章で取り上げた実例の一つ一つは、そこで行われている全ての活動が本来のCBRの理念に沿った優れたものというわけではない。具体的には、本来のCBRが目指している「当事者となる障害者が中心となって、地域住民を巻き込みながら、活動を展開し、社会を変革していく」というものではなく、「(障害者ではなく)CBRワーカーが中心となって、まず障害者個人への対応を手がける中で、地域住民らの協力を仰ぐ」ものとなっている。そして、マレーシアCBRの特徴である「知的障害児・者を中心とし、センターを拠点としている」CBRである。
 しかし、今回の実例を一つ一つ分析する作業を通して、センターという場が、様々な意義をもたらすこと、さらに、センターという場で人々が出会うことによって、その人々の関係が変容していくことが判った。
 「公立小学校のアクセスを改善した事例」では、身体障害をもつ我が子Dilaを世間の目にさらすことを躊躇った両親が、ワーカーと出会い、DilaがCBRセンター、センターの周辺と段階を追って、家庭外の社会に出て、成長する姿を見、外の世界で集団活動・社会活動に参加する我が子の力を信じ、勇気がで、幼稚園、小学校と兄弟たちと同じ道を進ませようと考えるに至った。Dilaと両親の関係が、「障害をもった不幸な我が子と、両親」という関係から、「障害があっても他の子と同様に成長する我が子と、両親」という関係に変わった。恐らくDilaも、両親が自分を信じてくれているという気持ちを感じたのではないだろうか。そのような両親への信頼は、その後のDilaの成長に良い影響を与えたと考える。そして、これらの成功体験は、ワーカー、Dila、両親の三者の間にも信頼関係が築かれ、ワーカーは自身の仕事の在り方に自信をもち、さらにDilaがより良い生活を送ることができるよう、取り組んでいった。両親とDila、そしてワーカーの関係の変容は、Dilaが幼稚園、小学校へ入学することを可能にした。
 さらに、Dilaの小学校入学は、多くの人の関係性を変容させた。小学校受け入れに努力した人々は、Dilaの入学を成功させた仲間としての意識が芽生えるであろうし、今後も同様の問題が生じれば協力して取り組む可能性がある。また、学校生活の中でDilaと関わる子どもたちは、障害について学ぶ機会や、障害がある人と共に生活することを当たり前のこととして受け止めたり、アクセシブルな環境にすることや、必要に応じて支援することを当然のことと感じるようになる。また、Dila自身も他者との関わり方を学ぶ。子ども達にとって、Dilaは「手足が変形した見知らぬ女の子」ではなく、「クラスメート」なのである。更に、校舎改築に携わった小学校関係者、教育局行政関係者、改築工事関係者が、「どのようにすれば身体障害児が学校に通うことができるようになるか」学んだ経験を通して、障害児と学校の関係が変容していく可能性がある。
 「地域資源を活用する生産的活動を展開した事例」では、CBRセンターという場があることで仲間同士での共同生産活動が可能となった。生産活動のための材料を地域の市場で購入する中で、「障害者と非障害者」の関係が「消費者と販売者」に変わり、さらに、常に顔を合わせ知り合うことで「CBRセンターから買い物に来る〜さんと、市場で野菜を売る〜さん」の関係に変容する。時には、市場の人が食材を無料で提供することがあるが、それは「不憫な障害者への施し」ではなく、「CBR活動、または野菜を買いに来る〜さんの活動に賛同しての協力」の意味を込めたものである。
 そして、障害者が作った製品を地域で販売することで、「障害者と非障害者」の関係が、「販売者と消費者」に変わる。地域住民は、慈善事業として障害者が販売している物を買うのではなく、商品そのものが欲しいから、必要だから購入する。そして日々やり取りする中で、お互いの存在を認識する。これら一連の活動は、一般の人が抱いている「障害者は受け取るだけの受動的存在」というイメージを払拭することに繋がる。
 また、CBR関係者が素晴らしい活動を行い有名になったことで、多くの人がFelda BBを訪れ、Felda BBの名前が知られるようになった。これは、CBRが Felda BBの発展・開発に貢献していると言える。
「障害者の主体的な活動を促進した事例」では、CBRセンターが存在することで、同じ経験をもつ仲間が集まることを可能とした。同じ経験を持つことで、お互いが安心感をもち信頼感が芽生え、自身の思いを発したいという欲求を生み出す。
また、障害者同士の関係変容に限らず、障害者とワーカーの関係も変容していく。それは、ワーカーが障害者の力を目の当たりにし、彼らの力を信じ、更に、障害者同士の仲間づくりの必要性を感じるようになり、障害者のみで構成されるグループ設立を手がけた。グループを設立し目標を掲げることで、今まで同じ経験をもつ仲間と共有の時間を過ごすのみの関係から、共にやりたいことを伝え、実際にやり遂げる集団の力へと変容していく。
 「CBRセンターが、日々の目的を生み出す場となっている事例」では、CBRセンターが、家庭以外の所属の場となり、センターに通う行為そのものが日々の目的を生み出していることが判った。そのことが判り筆者のSitiraに対する見方が変わった時、Sitiraと筆者、そして筆者とワーカーや両親との関係が変容していった。今までSitiraに対してマイナス面ばかりに気をとられていた筆者だったが、与えられた状況の中で生きがいを生み出していること知った後は、彼女をたくましいと思ったのである。
 「障害者がCBRワーカーとして役割を担う事例」では、障害者がワーカーとして働くことで、自身がエンパワーされた。障害者がワーカーとなることは、他の障害者に対しより適切な支援を提供できる以外に、障害をもつワーカーと、CBRに関わる非障害者の関係が変容し、非障害者の障害者に対するイメージ、態度を改めさせることが可能となる。例えば、Jonは長年ワーカーとして働く中で、周囲と信頼関係を築き、周囲から「尊敬している」と敬意を表されている。特に上司的な存在の地区福祉事務所担当者から敬意を表されたことは、Jonにとって大きな自信となった。
 Jonがエンパワーされていくと同時に、筆者との関係も変容していき、今ではJon自身の障害のことについて話したり、障害をもつワーカーの役割について議論するような関係に発展した。
 筆者は、障害をもつ、もたないに拘わらず、人がお互いの存在を認め、関り、協力し合う関係を築くには、まず「知り合う」ことが大切だと考えている。「知り合う」ことで、相手の存在を知り、言葉や感情を交わし、触れ合い、双方の間に何らかの関係性が生まれる。そして、その関係が変容していくことに繋がる。
 CBRは、CBR活動を通して今まで出会いにくかった障害者と出会い、また障害者が今まで出会いにくかった家庭外の人と出会い、存在を知り、関わり合う中で、新たな関係が生まれることを可能とする。新たな関係が生じることで、双方の関係性を通した変革・開発が起こる可能性がある。マレーシアのCBRは、そのような場を提供した点で意義が認められる。
 一般の人々は、CBR概念の基にCBRを実施しようとする外部者とは異なり、「CBRは地域開発だから云々」などと考えず、自身の生活を一日一日過ごしていく。それは障害をもつ人も障害をもつ子を授かった親も同様で、自身や家族が、今よりより良くなるにはどうすればよいか考えながら、一つ一つ物事をこなしていくものである。
 「より良く」とは、障害者への訓練を通しての「より良く」なることだけではない。むしろ、周囲と接し関係をつくり、その関係が変化していくことで「より良く」なることが、本質的に重要である。そのような可能性を紹介したり、支援したりすることこそが、ワーカーやCBRを推進する外部者の役目であろう。

第6章 マレーシアCBRの展望 

第1節 社会福祉局の今後の計画
       ―「One Stop Center」としてのCBRセンターの役割

 社会福祉局本部は、既存のCBRセンターが障害者関連のあらゆるサービスを提供する「One Stop Center(地域サービスセンター)」としての役割を担う計画を立てている。「One Stop Center」は、障害者関連の政策を扱う四つの主な省庁である女性・家族・地域開発省(社会福祉局)、保健省(保健局)、教育省(特殊教育局)、人的資源省(労働局)が実施するサービスを連携統合して提供する拠点地としての役割を担う。町役場や県庁という一つの建物(入り口)の中に、各課の窓口がある日本と異なり、マレーシアは地方自治体レベルにおいても各行政の建物が別々であったり、同じ建物の中でも行政毎に入り口を構えているため、障害者が何らかのサービスや問い合わせ求めたい時に、行政を行ったり来たりしなければならない場合があり大変不便な状況である。もし、「One Stop Center」が設立されれば1ヶ所で事が済み、利用者にとって便利な状況になる。例えば、障害児が社会福祉局へ障害者登録し、尚かつ公立学校にも登録したい場合など複数の行政への手続きが必要な場合、「One Stop Center」が機能すれば、手続きの簡素化・効率化が可能となる。さらに、既存のCBRセンターは全国の農村部、都心部に分散しており、遠方の町役場に行く手間が省けることになる。
 また、社会福祉局本部が強調していることは、CBRセンターが「One Stop Center」の役割を担うことで、障害者への訓練・教育という既存の活動だけではなく、「情報資源センター、紹介センター、登録センター、アドボカシー(権利擁護)センター」の役割を担うようになり、より広範囲、より全般的な役割を担うようになるということである[22]。
 同計画実施の第一段階として、2005年に各州で1ヶ所CBRセンターを「One Stop Center」として選定し、2006年度から「One Stop Center」準備・実施のための予算が社会福祉局本部より各州社会福祉局へ配分されることになっている。2006年1月、選定されたCBRセンター担当公務員を集め、「One Stop Center」準備・実施のための説明会を行ったが、同説明会において、「One Stop Center」の構想・大枠は定まっているが、運営に関する詳細は全く決められておらず、各CBRセンター任せの状態であることが判った。「One Stop Center」が構想通りに機能するには、数年の期間を要しそうである。

第2節 マレーシアCBRの今後の方向性

 CBRは、社会の状況や要望に応じて活動内容を変化させる。この場合、マレーシアのCBRは、当事者であり少数派である障害者の要望に応えてきたというよりも、障害者を取り巻く関係者の要望や、関係者が障害者のために必要だと思うことに応えて発展してきたといえる。社会福祉局がCBRセンターの「One Stop Center」化を目指していることから考えられるように、「障害者のためのサービスの質の向上」は図られていくであろう。そして今後も、センターを拠点とした活動スタイルが促進されていくと推測される。その意味では、地域の障害当事者の要望がCBRの発展を直接に動かす理念からは、まだまだ距離があるだろう。
 しかし第5章で、CBRセンターが、様々な"場"として役割を担って、その場を通して障害児・者を囲む人々の関係が変容することが判った。例えば、センターという「所属の場」を持つことで障害者が日々の目的を得る;障害者が家庭から外に出て、社会に関わるきっかけづくりとして、CBRセンターが「社会参加をするための最初の準備段階の場」としての役割を担う;センターが「仲間と交流する場」となり、障害者が仲間と共に力をつけたり、障害者を取り巻く人々が「知り合い、関係を築いていく場」として機能する。更に、「その関係性をも変容させていく場」である;など、様々な機能を果たしている実態がある。
 こうしてみると、CBRセンターを通して社会と関係をもった障害者が、自身の要望を他者に伝える力をつけ、要望を発することで、CBRが障害者の要望に応えるものに変化していく可能性が、マレーシアのCBRに秘められていることが分かる。「One Stop Center」を、たとえ明示的ではないにせよ、そのように積極的に位置づけていくことは可能であろう。
 福祉社会開発を主張する一人である穂坂は、従来主張されてきたようにCBRが地域開発の一環と位置づけることが妥当であるとすれば、「障害問題をシステムの『ゆらぎ』と見て排除しコントロールする現在の開発システムに、障害者も参加できる、のではなく、『ゆらぎ』を積極的に取り込み、障害者や、彼ら彼女らを取り巻く住民、あるいは『専門家』が、障害問題を契機に、それぞれに相互作用を及ぼし、非障害者が障害者の課題を共有するとともに、障害者が他の障害者・非障害者に共感し行動していくことで各主体が変わり、諸関係が変わり、結果として『障害』という問題群の構造そのものが変化していくような、そういう『場』を設定する、というのが、私の考える福祉社会開発の課題である。CBRはそのためのアプローチであり、そこでの中心概念が相互主体性であることは言うまでもない。」と述べている(穂坂2005, pp.139-140)。
 筆者は、CBRセンターという"場"を提供したことで、障害児・者を囲む関係が変容していく可能性があると分析した。多くのマレーシアCBRが「センター内で訓練活動を行う」という、センターが単なる場所としての存在である一方で、第5章で分析した実例は、センターが、単なる場所ではなく、穂坂が説明する「共感し行動していくことで各主体が変わり、諸関係が変わり、結果として『障害』という問題群の構造そのものが変化していくような」場に発展していく可能性を秘めているものである。 CBRが達成すべき変化は、単に障害者同士や彼らを取り巻く人々が場を共有するだけで起きるのもではない。また、どちらかが一方的に働き掛けるだけで起きるものでもない。CBRプログラムが媒介となり集まった人々が、向き合い、障害問題を共有し共に取り組むことで、はじめて変化が可能となる。その時に意識すべきことは、主体的に考え行動する機会が乏しく、受動的立場にならざるを得なかった障害者が、共に障害問題に取り組む仲間となることを可能にするには、非障害者が集まる環境の中に「障害者も参加可能です」と伝えるだけでは不十分であることである。障害者が参加の意思を持ち、発言可能となるような環境を皆でつくり上げることが必須である。
 そのためには、ワーカーや家族らを中心とする周囲の者が、障害者が自身の気持ちを表現したり、意思や要望等を伝えることができるような環境を整えていく必要がある。例えば、仲間との出会いの場、仲間と過ごす喜びを分かち合う場、仲間と共に問題解決に取り組む場を設定し、それらの場を通して、自身の思いを表現する力が備わるように支援していくことが必要である。そのような環境をつくり上げることは、一人のワーカーや家族のみでは難しく、障害者を取り巻く地域の人々の理解、協力が求められる。
 穂坂(2003, p.8)は、穂坂自身の暫定的な「開発」の定義として、「ある地域に住んでいる人々が生活の維持とか改善を共同で進めるなかで、次第にその人たち自身の地域をコントロールする力が強まる、そのプロセスを開発という」と考えている。
 CBRにおいて、地域住民を巻き込んでの「障害者が主体的に行動できるような環境つくり」は、その活動に関わった人々(障害者および非障害者)の集団としての力を養い、地域全体を改善していく力へと発展していく可能性を秘めている。そこに、地域住民を巻き込む方向への今後のCBRの展望がある。

あとがき

 協力隊としてマレーシアの現場で活動していた頃は、「何かしなくては」「何か残せることを行わなければ」という焦燥感を持ちながら、しかし具体的に何をしてよいかわからないまま日々を過ごしていた。そのような中で「CBRとは何か、国際協力とは何か」ということを学ぶ機会を得、学べば学ぶ程、自身の行動に恥ずかしさを感じながらも、改善策を見つけられないまま2001年に1回目の活動を終えた。1回目の活動を終え帰国した後、国際協力について学びたい思いに駆られ、開発と障害福祉をともに学べる日本福祉大学院国際社会開発研究科に入学した。そして幸運にも再度マレーシアで活動する機会を得、現在に至っている。
 前回の派遣と今回とでは、自分自身やマレーシアのCBRが大きく変わっているわけではないが、開発の視点を用いながら考えていくことで、これまでの事柄が整理され、今まで見えなかったものが見えてくるのでは、と考え本研究を進めてきた。しかし、理論と実践の狭間で悩み、自分の思いを論文として文章化することに違和感をもち修士論文提出を諦めた時期もあった。しかし、「今より、より良くするため」に行う日々の行為とその過程を「開発」と捉え、現場の実例一つ一つを取り上げ分析することに意義があると信じ、本論文を何とか書き上げた[23]。
 筆者は同研究科を通して、「人々の関係性の変容によって、今までとは異なる新しい展開が生じる」ことの重要性を学んだ。  
 上記のような考えに至る以前は、障害者と筆者の関係は、一方向から一方向へのやり取りの積み重ねだと思っていた。筆者が障害者に何か提供することもあれば、障害者が筆者に何か与えてくれる、キャッチボールのような関係だと思っていた。
 しかし、今は少し異なる考えをもっている。キャッチボールのような、それぞれ別の場所に立ち、右から左へやり取りする中での関係形成ではなく、双方の場所や立場、あらゆるものが混じり合い、全く別の形へと変化していくものだと思っている。
 本論文は筆者の経験をまとめたものであるが、その経験は、様々な人との関わり、人々の支援、協力によって得たものである。特に、第5章の実例で取り上げたJonとは、CBRやお互いの仕事について頻繁に話をし、彼女から多くのことを学んだ。そして、本論文の完成にも彼女の多大な協力がある。
 JonとCBRについてやり取りを重ねるうちに、彼女から「あなたは障害を持っていない。障害とは何かわかるか?障害者の気持ちが理解できるか?」と問われた。 そして続けて、「障害とは何か、障害者がどのような気持ちを持つか、を考えないままに、<CBRの概念とは何か>などと考えても意味がない」と教えてくれた。この言葉は、いまも常に筆者の胸の中にある。


1 パドマニ・メンディス(1999, p.57)は、近年のCBR批判の一つとして、障害者の「消費者」としての参加が不十分なことをあげ、「障害者の参加が不十分なままであるならば、消費者のエンパワーメントというCBRの主要な目的は達成できないだろう。」と述べている。
2 (財)日本障害者リハビリテーション協会Webサイト、http://www.dinf.ne.jp/index.html、2003年10月
3 ダウンロード社会福祉局は、その後9回の省庁編成を得て、2005年現在は、女性・家族・地域開発省社会福祉局として、障害者関連政策の中心を担っている。
4 障害関連の主な政府機関として4つの省庁があげられるが、これは1981年に開催された「省庁間責任境界検討会議」にて、各省庁の役割が明確化されたことが基になっている。当時は、福祉省、国家統一社会開発省、保健省、教育省の4省庁であったが、度重なる省庁編成により、現在は、女性・家族・地域開発省、保健省、教育省、人的資源省が主省庁としてあげられる。
5 筆者が2004年5月にケダ州クリム地区で開催されたCBR講習会に参加した際に、地域診療所看護師より報告された内容を参考にしている。
6 1998年のデーターは、久野(1999c)、2003年のデーターは、PE Research Sdn Bhd.(2004a)を参
考にしている。
7 例えば、筆者が訪問した複数の障害児学級の中で、ペラ州タイピン地区やトレンガヌ州クアラトレンガヌ地区の障害児学級では、視線が合わない、意思疎通が困難、多動等の状態をもつ自閉症児を集めた学級を見ることができた。また、ペラ州イポー地区では、2003年にパイロットプロジェクトとしてマレーシア初の重度肢体不自由児(要全介助)を対象とした学級を設立し、現在3名の児童が通学している。
8 例えば、トレンガヌ州で最初に始まったCBR活動は家庭訪問が中心であったが、1999年にトレンガヌ州に協力隊が派遣され、CBRセンターを巡回した時は、CBRセンターに知的障害児を集めて彼らに色塗りやおもちゃを与えて、時を過ごす状態であったという報告を受けている。そして、肢体不自由児者の姿や、ワーカーが家庭訪問を行う姿を見ることができなかったとのことである。
9 2004年にワーカー数が倍増しているが、これはワーカー配置比率が、ワーカー1人に対し利用者7人だったものを、ワーカー1人に対して利用者5人の割合にし、ワーカーを急増させたためである。
10 2004年に予算額が倍増しているが、これはワーカー配置比率が、ワーカー1人に対して利用者7人だったものを、ワーカー1人に対して利用者5人の割合にし、ワーカーを急増させたためである。
11 例えば、社会福祉局CBR関係者やワーカー、CBR運営委員に「ワーカーはどのようなことを学びたいか、学ばせたいか」と尋ねると、多くの者が「理学療法、運動訓練」と答える。
12 例えば、ペラ州パリット地区のCBRセンターには月一の頻度で公立病院の医師が訪れている。また、スランゴール州セラヤン地区のCBRセンタには、格安料金で週一の頻度で療法士が訪れる。
13 例えば、2003年8月にペラ州で協力隊が行ったワーカーを対象としたアンケート調査の中で、「病院や診療所との協力があるか?」との質問に対し、89%(28PDKセンター中25回答)が「ある」と回答した。一方、「特殊教育側との連携・協力があるか?」との質問に対し、18%(28PDKセンター中5回答)のみが「ある」と回答した。
 また、2005年8月にトレンガヌ州で同様に協力隊が行ったアンケート調査では、「病院や診療所との
連携・協力があるか?」との質問に対し、58%(26PDKセンター中15回答)が「ある」と回答した。一方、「特殊教育の教員との連携・協力があるか?」との質問に対し、27%(26PDKセンター中7回答)のみが「ある」と回答している。
14 学校入学を拒否された理由として、頻繁に聞かれるのが「排便が自力でできない」「食事を一人でとれない」である。例えば、サラワク州ミリ地区の障害児教育学級を訪問した際、同学級教員が「児童が大便を失敗したら、即座に家庭に電話をし、母親に対応させる。それは教員ではなく親の役割だ。」と言っていた。
15 聴覚障害児の早期療育を目的としたCBRセンターが、ネゲリスンビラン州に一ヶ所のみ存在する。
16 2004年筆者が参加したCBRワーカー講習会にて、肢体不自由児への対応について話し合った際に、ワーカーより「今まで肢体不自由者に触れたことがないので、何かあったらと思うと怖い」という話や「家庭訪問に行っても何もできない。両親がワーカーに経験年数を聞いて、新任だと子どもに触れさせない。」という話がでた。
17 障害をもつワーカーで、補助的スタッフとしてではなく、Jon同様に非障害者ワーカーと同様の業務内容をこなしている(社会福祉局監督下の)ワーカーは、筆者が確認しているのは全国で4名である。久野(2003)によると5名確認されている。
18 全国自立生活センター協議会(Japan Council on Independent Living Centers{JIL})webサイト、http://www.j-il.jp/、2005年5月ダウンロード。
19 自立生活運動に関しては身体障害者の活躍がよく知られているが、理念や手法は、身体障害者に限らず、少数派・弱者として庇護や管理の下で生きてきた人々も参考にできる。例えば知的障害者の場合だと、知的障害者が集まり、仲間をつくり、用意されたガイドブックを声に出して読みながら、自身の考えを伝えたり、仲間の声に耳を傾けたりする中で、自己の障害について知ったり、自身の欲することを実行する方法を学んだり、困難にぶつかった時の対処方法を学んだりする方法がある。
 ガイドブックの例として、「自立生活ハンドブックU『わたしにであう本』援助者ガイドブック」(武居光他著、全日本育成会、1994)を紹介する。
20 例えば、2005年9月に首都クアラルンプールで行われた自立生活セミナー面接会に参加した多くの障害者が、自立とは「人に頼らず自分でできること」や「収入を得、経済的に自立していること」をあげていた
21 理学療法士として、協力隊やインドネシアのCBRにて活動した経験をもつ大澤諭樹彦(2005)は、農村社会でのCBR活動を支援していたNGOが同地域から撤退した後に農村社会で行われた活動の一つとして、CBRプロジェクトに関わった障害者によって設立された自助グループによる活動を上げている。
22 これは、社会福祉局長が委員長を務める「One Stop Center」実行委員会本部会議等の場で、局長自らが強調していることである。
23 開発の考え方については、穂坂(2003a)、穂坂(2003b)、野田(2000)、チェンバース(2000)などの文献から学んだことが大きい。


引用文献

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