震災後のリハビリテーション支援に関する考察
〜脊髄損傷被災者に注目して〜

日本福祉大学院国際社会開発研究科
古郡 恵

2009年3月 修士論文

目次
 
序章 

1章 リハビリテーションの実際
 1節 脊髄損傷とは
 2節 脊髄損傷者へのリハビリテーションの実際
  2−1 リハビリテーションに関係する職種
  2−2 急性期のリハビリテーション
  2−3 回復期のリハビリテーション
  2−4 社会復帰期のリハビリテーション

2章 脊髄損傷者への心理的支援の意義
 1節 現在におけるエンパワーメントの定義
  1−1 開発分野のエンパワーメント
  1−2 その他文やのエンパワーメント
 2節 心理的エンパワーメントの重要性

3章 各国の震災における支援内容
 1節 インド西部地震
  1−1 地震の発生状況
  1−2 地震発生直後の各国からの支援状況
  1−3 支援の傾向
 2節 スマトラ地震
  2−1 地震の発生状況
  2−2 地震の発生直後の各国からの支援状況
  2−3 支援の傾向
 3節 パキスタン地震
  3−1 地震の発生状況
  3−2 地震の発生直後の各国からの支援状況
  3−3 支援の傾向
 4節 インドネシア・ジャワ島中部地震
  4−1 地震の発生状況
  4−2 地震発生直後の各国からの支援状況
  4−3 支援の傾向

4章 それぞれの震災支援の比較検討
 
1節 支援内容の傾向と変遷
 2節 リハビリテーション支援の必要性
 3節 心理的エンパワーメントへの支援の有効性

5章 震災後の脊髄損傷者に対するリハビリテーション支援

6章 参考文献


序章

 この論文は、近年世界で起こった災害を調べ、今までにどのような支援がされていたかをまとめる。また、その支援内容の傾向や変化を調べ、復興支援における障害者支援の位置づけを知る。特に、災害により障害を負った被災者、脊髄損傷者の支援に注目し、彼らへの支援はどのようなものがあったのかを比較検討をする。そして、脊髄損傷者への支援をより有効にするリハビリテーション支援の方法を検討し提案することを目的とする。筆者は、脊髄損傷者の被災者への支援に医療や訓練の提供だけではなく、彼らの二次障害を減らし社会適応をより促す支援として心理的エンパワーメントが必要であると考える。なぜなら、多くの復興支援は物資や医療の提供であるが、脊髄損傷者は突然歩けなくなるという出来事を乗り越えて退院後社会で生きていかなければならない。そのため、適切なリハビリテーションを受けて退院し社会適応していくには年単位の日数が必要となる。その長期間の経過の中で、脊髄損傷者が退院後に社会や地域を変え自分たちが生活しやすい環境を手に入れていくためには、心理的エンパワーメントに着目した支援が受傷直後から必要となってくると考える。
 脊髄損傷者へのエンパワーメントの支援という視点が脊髄損傷者への支援には重要であり、短期間に物や医療の提供だけで終わる支援では、支援者が去った後には何も残らず結局脊髄損傷者の置かれている立場は変わらず十分な支援とは言えない。今後も起こりうる震災による復興支援には、脊髄損傷者への心理的側面への支援を合わせて行うことで、障害を負った被災者の置かれている立場や社会的弱者に位置づけられている人たちの生活やあり方を改善することにつながり、そのような視点を含めた支援は、脊髄損傷者への支援をより有効にすると考える。
 近年、世界各地では様々な災害が起こっているが、途上国で大きな災害が起きた場合は被災者への対応やその復興は他の国からの支援が必要とされることが多い。大規模な災害が起きた場合、世界各国からの支援は医療チームなどの医師、看護師や薬剤師などが派遣され被災者の方々に提供される治療や薬などの医療、他国の政府、国際機関やNGOから提供される食料やテントなどの衣食住への物質的な支援などが行なわれる。特に医療の支援の多くは災害発生直後から数ヶ月から1年と短期間の支援であることが多い。災害には、津波、地震、洪水、竜巻などがあり、その種類や規模によって死亡者数や家を失った人々の数、怪我の種類などは異なるためその支援内容も異なる。
 今回この論文で取り上げるのは地震による災害である。筆者は、青年海外協力隊でパキスタンに作業療法士隊員として派遣されていた期間中にパキスタン地震を経験した。首都と近郊の街にある主要な病院には、被災地からヘリコプターで運ばれて来た患者であふれかえり、どこの病院も廊下や玄関にもベッドを並べ収容人数を越える患者がいた。これらの病院に運ばれて来た人の多くは骨折と切断が多く次いで脊髄損傷、頭部外傷の患者であったが、手術や治療を受けられてもその治療が十分ではなかったり、術後の治療も受けられない状況であった。そして、後から後から運ばれてくる患者のために病院の敷地内に急遽作られた仮設テントや他の病院に移されていった。
病院の大変な状況を目の当たりにし、同じくパキスタンに派遣された他の理学療法士隊員と現地の理学療法士とともに病棟を回り、簡単なリハビリを実施していた。しかし十分な機能回復を待つことなく医師から退院を命じられ、抜糸もしていない、ギプスもはずれていない、義肢も装具もないまま病院を去り被災地に戻る人を数多く見てきた。彼らの帰る先の被災地の多くは山岳部であり、そこで十分な医療的なフォローを受けられる見通しのない負傷した被災者の行く末を非常に案じた。
 地震から半年後、震災支援の障害者支援として一般短期の理学療法士、作業療法士、看護師によるグループ派遣が行なわれた。歩けなくなり、被災地に戻ることのできない脊髄損傷者が首都と近郊の病院に残された。パキスタン政府はこれらの人々を首都と近郊にある3つの病院に集め、彼らを支援をするために3ヶ月間活動した。地震から半年が経過しているが、十分なリハビリテーションを受けていないため、損傷レベルを考慮するともっと自立レベルは高いのにも関わらず、付き添いの家族に介助をしてもらっている人が多くみられた。
 特徴的だったのは、被災したという大きな出来事を経験し、親、夫、子どもを亡くし、歩けなくなったという精神的ショックで、意欲を無くしベッドで暗い表情で横になっている人の多さであった。これらの方々に対し、歩けなくても車いすでもできることがたくさんある事を知ってもらいたい、明るく前向きになってほしいという思いでチームの一員として関わらせてもらったことが、災害支援に関心を持つきっかけとなっている。
 地震による被害は、その国の家屋の建築様式によって被災者が被る被害の程度は異なる。地震で家屋が倒壊した場合に、家の建物が木やトタンなどであればその下敷きになっても命が助かる可能性があるが、レンガや石を積み上げて作られた家屋が倒壊すると、骨折などの重傷者あるいは死傷者が引き起こされてしまう。そして、石やレンガの家が倒壊しその中から助け出されたとしても、骨折、切断、頭部外傷、脊髄損傷などの外傷を受け、腕や足を失うことや、歩けなくなるなどの障害を負う人が引き起こされるリスクも高まる。地震の規模、地震の起きた場所(市街地、山岳部など)、家屋の材料などの条件が重なると、時として多くの障害者が引き起こされることになる。そのような状況下にて障害を負った被災者への支援が復興支援には必要となり、その支援は短期間の物資や医療の提供では不十分である。災害により障害を負った被災者への支援は、医療的な処置が終わった後もその当事者の二次障害を防ぐことや社会適応をする上で中期・長期的な支援が必要とされると言われている(WHO HP)。
 骨折や切断などの整形外科的な疾患や脊髄損傷や頭部外傷などの脳外科的な疾患におけるリハビリテーションでは、残存機能を拡大し二次障害を防ぐためにも医療的な処置の後は速やかに訓練を開始し社会復帰できるようにするのが一般的である。また、障害を負った人への支援は、身体面だけではなく精神的な支援も必要である。歩くことができていたのが何らかの理由で車いす生活になるという急激な身体状況の変化を受け入れ、今後の生活を前向きに送るようになるには時間がかかり精神的な支援が必要とされる。
 途上国において震災により脊髄損傷者になった被災者の置かれている状況は厳しく、術後に適切な医療を受けられる人が限られているだけではなく、リハビリテーションの知名度や普及も低く多くの人は適切なリハビリを受けられていない。適切な時期に適切な医療、支援が受けられていれば、障害の程度が二次障害により重くなることを防ぎ退院後の社会適応もスムーズに行なうことができるが、このような状況にないため、車いすで日常生活が自立できるレベルにあっても介護者の介助を受け、復職や家庭復帰をより困難にさせている。
 また、途上国においては社会における障害者の位置づけは低く、慈悲の対象であり、学校へ通う、仕事をするなどの社会参加をしている障害児・者は少ない。障害を負うということは当事者にとっても家族にとっても、就学、就職、結婚などの社会参加が困難になるという非常に大きなショックや失望を与えるものであるため、脊髄損傷の損傷レベルを考えても日常生活の自立レベルにある人でも訓練を受ける意欲が低い様子がみられ、車いすでもできることはたくさんあるにも関わらず自分はもう何もできないとあきらめている人が多い。筆者は、被災者である脊髄損傷者への支援は必要であり、支援がないと脊髄損傷者を含め、その途上国での障害者の置かれている状況は改善することにつながらないのではないかという問題意識を持っている。
 脊髄損傷者のエンパワーメントを含めた支援の必要性を検討する方法として、近年、途上国で起きた地震である、インド西部地震、スマトラ沖地震、パキスタン地震、インドネシア・ジャワ島地震を調べる。各地震の事例を通してその復興支援の内容と障害者を負った脊髄損傷者に対する支援の内容や方法を調べエンパワーメントへの支援があるのかを、文献とウエッブを中心に資料を集め比較検討する。そして、今までの復興支援が短期的で支援物資を提供するのみになる傾向があるのではないかという問題点を探る。それを踏まえて、今後の脊髄損傷者へのリハビリテーション支援がどのように行なわれるべきか考察し提言する。
 論文の構成は、第1章で脊髄損傷の症状、治療、予後について要点をまとめる。そして、脊髄損傷者に対する日本におけるリハビリテーションの実際や、リハビリテーション・スタッフの脊髄損傷者への一般的な関りや対応をまとめる。また、リハビリテーションに主に関わっている職種の説明をし、それぞれの職種がどのくらいの期間でどのようなリハビリテーションを行なっているのかをまとめる。これらを通して、脊髄損傷者へのリハビリテーションの必要性を明らかにする。
 第2章では、リハビリテーションの職種が(ここでは、理学療法士、作業療法士を特に説明している)行なっている訓練が脊髄損傷者の心理的支援にどのように関連しているのかを検討する。そのため、エンパワーメントという考え方に着目し、まず開発の分野で言われているエンパワーメントの定義や考え方やその他の分野で使われているエンパワーメントの定義や考え方を提示した上で、リハビリテーションでの訓練がエンパワーメントの中の心理的エンパワーメントへの支援とつながっているのではないかという筆者の考えを論じる。
 第3章では、各国の震災における支援内容を比較検討する。脊髄損傷者の支援に関して情報が得られた地震の事例をそれぞれ調べ、それらの内容を提示し比較検討する。
 第4章では、第3章で得られた情報をもとに、今までの震災による復興支援はどのようなものであったのかを把握するとともに、過去から現在において支援内容の傾向を知ることと、脊髄損傷者に対する支援を比較検討する。そこで、リハビリテーションが行う支援の必要性と心理的エンパワーメントにも支援できるのではないかという点を論じる。
 第5章では、脊髄損傷者へ支援には心理的エンパワーメントが重要で、心理的エンパワーメントを支援することで、脊髄損傷者への有効な支援になることを論じ、結論とする。


1章 脊髄損傷のリハビリテーションの実際

1節 脊髄損傷とは
 脊髄損傷は「頸や体幹の強い屈曲と過伸展によって脊柱の骨折や脱臼を起こす」(Ida Bromley、1999)ことによって引き起こされる。そして、脊柱が損傷されると「感覚、運動、呼吸、排尿、排便、生殖、自律神経などに機能障害が残る」(金子、1999)。
 感覚障害は、損傷された髄節が支配している領域において、「損傷の程度に応じて脱失、鈍麻、過敏、異常などの種々の感覚障害を示す」(金子、1999)。完全損傷では感覚を感じることが困難になるものの、不全麻痺では若干の回復が期待され、しびれなどの異常感覚を訴えるケースもいる。この感覚障害が褥瘡の発生や火傷や怪我などから避けることを困難にし、今後のリハビリテーションにおける運動学習に感覚のフィードバックが得られないため基本動作の獲得に影響を与える。
 運動障害は、頸髄損傷では四肢および体幹、胸髄損傷では下肢の運動障害をきたす。脊髄損傷直後は、脊髄ショックと呼ばれる損傷部位以下の支配領域の筋肉が弛緩するが、1〜2週間後より筋緊張が亢進をきたす(金子、1999)。呼吸障害は、第三頸髄損傷以上の完全麻痺では呼吸不能となり呼吸器を使用する必要がある。
 排尿障害は、「脊髄に損傷を受けた場合、しばしば尿閉、尿失禁、随意排尿不能などの排尿障害が出現する。症状に応じた適切な対策を講じなければ生命的な予後に直結する重要な問題である。」(津山、2000)。損傷直後の脊髄ショック期には、無力性膀胱になり排尿筋反射は完全に消失し、膀胱内に尿が十万しても完全閉尿の状態となり、身体からの老廃物が排出されないという危険な状態になる。損傷の部位が排尿中枢のある髄節より上位にある場合には排尿反射は消失し自動膀胱になり、膀胱が意思とは関係なく反射収縮をきたす。損傷の部位が排尿中枢よりも下位の場合は、自律膀胱となり排尿反射はあるものの弱い排尿筋の収縮がみられる。そのため、脊髄損傷患者は尿を排出するため、ある程度膀胱に尿が溜まったら下腹部に手圧、腹圧を加えて排尿し、カテーテルを使用して導尿しなければならない。脊髄損傷患者が気をつけなければならないことは、多くの症例に尿路感染症がみられることである。1日4回の導尿を行なうことで残尿量を少なくし、導尿には衛生面に配慮をすることで、感染や膀胱結石などの合併症を防ぐことができる(津山、1998)。患者は無菌的間欠自己導尿を系統的に行い、自己導尿方法の習得が求められる。
 排便障害は、「重度脊髄損傷の急性期には、一過性に麻痺性腸閉塞や急性胃拡張などを起こすことがある。回復期になると胃と小腸の機能は回復するが、結腸と直腸の蠕動運動は低下していて便秘傾向となるので宿便に注意する」必要がある。患者は便秘傾向に陥りやすく、これが後に説明される自律神経過反射を引き起こす原因となるので管理が必要となる。
 性機能障害は、「男性ではほとんど全例に性機能障害が出現する」(津山、2000)と言われている。
自律神経障害として、体温調節障害、起立性低血圧、自立神経過反射がみられる。体温調節障害とは、「T5(第五胸椎)以上の損傷者に多く見られ、麻痺域の発汗、体温調節機構が障害され、高温環境下ではうつ熱、低温環境下では体温下降となりやすい」(金子、1999)。「体温上昇時には、発熱と鑑別し、環境気温を下げ、身体を冷却する手段を講ずる」(津山、2000)必要がある。具体的には、「人工的に発汗状態をつくりだすために濡れタオルや霧吹きで体を濡らし、風を当てて体を冷や」(津山、1998)すことが言われている。体温が上がってきた時の対処方法を知り、自分で体温を自己管理していくことが必要である。
 起立性低血圧は、第五胸椎以上の損傷者にみられ「下肢や腹部内臓の血管収縮機構が障害されることによって、寝ている姿勢から急に起き上がったりすると腹部に血液が溜まったままになり低血圧」(津山、1998)になる。自律神経過反射は、「T5(第五胸椎)以上の損傷者に多く見られる。血圧上昇、徐脈、頭痛、発汗、心悸亢、立毛、呼吸困難などの症状を呈する。反射を誘発する刺激としては、膀胱、直腸などの拡張、麻痺域の皮膚の圧迫や熱傷など」(金子、1999)がある。この反射が見られた場合、原因となるものを取り除くことで症状は改善される。
 また、合併症でよくみられる症状として褥瘡がある。「脊髄損傷者は皮膚の知覚が失われているために皮膚の傷や褥瘡に気づかないことが多く、また運動機能が失われているために、自発的な体位変換で褥瘡を予防すること」(津山、1998))が困難である。そのため、「血管運動神経麻痺と持続性の圧迫のため局所性阻血を起こし、短時間のうちに皮膚壊死が発生する。さらに進行して深部の靭帯、筋、腱、骨に達するものもある」(津山、2000)。一度褥瘡になってしまうと、治療はまず除圧になるため褥瘡部位に体重をかけることができず、治癒までに数ヶ月を要することから、その間のリハビリテーションが遅れ、脊髄損傷者の入院期間も伸び社会復帰へのスムーズな移行が妨げられてしまう。そのため、褥瘡にならないように、普段から細心の注意を払うことが医療従事者にも脊髄損傷者当人にも求められる。具体的には「安静臥位の状態を保たなくてはならない時は毎2時間の体位交換と好発部位のチェックを励行しなければならない。座位可能な例に対しては、30分ごとのpush-upを励行」(津山、1998)することが推奨されている。
 関節可動域制限は、「ベッド上での不良肢位、不動、筋緊張の不均衡、浮腫、痙性などにより生じ」(金子、1999)、筋の短縮や関節がかたくなる拘縮によって関節の動く範囲が狭まり、立位や座位場面や上肢操作場面で支障をきたす。そのため、「急性期から他動運動と伸長運動を行い浮腫の改善を図りながら、拘縮の予防に務め」(津山、2000)る必要がある。ベッド上で安静にしている場合、掛け布団のため足関節は伸びた状態にあるとそのまま関節がかたくなり、体を起こしたときに足底が床に着かなくなる。この足部の拘縮は回復期に入り座位や立位をとるときに問題となる。また、肩を動かせないことから肩関節の動きがかたくなり、肩を水平まで上げられなくなると着替えをする際にやりづらくなることも予測される。このように、先の回復期でスムーズなリハビリテーションが行えるようにベッド上での姿勢のとり方に配慮する必要がある。
 脊髄損傷者の心理状態は、突然の事故で脊髄損傷になり重度の機能障害を負うことから、本人やその家族はさまざまな心理的葛藤状態に置かれる。報告されている損傷者の様子は、「『医療スタフへの攻撃的態度や非難』『虚無的で意欲がない』『依存的』『医学的治療やリハビリ訓練の拒否』『ラポールがとれず、人間関係がうまく築けない』」などが言われている。その他に、「せん妄、うつ(大うつ病、小うつ病、気分変調症)、自己アイデンティティ障害、過度の依存感("お荷物"意識)など」(千野、安藤、2007)もいわれている。障害を受け入れる過程をステージ・モデルとして、ナンシー・コーンが「『ショック』『回復への期待』『悲哀』『防衛』、そして『適応』の五段階」(大田、1998)としている。また、サイコロジストであるステファン・フインクは、「『ショック』『防衛的退行』『自認』『適応』の四段階モデル」(大田、1998)を提唱している。
 これらの考え方に対し、南雲は「障害とは心的外傷をもたらす体験の一つではないかと考え」おり、脊髄損傷の人の自殺率が一般人口に比べ高率であること、受傷直後よりもむしろ数年経たときに起こりやすいという外国の文献から、「脊髄損傷の自殺者には心的外傷とみなすべき一群がいる」という考え示し、これらの文献は先程のステージ・モデルとは合致しないことも示唆している。そして、「心的外傷からの回復は患者の自己決定がすべて」とも述べている。南雲はジュディス・L・ハーマンが「回復のための第一原則はその後を生きる者の中に力を与えることにある。その後を生きる者自身が回復の主体であり判定者でなければならない。その人以外の人間は、助言をし、支持し、そばにいて、立ち会い、手を添え、助け、暖かい感情を向け、ケアすることはできるが、治療するのはその人である」と述べていることから、「回復の基礎は他者とのつながりを取り戻し、自立性の感覚を新たに取り戻すことである。ただ障害における回復が一般のそれと違うのは、自立性の感覚の回復においては、残存する身体機能の再教育を多分に含めなければならないことである。そして他者とのつながりの回復においては、社会から有形無形に排除や忌避を受けざるをえないことである。」(大田、1998)と考えている。

2節 脊髄損傷者へのリハビリテーションの実際
 この節では、リハビリテーションに関係する職種の説明と、その職種が脊髄損傷者へどのようにリハビリテーションを行なっているのかを説明し、震災時にどのような支援が必要となるのかを論じたい。
2−1 リハビリテーションに関係する職種
 1人の患者に関わる職種は多岐に渡り、主治医、看護師、理学療法士、作業療法士、治療体操士あるいは運動療法士、医療社会福祉士、義肢装具師、心理専門職、専門医らが関係する(津山 1998)。主治医は、整形外科医、脳神経外科医、神経内科医、泌尿器科医、小児科医などがおり、リハビリテーションの指示は主治医から出される。
 看護師は、入院中の生活全般を管理し、体位交換、呼吸、姿勢管理、関節運動や移乗動作や日常生活動作(以下ADL:Activity of Daily living)などの介助や訓練を行い、介助から自立へ向けて支援していく。
 理学療法士(以下PT:Physio Therapist)は、関節可動域、筋力増強、呼吸機能、基本動作(寝返り、座位、立位、歩行など)などの身体の基本能力の改善に関わる。
 作業療法士(以下OT:Occupational Therapist)は、身体的な基本能力とともに、ADL自立や上肢機能の改善に関り、社会適応訓練、職業訓練なども行なう。
 治療体操士あるいは運動療法士は、スポーツやレクリエーション活動を利用して身体の基本能力や応用能力の改善に関わる。
 医療社会福祉士は、ソーシャルワーカーとも呼ばれ患者の社会復帰にために福祉や制度や社会資源の活用の面から関わる。
 義肢装具士は、立位や歩行訓練の時に使用する装具を患者のサイズに合わせて作製する。プラスチック素材で作られた、立位や歩行が行なう安くなるシューホンブレイスや、下腿の支持性を高める支柱のついた短下肢装具などがある。専門職とは、関連のある他科の専門医で必要に応じて精神科医なども関わることがある。
 これらの多くの専門職は「リハビリテーション・チーム」と呼ばれ、それぞれが連携を取りながら、入院から退院後の社会復帰までを支援していく。
 この論文では、リハビリテーション支援をテーマにあげているので、特に訓練に関わるPTとOTの職種について以下詳しく説明を加える。

<理学療法士>
 理学療法士(Physical Therapist;PT)とは、1965年に厚生省から理学療法士及び作業療法士法が公布され、この法律には、「『理学療法』とは、身体に障害のある者に対し、主としてその基本的動作能力の回復を図るため、治療体操その他の運動を行なわせ、及び電気刺激、マッサージ、温熱その他の物理的手段を加えることをいう。」と規定されている(細田、2007)。
 また、理学療法士協会では、「理学療法士は、身体に障害のある者、また、障害の発生が予測される者に対し、その基本的動作能力の回復や心身の機能の維持・向上を図るため、治療体操その他の運動を行なわせ、電気刺激、光線、徒手的操作(マッサージ他)、温熱水治その他の物理的手段を加えることを業務とし、もって保健・医療・福祉の普及および向上に寄与することを目的とする。」と定義している(日本理学療法士協会、1995)。
 世界理学療法連盟(WCPT)の定義では、「理学療法とは、運動療法・教育的指導・温熱・寒冷・光線・水・マッサージおよび電気などを治療手段とする身体的な治療の技術と科学である。治療目的としては、疼痛(痛み)の軽減・血行の改善・障害の予防と改善・筋力と可動性および協調性の最大回復にある。理学療法には、意思の診断の補助としての目的や経過を記録する目的で、神経支配と筋力低下の程度を決定するための電気的検査や徒手的な検査、機能的な障害を決定する検査、関節可動域検査や肺活量の測定の実施も含める。理学療法士は、障害の予防や、病人や障害者のリハビリテーションに関与するだけではなく、予防医学や臨床研究の領域でも活動する」(細田、2007)と定義されている。
 このように、理学療法は、体に機能的な障害を負った人に対し、寝返り、座位、立位、歩行などの人間の基本的な動作をそれぞれの障害の程度によって、習得を促し、現在持っている能力や筋力を維持することを促していく。脊髄損傷という疾患は、脊髄の損傷がある部位より下位の神経支配の筋肉が動かなくなるため、残存した能力で身辺自立や身体機能の向上に支援をしていくためには、PTによるリハビリテーションが必要となってくる。

<作業療法士>
 作業療法士(Occupational Therapist;OT、以下OT)とは、PTと同様に1965年に「理学療法士及び作業療法士法」で厚生省から公布され、この法律の中では「作業療法とは、応用的動作能力、又は社会的適応能力の回復を図るため、手芸、工作その他の作業を行なわせることをいう(小林、福田、2007)(日本作業療法士協会、1999)。
また、日本作業療法士協会では、「作業療法とは、主体的な生活の獲得をはかるため、諸機能の回復・維持および開発を促す作業活動を用いて治療・指導・援助を行なうことをいう」(小林、福田2007)となっている。
 世界作業療法士連盟(WFOT)では、「作業療法は、目的活動が日常生活のすべての面で健康とよりよい状態を推進しうるという認識に根拠を置く保健専門職である。その目的は、日常活動を用いて障害の予防対処に必要な能力を推進・発展・改善・回復および維持することである。プログラムは、対象者の職業的、社会的、個人的および家庭的要望に見合った機能の最大限の行使を促進するために計画される。作業療法の特徴は、治療過程における対象者の積極的なかかわり(参加)にある。」と定義されている(小林、福田、2007)。
 作業療法とはどのような訓練をするのかがイメージされにくい職種であるが、PTが体の基本動作の訓練をすることと比較すると、OTはさまざまな活動を通して上肢機能を高め主体的な生活を獲得できるように支援する職種といえる。
上肢が麻痺して随意的に動かすことができない場合は、上肢装具用い、スプーンの柄を太くして握りやすくした自助具などを用いることや、残存している身体部位(例えば、口や頚部の動きなど)を用いたスイッチなどを使用して、できることを増やしていき、主体的な生活の獲得につなげていく。自助具とは、「障害者のADL、ASLなど(食事、整容、更衣、書字、キーボード打ちなど)の動作を容易にするための補助具」(上田、大川、2006)、「一時的あるいは永久的にしろ、身体的に障害をもったものが、その失われた機能を補って、いろいろな動作を可能ならしめ、また、容易ならしめ、自立独行できるように助ける道具である」(吉川、黒岩、1999)、「日常使用する標準物品に工夫・改造を加えて操作の便をはかるもの、あるいはある特定の動作のみを対象とし、その動作を可能にする特定の道具」(金子、鈴木、1999)、と様々な定義があり、我々が普段つかっている道具が身体的な理由で使うことができない場合、その道具を工夫することで使うことができる道具のことをさす。
 ここで言われている作業とは、広い意味で使われており、革細工、手芸、工作、パソコン操作などから、筋力を高めるために行う訓練も作業と位置づけることや、食事、着替え、整容動作などの日常性活動作(ADL)、調理、掃除、洗濯などの家事動作や買い物、交通機関の利用などADLよりも広い生活圏での活動も含まれる。
 そして、身体機能や能力面だけではなく、対象者の心理面、精神面へのアプローチも行なっている。障害を負い周りから介助を受けなければならない立場におかれた時に患者は自信をなくし前向きに何かに取り組むことに対し消極的になってしまう。いろいろな活動や訓練を通して出来ることが増え、さまざまな工夫によって以前と同様にできることがあるとわかると表情も明るくなり前向きに取り組めるようになる。

2−2 急性期のリハビリテーション
 武田によると脊髄損傷者の治療を3つに分けている。受傷から2ヶ月前後を急性期、受傷から3ヶ月後から6ヶ月を回復期、それ以降を慢性期としている(武田、1993)。また、岩崎は急性期の定義を「受傷後または術後からリハ室での治療プログラムが開始されるまでの期間とする」としており、「PT室での練習」を回復期と呼んでいる(岩崎、2005)。津山は、急性期、リハビリテーション期、退院期と3つに分けている(津山、1998)。また金子は、床上期、機能獲得期、社会復帰期の3つに分けている。岩崎は、急性期、回復期、社会復帰期と3つに分けている(岩崎、2005)。脊髄損傷者の治療が2つまたは3つに分かれているのは、退院後や症状が固定化した時期を含むか含まないかで分かれているものが多い。
 急性期という明確な日数の決まりはないが、手術をしてから脊髄の「損傷部の安定性が得られる期間は外傷に起因した損傷では、軟部組織は約6週間、骨は8〜12週」と言われている。武田は、「受傷直後より約6〜12週間は受傷部位の整復、固定と二次的合併の予防にとって重要な時期である」(武田、1993)と述べている。その間は、損傷部の安定が優先され、体を訓練目的で動かしたとしても損傷部に影響のない範囲で動かす必要がある。そのため、ベッドから起き上がり、車いすに乗りPT室で訓練を受けるということは困難である。この期間はベッド上での対応が主となるためその期間を急性期と位置付けていると思われる。この論文では、急性期をベッドサイドでの訓練のことを急性期と位置づけたいと考える。また、回復期は離床できるようになり訓練室での訓練が可能になった期間を回復期と位置づける。
 急性期の理学療法では、「救命のための医学的管理を優先するが、それと同時に将来の機能回復のための準備としてベットサイドより理学療法を開始する」(武田、1993)ことが言われている。また、「受傷後の脊髄ショック期を含め急性期には、呼吸や尿路の感染、そして褥瘡などを引き起こす可能性があり、医師や看護部門での管理が重要となります。その期間、医師からオーダーが出され理学療法を開始します。まず、変形拘縮や褥瘡発生の予防を念頭に置き看護部門と協力して患者を良肢位の保持へと導きます。次に、上肢と下肢の他動的な関節可動域訓練を行ないます」(津山、1998)と言われている。武田は、「術後数日以内に全身状態が安定し、起立性低血圧の危険がなければ、頚椎カラーをしてベッド上での座位訓練を開始する。その1〜2週間後にはPT室での本格的な訓練を開始する」(武田、1993)と述べている。
 津山は、急性期に行なわれるPTの内容を他動的に全可動域に愛護的に加える関節可動域訓練、各種の頚椎用装具を装着させて可及的早期より、ギャッジベッド、バックレストを使用して座位訓練を開始する。通常、4〜8週間を経過してから、漸増起立台などを用いて起立訓練を漸増的に施行すると述べていることから(津山、1993),脊髄の損傷部位に影響を与えないように、急性期からも関節可動域訓練、筋力増強訓練、座位や立位などの取り、リハビリテーションを開始する必要があり、急性期という早期に介入することで関節拘縮や褥瘡の発生を防ぎ、回復期での姿勢変換や座位、立位等の訓練がスムーズに行なうことができる。
 急性期の作業療法は、「不良肢位拘縮予防のための上肢装具の作成や、身の回りの動作に必要な自助具の作成などがなされる」、また「ベッド上での食事動作の自立は心理的にも重要な位置を占める」(津山、1998)。「これは他動的に座位が短時間でも可能になった段階から開始する。次いで、漸次、整容動作など自助具の活用により動作の自立面を拡大する」(津山、2000)と述べている。また「この時期の作業療法の目的は、関節可動域の維持と、基本的な環境制御装置を準備すること、また、できるだけ 自動運動を行なって、身体耐久性、筋力、日常生活機能を増すこと」(津山、1998)と述べている。
金子は、PTと同様に損傷部位に負荷がかかるような抵抗運動を避けつつ、「臥床期に肩関節に有痛性の拘縮を、手部に浮腫を伴う拘縮を生じることが少なくない。ROM(関節可動域)の維持は、良肢位保持、自動・他動運動で対応する。装具が有効な場合もある」ことや「60°以上の起座が20分程度可能になったら食事動作訓練を開始する」と述べている(金子、1999)。
 岩崎は「関節可動域の維持と変形予防、随意性を引き出しベッド上でのADLを可能にする」ことと「手の機能的肢位を維持するために、必要に応じて安静装具、短対立装具、ロールなどを使用し、テノデーシスアクションによる把持動作の準備をする」と述べている(岩崎、2005)。
 良肢位と機能的肢位は同意義的に用いられており、できる限り拘縮を作らないような予防的な姿勢をいい、変形防止の肢位に保持し浮腫を減少させる目的がある(上田、大川、2006)(Lorraine 、1982)。安静にすることで関節がかたくなり、回復期にいざプッシュアップをする、ベッドの柵につかまるという時に、手関節が曲がったまま固まってしまうと力が入りづらくなり、食事動作や整容動作、車いす操作に支障をきたしてしまう。
 このように、急性期における作業療法は理学療法と同様に損傷部位に配慮しつつ、回復期に向けて主に上肢の変形や拘縮をつくらないように姿勢を管理するとともに、ベッド上からも食事や整容動作などのADLの自立へむけて訓練をしていく。急性期からのOTが介入は今後の脊髄損傷者の自立や回復期におけるリハビリテーションを有効にするため必要かつ重要である。
 また、岩崎は、脊髄損傷者の心情にも言及しており「事故により一瞬のうちに全身の機能を失い、自分の状況を理解できず、『現状を耐えることで、その後の回復がある』と、漠然と信じている段階であると思われる。また、身動きがならない不快感と、絶えずおそう頭痛により、身体的にもつらい時期である。急性期では正確な予後予測が難しい場合もあり、また情報を伝えても動揺が激しく正確に伝わることを期待できないことが多い」(岩崎、2005)と述べている。岩崎が述べているように、この時期は予後の明言を避け、訓練や装具の目的などを伝え脊髄損傷者が少しでも身体的に楽に過ごせるように支援する必要があると考える。

2−3 回復期のリハビリテーション
 回復期の理学療法は、関節可動域訓練、筋力増強訓練、座位バランス、基本動作(寝返り、起き上がりなど)と、脊髄損傷者の残存機能を最大限に引き出した上で身の回りのことが自分で出来るように様々な動作を練習していく。座位保持、車いす駆動、歩行訓練の基本となるマット訓練では、寝返り動作、座位保持訓練、プッシュアップ訓練が行なわれる(津山、2000)。足が動かなくなった脊髄損傷者は、使える手でベッドの柵などにつかまって寝返りをする練習や両上肢を左右に大きく振って寝返る練習をする。座位保持訓練は、両手が使えても体幹の筋肉を支配する髄節が損傷していると座位を保持することは難しい動作になるため、練習する必要がある。
 座位が安定して取れることで、車椅子からベッドへの移乗動作や食事動作、更衣動作、整容動作を行なうことが容易になる。プッシュアップ訓練とは、両上肢を下方に伸展し殿部を浮かせるものであり、移動や移乗動作に必須の動作である。車いすで長く同じ姿勢をとっていると、お尻に圧迫が加わり感覚麻痺のある脊髄損傷者は我々が無意識にお尻や足を動かして除圧している動きを意識的に行なわないと褥瘡になってしまう。そのため、時間をきめてプッシュアップを数分持続して保持する能力が必要となっている。その他、車いすへの移乗動作訓練、車いす駆動訓練、平行棒や松葉杖を使用した歩行訓練が行なわれる(津山、2000)。
 下肢に麻痺のある脊髄損傷者は、車いすでの生活が主となる。車いすの前輪を上げて段差を乗り越える技術も習得する必要がある。歩行訓練は、体幹筋の強化や体力増強のほか、精神面の改善にもよい影響を与えると言われている(津山、2000)(武田、1993)。
 回復期の作業療法は、ベッドから起き上がることができるこの時期は四肢や体幹の機能を高めることと平行して、様々な上肢装具や自助具を活用し介助量を減らし自立面を多くするように支援し、社会適応が円滑になるように前職業的アプローチを行なう場合もある(津山、2000)。
 回復期の作業療法は、津山は「この時期の作業療法の目的は、筋力強化、ADL訓練、教育」(津山、1998)と述べており、「ADLは、病棟や作業療法室だけではなく、家や仕事場と同じ状況で練習することが必要になってきます。ですからこの時期の終わり頃には、週末に外泊して問題点を明らかにする機会をつくります。患者及び家族教育は関節可動域訓練、上肢のポジショニング、褥瘡予防、環境の温度調節、移動法、旅行などについて行ないます。また、家屋改造についても指導します」(津山、1998)と単に訓練室や病院の中だけでの訓練ではなく、退院後の生活や仕事を視野に入れた訓練が必要となる。
 病院内は、医師や看護師、理学療法士、作業療法士など、多くの医療スタッフがおり、体調面や身体面の調整は周りのスタッフに管理されている部分もあるが、退院となると全てのことを本人やその家族が行わなければならない。今まで、変形や拘縮、褥瘡にならないようにと気をつけていても、退院後に身体機能面の低下や褥瘡が発生しては、家庭生活や社会生活を送ることが困難になってしまう。このようなことにならないためにも、本人や家族が健康で今までの自立できていた身体機能を維持しながら社会適応ができるように、本人や家族への意識付けや教育という面にアプローチは重要となる。
 岩崎も「回復期の目標は、ADLの可能な限りの自立であるが、ADL訓練に先立って、筋力強化や座位バランスの獲得などの訓練が行なわれる」(岩崎、2005)と述べている。加えて、家屋改造指導も指摘している。「車いす生活であることを前提に玄関、通路、居室、トイレ、洗面台、浴室、車庫などの環境を整える。家屋改造は頸髄損傷者それぞれの生活スタイルや家屋状況、家族構成などの要因で異なるため、作業療法士は対象者の要望に対してより多くの情報を提供できることが望まれる」(岩崎、2005)ことから、退院後に車いす生活で改修が予測される上記の箇所は、退院前に改修を終える必要がある。そのために、実際に外泊することでどんな問題があったのかが明確化可能になる。
 実際に作業療法士や理学療法士、家屋改修業者と患者の自宅を訪問し、専門家の目からみてどのように改修すると本人も介護をする家族も生活しやすくなるのかをアドバイスすることもある。
 金子も同様に、座位耐久性、関節可動域、上肢機能の向上をはかりながらADL各動作の練習と工夫、などのOTの関りを指摘しているが、心理面について次のように言及している。「脊髄損傷者は単に手足の自由な運動が奪われただけではない。多くの場合不快な疼痛や異常感覚が続く、そのうえ排尿や排便のコントロール、褥瘡予防のための自己管理などが必要である。患者は障害が永続的なものであることを受け入れ、自己の新しい行動様式を身につけて社会に再適応していくことが望まれる。しかし、機能回復への期待は捨て難く、患者は混乱と苦悩の中で適応への努力をしていることが多い。作業療法士は患者、家族のこのような状況を理解し、受け止めたうえで訓練を進め、患者の理解や意欲を高めるように心がける。種々の技能の獲得は新しい行動様式を支えるものであり、退院後の生活のイメージ作りを促す助けとなるので、とにかくできるようになるということも大切である。機能回復に固執する人にとっては説得よりも「やるだけやった」という納得が必要な場合もある。同じような障害を持つ人の前向きな行動に接したり、話し合ったりという機会や、外出・外泊など病院外での活動経験が気持ちの転換を促すことも多い。可能なADLの獲得とともにうつ的になりやすい気分を発散できるような活動を工夫する」(金子、1999)ことを作業療法士は考えなければならない。
 Lorraineは、脊髄損傷者の多くは受傷して障害を負ったことに対し、信じることができず、診断を聞くことを拒み、歩けるようになることに固執する者もいるが、そのような患者の麻痺に対しての反応として悲観的になるのはごく当たり前のことであると述べている(Lorraine 、1982)。作業療法士はその専門性をいかし、身体機能を高めつつADL面で上肢装具や自助具を用いながらできることを増やしていくことは、脊髄損傷者のうつ的な心理状態を作業を通して変えていくことが可能な職種であると考える。
 もし、脊髄損傷者が主婦の場合料理などの家事動作が可能になれば、退院後にいつも周りに何か介助をしてもらわなければならないという立場ではなく、主婦として家族の立場や役割を維持することができるとわかれば、その心の持ちようは随分異なると思われる。また、もし働いていた男性の場合、肉体労働的な職業につくことは困難であれば、自助具でパソコンを操作することが可能になることで退院後に仕事をする可能性が高まり、車いすではあっても社会を構成する一個人としての役割を得ることができる可能性がある。再度社会に復帰していくことを個々の能力の程度に合わせて考え支援することは、歩くことができないということに対する固執が、それ自体が大きな意味をもたなくなるという思考の変化を導くものと考える。

2−4 社会復帰期
 金子は「ほとんどの脊髄損傷者は自宅生活が可能である。しかし、それを実現するためには獲得したADL能力を発揮できる住宅の整備が必要であり、ADL介助を要する場合には介護力の確保が必要である」(金子、1999)と述べている。そして、「復学、復職、余暇活動など、どのような形で社会生活に復帰していくかは、本人の身体機能や活動性、年齢、性格、心理状態、知的レベルおよび家族や職場を中心とする周辺状況に左右される」(金子、1999)ことから、作業療法士は、ここの脊髄損傷者が置かれている状況や家庭状況、地域にある社会資源などをよく把握しておくことが必要とされる。
 また、岩崎は、「人の生活は、日常生活活動、職業活動、余暇活動のバランスがとれていることが必要である。退院後の社会的活動を支えるために、職業活動や余暇活動に関して、各個人の必要に応じた動作訓練などの援助をする」(岩崎、2005)と述べている。就学や就労は十分な体力が必要とされるので、毎日の排泄、更衣、整容などの動作の効率性も合わせて考えなければならない。
 自立の拡大に支援しているが、1人で行なうのに時間がかかっては体力も消耗し学業や仕事に差し支える場合もある。その他、社会や地域における活動の場の可能性として、福祉工場、地域の作業所、障害者団体の活動なども考えられる(岩崎、2005)。
 家事動作は、単身生活者や主婦には獲得が必要とされるスキルで炊事、洗濯、掃除、買い物などができるかどうかを検討する必要がある。車いす対応の台所や洗濯置き場や物干し台の設計、把持機能を補う包丁やお玉などの自助具の活用と同時に、自分ですることと介助が必要なこととを分けて計画的に対応することを考えていく(岩崎、2005)。
 健康の維持や管理にも支援が必要で、金子は「排尿、排便のコントロール、褥瘡予防と皮膚管理、自律神経過反射への対応、呼吸器感染症の予防、ROM・筋力・体力の維持、体温調節などの健康管理は社会生活適応の重要事項で、患者自身が責任を持って行なう」(金子、1999)ことで、健康的に回復した身体機能を維持して社会生活を送る上で脊髄損傷者やその家族に要求される。

2章 脊髄損傷者への心理的支援の意義

 筆者は、第1章で述べたように、脊髄損傷者に対して身体面や機能面へのアプローチだけではなく、心理面への支援も同様に重要であると感じている。そして、PT、OTが行なっている訓練はまさしく身体面、機能面のアプローチであるのだが、その訓練を通して脊髄損傷者は、自己の能力が回復していく様子を理解することやできる。また、できないと思っていたことが環境や道具を工夫することでできるようになるという経験が、障害を持って落ち込んでいる気持ちや考え方を前向きなものに変えることができると考えている。筆者はその脊髄損傷者の心理的な変化を心理的エンパワーメントという言葉で表現することができると考えている。本章では、開発の分野におけるエンパワーメントの用い方や今までの言葉の使われ方の流れを把握したうえで、筆者の考えるエンパワーメントを論じたい。

1節 現在におけるエンパワーメントの定義
1−1 開発の分野のエンパワーメント
 エンパワーメントという言葉は、教育、福祉、社会運動などの様々な分野で用いられているが、この項目では開発援助の分野での定義を述べる。
 久木田や佐藤によると、エンパワーメントという用語は1980年代ころから開発の分野におけるジェンダーと開発の分野、貧困などの分野で広く使われるようになったが、その定義は未だに統一的な見解に至っていないと言われている(久木田、渡辺、1998)(佐藤、2005)19)。
 エンパワーメントとは、辞書では「人に…する権限を与えること、能力をつけること」(国広、堀内、安井、2002))と訳されている。
 フリードマンは、力が剥奪されている人々すなわち貧困層の人々の生活を改善には、民衆自らが開発アクターとして内発的に地域、社会や政治の仕組みを変え発展させていくというオルタナティブな開発という流れでエンパワーメントをとらえている(フリードマン、1996)(穂坂、2007)。フリードマンは、力が剥奪されている人々を世帯でとらえ、人々が暮らしを営むにあたり、世帯は社会的な力、政治的な力、心理的な力の三種類の力を行使すると述べている。情報、知識、技術、社会組織への参加、材的資源などの社会的な力、世帯の個々の成員が自らの将来に影響を及ぼすようなさまざまな決定過程に加わる政治的な力、個人が潜在力を感じる力であるという心理的な力というこれら3つの力を世帯とその成員が獲得することを追及するものをオルタナティブな開発と説明している。フリードマンがいうエンパワーメントとは、個人内の変化のみを述べているのではなく、社会や政治にも変化をもたらし、その人々の生活が変わるための必要不可欠な1つの過程としてとらえていると考える。そしてこれら3つの関係は相互的であり、政治的なエンパワーメントには、社会的エンパワーメントが必要となると言われている。また、社会的なエンパワーメントの獲得が、より自己に対する自信を高めるという効果から心理的なエンパワーメントにつながり、さらに地方や国へ働きかけるなどの政治的エンパワーメントへとつながると述べられている。心理的エンパワーメントは、社会的・政治的な領域での成功の結果高められるが、個人が潜在力を感じる力が増すことで世帯の社会的な力や政治的な力を強めようとする姿勢につながることも言われている(フリードマン、1996)。
 また、佐藤は開発援助という分野においてエンパワーメントの構成要素は「@当事者の「気づき、主体的意欲」(心理的変化)が、エンパワーメント達成過程において大きな役割を果たすことを指摘している。A外部者(ドナー、政策当局者)の機会付与(訓練・教育や資金などのサービス提供)によって、当事者が「能力開発/能力開花」を経験することが、エンパワーメントのための中核的な活動であることを指摘している。Bさらに、こうして「得られた/付与された」能力は、社会的制約があるためにそれだけでは十分に機能するとは限らないので、外部者はこの能力を発揮しやすいような社会環境づくりを働きかけるべきである」(佐藤、2005)という3要素を述べている。
 久野はエンパワーメントを「人が誰かによって与えられた社会認識をそのままに受け入れることではなく、自分自身が社会と現実を批判的に捉え、自分の利害を認識すること(意識化)を支援すること」と定義しており、「エンパワーメントとはむしろ社会を平等なものへと変革することであり、この意味においては個人的なものではなく集団のプロセスをたどるものである。」と、エンパワーメントされた個人がマクロレベルの対社会に対して影響力を持つ存在と位置づけている。加えて、久野は「訓練による個人の機能の向上はエンパワーメントとは捉えられない。障害者差別がある社会を、同じ差別に直面している人々と共に変革していく過程こそがエンパワーメントなのである。障害者運動や自立生活運動がこれにあたる」(久野、中西、2004)と述べている。
 開発の分野のエンパワーメントとは、個々の心理面精神面の変化が開発の到達点ではない。穂坂は開発を「南北を問わず、人びとが自分の可能性を開き、地域の将来を自分たちの力で決めて行動していくプロセスである」(穂坂、2007)と述べているように、地域の将来を自分たちの力で決めて行動するために、コミュニティ内で団結し社会や政治を変えていき、自分たちが望む生活を手に入れることである。そのため、開発におけるエンパワーメントとは社会や政治の変容が最終目的となる。

1−2 他の分野のエンパワーメント
 森田はこどもや女性における人権という分野においてエンパワーメントを説明している。「エンパワーメントとは、わたしたち一人ひとりが誰でも潜在的にもっているパワーや個性をふたたび生き生きと息吹かせることである。すべての人が持つそれぞれの内的な資源(リソース)にアクセスすることである」「エンパワーメントとはまずもって一人ひとりが自分の大切さ、かけがえのなさを信じる自己尊重から始まる…自己尊重の心は自分一人で持とうとして意識して持てるものではない」(森田、2001))と述べられているように、個々が自己尊重を持った存在と認識するという、個人内の変化について述べている。しかし、森田はエンパワーメントが自己内で完結するとは述べておらず、例として障害を持つ人が誰かに助けを借りて道路を渡ること、乳母車に赤ちゃんを乗せた母親が階段で手助けを頼みまわりの人が当たり前のこととして手を貸すという社会を作ることにも影響についても言及している。
 中西は「人は自己定義によって、当事者になれる。というよりも、問題を自分で受け入れたとき、人は当事者になる、と言ってよい。当事者とは周囲から押しつけられるものではない。自己定義によって、自分の問題が何かを見きわめ、自分のニーズをはっきり自覚することによって、人は当事者になる。したがって当事者になる、というのは、エンパワーメントである。たとえ被害者のとしての当事者性をひきうける場合でさえ、当事者になることとは本人にとっては無力の証ではなく、みずからの主権者になるという能動的な行為なのである」(中西、上野、2008)と述べている。中西は、自分の問題やニーズを自覚した当事者になることによってもエンパワーメントであると述べている。自分の現在のおかれている状況を見つめ、把握することは、自分のニーズを実現させるためにまず必要な段階である。それから、ニーズの実現のために能動的に人は行動していくことができる。

2節 脊髄損傷者における心理的エンパワーメントの重要性
 開発の文脈におけるエンパワーメントは社会変革をともなうことが最終目的であるため、心理的エンパワーメントだけではエンパワーメントとは定義されないことは1節の@で述べたが、社会変革へ到達するまでのプロセスを検討する。
 KabeerやRowlandsは、エンパワーメントのプロセスを通して獲得しようとする「力」を"power over""power to""power with""power from within"の4つに分類し、"power over"とは資源や物事を支配する力のこと、"power to"とはニーズを満たすために、新しい可能性や行動を生み出す力であり、"power with"とは連帯することによって得る力、"power from within"は自己受容や自尊心に基づいた自己の内面から出てくる心理的な力のことであると述べている。これらの4つは相互に強化され、自信や自尊心を得た結果、どのような行動を起こせたか、つまり"power to"をみる必要があり、"power to"を獲得したからこそさらに心理的な力(power from within)が強化されることになり、力を剥奪された人々が自らの生活に対するコントロールを取り戻すためには様々な力が必要であり、これら4つの力を獲得するプロセスがエンパワーメントであると述べている(佐藤、2005)。
 また、小國はエンパワーメントが個々人の力の獲得、社会全体の自治能力の向上、政治的な力の獲得を目指すものであるという確認をした上で、「個人の力の発揮なくして、集団のエンパワーメントはなしえないという点」を強調している。そして、エンパワーメント概念を4つ述べているが、@自分自身について自信を獲得し、自尊心を高め、潜在能力を発揮していくという、自己に向かう心理的なプロセスと、A社会関係における個人のコントロール力の獲得、B集団レベルでの相互作用による、相互を高められるような価値の共有、Cこれら個人の潜在能力の発揮と、集団のプラス相互作用を同時に成り立たせられるようなコミュニティ全体の自治能力の向上、の4つの相互作用的な概念が組み合わさっていると説明している(佐藤、2005)。
 Kabeer, Rowlandや小國らが述べているように、それぞれのプロセスは相互的であり、これらの順序を必ず踏まなければならないものではないが、フリードマンの言う心理的エンパワーメントの重要性はどちらも述べており、心理的エンパワーメント抜きで社会的政治的エンパワーメントが獲得されるとは言い切れないと考える。
 定松はネパールで現地の開発センターが山岳・丘陵地帯でのコミュニティ開発プログラムを行なった際の事例を述べている(斎藤、1998)。この事例は、成功的に進められているジュムラ郡での活動である。この開発プログラムは、フィールドワーカーが村に住み、住民との信頼関係をつくったうえでその地域での問題や生活向上への取り組みを調べている。あわせて、村の代表者を他の地域で実施されている同種のプログラムへの見学ツアーを企画し、相互扶助グループの結成をうながし、メンバー内での貯金を元手に教育、保健衛生、収入向上などの活動を開始する。そして、これらグループを行政や市場と交渉できるよう橋渡しをし、それぞれが活動を継続的していけるようになった段階でNGOは撤退するというプログラムになっている。このNGOがこの地域で果たした役割は、「コミュニティとコミュニティとをつなぎ、住民が相互の学び合いの中から自らの可能性に目覚める環境を作り出していくこと」と定松は述べている(斎藤、1998)。
 低カースト、少数民族、女性というさらに社会的に弱い立場にある人たちであっても、このNGOの関りでお互いにグループで貯金をし、それを元手に家畜の飼育などに投資でき生活が安定することにつながった。自分たちで生活防衛を達成することがエンパワーメントの第一歩と述べている。そして、より積極的な「生活向上」へと向かい基盤が形成され、さらに収入が増えることで新たな換金作物の導入など、よりマーケティングや交渉力が必要とされる活動へステップアップしていくことができた。これらのエンパワーメントは、一見社会的、政治的エンパワーメントが中心のように思えるが、生活防衛が達成されたという心理的エンパワーメントが基盤となって、NGOの介入もあり社会的、政治的エンパワーメントへとつながったととらえている。
 筆者の考えるエンパワーメントは、これらの事例や報告から、エンパワーメントとは社会変容がもたらされることが目的であることに異論はないが、その目的達成には心理的エンパワーメントの獲得という基盤がないと社会的、政治的エンパワーメントへとつながっていかないのではないかと考える。特に脊髄損傷者の場合は急性期では「事故により一瞬のうちに全身の機能を失い、自分の状況を理解できず、『現状を耐えることで、その後の回復がある』と、漠然と信じている段階であると思われる…急性期では正確な予後予測が難しい場合もあり、また情報を伝えても動揺が激しく正確に伝わることを期待できないことが多い」(岩崎、2005)とあり、歩けなくなったショックや動揺の中にある状態では、まず自分の状況の把握を本人の納得を待ちながら、支援をすすめていくのが望ましいと思われる。
 久野は「訓練による個人の機能の向上はエンパワーメントとは捉えられない。」(久野、中西、2004)と述べ、障害者差別のある社会を変革していくことをエンパワーメントとしているが、急性期の痛みや治るのか治らないのかという混沌とした中にある1人の脊髄損傷者が、訓練を通して「自分はこれができない」「自分はこうすればできる」という身体的なフィードバックが得られ、徐々に自分の障害のある状態を知覚し、認識し受け止めていくと思われる。このプロセスは、心理的エンパワーメントの基盤になると考える。
 中西は、先に述べたように、「当事者になる、というのは、エンパワーメントである。」(中西、上野、2008)と述べている。身体的機能の回復とともに、自分の障害のある状態も受け止めていくことも、中西はエンパワーメントと述べている。直接的に働きかけることではないが、リハビリテーション・スタッフが日々脊髄損傷者とのかかわりの中で気付きを促すという心理的エンパワーメントへの支援は重要であり、社会的、政治的エンパワーメントにつなげるためにも、様々な訓練や活動を通して心理的エンパワーメントを特に意識して取り組む必要性があるのではないかと考えている。
 特に受傷から急性期においては、障害を負ったことに対してショックや動揺がみられる時期でもある。突然歩けなくなった身体的な変化を受け入れて、「歩けなくても出来ることがある」「車いすでも工夫すればできることがある」という、自己有能感を持つことが必要ではないかと考えている。今現在の自分の身体に起きた状況を受け入れ、その状態から何ができるかという思考がないと、歩けなくなり人の手をかりなければならないため周りに遠慮し、できない自分が悪いというように問題意識を自分に向けてしまい、本当の問題は環境側にあることに気づくことも難しいと考える。
 障害を持った中で自分が望む役割や生活を地域や社会で実現するために何が問題となっているか、何があれば可能なのかという問題意識が高まると、その人の生活が受身ではなくより積極的に送ることができるようになる。そして、地域で自分らしい生き方をし、地域の一員として地域・社会に働きかけていく存在になれるのではないかと考える。

3章 各国の震災における支援内容

 本章では、文献とウエッブを中心に、近年、地震の支援内容の報告や活動内容が多く報告されている地震の事例をあげた。脊髄損傷者について記載のある地震の事例や文献や資料が報告されている事例をあげ、第1項で各地震の様子や被害の規模、支援の様子を調べた。第2項では、国際機関、NGO、がどのような支援をしたのかをまとめる。また、脊髄損傷者に対しどのような支援の有無などを調べ、記載があればどのような支援がされたかをまとめる。

1節 インド西部地震
 震災によって負傷した方々はどのような疾患が多いのかという特徴が述べられている。衣食住への支援、医療の支援、子どもや女性のための支援はみられるが、障害者への支援という文献は1つ見られた。

1−1 地震の状況
 2001年1月26日、8時46分、インド西部のグジュラート州でマグニチュード7.7の地震が発生した。死者は2万人、負傷者は16万6千人、全壊家屋が37万戸、半壊家屋が92万戸と報告されている(比田、2001)。大規模な地震のため、家屋への被害のほかに、道路、港湾、ダム等の土木施設や、電気、水道、通信をはじめとするライフラインにも被害が発生した(濱田、2002)。グジュラート州内の3つの病院、21の主要保健センター、4つの地域保健センターが倒壊したほか、小学校6698教室が被害をうけたというユニセフの報告もある(unicef HP)。グジュラート州は古くからの繊維産業に加え、様々な産業が興りインドの産業地帯であった。
 多くの家屋が被害をうけたが、インドでは耐震規定があっても強制ではないため、新しい公共建築物を除いてほとんどの建物で考慮されていない。また、壁が無補強のレンガやコンクリートブロックの組積造で構成されている場合や、旧市街地や村で多い伝統的な組積造である壁が不正形な自然石を粘土モルタルで積みあげ、屋根が木造でつくられているため倒壊の被害が多くなったといわれている(久田、2001)。

1−2 支援内容
<国連世界食糧計画(以下、WFP)>
 最も弱い立場にある被害者の健康悪化を防ぐために地震後緊急食糧援助を行い、17万8千人の妊娠中の女性、授乳期の母子に対し、2か月分のビスケットとインディア・ミックスという混合栄養食を提供した。その他に、被災地域で最も食糧を必要とする家族12万人に対し4ヶ月分の小麦粉とレンズ豆のパッケージを配給した(WFP)。
<ユニセフ>
 ユニセフは、15歳未満の子ども500万人が地震の影響を受け、うち250万人が家や家族を失い通学する小学校が倒壊するなどの心理面への影響を懸念し、被災した子どもと家族のために教育、心理サポート、家族の生存、保健、水と衛生などの分野で実施した。給水タンク35基、毛布7万5千枚、浄水剤、下痢による脱水症を防ぐ経口補水塩、はしかワクチン、家族用生活必需品セット(調理器具、応急手当用品など)10万家族分、緊急医薬品セット(1万人の3か月分)、家族用飲料水ケース、簡易学校や簡易保健センター用の大型テント700セット、ワクチン保冷用冷蔵庫と発電機、給水ポンプなどの援助物資を提供した。また、グジュラート州政府と協力して、被害の大きな地域を中心に、350の簡易学校と300の簡易保健センターの設置をし、地元NGOを対象に子どもの心理カウンセリングに関する知識を教員や保健員等に伝え、子どもたちへの心理サポートを行った(Unicef HP)30)
<国境なき医師団(以下、MSF)>
 国境なき医師団は、医師、看護師、物資調達要員、衛生管理要員らを現地へ派遣し、被災者への緊急治療、外科治療、伝染病の予防などにあたる。移動診療を行い救援の届かない地域を巡回した。援助物資は、野外で活動を行うための外科治療用器具、医薬品、医療キット、非難用テント、ビニールシート、毛布などを行なった(MSF HP)。
<Handicap International>
 Handicap Internationalというリハビリテーション・スタッフを派遣しているフランスのNGOは、負傷して障害をもった被災者に対する社会復帰のための緊急援助プログラムを行なったことが報告されている(Handicap International HP)。
<AMDA>
 AMDAは、緊急救援医療の提供のため調整員、通訳、医師と看護師の医療チームを派遣している。また、救援物資として医薬品1.5t、毛布2千枚、飲料水3t、シーツ・タオル千五百枚、テント500キロ以上、食糧150キロ、ショベルカー2台を提供している。アンジャールの医療キャンプで行なわれた診療は、外科処置を必要とする患者が多くギブス固定、縫合、指の切断など、本格的な外科活動が中心となったと報告されている。被災後1週間には、ギブス固定や縫合を必要とする患者は減り、後はドレッシング(傷口の消毒)と消化器系及び呼吸器系疾患への手当てが多くなった。大きな手術が必要な患者は、大病院へ飛行機で搬送された。人口8万のアンジャール町に約200名の医療従事者がインド各地から集まり、その内30名近い整形外科医がいたと報告されている(AMDA HP)。これは、この地域が石やブロックでつくられている建物が一般的で地震で倒壊した家屋により負傷した被災者が多くいたことが予測される。
<Save the children>
 Save the childrenは,最も被害の大きかったカチ県で現地のパートナーNGOを通じ、毛布、テント、プラスチックシート、バケツ、ポリバケツ、子供服、ジェネレーターを物資配給した。保健医療施設に対し、テント、ブラスチックシート、毛布、バケツ、ポリバケツ、机、イス、ベンチ、診察台、懐中電灯(電池含む)、WHOキット、を提供した。また、プライマリー・ヘルスセンター1箇所、ヘルス・サブセンター12箇所、診療所3箇所のプレハブ施設の建設を行なった。インド政府が行なっている子どもや女性の保健、保育、教育等を行なう総合児童育成サービスに、テント、プラスチックシート、調理セット、ブラスチック製ドラム(貯水用)、体重計、教材・玩具セットを提供した。住居については現地のNGOとともに2万2千の仮設住宅を建設した(Save the children HP)。
<赤十字社>
 日本赤十字は、各国赤十字社が緊急出動可能な専門家や資器材を整備し、災害発生時に直ちに救援チームを資材とともに派遣し、当初4週間の自己完結型の効果的な医療活動を行っており、各国単位で構成されている緊急対応ユニットによる救援が行なわれている。各国の赤十字病院では、フィンランド、ノルウェーが病院の建設、ドイツとフランスが給水、オーストラリアが通信、スペインが医療、イギリスが物資輸送ユニットを派遣している。日本はグジュラートに小手術を含む緊急治療、疾病予防、地域保健維持などの活動を行った。テントによる診療活動では、開設当初は地震関連の外傷が多かったが(840名)、経時的に呼吸器(707名)や下痢疾患が増えたと報告している(千代、2003)。

<日本政府>
 日本政府は、緊急援助物資として300万ドルの緊急無償援助と約1億円相当の援助物資を行なった(外務省HP)。自衛隊部隊の国際緊急援助隊がテント、毛布の緊急援助物資を輸送し、被災地でテントの設営指導を行なうなどの援助活動を実施した(外務省HP)。また、地震によって破壊された水利設備を修復する事業も行なわれた(外務省HP)。
<国際協力機構(以下、JICA)>
 JICAは、毛布、テント、浄水器、発電機、医薬品などの援助物資の提供と国際緊急援助隊と自衛隊による支援が行なわれた(JICA HP)(JICA 2001)。
日本のNGOである、ジャパン・プラットフォームは、ジャパン・プラットフォームに加盟している国内NGOの合同チームが現地入りし、救助犬を使った救助活動を行なった。また、被災地に合同NGOセンターを設営し被災者向けの居住施設、医療、食糧等の支援を行なうこととしている(ジャパン・プラットフォームHP)。
<JEN>
 JENは、生活再建に必要な住宅支援を行なった。初期の支援においてテント57張りを提供し、その後ニーズ調査を行い雨季や寒暖に耐える中・長期的に使用可能な家型テントの供給をした。9ヶ月間で700戸の住居を被災者と共に建設し、地心災害との被災者の厳しい生活環境の緩和に貢献し、被災者自らが生活環境の改善への始動を始める契機となったと報告している(JEN HP)。

1−3 支援の傾向
 グジュラート州の地域の建物が地震に対応して建設されておらず、セメントや石、ブロックなどで作られた建物や家屋は倒壊しやすくそれによる怪我人も多かった。AMDAの活動報告では、外科処置を必要とする患者が多くギブス固定、縫合、指の切断など、本格的な外科活動が中心であったと言われており、脊髄損傷者の存在も推測されるが、具体的な記載はなかった。また、Handicap Internationalの報告では、地震により障害を負った被災者への社会復帰プログラムが行なわれたとあったが、その詳細は記載されていなかった。ユニセフや子どもを対処にしたNGOは、子どもへの支援が行なわれた。この地震における支援では、緊急期の支援が主で復興期までの継続的な支援が行なわれたという報告はなかった。

2節 スマトラ地震
 スマトラ地震は近年では被害が最大と言われている地震である。そこで起きた震災の様子や支援内容を調べる。

2−1 スマトラ地震の状況
2004年12月26日、0時58分、北スマトラ西岸沖を震源とするマグニチュード9.0の地震が発生した。発生した津波がインド洋の国々にひろがり沿岸各国で多くの犠牲者を出した。津波による被害が海岸から数キロ内陸まで及び、海岸付近は壊滅状態になるなど、死者は22万人、被災者200万人という被害を出した観測史上4番目の巨大地震となった(石川、2007)(安田、原田、2005)。
インドネシアでは、地震直後津波が発生し、海岸沿いから500m〜1000m、地域によっては7kmに及び海水が流れ込んだ。沿岸部に建設された家屋の多くは津波による水圧に耐え切れず倒壊し、逃げ遅れた人々は津波に飲み込まれた。建造家屋の多くは、木造またはレンガにより建設されているが、建築方法を問わず倒壊している(AMDA HP)。
 
2−2 支援内容
<WFP>
 WFPは、モルディブ、ソマリア、タイ、ミャンマー、スリランカ、インドネシアで食糧の配給をおこなっている。モルディブでは、2005年1月から7週間、児童に対し給食を支給する学校給食プログラムを実施した避難生活をしている1万4千人に対し食料支給を2005年末まで行なった。
ソマリアでは、隔絶されているアクセス困難な地域にある村落の津波被災者に対し食糧支援を行なった。タイでは、未亡人や孤児、少数民族に3ヶ月間食糧を支給した。タイ政府主導の学校給食プログラムが津波で被災した6つの県の全ての学校で行なわれるようになった。
ミャンマーでは、1万5千人がフード・フォア・ワーク(労働の対価としての食糧援助)プログラムに参加し、家屋や道路、橋、防波堤、貯水池や井戸の再建を実施した。
スリランカは当初1月7日までに被災地で75万人に食糧の配給が行なわれた。
インドネシアは、区分無しの広範囲な食糧配布、学校給食プログラムが行なわれた。タイとミャンマーへの支援は2005年中旬で終了し、ソマリアとモルディブは2005年末までで終了、被害が深刻だったスリランカとインドネシアは2007年まで援助活動が持続された。その後インドネシアは2005年5月から授乳期の母親と妊産婦に対して栄養強化食を支給される母子健康栄養プログラムが加わり、スリランカでは、2005年9月に区分無しの広範囲な食糧配布から脆弱者層への食糧配布となった。スリランカでもフード・フォア・ワークプログラムが行なわれた(WFP HP)。食糧配給だけではなく、援助物資を運ぶヘリで負傷者を搬送することも行なっている(WFP HP)。
<国際連合難民高等弁務官事務所 (以下、UNHCR)>
UNHCRは、本来の任務は、迫害や紛争から逃れる難民の保護、援助、解決策の模索であるが、災害の規模が甚大であること、アナン国連事務総長から国連全に対し協力要請があったことから、例外的に自然災害の被災者を支援するため救援物資と専門家派遣をおこなった(UNHCR HP)。UNHCRは仮設住居や救援物資の配給や輸送に重点を置き、インドネシア、スリランカ、ソマリアに援助を行なった。
インドネシアでは、基本的な生活用品の提供と地震・津波被災者の生活環境の改善を目的に家族用仮設住居、支援物資(毛布、キッチンセット、マットレス、ストーブ、ビニールシートなど)、倒壊した住居の提供を17万5千人に行なった。
スリランカでは、被災者のうち最弱層に対する仮設住居支援、食糧以外の物資支援、UNHCRの輸送能力の向上や国連機関とその他人道支援機関の救援物資の輸送と配給のための輸送および物流支援が行なわれた。ソマリアでは、被災者家族に対する緊急仮設住居と基本的な生活用品の提供が5000世帯に行なわれた(UNHCR HP)。UNHCRは2005年3月で緊急支援活動が長期的な復興支援へ移行されたことから国際支援活動から撤退した(UNHCR HP)。
<国際移住機関(以下、IOM)>
 IOMは、インドネシアとスリランカにおいて、援助物資の輸送・配布、仮設住居の提供、被災者の登録、人身取引(トラフィッキング)対策、医療支援の分野で活動した。また、被災による心身両面に痛手を負った子どもたちを始めとする社会的弱者を重視し支援をしている。援助物資の輸送・配布には日本の自衛隊も協力して行なった。
 インドネシアでは、水・食料・衣類・医薬品・衛生用品・テントなどの援助物資の輸送・配布や国際機関や各国政府関連機関、NGOなどの団体に輸送手段を提供した。家をなくした被災者に仮設住居を提供し、入居者の選定には片親世帯、子どもの多い世帯など特に困難な状況にある被災者を優先した。2006年からは恒久住宅の建設も行なっている。医療支援では、各国軍などから各地に移送されてきた負傷者の手当てや適切な医療機関への照会と移送をおこなった。はしか予防接種キャンペーンの実施、地域の保健医療の再生を支援するために恒久的に使用する医療機関の修理や再建をおこなった。
 地域の保健医療体制が充分に機能するまでの間、中期的なニーズにも対応するため被災者キャンプや仮設住居建設地に37箇所の診療所を建設し、基本的な備品や医薬品を提供した。人身取引対策では、特に被害に遭う可能性の高い子どもと女性を主な対象として活動し、子どもたちに対しては、制服や教材、学校までの交通手段の提供をおこなった。
 女性に対し、生計手段の回復支援を行い、あひるの飼育方法、塩や魚の干物やパン作り、裁縫などの研修と必要な物品の提供を行なった。また女性やコミュニティリーダーに対し、人身取引の仕組みや予防法を知らせる啓蒙活動を実施した。
 スリランカでは、他の国際機関や団体への援助物資の輸送手段の提供行なった。緊急的な仮設住居、数年使用できる仮設住居の提供を行なった。人身取引対策では、子どもや女性を対象にポスターやパンフレット、ワークショップなどの啓発活動を実施。女性を対象に、生計手段の回復支援として裁縫や織物などに従事する人々に材料や道具、技術研修の提供を行なった。IOMが支援するキャンプでは、被災者の健康をモニターし、必要時には医療機関に照会した。子どもの遊び場や幼稚園の設置などを通じた心のケア、眼科診療のプロジェクトを実施した。また、スリランカ政府が実施する被災者の登録や登録上方のデーターベース化に対する技術支援を行なった(IOM HP)。
<ユニセフ>
 ユニセフは、水と衛生、子供の保護そして教育の分野の3つの主要分野で国際的な取り組みをしている。地震直後からの支援と、地震後の3年、プロジェクトによっては5年をかけた復興支援を行なっている。
 インドネシアでは、はしかの予防接種、ビタミンAの摂取、鉄分の錠剤の配布、経口補水塩の錠剤の配布がされた。また1日15Lの水の提供、避難民キャンプ、病院、学校で生活する53000以上の人のための安全な排泄物処理施設の確保、衛生キット(バスソープ、歯ブラシ、歯磨き粉など)、約50万人にスクール・イン・ア・ボックス(学用品キット)の配布、21箇所のこどもセンターで子どもへの心理社会支援、孤児や大人からのケアを受けることのできない子どもの子どもセンターへの登録などが行なわれた。2007年には、体の不自由な生徒も通うことができる新しい「子どもにやさしい」学校が67校完成し、引き続き126校が建設中、67校が申請中、86校画計画段階である。マラリアから身を守るために殺虫処理を施した蚊帳が100万張以上配布された。建設予定の227の地域保健センターのうち、10センターが完成し、50センターが建設中である。地域保健センターでは、コミュニティレベルで、女性や子どもに必要不可欠な基礎保健サービスの包括的パッケージを提供している。アチェで避難生活を続けている人々と家庭に対し水のプロジェクトを行なっており、給水施設の改善を行なっている。病院の水と衛生設備が修理された他、大規模な汚水処理施設が建設された。4地域の警察署に子どものオフィスが設置され、州レベルの少年司法裁判所と子どもの保護事務局、子どもの保護のための統括サービスセンターの機能を果たすことになっている。
 マレーシアでは、ケダーとベナンの若者と母親にカウンセリングサービスを行なった。トラウマカウンセリングを含む心理社会的カウンセリングに関する研修が3箇所の町で
行なわれた。子どもの心理社会的な面での不調を見つけるため、両親や教員を対象にした簡単な研修セッションなどを含むコミュニティ教育ワークショップが住民に対し開催された。2007年の時点には、500万人以上の学生が学校の緊急時の対応と対策について教育を受けた。また、1000人のカウンセラーが心のケアトレーニングを受けた。宗教団体責任者や5000人以上の学生がHIV/エイズ教育を受けた。
 インドでは、被災した子どもたちへ保健サービスの提供、学用品とレクリエーションキットの支給し津波発生後3週間以内に学校を再開する事ができた。教員、コミュニティメンバー、ボランティアが子どもへの心理社会的支援の研修会を行なった。研修を受けた自助グループが2箇所の地区でキャンペーンを行い公衆衛生、衛生週間が改善された。ニコバル地区の遠隔諸島5島で4000基以上のトイレ建設が行なわれた。2800個の給水タンクが支給された。150箇所の乳幼児センターに栄養補助品目と遊具が提供された。2007年には、乳幼児ケアスタッフ5000人に乳幼児への食事の与え方の研修が行なわれた。被災した5歳以下の子ども役200万人の発育をモニタリングしている。教員の研修や教材提供、緊急の学用品提供などを行なった。タミルナドゥ州の約12万人の若者にHIV感染予防の教育を行なった。ニコバル諸島では追加の雨水貯水装置が導入され、避難生活を送るコミュニティと乳幼児ケアセンターに約2500基もの給水設備が設置された。教員やソーシャルワーカー、カウンセラーへの精神的なケアを行なうトレーニングも継続されている。
 モルディブは、全ての子どもたちへの予防接種、ビタミンAと害虫駆除用の錠剤の支給、特に津波被害の大きかった諸島の子どもたち5000人に緊急食糧支援、子ども・両親・教員・保健ワーカー1000人以上対象に教育研修、心理社会講座、個別カウンセリングが行われた。仮設教室39棟が仮設居住区に設置された。初等・中等学校に116校に基本的な学校設備、用品、消耗器具が提供され、子どもたちには学用品、レクリエーション及び乳幼児キットが支給された。幼稚園にも木、植物教材、おもちゃ、文具が配られた。飲料水、基本的な家庭用水キット、生理用品、石鹸、潜在、消毒剤、ゴミ袋が支給された。20台の逆浸透海水淡水化装置と2604個の水タンクが島々へ運ばれた。コミュニティ保健ワーカーへ公衆衛生の推進と保健教育の研修の実施が行なわれた。2007年には、20の教員研修センターが完成し、島々の学校をインターネットでつなげ、教員の研修と生徒の学習参加が可能になった。7000基の雨水貯水装置や23個の逆浸透法淡水化装置で5万人以上の人が安全な水を使えるようになった。4万人の青少年に対し麻薬防止のメッセージを発信した。
 ミャンマーでは、マラリアから身を守るための蚊帳、医療薬品が支給された。100のコミュニティで病気を予防するための安全な給水システムの提供、安全な飲み水の提供、2000世帯に公衆トイレ用の物資の提供、学用品の提供、400校が修繕、修復された。2007年には、小学生に課外学習や余暇の機会を与え促進するために10校の学校で試験的に課外活動が始められた。研修マニュアルがつくられ20名の教員が研修をうけた。「こどもにやさしい学校」事業では、多くの教員が研修やライフスキルカリキュラムや子ども中心とした学習法について研修をうけた。3箇所のドロップイン・センターで1万6000人の子どもが社会心理的活動による支援を受け、その中にストリートチルドレンや労働に従事する子どもたちにも支援された。1000校以上が改善された衛生設備を備え、7万人の学生が水と衛生設備を使用している。
 ソマリアでは、学校建設がなされ子どもたちの就学率が被害の大きい村については高くなった。はしかの予防接種とビタミンAの錠剤が支給された。浅井戸、30基のトイレと3つの水タンクが設置された。2007年には、14の基礎保健施設が再建された。186人以上の教員が子どもを中心においた教育法について研修をうけた。子どもの保護者、教員、保健員、子どもの保健活動家を含む300人以上が精神的カウンセリングの研修を受けた。
 スリランカでは、ビタミンAの支給やワクチンの運搬装置やコールドチェーン装置の支給、水タンクや水入れの支給と給水車での水の提供、キャンプ・学校・コミュニティで常設トイレの設置、井戸の洗浄と給水所の設置、排水装置による公衆衛生サービスの提供、入浴施設の設置、机とイスなどの学校備品とレクリエーションキットと制服の提供、仮設学校97校が設置された。両親と離れた子どもや片親の子ども4800人がソーシャルワーカーの訪問によるケアを受け、850人の子どもが育児法の恩恵を受けた。心理社会的活動の提供や衛生用品、蚊帳、ランタン、台所用品、バケツ、浄水タブレット、衣服、マットレスと寝袋の入ったキットの支給が行なわれた。2007年には、計画された32校のうち8校が完成し、改善された水と衛生設備を備えた「子どもにやさしい学校」に通えるようになった。12万9000人に水を供給する2つの大規模給水計画が進行中である。3つの病院の修復や8箇所の保健施設が完成、保健センターは27箇所建設された。120箇所の診療所がスタッフの研修や物資供給などの支援を受け、累計では1238施設が支援を受けた。パートナー団体と協力し、レクリエーション活動や学校・地域に根ざしたサービスを提供し子どもと家族の精神的支援を行なった。教育省の協力のもと、600校以上で心理的アプローチの全国行動計画が実施されている。
 タイでは、800の学校と子どもセンターにスポーツ用具や本の提供、子どもたちへ心理社会的回復の活動の提供、子どもの権利の意識喚起するためボランティアへ訓練の提供、仮設教室の設置、授業料の補助、シェルターから学校への送迎の提供が行なわれた。12の仮設学校とシェルターに暮す家族に、浄水器やトイレなどの水・衛生設備の提供を行なった。2007年には、4万6000人の生徒が基礎衛生教育を受けた。124校にこどもにやさしい学校事業の展開を行なった。約20万人の子どもたちは毎月体重測定を受け、栄養不良の早期発見や迅速な対応を確実に行なっている。ユニセフの資金的支援が終了した後も、体重測定プログラムは続けられている。津波で両親を失った1700人以上の孤児の生活環境の再評価が行なわれ、引き取られた子どもの生活環境が望ましくない場合には政府機関に照会された。8000人の若者が、生徒同士で教えあうピア・エデュケーションを通してHIV感染に対する意識や防止のためのスキル向上に取り組んだ。(unicef HP)
<赤十字社>
日本赤十字社は、地震発生直後から2007年の4月末まで被害の大きかったインドネシアとスリランカで救援活動を実施した。震源地に近い町ムラボで医療救援活動を行った。地震が発生して3日後に活動が開始され、機能の麻痺した現地の病院支援、避難民キャンプに診療所を開設し診療活動、近郊の巡回診療、母子保健活動、予防接種の実施を行なった。避難民キャンプに診療所を開設し、当初は津波関連の外傷、徐々に内科系の疾患、また不眠、頭痛を主訴とした心のケアを必要とする被災者も多くなった。救援物資(食糧、家族用テント、就寝用マット、蚊帳、防水シート、衛生キット、学用品セット、ラジオ、倉庫・事務所要テント、事務所用車両)として支援された。
 2005年4月からはインドネシアとスリランカで5ヵ年の復興支援に取り組んでいる。被災者の健康的で安全な暮らしのために、住宅の再建と深井戸の設置、集会所3箇所が設置された。保健医療施設の再建として、多くの病院や診療所の建設がすすめられている。また、赤十字ボランティアによって、地域住民に対する正しい知識の普及や乳幼児の栄養改善、家庭菜園指導などが行なわれている。
 スリランカでは移動眼科検診を行い白内障の手術を実施した。また、コミュニティの防災能力を高める支援や、沿岸部の危険性から住民を守るためにマングローブの植林も行なっている。被災児童への教育支援として、鉛筆やノートなどの学用品セットやスポーツ用品の提供、相互の言語を学ぶ語学プログラム(スリランカ)、キャンプやスポーツ大会、救急法講習会なども行われた(日本赤十字社、2007)。
<MSF>
 MSFは、被害の大きかったインドネシアとスリランカで緊急援助を行なった。医薬品、水・衛生関連物資、救援物資の配給、現地の病院を支援し、移動診療や外科手術の実施、はしかや破傷風の予防接種、ヘリコプターによる重症患者の搬送、カウンセリングなども行なった。復興支援では、医療的なプログラムは終了し、被災者の心理ケアを中心に活動を行った(MSF、2005)。
<AMDA>
 AMDAは、地震直後からインドネシア、スリランカ、インドで救援活動を開始した。救援物資の配布、巡回診療、蔓延が懸念される感染症(マラリア、コレラ、チフス、下痢、風邪等)の予防に力を入れた保健医療支援活動をおこなっている。親を失った子どもたちへのケアで保健衛生教育と平行しソーシャルワーカーによるメンタルケアを行なった(AMDA HP)。
 インドネシアでは、病院での緊急手術や診療、投薬及び壊滅状態になっていた病院システムの再構築、入院患者の受け入れ体制の整備、医療支援が行き届いていない人々へ巡回診療と仮設診療所での診療、はしかワクチンの接種を実施した。
 スリランカでは、被災者に感染症対策を目的とした巡回健康教育とソーシャルワーカーによる心のケアを実施した。インドでは、避難民キャンプ内での処置および診療するチームと巡回診療をするチームに別れ医療活動を行った(AMDA HP)。
 復興支援プロジェクトでは、インドネシアではアチェ州立ザイナル・アビディン病院支援活動として麻酔科派遣支援プログラム、看護師派遣研修プログラム、医療機関緊急対応研修、救急医療資格取得研修が行なわれた。シャークアラ大学医学部支援活動として、救急医療研修、保健医療研修を実施。小・中・高等学校訪問教室を行い、保健衛生教室、避難所でのソシアル・アクティビティ(移動図書館、栄養・保健衛生教育、心のケアのための創作活動など)を実施した(AMDA HP)。
<World vision>
 World visionは、インドネシア、インド、スリランカで緊急支援活動を行なった。避難所の提供、食糧支援、毛布、衣料乾燥食糧等の支援を行なった(World vision HP)。
タイでは、サバイバルキット(米、水、乾燥食品、缶詰め、洗面用具)、家庭用品、衣類、学校の制服、の配布がおこなわれ、被災者のリハビリテーションや住居の修復等を行なった(World vision HP)。インドでは、住居を失った人々に対する仮設住居の建設を行なった。また、子どもたちが被災することで受けたトラウマが癒すために遊び道具や文具を備えた「チャイルド・フレンドリー・スペース」30箇所の設置をおこなった(World vision HP)。

<日本政府>
 日本政府は、被災国であるインドネシアに対し、地震直後に146億円のノンプロ無償資金協力を決定した。平成17年(2005)3月より、北スマトラ沖地震津波災害緊急復興支援プログラムを実施し、バンダ・アチェ市都市緊急復興計画及び、バンダ・アチェームラボー間道路復旧基本計画策定等を行なった。平成17年11月より、津波災害により水没した土地台帳の修復作業の支援に、修復専門家1名を現地に派遣し、修復作業を支援した。その他、医薬品・医療器材の供与、保健所の再建事業、ラジオ・テレビ放送支援事業、放水路(護岸工事)等の修復事業等々が実施された(外務省HP)。モルディブに対しては、スマトラ沖地震に起因する津波で被害を受けた多数の小規模インフラ(港湾・下水道)を復興することにより、効率的な物流及び安定的な下水道サービスの復旧をはかり、被災民の生活改善及び同国の経済復興に寄与するという「モルディブ津波復興計画」のため、27億3300万円を限度とする円借款を供与した(外務省HP)。
<JICA>
 JICAは、スリランカ、モルディブ、インドネシア、タイの4カ国に、救助、医療、専門家、自衛隊部隊の合計14チームを派遣した(JICA HP)。
モルディブでは、テント、毛布、発電機、コードリール、ポリタンク、浄簡易水槽)などの緊急援助物資の供与と、ムリ島で国際緊急援助隊の医療チームが活動し、専門家チームがニーズアセスメント調査で派遣された。復旧・復興支援としてフォナドー島で住民参加による「瓦礫リサイクル津波非難塔」プロジェクトが行われ、倒壊して発生した瓦礫をリサイクルし津波災害メモリアルモニュメント兼津波避難塔を建てた自主防災ができるコミュニティ作りを目的にしている(JICA HP)。
 スリランカでは、国際緊急援助隊の医療チームと専門家チームの派遣とテント、スリーピングマット、プラスチックシート、発電機、コードリール、浄水器、簡易水槽、毛布などの緊急援助物資が行なわれた。また、青年海外協力隊一般短期隊員による、被災地において被害を受けた人々のストレスを和らげることを目的に避難所を含む被災地をグループで巡回し、ゲーム、人形劇、紙芝居、スポーツ等のレクリエーション活動が行われた。プロジェクトとして、橋梁の復旧・恒久化建設、漁港の緊急復旧事業、水管橋の緊急復旧事業、津波被災地域コミュニティ復興支援プロジェクトが行われた(JICA HP)。タイでは、国際緊急援助隊の医療チーム、救助チーム、消防・ヘリチーム、鑑識専門家チーム、捜索専門家チームが派遣された。テント、毛布、浄水器、発電機、コードリール、医薬品などの緊急援助物資の供与も行なわれた。
 復旧・復興支援として、タイ政府関係機関と援助国が参加する、さんご礁・沿岸環境、自然災害、生活向上の支援として専門家が派遣された。また、タイの内務省災害防止・軽減局および防災アカデミーの機能強化のために防災アドバイザーの派遣、タイ防災アカデミーのスタッフへ特殊救助技術を移転するため、特殊救助専門家の派遣が行なわれた。
 インドネシアでは、国際緊急援助隊として、調査チーム、医療チーム、自衛隊部隊が派遣された。テント、毛布、発電機、コードリール、スリーピングマット、簡易水槽、浄水器、ポリタンクなどの緊急援助物資を供与した。復旧・復興支援では、生計確保支援、PTSD・トラウマ対策支援、給水・衛生設備、給水設備維持および衛生に係る教育活動、コミュニティの復興計画・実施能力強化、住民の協力関係強化が事業としてあげられた(JICA HP)。
<国境なき子どもたち>
 国境なき子どもたちは、タイ、インド、インドネシアで支援を行なった。タイでは、現地NGOと共に津波で被災した8〜14歳の子どもたち約30人と、15〜18歳の青少年20名を対象に、生活・通学支援や心理ケアなどを提供した(国境なき子どもたち HP)。
 インドでは、被災した子どもたちのための家「KnKホーム」を運営し、現地避難所に保護されていた孤児50名を受け入れた。KnKホームで生活しながら学校に通い、安定した生活を取り戻すと同時に、ソーシャルワーカー等の愛情とケアのもと精神的なリハビリを果たす(国境なき子どもたち HP)。また、ホームに滞在する青少年のうち毎回10名ずつ計30人程度を対象に、心理的ストレス障害の緩和・軽減、心理的ケアを目的としたセラピー・ワークショップを開催した。ロールプレイおよびデジタル映像製作等を通じた自己表現の機会を提供した(国境なき子どもたち HP)。
 インドネシアでは、バンダアチェ市内およびその周辺にある6箇所の難民キャンプにおいて生活する被災者の子どもや青少年ら約300人を対象に、巡回型図書館・デイケアセンターを運営や青少年を対象としたビデオワークショップを実施した(国境なき子どもたち HP)。
<Care International Japan>
 Care International Japanは、インドネシア、スリランカ、インド、タイ、ソマリアで緊急支援活動として水、食料、医薬品、生活必需品、テントなどの緊急物資を配給した。復興支援活動は、仮設住宅、トイレ、井戸などの修復・建設、日雇い労働の機会提供や職業訓練などの生活手段への支援、被災者に対する心のサポート、土地登録や家の補償に関する情報提供や手続き支援などを行なった(Care International Japan HP)。
<ピースウィンズ・ジャパン>
 ピースウィンズ・ジャパンは、救援が行なわれていないアチェ州西海岸にあるムラボーで医療品や食糧などを救援支援した(ピースウィンズ・ジャパンHP)。

2−3 支援内容の傾向
 被害が甚大であったので、食糧や仮設住居への支援は国連関係機関の支援も入り非常に規模の大きい形で支援が見られた。この地震から、大きな団体が3年から5年計画で復興支援をしている団体の報告があり、数年単位で支援を継続しているプログラムを展開している団体が見られるようになっている。WFPは被害が大きかったインドネシアとスリランカに対し、単に食糧を提供し続けるのではなく、雇用の創出を含めたプログラムを行なっている。子どもや女性などの社会的弱者への支援を明記している団体も多く、子どもの心のケアや女性への生計手段回復プログラムなどもみられるようになっている。脊髄損傷者に対する支援報告はみられなかった。

3 パキスタン地震
 多くの脊髄損傷者が報告されている地震である。どのような支援がなされているのかを調べていく。

3−1 地震の状況
 2005年10月8日、8時52分、首都イスラマバードより北部に90キロの地点を震源地とするM7.6の地震が発生した。主にカシミール地方と隣接する北西辺境州の一部の地域はいくつかの村が山の地すべりで消滅、街の80~90%の家屋が倒壊など、甚大な被害を受け、死者は7万5千人以上、被災者は300万人を越えた(古郡、2007)。被災者のうち、脊髄損傷、頚椎損傷、その他手足の損傷など新たに10万人が障害者となったと報告されている(国際協力総合研究所、2008)。

3−2 支援内容
<UNHCR>
 UNHCRは、家族用テント、毛布、コンロ、ビニールシートなどの緊急物資を提供した(UNHCR HP)。UNHCRはバラコットにあるキャンプの運営を支援している(UNHCR HP)。また、UNHCRはユニセフと共同して、パキスタン軍部と民政の職員ら15人に対し、2日間の研修を行なった。内容は、新たなキャンプの敷地選定、計画、そして運営、地震によって避難キャンプでの生活を余儀なくされている生存者にとっての防寒対策、水と衛生の重要性についてである(UNHCR HP)。
<IOM>
 IOMは、パキスタンにおいて、緊急シェルターの提供、援助物資の輸送、医療の3つを柱とした支援を実施した。シェルターの提供は、山岳地帯に住む7万人の人々にシェルター1万軒分の建設・修理材料と道具の配布を行なった。援助物資の輸送や被災者の移送では、落石や地滑りなどの頻発で被災地への車両の輸送は困難であったが、トラックやジープを用いた輸送システムを整え、他の援助団体にも援助物資の輸送サービスを提供した。被災地の医療施設では対応できない重症患者を近郊の大きな病院へ移送する支援も行なった。
 医療支援では、被災地の保健機関にテント、暖房器具、燃料などを配布し、移動医療チームを各地に派遣し、負傷者の治療、心のケアの活動を行った。人身取引対策では、人身取引の危険を伝えるポスターやパンフレットなどを作成し配布した。日本との協力では、自衛隊と協力し被災地への援助物資の輸送、日本のNGOへの援助物資の輸送、被災者の移送を実施した。日本のNGOが活動する被災者キャンプ「キャンプジャパン」にキルト、調理器具、食器、ビニールシート、毛布、医薬品が提供された(IOM HP)。
<WFP>
 WFPは、地震発生直後に救援物資、医薬品や発電機、食糧などを支給した。また、被災者の多くが山岳部にいることから救援物資を迅速に輸送するために空輸オペレーションを行なった(WFP HP)。
<ユニセフ>
 ユニセフは、政府や国連諸機関と共に支援活動にあたり、保健・栄養・安全な飲料水や衛生設備の提供を通じた被災地の子どもたちの生存確保や、教育、レクリエーション、精神的ケアの活動を通じて日常生活を取り戻せるようにするための活動を行なった。
 ユニセフは、緊急保健キットの配布、はしかの予防接種、99の保健施設に医薬品や機材、物資、人材の支援、栄養不良の子どもや女性を管理するサービスの整備を行なった。2100名以上の地域保健ワーカーのネットワークを作り、今まで保健サービスが行き届いていなかった地域に保健サービスが提供されるように保健省を支援した。4020校のテント学校を立ち上げ、今まで学校に通っていなかった子どもも学校に通えるようになった。
 スクール・イン・ア・ボックス(学習教材セット)や本、通学カバンなどの学用品9500セットの配布、14500人の教員に精神的ケアのスキルや授業法の研修の提供、テントでの学校運営が困難な高地では125の仮設シェルター(52校分)を建設した。教員が不足している地域へ82人の補助教員を派遣した。非難キャンプや学校、病院で35万人に安全な飲料水や衛生設備を提供した。
 322の農村給水設備を修復し、2007年末までにさらに500の給水設備が完成する。2000校に対し安全な飲料水とトイレの提供、29の仮設基礎保健ユニットに給水・衛生設備を提供、38400個のトイレの建設を行なった。
 4000人の教員に学校での衛生教育に関する研修を行い児童へ衛生教育が行なわれた。震災後冬を迎えるにあたり、冬用衣服、毛布、布団を配布した。保護者と離れ離れになったり、孤児となった子ども13400人を登録・モニターした。122箇所に「子どもにやさしい空間」で精神的ケアを受けたり安全な環境で遊ぶ場を提供した。
 5歳未満の21000人以上の子どもが出生登録されるように支援した。被災地の3箇所に子どもの保護監視ユニットの設置、2箇所にストリートチルドレンや働く子ども向けの保護センターの設置を行なった。ユニセフは、パキスタン政府の復興計画に基づき、2008年12月まで復興支援計画を立て支援活動を継続する。(unicef HP)
<赤十字社>
 日本赤十字社は、被災地に近い病院で外来診察支援、リハビリ支援、病院の立ち上げ行なった。リハビリ支援では、現地の理学療法士らとともに外傷患者に対し期間中1000人を超える治療を行なった(白子、2007)。2006年7月までに、110万人に対しテント、毛布、ビニールシート、波型トタン板、衛生キット、ベッドシートなどを配布した。また、被災地や山岳部における飲料水供給システムとトイレ等の衛生施設の設置を行-った。被災者の診療と6つの巡回診療チームを稼動させ遠隔山間部の無医村を訪問。生活再建として農作物の種子と肥料を配布。19の教育施設、11の保健医療施設、14のコミュニティーセンターの建物再建を実施した(日本赤十字社 HP)。
<MSF>
 MSFは、被害が大きかった76地域を中心に現地の病院を支援し、診療所の設置や移動診療を通じ医療を提供した。救援物資の配給、水・衛生環境の整備、心理ケアなどの活動も行っている。地震発生当初、細菌感染した傷、骨折、打撲傷、体の痛み、心的外傷が多く見られたが、やがて呼吸器感染症、皮膚感染症、下痢など、劣悪な生活環境からくる症状が増加した。マンセーラ、バーグでは病院が損壊、あるいは倒壊したためテントによる治療施設を設置した。損壊した施設の復旧も援助した。マンセーラの地域病院の横にエア・ドーム式の治療施設を建造し、病院機能を補完する形でテント、理学療法、水・衛生設備を提供する「医療村」をバラコトなどに設立した(MSF,2005)。
<World vision>
 World visionは、緊急援助物資として水、毛布、テント、食糧、防寒用具、調理器具などを提供した。また、チャイルド・フレンドリー・スペースという広場を開設し、精神的に傷を受けた子どもたちに、学習や遊戯や歌を通して子どもらしさを取り戻してもらう活動を行った(World vision HP)。
<Handicap International;HI>
 Handicap Internationalは、1週間後には、HIはリハビリスタッフ(PT、OTなど)で構成されているチームを派遣した。HIは現地の一般人のボランティア対象に脊髄損傷患者への簡単な訓練や日常生活指導を行なうワーカー養成のワークショップを開催し合計59人ワーカーを各病院へ派遣した。
 711名の障害を負った被災者に対し、車いす、歩行器や杖を提供し、8つの病院にベッド、マットレス、訓練用クッションなどを提供した。世界銀行からの資金を受けて、被災地の4箇所にリハビリテーションセンターを建てている。ここでは、障害を負った被災者のために訓練や義足などの作製を行うことや、ソーシャルワーカーや義肢装具士が障害者の地域まで訪問するサービスも提供する。
 また、被災者の負傷状況の報告があり、負傷者の3/4が骨折で、約1000人の切断者がいると報告されている。切断者は6〜7週間で断端の大きさと形が安定し義肢の装着が可能になる。そのために、切断肢の可動性の確保と血液循環のために良肢位を保たねばならない。これら多くの切断者のために義肢を提供するリハビリテーションセンターを建てた。
 家族や活動の支援者の当事者やHIの活動への認識や関心を高めるために、脊髄損傷者の衛生的なこと、褥瘡予防、移動介助などのパンフレットを作成し配布した。
被災地では613人の負傷者のうち331人が脊髄損傷者で、282人が重傷者であったが、彼らが適切な治療を受けることができるように、被災地の全ての病院を訪れそこにいた重傷者を首都の病院へ搬送させた。6〜700名が脊髄損傷者と言われており(政府発表では713人)脊髄損傷を負った被災者は、1999年のトルコ地震では約90名、2001年のインド西部地震では120名、2003年のイラン・バム地震では150名と報告され、近年起こった地震と比べると多いものである。現地人のPTは、脊髄損傷者に対する治療の経験が少なかったため、脊髄損傷者の搬送方法、トランスファー方法、切断者の切断した四肢の動かし方などを教えた(HI HP)。
 震災から1年後は被災地に建てた、リハビリテーションセンターを継続して運営、技術支援を行なっている。被災地の4箇所で始められた障害問題を扱う地域情報センターを立ち上げ、地域のメンバーは障害問題のトレーニングを受けた。このプロジェクトは、2006年の11月から始まり3年間続けられる。
 2009年の報告では、障害者の生活が改善するプロジェクトに小額の補助金を提供することが始められ、提案されたプロジェクトがすでに評価を受けている(HI HP)。
APCDが開催したaccessibility Seminarでは、HIも参加しスマトラ地震におけるインドネシア・アチェでのHIの取り組みを発表した。
 脊髄損傷者への心理的な支援として、パキスタン人の障害者団体のSTEPとMilestoneと協力し、今の体の重症な状態を把握できずまた歩けるようになると思っている脊髄損傷者に対しピア・カウンセリングを提供した(HI HP)
<Save the children>
 Save the childrenは、救援物資や医療の提供と子ども達への教育やメンタルケアの提供を行なっていた(Save the children HP)75)。地震によりけがを負ったり、家を失うなどの様々な危機にさらされている子どもたちとその家族がその危機を乗り越え、もとの生活を取り戻し、さらに生活をより良いものに改善していけるように支援していくこと。被災者の生計の回復、および破壊され損傷を受けたインフラの再建を支援すること。子どもたちを保護し、育成していくための社会体制やその基本的サービスシステムを維持し、強化するために地域全体を支援することを活動指針として、緊急援助に続き長期的視野に立つ地域復興支援を進めている。
 緊急支援は、シェルター用トタン板、テント、ビニールシート、家屋修理用シェルターきっと、毛布、家庭用品の配布を行なった。また、94のセーフ・プレイ・エリアを設置し、ビニールシート、マット、クッション、おもちゃ箱、研修を受けた監督者を配備し、6400人の子どもたちを支援した。17の仮設学校と45のテント教室及び準教育施設を設置し、学習する機会を提供。高山地域では58の準教育施設を建設。非難キャンプに41の共同キッチンを設置。バタグラムでは用水路清掃による現金収入プログラムを開始し、慢性的な水不足地域の用水路の働きの向上と労働者に即時に収入をもたらした。非難キャンプに25台のミシンを設置した裁縫センターを設置し女性の生計につなげる。これらの活動は1年間計継続される(Save the children HP)。
 震災から1年後は、教育の提供、シェルター用のテント・トタン板、食糧を提供、セーフ・プレイ・エリアの増設し子どもたちに遊びの場所を提供することにより、地震のトラウマを克服して正常な感覚を取り戻している。倒壊した病院のかわりに仮設病院の建設、バタグラム郡の300人の教師に子どもの視点に立った教育方法のトレーニングを提供、現金収入プログラム、仮設教室を取り壊し地震に耐えうる組み立て式校舎の建設を行なった(Save the children HP)。
<AMDA>
 AMDAは救援物資や医療の提供を行なっていた。地震発生の翌日10月9日より、日本、ネパール、バングラディッシュ、インドネシアから各国の支部の医師、看護師、調整員をイスラマバードに派遣し、マンセラ及びアボッタバードに拠点を設け、バラコットにて仮設診療所を設置し支援事業を展開した。また、ハムダード医科大学と連携しマンセラにある政府系救急病院への医療従事者の派遣を行なった。宗教上及び部族社会のしきたりに配慮して、女性医師は女性患者を、男性医師は男性患者を診療した。10月14日にバラコットで診療活動を開始し、14日は60人を診察、外傷や打撲などの外科的疾患が多かった(AMDA HP)。

<日本政府>
 日本政府の対応で震災支援と関連するものは、国際緊急援助隊の派遣、自衛隊部隊の派遣は、100名の陸自要員の派遣とヘリコプター6機とC−130輸送機4機が活動した。緊急援助物資の供与として、毛布、ポリタンク、スリーピングマット、テント、浄水器、発電機、コードリールなど2500万円相当供与された。無償支援として、被災民救援のため2000万ドルの支援を実施。このうち12億8400万円(1200万ドル)の緊急無償資金協力を実施し、残り800万ドルはWFP,UNICEF,UNHCR、WHO,IOMの国際機関経由の支援として実施された。NGO等の活動では、ジャパン・プラットフォーム傘下のピース・ウィンズ・ジャパン、日本紛争予防センター、JEN,セーブ・ザ・チルドレン・ジャパン、日本国際民間協力会、アジア協会アジア友の会、災害人道医療支援会などに、外務省の日本NGO支援無償予算からジャパン・プラットフォームに供与されている資金から約4億4千万を活用した。今後の日本の復旧・復興支援に向けたニーズ調査のため、JICA調査団、JBIC調査団がパキスタンを訪問し、他ドナー(米、英、EU,UN、世銀、ADBとの共同ニーズアセスメント調査を実施した。被害が大きく支援の必要性が高じたためパキスタン政府に対し、円借款による支援1億ドルを行なった。世銀・ADBのジャパンファンドを通じた支援のため、各500万ドル、合計1千万ドルの支援を行なった(外務省HP)。
<JICA>
 JICAは、国際緊急援助隊医療チーム、国際緊急援助隊救助チーム、緊急援助物資の供与、自衛隊部隊サポートチームの派遣を行なった。また、災害との緊急支援・員丘活動の段階から復旧・復興支援への円滑な移行のため、パキスタン国北部地震復旧・復興プロジェクト形成調査団を派遣している(JICA HP)。
 国際緊急援助隊医療チームの活動は10月10日に派遣され、12日より震源地北西部のバトグラムにテントの診療所を設営し診療を開始した。バトグラムからさらに奥地は道路網が寸断され医療支援が届いていない村が多数あったため、ヘリコプターによる移動診療も開始した。北部のアラーイではヘリ着陸前から被災した人々が押し寄せ、負傷者約60名が運び込まれ、40名の患者を近隣都市の病院へ搬送した(JICA HP)761)。医療チームは、計2242名を診察した。約半数が外科系の疾患で、災害発生後3週間経過しても外傷患者が多く、災害の甚大さがうかがわれた。11月2日には医療チームの2次隊の活動が終了し日本へ帰国している。活動終了時に、現地で使用した医療器材や医薬品は、日本の特定非営利活動法人(NPO)災害人道医療支援会(HuMA)などが継続して使用した後にパキスタン保健省に供与された(JICA HP)。
 救助チームは、10月10日にバトグラムに入り、捜索・救助活動を実施した(外務省HP)。倒壊した病院や建物で救出活動を行い1人の女の子を救出したが、医師より死亡が確認された(JICA HP)。
 また、首都とその近郊に集められた脊髄損傷を負った被災者への支援として、協力隊による看護師、理学療法士、作業療法士によるチーム派遣が行なわれた。3つの病院に集められた脊髄損傷者は200名を越えその3/4は、いつも家に中にいることの多く倒壊した家屋の下敷きになり負傷した女性であった(古郡 2007)。
<アジア太平洋障害者センター(以下、APCD)>
 APCDは、地震前の2004年より2005年8月にパキスタンの障害当事者による自助団体育成強化セミナーを開催にむけて関りを持っていた。震災後、パキスタン政府は多くの障害を負った被災者がいたのにも関わらず、各ドナー支援による公共施設新設計画には障害者のニーズやバリアフリーの視点は含まれていなかった。APCDは、震災1ヵ月後にイスラマバードで「震災地におけるバリアフリー社会の構築に向けて」と題するセミナーが実施された。また、脊髄損傷者被災者のうち女性は3/4を占めていたが、多くの女性は「もう家族の負担になるのみ、自分はいなくなり、新しいお母さんが来たほうがよい」と絶望していた。
 2006年7月には、社会福祉特別教育局、障害者福祉団体、APCDとの共催でILに関する特別なセッションでピアカウンセリングのセミナーが開催された。その中で、日本から当事者である講師が派遣され、女性のAPCD研修参加経験のある当事者自助団体のメンバーが、「障害には意義があり、障害を持つからこそ存在する価値がある」と語り、このガイダンスを聞いた女性は、これからの希望を持ち、車椅子の生活であっても子どもたちの母親として、家族の一員として、生きていくことの意義を見いだし、コミュニティに帰っていったことが報告されている。しかし一方、ガイダンスや指導のなかった脊髄損傷の女性収容センターでは、7人の女性が自殺したことも報告されている(国際協力総合研究所、2008)。
<JEN>
 日本のNGOであるJENは、「支援が届きにくい地域の人たちに、緊急から復興まで特に教育を中心とした支援をおこなう」ことを活動方針としている。支援の少ないバーグ県で取り残されがちな山間部の被災者を対象とした支援を続けている。緊急から復興まで現地のニーズに合わせた息の長い支援を地元の人と協力して行なっている。地震直後からは、緊急支援物資が配布され(2005年10月〜2006年2月)、住居用テント、毛布、キッチンセット、衛生用品セットなどの生活必需品や防寒具を配布した。また、緊急教育支援事業(2006年1月〜5月)として、バーグで教室用テント、簡易トイレを設置し、文具品、防寒具を配布した。これにより、冬の間も子どもたちがテントで授業を受け学習を継続できるようになった。教育環境改善支援事業(2006年12月〜2007年5月)では、2年目の冬を迎え、1年しかもたない学校用テントでの学習を行なっていたため、テントが老朽化していた。学校用テントの補習と机・いすの配布を行なった。教育支援事業(2007年7月〜)は、住宅再建が優先されているため学校の再建が遅れていることから学校建設を2校行なった。そして、地震の基礎知識のない住民への地震教育を実施し防災意識の向上を促した。更に、衛生用品キット(タオル、石鹸、シャンプーなど)の配布と衛生教育ワークショップを行い、避難生活を送る子ども、住民の環境改善を支援した。水・衛生環境改善事業(2006年9月〜)では、多くの学校にトイレや手洗い場がないことから、被災地の学校に手洗い場を設置し、子どもたちが学校で安全な飲み水が飲めるように支援している。(JEN HP)。
<特定非営利活動法人人道医療支援会(以下、HuMA)>
 HuMAは、JICAの国際緊急援助隊医療チームの活動を引き継ぎ、バタグラムで数人の医師、看護師、コーディネーターを派遣し医療支援活動を行った(HuMA HP)。
<JADE>
 JADEは、地震直後は被災者キャンプを運営し、緊急援助と帰還支援を行なった。2006年6月から帰還不可能な社会的弱者向けの被災者キャンプにて、寡婦、孤児等の社会的弱者である被災女性たちの収入機会獲得による生活再建を目標に、カシミール刺繍の職業訓練を復興支援事業として行った。本事業の実施により、被災女性弱者が刺繍技術を習得し、生活再建と自立に向けた可能性が開け、女性たちによる刺繍生産グループが結成され、生産・販売活動が本格化し恒常的な収入確保の可能性が見えた。このことから、被災女性の自立とエンパワーメントの拡大に向けて寄与した。2006年4月から2007年3月まで(JADE HP)。
<国境なき子どもたち>
 国境なき子どもたちは、パキスタン北部地震で被災した青少年への支援事業として、シンカリ町とサタンガリ村の2箇所で被災した青少年が精神的安定を取り戻すことを目的に安定した生活(衣食住の充実)および基本的な教育を受ける機会を提供する支援を行なった。一軒屋を借り入れ、町内および周辺の避難所で避難生活を送っている子どもたちを中心に100名程度受け入れ、インフォーマル教育を提供した。子どもたちは再び学校に通うことで安定した生活を取り戻すと同時に、教師やスタッフのケアにより精神的はリハビリも果たした(国境なき子どもたち HP)。
<ピースウィンズ・ジャパン>
 ピースウィンズ・ジャパンは、バラコートで被災した500世帯に避難用テント、キッチンセット(調理、食器セットなど)の配布をした(ピースウィンズ・ジャパン HP)。
 難民を助ける会は、被災者への緊急支援・地域復興支援として、2005年10月から11月はファミリーセット(食糧、乾燥食品、香辛料、台所用品、日用雑貨、肌着類、プラスチックシート)を500世帯、プラスチックシートを1000世帯に配布した。2005年12月〜2006年1月には仮設住宅建設用のトタンを246世帯に配布した775 )。地震から半年後には、村人の強い希望である給水システム復旧支援プロジェクトが開始され、小川沿いに貯水タンクをつくりパイプで村まで水が引かれた(難民を助ける会 HP)。
<Habitat for Humanity>
 Habitat for Humanityは、2006年5月からバラコート市で住居建築支援事業を行なった。とくに支援の行き届かない山間の村々に支援し、製材機で倒壊した住宅や森林から得られる丸太や木材を板に切り、住居の再建や補修のために提供する支援である。製材支援を通じて復興支援を行なっており、第1フェーズは7月末で終わり、第2フェーズは9月から始められ、支援規模を拡大して行なわれた(Habitat for Humanity HP)。
<日パ・ウエルフェア・アソシエーション;NWA>
 日パ・ウエルフェア・アソシエーションは、被災地での診療活動、医療品、食料、テントの提供を行なった。診療活動では、瓦礫の下から救出された怪我をした子どもたちの多くは、骨折と裂傷であったと報告されている。また、イスラマバードにテント村をつくり、冬を越すために移住者をつのり、テント村では学校や衣食住の提供を行なっていた。被災地では、学校や診療室もあるコミュニティーセンターを建設した(NWA HP)。
<徳州会病院>
 徳州会病院は民間の病院であるが、医師、看護師、調整員らを派遣し10月23日よりマンセラのDistrict Headquarter Hospitalでの医療活動を開始した。首都にある国立病院の様子が記載され、「病院そのものは廊下や外来だけでなく、仮設テントにまで患者があふれている状態で(小児病棟でも通常250床のところに900人が入院されている)、援助医療物資もかなり来ていますが1200床の病院では不足していると思われます。大腿骨骨折の患者も多く見られましたが大半が、牽引治療でしかもその牽引が滑車もなくベッドサイドにレンガで引っ張っているような状況です。」とあり、被災地から運ばれてきた負傷者で混乱している様子や適切な治療を受けていない様子がみられる782)。マンセラで医療ニーズの調査の際に観光大臣との面談で、「一番困っているは、脊損の患者が多くその治療を進めるのに困っている。脊椎の専門の病院はペシャワールにあるが、アフガニスタンの戦争を機にICRC(国際赤十字)や各国政府が作って運営していたがアフガニスタンの戦争がおわって皆が引き上げ閉鎖していた。今回、再開したが専門家・物資・資金が不足している」と脊髄損傷者が多く、その対応に苦慮していることが伺われた。

3−3 支援内容の傾向
 脊髄損傷者に対する報告が見られるようになっている。また、被災したことにより障害を負った当事者への中・長期的復興支援の報告がされるようになってきた。リハビリテーションの必要性はもちろん、心理的な支援や社会参加への促しなど、いろいろな面での支援がなされるようになっている。また、MSFや赤十字社などの医療の提供を中心に行なっている団体もリハビリなどの支援を行なうようになっている。

4節 インドネシア・ジャワ島中部地震
 地震の規模としては小さいが、脊髄損傷者の被災者への支援の報告や障害者に対する支援事業の報告があるので支援内容などを調べていく。

4−1 地震の状況
 2006年5月27日7時54分、インドネシア、ジャワ島中部でマグニチュード6.3の地震が発生した。死者は約5千7百人、負傷者約7万8千人、被災家屋は約60万戸にのぼる。

4−2 支援内容
<WFP>
 WFPは、栄養強化ビスケット、栄養強化麺、テント、ブランケット、発電機などの援助物資を提供した。食糧配給はバントゥール地区とクラテン地区内の村々で、保健センター、地方政府、NGOを通して行なわれた(WFP HP)。
<IOM>
 IOMは、被災地のジョグジャカルタ特別州に、医療チームと緊急移送チームを派遣した。被災地では医療機関の収容能力を超える負傷者が発生しているため現地で緊急医療サービスを提供する。そして、現地の医療機関で治療を受けられない負傷者などの緊急移送や物資・被災者の輸送支援を行なった(IOM HP)。また、国際赤十字、赤新月社連盟より提供された援助物資の輸送を行なった。日本政府からJICAを通じてインドネシア政府に寄贈された、浄水器、発電機、ビニールシート、マットレスなども輸送配布した。JICA医療チームとの協力も行なった(IOM HP)。
<ユニセフ>
 ユニセフは、地震後緊急支援物資としてビニールシート、衛生キット、小型テント、大型テント、ランタン、携帯型水タンク、教育用資材、学校用テント、レクリエーションキット、教材(スクール・イン・ア・ボックス)、医療キットなどを提供した。また、主な活動として、医療品を含む緊急保健キット、保健サービスに必要な資材等の提供、出産用キットや妊産婦・乳幼児への支援、緊急予防接種および定期予防接種実施のためのワクチン、注射器、ワクチン保冷ボックスなどの提供と保健員への支援、調整業務、鳥インフルエンザ予防対策、子どもたちの栄養支援が行なわれた。給水車や給水所設置による飲料水の提供、浄水場や井戸の緊急補修、浄水剤の提供、衛星促進キャンペーンの実施と衛生キット(石鹸、歯ブラシ、タオルなど)の配布、トイレやシャワー室の設置が行なわれた。学校用テントの配布と校舎の修復、教科書などの教材の提供、学校へのトイレや給水設備の建設が行なわれた。「子どもにやさしい空間」を通した子どもへの心理社会的支援、暴力・虐待・搾取からの子どもの保護、保護者を失い養育環境が変わった子どもの登録と追跡などを行なった。(unicef HP)
<MSF>
 MSFは、地震津波発生後から2005年後半にいたるまで主にアチェで活動を行った。予防接種、移動診療、心理ケアプログラム、外科手術、食糧以外の物資供給などのプログラムを多いときには8地域で行なった。27箇所の医療施設と1箇所の病院、約300の井戸を修復し、4万件以上の診察を行い、2千人以上の人々に個別カウンセリングを行った(MSF HP)。
<赤十字社>
 日本赤十字社は、仮設住宅建設事業(2006年〜2007年5月)として、地震で家屋を失った被災者への仮設住宅建設用工具セットおよび機材を購入するための資金を配布した。ジョグジャカルタでは、ゴトンロヨンと呼ばれる集落毎の自助組織が従来から確立されており、このシステムを利用し被災者自らの手によって仮設住宅の建設をする方法がとられた。
 保健センター建物再建事業(2006年8月〜2008年1月)は、ジョグジャカルタ州4県の9箇所の地域保健センターは地震により建物内での診療活動が不可能となり、診療所敷地内にテントを設置する又は私有地に仮設の建物を建て診療活動を行っていた。地域保健センターは、感染症予防やリハビリ等の活動を担う等、被災者の健康を守るために地域保健センターの再建を行なった。呼吸器疾患専門病院入院病棟建築事業(2007年11月〜2009年2月)では、結核対策としてジョグジャカルタ州西部に呼吸器疾患専門の入院病棟がないため、患者が遠方の施設に通わなければならなかった。そのため、この地域の結核患者の入院施設を整備し結核罹患率を下げる目的で建設された。
 小学校および幼稚園校舎再建事業(2006年12月〜2007年7月)では、政府支援の網目からもれた私立幼稚園および小学校(5校)の被災校舎を再建した。学童キット配布事業(2006年8月〜2009年3月)では、被災により学用品を失った子弟に学童キット(制服、文房具、カバン、雨具など)を配布した。当初は小学校が対象であったが、障害児特殊学級、孤児院、幼稚園まで拡大した。
 インドネシア赤十字社被災県支部再建事業(2006年8月〜2008年1月)では、インドネシア赤十字社支部建物の再建し、災害時の救援活動を中心的に行なうことや地域住民の保健向上の役割を行なう。インドネシア赤十字社および支部レベル救援物資整備、支部倉庫購入支援(2007年9月〜2009年3月)は、赤十字社で定めている災害に備えて常備すべき標準装備品があるが、インドネシアの各県支部には装備されていない支部や補充されていないところがあったため、装備品の整備を行なった。
 障害者支援として、身障者玩具製造ワークショップ再建事業(2008年11月〜2009年2月)行なわれ、マンディリ身障者玩具製造ワークショップはジョグジャカルタ州内で唯一の身障者雇用施設であるが、地震により敷地内に仮設シェルターを設置し活動を継続していた。ワークショップの再建により、収益を増加させ、身障者従業員の職場復帰を目指し、身障者従業員の受け入れ拡大による雇用の促進を図る。また、身障者盛業支援事業(2007年9月〜2008年12月)では、政府、国際NGO等は自営業支援の一環として種々の職業技術訓練を実施しているが、自営を開始するための資金がなく就労の機会を逸している身障者が少なくない。また、新たに障害を負ったことにより失職した身障者も見られる。これのため、被災によって自営の手段を失った身障者、または地震による四肢損傷、脊髄損傷等の障害を被った被災者を対象に、必要な職業資機材を提供することで自営の開始を促進し収入の創出を図っている。特殊学校衛生施設再建事業(2006年12月〜2008年9月)障害児特殊学校の衛生施設を建設、補修することで障害児を取り巻く衛生環境を改善し、ユニバーサルデザインを採用することで安心して衛生施設にアクセスすることを可能とし、健常児以上に慎重な健康管理を必要とする障害児に対する衛生面への配慮を図る。長期的には地域住民に「健常者も障害者も区別なく利用できるデザイン」や「アクセシビリティ」について意思向上を図ることも期待でき、障害者のノーマリゼーションの促進に寄与することを目指す。身障者被災家屋120世帯衛生設備再建事業(2007年10月〜2008年9月)では、身障者を抱える120世帯の家屋にユニバーサルデザインを適用した衛生設備を設備することで身障者を取り巻く衛生環境を改善し、利便性を確保する事で身障者のノーマリゼーションの向上を図る。
 雨水貯水槽設備事業(2007年8月〜2008年12月)はグヌンキドゥル県は生活用水を含めた水の確保が死活問題になっている。渇水対策として雨季の間にためた雨水を乾季中に生活用水として有効利用することで水の安定供給と地域住民の生活の改善を図る(日本赤十字社HP)。
<World vision>
 World visionは、緊急支援活動として、防水シート、毛布、腰布、簡易ベッドなどを被災者に届けた。バントゥル県とクラテン県の7千家族に、家族キットと衛生キットを配布した。内容は、鍋、皿、コップ、スプーン、バケツ、コンロ、石鹸、歯磨き粉、歯ブラシ、懐中電灯、ケロンシンランプなどである(World vision HP)。
<AMDA>
 AMDAは、各国の支部から構成される医療チームが活動を行なった。プランバナン周辺の村々における巡回診療とプランバナン診療センターでの診療を行なった。べレン村では2チームに別れ、800人以上に診療をし、41歳〜50歳までの年齢層が多く、男女比はおよそ半々であった。骨、関節、筋肉などの運動器系疾患が25%、呼吸器系疾患が20%で、呼吸器系疾患の外来者数は増加傾向(6月10日現在)。特に、子どもたちの食欲不振、頭痛、全身倦怠感等の症例は地震との関連が強いと思われる。インドネシア政府、WHO,UNICEFによるはしかと破傷風の予防接種キャンペーンに協力した。スハルソ国立整形外科病院では、緊急手術、治療、ICUでの重症患者ケアを行なった。200床の病院に500名以上の負傷者が手術の順番を待っていた。病室が不足し廊下にまでベッドが並べられていた。同病院の病院長は、地震災害を想定した緊急医療設備の充実と医師や看護師へのトレーニングを含めた人材育成についてAMDAとの協力を要請したので、カナダ支部の看護師が同病院の看護師を対象に、緊急時における保健衛生・応急処置等についてトレーニングを実施した(AMDA HP)。
<Save the children>
 Save the childrenは、最も被害の大きかったバントゥール県とクラテン県で活動を行なった。この地域では、1500校の学校校舎全壊または半壊した。活動は、バントゥール県、クラテン県の6地区にて、緊急仮設教室(大型テント)を設置し、3万人の子どもたちが小・中学校および幼稚園に通える機会を得た。緊急フェーズを終え、復興フェーズでは激しい雨季にそなえ新たに竹作りの仮設教室126箇所を設置した。また、支援校99校の教師624人に緊急時における教育法および心のケアトレーニングを行った。支援校には、学校机・イス、文房具などの学校キット、黒板、プラスティックの敷物、ゲームキットが配布された。また、震災から7ヵ月後より、現地の教育相と協力しながら、学校運営委員会(School committee)と呼ばれる、日本のPTAにコミュニティの人々の関与も含めた学校運営をする委員会の機能強化や、学校運営に子どもの参加をより促進するための生徒会活動の支援をおこなっている。
 子どもの保護として、50箇所にセーフ・プレイ・エリア(SPA)テントを建て、地震によりトラウマを受けた子どもたちがスポーツ、絵画、音楽、ゲームなどを通じて心に負った傷を癒し日常的な感覚を取り戻すことを目的に、安全に遊び学べる空間を提供した。SPAボランティア157人を対象に「緊急時の対策」「心のケア」に関する内容でワークショップを提供した。クラテン地区において、現地の社会福祉省等の省庁、病院、警察、NGO等で構成される子どもの保護の問題を扱う再構築と機能強化を積極的に支援した。このネットワークは、現地の子どもの保護の問題に対する責任をもつ現地省庁によって維持・管理されていくもので、子どもたちに虐待や障害等の問題があったときに、コミュニティの人々や学校がネットワークに子どもの問題のケースを照会して、しかるべきサービスを受けることができるものである。最初は1つや2つの団体が小さな規模で活動し、現地政府の役割も曖昧であったが、徐々にサービスを提供できる中心になる団体が増え、現地省庁主導で定期的に関係団体の調整ミーティングが開かれた。今後もさらに機能を強化していくための支援を続ける。
 地域復興支援として、約3000世帯に、衛生キット、シェルターキット、家族キット、瓦礫除去キットを提供した(Save the children HP)。
 中・長期的な支援(5年以上)として、住宅再建などのインフラ整備、生活再建支援(cash-for-workプログラム、小規模貸付など)を行なった。また、栄養プログラムが始まり、母乳の普及活動を現地NGOを通し、コミュニティのボランティアや現地行政団体の職員へのトレーニングという形で行なっている。そのた、教育支援、物資配布を行なっている(Save the children HP)。

<日本政府>
 日本政府の対応は、1000ドル(11億1千万円)の無償資金協力を実施した。これらの資金は、被災民向けの物資購入にインドネシア政府、国際赤十字、赤新月社連盟に行なわれた。被災民居住地域の復旧・復興のための施設等の修復・建設にも資金協力が行なわれた。緊急援助物資(テント、浄水器、発電機、プラスチックシート、毛布、スリーピングマット、簡易水槽等)が2000万円相当提供された。国際緊急援助隊医療チームと自衛隊による医療支援のための部隊等を派遣した。(外務省HP)
<JICA>
 JICAは、バントゥール市にあるムハマディア病院前の道路で診療用大型テントを開設し、同病院をサポートする形で診療を行なった。また、国際緊急援助医療チームでは初の巡回診療が行なわれた。パントゥール市を拠点に、車で30分〜1時間離れたところにある5つの村に医師と看護師がペアで巡回し処置を行なった。緊急支援に続く復旧・復興支援のニーズを把握し、スムーズな復興につなげるためにチームに復興支援調査担当が参加した。これが、日本が初中等教育、保健医療、水道分野に重点を置いた復旧・復興支援につながった。(JICA HP)
<人災害人道医療支援会(HuMA)>
 人災害人道医療支援会は、緊急医療支援のため医療チームをインドネシアに派遣した。現地カウンターパートであるM.H.Thamir in Helthcare Groupと協力して、2006年6月3日よりKalimasada病院における診療活動を中心におこなった。現地のグループである、Thamir in Helthcare Groupは、医師5名、看護師3名、調整員1名、理学療法士を派遣している。活動は6月25日で終了された。(HuMA HP)
<神戸大学>
 神戸大学の災害医療救援チームが派遣され、学術交流協定を結んでいる現地のガジャマダ大学医学部医療チームと協力して現地のニーズを調査し、被災者に対する健康面、心理面、社会面からの包括的リハビリテーションとコミュニティに基盤を置いた健康管理プログラムを実施した。こどもの心のケアのための小冊子の配布や、松葉杖、コルセット、ブレースなどのリハビリに必要な救援物資を輸送した。ガジャマダ大学病院では、震災後90人の脊髄損傷患者が入院していたが、ベッドから車いすへの移乗動作ができると退院していた。麻痺に対する自己トレーニングの伝達や自己道尿などのトレーニングも必要とされたが、患者・家族教育や退院後の地域ケアシステム構築が全くなされていないという報告がされている。
 また、ガジャマダ大学や地域で不足しているリハビリテーション・スタッフを補うため、現地のリハビリ職員が現地の保健所職員や学校教員に簡単な技術や知識を伝えるリハビリトレーニングを行うなどの地域リハビリネットワークを築くために毎年現地と連携して中期長期の視点に立った医療支援と協力のプログラムを進めている(高田、井上、2006)。
<徳州会病院>
 徳州会病院は、医師、看護師、薬剤師、コーディーネーターを派遣し、5月29日〜6月10日までパントゥル地区の仮設診療所を使用し診療を開始した。負傷者の多くは外傷や骨折。骨折に対しては、がれきの中にある板を副木として使用(徳州会病院HP)。また、診察に必要な医療物資の提供も行なった(徳州会病院HP)。

4−3 支援内容の傾向
 脊髄損傷者の存在が明記された報告があった。赤十字社は、ワークショップ再建事業、地震で障害を負った人に対する自営をするための職業資機材の提供、特殊学校再建事業、身障者家屋の再建事業など、障害者への支援を明記した支援が行なわれた。この神戸大学の報告では、不足しているリハビリテーション・スタッフを補うために保健所職員や学校教員に簡単な技術や知識を伝え、地域リハビリネットワークの構築のための地域を含めた関りを2008年から毎年3月に現地で行なわれている災害セミナーを通して現在も行なっているという報告がされていた。また、リハビリテーションという視点での中期長期支援が現在も行なわれている。

4章 それぞれの震災支援の比較検討

 この章では、第3章で得られた情報をもとに、今までの震災による復興支援はどのようなものがあったのかを把握するとともに、過去から現在において支援内容の傾向を知ることと、各国の脊髄損傷者に対する支援を比較検討する。そこで、リハビリテーションが行う支援の必要性と心理的エンパワーメントにも支援できるのではないかという点を論じる。

1節 支援内容の傾向
 インド西部地震(2001)、スマトラ地震(2004)、パキスタン地震(2005)、インドネシア・ジャワ島地震(2006)について取り上げた。それぞれの災害の支援内容の比較検討から、震災支援の傾向の変化、脊髄損傷者への支援の有無と内容について検討する。
 地震の文献、資料を調べたところ、物資の支援、医療や薬の支援、トラウマに対する心のケア、倒壊した家屋や橋などの建築や地質のことについてなどの文献は多くみられるが、脊髄損傷や切断、骨折を負った被災者に対する支援についての文献は少なかった。パキスタン地震における脊髄損傷を負った被災者のマネージメントについて書いているMr.Farooq Rathoreも同様のことを述べている(Farrq 2008)。同じ地震という災害でも、地震の規模、やその国々での家屋の建築材によっても被害の大きさが異なる。特に、建築材料がトタンや木材よりもレンガや石であるところは家屋が倒壊したときにその下敷きになり被災者が被る被害は重くなり負傷者も増加する。
 支援内容をみるとインド西部地震では、食料やテントなどの物資の提供、医療の提供という報告が多く時期も短期間である。スマトラ地震以降は、トラウマに対する心のケア、子ども達への教育や支援という報告が増えてきている。支援内容が物資だけではなく、心理面への重要性や必要性が訴えられるようになっている傾向がみられている(Richard 1996)。それだけではなく、女性への生計回復プログラムという支援や収入手段の獲得への支援を行なう団体もみられている。また、支援の期間が長くなり、緊急時の支援だけではなく、3年〜5年という数年先までも含めた復興支援という長いスパンでの支援を行なう団体の報告が見られたのも特徴である。
 脊髄損傷を負った被災者への対応が書かれているものは、パキスタン地震、インドネシア・ジャワ島地震である。地震による障害者に対する支援が行なわれたという記述のみでどのような対象者に行なわれたのかは不明であったのが、インド西部地震である。
 パキスタン地震では、Handicap International(以下HI)、アジア太平洋障害者センター、筆者、Mr.Farooq Rathoreらの報告があげられている。パキスタン地震から、脊髄損傷者への支援の報告がみられ、脊髄損傷者へのリハビリの提供や社会に対する障害者への啓蒙活動なども行われた。また、日本からは、ピアカウンセリングのワークショップが行なわれるなど、心理的な支援が行なわれるなど様々な視点での支援が行なわれたことが報告されている(Handicap International HP)(国際協力総合研究所、2008)。
 インドネシア・ジャワ島地震では、赤十字社が障害者を対象としたいくつかの事業を展開する報告がみられた(赤十字社HP)。神戸大学の報告では、90名の脊髄損傷の被災者が入院しており、「麻痺に対する自己トレーニングの伝達や自己道尿などのトレーニングも必要とされたが、患者・家族教育や退院後の地域ケアシステム構築が全くなされていない。」という報告がされている(高田、井上、2006)。訪れた理学療法士が現地の患者にリハビリテーションを提供や、ガジャマダ大学や地域で不足しているリハビリテーション・スタッフを補うため、現地のリハビリ職員が現地の保健所職員や学校教員に簡単な技術や知識を伝えるリハビリトレーニングを行うなどの地域リハビリネットワークを築くために中期長期的な視点で毎年現地と連携してコミュニティを基本とした包括的なリハビリテーションシステムの構築を進めている。
 以上より、脊髄損傷者に対する支援も医療やリハビリテーションの提供だけではなく障害者を取り巻く環境や諸問題にも現地の障害者自助団体と連携して進められている報告が出ている。

2節 リハビリテーション支援の必要性
 脊髄損傷のリハビリテーションは、先進国において機能回復に当てられるのは6ヶ月でありその後住宅環境を整えるために住宅を改修、就職や就学、地域社会資源につなげて退院していくが、途上国では障害者に対する偏見や誤解も強く、社会福祉制度の未整備、提供されている医療サービスの不十分さなどもあり、急性期や回復期にかかる期間も長くかかっている。急性期や回復期に長くかかったとしてもADLが自立し、車いす操作も獲得し、褥瘡や排泄管理などの知識や技術が伴ったとしても、政府の復興支援の不十分さから帰る家がなく地震から1年以上たってもテント生活であることや、車いすには不適応な小さな家であるなどの困難さが見られている。
 第1章で述べたように、脊髄損傷者が持っている能力を伸ばし、ある程度の機能回復し社会復帰していくためには、PT、OTなどが提供するリハビリテーションの支援が必要である。そして、そのリハビリテーションの時期は急性期というベッドサイドから早期に始めることでその後の回復期の訓練がより効果的になり、社会復帰期で家庭や職場での適応へとつながっていく。途上国で行なわれた緊急支援や復興支援の中に、障害者へのリハビリテーションの支援は、子どもや女性などの社会的弱者と同様に必要であるといわれている割に、報告数が非常に低い状況となっている。障害者の置かれている状況は、子どもや女性以下と捉えられてもおかしくない状況である。
 災害が起こった地域の病院には大量の怪我人などが運ばれ、病院の収容許容量を越えた人々であふれかえることがいくつかの団体で報告されている。それを支援するために、国内外から医師や看護師、薬剤師などの専門スタッフが支援として入るが、リハビリテーション分野の場合は、マンパワー不足で仕方がないで終わっているように感じられる。海外から駆けつける団体は、医療や子ども女性に対する支援をする団体は数多くあるものの、障害者へのリハビリテーションを支援する団体はHandicap Internationalのみと言っても言い過ぎではない。神戸大学やHandicap Internationalのように、足りないマンパワーを現地の教員、保健スタッフに指導することで補うような形でもよいので、脊髄損傷者が適切なリハビリを受けられるようにする環境を整える必要があると考える。
 それだけではなく、脊髄損傷者による復興支援は長期に渡り、脊髄損傷を負った被災者が退院して家庭や社会に復帰していくためには、医療やリハビリはもちろんのこと家や病院や地域を含めた被災地の受け皿が整う必要性もある。

3節 心理的エンパワーメントへの支援の有効性
 自然災害を経験した被災者が心的外傷後ストレス障害(posttraumatic stress disorder;PTSD)により抑うつ、不安、無気力、不機嫌などの症状を訴える報告は多くみられ、その症状は軽減していくものの何年も継続することが報告されている(Richard、1996)(坂野、1996)(山田、1990)。
 脊髄損傷者は自然災害や事故により突然に体が不自由になるという経験が心理的外傷となっているのではないかという南雲の報告(大田、1998)や千野と安藤による受傷後の脊髄損傷者の心的状態として、『医療スタフへの攻撃的態度や非難』『虚無的で意欲がない』『依存的』『医学的治療やリハビリ訓練の拒否』『ラポールがとれず、人間関係がうまく築けない』」「せん妄、うつ(大うつ病、小うつ病、気分変調症)、自己アイデンティティ障害、過度の依存感("お荷物"意識)など」(千野、2007)が報告されていることから、大地震で被災し倒壊した家屋の下敷きになり脊髄損傷を負うという経験は、さらに被災した脊髄損傷者の心理に深い傷となって影響を与えていることが予測される。
また、先進国で起こる自然災害による損失は、途上国のものよりも損失は軽微で障害を負う人数も少なく、社会福祉制度が存在していることから、障害があっても地域や社会で働き、学び、生活している人は多い。しかし、途上国では障害に対する考え方は慈悲の対象であり、障害当事者はその人にいくら能力があっても障害があるというだけで、医療や教育などの必要性も認識されていない地域があったり、仕事につけないため物乞いをしなければならなかったり、必要な教育が受けられないなどの状況下にある。そのため、その中で生きている人たちは今まで健常だった立場から障害を負ったということの意味は先進国の当事者が置かれている状況とは大きく異なり社会において役割や立場を一瞬にして失うことを意味すると思われる。
 そのような意味でも、途上国において自然災害で障害を負った人が感じる心理的精神的ショックは大きいことが予測され、必要な医療やリハビリテーションをただ提供するだけではなく、心理的な支援が非常に重要であることがいえる。
 近年の被災者への支援は、物資や医療や薬の提供だけではなく、トラウマなどのメンタル面へのケアを行なっている傾向があることが事例から読み取ることができる。HIは現地の障害者当事者団体とも提携し、障害者を取り巻く問題の改善という社会的政治的エンパワーメントへの取り組みを行なっていた(Handicap International HP)。アジア太平洋障害者センターからは、当事者でピアカウンセリングの講師が派遣され、女性の脊髄損傷者に対し数日間のワークショップが行なわれた。また、筆者の報告より被災者の方が歩けない足でも今後の人生を生きていくという考えにならないと、これらのメンタル的なケアや障害者問題へのアプローチもいきてこないと考える。
 そのため、筆者は作業療法士という立場から、足が動かなくても着替えやトイレにいく事ができるという身辺自立を促し、料理や買い物というアクティビティを通して、車椅子ではあっても以前と同様なことができるという事を知ってもらうことで、障害を負った被災者の人々がエンパワーメントされ退院後も地域や社会で生きていく事をより可能にすると考える。

結論 震災後の脊髄損傷者に対するリハビリテーション支援
 途上国で大地震が起きたときには、世界各国から多くの支援が集まる。医師や看護師からなる国際緊急援助隊医療チームや救助隊員による救助チーム、各国の軍隊、食料やテントなどの救援物資を提供したNGOや子どもや女性を対象にしたプログラムを提供したNGOなど様々な団体、組織がやってくる。まず被災した人々が必要とするのは衣食住に関連する、倒壊したかわりに住むためのテント、食べるための食料、怪我や病気をした人のための医療である。被災地も政府も病院も大混乱の中、これらの支援のために多くの手が差し伸べられる必要性はあり、迅速に行なわれるべきであるが、その中でも最後に取り残されてしまうのが、社会的な弱者である障害者である。
組織の規模や資金源の大きい国際機関による支援はスマトラ沖地震から中・長期的な期間で支援することが見られたが、各地震の事例をみると短期的な医療支援を行なう団体はもちろんのこと、NGOなどの規模が小さくなる団体では物資をしばらくの間届け数ヶ月するといなくなっているケースが多い。
 震災により、頭部外傷、脊髄損傷、切断、骨折など多くの人たちが障害を負い、病院にはあふれるほどの負傷者が収容されたものの、新たに被災地からヘリコプターで運ばれてくる負傷者のために、十分な治療が施されないまま近くのキャンプへ移動させられ、ギプスをつけまたまま、四肢を切断して義足も義手もないまま被災地へ戻らざるをえない人々もたくさんおり、戻った先で継続して医療やリハビリテーションが受けられる保障は何もなかった。
 切断や骨折、脊髄損傷を負った人たちに対する医療やリハビリテーションは負傷した部分の治療や二次障害を起こさないために必要であるが、途上国におけるリハビリテーションはまだ広まっている分野ではなく、人材も技術も不十分なままで現地の医師もリハビリスタッフもこれらの患者に何をしてよいかわからない状況であった。多くの国では病院に到達できただけでもまだましなのかもしれない。
 山本と鵜飼は、災害医療においては、発災から数ヶ月間の時期である急性期から慢性期と、その後のリハビリテーション期を含めると数年にわたると言われている(山本、鵜飼、1999)。しかし、同様な震災支援の文献では、多くの医療団体は急性期から慢性期の間の活動が主で、その後にくるリハビリテーション期までの支援を視野に入れた団体はほとんどみられなかった。
 災害支援において、医療的な物質的な支援が中心になることは必然ではあるが、途上国という医療やリハビリテーションが不十分な状況で、リハビリテーション・スタッフの支援ということも必要であると考える。神戸大学の取り組みのように、中長期にわたる医療協力のあり方は地域の資源やネットワークを活用して進めるという先進的な取り組みであり、地震が発生してから2年以上経過している現在も継続して支援は行なわれている。今後もこのような視点での支援はますます必要になると考える。
また、リハビリテーション・スタッフの介入の時期であるが、脊髄損傷の例からいうように急性期から早期に始めることで脊髄損傷者の回復や二次障害の軽減につなげることができるので、震災支援にはこのような視点での支援も必要であると考える。
 そして、リハビリテーションの支援は脊髄損傷者の身体面を主に支援していくが、それが脊髄損傷者の心的エンパワーメントにつながると筆者は考えている。エンパワーメントとは社会変容がもたらされることが目的であるが、その目的達成には心理的エンパワーメントの獲得という基盤が社会的、政治的エンパワーメントへとつながるにはまず必要ではないかと考える。その理由は急性期における脊髄損傷者の心理状態はまだ障害が治るかもしれないという思いでいることや真実を伝えても動揺して正しく伝わることが難しい状況だからである。
 中西が述べているように、「自己定義によって、自分の問題が何かを見きわめ、自分のニーズをはっきり自覚することによって、人は当事者になる」と、まず脊髄損傷者自身が自己を認識し、今の状況を意識化することである。家事をしたい、子どもの世話をしたい、一人暮らしをしたい、仕事に就きたい、というニーズが当人の内側に起こると、なぜ今の現状でそれができないのか、本当にできないことなのか、どうすればできるのか、誰に相談したら良いのか、と考えるきっかけになる。このような心理的な変化は、一般的な開発におけるエンパワーメントとは手順や定義が異なるのかもしれないが、受傷してから急性期、回復期、社会復帰期という経過の流れで行なわれるリハビリテーションの支援は少しずつ脊髄損傷者の気づきを促し、今の当人の置かれている状態の意識化に導く意味合いも含まれていると考える。訓練を通して自分ができること、工夫すればできること、助けを借りること、などが明確になり、徐々に自分の障害のある状態を知覚し、認識し受け止めていくプロセスになっていると思われる。このプロセスが心理的エンパワーメントといえると考えている。
そこを踏まえてから、次の社会的政治的エンパワーメントへ進めると考えるため、心理的エンパワーメントへの支援は非常に重要であると考える。
 社会的政治的エンパワーメントには、家庭、地域、社会などの制度、受け皿なども含まれもっと大きな視点で考える必要があるため、リハビリテーションだけでは当事者の全ての要望にこたえることには限界があるので、他職種や他の関係機関との連携が求められる。
 震災は突発的に起こりその国によって規模も被災状況も異なる中で、脊髄損傷者を含む多くの負傷者が出現してしまう震災支援には、リハビリテーション・スタッフは急性期から支援に関わるという迅速な対応が求められていることと、リハビリテーションは脊髄損傷者への心理的エンパワーメントに関わることのできる職種であるということを理解する必要があると考える。脊髄損傷者の被災者が適切な医療やリハビリテーションを受け、絶望することなく自分の可能性を見出しつつ、自分が望む生き方ができるように地域・社会・政府を動かしていけるような支援が脊髄損傷者への適切な支援であると思われる。

5章 参考文献 

序論
・WHO HP、http://www.who.int/violence_injury_prevention/other_injury/disaster_disability2.pdf

第1章
・Ida Bromley、荻原 新八郎(訳)、『四肢麻痺と対麻痺 第2版』、1999、医学書院
・金子翼編、作業療法学全集(第4巻) 『作業治療学1 身体障害 改訂第2版』、1999、協同医書出版
・津山直一監修、上田敏、明石謙、緒方甫、安藤徳彦編集、『標準リハビリテーション医学 第2版』、2000年、医学書院
・津山直一監修、二瓶隆一、木村哲彦、陶山哲夫編集、「」脊髄損傷のリハビリテーション』、1998年、協同医書出版社
・千野直一、安藤徳彦編集主幹、『脊髄損傷のリハビリテーション』、2007、金原出版株式会社
・大田仁史監修、南雲直二著者、『障害受容』、1998、三報社印刷株式会社
・細田多穂監修、中島喜代彦、森田正治、久保田章仁編集、『理学療法入門テキスト』、2007、南江堂
・日本理学療法士協会編、理学療法士白書、1995、日本理学療法士協会
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・岩崎洋編集、『脊髄損傷理学療法マニュアル』、2006、文光堂
・岩崎テル子、『身体機能作業療法学』、2005、医学書院
・小林夏子、福田恵美子編集、『標準作業療法学 基礎作業学』、2007、医学書院
・日本作業療法士協会監修、矢谷令子編集、『作業療法概論 第2版』、1999、協同医書出版社
・上田敏、大川弥生編、リハビリテーション医学大辞典、2006、医歯薬出版株式会社
・吉川宏、黒岩貞枝編集、『義肢、装具、リハビリテーション機器、住宅改造』、1999、協同医書出版社
・金子翼、鈴木明子編集、『作業療法総論第2版』、1999、医歯薬出版株式会社
・Lorraine Williams Pedretti編著、『身体障害の作業療法』、1982、協同医書出版

第2章
・久木田純、渡辺文夫編、「エンパワメント―人間尊重社会の新しいパラダイム」、現代のエスプリ No.376、1998、至文堂
・佐藤寛編、『援助とエンパワーメント』、2005、アジア経済研究所
・国広哲弥、堀内克明、安井稔編集、プログレッシブ英和中辞典第4版、2002、小学館
・フリードマン著、斉藤千宏、雨森考悦監訳、『市民・政府・NGO』、1996、新評論
・穂坂光彦編著、『開発基礎論V』、2007、日本福祉大学通信制大学院 国際社会開発研究科
・久野研二、中西由起子、『リハビリテーション国際協力入門』、2004、三輪書店
・森田ゆり、『エンパワメントと人権』、2001、解放出版社
・斉藤千宏編著、『NGOが変える南アジア』、1998、コモンズ
・中西正司、上野千鶴子著、『当事者主権』、2008、岩波新書

第3章
(インド西部地震)
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第4章
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・坂野雄二等、「阪神・淡路大震災後における心身医学的諸問題(1);PTSDの諸症状と心理的ストレス反応を中心として」、心身医学、36(8)、pp649-656、1996
・山田富美雄等、「震災ストレス反応の経時的変化に及ぼす震度と性の影響;ストレスマネジメント教育のための基礎資料」、日本生理人類学会誌、4(1)、pp23-28、1990

結論
・山本保博、鵜飼卓、『トリアージその意義と実際』、国際災害研究会, 1999