タイ農村部における障害児支援について
―ナコンシータマラート県特殊教育センターでの取り組みを事例に―

東洋英和女学院大学大学院国際協力研究科
田中紗和子

2008年度 修士学位論文006S501 

目次
序章 はじめに
 第一節 問題意識 ――――――――――――――――――――――――――― 1
 第二節 途上国におけるリハビリテーションについて ――――――――――――― 2
第一章 タイにおける障害者の現状
 第一節 タイにおける障害者の統計 ―――――――――――――――――――― 9
 第二節 タイにおける障害者の生活 ――――――――――――――――――――15
 第三節 タイ在家者による仏教観と障害者 ――――――――――――――――― 21
 第四節 タイの障害者政策の変遷 ―――――――――――――――――――― 28
 第五節 タイの社会保障制度 ―――――――――――――――――――――――37
第二章 タイにおける障害児教育
 第一節 タイの教育制度 ―――――――――――――――――――――――― 51
 第二節 タイにおける障害児教育 ―――――――――――――――――――――55
第三章 ナコンシータマラート県特殊教育センター
 第一節 ナコンシータマラート県特殊教育センターの概要 ――――――――――― 61
 第二節 ナコンシータマラート県特殊教育センターの活動 ――――――――――― 63
 第三節 センターでの教育 ――――――――――――――――――――――――65
 第四節 保護者の自助グループの結成 ―――――――――――――――――― 72
 第五節 学校や家庭への訪問活動 ―――――――――――――――――――― 79
 第六節 地域でのプログラム ―――――――――――――――――――――――88
第四章 タイ農村部における障害児支援
 第一節 タイ農村部におけるCBRの有効性 ―――――――――――――――――93
 第二節 ナコンシータマラート県特殊教育センターでの取り組みの分析 ――――― 99
 第三節 ナコンシータマラート県特殊教育センターに期待される今後の役割 ――― 101
終章 途上国障害分野における国際協力
 第一節 国際協力の可能性 ―――――――――――――――――――――――106
 第二節 障害分野における国際協力の展望 ―――――――――――――――― 108
おわりに ――――――――――――――――――――――――――――――― 110
参考文献 ――――――――――――――――――――――――――――――― 112

序章

第一節 はじめに
 2004年2月、電気も通っていないタイ北部の山岳少数民族の村に約1ヶ月滞在し、村人と共に簡易水道を設置する国際協力教育・実践プログラムに参加する機会に恵まれた。当時大学で、作業療法を学んでおり、障害分野に興味を持っていた筆者は、その村で一人の耳の聞こえない老人に出会った。老人は、身振り手振りで、溝の掘り方を教えてくれた。そのやりとりの中では、耳が聞こえないということは全く問題にならなかった。言語の異なる者同士の交流であり、その場面において言葉の必要性は無かったのだから、当たり前のことではある。しかし、筆者は、その村での滞在を通して、老人は耳が聞こえないという障害は関係なく、他の村人達と変わらない一人の村人として生活しているという印象を抱いた。この出会いを契機に、山岳少数民族に限らず、農村部などで貧困や社会制度の不備など、生活のあらゆる側面において不便な暮らしを強いられている人々にとって、心身の機能的な障害は必ずしも問題になるとは限らないということを感じた。そして、その点に関して、地域の中で障害者が障害を持たないものと同様の選択肢の中で、当たり前に生活をしていくことが出来る社会の実現への大きな可能性を感じる一方、一体農村部において心身の機能的な問題は、どのような対応がなされているのだろうか、障害者は実際にどのような暮らしをしているのか、そこには何か重要な課題が潜んでいるのではないかという二つの矛盾した感情が沸いてきた。
 タイにおける障害者の生活の現状について調べてみて分かったことは、タイ国内における民主化の流れの中で、1991年には障害者リハビリテーション法が制定され、障害者登録システムができたり、1997年憲法には障害者に関する項目が盛り込まれるなど、障害分野に対する関心も高まりつつある一方で、医療機関をはじめ障害者のための設備やサービスは都市部に集中しており、農村部にまでは十分に行き届いていないという事実も未だ存在しているということである。
 また、タイに限らず、途上国の障害分野における国際的潮流として、地域に根ざしたリハビリテーション(Community Based Rehabilitation: CBR)や、障害当事者による自立生活運動(Independent Living: IL)などの手法が活発化していることが挙げられる。さらに、2007年9月には「障害者権利条約」も採択され、障害分野への関心は、益々高まりを見せている。このような近年の大きな国際的障害者支援の流れに乗って、全ての障害者に適切なサービスが広がり、障害者もそうでない人も共に地域社会の中で各々の生活を営むことができるよう支援していくことが必要である。
 以上の背景より、タイにおける障害者支援に着目するに至った。さらに、研究を進めるにあたり、2006年春に参加したFHCYアジア障害者パートナーズのスタディーツアーで訪れたナコンシータマラート県特殊教育センターでの障害児に対する取り組みが興味深いものであったため、事例として取り上げることとした。
 本論文では、まず参考文献や筆者が過去にタイへ訪れた際に見聞きしたことなどを基に、タイにおける障害者の生活の現状を明らかにすることを試みる。次に、ナコンシータマラート県特殊教育センターでの取り組みを分析する前段階として、その中でも特に障害児教育についてを、タイにおける教育システムと共に概観する。それらを踏まえた上で、筆者が2007年8月21日から24日までの4日間調査を行ったナコンシータマラート県特殊教育センターにおける取り組みの事例を紹介する。事例を通して、前で概観したタイにおける障害児・者に対する取り組みは、現実にはどれくらい機能しているのかを分析すると共に、ナコンシータマラート県特殊教育センターの取り組みが、障害児を取り巻く環境にどのような効果を及ぼし、どのような役割を果たしているのか、またどのような課題を持っているのかを明らかにする。以上を通じて、タイ特有の事項についてにも着目しながら、タイにおいて、今後いかに障害児・者支援を進めていくことができるのかを考察する。また、タイは東南アジアの中でも経済的に発展しており、障害者インターナショナル(Disabled People's International: DPI)の本部やアジア太平洋障害者センター(Asia-Pacific Development Center on Disabiliy: APCD)が設置されるなど、東南アジアにおける障害者関連活動の中心的役割を期待されている国でもあるため、タイを取り上げる意義は大きいと考える。最後に、国際的障害者支援に対する近年のうねりをさらに大きなものとしようとする時、国際機関など第3者が介入することの意義は大きいと考える。筆者自身も、作業療法士という国家資格保持者として将来障害分野の国際協力に携わっていくことを目指している。よって、今後障害分野において、どのような国際協力が望まれるかを探っていきたい。

第二節 途上国におけるリハビリテーション
 「リハビリテーション」という言葉を聞くと、日本で暮らす私達は、病気や怪我で体が動かなくなった時、麻痺を回復させたり、歩く練習をしたりなど、障害を持っている人の機能訓練を思い浮かべる人が多いのではないだろうか。これは、リハビリテーションが、障害を持っている人が機能面での最大の自立を図るための手段と考えられ、リハビリテーションセンターや総合病院、身体障害者療護施設などの専門機関で医師やセラピストなどの専門家によって実施される施設中心のリハビリテーション(Institution Based Rehabilitation: IBR)が主流となっていることの表れであると考える。しかし、世界には地域によって多様な歴史や地域性が存在するため、この方法で行われるリハビリテーションが、必ずしも有効な方法とは限らない。また、時代の変化に応じて、現在当たり前に行われている事柄に改めて疑問を感じ、分析する試みは非常に重要であると考える。
 本節では、タイにおける障害児支援について述べる前段階として、近年、盛んに議論・実践が為されている「地域に根ざしたリハビリテーション(Community Based Rehabilitation: CBR)」という途上国におけるリハビリテーションについての理解を深めたい。

1.CBRの登場
 はじめに、IBRが主流となった背景に目を向けると、そもそも農村社会の一部では、障害者はコミュニティー内の相互扶助による福祉の提供によって、地域の中で家族とともに生活をしている時代があった。しかしながら産業化が進み、農村の労働力が工場労働者として吸収されるとケアにあたる人材が地域社会から消え、施設収容の政策が導入された。さらに、第一次・二次世界大戦により大量の障害者が誕生したことにより、リハビリテーションは専門家され、特に施設収容の政策に沿って、理学療法、作業療法、特殊教育、義肢・装具の関連分野への医療リハビリテーションが拡充されてきたのである[1] 。
 しかし、途上国においてIBRのアプローチでは設備の整った施設や病院は都市部に集中しており、農村部において貧しい暮らしを強いられている人々にはサービスが行き届かない。立地や財政面から見ても、IBRでは、サービスを享受できる者は限られてしまうことが明らかになり始め、IBRは本当に障害を持つ人々のニーズに応えることができているのか、という議論がなされるようになった。そこで1970年代より登場したのが、障害者の自立を支援するために、IBRのように病院や施設で専門家がアプローチを行うのではなく、障害者の地域社会への参加を奨励し、地域の資源を利用して地域の人々が行う持続可能なアプローチであるCBRである。
 1976年、WHOはプライマリヘルスケア(Primary Health Care: PHC)[2] の中での実践を意図したCBRプログラムを採択した。また、1978年にはWHOとUNICEFによって「2000年までに万人に健康を」というスローガンが採択され、PHCがその戦略の中心とされた。WHOはPHCのアプローチを障害分野でも活かすべく、1979年に最初のCBRマニュアルとなる"Training in the Community for People with Disabilities"を発表し、試験的なCBRの取り組みが開始された。1982年にWHO試験プロジェクト評価会議が開かれ、その結果を踏まえて、CBRの有効性が広く認められ、以降CBRが急速に普及し始めた[3] 。

2.CBRの定義・目的・手法
 WHO、UNESCO、ILOは、CBRを、「地域開発におけるすべての障害者のためのリハビリテーション、機会の均等、社会への統合のための戦略である」とし、「CBRは障害者自身、家族、地域社会の共同運動、そして適切な保健、教育、職業、社会サービスによって実施される」と定義している[4] 。
 CBRの目的は、@障害者の生活の質の向上、A適正技術の移転、B地域社会の意識の向上、C障害者のエンパワーメントの4点にまとめられる[5] 。つまり、地域社会で障害者の生活の質を向上させるために経済的で実行しやすい技術を使ってサービスを提供し、また、地域社会の意識を向上させるために、障害者その家族と地域の人々を巻き込むことでエンパワーメントするということである[6] 。よって、CBRは障害者問題解決の過程を通じて地域社会の発展を図る社会開発の一つの方法であるといえる。
 それでは、CBRとは具体的にはどのようなアプローチなのだろうか。CBRへの理解を深めるためにまず、障害者支援における主な3つのアプローチについて説明しよう。
 第一に、既述のIBRは、障害者自身がリハビリテーション施設や病院などに出向いて、治療や訓練を受ける方法である。この方法では、サービスを利用できる者は、医師や専門家によって質の高いサービスを受けることができる。しかし、地理的問題や経済的問題によりサービスを利用できる者が制限されてしまうし、サービス利用者と医師や専門家という2者の関係しか成り立たず、地域社会の人々の参加を喚起することは難しい。この方法では、障害者が患者、援助対象とされるトップダウンのアプローチであり、障害者自身の主体性、権利が尊重されることはないとされている[7]。
 第2に、CBRと混同されることの多いアウトリーチ型の方法である。これは、施設や病院の専門家が直接地域に出向き、障害者宅を訪問し、治療や訓練を行う方法である。この方法では、専門家が地域社会のニーズを直接感じ、質の高いサービスを提供することができたり、地域社会の人々が活動に参加することもある。しかしながら、地域の人々は単にサービスの受け手となりがちで、実施主体はあくまで専門家となるため、地域主体の活動とは言いがたい。ちなみに、日本において最近よく聞かれる地域医療の取り組みは、アウトリーチ型の方法をとっていることが多いとされている[8]。
 最後にCBRの手法を説明する。CBRでまず重要な事は、活動の実施主体が地域の人々であるということだ。地域へ出向いた専門家は、一方的にサービスを提供するのではなく、地域の人々と共に問題を分析し解決する。その過程において、地域の人々は重要な社会資源とみなされ、障害者の自立支援についての知識を深めたり、技術を身につけたりしていく。そして将来的には、専門家がいなくても地域の人々で、地域の資源を利用することによって障害者の自立を支援していこうとする方法である。
 中西はCBRについて、先進国では教育の機会に恵まれた障害者は権利意識も強く、地域を動かす力があるので、自分達のイニシアティブで介助や住宅、交通のサービスを中心に地域社会を活性化することができるが、途上国では障害者が教育や訓練の機会に恵まれず、意識も高くないので、障害者やその家族を含めた地域社会全体がより地域開発の主体とならねばならない。よってCBRは障害者へのサービスが不十分な途上国でこそ生かされると述べている[9]。そしてこれまで、上記のWHO、UNESCO、ILOの他にもUNDP(国連開発計画)、ESCAP(国連アジア太平洋経済社会委員会)などの国連機関や多くの国際NGOなどによってCBRの活動が重要視されるようになり、アジアを中心に数多く実施されている[10]。

3.CBRの問題点
 手法が世界に紹介されてから30余年となるCBRだが、活動を支援する国連機関やNGOがひとつの障害に対する知識や技術しか持たなかったり、支援団体の性格からサービスの対象を一定の年齢層に限らざるを得なかったり、地域改革を目的としているのに団体から派遣されたスタッフや医療専門家が地域社会の力を信用せず運営を任せなかったりなど、未だ本来のCBRのレベルに至っていない取り組みがほとんどであると言われている[11]。WHOのCBRマニュアルの執筆者であるメンディス(Mendes)はCBRの現在までの実践を評価し、@CBRの広がり、展開が遅いこと、A障害者の参加が少ないこと、Bトップダウン的に行われていること、C機能回復への介入のみが中心となっていること、D人材の不足、といった問題点を指摘している[12]。また、サービスの提供場所が地域社会であるために、IBRとの比較でアウトリーチ型の医療中心の活動をCBRとみなすことが当然となりつつある。しかし、既述の通り、アウトリーチ型の活動は、地域社会は単にサービスの受け手となってしまうことが多く、IBRの場合と同様に施設や専門家が主体となって運営、監督を続けているプログラムがほとんどであるため、CBRとは区別して考える必要がある。
 このような状況を打破するために、CBRを障害者のエンパワーメントにつなげようと注目されているのが、障害者の自立生活運動(Independent Living: IL)とCBRとの連携である。障害者のCBRへの参加は、障害をもつ仲間の気持ちやニーズの把握が優れており、ロールモデル[13] となるという2つの重要な役割がある[14]。久野は「CBRは、障害分野では伝統的な方法に対する代替アプローチとして「よいもの」として推進されこそすれ、批判的に検証されることは今まで十分になされてきているとは言い難い」[15]と述べており、CBRを批判的に再検討するという視点の必要性も最近よく指摘されている。そもそもCBRの意義は、個人の機能回復ではなく、障害者が社会に完全参加すること、均等な社会参加の機会をもつことの実現にある。つまり、それらを妨げるようなものが障害であり、それらを除去するような支援と変革が社会に求められているのである[16]。
 これらの途上国における近年のリハビリテーションの前提を踏まえ、本論文では、タイに焦点を当て、CBRの有効性を分析していきたい。

第一章 タイにおける障害者の現状

 タイは日本の1.4倍の51万4000平方キロメートルの面積[17]を有する東南アジアの国の一つである。人口は、6,282万人で、その約9%の569万人が首都バンコクに住んでいる[18]。バンコクと農村部を比べると経済格差は大きく、農村部では出稼ぎも盛んで、それも含めると実際のバンコクの人口はより多くなることが予想されている。立憲君主制であり、国政の最高責任者は首相である。また、伝統的に王室に対する国民の敬意が非常に高く、各家庭や道路や店の看板には必ず王室のポスターが貼ってある。毎朝8時と夕方6時には国中に国歌が流れ、その間国民は起立、静止し国王へ敬意を払う。さらに、王室は山岳少数民族や災害後支援など、弱者支援にも力を入れている存在でもあり、様々なプロジェクトが実施されている。2006年6月9日、即位60周年を迎えたプミポン・アドゥンヤデート国王(ラーマ9世)は、特にカリスマ的な人気がある。民族構成は、タイ族が75%、華人が14%を占めるが、北部の山岳地帯などにはカレン族、モン族など数々の少数民族が存在する。国教は定められていないが、国民の約95%が仏教(上座部仏教)を信仰しており、以下、イスラム教3.8%、キリスト教0.5%と続く。全国は76の県(チャンワット)に分かれており、中部(バンコク+25県)、東北部(19県)、北部(17県)、南部(14県)の4つの地方に分けられる。県(チャンワット)の中はさらに、郡(アムプー)、区(タムボン)、村(ムーバーン)の行政区分になっている。

 本章では、第一節において障害者の統計からタイにおける障害者の置かれている状況を考察する。第二節では、タイにおける障害者が実際にどのような生活を送っているのかを探る。そして、第三節では、タイ人の約95%が信仰するタイ人の上座部仏教観と障害者の関係を考察する。第四節では1991年に制定された障害者リハビリテーション法を中心にタイの障害者政策の変遷を検証する。最後に第五節では障害者に関する社会保障制度について述べることで、より詳しくタイにおける障害者の現状を概観する。各節を通して、タイにおける障害者がどのような状況下に置かれているのかを浮き彫りにしていきたい。

第一節 タイにおける障害者の統計
 タイにおける障害者に関する統計は、未だ不十分であり、統計相互にもかなりの隔たりが見られる。特に地方では、障害者を世間的に隠そうとする社会的風潮や、障害に関する知識が無いために障害者の存在が明るみに出てこないことなども考えられ、障害者の実態把握は遅れていると言わざるを得ない。例えば、タイ統計局(NSO: National Statistical Office)の調査では、障害者の占める比率は、1991年にタイ総人口の1.8%、1996年に1.7%であるのに対して[19]、公衆衛生省の全国公衆衛生財団(NPHF: National Public Health Foundation)が、タイの5歳以上の国民を対象とした健康診断に基づく1992/93年の調査では、総人口の約8.1%の480万人と統計によって障害者の数が相違している[20]。ちなみに、NPHFの数値は、WHOが発表する世界人口の約1割という障害者人口の推計に近い値であるといえる[21]。
 このようなタイ国内の調査結果の大きな差異は、基準となる概念や定義の分類の不足、特別な見本となるフレームの不足、医療知識を有する調査者の不在が反映している。また、調査者は障害者にインタビューをするために専門的な言語を訓練する必要があり、障害者への質問が、さまざまな目的によるものや、機関によって比較するための基準がないことなどの原因が考えられる。NSOは、概念や定義、分類を見直したり、調査方法を開発したり、いくつかの主な調査利用者と協力したりすることで、これらの問題を克服しようと試みた。その結果、最初の独立した障害者調査が2002年に実施された[22]。この調査は、5年ごとに定期的に行われることとなっている。主な調査利用者としては、保健省、社会開発・人間の安全保障省、シリントンリハビリテーションセンター、ラチャシダー財団、障害者インターナショナル・アジア太平洋地域などがあげられる[23]。

1.タイの障害者数
 タイ統計局(NSO, National Statistical Office)は、タイで最初の障害者のデータとして1970年の人口住宅国勢調査を採用していた。しかし、1974年以降は、1976年、1977年、1981年、1986年、1991年、1996年、2001年と保健福祉調査によるものを採用している。表1-1は、その調査結果を示したものである。

表1-1 障害者数と障害者割合の変遷                  (単位:千人)
人口 障害者 障害者割合
1970 年人口住宅国勢調査 34,397.4 142.2 0.4%
1974年保健福祉調査 39,796.9 209.0 0.5%
1976年保健福祉調査 42,066.9 245.0 0.6%
1977年保健福祉調査 44,211.5 296.2 0.7%
1978年保健福祉調査 45,344.2 324.6 0.7%
1981年保健福祉調査 47,621.4 367.5 0.8%
1986年保健福祉調査 51,960.0 385.6 0.7%
1991年保健福祉調査 57,046.5 1,057.0 1.8%
1996年保健福祉調査 59,902.8 1,024.0 1.7%
2001年保健福祉調査 62,871.0 1,100.8 1.8%
出所:National Statistical Office, Ministry of Information and Communication Technology,1970〜2001年のデータを基に筆者作成。

 表1-1によると、1986年から1991年の間に障害者割合の増加が見られる。これは、1991年の障害者リハビリテーション法が制定され、障害者登録制度 [24]が始まったことに起因する結果であると考えられる。しかし、1991年以降は再び変化が見られていない状態が続いている。2002年に始まった障害者調査の成果が待たれる。
 ちなみに、障害者登録制度における登録障害者数は、1998年の181,485人[25]から、障害関係機関による障害者登録の呼びかけの成果もあり、2003年には343,526人[26]と増加している。しかしこの数値は、2001年の障害者数から見ても、全体の障害者数の3割程度に留まっている現状を示している。障害者登録が進まない原因としては、登録に関する情報自体が十分に広まっていないこと、農村部など障害者登録に行くまでのアクセスが悪く知識はあっても登録に行けないこと、知識はあっても登録によるメリットが感じられないことなどが考えられる[27]。

表1-2 障害者総数と人口比率                               
合計
人口合計 62,821,000 31,328,400 31,542,600
障害者数 1,100,761 1.80% 657,769 2.10% 442,922 1.40%
バンコク 77,444 7.00% 50,144 7.60% 27,300 6.20%
その他の地域 1,023,317 93.00% 607,625 92.40% 415,622 93.80%
出所:Report of Disabled Persons Survey 2001, National Statistics Office,2001年のデータを基に筆者作成。

 表1-2によると、障害者の性別差は認められない。タイにおける障害者の7%がバンコクに在住していることになるが、タイ総人口の約9%がバンコクに住んでいる点を考えると、ほぼ変わらない割合と言えるだろう。

2.年齢別障害者数

表1-3 年齢別障害者総数
0−14歳 15−24歳 25−59歳 60歳以上
障害者人口 96,469
8.8%
143,628
13.0%
520,576
47.3%
340,079
30.9%
1,100,752
100.0%
出所:Report of Disabled Persons Survey 2001, National Statistics Office,2001年のデータを基に筆者作成。

図1-1 表1-3の図式化

出所:Report of Disabled Persons Survey 2001, National Statistics Office,2001年のデータを基に筆者作成。

 参考までに、2005年のタイの年齢別人口を見てみると、0-14歳が22.0%、15-64歳が70.0%、65歳以上が8.0%となっている[28]。図1-1と比べると0-14歳は人口全体における割合が22%であるのに対して、障害者全体における割合は約9%と低い。これは、障害児の早期発見が難しい状況であること、重度の障害を持つ児の生存率が低くなっていること、また逆に医療技術の進歩によりポリオなど障害をもたらす病気の予防が進んでいることなどが原因として考えられる。高齢者の割合は65歳以上と60歳以上で若干統計は異なるが、人口全体における高齢者の割合8.0%に対して、障害者全体における割合は30.9%と高い。これについては、医療技術の進歩などタイでも問題となってきている高齢化による影響も考えられる。

3.障害種別障害者数
表1-4 障害種別障害者数とその比率
障害種 合計
肢体不自由 512,989 46.6%
聴覚・コミュニケーション障害 240,904 21.9%
知的障害・学習障害 222,004 20.2%
視覚障害 123,157 11.2%
精神・行動障害 81,262 7.4%
出所:Report of Disabled Persons Survey 2001, National Statistics Office,2001年のデータを基に筆者作成。

図1-2 表1-4の図式化

出所:Report of Disabled Persons Survey 2001, National Statistics Office,2001年のデータを基に筆者作成。

 障害種別割合では、およそ半数の46.6%が肢体不自由で最も多い。さらに聴覚・コミュニケーション障害、視覚障害を合わせると、79.7%と全体の約8割を身体障害が占めることになる。比率の低さの理由として、精神障害や知的障害の領域は、目に見えにくい障害であるため、身体障害に比べて専門家も少なく診断が難しく、偏見など障害そのものに対する認識が低いことなどが考えられる。
 参考までに、平成18年度版障害者白書[29]より同時期(2000〜2001年)の日本の障害種別割合を紹介すると、身体障害者が351.6万人で障害者人口の49%で、精神障害者が258.4万人で43%、知的障害者が45.9万人で8%となっている。タイの統計と比べると、精神障害者の割合が非常に高い。これらの数値の相違は、タイは未だ統計の整備が不十分である点、日本とタイの社会的背景も異なるなどの理由が背景にあると思われる。

第二節 タイにおける障害者の生活
 本節では、タイにおける障害者が実際にどのような日常生活を過ごしているのかを、主に視覚障害者の就業状況を通して概観する。第一に、タイにおける視覚障害者の代表的な職業となっている「宝くじ販売」と「マッサージ」をとりあげる。次に、その他の職業も取り上げながら、タイにおける障害者に対するサービスの欠如や地域格差などの問題を抽出していきたい。
1.宝くじ販売[30]
 タイでは、宝くじが貧しい層から豊かな層まで国民に広く親しまれており、観光客が寺院やマーケットなどで、宝くじ販売を目にする機会も多い。
 タイでは、1991年障害者リハビリテーション法に基づいて、障害者リハビリテーション基金が設立された。この基金は、政府の助成金、割当義務の不履行に関連した事業主の拠出金、民間からの寄付およびその他の収入から構成されている。障害者への援助の実施および提供によって発生する費用に対する資金提供を目的の一つとし、障害者の自営業の促進も目論まれている[[31]。
 この基金による融資の最初の5年間の運用では、販売活動に対する案件が最も多かった。さらに、承認された融資全体の45%が、販売活動に関連したものであった。販売業には、食料品、青果、衣料品などが含まれるが、その中で最も多いのが宝くじの販売である(表1-5を参照)。
 宝くじ販売の仕事は、政府から販売価格の9%引きで仕入れた宝くじを市街で販売する仕事である。特にタイの視覚障害者にとって伝統的な職業となっており、約2,000人の視覚障害者が働いている。視覚障害者以外でも、車椅子上で宝くじ販売をしている身体障害者を目にする機会も多い。割引価格で仕入れできる人数が限られていること、売れ残りが出た場合はその損失を自己負担しなければならないこと等の問題もあるが、宝くじ販売だけでかなりの収入を得る人もいる。障害者の場合でも、多い人だと月に約5万バーツの収入があり、その額はタイ公務員の一番高い給与に相当する[32]。

表1-5 障害者リハビリテーション基金―1997年12月までに承認された融資の事業活動
事業 活動の種類 融資に占める比率 (%)
販売業 45
宝くじ 22
食料品 11
青果、玉葱 6
衣料品、アクセサリー 3
その他 3
農業 34
養豚 11
家禽 8
米、農作物 7
牛の飼育 5
2
その他 1
自営業 21
婦人服仕立て 4
機械修理 4
電化製品修理 3
線香作り 3
理髪業 2
文書処理 1
その他 4
合計=5,373 100
出所:日本障害者雇用促進協会障害者職業総合センター編「アジア太平洋地域の障害者雇用システムに関する研究」2003年9月、43頁より筆者作成。 

 またタイ人の約95%が仏教徒であり、障害者を援助することや、金銭的な施しを与えることなどの慈善行為が、自らの功徳になると信じられているという点も、障害者の宝くじ販売と大きく関係している。なぜなら、障害者から宝くじを購入する行為で功徳「タンブン」を積むことができると考えるからである。他方、障害者の立場からは、たとえ職業リハビリテーションセンターを卒業しても、大学を卒業していても、障害を理由に良い仕事を見つけることができない。そのため、雑踏の中での販売等危険が伴ったとしても、宝くじ販売を選択せざるを得なくなるケースも多いと聞いた。これらの背景もあり、障害者にとって宝くじ販売は収入を約束される代表的な職業の一つとなっている。

 その事実を反映する出来事として、1999年9月に、政府が宝くじ販売のオンライン化を提案したことに対し、視覚障害者団体が抗議運動を展開した結果、提案そのものを撤回させたという出来事が挙げられる。この出来事は、宝くじ販売で生計を立てている視覚障害者の生活問題と密接に関連している。この件に関して、宝くじ販売をオンライン化した分の利益を、障害者福祉のために運用するよう働きかけるという方法も考えられるが、保障などの支援ではなく、障害者の僅かな自立生活の可能性として宝くじ販売が重要な役割を果たしているのだろう。しかし一方で、中西由起子などは、このような仕事があることが却って若い障害者の新たな職域に挑戦しようという意欲を減退させていると危惧している[33]。筆者は、障害者の職域が非常に狭く、障害者自身が自分たちの可能性を適切に判断できる状況に無いことが問題であると考える。まずは、障害とは直接関係の無い人々も含めたより多くの人々が障害者についての理解を深め、障害者の生活における選択肢が広がれば、障害者自身が自らの能力に自信を持つことができ、新たな生き方に対する意欲の向上につながるのではないだろうか。
 
2.マッサージ[34]
 マッサージの仕事は、1957年に視覚障害者に有望な仕事として、バンコク盲学校にコースが設けられた。マッサージ業は、視覚のハンディとはかかわり無く、卓越した触察技術[35]に依存する職業である。社会貢献性も高く、触覚に優れる者が多いとされる視覚障害者の自立の手段として有用とされ、日本においても歴史的に視覚障害者の自立を支える職業となっている職種である[36]。その後、1980年代からの養成コースでは、タイ式マッサージ[37]が指導されており、中等教育を終了した視覚障害者の多くがこの仕事に従事するようになった。筆者もバンコクにおいて、視覚障害者が開業しているマッサージ店を訪れたことがある。そこは、視覚障害者3名で資金を集めて開業している。そのマッサージ店は、近隣に住む人々が利用する屋台や店が集まる小さな商店街に位置しており、観光客向けではなく、地域の人々が利用するマッサージ店という感じである。彼らが買い物に行く際、屋台の店主とおしゃべりをしたり、地域の人々と上手く共生している様子を窺うことができた。タイ式マッサージは、国家試験に基づいた免許は存在しない。よって、アクセシビリティーや周囲の無理解などのために、教育や社会参加の機会を得ることが難しい状況にある障害者にとって、比較的バリアの低い職種と言えるのかもしれない。
 タイ式マッサージ師の養成については、タイ視覚障害者財団(Foundation for the Blind in Thailand)、キリスト教視覚障害者財団(Christian Foundation for the Blind)、コーフィールド視覚障害者財団(Caulfield Foundation for the Blind)、視覚障害者雇用促進財団(Foundation for the Employment Promotion of the Blind)、タイ盲人協会などの団体が視覚障害者に訓練機会を提供しているが、1999年からは、タイ視覚障害者協会が社会福祉省と連携して、全国26県で講習会を開き、この年だけで500人の視覚障害者が講習を受け、それぞれの地域でマッサージ師として働けるように指導を始めている。

3.その他の職業
 その他の職業として、電話交換、コンピュータ・プログラマー、工場労働、または高等教育修了者の仕事として、盲学校その他の学校における教員の仕事などがあげられる。
 法的には、1995年に労働社会福祉省が、障害者の雇用割り当て制度として障害者雇用率は200名に1人(0.5%)と定めた「身体障害者の社会復帰に関する1991条例」を発令した。当条例に違反すると年に約4万バーツを身体障害者社会復帰基金に寄付することが義務付けられた。また、障害者を雇用している企業に対しては、障害者に払う賃金の2倍額の税金控除を受けられるというインセンティブが与えられた[38]。しかし、1995年の条例では障害者雇用をしていない企業に関して何の罰則も課せられたいため、障害者を雇用している企業の数は未だ少ない[39]。企業側は、障害者の雇用に消極的な理由として、身体障害者がどのような職種なら作業可能なのか、障害者用のトイレを設置するためのコストはいくらか、障害者を雇用することで得られる利益は何か、などの情報がほとんど得られないことなどが回答として挙がり、身体障害者の雇用よりも寄付金を支払う傾向があるようだ[40]。その他にも、障害者が就職できない理由として、スラペ[41]は「身体的な障害」、上記のような「企業主の消極的な態度」職業の求人のほとんどはバンコク近郊であるなど「通勤の困難」、障害者のほとんどが必要な教育や技能を持っていないために、企業へ労働力を提供できないなど「低い教育程度」、「技術水準の低さ」の5つの要因を指摘している[42]。
 またタイでは、公共福祉局が、障害者職業訓練センターを全国に8校運営している[43]。8校はそれぞれ、コンケン県(東北部)、チェンマイ県(北部)、ナコンシータマラート県(南部)、ロッブリー県(中部)、サムットプラカーン県(バンコク)、ノーンカーイ県(東北部)、ウボーンラチャタニー県(東北部)に2箇所と、全国に散らばっているものの、センターのサービスを利用できる障害者は、まだ僅かであると言わざるを得ない状況である。
 それでは、農村部で生活する障害者など、職を見つけることができない多くの障害者はどのような生活を送っているのだろうか。その一つの選択肢として、物乞いがあげられる。前述の宝くじ販売の際にも触れたが、タイでは障害者に金銭を施すことで徳が積めると考える人々がいるおかげで、労せずに稼ぐことができる職業としても物乞いを選択する障害者もいる。例えば、チェンマイのナイトバザールなど繁華街に毎日通ってきて、歩道に座り込んでいたり、カラオケを唄ってバザー内を歩き回ったりと様々なスタイルでお金をもらっている。しかし、物乞いもまた人が集まるからこそ成り立つものである。他の多くの障害者は、十分な支援も得られず、またたとえ教育を受ける機会に恵まれても、周りの人々からの偏見の残存や障害者が働ける環境の未整備などのために、働く機会や場を得ることができず、農業、林業、漁業など家族と共に暮らしていることが考えられる。例えば、筆者が訪問したタイ南部ナコンシータマラート県の視覚障害のある11歳の女児は、障害児教育センターの職員がその存在を発見するまで、10年もの間自宅の離れで日光も浴びず、ただひたすら寝かされていたという。
 これらのように、タイでは障害者のための支援が始まってはいるものの、そのサービスの恩恵に預かれるのは、まだ一部の障害者であるといわざるを得ない。さらに、就労の機会からも分かるように、サービス提供はバンコク周辺に偏っており、農村部まで行き渡っていない。バンコクと農村部の経済格差が大きいタイにおいては、例えば、富裕層の多いバンコクでは、病院やリハビリテーション専門施設での高度な医療や技術を有するサービスを受けることが可能となるかもしれないが、農村部では病院やリハビリテーション施設が近くに存在しなかったり、存在してもそこまで行く手段が無かったり、貧困のため利用することができなかったりする可能性が生じるため、それぞれの地域によって支援の仕方も異なることが予想される。

第三節 タイ在家者による仏教観と障害者
 タイは、国民の約95%が上座部仏教を信仰している仏教国である。タイへ足を運ぶと、寺院(ワット)が数多く存在し、黄色い衣をまとった僧侶(プラ)や少年僧(ネーン)をよく目にする。旅行途中、托鉢のため村内を巡る僧侶に食料を施した経験のある者も多いのではないだろうか。この僧侶(プラ)や少年僧(ネーン)は、村人にとってほとんどが顔なじみの身内であり、仏教はタイ国民にとって大変身近な存在となっている。日本も仏教国と言われることがあるが、日本人にとって「仏教」とは、お葬式、お墓、仏壇、法事の時お世話になるお坊さんなど、先祖の供養に関するものばかりである。「仏教」という呼び名は同じでも、日本人の中にある「仏教」とタイ人の中にある「仏教」は、その役割が異なるものと考えるべきことも多い「[44]。そして、タイにおいて仏教は、障害者福祉にも大きく貢献している。     第三節では、タイ人の仏教観と障害者との関係について、主として石井米雄著『タイ仏教入門』を参照しながら考察する。

1.タイの仏教
 タイでは、上座部仏教という出家者中心の保守派仏教が、国教に準じた地位を与えられて、繁栄を謳歌しているが、果たして上座部仏教とはどのようなものなのであろうか。石井は、「おのれこそが、おのれのよるべ」、自己を救済する者、それは、自己をおいてほかにいない。万物を想像し人間の運命を支配する神は不在である。だから、まず、おのれをととのえることから始めよう。たゆまず自己練磨しよう。それこそが、まことの救いの道なのである。という徹底した合理主義が、ブッタの教説の基本であり、上座部仏教の原点であるとしている。ここでは、生は苦、老も苦、病も苦、死も苦、憎む者に会うも苦、愛する者と別れるも苦、求めて得ざるも苦、人間の生存はすべて苦に満ちている。つまり人世を、苦と感ずることに原点があり、「苦」にみちた現実を離脱するのは、自己であるということである[45]。
 また石井は、上座部仏教は、エリートの宗教とマスの宗教という二種構造を持つ宗教であるとしている[46]。エリートの宗教とは、特権的な出家者のみに救いを約束する理知の宗教を指す。この出家エリート達は、サンガという成員の利益を結合の契機とする利益集団を組織する。彼らは、自己の救い(解脱)を目的とし、ブッダの教えに基づき修行に励む存在である。そして、そのことによって、サンガは、ブッダの教法の保存者、伝承者としての機能をも果たす[47]。
 一方、マスの宗教とは、理知的なエリートの宗教の対極の人間の体臭にみちた宗教とされる。民衆は現世の幸福を追求する。現実を苦と感じ、この苦からの脱却を教えるブッダの教説は、彼らにとっては別世界に住む修行者のための深遠な哲理と感じられている。彼らの関心事は、とりすました人格者となることではなく、まめに暮らすこと、金を儲けること、出世すること、総じてこの世の幸せを得ることである[48]。
 エリートの宗教とマスの宗教。この二つの間には、共生の関係がある。民衆の宗教にとって、サンガはいっさいの宗教的行為の源泉である。人はサンガのなかに仏教を見出し、サンガを仏教のよりどころと考えるからである。このように、上座部仏教は、出家者と在家者という全く編成原理を異にする二つの信仰者群によって支えられている[49]。

2.タイの民衆の生活と仏教
 次に、タイの民衆の生活において仏教は実際にどのような存在であるのかを考えていく。在家者と仏教に関して石井は、「タイにおいて仏教は、単に僧院の繁栄があるばかりではなく、民衆の生活のすみずみにまで浸透し、社会的価値を深く溝づけしている」[50]と述べる。 
 前項では、上座部仏教の原点には「苦」があると述べた。しかし、タイの民衆は、果たして現在を「苦」と感じているのだろうか。タイの観光紹介で「微笑みの国」というキャッチフレーズを目にすることがあるほど、タイ人はニコニコとしていて明るい人柄というイメージがある。筆者自身も、タイを思い浮かべると、人々の幸せそうな笑顔がすぐに出てくる。例えば、タイに滞在していると、タイの人々は知り合いでも、知り合いではなくても、近くにいる人やお店の人と楽しそうに会話をしている光景をよく目にする。それを思い返してみても、やはりタイは「微笑みの国」だと感じてしまう。そこに「苦」を感じることは難しい。
 また、「タンブン」についても触れておく必要がある。タイの民衆は、現世における幸福の度合いを「功徳」(ブン)の大きさとの相関としてとらえており、タイ人にとって「功徳」(ブン)の大きさは、非常な関心事である。タイには、「タムディ・ダイディ、タムチュア・ダイチュア」という対句がある。これは、「善行をなして善果を得、悪行をなして悪果を得る」という因果応報観を示す言葉である。ここで、「タムディ・タムチュア」(善行によって善果を得る)の節を抽出し、以下、石井の言葉を引用する。

「ブン」とは、神によって与えられるものではなく、みずから生み出すところのものである。「ブン」を「生み出す」行為、それが「タンブン」なのである。「タンブン」によって「ダイブン」(功徳)を得ること、これがタイにおける民衆の宗教的行為の支配原理である。「タンブン」の宗教とは、創造の宗教だ。それは、みずからの運命をみずからが支配する可能性を教える希望の宗教である。苦しみから解脱するという消極的なものではなく、「ブン」を築き上げ、積極的に幸福をつくりだす道を教える宗教なのである[51]。

 以上の石井の解釈を鑑みると、タイの民衆の関心は、「苦」からの解脱というよりも、今、現在の幸福にあると捉えることができるのではないだろうか。と同時に、現在の幸福のために、民衆にとって「タンブン」が非常に重要な意味を持つということができるだろう。
 それでは、「ブン」はどのようにして得ることができるのだろうか。その第一は、寺院(ワット)の建立である。タイではある程度の大きさの村には必ず寺院(ワット)がある。寺院は、農民の生活の中心だ。かつては、それが学校であり、病院であり、簡易法廷であり、集会場であり、そして旅人の安全な宿舎でもあった。村に新しい寺院ができる時や寺院の修復をする時など、村人は喜んで労力を提供し、時には多額の財産を寄進するのである。なぜなら、これによって得られる「ブン」ははかり知れぬほど大きいと彼らは信じているからだ[52]。
 もう一つ、出家すること自体も大きな「タンブン」となる。出家は、出家者自身のみならず、出家という行為によって、他界した出家者の父母の死後の運命に良い影響をもたらすという考えや、出家という行為に関わる全ての人々が、それぞれの貢献度に応じた「ブン」を得ることができるという側面も持ち合わせている。そういうわけで、僧侶をもてなすことは、民衆にとって最もポピュラーな「タンブン」となっており、民衆は、托鉢の際はもちろん、直接寺院に金銭の布施、食事のご馳走、横衣、衣の染料、石鹸、歯磨き、用紙類など、僧侶の日常必需品をあわせて供養したりもする]53]。筆者が訪れた村の寺院にも、小さな仏像や古い時計、人形等々、村人が持ってきた品々が供えてある一角があった。
 また、民衆にとって「タンブン」とは、広い意味で「善行」、つまり人に親切にしたり、孤児院に寄付をしたりなど慈善行為全般が含まれる。この中では、物乞いに金銭を施すことも「タンブン」の一種と考えられる。このような状況について関は、「現代のタイ語で使われるタンブンには宗教的な意味が薄れているように見える」[54] と述べている。筆者自身、タイ人と接していて、「良いこと」をして「ブン」を積むという意識よりは、困っている人や可哀想な人がいたら助けるといったような「助け合い精神」がタイの人々に根付いているのではないかと考える。また タイ人にこのような精神が根付いている点については、弱者支援に力を入れ、国民からの信頼の篤い王室の影響も大きいのではないだろうか。
 物乞いに関する興味深い点は、石井が、「托鉢という行為が在家者に「タンブン」の機会を与えるために僧の方からわざわざ出向いてゆくのであって、物乞いをしているのではないという思想を端的に表現している」[55]と指摘していることだ。この思想は、前節で述べた物乞い生活をしている障害者の問題にも関係する。
 最後に輪廻転生の思想について述べる。これは、人間の生存は、この世で終わるのではない。人は生まれ変わり死に変わりして、とどまることがないということを意味する。石井は、タイの民衆と輪廻転生の思想について、「現在の生存の状態は、過去の無数の生存における『帳尻』の総和としてある。よってこれは、現実の状態の説明原理として用いられる場合には、一種の宿命論と考えられよう。しかし実際には宿命特有のあの暗さが全く希薄なのである。それというのは、『ブン』の蓄積によって、自己の運命を現世においてさえもある程度変えることができるという希望的楽観論が、その底に流れているからであろう」 と述べる。

3.タイにおける仏教と障害者との関係
(1)タイにおける社会福祉活動の始まり
 既述の通りタイでは、寺院(ワット)が農民の生活の中心であり、弱者支援においても重要な役割を果たしてきた。
 タイでは、社会福祉活動は仏教によって始められたといわれている。13世紀、スコタイ時代の王達が近隣諸国から僧侶を招き、仏教を広めさせた。次のアユタヤ時代の僧侶達は、仏教の修行と実践を通じて慈善活動を行なっていった。彼らは弱者救済をはじめ、教育、医療など、民生分野の活動を寺院を中心に進めた。寺院は地域の福祉センターの役割を果たすようになり、人々が「タンブン」に励むことが推奨された[57]。
 タイにおいて寺院や僧侶は、2008年現在でも村人に親しまれ、信頼され、身近な存在である。寺が障害者リハビリテーションの先駆的実績をあげている好例として、野中はワット・スアンケーオを取り上げている。この寺にはプラ・パヨームという有名な僧侶が住職をしており、土日になると、遠方からも信者が説法を聞きにやってくるという。その信者達のタンブンをもとに、寺はそこに住み込んでいる人々のために様々なプロジェクトの実践を始めた。そこには、家の無いもの、障害を持ったものなどが集まるようになり、2008年現在、寺の中に保育園まであるという。さらに、寺が大きな農園も保有していて、そこでは精神障害者のグループが畑作業や土台づくりなどをしているとのことである[58]。
 また、2007年に筆者の訪れたナコンシータマラート県特殊教育センターでも、遠方で研修を行う際、地域の人々に親しみがあり、その地域の村民の僧侶に対する信頼も篤いということで、研修の場として寺院が利用されていた。その村では、センター主催の研修だけでなく、障害者家族の会の集まりも寺院で行っているとのことである。また、そこの寺院はスパなども行っており、弱者支援の場というだけでなく、広く村民から親しまれている場所でもある。

(2)障害者の自立の弊害としての慈善行為
前述のようにタイでは、可哀相な障害者を援助することや、金銭的な施しを与えることが自らの功徳に繋がると考える。また国民から多大な支持を得ている王室が進んで弱者支援を行う存在でもあるため、慈善行為に励むことが推奨され、国民に浸透している。そのため、福祉施設などでは、会社や個人など様々なレベルから集まる寄付が大きな財源の一つとなっている。慈善行為は、優しさの表現の一つであり、その結果、第二節でも紹介した「宝くじ販売」や「物乞い」によって障害者の生活が成り立っていることも事実である。
 しかし慈善行為は一方で、障害者の自立への弊害になるという側面も持ち合わせている。哀れな障害者観を利用することによって、障害者は人々の同情や哀れみを簡単に勝ち取ることができる[59]。一般市民は障害者を哀れみや慈善の対象としてしか見ることができなくなると同時に、障害者自身にとっても、労せず稼ぐことができたり、「障害者の職業=宝くじ販売」などの構図が一般化する事によって、新たな職域に対する意欲の低下や、障害者の生活における選択の幅の未発展に繋がることが考えられる。慈善が、ただ受けとるだけの、自分の生活を形造るプロセスに参加しない者へと障害者を変えてしまう[60]。そのような状況においては、障害者は慈善の対象から脱することは困難である。

 また、中西や石館の論文でも述べられているように、因果応報観や輪廻転生の思想からも、障害者に対する矛盾した態度が生まれていることが考えられている。これらの思想のもとでは、人は生まれ変わり留まることがなく、障害は前世で悪いことをした結果とみなされる。そして、障害者であることを運命付けられた人は、その運命を受け入れなければならなくなっている。その結果、周りの人々は、障害者を哀れんで過保護になり甘やかすか、全く無視して差別するかのいずれかの態度をとるというものである。後者の態度のもとでは、障害児を持つ事ことによって家族、特に母親の立場が大変不利になることもある。そのため、家族は障害者がいることを恥じ、隠そうとすることに繋がってしまうのである[61]。
 これらの宗教観が障害者の置かれている状況に少なからず影響を及ぼしていることは確かであろう。しかし、なぜこれらの考えが維持され続けているのかを考える時、特に現世が全てであるタイにおいては、障害に対する無知も、これらの状況の大きな原因となっていると考える。障害の原因は前世にあるのでは無いこと、障害があっても一人一人がそれぞれの形で生活していく能力があることを知れば、障害者を取り巻く状況は改善していくのではないだろうか。実際、筆者の行った障害児を持つ母親達へのインタビューにおいて、特殊教育センターができ、そこの先生と出会うまでは、自分の子供とどのように接すれば良いのか分からなかったし、自分の子どもが文字の読み書きができるようになったり、学校へ通うことができる可能性があるとは思わなかった、などという声が多く聞かれた。また、ある家庭訪問先では、父親が「寝かせておけばよいと思っていた」とのことで、特殊教育センター職員がその家庭を訪れるまで、10年もの間、家の離れでひたすら寝かされて育ったという子どももいた[62]。このように、障害者が生活の幅を広げていくためには、アクセシビリティーの改善や法整備などはもちろん、障害者に対する適切な理解や知識を普及させる環境を整えていくこともまた、非常に重要な点である。

第四節 タイの障害者政策の変遷
 タイの障害者政策は、タイ国内では民主化の動きと、国際的な障害者支援の潮流に影響を受けながら発展してきた。

1.タイにおける弱者支援の始まり
 タイは、1932年の立憲革命により専制君主制から立憲君主制へと移行し、これが起点となり、民主化が進んだ。さらに、1945年の第二次世界大戦後は、議会制民主主義も実現した。1950年代のタイは産業化、都市化も著しく進んだ。
 社会福祉に目を向けると、この間の1941年、弱者救援法として「乞食統制法」が制定された。当法により障害者に対する援助がタイで初めて法的に規定された。また同年、同法に基づき「障害者ホーム」が開設されたが、単なる収容施設と位置づけられており、障害者の社会自立を目的とするような、積極的なサービスの提供は行われなかった。従って、それ以外の一般の障害者に対する福祉的サービスの提供は、専ら民間の慈善事業団体等に委ねられてきた[63]。
 その後、1970年に障害者の実態調査が行われ、73〜76年にリハビリテーションプロジェクトが実施され、その期間中である74年には聞き取り調査が、76年には内閣の諮問機関として「障害者の社会復帰と福祉に関する委員会」が設立されている。これら一連の動きが79年のリハビリテーション法草案の作成に繋がったようであるが、当時この草案は内務省の承認を得るには至らなかった[64]。
 一方この間の国際的な障害者支援の流れに目を向けると、1971年に国連は総会で「知的障害者の権利宣言」を、また1975年の総会で「障害者権利宣言」を出し、1981年を「国際障害者年」と定めた[65]。この国連の一連の決定において、障害者の権利の重要性に関心が向けられるようになると共に、国際社会において障害者問題への意識が喚起されるようになってきた[66]。また、「国際障害者年」を機に、身体、知的、精神など、障害の種別を超えて自らの声を持って活動する障害者当事者による国際NGOである障害者インターナショナル(DPI)も設立された[67]。この「国際障害者年」はタイにおいても契機となり、タイでも障害者施設の建設が始まった。
 1983年国連は、「障害者に対する世界行動計画」[68]を発表し、さらに、1983年から1992年までを「国連・障害者の10年」として「障害者の機会の均等化の実現」に向けて積極的な姿勢を打ち出した。また、「国連・障害者の10年」の行動計画「障害者に関する世界行動計画」の中で、勧告の一部としてCBRの実践が奨励された[69]。この頃タイでは、タイ全国障害者評議会の設立など、障害者団体の組織化と障害者運動が活発化し、再び障害者リハビリテーション法制定の要求も始まった。また、1985年にはJICAの支援により「労災リハビリテーションセンター」も設立された。

2.「障害者リハビリテーション法」の制定
 1986年、総選挙で第一党となった「タイ民族党」のチャートチャ―イが首相に就任した。チャートチャ―イ政権は当初、民主主義の実現という国民の大きな期待を担っており、低所得者、貧困者の援助を推進した。88年には、女性、青少年、高齢者および障害者の発展に関する政府、非政府間の調整促進を旨とする政策を発表した。さらには、民主党や社会行動党による承認の後押しもあり、「障害者リハビリテーション法」は構想から10年以上経って、1989年、内務省の承認を得ることができた [70]。
 しかし、1991年、タイでは軍事クーデターが起こり、チャートチャーイ政権は倒された。このクーデターは、プミポン国王の和解勧告によりひとまず静まり、92年民主党を中心とする連立政権の発足に至った。これ以降タイ国内の法整備も再び実施され出した。タイでは軍事による政治介入が見られることもあるが、全体としては民主化の流れの中にあり、伝統医療や各村落の保健ボランティア[71]の見直しなど、コミュニティーの負担や責務の強調という方向性に目が向けられている。
 1991年は、タイにおける障害者支援においても重要な年である。なぜなら、障害者が社会復帰するためのプログラムや障害者のためのサービスが明示された「障害者リハビリテーション法」(Rehabilitation of Disabled Persons Act B.E.2534)が成立した年だからである。法の下で、障害者は医療、教育及び職業リハビリテーション、職業斡旋や地域支援などを受ける権利を有するが、サービスを受けるためには、障害者登録が必要となっている。
 その後、1992年には、内務省労働局と公共福祉局が合併し、「労働社会福祉省」が誕生する。この労働社会福祉省には、障害者関係担当局として公共福祉局が設置され[72]、1994年には労働社会福祉省と保健省により関連省令が制定された。また、労働福祉大臣の下に設置された「障害者リハビリテーション委員会」(Committee for Rehabilitation of Disabled Persons)が各省庁との連携をもとに障害者政策を進めており、その事務局である「リハビリテーション委員会事務局」(Office of the Committee for Rehabilitation of Disabled Persons)が同省の公共福祉局内に設置された[73]。その他、1992年にタイの医療リハビリテーションの中心となっている「シリントン国立医療リハビリテーションセンター(以下、シリントンRC)」[74]が保健省医療サービス局の管轄の下に設立されたことも特筆すべきであろう。
 再び国際的潮流に目を向けると、「国連・障害者の10年」に続く1993年から2002年をESCAP(国連アジア太平洋経済社会委員会:Economic and Social Commission for Asia and Pacific)は「アジア太平洋障害者の10年」と定め、その行動計画である「アジェンダ・」フォア・アクション」での12課題の一つにCBRが含まれた[75]。また同時に「アジア太平洋の障害者の完全参加と平等に関する宣言」も採択された[76]。ESCAPは、活動の中で、加盟国政府、NGO、国連を含む国際機関、アジア太平洋地域の障害当事者など障害者支援分野に関わるすべての人々や機関、団体などが連携して同宣言を遂行するべきものと規定している。また、タイにおいても、前述のDPIなどNGOの活躍で、憲法改正や教育法改正などを通じて、障害者支援についての明記を勝ち取るなどの実績をあげている[77]。

3.1997年憲法の制定
 1997年、タイでは政党政治の腐敗防止を眼目とし、汚職防止の制度改革、国民の政治への参加、人権・環境への配慮を特色とした新憲法が制定された。同憲法第3章において国民の権利と自由が記されているが、これは旧憲法ではふれられていなかった項目である。第30条では、人の平等について、「人は法的に平等であり、対等に法律の保護を受ける。男女は平等な権利を有する。出生、民族、言語、性別、年齢、心身の状態、地位、経済あるいは社会的な状況、信仰、教育、または憲法に抵触しない政治信条の違いにより人を不公正に差別することはできない」と明記された[78]。また、障害者に関する項目として、第55条では、障害者への国の援助として「障害者あるいは虚弱者は、法律の規定に基づき、国の保健サービスおよび他の援助を受ける権利を有する」、第80条では、社会的弱者への支援として、「国は高齢者、貧困者、障害者あるいは虚弱者、および機会の劣った者の生活改善および自立のために援助しなければならない」という条項が明記された[79]。
 1998年には、タイ障害者の権利宣言が承認された。この宣言は障害者の有する権利と自由を一般社会とタイ国内の障害者に知らせるものとして、タイ政府が発表したものであり、障害者の政治や社会活動への参加の権利、リハビリテーションや教育、職業訓練を受ける権利などが記されている[80]。草案作りには障害者団体や障害者に関わるNGOも加わり、タイの人々によって行われた誓約であり、今日では障害者のサービスの実施における根拠として使われている[81]。
 続く1999年は、教育省の定めた「障害者のための教育年」である。1997年憲法の障害者の権利に関する記載では、第55条、第80条は前述の通りであるが、第43条の教育の権利として、「人は国が無料で遍くかつ良質に整備する十二年以上の基礎教育を受ける権利を有する」[82]と明記され、障害者や貧困層などこれまで教育を受ける機会に恵まれなかった人々にも、義務教育を浸透させる方針を打ち出した。
 また、この憲法を受けて、1999年に「全国教育法」が改正(2002年発布)され、その第10条において「身体、精神、知性、情緒、社会性、コミュニケーション能力、学習能力に障害がある者、身体障害者、病弱者、自立が困難な者、保護者を持たない者、社会的弱者に対する教育に際しては、これらの者が特別な基礎教育を受ける権利と機会を得ることができるようにしなければならない」とされた。さらに、これに続いて、「第2項に示した障害者を対象とする教育は、出生時から、もしくは障害が生じた時点から無料で行われる。また、障害者は、省令で定める規定と方法に従って、必要な施設・設備、メディア、各種サービスを享受する権利、教育に関する様々な援助を受ける権利を有する。特別な能力を有する者に対する教育においては、その個人の能力に応じて適切な形態をとらなければならない」と明記された[83]。
 さらにこの年、DPIアジア太平洋ブロックの本部がフィリピンからバンコクに移転している[84]。経済状況なども鑑み、アジア太平洋地域における障害者活動の拠点としてタイが注目され始めた時期であるといえるのではないだろうか。
 また、シリントンRCでは、1999年8月16日から17日の2日間、政府担当者や、公的施設、障害当事者団体及びその他のNGOの代表など、初めて障害者支援分野の公的施設が多様なジャンルの関係者を集めて「自立生活セミナー」が開催される[85]など、タイ国内においても障害者が注目される機会が増え始めた時期だといえる。
 2002年、タクシン政権下での省庁再編に際し「社会開発・人間保障省」が新設され[86]、そこに配置されたエンパワメント課が障害者関連の制度の施行を行うこととなった[87]。さらに、2002年10月、日本の無償資金協力とタイ政府の協力により、「アジア太平洋障害者センター(APCD)」[88]がバンコクに設立された。APCDは、アジア太平洋地域の発展途上国において障害者のエンパワメントとバリアフリー社会を促進する地域センターである。このようにタイは、アジア太平洋地域の発展途上国の障害者関連ネットワーク作りの拠点としても大きな役割を期待され、現在も活動の幅を広げている。
 さて、タイにおいて軍部による政治介入が見られることは、既述の通りであるが、2006年にも15年ぶりに国軍のクーデターが起こった。今回のクーデターも、国王の謁見を経ることで落ち着いたが、1997年憲法は廃止された。2007年9月には、新憲法が公布され、2008年2月には新政権が発足したが、民主化は引き続き進められる方針であるという。筆者は、新憲法は未読であるが、障害者関連についても、これまでとさほど変わることなく進んでいくのではないかと考える。

4.障害者支援国際的潮流
 最後に、最近の障害者支援の動向について述べる。ここで注目すべき事は、これまで慈善や社会福祉の問題として捉えられてきた障害者の問題が、開発の中の問題として取り上げられるようになってきたという点である。1993年から2002年までの「アジア太平洋の障害者の10年」において、政府の政策決定者の意識は高まってきたものの、障害者の地域社会での生活はほとんど改善されていないという実情が指摘されたため[89]、続く2003年から2012年は国連ESCAP(アジア太平洋経済社会委員会)「第二次アジア太平洋障害者の10年」と指定された。そして、この地域行動計画として合意されたのが「びわこミレニアム・フレームワーク(BMF)」[90]である。BMFは、障害者のためのインクルーシブでバリアフリーな、かつ権利に基づく社会を達成するために、地域内各国政府や関係者による行動のための地域的政策を提言する地域行動計画を提供するもので、障害者と貧困との関連性にも目を向け、ミレニアム開発目標(MDG)の枠組みをBMFの基礎として採用している[91]。というのも、障害者は貧困に陥りやすく、貧困者は障害を持つに至りやすい[92]という障害と貧困との密接な関係が指摘されているため[93]、ミレニアム開発目標を実現しようと思えば、障害者の問題はその中の重要な問題となるとされているからである。
 また、2006年12月には、国連で、「障害者権利条約」が採択された[94]。森は、この採択を国際人権規約、人種差別撤廃条約、女性差別撤廃条約、子どもの権利条約といったものと並んで障害者の権利が国際的に条約の形で担保されることは、障害と開発にとっても大きな前進であるとしている[95]。
 さらに、2007年は「第二次アジア太平洋障害者の10年」の中間年として、ESCAPは後半5年のさらなる推進のためBMFを補足する「びわこプラスファイブ」が採択された。長田も、2007年は障害者のための国際開発協力、障害者支援の分野における関係者にとって歴史的なターニングポイントとなることが考えられると述べていることからも 、今まさに障害分野への注目は高まりをみせているといえるのではないだろうか。

  表1−6略

第五節 タイの社会保障制度
 現代のタイの社会福祉制度は、政府が社会福祉システムを含む近代的な社会制度を確立した1940年代以降、西洋型の公的扶助モデルの影響を受けてきた。高齢者住宅、ホームレスの収容施設、孤児院、職業訓練センターが創設されて西洋型の福祉制度が、この時期に導入された[97] 。

1.タイにおける社会保障制度の変遷
 タイにおける社会保障制度は1954年の旧社会保障法[98]の成立が始まりである。しかし、当法は、法律として成立していたものの具体的な制度を生み出すことは無かった[99]。タイにおける社会保障制度が本格的に整備されてきたのは、1990年の社会保障法の成立以降である。
 タイにおける工業化と近代化の急速な進行は、社会保障制度の導入のための条件を用意した。1980年代後半の急速な経済成長は、新たな時代に国家が福祉を提供するための供給源となると同時に、経済成長により、その恩恵に与れない労働者たちは、増大する社会問題に直面した。社会保障法は、社会的・経済的発展により生じる新たな要求への政治的回答とみなすことができる。社会保障法は、官僚達にとって労働者の支持を得るための手段のひとつであると考えられた。つまり、新しい福祉行政機関の設置により、官僚達の権限の場の拡大と魅力のある地位を獲得する機会がもたらされるため、官僚達により多くの関心が示されたということである[100]。タイでは、こうして1990年代初期以降、制定法による社会保障の範囲が大きく拡大した。何らかの保健サービス制度を利用している人口比率は、近年、利用者の割合は後述する30バーツ医療制度の導入によりさらに上昇した[101]。
 タイにおける公的福祉プログラムは、19世紀後半から20世紀半ばの国家主導による近代化・工業化と同様に、官僚によってその体系と特徴のほとんどが作られた。そこでは、大多数の公務員による家父長的な義務感や、自己の私的利益を守るために福祉に携わる官僚達主導の、供給面を重視した制度が生み出された。よって、社会保障費の拠出者や福祉の受益者の参加はほとんど考慮されておらず[102]、例えば、医療保障においても年金制度についても、公務員や企業被用者など特定階層に基づく制度設計が優先的に進められている[103]。公的扶助や社会福祉に十分な予算がないため、社会保険以外の社会諸政策を通じた所得の再配分も十分に機能していないのが現状のようである[104]。

2.タイの特性と社会福祉の関係
 既述のように、タイは国民の95%が仏教徒であり、仏教は人々の生活へ大きな影響を与えており、寺院が福祉施設やサービスを提供する場合も多い。また、家族やコミュニティーの結びつきが強く、福祉サービスは家族によりインフォーマルな、伝統的なものとして行われてきた。福祉制度が長い間整備されてこなかったため、こうした家族による福祉サービスの果たす役割が大きかったのである。例えば、寺院は伝統的な共同体の中心であり、タイ社会においてさまざまなサービスを供与するための拠点として機能してきた。タイの若年男性は、寺院で僧侶としての修行を積むことで、教育され、また社会の一員となる準備をし、共同体の内部での社会的な地位や役割を確立していった。タイの社会において、必ずしも社会保障制度や社会福祉制度が唯一の問題解決の方法ではなく、家族やコミュニティーの結びつきは、未だ強固であり、社会福祉サービスの中で大きな役割を果たしている。
 現在、タイ国家によって提供される福祉は、主に公的扶助の形をとり、ごく限られた集団にのみ提供されているにすぎない。また、予算不足、給付体制の不備、人員不足など、様々な問題を抱えている。国家によって提供されるサービスを十分に与ることのできない多くの貧困層が存在する。フォーマルな福祉サービスの供給が社会的弱者が重要とする最も基本的な要求のすべてに対応することができていないため、寺院によって提供されてきたようなインフォーマルな手段に基づく福祉サービスが今でも存続しており、公的な組織を通じて福祉サービスを供給する公的な制度に統合されつつも、再活性化してきている。このようなインフォーマルなサービスも国民一般の福祉に対する要求は当然として、恵まれない人々や社会的に弱い立場にある人々の要求にも応じる必要がある。そのため福祉資源の配分に関しては、政府や公的部門からばかりでなく、個人とコミュニティーと国家が、相互に協調して対応する必要があるのである。
 以下、タイの医療保険制度と社会福祉制度について概観した後、障害者関連施策を取り上げることとする。

3.医療保険制度
 タイにおける社会保障制度の中で、最も政策的プライオリティを持って取り組まれている政策のひとつが医療制度である。
 タイでは、財務省管轄で税方式の公務員・国営企業労働者医療保障(CSMBS)に加え、2002年に全民間事業所が労働省管轄で社会保険方式を採用の社会保障基金(SSS)に強制加入となったことで職域部門における皆保険が実現し、加えて2002年に保健省国民健康保険事務局[NHSO]管轄で税方式を採用の30バーツ医療制度(UC)[105]の導入により地域保険が確立し、ここに国民皆保険が実現したとされる[106]。

(1)30バーツ医療制度
 「30バーツ医療制度」は、保健省の主導により創設されたサービスである。他の医療保険制度に加入していないすべての国民を対象に、一回の外来、または一回の入院につき定額30バーツ(約100円)で医療サービスを利用することができる制度である。これまで、タイの医療保障制度の中で最も大きな課題は、無保険者をいかに減少させるかという点であった。よって、保健省はこの制度を起点として、全国民を統一的にカバーする国民健康保険制度を構築することを政策目標とした。「30バーツ医療制度」は、これまでのボランタリーヘルスカード[107]や福祉的医療サービスに代わり、全国民に対して医療サービスを利用する権利を公的に与えた最初の制度であるといえる。財源は、保健省管轄で管理され、各県が運用の責任をもつ[108]。
 「30バーツ医療制度」において、身体障害者は「ト―74」という種類に分類され、これに登録されている人口は41万4,358人(2006年)である。同制度は、人頭割予算配分(capitation)を採用しており、2008年度の同制度一人あたりの予算は2,100バーツになっている[108]。一方、2003年度から一人当たり同制度予算の中にリハビリテーション予算4バーツが計上されるようになった。したがって、同制度内では、2005年時点では、総額4バーツ×4,700万人(同制度対象人口)=1億8,800万バーツがリハビリテーションに振り向けられている[110]。
 「30バーツ医療制度」導入当初、人頭割予算は、予算局による厳格な財政規律により抑制されてきたが、2006年9月のクーデター後、大幅に引き上げられた[111]。河森はこの点を、低所得者や社会的弱者向け医療サービス供給を支える思想が、単なる「慈善」ではなく、タイ国民の医療を受ける「権利」の「保障」への「構造変動」を示しているのではないかと分析している[112]。
 しかし、「30バーツ医療制度」の財政は厳しく、それとは別に、現場のマンパワーの絶対的不足[113]という問題も加わり、リハビリテーション予算が100%その目的に使用されているかは疑わしい。これらの問題を解決するために、伝統医療[114]や各村落の保健ボランティアの見直しなど、コミュニティーの負担や責務の強調という方向性に目が向けられており[115]、この点はCBRにも関係する点であろう。また、河森は将来的には保健ボランティアが、生活習慣病に対する保健指導や、介護者がいない身体障害者や要介護高齢者向けのリハビリや介護事業を請け負うなど、本格的なサービス供給者として成長する可能性を指摘している[116]。

(2)行政区分と医療サービスの提供体制
 タイの行政区分は、バンコク特別行政区とパタヤ市を除き、県(Province)、郡(District)、タンボン(Tambon)、村落(Village)で構成されている。タンボンは一般に約10の村で形成されている。各行政レベルに医療機関が設置されており、県レベルには総合病院、郡レベルには地域病院、タンボンレベルにはヘルスセンター、村落レベルにはコミュニティーヘルスセンターがそれぞれ設置されている[117]。タンボンレベルのヘルスセンターは健康教育を推進しているが、このレベルのセンター以下における行政の仕組みは事実上存在せず、現場レベルではボランティアや住民そのものが保健行政に参加している[118]。各村落レベルでは、前述の村落健康ボランティアと呼ばれる人々が、各家庭に対する健康教育を積極的に推進しており、障害児や障害者に対する取り組みにおいても、重要な役割を果たしている。タイでは、基本的に各地域レベルでのサービス提供主体にNGOや個人的なボランティアが参加していることが多く、タンボン以下のレベルにおける公務員を期待することはほとんどできない。したがって、タンボンに設置されたヘルスセンターにおいては、地域のボランティアをいかにして誘導し、活動に結び付けていくのかが活動の重要なポイントとなっている[119]。
 中央のNHSOは、中でもタンボンレベルの予防・健康増進、リハビリテーション・介護におけるコミュニティーの「参加」ないし「自治」の強化に努めており、「タンボン健康基金(Kongthun lakprakan sukkhap nai radap tambon)」[120]を制度化している[121]。河森は、予防・健康増進、リハビリテーション・介護のサービス供給体制について、NHSOは上から型にはめる政策的意図はなく、むしろ地域社会のニーズに応じた自発的な展開を奨励しており、この基金の設置が、旧来の地域保健医療ネットワークの再構築における重要な契機になると考えている[122]。

4.社会福祉制度
 タイにおける公的扶助は、十分な予算が得られていないこと、政府のプライオリティが福祉的施策よりも医療サービスのユニバーサルな展開と被用者社会保障制度(SSS)などの社会保険制度構築に向けられていることなどから、未だ十分な施策を行うことができていない [123]。
 タイの公的扶助制度は必然的に家族の同居と彼らの積極的な経済的支援を前提にしており、給付水準は非常に低く、独居の障害者や高齢者に対する支援は現金給付としては全く不十分であり、事実上実施されていないに等しい[124]。
 また各地域における設備、人材を含めたサービス提供体制の不備により、農村部や山岳地帯における標準化された給付はきわめて困難となっている。そうした地域でのボランティアに依存した給付体制が問題になっている。現在は、ニーズある対象者の自主的な申請に基づいて給付が行われており、広報活動などワーカー側からの積極的な働きかけは行われていない[125]。
財政状況は、全ての事業について税方式を採用しているが、政府の総支出に占める公的扶助・社会福祉事業関連施策の支出額は極めて厳しく、円滑な制度の運営を妨げている。2000年度の予算は、政府予算全体の0.49%を占めるにすぎない[126]。
 また、制度設計上は、給付対象が障害者、高齢者、児童と限定されており、単なる所得上の生活困窮者に対しては十分な継続的給付が行われていない。障害者、高齢者、児童についても、月に300バーツから500バーツと限られた金額の給付にとどまっている[127]。したがってタイの公的扶助制度は必然的に家族の同居と彼らの積極的な経済的支援を前提にしており、独居の障害者や高齢者に対する支援は現金給付としては全く不十分であり、事実上実施されていないに等しい[128]。
 社会福祉に関する施策は、主に労働社会福祉省[129]の公共福祉省の公共福祉局が管轄しており、主に運営に関わるのはソーシャルワーカーである。しかし、社会福祉サービスは存在しているものの、各地域における設備、人材を含めたサービス提供体制の不備により、農村部や山岳地帯における標準化された給付は困難となっているため、インフォーマルな地域資源が果たす役割は大きい。村落レベルで実際にソーシャルワーカー的な役割を果たしているのは、コミュニティー内の長やNGO組織などの場合が多く、こうしたボランタリーな地域内の存在が社会福祉・公的扶助の運営を支えている。特に、農村部においては、現在も村内のコミュニティー機能が強く、公的セクターの機能不備を補填している。また、各地域のサービス提供については、コミュニティーセンターなどの機関がその機能を担っている。ただし、これらのコミュニティーセンターの設立は、ボランタリーな取り組みとなっており、政府は側面的支援を行っているにすぎない[130]。

(1)第四次国家社会福祉事業開発5ヵ年計画における社会福祉[131]
 保健医療分野と同様、社会福祉分野についても、第九次国家社会経済開発五ヵ年計画の下位計画(2002-2006年)が策定されている。第四次計画では、社会福祉をより標準化し、より多くの人々に普及させること、社会福祉を強化するための社会セクターを拡大すること、社会福祉にかかわる広範なネットワークを築くことを目標にしている。さらに、その方向性として第一に、個人、家族、コミュニティーの権利の保護。第二に、先述の個人、家族、コミュニティーの権利の保護を徹底するため、法制度を整備[132]すること。第三に、社会のあらゆるセクターの社会福祉サービスへの参加・協力を促すこと。第四に、社会福祉のマネジメントシステム開発が提示されている。

(3)公的扶助]133]
 タイにおける公的扶助は大きく分けて、緊急避難的な救済措置と定期的給付に基づく所得保障制度の二つに分けることができる。これらの対象となるのは、貧困層、障害者、高齢者、児童(ストリートチルドレン)、疾病児童などである。適用の対象は原則として各県・各タンボンに設置されているソーシャルワーカーの判断に基づくが、各地域の集落などにおける「長」などが判断している場合もあり、厳密な意味で客観的な基準が設けられてきたわけではない。
 また、全ての貧困層がこうした現金給付を受けているわけではなく、極端な予算不足のため、広報活動など行政サイドからの働きかけはほとんど行われておらず、給付は専ら国民の自主的な申請に依存している。

(3)社会福祉事業[134]
 タイにおける社会福祉事業は、児童、障害者、女性、高齢者、災害被災者、山岳民族、ホームレス、貧困・低所得世帯を主な対象として実施されている。うち、一部の対象者については公的扶助に基づく現金給付が行われている。
 公的扶助と同様、その基準や責任者については、客観的で厳格な基準を設定できるだけのマンパワーや予算が不足しているため明確ではなく、各地域の年長者等が決定権を持つ場合もある。

5.地方分権化
 1997年の憲法の制定、また1999年の地方分権法が制定されている事などからも分かるように、タイでは地方分権化の動きが進んでいる。既述の「30バーツ医療制度」をはじめ、保健医療部門における権限の委譲は、他の省庁と比しても大規模である。現在推進されているUC政策の基本は地方分権化であり、中央政府の権限は、基本的に県レベル以下に委譲され、予算も中央から県に配分された後は、基本的に地方行政の管理下に置かれることとなる[135]。
 タイでは、医療部門に集中的な資本投下を行っている一方で、社会福祉部門には積極的ではなく、社会福祉行政は取り残されている感がある。地方行政は社会福祉事業に深くコミットできていない現状があるため、現状の下で地方分権が推進されたとしても、社会福祉がタイにおける社会状況の改善を進めるのは難しい。十分な予算を組み、より一層の地域における行政のコミットメントが求められている[136]。
 これらのことからも、タイにおける家族やコミュニティーの役割は今後益々重要であり、注目されているということが窺える。

6.障害者関連政策
 最後に、障害者に関連する施策をまとめ、当節を終わりとする。
(1)第8次国家経済・社会開発計画[137]
 1997〜2001年に、人的資源の開発に重点を置いた第8次国家経済・社会開発計画が実施された。障害者開発のための一連の政策ガイドラインはこの計画に取り入れられており、障害の予防や、包括的な方法で障害者が健常者と同等に社会生活を送るための対策が含まれた。また、障害者が競争社会に適応し他の人々と共存するためのリハビリテーション計画も含まれた。タイ政府が目指している最終目標は、障害者が教育、人材開発、雇用、ヘルスケア、コミュニケーションなど開発政策の全ての分野においてその利益を享受できる一方で、政府にとっては、国家開発政策を達成することで「社会的負担」を軽減することにあった。

(2)プライマリーヘルスケア(PHC) [138]
 地域レベルでの保健制度が1970年代に構築され、保健ボランティアの導入により、医療サービスが届かない農村地域においてヘルスセンターを拠点とするPHCが発展した。1つのヘルスセンターに配属される数人のスタッフと看護師が9つの村を担当している。人的不足を補うために応急処置や薬の知識を持った村のヘルスボランティアがそれぞれの村でスタッフや看護師を支援するために活動している。保健に関する情報、知識、技術は県病院から郡病院へ、そこからヘルスセンターへ、さらに村の保健ボランティアへと移転される。

(3)ヘルスセンター及び保健ボランティア
 タイにおけるCBRプロジェクトは、既述のヘルスセンターやボランティアの制度を利用していることが多い。筆者も調査である村落でのCBRを訪れた際も、保健ボランティアと遭遇した。村落の保健ボランティアは障害児者の発見やそれらの人々の病院への照会などを行っている。政府やNGOがCBRを始めた一部の村において、村落の障害者の状況を把握するために保健ボランティアを活用し成功した例もある一方で、ヘルスセンターのスタッフ、保健ボランティア、病院の医師の間で障害に関する知識の不足が見られるようである[139]。

(4)国家障害者リハビリテーション計画[140]
 リハビリテーション政策の概要は、1997~2001年、関係政府機関・NGOとの協議の上、労働・社会福祉省管轄下の障害者リハビリテーション委員会により作成された国家障害者リハビリテーション計画にまとめられている。同計画は、障害者ができる限り自活のために収入を得て、自立生活を送り、社会に参加できるようになることを目指している。また、職業・医療・教育・社会リハビリテーションに関する政策ガイドラインを示して第8次国家経済・社会開発計画を補っている。本計画のビジョンと目標は以下の通りである。
1.ビジョン
・ 障害者の健康を促進する。
・ 障害者が潜在能力・才能を発揮できるように支援を行う。
・ 障害者が自身の特権だけではなく権利や義務について認識し、障害者に「良い市民」のイメージを確立してもらう。
・ 報酬のよい雇用による障害者の自立を支援する。
・ 障害者とその他の人々が同等に尊厳を保つ支援を行う。
・ 家族レベルから国レベルまでにおいて、障害者に対する肯定的で好ましい姿勢を促進するためのキャンペーンを行う。
2.目標
・ 出産前後および妊娠中から障害を監視・予防して障害を撲滅する。
・ 障害者が早期に医療・リハビリテーションサービスにアクセスでき、社会で適切な役割を担うことができるように適切な情報を提供する。
・ 身体的・知的能力に従い、障害者が全レベルの教育を受けられるようにする。
・ 障害者が社会において人としての尊厳をもって生きていけるように、適切なリハビリテーションプログラムを提供する。
・ 障害者が全国レベルで社会リハビリテーションや福祉プログラムにアクセスできるようにする。
・ 社会の最小単位である家庭において、障害者に対する肯定的で適切な態度を促進させ障害者の役割を拡大する。

(5)障害者リハビリテーション法(1991年)
 登録障害者は身体的状況や潜在能力に応じて医療リハビリテーションや職業訓練に関するアドバイスを受けることができる。

(6)内閣条例第3号(1994年)[141]
 登録障害者は以下の医療リハビリテーションサービスを受けることができる。
1.診断サービス、研究室での検査及びその他の特別な検査
2.カウンセリング
3.薬
4.外科手術
5.医療リハビリテーションおよびケア
6.理学療法
7.作業療法
8.行動療法
9.心理療法
10.社会サービスおよび治療
11.言語療法
12.音楽療法、聴覚・コミュニケーション療法
13.障害者向けの器具や補そう具の使用および公衆衛生省管轄下の公立病院での無料サービス

(7)内閣条例B.E.2537[142]
 1994年に公衆衛生省により制定され、補そう具の提供は医療リハビリテーションサービスの一部と規定された。登録障害者は無料で補そう具の提供・修理・メンテナンスを受けることができる。

(8)障害者への生活手当て給付(1994年)[143]
 手当てを必要とする障害者への給付である。貧困状況にある障害者に対する生活手当てを受給する障害者の数は年々増えている。1999年には月500バーツの手当てを受給する障害者数はタイ全土で1万5000人に達した。支援を必要としている貧困層の障害者の数はさらに増加していると言われている。

7.まとめ
 これらのようにタイでは、障害者登録の制度や障害に関する各種政策・法令が整ってきているが、実際には政府が定める障害関連サービスを利用できる障害者は限られている。公的福祉サービスの資源は不足しているため、公的部門からのサービスのみでは大量の困窮者に対応しきれなくなっている[144]。よって、政府は地方分権化を積極的に進めており、特にコミュニティーに対して、困窮者の生活を支援するという伝統医療など歴史的に行われてきた重要な役割を再び担うよう働きかけてきている[145]。しかし、その背景には、登録を行う事務局への移動が困難であったり、情報・知識が不十分であるために登録の必要性が理解されていなかったりすることなど多くの問題が存在する。既存の政策・法令を広く実施するために、全ての障害者がサービスを受けられるための物理的なバリア並びに心理的なバリアを無くしていくことが重要である。
 アクセシビリティーに関しては、1991年の障害者リハビリテーション法はアクセシビリティーに関する項目を含んでいる。また、1999年に完成したスカイトレインの駅へのエレベーター建設を要求する身体障害者を中心としたデモ[146]を通じて障害者の権利が普及した[147]。さらに、2004年に完成した地下鉄の駅は、スカイトレインの駅建設の教訓から、障害者の意見を多く取り入れて建設され、高い評価を得た。続いて、2006年にはスワンナプーム国際空港が完成した。こちらも、バリアフリーを意識して建設されたのだが、実際は障害者自身の意見が取り入れられておらず、形だけのバリアフリーであったため、非難の声が上がっている。これらのように、公共の場のバリアフリー化が義務付けられており、取り組みも進んでいるが、交通機関の利用しづらさは依然として障害者にとって大きな問題となっている。バンコクでは、歩道には車椅子用のスロープや視覚障害者のためのブロックサインは設置されておらず道路の整備状況の悪い場所も多い。農村での状況はさらに悪い。
 農村部においては、郡内に社会福祉事務局や公衆衛生事務局がないところもあり、障害者が登録したり行政によるサービスを利用したりすることが難しい地域も多い。また、都市部には設備の整ったリハビリテーション施設があるが、地方の病院や施設では適切な医療リハビリテーションを行う設備が揃っていない。雇用についても、企業における障害者の雇用促進の政策はあるが、一方で農村部では雇用機会を提供する企業自体が少ないという問題を抱えている。

第二章 タイにおける障害児教育
 1990年、タイのジョムティエンで開催された「万人のための教育世界会議(The World Conference on Education for All」以降、国際協力の中で教育が注目を集めている。この会議では、すべての子ども達に初等教育を提供し、成人の識字率を上昇させることで、@1億人以上の学校に行けない子ども達、A男女格差の是正、B10億人の成人非識字率者の存在、これら3点の課題を2000年までに解決しようという目標が掲げられた。さらに「万人のための教育世界宣言」が提唱され、「基礎教育は人々が生きるために必要な知識・技能を獲得するための教育活動」と定義され、それらには@就学前教育、A初等教育、B前期中等教育、Cノンフォーマル教育(宗教教育・地域社会教育・成人教育・識字教育など)という具体的な4分野が含まれている[148] 。
 また小栗は、現在の国際教育協力の基本的な考え方として、@基礎教育を基本的な人権として捕らえ、すべての人々が等しくそれを受けることができるようにするという、「基本的人権からの視点」、A生産要素として教育を捉え、教育水準の低さが貧困の原因であり、教育状況を改善して社会経済開発を促進するものと捉える、「開発アプローチからの視点」、B国際的な教育協力は、国際理解または異文化理解のため、もしくは社会統合のための教育協力と考えなければいけないという、「国際・異文化理解・社会統合的視点」を挙げている。さらに、これらの根底には「貧困削減」という考え方があり、これが現在の世界的な根幹理念となっているという[149]。
 以上の国際協力における教育分野の重要性を鑑みた上で、開発途上国における障害児教育に目を向けてみると、さまざまな教育の分野の中で障害のある子どもの教育は、最も優先順位が低いといっても過言ではない。現在、障害のある子どもの80%以上が開発途上国で生活しており、その中で、形態を問わず初等教育を受けることのできる子どもの割合は、平均すると約2%であると考えられている[150]。開発途上国において、障害のある子どもは、アクセシビリティなどの物理的背景や障害そのものの問題のみならず、その国の文化や宗教的背景から、教育の対象というより、福祉サービスや慈善の対象となることがほとんどであった。障害者自立生活支援などに見られるように、今後障害者自身が自分たちの置かれている状況を適切に評価し、それらの状況を、自らが主体となって社会に発信し、状況を改善していく力を身につけていくためにも、障害を持つ人々の教育について考えることは非常に重要である。そこで本章では、タイの教育制度と障害児教育について考察する。

第一節 タイの教育制度
 タイにおける障害児教育についてまとめる前に、まずタイにおける教育システムと教員養成システムについて概観する。

1.タイにおける教育システム[151]
 タイにおける基礎教育課程は、日本と同じく6−3−3制で、初等教育6年、前期中等教育3年、後期中等教育3年となっている。そのうち、義務教育は、1990年3月、「万人のための教育世界会議」の影響もあり、1991年8月に6年から9年へと延長された[152]。また、1997年憲法においては「12年以上の無償基礎教育を受ける権利」(第43条)が規定されている。

(1)教育制度
 現在の教育制度は、@第8次国家教育計画(1997〜2001年)、Aタイ王国憲法(1997年)、B国家教育法(1999年)によって概観することができる。
@第8次国家教育計画(1997〜2001年)
 第8次国家教育計画では、従来の教師を中心とした教育アプローチから、学習者を中心とした参加型の教育アプローチへと教育政策の重点が移行され、すべての国民に教育機会と平等な教育サービスを提供することが主要課題として特定された。
Aタイ王国憲法(1997年)
 タイ王国憲法(1997年)では、教育制度改革の取り組みの詳細が初めて規定され、教育政策の転換に大きな影響を与えた。さらに、憲法第3章第43条で定められた改革には、国の責任において質の高い義務教育を12年間提供することや、地方行政団体や民間セクターが教育サービスの提供に参加することなどが含まれている。
B1999年制定国家教育法
 1997年のタイ王国憲法の制定を受け、1999年8月には国家教育法が公布された。国家教育法では、2002年までに無償義務教育期間を12年に延長するとし、青少年の就学率を高めるための枠組みを定めた。政府は、カウンセリングセンターの整備、教育ローンの提供、貧困家庭を対象とした補助金の支給、主婦層を対象とした職業訓練の促進、「家族の日」の制定、児童搾取を防止するための情報提供といった様々な措置を講じており、制服代、通学費、給食費などの経済負担への配慮から、段階的に施行が進められている。また、第10条では、障害者特別支援を無償で提供することも定めている。

(2)教育行政
 教育行政については、従来、初等中等教育および社会教育・文化行政は教育省、高等教育は大学庁、教育政策の取りまとめは、首相府内の国家教育委員会が所管してきたが、2003年にこれらが整理され、「教育省」及び「文化省」がそれぞれ設立された。
 教育行政組織は基本的に中央集権のシステムになっている。私立の学校を除き初等、中等学校は「公立」はなく、すべて「国立」となり、地方の教育行政組織は中央の「出先機関」として位置づけられている。
 教育省において初等教育を担当しているのは国家初等教育庁(ONPEC)であり、全国31,381の小学校と355,298人の教員、6,549,797人の児童を所管している[153]。ONPECは各県及び各郡に事務所を設置しており、初等教育行政は中央―県―郡の3層構造となっているが、各行政機関の関係は輻輳しており、地方教育行政の一元化、効率化を図る地方分権化の必要性が求められている。

2.タイにおける教員養成システム[154]
(1)教員制度
 タイでは、教員の身分は、1980年に制定された国立学校教員法(Public School Teachers Act)によって定められているが、基本的には一般行政職の公務員と同じ待遇を受けている。法制度上の勤務時間などについても、教員と一般行政職公務員との間には違いはなく、完全週5日制で、勤務時間も8時30分から16時30分までの8時間と同様である。給与は、特別職、一般行政職及び教員、軍人、司法職の4種の給与表に分かれている。つまり、教員と一般行政職公務員とは同一の給与表が適用され、両者の間で学歴等の条件が同じであれば同一の給与となっている。すべての公務員は、学歴や職種、職位により1から11までの職位分類(Position Classification―PC)によってその給与が決められている。学士号をもつ公務員はPC3から始まり、その初任給は月額6,360バーツ(約2万円)である。PCは取得学位、各種の褒賞、教育省内の研修等によって上昇できる。したがって、昇位するためには、そのような契機が必要であるので、教育職のみならず行政職も含めた公務員の学位取得意欲が高いことの背景となっている。

(2)教員養成の制度
 タイでは教員の免許制度を採用していない。また、教員養成機関の卒業生のみを有資格者とするものではなく、一定の条件さえ満たせば、その出身校は問われないような仕組みになっている。国立の初等・中等学校の教員になるために必要な条件は、教育省の担当局[155]が実施する教員採用試験の受験資格として理解することができ、その内容は以下の通りである。@大学卒―学士号の所持、A18単位以上の教職科目の履修、B1学期(4ヶ月―16週間)以上の教育実習を修了していること。しかし、これらは政策的に設定された措置であり、法として定められているわけではない。
 法的には1980年に制定された「国立学校教員法」の第2章に「教員になろうとする者」に必要な条件として、以下の14項目が記されている。@タイ国籍を有すること、A18歳以上であること、B民主的な政治体制を信奉する者、C政治家でないこと、D心身共に健康であること、E休職中や休暇中の身分でないこと、F道徳的に欠陥のないこと、G禁治産者でないこと、H破産宣告を受けた者でないこと、I軽微な場合を除き告訴したり、起訴されたりしていないこと、Jこれまでに政府機関から免職、解雇、解任されたことのない者、Kこれまでに法に触れて免職、解雇、解任されたことのない者、Lこれまでに法に触れて懲戒されたことのない者、M教員採用試験において不正を行わない者。これらの条項は、同法の制定以降、改定されておらず、また一般的規範条項や欠格条項として理解できるものであり、教育公務員に求められる積極的な条件ではない。これらのほとんどは一般公務員と共通するものであり、特別に教員にのみ求められるものではなく、教育省の関係部局の職員でさえこの法的な資格条件について認知していないのが現状である。
 実際に教員養成を担っているのは、教育省が所管する全国に36校配置されている地域総合大学(Rajabhat Institute、旧教育大学―Teachers College、以下―RIと略)と全国に41あるラチャモンコン技術大学(Rajamangala Institute of Technology)、そして大学省の所管する一般大学24校のうち教育学部をもつ15大学である。それらの中で、例えばRIチャンカセムのように教育学部の5つの専攻課程のうちの1つに「障害児教育課程」が含まれている大学もあるようである。さらに、RIには教育学部全53学科中、特殊教育の学科が6学科、スリナクハリンウィロット大学には、タイで唯一の特殊教育修士コースが1974年から設置されており[156]、特殊教育教員養成校として政府に認可されている[157]。その他、教育学部以外の学生が学校での教育実習を受け、教育学部の開設する教職専門科目を履修すれば、教員採用試験の受験資格を得ることも可能である。
 筆者が調査で訪れたタイ南部のRIナコンシータマラート校では、筆者の調査期間中、教育学部の学生が学年ごとにナコンシータマラート障害児教育センターに訪れ、センターを見学し、交流授業を行っていた大学でもある。引率していた教員によると、年に1回、@普通の学校と特殊学校の指導方法の違いを学ぶこと、A障害を持つ子供への理解を深めることの2点を目的に学生をセンターへ連れてきているとのことである。始めは少し緊張した面持ちで見学していた学生達も、センターの教員や子ども達との交流を通して、自然に表情も和らぎ、子ども達と一緒に授業を受けたり、唄ったり、踊ったりと、仲良く交流する様子が見られるようになった。最後に、学生達にセンターでの見学を終えた感想を尋ねると、「今まで新聞やテレビでしか(障害を持った子を)見ることが無かったので、今日は来ることができて良かった」と話してくれた[158]。

第二節 タイにおける障害児教育
1.タイにおける障害児教育の実態
 1996年のタイ統計局の保健福祉調査によると、就学年齢に相当する7〜19歳の障害のある子どもの人口は15万5,330人とされており、1998年の統計では、そのうち初等教育を受けている者は1万1,292人と推計された[159]。また、1999年の統計によると小学校4,000校に障害のある子どもが75,000人在籍するとされている[160]。しかし、第一章第一節でも述べたように、タイにおける障害者の統計に対する信頼度が未だ低いため、これらの数値は疑わしい。
 また、タイにおいて、障害のある子どもが教育を受ける場としては、統合教育を行っている学校、特別支援学級を持つ学校、訪問教育、特殊学校[161]、筆者が調査で訪れたような障害児教育センターなどがあげられる。
 1999年、「国家教育法」の制定を受けて、この年が「障害者のための教育年」とされ、以下のような具体的な取り組みがなされた。@すべての教育機関に障害者を受け入れる旨の掲示をさせる、A障害児をもつ保護者に対して、障害に関する知識と理解をもつための研修会を行う、B障害者のための各種スポーツ大会を開催する、C2000年度予算を関係する各局間で、障害児教育のための特別予算として割り当て、文部省普通教育局では上記を受け、具体的に以下のことを実施した[162]。@35県にある41校の特殊学校の質を向上させる、A普通校での障害児統合教育の促進を図り、またそのための特殊センターを設置する、B教育拡大を確実に行うために障害者に関する情報収集を行う、C特殊学校のない県、40県に「障害者のための特殊教育センター」を設ける[163]、D統合教育のために教師および関係者の指導を行う、E障害児教育のための予算配分を行う。
 上記の統計とは、若干異なるが、他の資料では、全国にある特殊学校を24校から37校に増やし、将来は76県に1校ずつ設置し、「特殊教育センター」を5ヶ所から8ヶ所へ増やす予定と記載されている[164]。筆者が2007年8月に調査を行ったナコンシータマラート県特殊教育センターのパンフレットによると、2000年から国家予算で県ごとに「特殊教育センター」を作る方針が謳われている。

2.障害児教育の歴史と変遷[165]
 ここでは、タイにおいて障害児教育がどのように行われてきているのかを、(1)近代以前の障害児教育、(2)本格的な障害児教育の始まり、(3)国際的影響を受け発達したタイの障害児教育と3つの時期に分け、制度も含めて追っていくことにする。

(1) 近代以前の障害児教育
 仏教国タイにおいて、寺院が村落生活の中心であり、僧侶は民衆から信頼される存在であることは、何度も述べてきた通りであり、教育活動についても同様に寺院が大きな役割を果たしてきた。
 タイにおいて最初に教育活動が行われた場は寺院であり、僧侶は人々の精神的指導者であり、民衆に対し読み書きや道徳的教訓を教える教育者でもあった。しかし、教育が寺院において行われていた当時、これらの教育活動において、障害を持つ子どもは教育の対象外とされた。なぜなら、タイの仏教教義において「障害を持つ」ということは、前世の悪行の結果であるという考え方や、障害者は、人々にタンブン(功徳)を積ませることができる存在として、教育を受ける対象とは考えられず、「偏見」もしくは、「慈善」の対象として見られていたからである[166]。タイ仏教によるこのような障害者の社会的位置づけは、社会的にも障害者自身の意識の中においても深く浸透しており、現在のタイにおける障害者の状況にも大きく影響している。例えば、障害者が仏教の施しの対象となっているため、社会から切り離された存在ではなく受け入れられるという側面がある。一方で、近代以降における障害者の人権や教育を受けて自立した社会生活を目指す取り組みにおいては、慈善対象として見られることで活動が阻害されうるという側面もある。
 19世紀以降、通商を求める西洋諸国との接触が始まると同時にタイにおける寺院を中心とした伝統的な教育に変化が現れる。ラーマ5世が、国内の教育を含め、行政の近代化を図ったためである。当時の資料等には、障害児への教育は見当たらず、依然として、障害児が教育の対象とみなされていなかったことが推測される。
 またこの時期、西洋諸国からカトリック宣教師がタイに渡来し、国王の承認を得たカトリックの慈善活動が社会に受け入れられるようになった。1909年にカトリック教会が土地を取得することのできる法人格を得て、学校や聖堂や病院などの建築ができるようになった。その対象は貧困層の人々であるため、その中には路上生活で施しを求める障害者も存在したのではないかと考えることができるが、キリスト教においても当時障害者は教育というよりは保護の対象とみなされていたようである。
 ラーマ6世治世に入り1921年に出された初等教育法により満7歳から14歳の児童に対して義務教育制度が導入された。しかし、当時、教育の目的は心・技・体に優れ、国の発展に有能な人材育成だったこともあり、14歳以下で学年末試験に合格した児童や家が学校から3.2km以上離れている児童に加え、身体的・知能的に障害のある児童に対しては、就学が免除された。
 1932年、立憲革命が起こり、すべての国民が初等教育を受けなければならないことや、教育は国家の責任で行われることが規定された。これによって、国家予算全体の枠の中で、教育費の占める割合は増加した。しかし、政府の教育の目的は、国民が選挙に参加するための識字教育であったため、障害児教育への取り組みはなされなかった。

(2)本格的な障害児教育の始まり
1939年、コーフィールド宣教師(Genivieve Daufield)という視覚障害者であるアメリカ人女性が、タイにおける最初の障害児学校を設立した。これはカトリック教徒による民間の盲学校であり、この学校の設立により、タイ盲人協会が発足した。タイ盲人協会は、視覚障害者の職業訓練施設の設立や私立盲学校設立など視覚障害児教育推進に大きな役割を果たした。
 1951年、バンコクのソムナット寺院で聴覚障害児教育パイロットプロジェクトが始まった。政府が障害児教育の整備に着手したのは1952年からで、文部省は普通教育局特殊教育課を設置し、特殊教育諸学校の設立を進めた。
 1950年から1955年にかけて、ポリオが国内で流行したことから、視覚・聴覚障害児教育に加えて、身体障害児教育が始められ、1957年には学校に特殊学級を設置して知的障害児教育を行う取り組みも始まるなど、この時期障害児教育施設が多く建設された。
また、この頃タイの経済成長時代が始まり、政府は、教育を「国民全体の社会的経済的開発のための中心的手段」と位置づけ、教育政策を国家開発計画に統合し、教育の機会の拡大やマンパワー創出に取り組んだ。しかし、当時、タイの教育は、小学校における原級留置や中途退学による卒業率の低さ、地方での教育整備など問題が山積していたこともあり、障害児教育への政策的な取り組みは積極的には行われなかった。障害児教育に対しては、民間の取り組みや、皇后や皇女などタイ王室の助成による福祉的支援の中に特殊教育諸学校設立が行われるなどの取り組みがあった。
 1970年代は、急激な経済成長によって生じた地域間落差や富の不配分などの諸問題が顕著になり、学生や労働者を中心に民主化運動が行われ、軍事クーデターなど政治的混乱が起こった時期である。1977年に示された国家教育計画は、国家的団結が強調され、教育の機会均等や生活経験型の教育を重視するように転換が図られた。国家教育計画の中では、障害児教育について「適切な場合は普通学級での教育も提供する」と述べられ、統合教育の取り組みもなされるようになった。また、障害児教育に関して、視覚障害、聴覚障害、身体障害、知的障害と初めて障害児教育の分類を定義し、必要とするものに教育を与える義務が国にあることが示された。
 1960年代から起こった世界的な統合教育志向や国内の要請も手伝い、障害児教育の方向性は特殊教育諸学校もさることながら、既存の施設を利用した統合教育の形態も同時に進められるようになった。

(3)国際的影響を受け発達したタイの障害児教育
 第一章第四節でも述べたように、タイにおける近年の障害者支援は、国際的潮流に影響を受け、発達してきており、当然、障害児支援についても同じことが言える。ここでは、障害児教育の歴史に焦点を絞り、その流れを追っていく。
まず、国際的な流れを大まかに振り返ると、1975年、国連により「障害者権利宣言」が採択され、1980年には「国際障害者年行動計画」が発表された。また、1983年「障害者に対する世界行動計画」、続いて1983〜1992年は、「国連障害者の十年」などの期間も設定された。この時期、タイ国内においても障害者福祉や教育への国家的な取り組みが行われるようになってきたのである。
 それでは、タイにおける障害児教育について見てみると、1980年の「初等教育法」においては、障害児が教育を受ける権利に関して健常児と同等であることが明記され、6−14歳の障害児を持つ親に初等教育、中等教育を受けさせることが義務付けられた。
 1991年の「障害者リハビリテーション法」では、障害者登録制度が設けられ、早期訓練・教育・職業訓練・雇用などへのサービスが推進された。1997年には新憲法も発布され、法の下に「すべての障害者の平等な機会と社会への完全参加の権利」が保障された。さらに、1998年には「障害者人権宣言」が発表され、障害者の有する権利と自由が一般社会とタイ国内の障害者に知らされた。
 1999年、「国家教育法」が制定された。同法では、障害者の教育を受ける権利について「身体面、精神面、知性面、情緒面、社会面、意思伝達面。および学習面で問題のある者、また身体障害者、身体虚弱者、自立できない者、保護者のいない者、機会に恵まれない者も基礎教育を受ける権利と機会が特別に与えられなければならない」と述べられている[167]。また、この法を受けて、1999年は「障害者のための教育年」とされ、前項で既述の具体的な指針が明示され、実際に取り組まれているところである。
 これらのように、タイにおいて障害児教育は発展してきている。しかし、障害児教育の地域格差や指導者の不足などの問題も再認識されており、まだ十分なものであるとは言いがたい現状がある。

第三章 ナコンシータマラート県特殊教育センター

 これまで、タイにおける障害児者の置かれている現状を第一章、第二章で概観してきた。では、これまで概観してきたような制度は、農村部にまでどれくらい行き渡っているのだろうか。本章では、筆者が実際に訪れたタイ南部にあるナコンシータマラート県特殊教育センターを事例として取り上げることで、タイの一地方における障害児教育の現状を分析していきたい。本事例は、もちろんタイの障害児教育における一つの側面でしかない。しかし、タイの障害児が置かれている状況について理解を深めようと考えるとき、本調査で得られた事象やインタビューの数々は我々に多くの示唆を与えてくれるものと考える。
 本調査は、2007年8月21日から24日に行った[168]。日本のNPOである「FHCYアジア障害者パートナーズ(FHCY)」[169]と、FHCYと提携して活動を行っているタイのNGO「タイ障害児財団(FCD)」[170]の協力を得て、ナコンシータマラート県特殊教育センターの教職員の活動に同行し、インタビューを実施した[171]。
 ナコンシータマラート県は、バンコクから南に約780kmに位置する人口153万882人を有する県である。アユタヤ王朝時代(1351〜1767年)に数々の功績をあげ、オーク・ヤーという最高の官職を与えられた山田長政終焉の地としても知られる。南部地域で最も長い海岸線を持ち、沿岸漁業や養殖が盛んな他、コーヒー、米、ココヤシ、ドリアン、マンゴスチンなど農業も盛んである。また、古くからタイ南部地域の宗教・芸術・文化の中心地として栄えていたため、特産品としてヤンリンパオという草で編んだバッグや二エロ細工、銀製品などがある。さらに、歴史的建造物として有名な仏教寺院であるワット・プラ・マハタートがある。21の郡と2つの分郡に分けられ、その下に165の行政区(タンボン)と1428の村がある。
表3-1 調査スケジュール(2007年8月)
21日 センター概要説明・視察:保護者へのインタビュー(5名)
22日 フアサイ郡アウトリーチ活動への同行:統合教育学校訪問(2校)・家庭訪問(5件)
23日 センター視察:教員(5名)、保護者(2名)へのインタビュー、家庭訪問(1件)
24日 ピブン郡CBR活動視察:インタビュー、家庭訪問( 1件)


第一節 ナコンシータマラート県特殊教育センターの概要
 ナコンシータマラート県特殊教育センターは、各県に1ヶ所ずつ障害児のための公立の教育支援施設を常設するというタイ政府の施策により、2000年7月31日に教育省が設置したナコンシータマラート県で初めての特殊教育センターである。設立当初は、ナコンシータマラート市ガラヤンシータマラートの学校内に臨時施設として開設されたが、2005年に現在のプラポンホム郡ナーサン地区へ新設移転した。
 ナコンシータマラート県特殊教育センターは、「身体、精神、知性、情緒、社会性、コミュニケーション能力、学習能力に障害がある者、身体障害者、病弱者、自立が困難な者、保護者を持たない者、社会的弱者に対する教育に際しては、これらの者が特別な基礎教育を受ける権利と機会を得ることができるようにしなければならない」[172]という1999年制定の国家教育法の条文を理念として、2008年までに関連組織と連携しながら、障害児の発達を促す教育体制を整えることを目標として活動している。
 同センターの役割は、@障害の早期発見、A家族や地域の人々への障害児に関する教育、B一般の学校での統合教育の推進、C法律で規定されている障害児に対するサービスの提供、があげられる。センターに登録できる対象年齢は、2〜19歳で、登録している障害児の数はおよそ500名である。センターの利用希望があれば、疾患や程度は関係なく受け入れている。登録時にその生徒は、どのような障害があるのか評価を行ないIEP(Individualized Education Program)[175]を作成している。また、登録者の内、1日約40名が、センターに登校してくる。センターでの教育は週4日行われているが、毎日登校する子どももいれば、地理的な問題や、親の仕事が忙しく送迎できないなどの理由で、登録していても、週に1日だけ、あるいは全く通学できない子どもなど多様である。教員は2007年8月現在、12名おり、その内訳は、センター長を含む公務員が6名、非公務員が6名となっている。また非公務員のうち3名が自ら聴覚障害を有している教員である。その他、給食を作る補助員(メーバーン)が1名雇われている。タイでは、普通、施設などには、必ず施設名の入った専用車と専属の運転手がいるとのことだが、この施設では財政上の都合から、施設名の入った専用車は1台のみで、専属の運転手はいない。子ども達の卒業後の進路は、@家事手伝い、A職業訓練学校への進学、B養護学校への進学、C統合教育学校への進学、となっているが、家庭へ戻っていく子どもが多いのが現状である。
表3-2 ナコンシータマラート県特殊教育センターの概要(2007年8月現在)
役割 @ 障害の早期発見A 家族や地域の人々への障害児に関する教育
B 一般の学校での統合教育の推進
C 法律で規定されている障害児に対するサービスの提供
対象年齢 2〜19歳
登録障害児数 約500名(1日の通学児童数:約40名)
教員数 12名(公務員6名、非公務員6名:聴覚障害者3名)、補助員1名
卒後の進路 @ 家事手伝い、A職業訓練学校への進学、B養護学校への進学、C統合教育学校への進学
活動内容 @ センターでの教育
A 保護者の自助グループの結成
B 家庭や学校への訪問活動
C 地域でのプログラム
出所:筆者作成
 予算は、主なものとして、政府から年2回、計約10万バーツとシリントン・リハビリテーションセンターからプロジェクト費用として7,000バーツがある。その他、県や郡など地区の役所からの支援や、ユネスコ、RI[174」からのプロジェクト費用、会社組織等からの寄付を通じた支援がある。寄付による支援も大きく、仏教国タイの慈善意識の高さを窺うことができる一面である。例えば、最近タイではチャトカーム[175]という信仰グッズが仏教徒の間で流行しており、同センターにおいてはチャトカーム販売の利益を通じた寄付金から、教職員の研究室を設置する予定とのことである。
 最後に、特殊教育センターの特筆すべき活動として、「クーポン券の発行」があげられる。センターでは、IEP作成済みの子どもに対して、1年に1人2,000バーツまでのクーポン券が発行される。クーポンの有効期限は1年間で、1人1回につき1時間、100バーツ分までの利用が可能である。費用が100バーツ以上かかる場合は、残りは実費となる。また、グループで利用するなど、他の人と工夫して利用することもある。例えば、クーポンの利用は、病院でのリハビリテーション(100から150バーツ)、補聴器や拡大鏡、白杖、コミュニケーション機器の貸し出しや、遊び道具の購入、知的障害の子どもが家庭教師を利用するとき、保険がきかない場合(夜間、休日など)の診察費などで利用される。また、医師を呼んで障害に関する勉強会を開く際などに、グループを作ることで、各家庭同士で時間やお金を調整して利用することもある。特に農村部では、障害児に関する知識やそれを学習する機会の欠如という問題のみならず、ほとんどの家庭で貧困問題も関係しているので、障害児支援のために利用される資金創出の仕組みとして有効な取り組みである。

第二節 ナコンシータマラート県特殊教育センターの活動内容
 ナコンシータマラート県特殊教育センターの活動内容は、1.センターでの教育、2.保護者の自助グループの結成、3.学校や家庭への訪問活動、4.地域でのプログラム、の4つに分けることができる。
 同センターの活動は、月曜日から金曜日までの週5日間である。月曜日から木曜日までは、センターで通所者への教育を行い、毎週金曜日はアウトリーチ活動日となっている。アウトリーチ活動日はセンターでの教育は全く行われず、教職員がいくつかのグループに分かれて、センターへの通所が困難もしくは不可能な子どもの家庭や地域の学校を訪問したり、センターから遠い地域へ行き研修会や親の会を開催したりしている。ナコンシータマラート県特殊教育センターは、アウトリーチ活動に熱心で、それ以外の日にも何人かの教職員がアウトリーチに行くこともある。

表3-3 月曜日から木曜日までのセンターでの1日の流れ
8時半〜9時半 朝の会(国歌斉唱・国旗掲揚、読経、体操)、手洗い
9時半〜11時半 5つのクラスに分かれて授業
11時半〜13時 手洗い、昼食、昼寝
13時〜13時半 歯磨き、手洗い、洗顔
13時半〜15時 5つのクラスに分かれて授業
〜16時 下校
出所:筆者作成

 ナコンシータマラート県特殊教育センターは、調査時は専属の運転手はおらず、専用車も1台しか無いので、ほとんどの生徒が親の運転するバイクに乗って来るか、ソンテウ[176]を利用するなどして登校する。センターまで近い生徒もいれば、バイクで1時間近くもかかって通学してくる生徒もいる。中には、体の小さな母親がバイクの後部座席などに体の大きい子どもを乗せてきていることもあるし、交通事故の多いタイの事情を考えると安全な通学手段とは言えない。また、ほとんどの母親は、家事や育児に加え、家業の手伝いなど多忙な生活の中、子どもを送迎することは大きな負担となり得る。センターから家が遠い場合は、例えば往復に伴う労力の軽減やガソリン代節約のために家に帰ることもできずに、半日以上を何もできずにセンターで過ごすことにもなる。さらに、それが毎日であれば家での仕事が困難となることも考えられる。それらの点を考慮すると、全員とは言わないまでも、通学用バスの利用ができれば親の負担は大きく軽減するだろう。しかし、現在のセンターの財政状況では実現は難しいようである。よって、通学頻度も家とセンターの距離や、親の仕事の都合など、それぞれの家庭の理由で週4日通える生徒もいれば週1日通うのがやっとという生徒もいる。
 朝の会は、体育館のような一番広い教室に生徒全員と教職員が集まって行う。障害の特性などにより、長時間じっとしていることが難しく途中で飛び出してしまう生徒もいるが、毎日の決まりごとなので慣れた様子で行っている。また、そのような生徒を落ち着かせる道具として、このセンターの教員が利用し始めたのが車のタイヤである。動き回る子どもを3段くらい積み重ねたタイヤの中に入れて、逃げ出さないようにしたり、歩行練習時の障害物としても使えるので、教職員の間で広く実用されている。筆者は当初、子どもを閉じ込めておくという負のイメージを抱いたが、様子を見てみると、動き回っている子どもを捕まえてタイヤに座らせると、自分の居場所という感じで不思議と落ち着く子もいて驚いた。タイヤの感触や微妙な弾力性に安心感を覚えるのかもしれない。
昼食は給食が提供されセンターが雇っているお補助員(メーバーン)が担当して作っている。教職員は、生徒の昼寝の時間に食べる。何人かの教職員は昼寝に付き添っており、調査時、眠れずに走り回っている生徒を教職員が追いかける様子を幾度となく見かけた。午後の授業後は親が向かえに来て、16時くらいまでには皆下校する。
 以下、事例を交えてセンターの活動内容を紹介する。

第三節 センターでの教育
1.クラスでの活動
 5つのクラスは、年齢に関係なく疾病ごとに分かれており、各クラスを2人の教職員が受け持っている。5つのクラスは、(1)脳性麻痺(CP)のクラス、(2)自閉症(重度)のクラス、(3)自閉症(軽度)クラス、(4)ダウン症、学習障害(LD)のクラス、(5)聴覚障害のクラスである。授業内容は各クラス担当の教員が考えて行う。今回の調査での各クラスの様子は以下の通りである。

(1)脳性麻痺(CP)のクラス
 筆者の見学時は丁度ラチャパット大学の学生が訪問しており、学生と共に10人くらいでテーブルを囲んでぬりえを行っていた。その脇では、重度の生徒が、恐らく自傷行為や他の生徒への暴力防止のため腕を縛られた状態で座っていた。教員の数も限られており、対象年齢も幅広く、障害の程度も違う中で、生徒一人一人に対して個別の対応をする事は難しい状況である。重度の生徒に関しては、とりあえず預けられているという印象を抱いた。

(2)自閉症重度のクラス
 CPのクラスとまず異なることは、入り口に柵がついており、生徒が飛び出していかないようになっていることである。重度のクラスという事もあり、時々奇声をあげる生徒がいたり、手を縛られている生徒も多く見られた。授業は、CPのクラスのように、皆で集まって行うのではなく、ボールプールに入っていたり、机に座っていたり、動き回ったり、基本的には、それぞれ自由に過ごしている。積み木を並べたり、穴の空いた積み木を棒に通して積み重ねたりなどセンターにあるおもちゃを使った活動を提供されている生徒もおり、それに教員が付き添って行うこともある。積み木を使った活動の目的は、把握や巧緻動作の練習を行う目的で行っているとのことであるが、果たしてその行為が日常生活につながる活動であるのかと考えると少々疑問が残る。

(3)自閉症軽度のクラス
 このクラスにも教室の入り口に柵がある。上述の2つのクラスに比べて活気があり、動き回っている生徒が多い。この教室には机と椅子や、数字の勉強をするための教職員手作りの教材があったりする。教室にあるおもちゃで遊んだり、ぬりえをしたり、大好きな自動車の雑誌を熱心に見たり、教職員に数字の問題を出してもらうなどのやりとりをしている生徒もいた。教職員に誰が何をするのか、どのように決めているのかと尋ねると、基本的には、それぞれが興味のある事を自由にやらせているとのことである。また例えば、統合教育学校への転校の可能性がある子どもに対して、その準備を兼ねて個別に関わることもあるようである。

(4)ダウン症、学習障害(LD)のクラス
 教室の雰囲気は自閉症軽度のクラスと似ており、机と椅子があり、読書をしたり、読み書きをしたり、それぞれが自分の興味のあることをして過ごしている。他のクラスと違うことは16〜18歳の年齢の高い生徒がおり、その生徒が他の生徒の面倒をみていることである。例えば、18歳の生徒は、来年はセンターを卒業しなければならない年齢である。卒業後は恐らく家庭に戻ることになるが、本人の希望もあればセンターに残って教職員を手伝い、他の生徒の面倒をみることを続けるということも考えているとのことであった。

(5)聴覚障害のクラス
 このクラスは、リハビリテーション用の階段があったり、マットが敷いてあったりする広い部屋の一角で授業を行っている。この部屋では、肢体不自由児や視覚障害の生徒がいる場合の歩行訓練などにも利用されているとのことである。見学時、このクラスの生徒は2名で、聴覚障害を持つ教員が手話を教えていた。このクラスを担当している教職員は、UNESCOの障害児に関するプロジェクトによって派遣されている教職員とのことである。また、2歳の生徒はこのセンターで基礎的な手話を覚えた後、聴覚障害専門の養護学校へ転校予定とのことだった。

(6)まとめ
ナコンシータマラート特殊教育センターが開設してから、約7年が経過しており、教材などもそれなりに揃っているという印象を抱いた。また、クラスの雰囲気を見ても、このセンターでの活動のペースができているように思う。今後は限られた財源や教職員や資源の中で、いかに活動の幅を広げ、個々のニーズに応え、教育の質を上げていくか、現在ある環境をいかに効率的に活かしていくことができるかが課題である。また、生徒がセンターの教育で得たことを将来活かす場が乏しいことも大きな問題である。教育の質の向上については、次に紹介する教職員のインタビューによって現状を垣間見ることができる。

2.教職員へのインタビュー
 今回の調査では、12名中6名の教職員にインタビューをする機会に恵まれた。@年齢、性別、出身県、A公務員か非公務員か(センターでの勤務歴)、Bセンターで働く以前はどのような仕事をしていたのか、Cセンターで働くようになったきっかけ、D仕事内容、E現在の仕事について感じていること、の大きく6項目の質問をした。なお、各教職員の正式名は省き、センターで通常呼ばれている名前で紹介する。

表3-4 教職員へのインタビュー(2007年8月)
@ A B C D E
(1)
ウアン
先生
48歳
女性
ナコン
公務員
(約5年)
中学・高等部の教師 障害児教育に興味があった 事務一般・CBR・教育 子どもや家族に教育の機会を与えることが出来嬉しい。問題はたくさんある。
(2)
ナタポン先生
52歳
男性
ナコン
公務員
(約3年)
中学・高等部の教師 害児教育に興味があり、募集を見て志願 障 自閉症クラス
(3)
アネークチャイスワン先生
23歳
男性
クラビー県
非公務員(約2年) 実家のゴム農園の手伝い センター教職員からの誘い 手話指導・子どもの世話係り・当直 楽しくて、面白い。協力してやっているので困ったことはない。
(4)
ヌッチャナスティサ先生
28歳
女性
ナコン
非公務員(約4年) ラチャパット大学学生 親戚から募集を聞いてやってみたいと思った 自閉症クラス 子どもは一人一人対応が違うので悩むことはあるが、苦には感じない。
(5)
ピンパー・ナックロン
先生
28歳
女性
スラタニー県
非公務員
(約4年)
事務職 センター所長からの誘い CP・LD・MRクラス やりがいがあり、楽しい。
(6)
ギップ
先生
25歳
女性
チュンポーン県
非公務員
(6ヶ月)
FCDバンコク 職員募集を知り、実家から近かった CPクラス やりがいがある。
FCDではなかった公務など良い経験ができている。
出所:筆者作成(ナコンシータマラート県を「ナコン」と略)
(1)ウアン先生
 ウアン先生は、本調査で筆者が一貫して同行したナコンシータマラート県出身の48歳の仕事熱心ではつらつとした女性教職員である。ウアン先生はタイ政府の公務員で、センターに来る前は公立中学・高等部の教員をしていた。その際、クラスに聴覚障害を持つ生徒が在籍していたこともあり、障害児教育にも興味を抱いており、学校の仕事が休みの土曜日や日曜日は、障害児のいる家庭に足を運び、勉強を教えに行っていたこともあるという。センターができる前にも障害児教育に対する需要があり、障害児のいる家族が直接ウアン先生に依頼したり、役所を通してウアン先生に依頼が来ていた。ウアン先生の他に障害児のいる家庭へ訪問する教員は、ほとんどいなかったようである。そのような過程を経てウアン先生は、「教員であっても障害がある子どもに教育をする能力があるはずだ」という心情の基で、現在もセンターで障害児教育に携わり、時間を惜しむことなく精力的な活動を続けている。センターでの仕事については、利用者である子どもや家族に教育の機会を与えることができて嬉しいが、教職員や予算が不足しているため運営が苦しく、問題はまだまだ多いと語る。

(2)ナタポン先生
 ナタポン先生も、ナコンシータマラート県出身のタイ政府の公務員で、52歳の男性教職員である。ウアン先生と同様、センターに来る前は公立の中学・高等部の教員だった。ウアン先生のように、中学・高等部の教員だった頃から障害児に関わっていたという事は無かったようであるが、テレビや新聞で障害児に関する情報を見聞きするなかで興味を抱くようになったという。そこでセンター教職員の募集を知り、自ら志願して働くようになったとのことである。仕事に対してはやりがいを感じている。

(3)アネークチャイスワン先生
 アネークチャイスワン先生は、ナコンシータマラート県の南西に位置するタイ南部地方クラビー県出身の23歳の非公務員の男性教職員である。アネークチャイスワン先生は、聴覚障害を有しており、聴覚障害児の手話指導や広く子どもの世話係りをしている。センターには聴覚障害を有する教職員が合計で3名在籍しており、1名は研修で不在であったため未確認であるが、アネークチャイスワン先生含む2名はUNESCOからの派遣という形で在籍している。アネークチャイスワン先生はタイ国内の聾学校を卒業後、実家のゴム農園の手伝いをして暮らしていたが、ウアン先生達が新しい教職員を探す際、聴覚障害学校の卒業生名簿からアネークチャイスワン先生を選び、センターで働かないかと誘った事をきっかけにセンターで働くようになったとの事である。ゴム農園の仕事はとても暑く大変であまり好きではなかったので、今の仕事は楽しくて面白いとのことである。仕事について困っていることや大変なことはあるか、との問いに対しても、皆で協力しながらやっているので特に無いとの事であった。このようにセンターでの仕事に生きがいを持って取り組んでいる先生であるが、UNESCOとの契約の期限があるとのことで、契約終了後、どのような形で勤務することができるのか検討中とのことであった。

(4)ヌッチャナスティサ先生
 ヌッチャナスティサ先生は、ナコンシータマラート県出身で、センターに見学に来ていたラチャパット大学の人間社会学科を卒業した28歳の女性の非公務員の教職員である。親戚が、センターの職員募集の情報を聞き、興味を抱き働くようになったとのことである。働き始めた時は、病気や障害についての知識や障害を有する人々にはどのような学校があるのかなど何も知らなかったが、自分にも何かできることがあるのではないかと思い、もっと障害児について知りたいと思ったという。困っていることは特に無いとのことだが、子どもはそれぞれの障害も異なるし、一人一人の性格や障害の程度などによっても関わり方が異なるので指導方法に悩むことがあるようだ。障害児に関する知識を得るために研修に行くようにしているが、研修場所が遠いことも多く、仕事も忙しいため、なかなか行く時間がとれない状況のようだ。

(5)ピンパー・ラックナロン先生
 ピンパー・ナックナロン先生は、ナコンシータマラート県より南部のトラン県出身の28歳の非公務員の女性の教職員である。ピンパー・ラックナロン先生は大学卒業後2年間、障害とは全く関係の無い仕事をしていた時にナコンシータマラート県特殊教育センター長と知り合い、センターの話を聞いたという。ピンパー・ラックナロン先生は、当時の仕事にあまりやりがいを感じていなかった。就職前は障害について興味を抱いたことは無く、何も分からなかったけれど、障害児をかわいいと感じ、給料もセンターの方が良かったため、自分にもできそうだと思い働くことに決めたとのことである。ピンパー・ラックナロン先生はさらに、センター就職後約1年間、ナコンシータマラート県より南部のソンクラーにある学校で障害児教育について専門的な勉強をしていたことがあるとのこと。ウアン先生とピンパー・ラックナロン先生の家庭訪問に同行したが、本人も今の仕事にやりがいを感じていると語っており、とても仕事熱心で物事を冷静に考え取り組む教職員である。

(6)ギップ先生
 ギップ先生は、ナコンシータマラート県より北に位置するチュンポーン県出身の25歳の非公務員の女性の教職員である。ギップ先生は、大学で教育学について学んでいた頃から障害児教育に関しても興味を抱いていたという。調査時、センターで働き始めてから半年しか経過していなかったが、センターに来る前はバンコクでFCD(タイ障害児財団)というタイ国内の障害児を支援するNGOで働いており、障害児に対する遊びの指導や、研修の手伝い、家庭訪問などを行っていたという。センター教職員募集の情報を得て、実家から近いため、ここで働き始めたとのことである。センターでの仕事は、公式文書の作成などFCDでは経験しなかったような公務など、初めてのことも多く大変だが良い経験になっており少しずつ慣れてきたところであるとのことだった。

(7)まとめ
 以上の教職員に対するインタビューを通して、最も感じたことは、教職員一人一人の仕事に対する意欲の高さである。障害児教育の経験はもちろん、障害児と触れ合う機会もほとんど無く、障害に関する知識をほとんど持たないところから、何かしらの興味やきっかけで自分にも何かできることがあると感じ働いているようだ。特に、若い教職員からのインタビューでは、一人一人の対応が異なるため、どのように教え、対応していけば良いのかを悩みながら、取り組んでいる様子が窺えた。そのような知識や経験の不足を補おうと、研修に参加することもあるが、実際は日常の勤務や生活に追われ難しい状況である。
 ウアン先生のインタビューからは、教職員や予算の不足などセンター運営の厳しい現状を垣間見ることができる。例えば、センターに通所困難な子どものために、教職員達がグループに分かれて訪問活動を熱心に行っている。訪問先は、ナコンシータマラート県内至るところにあるので、片道3時間などということも多い。タイでは多くの団体が施設名や会社名の入った車を所有し、運転手も雇っている。同センターの車は一台あるが、運転手を雇える状況ではない。よって、教職員は自家用車を使用して自ら運転し、訪問先を回ったり研修を行なったりしている。もちろん朝早く出発し夜の帰宅も遅い。帰路は、いつも元気な教職員もさすがに疲労困憊となり、往復のガソリン代も教職員の実費であるため、教職員個人にかかる体力的・経済的負担は大きい。
 現在のセンター運営状況は、意欲の高い教職員らに支えられて成り立っている面がおおいにあると感じた。

第四節 保護者の自助グループの結成
 五体満足を願って生まれてきた我が子が障害を持っていた時、障害があると分かった時、事故や病気など何らかの理由で障害を持ってしまった時…、家族(特に母親)の受ける衝撃は大きく、自分の子どもが障害を持っているという事実を受け入れることが困難なケースも多い。特に農村部では、病院など障害に関する情報を得られる場所まで遠いことも多く、親が障害を持った我が子をどのように育てればよいのか、どのように接していけばよいのかも分からないといった事態に陥ってしまうことがある。さらに、第一章第三節で述べたような、古くからある障害者観の影響で、世間の目を気にして生活しているケースも多いため、自分の家の子どもを恥じ、何年も家の中から外に出すことなく育てたり、逆に必要以上に過保護に育てるなどといったことが生じることもある。このような事態が生じる大きな原因の一つとして、家族や周囲の人々の障害に対する理解の低さや偏見を挙げることができる。そういった障害に対するネガティブな認識を改善することで、障害者の置かれている状況の改善が期待できる。そして、そのためには、障害者と生活を共にしている「家族」が障害当事者と同等に重要な存在である。まだ自分の力で考え、行動していくことが難しい障害児の支援の場合、自分達の子どもを守り、障害児を持つ親同士が共感し合ったり、子どもに関する情報を共有し合い、わが子の置かれている状況を改善していく際に重要な役割を果たすのが「親の会」である。タイにおいても、全国、県、地域、障害種別など、様々なレベルで親の会が発足し、活動している。ナコンシータマラート県特殊教育センターでも、センター長が「家族をエンパワーすることで、質の高い生活を行うことができる」 [177]と語るように、障害児自身の成長のみならず、その家族に対する支援の重要性も理解し、保護者の自助グループの作成・普及にも積極的に取り組んでいる。本節では、センターの保護者に対する支援をインタビューをもとに紹介する。

1.ナコンシータマラート県特殊教育センターにおける保護者に対する支援
 筆者は家庭訪問へ同行した時など、保護者と教職員が障害を持つ子どもについての事はもちろん、その兄弟や家族のことなど、とにかくよく会話する姿を目にした。センターは、限られた教職員数で、ナコンシータマラート県中の障害児及びその関係者への対応をしているため、同一家庭へ訪問できる回数も必然的に限られてしまう。周囲に相談できる相手がいない家庭も多いので、家族にとって教職員の存在が大きな心理的支えとなっている。教職員もそれを理解し「困ったときはいつでも連絡して欲しい」という態度で接し、相手に対して常に歓迎の気持ちで受け止めることを通して信頼関係を築きながら支援している様子だった。
 また、センターの保護者に対する支援として、@様々な制度やサービスなどの情報提供や、A自助グループの結成が挙げられる。@は、障害児に対して、提供されているサービスの情報を保護者に紹介し、利用について相談することである。Aは、次の項で紹介するモンコンさんなど、センター教職員が、保護者達と話し合いを重ねながら、「親の会」を結成することである。「親の会」を作ることで、同じような悩みを抱える仲間と出会い、互いに共感し合い、相談し合い、情報交換をすることで、保護者の精神的な負担が軽減されると同時に、子どもの成長への好影響が期待できる。「親の会」は、将来的には、センターを介さなくとも、保護者同士で独自に運営し、子どもの成長を見守っていくことができるような組織を目指している。

2.保護者へのインタビュー
 それでは、実際にセンターの利用を通じて、母親や子どもはどのような変化が見られるようになったのだろうか。子どものお迎えに来ていた保護者に対して行なったインタビューを基に探っていく。
(1)保護者へのインタビュー
 今回の調査では、合計7名の保護者からの協力を得て、インタビューを行なった。@子どもの年齢と疾患名、Aセンター在籍期間、Bセンターへの通学頻度、C通学手段と所要時間・距離、Dセンターを知ったきっかけ、Eセンター通学以前の様子、Fセンター通学を始めてからの変化の有無とその内容、G子どもに望むこと、という大きく8項目の質問を行った。

表3-5 保護者へのインタビュー
@ A B C D E F G
A 10歳
自閉症
卒業 ラジオの宣伝 普通学級 普通学級へ 社会参加・自立・社会ルールを覚える。
B 10歳
自閉症
約2年 週1〜2回 バイク
約40〜50km
病院の紹介 何でも自分で出来るようになった 身辺自立・
普通学級入学。
C 10歳
自閉症
約3年 週4回 バイク
約2km
病院の紹介 普通学級拒否 おしゃべりが上手になった ボタンの付け替え。
D 9歳
自閉症
約2年 週4回 バイク
約10km
病院の紹介 遊ぶのが上手になった ボタン操作・米を食べず、麺ばかり食べている。
E 12歳
自閉症
約3年 週1〜2回 ソンテウ
約25km
病院の紹介 歩行が上達した 身辺自立・紙をちぎったり、食べたりしてしまう。
F 4歳
ダウン症
約5ヶ月 週4回 バイク
約10km
病院の紹介 普通学級 食事やトイレの始末ができるようになった ボタンの付け替えがまだできない。
G 8歳
知的障害
約5ヶ月 週4回 バイク
3km
学校の紹介 普通学級 文字を書けるようになった。よく歌い踊るようになった 普通学級で授業を受けることができるようになるといい。
出所:筆者作成

 まず、B通学頻度とC通学手段と所要時間・距離を見てみると、やはりセンターと自宅が離れている家庭の通学は週1〜2回と、他の家庭より通学が少なくなっている。いずれのケースも、本当は毎日センターに通いたいが、家の仕事の都合で難しいとのことであった。
Dセンターを知ったきっかけを聞くと、ほとんどの保護者が病院で紹介されたと言う。たまたまラジオで知ったという人もいたが、その他は、病院又は学校で紹介されてセンターを訪れたとのことなので、障害児に関連する機関においては、「障害児がいれば、センターに連絡」という構図が成り立ちつつあることが予想される。
 Eセンター通学以前の様子では、普通学級への入学を拒否され、月に一回くらい病院へ連れて行くほかは家にいるだけだったという家庭が4件あった。月一回の通院では、医師は忙しく、リハビリテーションも短い時間しか行ってもらうことができなかったという。また、普通学級へ通っていたが、うまくいかないことも多く、センターを知り移ってきた子どももいる。この点については、実際の子どもの様子を見ていないので、一概には言えないが、Dでも述べたように、「障害児は、センターへ」という構図が成り立ちつつある可能性がある。この場合、少しの工夫で、統合教育を続けられる子どもも、その機会を中断、もしくは遮断し、センターを利用するという事に繋がることも考えられる。
 Fのセンター通学を始めてからの変化の有無とその内容では、皆口をそろえて「良くなった」と言っていた。これは、センター運営が利用者達の間で評価されているという事を意味しよう。一方、障害児に対する支援の場所が無かったところに、初めてできたセンターであるので、利用して「良くなった」という結果は、当然の事として捉えることもできる。また、具体的にどのような点が良くなったのかを尋ねたところ、何でも自分でできるようになった、おしゃべりや遊ぶのが上手になった、歩行が上達した、食事やトイレの始末ができるようになった、文字を書けるようになった、などの答えが返ってきた。子どもは障害の有無に関わらず、個々のペースで成長する力を持っているので、これらの変化に、どれくらいセンター利用の効果が反映されているのかを分析することは難しい。
 G子どもに望むことは何か、との問いに対しては、普通学級への入学、身辺の自立の他、ボタンの付け替えができるようになって欲しい、米を食べず麺ばかり食べてしまうのでバランス良く食べるようになって欲しい、紙を食べてしまうので困っているなどがあった。  この問いに関しては、少し考えてから答える人が多かったように感じた。保護者にとっては、センターを利用自体が大きな心の支えになっており、自分の子どもが将来どのような生活を送っていくことができるのか、どのような可能性があるのかについて考える機会があまりないのではないだろうか。また、タイにおける障害者の現状を見ても、障害を持ちながら職を持ち自立した生活をしている人は少数であり、障害を持つわが子の将来像を描くことが難しい現実がある。
 障害をもつ子どもの親達が、今後、自分の子どもの将来を、少しでも希望を持って考えていくことができるようになれる可能性を持つ場として、「親の会」をあげることができる。親達は、同じような悩みを抱える仲間と出会い、障害を持ちながら暮らす様々な家庭を知ることで、お互いに影響し合い、子どもを育てていくことができる。
 インタビュー協力者も、ほぼ全員[178]が「親の会」の会員となっている。「親の会」の主な活動内容は、会員の集まりと研修への参加である。集まりでは、お互いの子どもの事を話したり、病気や障害に関する知識を勉強したりしている。また、研修はナコンシータマラート県内だけでなく、バンコクなど遠方へ行くこともあるとのことである。研修では、例えば、覚えて欲しい物の名前を言ったら飴をあげる、など行動療法的なこと、歩行練習の方法や道具の使い方、坐位保持の方法などリハビリテーション、会話についての知識を学ぶことが多いようだ。「親の会」を通じて、センターや医師を頼らずに、親同士で相談できるようになって良いという反面、特にインタビューに応じてくれた保護者達は皆、子どもの教育に熱心なこともあり、センターや医師にもっと研修を開いて欲しいという声も聞かれた。この要望に対し、現在はセンター教職員の数が足りず、研修で指導できる能力の教職員も少ないため、研修を増やす余裕が無い。また、指導能力を持つ教職員を育成するため、教職員も研修へ参加させたいが、時間を作ることができない状況であるとのことだった。今後は「親の会」をより組織的に改善していったり、研修も行うことができるようなリーダーシップに長けた人材を確保していくことも必要になってくるだろう。

(2)センターがきっかけを作り、「親の会」が発足した事例
 モンコンさんは、10歳の自閉症の娘の父親で、ナコンシータマラート県自閉症児親の会の代表でもある。
 モンコンさんの娘は2歳の時、自閉症であることが判明した。それからモンコンさんは、テレビや新聞、雑誌などで自閉症について知るようになった。娘は初め地域の幼稚部そして小学部に入学したが、気持ちが乱れて暴れてしまうことがあるためうまくいかないことも多かったという。ある日、モンコンさんは、ラジオでたまたまナコンシータマラート市内に教育センターが開設されることを知り利用するようになった。センターで専門的な指導を受けたことがきっかけで、モンコンさんは地域の学校へ娘を転校させることを再度決めた。モンコンさんの娘は家の近くの学校では入学許可を得ることができなかったが、モンコンさんの職場の官舎で父子二人暮らしをしながら、その近くの学校に通うようになった。頻度は減ってきているが、今でも娘の気持ちが乱れて暴れてしまったり、自傷行為に及んでしまうことがあり、モンコンさんは月に1〜2回は学校に呼び出されることがある。学校と職場が近いので、学校には「困ったことがあったらいつでも連絡して欲しい」と伝えてあり、職場の仲間からも娘について理解を得ているので、すぐ対応できる環境であるという。娘は新しい環境に慣れるまでに1ヶ月くらいかかったが、同年代の友達もでき、一緒に勉強できるようになってきたとのことである。週末になると、モンコンさんと娘は二人でバイクに乗って、家族の住む家に帰るという生活を続けており、「今の状況が、自分にも、娘にも、家族にとっても一番いい環境である」とモンコンさんは語る。最近では、「娘と一緒に料理をするようになった」と嬉しそうに語るモンコンさんは娘に、社会のルールを覚え、自立し、社会参加できるようになって欲しいと望んでいる。
 また、モンコンさんは、父親という顔の他に、「ナコンシータマラート県自閉症児親の会」の代表としての顔も持っている。「自閉症児親の会」は、センターの教職員とモンコンさんが中心になり、2003年に発足した団体である。現在、会員数は115名であるが、病院や市役所からの紹介や、口コミで会員が集まっているという。活動内容は、@親同士が集まる機会の提供、A障害者と関係組織(社会開発人間保障省、県、障害者支援施設、病院など)との連携、B家族への自閉症についての情報提供、C会議や研修への参加、D地域の学校の先生への啓蒙活動である。@の親同士が集まる機会の提供は、現在はまだ定期的開催には至っていない。また、D地域の学校の先生への啓蒙活動とは、統合教育の呼びかけや、例えば、自閉症の一般的な特徴についての知識を伝達すると同時に、同じ  自閉症の人でも一人一人皆個別性があるから、対応や指導の仕方も一様ではないということなどの啓蒙である。
 特に農村部では、移動手段が乏しく、病院に連れて行くお金も無い家庭もある。また、障害児を持つ親は、家族が生活していくための仕事もあるので、時間的・体力的・経済的にも責任をもって子どもの面倒をみることが難しい。また一般的に、親は子どもより先に死んでしまう存在であるため、両親はもちろん、周りの人々が協力して子どもの面倒をみるべきであるが、それらができていない所が多いのが現実である、とモンコンさんは障害児支援について語る。そして、自閉症児を抱える親達は、社会福祉サービスなどの障害者の持てる権利や、自分の子どもへの接し方も分からない人が多い。よってそれらの人々に自分の知っている知識を教えるなど、子ども達の成長の力になっていきたいとモンコンさんは考えている。モンコンさんは現在、「障害児親の会」の全国レベルなどの大きな会議が月に一回、その他何かしらの会議が週一回はあり、精力的に参加している。その他、今回のように時々センターを訪問して保護者や子どもに声をかけたり、アドバイスしたり、他の子どもが病院へ行くのに付き添ったりもしているという。モンコンさんは公務員としての自身の仕事に加え、親の会関連の活動もるので毎日忙しいが充実していると笑顔で語ってくれた。

(3)まとめ
 保護者に対するインタビューでは、今まで障害を持った我が子をどのように育てていけばよいのか、為すすべが無かったが、センターが開設されたことで、障害に対する知識、子どもへの関わり方に関する知識、同じ悩みを抱える親同士の交流の機会がもたらされたことによって、障害児とその家族を取り巻く環境は大きく改善したことが示唆される。さらにセンターの存在は、病院や学校など障害児に関連する機関からもよく認知されており、「障害児→センター」という構図が成り立ちつつあるようである。
 今後は、限られた資源や財源の中で、いかに教育やサービスの質を向上していくかが課題である。この点は、センター開設の恩恵に預かることができていない子ども達の存在を考える上でも重要である。なぜなら、現在の規模では、ナコンシータマラート県中の障害児をセンター教職員だけで対応していくことは困難である。よって、地域の学校で統合教育を進めたり、親の会をより組織化し、ある程度親や地域の人々で障害児を支援していく必要がある。そのためには、センターでの教育の質を向上し、障害児教育のみならず、保護者や地域の人々に対する障害児支援教育も進めていく必要がある。そうすることで、より障害児支援の輪が広がっていくだろう。

第五節 学校や家庭への訪問活動
1.学校への訪問
 本調査では、統合教育を行っている3校の学校へ訪問する機会に恵まれた。同行してもらったウアン先生によると、ナコンシータマラート県には約1,000校[179]の学校があり、そのうち約500校が障害児を受け入れている。センターは、そのうち約300校と連絡を取り合っているとのことである[180]。センターと統合教育を行なっている学校間では、センター教職員による学校訪問及び電話連絡による情報交換(近況報告)、研修・勉強会の開催、障害児受け入れの調整などの連携を図っている。センターには、障害児がいるのだが、どのように対応すれば良いかなど、問い合わせがあるが、全ての問い合わせに応えられていないのが現状である。本項では、訪問した3校より2校を紹介して問題点を提起する。

(1)パークバーンターパヤー寺院学校
 この学校は、生徒81名、教職員8名で、そのうち障害児は4名在籍している。学校名の通り、寺院に併設されている公立学校である。タイでは教育が寺院で始まったこともあり、寺院に公立学校が併設されていることが多い。寺院と学校が併設されているという事は、地域の人々にとって馴染みのある場が共にあるのであるから、別々に位置する以上に親しみのある場となることが推察される。そのような学校で統合教育を行うということは、障害児が自然に地域の人々に受け入れられる存在になりやすいことが考えられ、タイならではの利点としてあげることができるだろう。校長の障害児教育に対する理解が篤く2001年に校舎の端に特殊学級が開設され、4名の障害児が教育を受けている。自閉症と学習障害の生徒が在籍している。また、特殊学級を受け持っている教職員は2名おり、一人は読み書きを教え、一人は遊びを通した教育を担当しているとのことである。4名のうち1名は学校に登校できない事も多く、訪問教育を行うこともあるとのことである。
 訪問時は、障害児4名の他に、普通学級の生徒が約4名おり、一緒にカードを使って数字や文字の勉強をしたり、ブロックで遊んだりなど、障害児と交流する様子が見られた。この生徒達は自主的に集まった世話係りの生徒で、休み時間など空いている時間に特殊学級に遊びに来ている。また反対に、特殊学級の生徒が普通学級で授業を受けたり交流したりすることは無い。普通学級の教師は、クラスの生徒を見るだけでも大変なので、障害児まで見る余裕は無いとのことである。障害の程度にもよると思うが、将来の事も考えると普通学級での交流の機会がもっと増えると良いという印象を抱いた。
 センターの教職員は1〜2ヶ月に1回、この学校に訪問して、特殊学級の教職員から近況報告を聞いたり、障害児教育に関する悩み相談を受けたり、指導方法の伝達などをしている。頻繁には訪問できないので、例えば文字を書けるのに書こうとしてくれない子がいる、など困ったことがある時や、どうしているか気にかかった時など電話で連絡を取り合うこともあるとのことである。

(2)バーンチャーイタレー学校
 この学校は、生徒126名、教職員が10名で、そのうち13名の障害児が在籍している公立学校である。13名のうち5名はこの学校の教職員によって週一回訪問教育が行われており、3名は普通学級で教育を受け、残りの5名は特殊学級で教育を受けている。特殊学級が開設されたのは2000年からとのことである。ナコンシータマラート県特殊教育センターが2000年、パークバーンターパヤー寺院学校が2001年、バーンチャーイタレー学校が2000年に特殊学級を開設していることから、1991年の障害者リハビリテーション法、1997年新憲法の発布、1998年タイ障害者人権宣言、1999年教育法制定を通じて、障害児を取り巻く状況にも光が当てられるようになり、実際の取り組みも始まってきたことが推測される。
 自らインタビューに応じてくれた校長によると、この学校では、地域に障害を持っている子どもはいるが、この学校に特殊学級が開設される以前は、この地域に障害児を支援する窓口は全く無かった。よって、障害児も教育が受けられる場所の必要性を感じ、特殊学級を開設した。周りに障害児を受け入れている学校が少ないようで、遠方の違う地区からこの学校へ通ってくる生徒もいるとのことである。この学校にも障害児の世話係りの生徒がいるとのことで、普通学級の生徒との交流を図っている。また、障害児も普通学級で一緒に授業を受けられる機会を作るようにしているとのことである。
 また、この学校の特殊学級の教職員は、タイ・スパニミット財団という子どもを支援している財団に雇われる形で勤務している。特殊学級では、タイ語や社会生活でのルール(マナー)を教えたり、遊びを通したリハビリテーションを行っている。訪問時は、左側下肢欠損の子どもが松葉杖を使って、教員と歩行練習をしていた。障害児達の卒業後は、生徒によっては中学校に進学するが、家族の手伝いをして暮らす場合も多い。
 この学校も、センターとは障害児に関する知識の普及や情報交換、教師に対する障害児の遊びを取り入れた指導方法などの研修の開催を通して継続的に交流している。校長は、特殊学級ができて、障害児が入学することで、個別指導の必要性も出てくるため、仕事量が増えてしまったが、障害児と非障害児の交流が増えたことは良かったと述べていた。

(3)まとめ
 農村部において限られた財源と社会資源の中で、障害を持つ子どもの教育の機会を増やそうと考えたとき、障害児のための新しい施設を設立するよりも、地域の学校など今ある教育資源を利用していく方が確実に効率的である。さらに、地域の学校と連携して統合教育に取り組んでいくことは、障害を持つ人々と障害を持たない人々が、お互いの存在を認識し、交流する機会を提供することができるという側面も持ち合わせている。
 タイでは、法律の制定に伴い、各県に特殊教育センターが開設され始め、統合教育を行う学校も増えているようであるし、少しずつ障害児教育に光が当てられてきている。しかし、それでも財源や社会資源は限られたものであり、その中でやっていくためには、今後も関係機関が連携し合い、それぞれが連携の枝を広げていかなければならない。また、バーンチャーイタレー学校のように、財団などとの連携も注目される側面である。

2.家庭訪問
 ナコンシータマラート県特殊教育センターでは、毎週金曜日はアウトリーチ活動専門の日に指定し、地理的な問題や家庭の事情によりセンター通学が難しい子どもに対する家庭訪問にも力を入れて取り組んでいる。教職員は、問い合わせがあった家庭に訪問するだけでなく、聞き取りなどによって新たな障害児を早期に発見し、サービス提供に繋げることもある。訪問時には、障害に関する情報やロールモデルの紹介を含めたリハビリテーションの方法の伝達などが行われる。
 本調査では7件の家庭に訪問する機会を得ることができた。本項では、さらにその中から4件を事例として紹介する。

(1)早期に発見することができた事例
 スゥァ君は、1歳6ヶ月の男児で、診断名は脳性麻痺である。高床式の家屋で、38歳の木工師の父と、38歳の母、11歳の兄の4人で暮らしている。訪問時は兄は通学中で不在であったが、両親の出迎えの他、すぐ脇に住む親戚も数人おり、センター教職員と会話する様子も見られた。
 スゥァ君宅への家庭訪問が始まったのは、2007年5月からで、筆者が訪れた2007年8月現在、3ヶ月が経過したところであった。センターから、約30分〜1時間という距離でもあるため、週に1回くらいの訪問頻度であるとのこと。スゥァ君が通院している病院の医師からセンターを紹介されたことがきっかけで、母親がセンターに連絡し、センター教職員の訪問につながったという。
 教職員の訪問時は、スゥァ君のマッサージ、遊びを通したリハビリテーションの方法の指導やアドバイスなどを行っているという。筆者の訪問した日は、坐位保持が難しいスゥァ君のための椅子が完成したばかりで、その椅子を見に来たとのことであった。椅子は背もたれや足台がついており丈夫そうであった。センター教職員が紹介、アドバイスをして父親が作成したものである。このような椅子は身体的に坐位保持の難しい子どもにとって必要なものである。いつも寝てばかりいた生活から坐位姿勢になることで視界が広がり、周囲からの情報が多く入り脳が活性化したり、体幹が安定することで腕や手が動かしやすくなり、食事など日常生活においてセルフケアが行い易くなるし、教育の面で考えれば、学校で机に向かって勉強するために必要な姿勢であると言える。日本では、子どもの体の大きさに合わせてオーダーメードで製作され、素材にもこだわることがある。タイにおいても、都市部の富裕な家庭の障害者は、専門機関においてそのような椅子を入手することができるかもしれないが、農村部に住むスゥァ君の場合、父親が家の裏にある木や竹を使って手作りであった。今回の調査でも7件中3件に同様の型の手作りの椅子があった。また今回は教職員が鈴を持参し、スゥァ君の興味を引いて遊ぶことを試みていた。
 両親は、「センターの先生の訪問が始まる前は、月一回通院するのみで、その際のリハビリテーションも30分くらいしかなかったし、子どもに希望を持つことができなかった。しかし、今は先生が一緒に遊んでくれて、リハビリテーションもしてくれて、希望が持てるようになった。今後は、もっと座れるようになって、立てるようになって欲しい」と希望を持ち始めている。
 また、センター教職員はスゥァ君に対して「(スゥァ君は)早く見つかって運がいい。リハビリテーションの方法が分からないまま、もっと発見が遅れていれば、状態はもっと悪くなっていただろう」と語る。通訳によると、教員は、その中でも「運がいい」という言葉を繰り返したという。その言葉からタイ農村部における、障害児に対する支援が全くと言っていいほど行われてこなかった状況、そして現在も十分に行うことができていないという状況を感じとることができる。また、障害児は自らの可能性を最大限にし、損傷の効果を最小限にするために集中的リハビリテーションと教育の機会を必要とする[181]ことからも、障害児の早期発見が可能となるよう体制が整備されていくことが望まれる。

(2)母親が病気の父親と障害を持つ子どもを支えている事例
 マーノップ君は、12歳の男児で、診断名は脳性麻痺である。高床式の家屋で、両親と16歳の姉、5歳の弟の5人家族である。マーノップ君は、人の言っていることは分かるが、発語は無く、自力では坐位保持もできないので、学校にも通っていない。筆者の訪問時、マーノップ君は自宅の縁側で一人寝かされて過ごしていた。マーノップ君の家庭への訪問が始まったのは、2006年12月頃からで、訪問頻度は月1〜2回とのことである。次に紹介する事例の家庭からの紹介により訪問が始まった。センター教職員の訪問が始まる前までは、時々通院していた病院の医師から、学校にも通うことはできないし、手伝いようがないと言われていたという。
 訪問時マーノップ君の家庭は父親が病気で、家でほとんど寝たきりの生活を送っていた。母親は夫の介護並びに、家の軒先で親戚と食品などの販売をして生計を立てている。しかし、店のある道は自動車や人の通行も乏しく、その家庭の店がぽつんと存在しており、収入はあまり期待できる様子ではない。マーノップ君は母親が働いている間、この店の裏側で寝かされて育った。
 センター教職員が訪問し始めてから、母親はマッサージ、遊びを通したリハビリテーションの方法の指導や座り方のアドバイスを受け、リハビリテーションの方法を学ぶ研修にも参加するようになった。祖父がマーノップ君のための椅子を作成すると、その椅子に座って母親と一緒に店番ができるようになった。センター教職員の訪問が始まってから、どのような変化があったかと尋ねると、座れるようになったこと、ご飯をたくさん食べるようになったことに加え、一緒に店番ができるようになったことが挙げられた。食事量の増加は、寝てばかりの生活からリハビリテーションを行うようになったり、座って生活する時間が増えたり、活動量が増加したことの現われであろう。他の家庭でも、センター教職員が訪問し、リハビリテーションをするようになってからの変化として、便通が良くなったという声を聞いた。 それまでいかに為すすべを知らず生活していたかが垣間見られる点の一つである。
 しかし、夫の介護をしながら3人の子どもを育てるマーノップ君の母親の負担は大きい。マーノップ君のマッサージやリハビリテーションも、父親が毎日行っていたが、訪問時は症状が悪化しておりできる状態では無かった。奥の部屋で静養中の夫を前に、妻は涙を隠せず、精神的にも大きな不安を抱えながらの生活となっている。センター教職員は「マーノップ君は、自分達が責任を持って面倒を見るから、安心して大丈夫」と両親を励ましている。

(3)センター教職員がロールモデルを活かして介入した事例
 キックちゃんは、11歳の女児で視覚障害と筋力の低下があるようだ。キックちゃんの家は、整備されておらず、草も生い茂るような道を通り、車を止めて、さらに歩いて畑を渡ったところにある。周りの家も遠くに見える程度にしかない。まさにアクセシビリティーの悪い環境である。そのような場所にセンター教職員が訪問するようになったきっかけは、センター教職員が近くの地域を訪問している際に、キックちゃんの家に障害児(キックちゃん)がいるという事を耳にしたことである。そこで、センター教職員がキックちゃん宅を訪問すると、キックちゃんが家の離れで寝かされていたとのことである。センター教職員が訪問を始めたのは、2006年6月からとのことで、それまで約10年もの間、キックちゃんは日の光もほとんど入らない家の離れで、ただ寝かされたまま暮らしてきた。キックちゃんの後頭部と背中には辱創の痕跡が未だに残っている。
 父親は当時、家に障害者がいるということを恥ずかしく感じていた。また、障害児をどのように育てれば良いのかも分からず、寝かせておけば良いと思っていた。よって、センター教職員訪問当初、「障害があっても、あなたの子どもは、色々な潜在能力を持っている」という教職員の呼びかけに対して、父親はあまり興味を示さなかったという。そこでセンター教職員は、キックちゃんの地域に住む、同じ障害を持つ児のロールモデルを紹介し、実際その家庭にキックちゃんの両親を連れて行ったり、モデルとなった家族も一緒にキックちゃん宅を訪問したりなど、両親にキックちゃんの成長の可能性を示すことで、キックちゃんの両親がキックちゃんに対して積極的に関わろうとする気持ちを引き出すことに努めた。
 それらの地道な取り組みを通じ、現在では、キックちゃんの家には、椅子をはじめ、起立板、歩行練習バー、段差越え練習用のバーなど、父親特製リハビリテーション器具が数多く設置されている。既に次に製作予定のリハビリテーション器具もあるほどである。父親は「先生が来るまでは、どのように座らせればいいのかも、どのように立たせれば良いのかも、アドバイスをしてくれる人がいなかったから分からなかった」と言う。キックちゃんのリハビリテーションは、1日10分座らせたり、立たせたりすることから始め、それから、4ヵ月後にはバランスがとれるようになり、現在では壁に寄りかかって1時間くらい立っていることができ、つかまり歩きも出来るようになったとのことである。父親特性の器具で親子でリハビリテーションをする様子は、二人とも楽しそうで微笑ましく、とてもキックちゃんについて興味を示さなかったということが信じられないほどである。
 現在キックちゃんは学校には通っていないが、以前のように暗い部屋で寝て一日を過ごすのではなく、ラジオを聴いたり、歌を唄うことが好きで、ラジオと一緒に唄うこともある。訪問時も、キックちゃんがラジオを聴きながら、楽しそうにはしゃぐ様子に遭遇した。
 さらに、センター教職員は、キックちゃんの事例を2007年8月10日に開催されたナコンシータマラート県の発達障害の研修会で発表したところ、障害児を持つ家族をはじめ、出席者の感動と関心を集めた。その研修会には、キックちゃんの父親も参加しており、「電気の無い生活をしているので困っている」という話をしたところ、その場で出席者より計約1万バーツの寄付が集まり、近いうちにキックちゃんの家庭にも電線が引かれ、電気が届く予定とのことだ。父親は「電気が無く、困っていたので、感謝している」と述べている。
 キックちゃんの事例は、センター教職員の根気強いアプローチの結果、父親のエンパワーに繋がり、さらにその試みが評価され家庭の生活環境にも変化をもたらした興味深い事例である。また、感動的事実に対して多くの寄付がすぐに集まるところはタイらしい点であると言える。

(4)センター教職員がフォローアップを続けている事例
 センター教職員が前例のキックちゃんの父親にロールモデルとして紹介したのが、本項で紹介するドゥアンちゃんの事例である。ドゥアンちゃんは5歳の女児で視覚障害がある。ドゥアンちゃんは現在、ソンクラー県にある盲学校の幼稚部で寮生活を送っているため、筆者の訪問時は不在で、ドゥアンちゃんの両親と妹に迎えられた。
 当時2歳で、力も弱く歩くこともできなかったドゥアンちゃんの家庭に、初めてセンター教職員が訪れたのは、2004年のことである。ドゥアンちゃんの通院していた病院で、センターを紹介され、両親がセンターにドゥアンちゃんの事を相談したことがきっかけで、訪問が始まった。ドゥアンちゃんの家庭は、センターからも遠く、経済的にも厳しい状況であったため、ドゥアンちゃんをセンターに通わせる余裕は無かった。
 センター教職員による訪問が始まり、目の見えないドゥアンちゃんが生活しやすいように一緒に考えながら、家の出入り口にスロープを付け、家のあちこちに手すりを付けたり、杖を作製した。ドゥアンちゃんのための器具は、農業や漁で一家を養っている父親が製作した。ドゥアンちゃんの成長は目覚しく、自分の思うように行動できるようになり、教職員が訪問すると、自らお茶を入れて振舞うなど気配りも良くできた。こういう道具があると便利など、必要に応じて自ら提案し、父親が作製することもあり、筆者訪問時も多くの手作り器具を見せてもらった。床に挿してある棒に垂直に持ち手となる棒を付け、その棒を持ってバランスを安定させて歩く練習をする器具などは、現在、妹の遊び道具としても利用されている。そして、そのような活動が、現在の盲学校で教育を受けることへ繋がった。
 ドゥアンちゃんの事例は、成功例として、センター教職員がレポートにまとめ、障害者関連の学会などで発表したり、障害児の事例がまとめられたタイの本[182]にも掲載されてたり、ロールモデルとして取り上げられる機会も多いようである。
 ところで、障害児本人が不在である家庭に訪問したのはなぜだろうか。ウアン先生が筆者に紹介しようとわざわざ立ち寄ってくれたのだろうか、と疑問に感じ、尋ねてみた。すると、当初ドゥアンちゃんを遠くの学校へ行かせることが心配で、反対していた母親を気遣い、現在もこの地域を訪問する際は、立ち寄って母親と話をしたり、様子を聞いたりなど、フォローアップを続けているとのことだった。フォローアップの件に関しては、調査期間中のある日、センターでの活動が終わり、筆者が教職員と共に帰宅する途中、卒業生の家庭に立ち寄って、そこの家に実っている果物を採集させてもらったりしながら、近況を尋ねていた日もあった。センター長も、「センター卒業で、サービス終了という事ではなく、その後の生活の支援も視野に入れ、活動している[183]」と語っている。センター卒業後、さらに教育を続けたり、職業を得たりなどの支援につなげることは難しい状況であり、障害がある子どもの存在は知っているけれども、まだ対応できていないというケースも多く存在するようだ。しかし、卒業後もわが子を気に掛け、関わりを続けるセンター教職員の存在は、障害児のいる家庭の家族にとって精神的にも大きな支えとなっていることだろう。
 さらに、卒業生の家庭に立ち寄った際、センター教員がその周辺の住民達とも親しく交流する様子も見られた。筆者は、日本でマンションに住んでいるが、隣の部屋の住民ともほとんど顔を合わせたことがない。また、ある月のエレベーターに張ってあるポスターでは、わざわざ「挨拶月間」と示されていたり、日本では、近所付き合いの弱まりがよく指摘されている。タイにおいても、バンコクなどの都市部においては、同じように言われることがあるが、農村部においては近所付き合いが健在であり、コミュニティー内における人々の結びつきは強いと感じる。

(5)まとめ
 家庭訪問を通して、農村部で暮らす障害者とその家族の現状がより明確になった。1歳6ヶ月でセンター教職員と出会えたスゥア君を早く見つかって運がいいというのが現状であり、10歳で発見されたキックちゃんのように未だに隠されたり、何も介入されず暮らしている障害者も存在しているようだ。また、ドゥアンちゃんのように視覚障害児学校入学へ繋がった例もあるが、マーノップ君のように、せっかく介入方法が分かっても生活が厳しく、資金やアクセス以前の問題において実践することができていない状況も生じている。この家族にとってセンター教職員は、唯一と言っていい子どもについての頼れる相談相手となっており、センター教職員の訪問によって家族がエンパワーされ、子どもの成長にも繋がっている。さらに、キックちゃんの家庭では、事例として発表されたことで家に電気が通ることになり、それが父親のさらなるエンパワーに繋がっている。これは、障害者支援が家族の経済的支援にも繋がった興味深い事例である。
 センター教職員のアウトリーチ活動が始まったことにより、障害児やその家族の状況は大きく変化している。しかし今後、センター教職員が活動を広げていくためには、センター教職員の訪問が無くても、自分達で障害者を支援していくことができるような地域でのネットワークや支援体制作りが必要である。

第六節 地域でのプログラム
 本節では、地域でのプログラムのひとつとして、センター教員による寺院での研修を取り上げる。
1.パークスィアオ寺院
 今回同行した研修は、ピブン郡にあるパークスィアオ寺院で行われた。この寺院は、古くからスパ[184]やマッサージを行なったり、困っている人に対して僧侶がカウンセリングを行なったり、住民の健康増進に対する取り組みや、障害者や体の弱い人々など弱者支援も行なっており、地域の人々の交流の場として機能してきた。実際、寺院の建物内には、スパで使用する部屋、マッサージが行われる部屋などがある。また、ある部屋の一角には、地域の人々が持ってきた人形や置物などが数多く備えてある。この寺院は昔から地域の人々に親しまれている場所であり、この寺院の僧侶は地域住民に篤く信頼されている存在である。

2.パークスィアオ寺院におけるCBR
 当寺院では、2005年からCBR活動が始まったという。それ以前は地域に多くの障害者はいたが、集まって何かをするということは無かったとのことである。ナコンシータマラート県特殊教育センター教職員のウアン先生は、CBR活動の拠点としてこの寺院を選んだ理由として、第一に、既述のように、住民のこの寺院の僧侶に対する信頼が篤く、親しまれやすい場所であったということ、第二に、この寺院には、トイレやスピーカーなどの設備があるため、研修場として利用しやすく、広報活動も行いやすいという点をあげた。CBR活動開始後の障害者支援においてこの寺院は、@障害児関連情報の連絡所(障害者登録所)、A研修や話し合いの場の提供、B障害者支援についての様々な案内の発信、などの役割を果たしている。Bについては、スピーカーを利用する他にも、僧侶が托鉢において、住民に声をかける際、障害児関連の話をすることもあるなど、仏教国らしい一面も見られる。インタビューに応じて頂いたカムヌン・ピタヤモー僧侶も障害児教育について、「子ども達には未来がある。しかし、手伝う人がいなければ、未来はなくなってしまう。障害児にも未来があり、潜在能力がある。家族の会やセンター、寺院など地域全体が手を取り合うことで、子ども達の潜在能力を引き出すことで、世界は広がる。そして、そのような機会を提供していくことによって、子どもが犯罪や薬物などに手を出すことの予防に繋がるだろう。だからこそ、手を貸してあげたい」と語るように、支援に対して、とても協力的である。
 僧侶の言葉に出てくる通り、この地域にも障害児の親の会が発足している。その親の会の集まりや、役所の人々との話し合いの場や、センター教職員による研修など毎月何かしらの集まりがあり、そのうち3ヶ月か6ヶ月に1回は大きな集まりがあるとのことである。集まりの参加者は、障害児とその家族、役所の職員、統合教育を行っている学校の教職員、地域の保健ボランティアなどである。以下、今回の定期集会参加者に対して行ったインタビューを紹介する。

3.集会参加者に対するインタビュー
(1)統合教育学級を受け持っている教職員へのインタビュー
 集会参加者の中には、特殊学級を受け持つ教職員も3人参加しており、インタビューをすることができた。教職員によると、学校が障害児の入学を受け入れるようになったのは、約2年前くらいからで、この時期はこの地域でCBRが始まった時期と重なる。それまでは、障害児を受け入れる体制が整っている学校も無く、養護学校までも遠く、行き場の無い障害児が数多く存在した。障害児の家族も、どこにどのようなサービスがあるのかも、自分の子どもをどうすればよいのかも、何も分からない状況であったようである。
 インタビューをした教職員は、普通学級と特殊学級の両方を受け持っている。受け持っている障害児は一人で、三人中一人はダウン症の生徒を、二人は自閉症の生徒を受け持っている。なるべく一緒に授業を行い、必要に応じて個別に対応するようにしているとのことである。教職員は、受け持っている生徒は、落ち着いていることが難しかったり、奇声をあげてしまったり、感情表現をうまくコントロールできないことがあるので、関わり方が難しいと感じることもある、と言う。そのような場合の関わり方など、障害に関する知識については、センターが行う研修や発達障害、リハビリテーションに関する組織や病院などの研修を受け、身に付けるように努力しているとのことである。
 教職員達がインタビューの中で、以下の点を何度も口にした。「障害を持っている生徒は、どのように関わっていくかが大切である。例えば、考えることがゆっくりでも、時間をかけてやらせればできる潜在能力がある。『出来ない』のではなく、『やらせていない』だけである。子どもとの関わりだけでなく、親や公共団体、地域の人々などと上手に関わりこれらの子ども達が教育を受ける環境を整えていくことも、必要なことである。」
 この教職員達もまた、CBR活動が始まる前までは、障害児や障害者がいても、どう関われば良いのか分からなかった人々の一人だったはずである。しかし、CBR活動が始まり、障害児について理解を深め、現在では特殊学級を受け持つようになっている。センター教職員が主導となったCBR活動を通じ、これまで障害とは無関係に過ごしてきた人々も巻き込みながらの活動が広がってきているのかもしれない。

(2)障害児の家族へのインタビュー
 CBR活動が始まるまでは、障害のある子どもは、時々病院へ連れて行くくらいで、その他は家にいることがほとんどだった。CBR活動が始まったことにより、家族の会が発足し、現在は月に一回、金曜日に集会を行っている。この集会ができたことによって、自分の子どもに対する関わり方が分かるようになってきた。情報交換もできるようになったし、どうすれば良いのか、何もわからなかった子どもの事をお互いに話し合う機会ができた。どの家庭も子どもの成長も感じているようであった。
 今回は、7名の家族にグループ形式でインタビューを行った。その中で、よく聞かれた話は、「まさか自分の子どもが学校や幼稚園に通うことができるようになるとは思っていなかった」という事である。CBRが始まるまでは、障害を持った子どもは、時々病院へ行く以外は、家にいるということが当たり前の状況で、学校へ通うという選択肢は無かったようだ。センター教職員に「あなたの子どもには、学校へ通うことができる」と言われて初めて、自分の子どもについて、希望を抱けるようになったという人が多いようだ。

(3)地域の保健ボランティアへのインタビュー
 このボランティアの人々は、保健省に登録されているボランティアグループで、地域の人々の健康増進のために活動を始めて約10年の経験がある人もいる。5年前、政府からボランティアグループに障害者についての取り組みも行うよう要請があり、それまでより障害者に対する支援にも意識して取り組むようになったという。
 CBR活動が始まったのは2005年だが、センター教職員が初めてこの地域に来たのは2004年とのことである。それまでは障害児者支援に関して事務的な支援がほとんどであったが、センターの教職員が来るようになり、障害児に関する知識が増えたことで、障害児支援への取り組みに対する意欲が向上し、現在の活動にも繋がっているとのことだ。

(4)まとめ
 寺院で研修が行われるというのは、寺院において弱者支援や教育が始まり、寺院が古くから住民に身近な存在であった仏教国タイの特徴的な点である。タイでは、経済成長などと共に、障害分野においても西洋の文化が取り入れられ、特に都市部では施設や病院でのサービスが主流となってきているが、農村部は、施設や病院からも遠く、人材も不足している。そのような状況下では、寺院という地域資源もあるタイにおいてCBRは有効な手段となりうる可能性を感じる。しかし、現在ナコンシータマラート県特殊教育センターがCBRと称して行っている活動は、未だセンター教職員によるアウトリーチの域を脱するに至ってはいない。今後は、センター教職員の関わりを最小限にとどめ、いかに地域の人々が主体となり、活動の幅を広げながら、この取り組みを継続していくかが課題である。

  図3‐1 ナコンシータマラート障害児教育センターと関係機関のつながり略

第四章 タイ農村部における障害児支援

 近年、障害を福祉問題としてではなく、開発問題として取り組んでいこうとする動きが活発化している。そして、「障害と開発」という分野において、地域の資源を利用した持続可能なアプローチであるCBRが盛んに提唱・実践されている[184]。その結果、CBRの実施・運営は多岐にわたる方法で行われており、地域の障害者へのケアであれば全てCBRであると言われつつある。しかし一方で、目的が明確であるにもかかわらず、障害者が望むようなCBRは少ないとされており[186]、近年CBRの実践及び理念に対して批判的に再検討する動きもでてきている[187]。そして、CBRの目的がリハビリテーション以外では何に求められるのか、障害者を交えて再考していかねばならないことが訴えられている。
 障害者が置かれている状況は、障害種や地域によってもちろん異なり、経済、社会状況、さらには性格など個人の特性によっても異なる。事実として、障害者は、至る所に生まれるし、他方で誰もが、障害者になる可能性を有している。CBRの意義は、障害者もそうでない人も、全ての人々が同じ選択肢の中で生活を営むことができる社会を実現しようと考える時、障害の機能回復などは個人の問題ではなく、むしろ地域社会の問題として社会の変革を強調する点にある。その結果、CBRに期待を抱き、数多くの実践が為されている。しかしその一方で、CBRは本当に途上国における障害者支援に対する有効な取り組みであると言えるのだろうか。この答えを見つけるためには、現在行われているCBRの取り組みについてフィードバックを重ねていくことが重要である。
 よって本章では、本論文で取り挙げてきたタイのCBRは有効に機能しうるのか、また今後どのようにして障害児支援がなされていくことが望ましいのかを、これまでの文献・現地調査を基に考えていきたい。

第一節 タイ農村部におけるCBRの有効性
 既述のようにCBRは、障害者問題の解決に向けた地域社会の発展を図ろうとする社会開発のひとつであり、CBRがうまく機能するかどうかは、その地域の資源に強く依存すると言える。筆者は、タイ農村部で暮らす人々の「助け合い精神」を根底とする伝統的な地域の繋がりをうまく機能させることによってCBRを通じた地域社会の発展を導くことができると考える。
 そこで本節ではまず、タイ農村部における「助け合い精神」の存在を明確にした上で、タイにおける地域の繋がりについて述べる。次に、事例分析の前段階として、タイにおける地域のつながりを通じてCBRを有効に機能させていくための視点を紹介する。

1.タイにおける「助け合い精神」の事例
 本項では、調査事例を通じて、筆者がどのような点にタイにおける「助け合い精神」を感じたのかを明らかにしたい。その前に、タイ語では「ナムチャイ」という言葉が「助け合い」を表わす。関は、「ナムチャイ」という言葉は一般的に、タイ人なら持っているべき助け合う気持ちという理想のような意味合いを含み、メディアや教育などあらゆる場面でキーワードとして使われているという[188]。
 筆者はまず、マーノップ君宅への家庭訪問にて、ウアン先生が病気の父親を見舞い「マーノップ君は、自分達が責任を持って面倒を見るから安心して大丈夫」と両親を励ましたり、ドゥアンちゃんが養護学校の寮へ入ったことで寂しい思いを抱える両親を気遣い、ドゥアンちゃん不在の家庭へ訪問したりしていたことなど、センター教職員による取り組みが障害児者に関係する事のみならず家庭全体を支えている点にタイの助け合い精神を感じた。この点は、元々は障害児のためのサービスを行う目的で訪問していたとしても、他にも困っている人がいれば、助けることを当たり前とするタイにおける「助け合い精神」の表れの一つであると考える。実際、現地調査でも、センター教職員の訪問が家族の精神的な支えとなっていることは確かである。経済的資源だけでなく、「社会規範」「信頼」「人間のネットワーク(コネ)」なども、社会のあり方を規定し、また逆に社会のあり方にもこれらの諸要因が規定されるという「社会関係資本」の概念[189]から考えても、障害に関する問題のみならず貧困や社会制度の不備など多様な問題に直面している人々にとって、このような信頼関係の蓄積は大きな意味と可能性を有していると言える。また坂田は、「社会関係資本」が蓄積された社会では、人々の自発的な強調行動が起こりやすく、住民による行政政策への監視、関与、参加が起こり、行政による市場機能の整備、社会サービス提供の信頼性が高まることにより、発展の基盤ができるというロジックや社会関係資本が特定の個人との信頼関係を越えて「社会的信頼」に変化することにより、経済パフォーマンスが向上することを明らかにしている[190]。このように筆者が挙げた事例は、障害児者のみならず家庭全体を支え信頼関係を蓄積していく中で障害児者自身や家族にもたらされた変化を伴い、さらに障害児者を取り巻く環境にプラスの変化を及ぼすことに繋がっていくことが考えられる点で、社会関係資本の脈絡で捉えることが可能であろう。
 また、第一章第三節で述べたように、タイでは障害者が物乞いをすることによって生活が成り立つという側面も、困っている人がいれば当たり前のこととしてお互いに助け合うタイにおける「助け合い精神」の一つであると考える。タイでは、弱者支援は、仏教的な思想に加え、国民から人気の高い王室も率先して取り組んでいることもあり、人々から高い評価を得ることができるという側面もある。よって、個人や企業は寄付することを好むことが多く、そのようにして集まった寄付が、ナコンシータマラート県特殊教育センターを始め、施設運営などにおける重要な財源の一部となることも多い。地方分権化が進む一方で、国からは障害者支援に対する予算配分を大きく傾けてくれることが期待できないため、今後益々、寄付がタイにおける障害者支援の重要な財源となることが予想される。
 ところで「寄付」というと通常、障害者を含め、「困っている可哀想な人々を助けてあげる」といったような慈善的イメージが優先するように思う。そのようなイメージが優先すれば、「寄付が集まりやすい」という側面から、人々の自発的な協調行動が起こることは期待できないのではないだろうか。なぜなら、そこでは、障害者は何もできない非生産的な存在として捉えられ、与える者と与えられる者、つまり支配と被支配という上下の力関係が生まれてしまうからである。しかし、ここでキックちゃんの事例を振り返ると、ウアン先生がキックちゃんの事例を発表して集まった寄付は、キックちゃんやキックちゃんの家庭が可哀想だと感じられて集まったものではなく、むしろキックちゃんとキックちゃんの父親による取り組みが多くの人々の支持を得たことにより集まった前向きな寄付であると考えられる。つまり、障害に対する正しい認識を広めることで、キックちゃんの事例が示すような前向きな寄付が増えていくのである。このような障害児者を取り巻く環境を創造していくことが必要であろう。

2.タイにおける地域の繋がりとCBRの関係
 タイにおいて、前項で述べた「ナムチャイ」という「助け合い」を表わす言葉が、メディアや教育などあらゆる場面でキーワードとして使われている背景として、タイにおいても日本のようなコミュニティーの崩壊や、人間関係の希薄化が進んでいることの現われと捉えることもできる[191]。しかし筆者は、現地調査を通じて、タイ農村部においては未だに地域のつながりが存在すると考える。だからこそ、センター教職員によるアウトリーチ活動の際、僻地で生活する障害児を発見することが可能である。これがCBRと称する活動に繋がる。
 そして、この地域の繋がりには、「助け合い精神」と共に、タイ人の伝統的な上座部仏教観が大きく影響していると考える。この点については、寺院を拠点としてCBRを展開していることに端的に現れている。タイにおいて寺院は、教育や弱者支援が始まった場であると同時に、行事など地域の人々の交流の場でもあった。タイにもオボトー[192]など地域の役所が存在するが、役所をCBRの拠点とすれば、障害者支援はいかにも事務的な「お役所仕事」の場となってしまうことが容易に想像できる。しかし、人々に親しまれ、地域のイベントなども開催され、「助け合い」の場としても最適な寺院で障害者支援が行われれば、障害者問題が地域の問題の一つとして捉えられ易くなる。そして、家の中に閉じこもっていたり、閉じこもらざるをえなかったり、また、これまで地域の中で暮らしていくことが難しかった障害者やその家族もよりスムーズに地域社会に溶け込み、生活していくことができるのではないだろうか。だからこそ、タイにおいて寺院がCBRの拠点に最適な場所として機能しうる可能性があり、且つその実践が期待されているのである。
 また、同じ地域に住むもの同士の積極的な交流が存在しているからこそ、アウトリーチ活動でセンター教職員が障害児の存在を探し出そうとする時に、地域の人々から容易に情報を得ることが可能となり、スゥァ君の事例のように障害児の早期発見が可能となる。
 ナコンシータマラート県特殊教育センターのウアン先生は、調査時1歳6ヶ月のスゥァ君の家庭を訪問した際、スゥァ君は早く発見されて「運がいい」と語った。この言葉の背景には、母親の定期検診によって障害児の発見が容易であり、検診制度などの公共保健サービスを国から保証されている日本と、障害児者を早期発見するシステムが未整備な途上国の現状の格差を端的に現している。しかしながら、伝統的な地域の繋がりが依然として存在するタイだからこそ、いざ障害児者を探そうと思った時には、早期発見を可能にさせるという意味でウアン先生の「運がいい」という言葉を捉えることもできるかもしれない。
 タイでは、近代化に伴い、障害児者のための病院や施設、法整備などの公共保健サービスが整い始めている。その過程において、障害者登録制度ができるなど、これまで目を向けられることのほとんど無かった障害児者の存在が明らかになりつつあり、障害児者のリハビリテーションや教育、就労の機会も少しずつ増えつつある。しかしながら、国から障害児者に与えられたそれらの権利は、アクセスなどの問題により、一部の障害児者しか享受できていないことも明らかになってきた。そこで、伝統的に障害者を含む弱者支援に貢献してきた寺院の取り組みや地域の人々のつながりに再び目を向けられるようになり登場したのがCBRと言えるだろう。一つ一つの国や地域には、政治、経済、歴史などそれぞれの社会的背景が存在するため、各々に合った取り組みもそれぞれ異なるはずである。CBRは、都市部と農村部といった近代化と伝統的取り組みの落差を埋めようとする試みであると同時に、今後のタイにおける障害児者支援を模索する試みとなっていることが示唆される。

3.地域の繋がりを通じたCBRの実現に向けて
 これまで筆者が、タイ農村部で暮らす人々の「助け合い精神」を根底とする伝統的な地域の繋がりの事例を「社会関係資本」の脈絡で捉えることを通じて、タイにおけるCBRが有効に機能し得る可能性があることを示してきたことは、意義あることだと考える。次に、本項では、今後タイにおいてCBRをうまく機能させていくために必要となる課題を述べたい。
 これまで筆者は、コミュニティー内部の信頼関係やネットワーク、当該社会の制度など、タイにおける地域の繋がりや資源、つまり「社会関係資本」の存在を述べてきた。滝村は、「社会開発プロジェクトを実施していく場合、外側からの投入だけではなく、対象社会内部の資源、既存の組織、すでにある規範を有効に取り込み、住民自らの貧困に関する問題の積極的な把握、解決のためのプランの見当、必要な材料の調達、管理等を促進し、貧困にかかわる諸問題の軽減、解決に当たらせることが重要である」と述べている[193]。この点は、タイにおけるCBRの実践においても同様のことが言えるだろう。
 しかし、佐藤仁が「現地に根づく、息の長い援助というものは水平的な横の社会関係資本と垂直的な縦の社会関係資本のバランスを考えたものでなくてはならない」と述べているように[194]、CBRを持続可能なアプローチとして機能させていくためには、村落と政府や外部組織との力の格差のある関係のような異なる集団同士の関係、つまり「縦の社会関係資本」にも目を向ける必要がある。辻田は特に「政府と市民のシナジー」[195]に注目し、@政府は、サービスの提供、最高意思決定、法律執行の機関であり、さまざまなアクターの利害関係の調整と協調関係を促進できる立場にある一方、企業やコミュニティーは政府の「よい統治」を促し、協力する役割を果たすことができるという双方の相互補完的な関係、A政府、企業、コミュニティーなどのアクターはどれも単独では持続可能な開発に必要な資源を保持することはできない点を指摘している 。これらの視点はCBRを持続可能な開発に必要なアプローチとして機能させていくために重要な視点である。また、筆者が現地調査を行ったナコンシータマラート県特殊教育センターは、政府の機関でありながら地域での活動にも力を入れているセンターとして非常に興味深い事例であると考える。よって、次節では、ナコンシータマラート県特殊教育センターの取り組みを分析することを試みる。

第二節 ナコンシータマラート県特殊教育センターでの取り組みの分析
 本節では、事例で取り上げたナコンシータマラート県特殊教育センターでの取り組みの現状を分析し、今後ナコンシータマラート県特殊教育センターがナコンシータマラート県における障害児支援において、どのような役割を果たしていけばよいのかを考察する。そして、期待される役割を実現するためには、今後どのような取り組みが必要で、どのような点を強化していくべきであるのかを明らかにしていきたい。

1.ナコンシータマラート県特殊教育センターの特徴
 ナコンシータマラート県特殊教育センターについて、まず始めに言えることは、それまで障害児を専門にサービスを行う機関が全く存在しなかった地域に、障害児支援専門のセンターが設立されたこと自体が、大変画期的なことであるということだ。
 ナコンシータマラート県特殊教育センターは設立以来、障害児に対する教育の機会の提供のみならず、障害児の教育相談の場、障害児・者に関する情報提供・発信の場、また障害児を抱える家族同士の交流の場など、その存在感を高め、取り組みの幅を広げている。
 現地でのインタビューを通じて、病院、学校、地域の役所など、障害関係者や機関の中ではセンターの知名度は高まっており、障害を持つものは、まずセンターへ連絡するという構図が成り立ちつつあるように感じた。
筆者は、このセンターの取り組みの特徴は、地域へのアウトリーチを盛んに行っている点、障害児自身だけでなく、障害児を抱える家族に対するサービスも積極的に行っている点にあると考える。また、センター教職員の障害児教育支援に貢献したいという熱い思いと、障害児支援活動への対応の熱心さは特筆すべき点である。

2.ナコンシータマラート障害児教育センターの活動に対する評価
 センターの活動は、@センターでの教育、A保護者の自助グループの結成、B家庭や学校への訪問活動、C地域でのプログラムの4つに分けられ、活動内容は第三章で紹介した通りである。
(1)センターでの教育活動に対する評価と課題
 センターでの教育は、障害児の持つ特別なニーズに対応し、その児の能力を最大限に引き出すための支援である。障害児達は、教育の機会を得ることで、家族以外の外部の人々との交流の機会が得られたり、友達ができたり、遊びの幅を拡大することができる。例えば、センターに通うようになって、歩けるようになった、自分で洋服が着られるようになった、読み書きができるようになったなど、今まで持っていた潜在能力に挑戦する機会が数多く創出されていることが考えられる。また例えば、「食欲が増進した」という声も聞かれた。これは恐らく、センターを利用するようになったことで、活動量が増加し、自分の生活リズムを獲得できたことによって、体調も良くなるという効果の現れなのではないか。また、年齢の高い障害児は、まだ幼い障害児の面倒を見る係りにもなっている。筆者が「朝の会」や授業を見学した際、係りの生徒は、じっとしていられない子をなだめたり、自覚を持って取り組んでいる様子であった。この様子を見て、生徒達はセンターで自分の居場所や役割を獲得し、生きがいを感じてセンターでの時間を過ごしているという印象を持った。センターでは、このように生徒達の自己肯定感を育むような取り組みが着実に積み重ねられてきていると考える。しかし、これらの熱意ある教職員にとっては、未だ障害児やその家族、センター教職員にとって満足のいく段階には至っていない。なぜなら、教職員へのインタビューでも訴えがあったような財源や人員の不足という問題もあり、未だに支援できずにいる障害児や障害児関連施設や学校が数多く存在しているからだ[197]。さらに、保護者のインタビューからも垣間見られるように、障害に対する知識が広がるにつれて、セミナー開催頻度の増加の欲求が高まったり、より高度なリハビリテーション技術が求められるようになるのではないか。

(2)保護者の自助グループの結成に対する評価と課題
 保護者の自助グループの結成は、障害児を抱える家族のための支援である。障害児を抱える親、特に母親は、わが子の障害に関する知識を得ることができるようになるばかりでなく、同じ悩みをもつ仲間と出会い、相談相手ができるなど、センターが心の拠り所や気分転換の場として機能していることが考えられる。そして、この取り組みの最も重要な点は、それらを通じて、家族が今まで、どのように育てていけばよいのかも分からなかった自分の子供に対して希望をもてるようになるということである。ナコンシータマラート県特殊教育センターでは、第三章で紹介したモンコンさんが代表を努める自閉症児の親の会が活動の規模を広げているようで、ダウン症児親の会も結成中とのことであった。
 しかし、これらの取り組みも、将来的にはセンターを介さなくとも、保護者同士で支え合い、子どもの成長を見守っていくことができるような組織を作り上げるという目標には達していない。筆者は、保護者だけで運営していくよりも、センター教職員、もしくは、障害児に関する知識を有する教職員、もしくはリハビリテーション専門家が、専門的な視点から「親の会」に携わっていくことも必要であると考えている。しかし、財源や人員の限られている現状においては、リーダーの育成や定期的な集まりや研修の開催など「親の会」をより組織化し、センター教職員の関与を最小限に留められるように関わっていく必要があるだろう。

(3)アウトリーチに対する評価と課題
 家庭や学校への訪問活動、地域でのプログラムは、@障害児の早期発見、A障害児を普通の学校や地域社会と融合させること、B障害児に対して積極的な関 与が行われるよう障害の予防やリハビリテーションを促進し、家族や地域の意識を向上させるための活動であることが目的となっている。これらの地域で行われる活動のために週1日センター内での活動を全く行わない日を設けるほど、ナコンシータマラート障害児教育センターが力を入れている活動である。第三章の事例を見ても分かるように、センター教職員の家庭や学校への訪問、地域でのプログラム実施などの地道な取り組みは、着実に積み重ねられている。しかし、現在のセンター教職員の規模で取り組みの幅を広げ、ナコンシータマラート内のすべての障害児を発見し、適切なサービスを提供することを考えると、いくら積み重ねても、先の見えない取り組みのように感じる。
 限られた財源・資源・人員の中で、少しでも多くの人々に障害児の存在を示し、正しい理解を広げながら、効率的に障害児支援を進めていくと同時に、財源や資源や人員の量的拡大を求めていくことも重要である。またCBRに関しては、今後、地域の人々が主体となって運営していくことができるように、「親の会」と同様、活動をより組織化し、センター教職員の関与を最小限に留められるように関わっていく必要があるだろう。また、地域社会との融合という点に関しては、病院や学校、役所など直接障害児者と関わりのある機関の中では、センターの知名度は高まっている一方で、センターを訪問していた地域の大学生のほとんどがセンターの存在を知らなかったように、障害児者と直接関わる機会に乏しい人々の中では、センターの存在はほとんど知られていないのが現状であるようだ。今後、CBRを通じてより多くの人々に障害児者の存在を明らかにして、障害児者が社会参加できるような環境を整備していく必要がある。

第三節 ナコンシータマラート県特殊教育センターに期待される今後の役割
 前節では、ナコンシータマラート県特殊教育センターでの取り組みを分析してきた。つまり、センター教職員による活動の目的は、第一に、障害児とその家族に対する障害や生活環境の改善のための支援、第二に、障害児者に関する取り組みに地域全体を巻き込むことを目論む地域開発的支援という二つの目的があることを明らかにした。熱心な教職員を筆頭として積み重ねられてきたセンターのこれまでの取り組みは、ナコンシータマラート県内の障害児とその家族を取り巻く環境に着実に成果を上げつつあり、高い評価に値すると考える。しかし、センターのこれらの取り組みは、未だ達成に至っているとは言い難い。それでは、完遂に向けて、今後センターはどのような取り組みが期待されるのか、本節において考えていきたい。

1.ナコンシータマラート県特殊教育センターが目指すシナジーとは何か
 まず、ナコンシータマラート県特殊教育センターの強みはどこにあるであろうか。筆者は、特殊教育センターは、教育省が設置したタイ政府の機関であるという点に注目する。
 一口に障害児支援、CBRと言っても、対象とする地域の政治、経済、社会的背景によって支援の仕方は異なるし、さらも国家、地方自治体、地域もしくはNGOなど、それぞれの立場によって支援の役割も変わってくる。効率的で質の高い支援を進めていくためには、各々の存在はどれも重要で、さらにそれぞれが上手く連携をとっていくこと、シナジー[198]を構築していくことが必要である。筆者は、ナコンシータマラート県特殊教育センターには特に、政府と地域を繋ぐ架け橋としての役割を期待したい。障害児者が障害を持たないものと同様の選択肢の中で、当たり前に生活をしていくことが出来る社会の実現を考えるとき、これまで常に周縁化されてきた障害児者の問題を、より意識化していく上で、国家レベルの支援も地域レベルの支援の双方が重要であることは既述の通りである。ナコンシータマラート県特殊教育センターは、政府の機関であると同時に、現地調査でも明らかになったように地域レベルでの活動にも力を注いでいる。つまり、地域の障害児に関する現状を政府に直接訴え、示しやすい立場にある。つまり「政府と地域のシナジー」の構築に力を果たす立場にあるといえるのではないだろうか。センターが障害者に関する問題を政府に訴えたり、取り組みの実績を示すことで、障害児者の問題が意識化され、例えば、法整備がよりなされたり、障害児の就学・就労の機会が増えたり、アクセシビリティーが改善されるなど、障害児者の社会参加のための環境整備の国家レベルでの取り組みの促進にも繋がっていくことが期待できる。

2.ナコンシータマラート県特殊教育センターのコンサルテーション機能
 それでは今後、ナコンシータマラート県特殊教育センターが政府と地域を繋ぐ架け橋としての役割を果たしていくためには、具体的にはどのようなことが必要になってくるだろうか。
 筆者は、障害児と障害児を取り巻く様々なアクターとのシナジーを構築していけるような、センターのコンサルテーション機能[199]を強化していく必要があると考える。ナコンシータマラート県内の障害児に関する支援は、様々な領域や時期、頻度など非常に多岐に亘り、センターだけでは、それらのニーズに対応していくことには限界があると思われる。したがって、センターの資源だけでなく、これまで行われてきている障害児や地域開発に関する取り組みの過程や、それぞれの機関や地域背景の中で形成された特色や課題に焦点をあてた様々な資源が柔軟に結び付けられることによって、新たな資源が創出される可能性を探求し、個々のニーズに対応した支援を行っていくことができるようになることが期待される。ナコンシータマラート県特殊教育センターには、どこで、どの程度、誰による支援が必要で、そのような機関や人材とのネットワークがあるのか無いのか。また、センターを訪問し、問合せがあった障害児やその家族達、さらには、未だ地域に埋もれている障害児のための支援を具体的なレベルで考え実行に移していくことが求められていると考える。
 また、コンサルテーション機能を強化していくにあたっては、障害児教育センターと地域の小中高等学校や特殊教育諸学校や役所、福祉・医療関係機関、障害分野に関係するNGOなど障害児に関する社会資源についての整理と、それらの関係性を整理していくこと、同時に障害児やその家族、関係者のニーズに関する実態を今後益々明らかにしていくことが必要である。そして、それらを通じて、それぞれの多様な社会資源とのネットワークをどのように構築していけばよいのか検討を重ねていかなければならない。
 筆者は、障害児者は、障害種やその程度を問わず地域機関に在籍し、必要があれば専門のサービスを受け、基本的には地域の中で地域の人々と共に生活することが望ましいと考えている。よって、センターがより多様な人々を巻き込みながら取り組みを広げていくことで、地域社会の中での障害児者やその家族の暮らしを支えていくことができるような支援システムが構築されることを望む。
 さらに、これらの支援システムを構築していく上で重要なことは、地域社会並びに障害児やその家族の個別のニーズを把握し、それらに対応して「社会関係資本」を組み合わせ、繋げていくことができるような人材の存在である。将来的には、これらの手続きがシステムとして構築されていくことが望ましいと考えるが、実際はセンター教職員という個人としての人的資源がこうした機能を発揮しているのが現状である。既述のように、センター教職員の仕事への取り組みは非常に熱心で目を瞠るものがある。しかし今後は、例えば、親の会、CBRなどにおいてシステムとして活動を継続させるためのリーダーなどの人材育成にもより力を入れていく必要があるだろう。
 最後に、センターを障害児が地域で生活するための中継地点として考える時、特殊教育専門家、リハビリテーション専門家、ソーシャルワーカーなどの仕事に代表されるような障害児の特別なニーズに対する専門家の関わりが求められると考える。なぜなら、センターの専門性を高めることで、センターによる個別の障害児支援プランが作成でき、それに沿って障害児が地域で暮らしていくためのより的確な介入ができ、統合教育や職業訓練センターなど次の支援機関への移行などもスムーズに行われることが可能になるからである。例えば筆者は、センター内に教室以外に一箇所でも良いので個室があると良いのでは無いかと感じた。なぜなら、例えば自閉症や注意欠陥多動性障害(ADHD)などの疾患を抱える子供は教室内にいるクラスメイトや教職員、教材、景色など様々な情報や刺激を過敏に感じとり、落ち着かなくなってしまうことがある子どもも多い。よって、壁に装飾などをせず、机と椅子など必要最低限の物しか置かないような個室があれば、時間によってはそこで個別の関わりをすることで教育効果の向上も期待できる。これは例えば、病院の検査室や予備校の自習室など自分自身の日常生活においても、より集中力を発揮できるような環境を作るということと同じことである。
 つまり、センターが障害児と様々なアクターとのシナジーを構築していくことによって、地域社会が中心となって問題を解決していくための好循環を生むようなシステムを完成させていくことが理想であると考える。ナコンシータマラート県特殊教育センターの教職員を筆頭に、調査で出会った多くの熱意ある人々の今後の活躍に期待したいが、それにも増して、一つ一つの小さな取り組みの積み重ねが、全国を巻き込む活動へと繋がっていくことが大きな一歩に繋がると思われる。

終章 途上国障害分野における国際協力

第一節 国際協力の可能性

 途上国では普通、経済発展に重きが置かれるため、保健・医療・福祉などの問題は後回しにされがちである。例えば、タイ政府は民主化という名の下に、保健・医療・福祉分野について権限の地方分権化が進められているものの、しかしそれらは多面において、政府が自らの役割を免れようとしているようにも思われる。
 翻って、開発という側面から見ても、経済発展を促進することが、ゆくゆくは貧困や社会問題の解決に繋がっていくという経済開発論がある一方で、むしろ人権・社会正義や環境保全を基本とした住民参加型や、自助努力を柱とする内発的な開発論が盛んに提唱されている[200]。
 住民参加型や自助努力型の開発論に共通して言えることは、地域の役割の重要性が注目されている点である。障害分野についても例外ではなく、障害と開発の視点が重要視され、CBRが盛んに提唱・実践されていることはこれまで本論文で述べてきた通りである。つまり、国際協力の観点からも、より地域に根ざした取り組みが求められていると言うことができるのではないだろうか。
 筆者は過去4回、タイにおける障害児者支援や国際協力教育のスタディーツアーに参加し、山岳少数民族の村や、地域の学校、障害児者関連施設など様々なところへ訪問する機会があったが、どこを訪問した際も、皆、笑顔で快く迎えてくれた[201]。ナコンシータマラート県特殊教育センターでの調査を依頼した際も、筆者がセンターの取り組みに関心を持ったことを非常に喜んでくれたし、CBRで訪れた村においても今まで出会ったことのない海外からの来訪者に皆興味を持って温かく接してくれた。第一章第四節の障害者施策の歴史からも分かるように、国連が定めた「国際障害者年」を機に、障害者施設の建設が始まるなど、敏感に国際的潮流の影響を受けるタイにおいては、自分達の取り組みが関心を持たれていると感じること自体が大いにエンパワーメントに繋がっていると言えるだろう。
 佐藤寛は、エンパワーメントの構成要素として@当事者の「気づき、主体的意欲」(心理的変化)が、エンパワーメント達成過程において大きな役割を果たすこと、A外部者(ドナー、政策当局者)の機会付与(訓練・教育や資金などのサービス提供)によって、当事者が「能力開発/能力開花」を経験することが、エンパワーメントのための中核的な活動であること、Bさらに、こうして「得られた/付与された」能力は、社会的制約があるためにそれだけでは十分に機能するとは限らないので、外部者はこの能力を発揮しやすいような社会環境づくりを働きかけるべきであることの3点を挙げている[202]。したがって、国際協力においては、上記した例のように外部者の介入に伴う当事者の気づきや主体的意欲を最大限に生かしていくことで、障害児者に対する直接的な関わりと同時に、コミュニティーを強化し、障害児者もそれ以外の人々も同等の選択肢の中で生活できる環境を実現するための関わりも進めていく必要があると考える。それは例えばセンターの活動で見ると、親の会などの障害当事者や関係者によるグループやCBRなどで地域組織を作成し、それらの活動をより組織化・専門化したりするための関わりなどが考えられる。そしてそれらの関わりに際し、一般的に途上国に比べ先進国の方が進んでいると考えられる障害者の権利意識など、当事者やその家族を始め障害についてコミュニティーの人々の意識の持ち方をも変えることができる関わりができるだろう。また、NGO、地方政府、専門家、企業など幅広い視野を持ったネットワークを構築し、障害児者の存在を人々に知らせると同時に、障害児者に対する人々の理解を深め、連携を広げていくことができるようなサポートをすることも可能になる。
 上記のような活動や、障害者が保健、医療、教育、職業訓練、就業などにアクセスできる環境を作るための提言活動など地道な活動の積み重ねが、全国を巻き込み、民主的なガバナンスの促進にも繋がると考えられる。しかしながら、資金の問題や政策決定など政府の力は強く、地域レベルだけの協力に的を絞っていては、社会変革および障害者の基本的人権の実現の達成は難しいのも現実である。よって、国際協力を行う上でも、地域レベル・国家レベルの双方へのアプローチが必要であり、多くの関係者が一致団結して障害問題に取り組むことが必要であるという認識を強く持たなければならない。

第二節 障害分野における国際協力の展望
 このように、コミュニティーを強化することで、地域の人々が主体となって活動を継続していくためには、主体となる人材の育成が重要であり、この面に関しても国際協力の貢献できる面が大いにあるだろう。障害分野では、近年、障害当事者のリーダー育成が注目されており、日本では、ダスキン・アジア太平洋障害者リーダー育成事業[203]なども行われ、途上国の障害者の研修受け入れなども行われている。また、例えば筆者は日本で作業療法士というリハビリテーション専門家の国家資格を有している。作業療法士もそれらの専門分野がまだ存在しなかったり、少数である途上国において、障害児者に対する直接的なリハビリテーションを提供することもできるし、家族を含む地域の人々に専門知識や技術の伝達、その地域におけるリハビリテーションに関する提案などをすることができる。また、青 年海外協力隊やシニア海外ボランティアなどでも作業療法士の要請がある[204]。
また、シャンティ国際ボランティア会専務理事の秦辰也は、平成19年12月3日に開催された国際セミナーにおいて、2年前に約20ヶ所のタイのスラム街を調査した際、環境改善のごみ拾い、立ち退き問題に対する関わり、麻薬撲滅に関する住民の取り組みなど様々な活動の中で、障害者の活動は活動数自体も少なく最も参加率が低かったことを指摘した。そして、開発という分野の中で障害問題をより意識化いくことの必要性を述べている[205]。
 これまで障害者の問題は、専ら医療や福祉の問題として取り上げられてきた。よって、障害者支援も医療や福祉に携わる人々によって行われることがほとんどであった。しかし、近年は上記のような認識が少しずつ広がってきており、障害者に特化したサービスではなく、日常生活の中に障害者が組み込まれることを支援するような、「インクルージョン」[206]により焦点を当てた活動や、女性や子どもなどと対象を広げた活動の中で障害者をその一部とするような取り組みの必要性が唱えられるようになってきている。例えば、筆者の現地調査に協力してくれたFHCYはタイの障害児者に焦点を絞って国際協力を行っているNGOとしてあげられるが、今日、シャンティ国際ボランティア会[207]や難民を助ける会[208]など、開発に関わるNGOの中で障害者支援にも目を向ける団体も出てきている。特に難民を助ける会は、ホームページを見ても分かるように、障害者自立支援にも力を入れて取り組んでいるようで、現地スタッフに対し車椅子支給のため身体障害者の査定技術指導、現在製造している車椅子についての改良を提案(クッションの使用、全体的なデザインの改良等)などを行うための、理学療法士又は作業療法士の資格を有するスタッフの募集もあった。これらのように、様々な種類の団体が障害児者支援に携わることが、障害問題に対する認識の高まりに貢献すると考えるため大いに期待したい。


おわりに

 2004年に初めてタイに行ってから4年が経った。贅沢を言わなければ、大体のものが手に入る日本で暮らしていた筆者は、電気も水も通っていない村での生活は、共に作業をした村人同士は皆知り合いで、例えば洗濯機が無いために、数人の村人が一緒に川で洗濯する姿や、夕方子どもや大人が空き地に集まって遊んでいる様子など、生活の中に人々の繋がりや温かさを感じ、出会うもの全てが新鮮で毎日とても楽しかった。筆者は、村で簡易水道やトイレの設置、小学校の建設などを行った。これらの活動は、障害者支援で考えれば、先進国が施設化を促進したように、単に自分たちの価値観を当てはめているだけなのではないか?と疑問を抱いたりもした。さらに1年後、同じ村を訪れた時、煌々と蛍光灯が灯る家やテレビを手に入れた家の前に、村人が集まってテレビ鑑賞をしていた。村人の楽しそうな姿と反対に、筆者は、なんとなく寂しさを感じた。そして、自分たちの生活の発展を望む気持ちは、先進国で暮らしていようが、途上国で暮らしていようが同じであるのに、筆者の心の中に、この村には発展せず今のままの村でいて欲しいという勝手な思いが存在していたことに気がついた。この村では、序章で述べた耳の聞こえない老人を含め多くの村人にも出会った。日本とは異なる言語や文化や生活に初めて触れることで、自分の中で当たり前に思っていたことに対する様々な矛盾や疑問が沸き、もっと色々な現実が知りたくなった。
 途上国では、確かに貧困や環境問題、または紛争などにより様々な困難な生活を強いられている。タイにおいても経済発展が進んではいるが、農村部は未だに貧しい生活を強いられている。明るい笑顔の裏には、複雑に絡み合った困難な状況がたくさん存在している。しかし、現地調査やスタディーツアーで出会った人々の明るい笑顔や家族や地域の温かい繋がりは、明るい未来への可能性を感じさせるものである。CBRはまさに、医療、福祉サービスの行き届かない農村部において、これらの繋がりに注目した取り組みである。CBRは、農村部において有効な手段となりうる可能性を持つと同時に、最先端の設備や技術のもとで生活することが本当に幸せなことなのか、筆者達に疑問も投げかけていると思う。タイはアクセシビリティが改善されたり、法整備が整い始め、障害者の権利意識が高まっていたり、障害児者を取り巻く環境は向上してきていると考える。それらの発展と共に、「助け合い精神」や地域の繋がりなど伝統的な社会関係資本にも目を向けた支援を行っていくことが、障害児者を含めた地域の人々の質も量も伴った生活の豊かさに繋がっていくのではないだろうか。
 また、日本で生活する筆者達にとって、これらの現状を知ることが自分達の生活を改めて振り返る機会をもたらす。国際協力は、相互に影響をもたらすものであり、その影響がプラスに反応し合えるように、相互の信頼関係や理解を深めることができるよう様々な状況に柔軟に対応できる創造力を持って接していくことが必要であると感じた。
言うまでもなく、特殊教育センターは他県にも存在する。また、ナコンシータマラート県内だけでも、NGOや病院、養護学校、職業訓練センターなど障害児者をサポートするアクターは他にも多数存在する。よって、本論文は、ナコンシータマラート県特殊教育センターという一つの事例の分析にすぎない。しかし、本論文において、タイ農村部で暮らす人々の「助け合い精神」を根底とする伝統的な地域の繋がりの事例を「社会関係資本」の脈絡で捉えることを通じて、タイにおけるCBRが有効に機能し得る可能性があることを示してきたことは、意義あることだと考える。
 今後は、実際に国際協力の現場に出て、そこで暮らす人々と共に生活しながら、それぞれの役割や現状を分析したり、そこで日本人としてどのように関わっていくことができるのかなど、広い視野を持って多角的に考えていけるようになりたい。

[1] 中西由起子「地域に根ざしたリハビリテーション(CBR)の現状と展望」森壮也編『開発問題と福祉問題の相互接近―障害を中心に―』アジア経済研究所、2006年3月、140頁から142頁。
[2] 1978年、WHOとユニセフの呼びかけにより、140ヶ国以上の代表がカザフ共和国の首都アルマ・アタに集まり、国際会議が開催された。この会議において、「西暦2000年までにすべての人に健康を(health for all: HFA)」という健康に関する世界的行動目標を定めた「アルマ・アタ宣言」が採択され、その世界戦略としてプライマリヘルスケアという概念が打ち出された。この宣言は、@それまで顧みられなかった「社会の底辺に押しやられた人々」に対して、基本的権利としての基本的保健サービスの提供が可能となるよう、世界各国政府に政治的決断を促したこと、A保健活動の担い手として地域住民の主体性を強調し、同時に政府の役割と責任を明らかにしたこと、B健康を、社会正義と基本的人権として捕らえる思想・価値観を普遍化しようとしたこと、などの点において大きな意味を持っていた(久野研二、中西由起子著『リハビリテーション国際協力入門』三輪書店、2004年、112頁)。
[3] 中西由起子、2006年、前掲論文140頁から142頁。
[4] ILO/UNESCO/WHO/"CBR for and with People with Disabilities:1994 Joint Position Paper"
[5] CBRの目的:
@障害者の生活の質の向上:障害者が自分の生まれ育った地域社会で学習、職業訓練、労働、家庭生活、社会参加ができるように、各種サービスを提供する。
A適正技術の移転:CBRの実施のためには建物、機材、専門家が必要であるとの前提でCBRが立案されることがある。しかし、リハビリテーションを例にとっても、適正な知識や技術を地域社会に移転することによって、地域にある材料で補装具、自助具を製作し、自宅でリハビリテーションを行うことが可能になる。地域社会は身につけた技術を地域の他の分野での問題解決に応用できる。
B地域社会の意識の向上:障害者の家族のみならず、地域の人々、障害者自身までをCBRに動因することにより、従来の障害者への偏見を無くし、正しい障害観を育てる。また、自分たちで障害者問題を一つ一つ解決していくことによって自信がつき、エンパワーメントされる。
C障害者のエンパワーメント:地域社会が障害者を受け入れるべく変化するのに比例して、地域参加によって障害者も自信をもって自己の問題に関し発言し、意見を述べ、責任を持った行動をとり、地域社会と一緒に自分たちの問題を解決していくようになる(中西由起子、2006年、前掲論文、150頁から151頁)。
[6] 安住恵子「マレーシアのCBRの現状と課題―知的障害児者の自立を目指すPDK(Pemulihan Dalam Komuniti)の職業訓練」日本社会事業大学提出卒業論文、2002年。
[7] 中西由起子、2006年、前掲論文、142頁。
[8] FHCYホームページを参照(http://www.fhcy.org/cbr.htm、2008年4月19日閲覧)。
[9] 中西由起子「概念と実践方法」中西由起子、久野研二『障害者の社会開発―CBRの概念とアジアを中心とした実践―』明石書店、1997年、15頁。
[10] 同上論文、17頁。
[11] 同上論文、60頁。
[12] 久野研二「『障害者の参加』とCBR/地域に根ざしたリハビリテーション」『アジ研ワールドトレンド』96号、2003年9月、6頁。
[13] ロールモデルとは、手本となる事例のこと。
[14] 中西由紀子、1997年、同上論文、107頁。
[15] 久野研二「CBRの可能性と限界」『アジ研ワールドトレンド』135号、2006年12月、8頁。 
[16] 森壮也「『開発と障害』を考えるために必要なこと」、森壮也編、前掲書、8頁。
[17] 外務省ホームページ「タイ王国」を参照(http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/thailand/data.html、2007年11月8日閲覧)。
[18] "THAILAND IN FIGURES 12th Edition" ,Alpha Research Co., Ltd., 2007-2008,p28.
[19] APCDアジア太平洋障害者センターホームページ、Country Profile, King of Thailandを参照(http://www.apcdproject.org/countryprofile/thailand/index.html、2008年3月1日閲覧)。
[20] 日本障害者雇用促進協会障害者職業総合センター編「アジア太平洋地域の障害者雇用システムに関する研究」2003年9月、43頁。
[21] 世界総人口のうち約10%が障害者であると指摘され、そのうちの8割が開発途上国に生活していると推定されているWorld Health Organization(WHO)"International Classification of Functioning, Disability and Health." 2005.
(http://www.who.int/nmh/a5817/en/、2008年6月11日閲覧) 。
[22] 2002年の障害者調査は、アンケートや訪問などによる調査を通じて合計5万家庭に対して行われ、82%の返答率であったという(NSO)。
[23] 前掲、APCDアジア太平洋障害者センターホームページを参照。
[24] 障害者登録制度:1991年の障害者リハビリテーション法、第14条で「同法で述べられた福祉サービスやリハビリテーションを受けることを望む障害者は、中央登録センターもしくは居住する県の公共福祉事務所で登録を行わなければならない」と定められた。
登録をする際には、@医師による障害を証明する診断書、A国民IDカードなどの身分証明書(未成年の場合は出生証明書)、B住民登録証明、C写真2枚、の4点が必要である(関明水「タイにおける障害者リハビリテーション―Community Based Rehabilitationの現在と今後」、一橋大学大学院社会学研究科提出修士論文、2000年参照、http://www.asiadisability.com/~yuki/Theses3.html、2004年10月7日閲覧)
[25] 関明水、同上論文及び労働者会福祉省公共福祉局障害者リハビリテーション委員会事務局による1998年の統計データを参照。
[26] 前掲、APCDアジア太平洋障害者センターホームページを参照。
[27] 関明水、前掲論文を参照。
[28] 前掲、APCDアジア太平洋障害者センターホームページを参照。
[29] 内閣府、平成18年度版障害者白書を参照(http://www8.cao.go.jp/shougai/whitepaper/h18hakusho/zenbun/pdf/pdf/hyoshi.pdf、2008年5月15日閲覧)。
[30] 日本障害者雇用促進協会障害者職業総合センター編、前掲論文、40〜41及び123頁を参照。
[31] 自営業の設立を希望する障害者は、この基金による無利子のローンの申し込みを行うことができる。融資額は最高20,000バーツで、借入期間は5年間である。1997年末までに5,373人の障害者が、この基金によるローンを受けている。この貸付制度を利用するには、申請者は障害者リハビリテーション委員会事務所に登録し、事業活動の計画案が実行可能と判断されることが必要である。
[32] 中西由起子「アジアの障害者−偏見と差別[1]」2002 年を参照
(http://www.asiadisability.com/~yuki/Discrimination.html、2008年1月18日閲覧)。
[33] 中西由起子、2002年、前掲論文を参照。なお、中西由起子はAsia Disability Institute代表で、自立生活支援の草分け的存在。
[34] 日本障害者雇用促進協会障害者職業総合センター編、前掲論文、123-124頁。
[35] 実際に体に触れることで、つぼを刺激したり、筋のしこりをほぐしたりする技術。
[36] 日本では盲人の職業として鍼、灸、マッサージがある。マッサージ師のうち、盲人は6割ほどだが、少なくなりつつある。大都市圏では85%が見える人で占められる。就労している盲人は約10万人で、そのうち6万人がマッサージを開業し、1万人がマッサージ師として病院で働いている。「あん摩マッサージ指圧師、はり師、きゅう師等に関する法律」に定められた、あん摩マッサージ指圧師の免許、はり師の免許、きゅう師の免許の3種の免許は、3年間教育を受けて国家試験を受けて認められる。アジアでは韓国、台湾で盲人の専業とされている。日本が植民地化した時、日本式の按摩を定着させた(藤井亮輔「アジア視覚障害者のマッサージ事情と「アジア構想」」第117回アジア障害者問題研究会レジュメ、2000年を参照http://www.asiadisability.com/~yuki/117.html、2008年3月4日閲覧)。
[37] タイ式マッサージは、指圧とストレッチを組み合わせたマッサージで、タイ伝承医学のひとつで、観光でも人気がある。日本でもタイ式マッサージは人気で、数多くの店が存在しており、タイ式マッサージ師ライセンス取得のためのツアーもある。
[38] 日本障害者雇用促進協会障害者職業総合センター編、前掲論文、119頁、及び、海外労働情報タイ「改善進まぬ障害者雇用」『海外労働時報』1999年10月、独立行政法人労働政策研究・研修機構ホームページを参照(http://www.jil.go.jp/kaigaitopic/1999_10/taiP03.htm、2008年6月21日閲覧)。
[39] 1999年の公共衛生省の推定によれば、タイ全土で480万人とされる障害者のうち、たった5674人の障害者の雇用にとどまっている。また、1995年から1998年の間で、約3000人の使用者は年々障害者の雇用数を減らしており、基金に寄付をしていない企業が多いことが明らかになった(同上論文を参照)。
[40] 同上論文を参照。
[41] スラペ・バシノンタ。タイ、障害者リハビリテーション委員会委員長(1999年当時)。
[42] 同上論文を参照。
[43] 国際協力銀行編「タイにおける社会保障制度に関する調査報告書」2002年3月、107頁。
[44] 石井米雄『タイ仏教入門』めこん、1995年、2頁。
[45] 同上書、15-16頁。
[46] 同上書、128頁。
[47] 同上書、128頁。
[48] 同上書、128-129頁。
[49] 同上書、129頁。
[50] 同上書、29頁。
[51] 同上書、6頁。
[52] 同上書、118-123頁。
[53] 同上書、123-124頁。
[54] 関明水、前掲論文を参照。
[55] 石井、前掲書、124頁。
[56] 同上書、109頁。
[57] 石館ふみ「CBRの有効性―タイの障害者の暮らしから」(第103回アジア障害者問題研究会報告書)、2000年を参照。
[58] 野中由彦「タイの精神障害者リハビリテーション」『精神障害者リハビリテーション雑誌』第6巻第1号、2002年、64-68頁。
[59] 中西由起子、2002 年、前掲論文を参照。
[60] ピーター・コリッジ著(中西由起子訳)『アジア・アフリカの障害者とエンパワメント』明石書店、1999年、78頁。
[61] 中西由起子、2002年、前掲論文及び石館ふみ、前掲論文を参照。
[62] 2007年8月22日、家庭訪問先父親より聞き取り。
[63] 「アジアの精神医学・現状と課題」『臨床精神医学』第31号7巻、2002年を参照。
[64] 荻原康生「<海外リポート>タイの障害者福祉―その新たな出発」『リハビリテーション研究』(財)リハビリテーション協会発行、第77号、1993年9月、30頁-35頁 (http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/prdl/jsrd/rehab/r077/r077_030.htm、2008年2月14日閲覧)。
[65] 国際協力事業団、企画・評価部、前掲報告書、37頁。
[66] <特集>国連と障害者権利条約の制定、中野善達「国連における障害に関する条約、宣言、勧告、規則等がもつ意味」『ノーマライゼーション 障害者の福祉』(財)日本障害者リハビリテーション協会発行第21巻241号、2001年8月、9頁-37頁 (http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/prdl/jsrd/norma/n241/241002.htm、2007年12月8日閲覧)。
[67] DPI(障害者インターナショナル)日本国際会議ホームページを参照(http://www.dpi-japan.org/index.html、2008年2月14日閲覧)。
[68] 「障害者に関する世界行動計画」は、障害の予防、障害者のリハビリテーション、障害者に対する機会均等化という目標を達成するための具体的内容・方法を、国際的レベル、地域レベル、国内レベルでどのように取り組んだらよいかを明示した文書である(中野善達、前掲論文を参照)。
[69] 中西由起子、2006年、前掲論文、141頁。
[70] 関、前掲論文及び荻原、前掲論文を参照。
[71] タイにおける保健ボランティアの制度は、1970年代末以降まで遡り、2007年に創設30周年を迎えた。2008年1月現在、83万1,542人の規模にまで成長している(河森正人「いわゆる30バーツ医療制度における高齢者医療・福祉の位置づけと課題」東アジア学会2008年度春季大会資料、2008年6月8日、7頁)。
[72] 穂坂由喜男「タイ・障害者リハビリテーション法と障害者運動(特集 アジア・アフリカの障害者)」、『季刊福祉労働:障害者・保育・教育の総合誌』、第76号、1997年、29頁。
[73] 国際協力事業団、企画・評価部、前掲報告書、39-40頁。
[74] 「シリントン国立医療リハビリテーションセンター」は、1992年に設立された障害者医療リハビリテーションセンターである。施設は大規模であり、各種リハビリテーション機器も整備されている。JICAは1997年からシニアボランティアを派遣しており、また、その活動と関連して、1998年度に草の根無償により体育館が建設されている。このほか、他ドナーの支援で一部機材が入っているが、基本的にはタイ側が自前で整備・運営している施設である(国際協力事業団企画・評価部、前掲報告書、5頁)。
[75] 中西由起子、2006年、前掲論文、142頁。
[76] ESCAPはこの中で、@国内調整、A法律の制定、B情報収集、C啓蒙活動、Dアクセスビリティと情報伝達、E教育、F職業訓練と雇用、G障害の予防、Hリハビリテーション、I自助支援機器、J自助グループ組織化、K地域協力という具体的な12の行動課題(Agenda for Action)を設定している。
[77] 国際協力事業団 企画・評価、前掲報告書、37-44頁。
[78] 「1997年タイ王国憲法」の訳については、ジェトロ・バンコクセンター「一九九七年タイ王国憲法」 (www.jetrobkk.or.th/japanese/pdf/3.7.4.11.pdf、2007年12月7日閲覧)に基づく。
[79] 同上訳を参照。
[80] 関、前掲論文、11頁。
[81] RNN(アジア太平洋障害者の10年推進 NGO会議)、アジア太平洋障害者の10年の評価<完全参加と平等へのNGOの展望>各国NGOレポート、タイ (http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/intl/02rnn/thai.html、2007年12月8日閲覧)。
[82] ジェトロ・バンコクセンター、前掲訳を参照。
[83] 1999年国家教育法の訳については、村田翼夫、渋谷恵、カンピラパーブ スネート、鈴木康郎、鎌田亮一共訳「タイにおける『仏歴2542(1999)年国家教育法』(全訳)」『比較・国際教育』第8号、2000年、93-106頁。
[84] 国際協力事業団、企画・評価部、前掲報告書、51頁。
[85] 国際協力事業団、企画・評価部、前掲報告書、39-40頁。
[86] JETRO(日本貿易振興機構)「国・地域別情報、タイ、基礎情報、政治動向」を参照(http://www.jetro.go.jp/biz/world/asia/th/basic_02?print=1、2008年2月15日閲覧)。
[87] 国際協力事業団、企画・評価部、前掲報告書、51頁。
[88] 「アジア太平洋障害者センター(Asia-Pacific Development Center on Disability :APCD)」は、障害者が尊厳を保ち地域社会で自立した生活を送るために、様々なバリアの軽減・除去を目指し、従来の障害者支援プロジェクトとは異なり、障害者自身のエンパワメントと、それによる自助団体の形成、エンパワーされた障害者が社会の変革者となり、バリアが除去され、すべての市民のバリアフリー化することを目標とし、@NGOや政府関係者、当事者団体などのネットワーク作りと協力、A人材開発(CBR研修など)、B草の根レベルのNGOの活動支援など、情報のサポート、その他IL運動やピア・カウンセリングなどの活動を行っている(APCDアジア太平洋障害者センターホームページ、http://www.apcdproject.org/about/、2008年2月15日閲覧)。
[89] 高嶺豊「特集/障害と開発『ESCAPからみた障害と開発』」『アジ研ワールド・トレンド』No.96、2003年9月、11頁。
[90] 正式名は、「アジア太平洋障害者のための、インクルーシブで、バリアフリーな、かつ権利に基づく社会に向けた行動のためのびわこミレニアム・フレームワーク」である。
[91] 内閣府、共生社会政策統括官、障害者施策ホームページを参照、(http://www8.cao.go.jp/shougai/asianpacific/biwako/mokuji.html、2007年12月8日閲覧)。
[92] 「びわこミレニアムフレームワーク(BMF)」によれば、アジア太平洋地域には4億人の障害者がおり、その40%以上は貧困生活を送っていると推定されている。また、琉球大学教授高嶺豊氏は、障害者の識字率は1割以下、障害者の4割は貧困者であり、同時に貧困者の約2〜3割が障害者であると推計している(長田こずえ「『開発と障害』:開発専門家の視点から見た国連障害者権利条約―障害の開発へのメインストリーム化を実現するための手段」『リハビリテーション研究』第131号、2007年6月、31頁)。
[93] 障害者であるということは、社会的・文化的排斥とスティグマ、経済的・社会的・文化的権利上の不利などにより、そうでない人たちと比して低い教育レベルしか受けられないリスクを負うことになり、そのことが同時に低い所得レベルに追い込まれる結果を招く可能性を持つことになるため、障害は貧困リスクを確実に高める(森壮也、2006年、前掲論文9頁)。
[94] 「障害者権利条約」は、2008年4月3日、発行に必要な20ヶ国の批准が達成され、達成日から30日目にあたる5月3日に発行され、国際法として効力を持つに至った。
 日本は2007年9月に署名した後、政府内で批准に向け検討が進められている。
(UNITED NATIONS, enable, Rights and Dignity persons with Disabiltiesホームページ、
http://www8.cao.go.jp/shougai/asianpacific/biwako/mokuji.html、2008年2月16日閲覧及び、DPI日本会議メールマガジン、第183号、2008年5月7日を参照)。
[95] 森壮也「障害と開発を理解するためのキーワード(特集/障害と開発―開発のイマージングイシュー)」『アジ研ワールドトレンド』No.135、2006年12月、3頁。
[96] 長田こずえ、前掲論文、30頁。
[97] デチャ・サンガクワン(堀田学・久保谷政義訳)「第5章タイの福祉社会の出現―コミュニティと文化に基づく福祉の供給」白鳥令、D.サングカワン、S.E.オルソン=ホート編『アジアの福祉国家政策』東京芦書房、2006年5月、154頁。
[98] 1954年「社会保障法」は、賃金労働者、自営業者など16歳から60歳までの全国民を対象。出産手当、児童福祉手当、傷病手当、障害者年金、老齢年金、死亡手当に関して給付が行われた。
[99] 国際協力銀行「タイ王国における社会保障制度に関する調査報告書」、2002年3月、5頁。
[100] ベルント・シャラム(木村諭訳)「第4章タイにおける社会保障の展開」白鳥令他、前掲書、108‐110頁。
[101] ベルントシャラム、前掲論文、119頁。
[102] 同上論文、119-120頁。
[103] 国際協力銀行、前掲報告書、3-4頁。
[104] 同上報告書、3-4頁。
[105] 2006年9月のクーデターでタクシン政権が打倒され、これを機会に同年11月1日、名称の由来となった30バーツの手数料の徴収が廃止となったため、現在タイ政府はこの名称を使用していない(河森正人「タイにおける医療構造改革と30バーツ医療制度」『アジア太平洋論叢』第17巻、2007年9月、18頁及び20頁)。しかし、本論文においては河森と同様に、未だ世間一般に定着している「30バーツ医療制度」の名称を使用することとする。
[106] 河森正人、同上論文、3頁。
[107] タイ保健省が1983年から実施していた主に農村部などの低中所得者向けの医療サービス制度。最貧困層に対しては別途福祉制度の枠組みとして医療扶助が存在した。ボランタリーヘルスカードは、プリペイドカード方式を採用し、有効期限のついたプリペイドカードのカードで1000バーツ分の医療サービスが受けられた。SSSや民間医療保険に加入できない層に対する政府の任意保険として機能した。30バーツ医療制度の施行に伴い2001年10月までにカードの発行は終了した。
[108] 国際協力銀行、前掲報告書、29頁。
[109] 予算は、毎年改定される。
[110] そのうち80%にあたる1億5,000万バーツがリハビリテーションや障害程度の認定に、15%が補装具購入等、5%が種々の講習に当てられることになっている(河森正人、2007年、前掲論文、14頁)。
[111] 「30バーツ医療制度」一人当たり予算の推移は、2002年度1,202バーツ、2003年度は1,414バーツの要求に対して1,202バーツ、2004年度は1,447バーツの要求に対して1,308バーツ、2005年度は1,510バーツの要求に対して1,396バーツであった。一方で、2006年9月クーデター後、2007年度には1,899バーツ、2008年度には2,100バーツと単年度で一気に200バーツも引き上げられた(河森正人、2007年、前掲論文、11頁)。
[112] 河森正人、2007年及び2008年、前掲論文を参照。
[113] 理学療法士や作業療法士が常駐する病院は県レベルの一部大病院に限られており、交通費等の問題もあり、そこまで到達できない障害者も多いことが予想される(河森正人、2007年、前掲論文、21頁)。
[114] 例えば、同制度では、タイ式マッサージが保険の対象となった(河森正人、2007年、前掲論文、21頁)。
[115] 河森正人、2007年及び2008年、前掲論文を参照。
[116] 政府は実際、生活習慣病や身体障害を有する要介護者一人について、月額30バーツの報酬で保健ボランティアに生活指導や介護を委託する計画(総額7億バーツ)を2008年初頭に発表している(河森正人、2008年、前掲論文、7-8頁)。
[117] 国際協力銀行、前掲報告書、38頁。
[118] 同上報告書、50頁。
[119] 国際協力銀行、前掲報告書、51頁。
[120] 「2002年国民健康保障法」の第18条第9項は、コミュニティー組織、NGO及びNPOによるコミュニティーレベルでのUC予算の運営管理を支援することを謳っており、これに基づき、NHSOは2006年6月に「タンボン健康基金」の運用に関する指針を制定し、タンボン自治体、コミュニティー組織、NPO等による同基金の共同管理・運営を支援し始めた。「タンボン健康基金」は、2008年5月時点で、75県の2,692のタンボンで設置済みである(設置率は全体の35%)。政府の計画では、2009年中にすべてのタンボンで健康基金を設置するものとしている(河森正人、2008年、前掲論文、2-3頁)。
[121] 河森正人、2008年、前掲論文、6頁。
[122] 同上論文、2頁及び6頁。
[123] 国際協力銀行、前掲報告書、67頁。
[124] 同上報告書、67頁。
[125] 同上報告書、67-68頁。
[126] 同上報告書、65頁。
[127] 300バーツから500バーツは、タイにおける標準的な労働者賃金の約10分の1〜20分の1程度にすぎない。
[128] 国際協力銀行、前掲報告書、67頁。
[129] 2002年、省庁再編が行われ、労働社会福祉省は現在、労働省と社会・人間開発保障省の二つに分割・改組された。社会福祉事業関連の管轄である公的福祉局は、労働社会福祉省から分離し、新たに創設される社会開発人間保障省に統合された。
[130] 国際協力銀行、前掲報告書、66頁。
[131] 同上報告書、63頁。
[132] 現行の障害者法、社会保障法などの社会福祉関連法の見直しにより、例えばインフォーマルセクターの労働者への公的福祉サービスを強化することなどが検討されている。
[133] 国際協力銀行、前掲報告書、64頁。
[134] 同上報告書、65頁。
[135] 国際協力銀行、前掲報告書、74頁。
[136] 国際協力銀行、前掲報告書、76頁。
[137] 国際協力事業団 企画・評価部、「国別障害関連情報 タイ王国」、2002年3月、13頁。
[138] 同上報告書、14頁。
[139] 同上報告書、15頁。
[140] 同上報告書、16頁。
[141] 国際協力事業団 企画・評価部、前掲報告書、17頁。
[142] 同上報告書、19頁。
[143] 同上報告書、23頁。
[144] デチャ・サンガクワン、前掲論文、132頁。
[145] 同上論文、156頁。
[146] バンコクのスカイトレイン(モノレール)は、1993年に建設が始まった時には障害者への配慮を全く欠いていた。タイDPIはエレベーターの設置を要求したが、バンコク市は拒否し続けた。業を煮やした障害者達は逮捕や発砲されることを覚悟して、1995年11月に400人の大規模抗議デモを組織した。車椅子や盲導犬を連れたメンバー、手話で抗議を表すメンバーが続いた。世界各地の障害者はデモ参加者の安全を願って、タイの新聞社やテレビ局に支援メッセージを送り続けた。プラカードや垂れ幕、のぼりはいつも観光客用の風景画やTシャツの絵を描いている聴覚障害者たちが前日作製した立派なものであった。その結果、全23駅のうち5駅にエレベーターを設置するとの約束が為されるに至った。
(中西由起子「アジアでの障害者自助運動」2000年、http://www.asiadisability.com/~yuki/selfhelp.html、2008年3月4日閲覧)。
[147] 関明水、前掲論文を参照。
[148] 小栗俊之「開発途上国における就学前教育協力の現状―青年海外協力隊の可能性:研究ノート―」文京学院大学研究紀要、第7巻第1号、2005年、13頁-43頁、及び、磯野昌子「教育への働きかけ―基礎教育を中心に、NGOの視点―」佐藤寛+アジア経済研究所開発スクール[編]『テキスト社会開発 貧困削減への新たな道筋』日本評論社、2007年、19頁を参照。
[149] 小栗俊之、同上論文、13頁-43頁。
[150] Gerard Quinn and Theresia Degener with Anna Bruce, Christine Burke, Dr. Joshua Castellino, Padraic Kenna, Dr. Ursula Kilkelly, Shivaun Quinlivan. "The current use and future potential of United Nations human rights instruments in the context of disability" United Nations New York and Geneva, 2002.( http://www.ohchr.org/Documents/Publications/HRDisabilityen.pdf、2008年6月12日閲覧)。
[151] 平成17年度国際交流室事業報告書「東南アジアの青少年」独立行政法人国立オリンピック記念青少年総合センター、2006年、63頁-84頁及び、
[152] 堀内孜「タイ国の教員養成・教員資格・教員採用―制度、実態と改革動向(1)(2)」京都大学紀要、2000年、1頁-34頁を参照。
正確には、小学校終了後の3年間の無償基礎教育が提供されることになった。
[153] 小学校の95%に当たる29,667校が就学前教育機関を有し、また17%に当たる5,305校が中学校部を併設している(堀内孜、前掲論文、3頁)。
[154] 堀内孜、前掲論文を参照。
[155] 教育省の担当局としては、ONPEC(国家初等教育庁)と、DGE(普通中等教育局)があげられる。
[156] 国立身体障害者リハビリテーションセンター、財団法人日本障害者リハビリテーション協会「世界保健機関(WHO)国際セミナー報告書」1997年11月を参照(http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/conf/97WHO/z00011905.html、2008年6月9日閲覧)。
[157] 国際協力事業団、企画・評価部「国別障害関連情報 タイ王国」2002年3月、27頁。
[158] 2007年8月21・23日、センター見学時の聞き取り。
[159] 国際協力事業団、企画・評価部、2002年、前掲報告書、20頁。
[160] 中西由起子「アジア太平洋の障害者の教育[1]」、2000年4月を参照、
(http://www.asiadisability.com/~yuki/ED.html、2008年5月16日閲覧)。
[161] 日本でかつて盲・聾・養護学校と呼ばれていた「特別支援学校」(2007年4月の学校教育法改正によって名称変更)に相当するもの。
[162] 稲浦裕子「タイにおける障害児教育制度の成立過程に関する研究」『中国四国教育学会教育学研究紀要』第1巻、2001年、360頁。
[163] 筆者が調査で訪問した「ナコンシータマラート県特殊教育センター」もその一つ。
[164] 国際協力事業団、企画・評価部、2000年、前掲報告書、41頁。
[165] 本項は主に、稲浦裕子、前掲論文に依拠している。
[166] この点については東洋英和女学院大学大学院の吉川健治準教授から、タイ人の上座部仏教観は民衆によって幅があり、自己救済という本質的な教義と現世利益という両面が見られることも事実であるとした上で、上座部仏教基本教義は受戒によって、自ら覚醒することであるとの指摘を受けた。つまり、「偏見」や「慈善」の対象とされることもあるが、「障害者」は「障害者」として一般に受け入れられていたということを示唆するものと考える。
[167] 村田翼夫、渋谷恵、カンピラパーブ スネート、鈴木康郎、鎌田亮一共訳「タイにおける「仏歴2542(1999)年国家教育法」(全訳)」『比較・国際教育』第8号、2000年(ジェトロ・バンコクセンター「一九九七年タイ王国憲法」
www.jetrobkk.or.th/japanese/pdf/3.7.4.11.pdf)。
[168] 筆者は、本調査以外にも、2004年2月19日〜3月16日GONGOVA(学習院海外協力研修プログラム)2004、2005年3月4日〜3月16日GONGOVA2005、2006年3月25日〜4月1日FHCYタイ・スタディーツアー、2007年3月4日〜10日、作業療法士タイ国スタディーツアーに参加した経験がある。
[169] 「NPO法人FHCYアジア障害者パートナーズ」
1987年から、アジアの国々で暮らす障害者を持つ人々の自立支援を目的に、タイ及び日本国内で活動している団体である。活動は、@タイ農村部の障害者の就労支援(障害者作業所の運営支援など)、A農村部障害者のアクセス支援(ソンテウ基金など)、B農村部障害児の教育支援、C障害者製品のフェアトレード、D現地の障害者や専門家を対象とする人材養成、E障害理解のための啓発活動(障害理解のためのナンタルン・プロジェクトなど)、F農村部のCBR活動支援、G障害児の出前絵画展やフォーラム開催などによる日本国内でのPR活動などを行っている。
FHCYホームページhttp://www.fhcy.org/welcome_1.htm、2008年2月2日閲覧。
[170] 「タイ障害児財団(Foundation for Handicapped Children: FHC)」
FHCはFHCYのパートナーである。1981年にバンコク市内の病院の一室を借りて活動をはじめ、1986年F月に財団(日本の社会福祉法人に相当)となった団体である。障害児者が社会の中でいきていけるよう、障害児教育をはじめ、受け入れる側の社会への働きかけなどに積極的に取り組むNGO(非政府組織)である。バンコクの本部をベースに、CBRなど農村部の障害児者を視野に入れた幅広い活動を展開している。
FHCYホームページhttp://www.fhcy.org/FHC_activ_1.htm、2008年2月2日閲覧。
[171] タイ語−日本語の通訳として、青年海外協力隊平成18年度1次隊としてタイ国サムットプラカーン県にあるプラプラデン障害者職業訓練リハビリテーションセンターで活動する理学療法士の協力を得た。
[172] 「タイにおける『仏歴2542(1999)年国家教育法』」(村田翼夫、渋谷恵、カンピラパーブ スネート、鈴木康郎、釜田亮一共訳)、比較・国際教育/筑波大学比較・国際教育学研究室[編]、第8号、2000年、95頁を参照。
[173] IEP(Individualized Education Program)とは、個別教育計画のことで、子ども一人ひとりに対して障害や日常生活を評価し、個人データが作成される。 [174] 地域総合大学(Rajabhat Institute―RIと略)
[175] 「チャトカーム・ラーマテープ」の略称で、タイの仏教徒の多くが身に付けている信仰グッズ。粘土で作った僧侶などの柄が入った円盤をケースに入れ、首から提げる。特にナコンシータマラート市内にあるワット・プラ・マハータートの儀式を通過した物の効用が高いと言われており、調査期間中、市内ではチャトカーム宣伝広告を多く目にした。寺や学校などでも販売されており、その販売の利益が寄付されることがある。
[176] タイ国内で広く普及している小型トラックの荷台の両サイドにベンチを設置して改造した乗り合いタクシーの呼称。ソンテウは「2列」を意味し、ベンチのスタイルを差す。
[177] FHCY、2006年3月25日から4月1日の春スタディーツアー時の聞き取りより。
[178] 「ダウン症児親の会」は2007年8月の時点では、結成途中であったため、ダウン症児の母親だけは「親の会」に未所属となっている。
[179] THAILAND IN FIGURES 12th Edition 2007-2008 Alpha Resarch Co.,Ltd.p908によると、2000年のナコンシータマラートの学校数は、995校である。
[180] 2007年8月22日ナコンシータマラート障害児教育センター、ウアン先生より聞き取り。
[181] ピーターコリッジ著、前掲書、126頁を参照。
[182] Virasak Chansongseng "Duei Reng Heng Rak"Benchapol,2007.
[183] 2006年3月29日、春FHCYタイスタディーツアー、ナコンシータマラート障害児教育センター訪問時の聞き取りより。
[184] 薬草などを炊いて、その香りや煙が通る部屋で静養したり、病気の治療をするとのこと。2007年8月24日パークスィアオ寺院カムヌンピタヤモー僧侶からの [185] 「障害と開発」に関しては、第一章第四節を参照。
[186] アジアでは、フィリピン・バコロッドとインドネシア・ソロのCBRが成功例とされている(中西由起子、2006年、前掲論文、144頁)。
[187] 久野研二、2006年、前掲論文、8頁。
[188] 関明水、前掲論文を参照。
[189] 佐藤は、例えば、個人の属するコミュニティー、階層、家族などに規定されるネットワークの広がりや質が、その個人の社会的・経済的な資源として活用されうること(=文化資本)、また社会全体で見た場合の「資源」としての労働力の質(教育程度、技能習得状況、勤労倫理など)と量(人口のみならず、女性を労働市場に動因できるかどうかも含めて)が社会の発展に大きな影響を与えること(=人的資本)は、既にさまざまな指摘がなされており、決して目新しい概念であるわけではないと述べている(佐藤寛「社会関係資本概念の有用性と限界」佐藤寛編『援助と社会関係資本 ソーシャルキャピタル論の可能性』日本貿易振興会アジア経済研究所、2001年、3頁)。ちなみに、「社会関係資本」の開発学への貢献としての「実証研究」については、坂田正三「社会関係資本と開発―議論の系譜」佐藤寛編、2001年、前掲書11頁−24頁を参照。
[190] 坂田正三、前掲論文、佐藤寛編、前掲書14頁。
[191] 関明水、前掲論文を参照。
[192] タンボンレベルの役所。
[193] 滝村卓司「社会関係資本と参加型開発援助プロジェクト―JICAプロジェクトのレビューを通して―」、佐藤寛編、前掲書、108頁。
[194] 佐藤仁「共有資源管理と「縦の」社会関係資本」佐藤寛編、2001年、前掲書68頁。
[195] 辻田の「政府と市民のシナジー」とは、政府と市民に開発の促進など共通の目的がある際に、政府は市民がリソースを有効に使い行動する環境(物理的環境と政策環境)を提供し、市民は公民としての責務を果たす(civic engagement)関係を指している。このように政府と市民は自らの役割を果たすことで連鎖的に他方の役割を導き出す「政府と市民の相乗的な補完関係」を築くことができるという事である(辻田祐子「政府と市民のシナジー―都市環境衛生のパートナーシップの問題点―」、佐藤寛編、前掲書123頁・130頁)。
[196] 辻田祐子「政府と市民のシナジー―都市環境衛生のパートナーシップの問題点―」、佐藤寛編、前掲書123頁・130頁。
[197] ウアン先生によると、例えば、ナコンシータマラート県には約500校の障害児を受け入れている学校があるが、センターが連絡を取り合っているのは約300 [198] 本論文において「シナジー」とは、障害者を中心として、障害者を取り巻く国家、地方自治体、地域、NGOなど各々の活動主体が自らの役割を果たすことで、連鎖的に双方の役割を導き出す「相乗的な補完関係」を築くことができることを意味する。校で、現在は全ての問い合わせに応えられていない状況とのことで [199] 本論文において「コンサルテーション機能」とは、障害児支援について、障害児及びその家族の生活実態を把握し、改善することができるように教育、リハビリテーションを行ったり、障害児とその家族の日常生活、社会生活環境などの資源を整理し、障害児支援に有効且つ効率的に利用していくことができるよう調 [200] 参考文献としては、西川潤編、西川潤、野田真里、米岡雅子、穂坂光彦、甲斐田万智子、田中直、佐竹眞明、中谷文美、松島泰勝『アジアの内発的発展』藤原書店、2001年や、
ロバート・チェンバース著『参加型開発と国際協力 変わるのはわたしたち』明石書店、2000年などが挙げられる。
[201] 筆者のタイ訪問歴については、第三章(60頁の脚注1)で既述。
[202] 佐藤寛編『援助とエンパワーメント 能力環境変化の組み合わせ』日本貿易振興会アジア経済研究所、2005年、8頁を参照整する機能を意味している。 [203] ダスキン・アジア太平洋障害者リーダー育成事業:
「国連・アジア太平洋障害者の十年(1993〜2002)」事業推進の一環として、財団法人広げよう愛の輪運動基金の委託を受け、アジア太平洋の各国で地域社会のリーダーを志す海外の障害を持つ若い世代を対象に、日本の福祉の現状を学び、自己研鑽に励むチャンスを提供することを目的として平成11年度より実施されている(ダスキン・アジア太平洋障害者リーダー育成事業ホームページhttp://www.normanet.ne.jp/~duskin/about/index.html、2008年5月2日閲覧)。
[204] JICA 青年海外協力隊:
「開発途上地域の住民を対象として当該開発途上地域の経済及び社会の発展又は復興に協力することを目的とする国民等の協力活動を促進、及び助長する」[独立行政法人国際協力機構法第13条(3)]。技術や知識を活かして開発途上国の国づくり、人づくりに身をもって協力するもの。なお、筆者の現地調査に協力してくれた山田規央は青年海外協力隊平成18年度1次隊としてタイに派遣されている理学療法士の一人である(JICA 青年海外協力隊ホームページhttp://www.jica.go.jp/activities/jocv/outline/about/outline.html、2008年5月8日閲覧)。
[205] 内閣府、財団法人日本障害者リハビリテーション協会主催、第二次アジア太平洋障害者の十年中間プログラム「アジア太平洋における障害者支援活動―現場での経験から得たこと」平成19年度国際セミナー2007年12月3日、社団法人シャンティ国際ボランティア会専務理事、秦辰也の発表。
[206] 「インクルージョン」とは、すべての人は異なるということを前提に、社会そのものをすべての人が平等に暮らせるようにすること(久野研二、中西由起子、2004年、前掲書、110頁)。
[207] 社団法人シャンティ国際ボランティア会(SVA):
1980年、カンボジア難民キャンプで、子ども達に絵本を配ることから活動が始まったNGO。アジアの子ども達への教育・文化支援を通じて、地球上のあらゆる人々が、お互いを尊重しあい「共に学び、共に生きる」シャンティ(平和)な社会の実現をはかることを目的に、タイ国内の都市スラムや農山村、ラオスやカンボジア、ミャンマー(ビルマ)難民キャンプ、アフガニスタンで活動を展開している(SVAホームページhttp://sva.or.jp/2008年6月14日閲覧)。
[208] 難民を助ける会(Association for Aid and Relief: AAR):
1979年に、インドシナ難民を支援するために、政治・思想・宗教に中立な立場の市民団体として、79年以来の活動実績を持ち、国連に公認・登録された国際NGO(AARホームページhttp://www.aarjapan.gr.jp/2008年5月2日閲覧)。
る。

参考文献一覧

<社会開発>
久野研二、中西由起子著『リハビリテーション国際協力入門』三輪書店、2004年。
ピーター・コリッジ著『アジア・アフリカの障害者とエンパワメント』明石書店、1999年。
佐藤寛+アジア経済研究所開発スクール[編]『テキスト社会開発 貧困削減への新たな道筋』日本評論社、2007年。
佐藤寛編『援助と社会関係資本 ソーシャルキャピタル論の可能性』日本貿易振興会アジア経済研究所、2001年。
佐藤寛編『援助とエンパワーメント 能力環境変化の組み合わせ』日本貿易振興会アジア経済研究所、2005年。
西川潤編、西川潤、野田真里、米岡雅子、穂坂光彦、甲斐田万智子、田中直、佐竹眞明、中谷文美、松島泰勝『アジアの内発的発展』藤原書店、2001年。
アマルティア・セン『貧困の克服―アジア発展の鍵は何か』集英社新書、2002年。
山田満『「平和構築」とは何か 紛争地域再生のために』平凡社新書、2003年。
伊勢崎賢治『NGOとは何か 現場からの声』藤原書店、1997年。
ロバート・チェンバース著『参加型開発と国際協力 変わるのはわたしたち』明石書店、2000年。

<タイ関連>
石井米雄『タイ仏教入門』めこん、1991年。
ニノミヤ・アキイエ・ヘンリー『アジアの障害者と国際NGO―障害者インターナショナルと国連アジア太平洋障害者の10年―』明石書店、1999年。
中西由起子『アジアの障害者』現代書館、1996年。
白鳥令、D.サングカワン、S.E.オルソン=ホート編『アジアの福祉国家政策』東京芦書房、2006年5月。
石井光太『物乞う仏陀』文藝春秋、2005年10月。
日本障害者雇用促進協会障害者職業総合センター編「アジア太平洋地域の障害者雇用システムに関する研究」2003年9月。
国際協力事業団、企画・評価部「平成11年度、特定テーマ評価調査報告書、タイ、障害者支援」、2000年10月。
国際協力事業団 企画・評価部、「国別障害関連情報 タイ王国」、2002年3月。
国際協力銀行「タイにおける社会保障制度に関する調査報告書」、2002年3月。
河森正人「タイにおける医療構造改革と30バーツ医療制度」『アジア太平洋論叢』第17巻、2007年9月。
河森正人「いわゆる30バーツ医療制度における高齢者医療・福祉の位置づけと課題」東アジア学会2008年度春季大会資料、2008年6月8日。
関明水「タイにおける障害者リハビリテーション―Community Based Rehabilitationの現在と今後」、一橋大学大学院社会学研究科提出修士論文、2000年。
石館ふみ「CBRの有効性―タイの障害者の暮らしから」第103回アジア障害者問題研究会報告書、2000年。
野中由彦「タイの精神障害者リハビリテーション」『精神障害者リハビリテーション雑誌』第6巻第1号、2002年。
穂坂由喜男「タイ・障害者リハビリテーション法と障害者運動」『季刊福祉労働、障害者・保育・教育の総合誌』、第76号、1997年。
「タイ(特集/アジアのリハビリテーション)」(財)日本障害者リハビリテーション協会発行『リハビリテーション研究』第52号、1986年5月。
「アジアの精神医学・現状と課題」『臨床精神医学』第31号7巻、2002年。
東茂樹「タイ軍事クーデターの背景と民主化の展望」アジ研ワールドトレンド、No.135、2006年12月。
Khunying Samanjai Damrong Baedagun「タイ(特集/アジア・太平洋地域のリハビリテーション)」(財)日本障害者リハビリテーション協会発行『リハビリテーション研究』第44号5-10頁、1983年11月。
Som-arch Wongkhomthong「タイにおけるコミュニティ・ベースド・リハビリテーションのニーズに関する調査」国際協力ニーズ調査研究報告書―平成10年度―、国立身体障害者リハビリテーションセンター(WHO指定研究協力機関)1999年3月。
酒井出「タイ国仏教寺院における高齢者福祉活動に関する調査研究―ルーイ県プーカデン軍の事例―」西九州大学提出報告文、2003年10月。

中西由起子「アジアの障害者−偏見と差別[1]」2002 年、http://www.asiadisability.com/~yuki/Discrimination.html。
荻原康生「<海外リポート>タイの障害者福祉―その新たな出発」(財)リハビリテーション協会発行『リハビリテーション研究』、第77号、1993年、9月。http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/prdl/jsrd/rehab/r077/r077_030.htm。
RNN(アジア太平洋障害者の10年推進 NGO会議)、アジア太平洋障害者の10年の評価<完全参加と平等へのNGOの展望>各国NGOレポート、タイ http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/intl/02rnn/thai.html。
Narong Patibatsarakich「タイ・カントリーレポート RNNカントリーレポート:行動課題の実施」http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/intl/02rnn/thai.html。
JETRO(日本貿易振興機構)、国・地域別情報、タイ、基礎情報、政治動向、http://www.jetro.go.jp/biz/world/asia/th/basic_02?print=1。
福田ゆうき「タイの障害児教育」http://www.fhcy.org/F_Education1.htm。
NPO法人FHCYアジア障害者パートナーズ、2006年春タイスタディーツアー配布資料、2006年4月。
第六回PT・OT国際交流セミナー、柴田みかさ「『タイ国の作業療法とエンパワメント』〜2007タイスタディーツアー報告〜」レジュメ、2008年2月11日。

<タイの障害児教育>
堀内孜「タイ国の教員養成・教員資格・教員採用―制度、実態と改革動向(1)(2)」京都大学紀要、2000年。
渋谷恵「タイにおける教育改革の動向―仏歴2542(1999)年国家教育法を中心に(教育制度国外最前線情報)」『教育制度学研究/日本教育制度学界[編]』第8号、2001年。
稲浦裕子「タイにおける障害児教育制度の成立過程に関する研究」中国四国教育学会教育学研究紀要第1部、2001年。
平成17年度国際交流室事業報告書「東南アジアの青少年」独立行政法人国立オリンピック記念青少年総合センター、2006年。
矢ヶ崎百合子「ワールド・ナウ タイ聾教育にかかわって」『ノーマライゼーション:障害者の福祉/日本障害者リハビリテーション協会[編]』第21号、2001年。

大島正彦、渡辺勧持、稲垣貴彦、小澤温「タイの精神遅滞児福祉[下]」『月間福祉/全国社会福祉協議会[編]』第74号、1991年。
徳永恵美香「初等教育を受ける権利とインクルーシヴ教育を受ける権利の検討」大阪大学大学院提出修士論文、2004年。
中西由起子「アジア太平洋の障害者の教育[1]」、2000年4月、http://www.asiadisability.com/~yuki/ED.html。
タイ障害児財団 サマンヤ・ソパポーン「タイ農村部における障害児の現状とCBR」http://www.we.kanagawa-it.ac.jp/~ogawa/subject/guest/samanya2/samanya2.htm。
レイアッド・アンパバマット「タイの聴覚障害児教育」第89回アジア障害者問題研究会報告、1998年12月12日。
http://www.asiadisability.com/~yuki/93.html。
国立身体障害者リハビリテーションセンター、財団法人日本障害者リハビリテーション協会「世界保健機関(WHO)国際セミナー報告書」1997年11月、http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/conf/97WHO/z00011905.html。

<訳>
穂坂由喜男訳「タイ障害者リハビリテーション法(特集 アジア・アフリカの障害者)」『季刊福祉労働、障害者・保育・教育の総合誌』、第76号、1997年。
村田翼夫、渋谷恵、カンピラパーブ スネート、鈴木康郎、鎌田亮一/共訳
「タイにおける『仏歴2542(1999)年国家教育法』(全訳)」『比較・国際教育』第8号、2000年。
ジェトロ・バンコクセンター「一九九七年タイ王国憲法」
www.jetrobkk.or.th/japanese/pdf/3.7.4.11.pdf。
全日本聾唖連盟による仮訳「バンコク草案:障害者の権利及び尊厳の保護及び促進に関する総合的かつ包括的な国際条約に提案する項目」http://www.jfd.or.jp/int/unconv/escap-conv2003a-bkconvdraft-j.html。

<団体HP>
DPI(障害者インターナショナル)日本国際会議ホームページ
http://www.dpi-japan.org/index.html。
APCDアジア太平洋障害者センターホームページ
http://www.apcdproject.org/about/。
UNITED NATIONS, enable, Rights and Dignity persons with Disabiltiesホームページ
http://www8.cao.go.jp/shougai/asianpacific/biwako/mokuji.html。
NPO法人FHCYアジア障害者パートナーズのホームページhttp://www.fhcy.org/welcome_1.htm。

<障害者権利条約>
長田こずえ「『開発と障害』:開発専門家の視点から見た国連障害者権利条約―障害の開発へのメインストリーム化を実現するための手段」『リハビリテーション研究』第131号、2007年6月。
<特集>国連と障害者権利条約の制定、中野善達「国連における障害に関する条約、宣言、勧告、規則等がもつ意味」(財)日本障害者リハビリテーション協会発行『ノーマライゼーション障害者の福祉』第21巻241号、2001年8月、http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/prdl/jsrd/norma/n241/241002.htm。

<CBR>
中西由起子、久野研二『障害者の社会開発―CBRの概念とアジアを中心とした実践―』明石書店、1997年。
財団法人 日本障害者リハビリテーション協会「CBRに関する最近の文献集―CBRジョイント・ポジション・ペーパー2004他」2006年1月。
CBR研究会「CBRとは?」
http://www.cbr.in/cbr/cbr01.html。
中西由起子「アジア各国のCBRの概要」
http://www.asiadisability.com/~yuki/AsiaCBR.html。

<障害と開発>
森壮也編「開発問題と福祉問題の相互接近―障害を中心に―」アジア経済研究所、2006年3月。

森壮也「特集にあたって―障害は、今、福祉問題から開発問題へ(特集/障害と開発―開発のイマージングイシュー)」アジ研ワールドトレンド、No.135、2006年12月。
久野研二「CBRの可能性と限界(特集/障害と開発―開発のイマージングイシュー)」『アジ研ワールドトレンド』No.135、2006年12月。
野上裕生「ミレニアム開発目標と障害(特集/障害と開発―開発のイマージングイシュー)」『アジ研ワールドトレンド』No.135、2006年12月。
森壮也「障害と開発を理解するためのキーワード(特集/障害と開発―開発のイマージングイシュー)」アジ研ワールドトレンド、No.135、2006年12月。
森壮也「なぜ、今「障害と開発」なのか?(特集/障害と開発)」『アジ研ワールドトレンド』No.96、2003年9月。
久野研二「「障害者の参加」とCBR/地域社会に根ざしたリハビリテーション(特集/障害と開発)」『アジ研ワールドトレンド』No.96、2003年9月。
高嶺豊「ESCAPからみた障害と開発(特集/障害と開発)」『アジ研ワールドトレンド』No.96、2003年9月。
高田英一「「アジア太平洋障害者の一〇年」と障害者運動(特集/障害と開発)」『アジ研ワールドトレンド』No.96、2003年9月。
松井亮輔「「新アジア太平洋障害者の十年」とアジア太平洋障害フォーラム(特集/障害と開発)」『アジ研ワールドトレンド』No.96、2003年9月。
財団法人日本障害者リハビリテーション協会『アジア太平洋地域の障害者支援活動』2007年12月。
内閣府・財団法人 日本障害者リハビリテーション協会『第二次アジア太平洋障害者の十年中間プログラム「アジア太平洋における障害者支援活動―現場での経験から得たこと」平成19年度、国際セミナー報告書、2007年12月3日。
国際開発高等教育機構(FACID)「人間の安全保障を踏まえた障害分野の取組み―国際協力の現状と課題―」、2005年。
Ann Elwan, POVERTY AND DISABILITY A SURVEY OF THE LITERATURE, 1999.
「特集障害者支援の新たな潮流 豊に支えあう社会へ」『JICA FRONTIER』2002年12月。

<国際協力>
小栗俊之「開発途上国における就学前教育協力の現状―青年海外協力隊の可能性:研究ノート―」文京学院大学研究紀要、第7巻第1号、2005年。
独立行政法人国際協力機構 国際協力総合研修所「キャパシティ・ディベロップから見た教育マネジメント支援」2007年3月。
岡崎慎治・竹内康ニ・中田英雄「開発途上国における障害児教育の状況 開発途上国における障害児の簡易スクリーニングに関する調査研究―Ten Question's Questionnaire(TQQ)とその実施国を中心に―」平成16年度拠点システム構築委託事業実施報告書、2005年2月。
ダスキン・アジア太平洋障害者リーダー育成事業
http://www.normanet.ne.jp/~duskin/about/index.html。
難民を助ける会(AAR)
http://www.aarjapan.gr.jp/info/index.html。

<途上国の障害者>
城田幸子「フィリピン貧困層における『障害者問題』―国外NGOの取組みとその課題[1]」一橋大学大学院社会学研究科地球社会研究専攻提出修士論文、2000年。
横谷薫「スリランカ ティー・プランテーションエリアにおける統合教育の推進についての一考察〜サルボダヤ・スワセタCBRプログラムを通じての教育改革〜」サセックス教育大学国際教育学科提出修士論文、2001年。
安住恵子「マレーシアのCBRの現状と課題―知的障害児者の自立を目指すPDK(Pemulihan Dalam Komuniti)の職業訓練」日本社会事業大学提出卒業論文、2002年。
笹瀬晴代「CBRによる障害者問題への取り組みに対する一考察〜フィリピン・NORFILの実践を通して」ルーテル学院大学提出卒業論文、1999年。
川上陽子「インドネシアのCommunity-based Rehabilitationの現状と課題」大阪大学提出卒業論文、2002年。
藤田裕美子「障害者問題とCBR〜フィリピン・PSMFの実践からの考察〜」上智大学外国語学部アジア文化副専攻提出卒業論文、2002年。
香取さやか「ラオス人民民主共和国ビエンチャン市における脳性まひ児のソーシャルサポート」『国際保健医療』第21巻3号、2006年。
中西由起子「アジアでの障害者自助運動」2000年、
http://www.asiadisability.com/~yuki/selfhelp.html