障害者の自立生活運動の国際比較  〜日本とタイの事例をめぐって

平成17年度(2005年度)卒業論文
大正大学人間福祉学科 石井陽子


「目  次」

はじめに ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1

第1章 障害者の自立生活運動 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2
 第1節 自立生活運動発祥の地〜アメリカ〜 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2
 第2節 自立・自立生活の概念 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3
   1項 基本的概念 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3
   2項 自立生活運動が導き出した概念 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3
 第3節 自立生活センター(Center for Independent Living) ・・・・・・・・・・4
   1項 自立生活センターの経緯・システム ・・・・・・・・・・・・・・・・・・4
   2項 自立生活プログラム ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・5
   3項 ピアカウンセリング ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6
   4項 アドボカシー ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・7
   5項 広報・啓発活動 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・7
 第4節 今までの自立生活運動に関する研究 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・9

第2章 日本における自立生活運動 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・13
 第1節 自立生活運動の経緯・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・13
 第2節 日本の自立生活センター・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・14
   1項 日本で初めての自立生活センター ・・・・・・・・・・・・・・・・・・14
   2項 全国自立生活センター協議会 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・15
 第3節 当事者の声・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・17
   1項 山田昭義さんへのインタビュー・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・17
   2項 内田みどりさんへのインタビュー・・・・・・・・・・・・・・・・・・・20
 第4節 今後の課題・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・22

第3章 タイにおける自立生活運動 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・24
 第1節 自立生活運動の経緯・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・24
 第2節 タイの自立生活センター・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・26
   1項 ノンタブリ自立生活センター・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・27
   2項 チョンブリ自立生活センター・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・27
   3項 ナコンパトム自立生活センター・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・28
 第3節 当事者の声・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・28
   1項 トンさんへのインタビュー・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・28
   2項 ピジットさんへのインタビュー・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・29
   3項 オーさんへのインタビュー・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・30
 第4節 今後の課題・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・31

第4章 日本とタイの国際比較 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・33
 第1節 福祉的財源とシステム・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・33
   1項 日本の場合・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・33
   2項 タイの場合・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・37
 第2節 家族制の違い・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・39
 第3節 権利に対する考え・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・40
   1項 権利に対する世界規模の対応・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・40
   2項 日本の場合・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・41
   3項 タイの場合・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・41
 第4節 自立に対する考え・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・42

おわりに ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・45

参考文献 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・46


はじめに 
                                   

 私は、高校生のころから障害者と一緒に外出したり宿泊したりするボランティアに参加している。そのため大学に入学したころから障害者福祉の分野に興味があった。また、大学3年次より世界の社会福祉事情というものにも興味を抱き始め、今回の卒業論文で国際福祉と障害者福祉の両分野を研究できる論題がないか探していた。
 そんな中、今回この論題になったのは従兄弟がきっかけである。私の従兄弟がハワイに留学するという話を聞いた。私の父方の従兄弟は、高校生の時、部活動中の事故で脊椎を損傷し車椅子で生活をしている。高校を無事卒業し、専門学校も卒業したが、一人で暮らすということはなかった。従兄弟がハワイに行くと聞いたとき、私はどうやって生活していくのか不思議だった。学校の通学や身の回りの生活など1人で出来ないことが多く、しかもハワイという異国の地で従兄弟はやっていけるのだろうかと考えていた。そんなとき私は自立生活運動という言葉を耳にした。自立生活運動というのは、障害を持つ当事者たちが「自分のことは自分で決める」という考えを鮮明に打ち出した運動のことである。私自身、自立生活という言葉は知っていたが、自立生活運動という言葉は知らなかった。自立生活運動というのはアメリカのカリフォルニア州にあるバークレー市というところで誕生し、日本も含め世界中で行われている。もちろん世界中がまったく同じ内容で自立生活運動をしているわけでない。私は世界中で行われている自立生活運動は国によってさまざまな特色があるのではないかと推測した。そこで自立生活運動の国際比較をしようと考えた。
 国際比較となると最低でも2つの国をピックアップしなければならない。私は多くの国ではなく2つの国を比較することにした。まずは、私の一番身近な国である日本を選出した。日本は、自立生活運動の発祥の地であるアメリカを参考に自立生活運動を展開した。そこでもうひとつの国は、日本の自立生活運動を参考にしている国であるタイを選出した。
 研究方法としては文献による研究と聞き取り調査を行った。日本は、自立生活運動に関する文献も施設も多かったため、文献を中心に研究した。しかしタイは自立生活運動に関する文献が少ないため、8月下旬から9月上旬にタイに出向き、自立生活運動に関する施設5箇所で施設関係者と当事者に聞き取り調査を行った。
 日本とタイは経済的レベルや生活様式など異なっている点が多い。それらのことから基本的な理念などは同じでも自立生活運動の考え方や展開方法、内容が異なっており、各国の特徴といえる。その要因として歴史的背景、福祉的財源のシステム、家族制の違い、自立や権利に対する考え方の違い、また同じ国内でも都市部と農村部でも違いの要素が存在していると推測した。
 今回の論文ではこれらの要因の中から福祉的財源のシステム、家族制の違い、自立と権利に対する考え方を明確にし、日本とタイの自立生活運動はどのような相違点があるのか比較を行う。

1章 障害者の自立生活運動                          

第1節 自立生活運動発祥の地〜アメリカ〜

 自立生活運動は、施設に閉じ込められて一生を送ることが決められていた、重度障害者の絶望から生まれた。かつて障害者を援けられるのは医者、作業療法士(OT: Occupational therapist)、理学療法士(PT: Physical therapist)、カウンセラー等の専門家だけだと考えられてきた時代であった。自立生活運動当時のアメリカのリハビリテーション界では、経済効率主義の立場から経済的自立とADL(日常的動作)の自立をT自立Uとし、身辺処理に介助の必要な重度障害者は自立困難な存在として扱われ、隔離的、保護的な施設生活を余儀なくされていた。障害を理由に社会から排斥され、施設の中で無為の生活を強いられるのか。そんな一生なら、どんなリスクを背負ってもいい、野垂れ新でもいいから地域で1ヶ月暮らしたいという切実な思いが込められている。
 1970年、カリフォルニア大学バークレー校の学生であったエド・ロバーツは、呼吸器付の車椅子に乗ったポリオの障害者である。彼は、学内で介助サービスや車椅子用学生寮、車椅子修理サービス、障害者へのピア・カウンセリングなどを提供し、障害学生支援を始めていた。1972年、大学を卒業するにあたり、地元のバークレー市で同じようなサービスを作りたいと考え、彼は友人に呼びかけ、初の「自立生活センター」CIL(Center for Independent Living)を設立した。1)
障害者自身がサービスの受け手から担い手になり、福祉サービスを提供する歴史がここに始まったのである。また、彼らが自立生活運動をする上で掲げた思想は次の4つである。

 (1)  障害者は本来、「施設収容」ではなく、「地域」で生活するものである。
 (2)  障害者は、治療を受けるべき患者でもなければ、保護される子供でも、崇拝される神でもない。
 (3)  障害者は援助を管理すべき立場にある。
 (4)  障害者は「障害」そのものよりも「社会」の犠牲になっている。

  バークレーの自立生活センターの後を追って、同年にはヒューストンで、1974年にはボストンで自立生活センターが設立された。1978年には全米の障害者達が戦った末、リハビリテーション法改正によって連邦政府の援助が受けられるようになった。また、若手の学者の発表により自立生活センターの有効性を学問的・理論的に位置づけることができた。
 そして自立生活センターを国に認めさせる結果となり、1990年には、世界で始めての障害者差別撤廃条約ADA法を提案し成立させた。2)
 今現在では、世界の多くの国が自立生活運動を始めており、各国の性質に合った運動を展開している。


第2節 自立・自立生活の概念

1項 基本的概念

 自立及び自立生活に対する概念をリハビリテーションギャゼットではこのように述べている。「自立(生活)とは、そこに住むか、いかに住むか、どうやって自分の生活をまかなうか、を選択する自由をいう。それは自分が選んだ地域で生活することであり、ルームメイトを持つか一人暮らしをするか自分で決めることであり、自分の生活―日々の暮らし、食べ物、趣味、悪事、善行、友人等々−すべてを自分の決断と責任でやっていくことであり危険を冒したり、誤ちを犯す自由であり、自立した生活をすることによって自立生活を学ぶ自由でもある。」3)
 これまで障害者は、リハビリテーションをもとに健常者にできるだけ近づくことを一生の目標と科されてきた。例えば、衣服の着脱に2時間かけても他人の手を借りずにすることがリハビリテーションでは評価されていた。しかし、障害者がほかの人間の手助けを多く必要とする事実があるとしても、それは障害者が依存的であるということには必ずしもならない。他人の助けを借りて15分で衣服を着、仕事にも出かけられる人間は、自分で衣服を着るのに2時間かかるために家にいる他ない人間より自立しているのである。

2項 自立生活運動が導き出した概念

 自立生活運動を通して導き出された自立や自立生活に対する概念は、簡単に言うと、「自己選択・自己決定・自己責任」というものであるが、これは自立生活運動を行っている世界中の国々の共通意識である。
 自立とは、障害者がたとえ介助を必要とするにしても自らの人生におけるあらゆる事柄を自分で選択し、自分の人生を自分の責任において決めていくことである。自立生活とは、どんなに重度の障害があっても、すべての人がその人生において自ら決定することを最大限尊重される。そのために起こる危険を冒す権利と、決定したことに責任を負える人生の主体者であることを周りが認めていくこと、そして哀れみとしてではなく、福祉サービスの雇用者・消費者として援助を受けていく権利を認めていくことである。また、施設や親の庇護の元での生活という不自由な形ではなく、ごく当たり前のことが当たり前にでき、その人が望む場所で、望むサービスを受け、普通の人生を暮らしていくことである。4)
 以下は自立生活について細かく説明したものである。

(1) 障害者本人が「介護者を募集し、雇用し、訓練し、監督し、必要とあれば解雇する」能力、「ケアのあり方をサービス提供者ではなく障害者が管理する」能力を習得するべきである。これは原理的に、介護者のケアなくしては生活形成が困難な障害者にとって、自己決定の行使は介護者ケアにおいて絶対的に必要なものだからである。
(2) 介護者管理能力の習得は日常生活の場として必要だが、さらに何らかの形で社会参加していることも自立に必要なものとして言える。特に自立生活運動では、障害者の生活に大きな影響を受ける制度や機関、サービス、事業などの運営に、障害者が主体となって参加していくことを自立の社会的要件と規定している。それは、サービスの利用者や消費者がそのサービスを最も評価しうるものとする消費者主体の理念と同様に、障害者の生活に関係するリハビリテーション施策や福祉サービスの順位づけ、供給の計画立案および決定を行う権利は、最も障害者のニーズや問題を熟知し、より正しく評価する立場にある障害者自身にあるからである。
(3) 危険に挑む尊さ、危険を冒す権利は自立生活運動そのものであり、失敗の可能性がなければ障害者の真の自立という人間性の基準を得られない。障害者が失敗の可能性に挑む行為を自立の要件の一つとして重視している。もちろん、真の危険を慎重に回避する行為も安定した自立生活にとって大切である。
(4) 自立生活運動は、身辺自立や職業的自立のみを自立として重視してきた従来の自立観を根本的に批判し、リハビリテーションの目標をADLの向上からQOL(生活の質)の向上に変換させることに成功した。しかしそれは、ADL自立そのものを消極的に評価しているわけではなく、むしろ自発的な意思決定によるさまざまな工夫を通じてのADLや活動の範囲を自力で広げていく、いわゆる「自己開発的ADL自立」の拡大への努力は、重要な自立生活の要素としてとらえられている。また同様に、生活を自己管理していく能力や健康の自己管理能力も、必要な要件として重要視される        ・・・5)


第3節 自立生活センター(Center for Independent Living)

1項 自立生活センターの経緯・システム

 自立生活センターは、第1節でも述べたように、カリフォルニア大学バークレー校の学生であったエド・ロバーツら数名によって設立された。同大学のキャンパスに 近いアパートを本部とし、事務員を雇うためにトランプのポーカーを実施したり、地元のロータリー・クラブに財政協力を求めると いうグラスルーツの出発だった。設立した間もなく、連邦厚生省から5万ドルの補助金を受け取り、障害者の自立生活を支援するための実験的なプログラムが開始された。1980年には、有給職員200人、年間予算320万ドルにまで発展。しかし、連邦政府レベルでNPOが実施する社会福祉関連事業への補助金を大幅に削減したことや州レベルで固定資産税がカットされたことなどにより、自立生活センターは財政的危機に陥った。
 その解決策として、リストラを進めたことにより自立生活センターは、再建された。1995年の年間予算は、250万ドル、有給職員は40名。主な事業は、介護者紹介、住宅情報提供、ピアカウンセリング、雇用機会拡大プログラム、啓発活動、障害者援助、権利擁護などがある。なお、現在、バークレーの自立生活センターをモデルにした団体 は、全米自立生活協議会(NCIL)に登録されているだけでもで約300にのぼっている。6)
 アメリカの自立生活センターの資格要件、また、連邦政府の補助金を受けるための資格要件は、リハビリテーション改正法によると、次のように規定されている。

 (1)  運営委員の51%は障害者であること
 (2)  重要な決定を下す幹部の一人は障害者であること
 (3)  職員の一人は障害者であること
 (4)  総合的なサービスをすること

 サービスの内容については1985年に全米障害者評議会が規定した。その後、サービス対象を1つの障害に限定せず、2つ以上の障害とするなど、自立生活センターの基準は年々厳しくなっている。
 自立生活センターは、事業体と運動体という2つの要素を持ち合わせている。事業体とは、1団体の利益のために働くものではなく、一般市民を顧客と考えてサービスを提供するものである。事業所として展開するには、定時(9時―17時)で事業が運営されることや依頼されたことは確実に実施されること、連絡を受けたことが担当者に正しく直ちに伝えられること、事業所が整理整頓され、きちんとした服装をし、丁寧な対応をすること、資料が整理され、報告書が期日に出ること、連絡調整のための定例会議が設定されていることなどが必要となっている。また、運動体とは、要求運動をするものである。運動体は365日ずっと存続するのではなく、目標が達成されたり、目標を放棄したときには解散される。事務局や責任体制は明確ではなく、事業計画や事業予算も必要ない。構成員も要求運動のたびに変わることがある。運動体は事業や運動が失敗に終わっても、誰も責任を問われることはない。これに反して事業体は先ほども言ったように必須条件がいくつかあり、社会的な責任を負った存在である。このどちらか片方しかない場合、障害者の生活状況が改善されることはない。事業体と運動体という2つの要素がバランスよく存在しているからこそ、障害者の自立生活が展開されているのである。

2項 自立生活プログラム

 自立生活プログラム(Independent Living Program)とは、施設や在宅の閉鎖的な場所で過ごしてきた障害者が、社会の中で自立生活をしていくときに必要な心構えや技術を学ぶ場である。
 自立生活プログラムの内容は、対象者の目標によって異なるが、「対人関係の作り方」や「介助者との関係」、「制度など社会資源をどう使いこなすか」、「住宅について」、「性について」、「健康管理」、「トラブルの処理方法」、「危機管理」、「「介助者に指示を出して好きな料理を作る」、「金銭管理」など自立生活をしていくうえで必要なノウハウがプログラムとして当事者に提供する。このプログラムをレクチャーするリーダーは、先輩当事者が行うため、相談や質問も安心してすることができる。この自立生活プログラムは、障害文化の伝達といえるものだろう。また、自立生活プログラムは、個人プログラムとグループプログラムの2種類があり、3〜5回の短期講座から12〜15回で3ヶ月以上かかる長期講座など、参加対象者の経験や年齢、障害の種類などを考慮してさまざまな形態・内容で企画されている。この自立生活プログラムは、アメリカや日本はもちろんのこと、各国の文化に根ざした内容を展開している。
 
3項 ピア・カウンセリング

 生活技術面での自立も時間のかかる困難な過程であるが、それ以上に大変なのは心理面での自己確立や障害の需要である。多くの障害者たちは生まれて物心がついたころから、「障害者だからやってはだめ」、「障害者だから結婚はできない」、「外出すると周りに迷惑がかかる」など、自信喪失させる言葉や尊厳を傷つけられてきた。それにより「自分はどうせ何もできない」、「自分は生きていても何の価値もない」などと思い込んでしまう。そんな状況にまで追い込まれてしまった場合、自己信頼を取り戻すためにはカウンセリングが必須である。この場合、同じ障害を持つものがカウンセラーやクライアントとなり、対等な関係で行われるピア・カウンセリングというものが最適である。ピア・カウンセリングでは、当事者のことをもっともよく理解しているのは、その人自身であるという人間信頼、自己信頼にのっとった立場に立つ。その上で平等に、対等に力と時間を使っていく。つまりピア・カウンセラーも、カウンセラー役だけでなく、他のピア・カウンセラーに、自分の気持ちや話を聞いてもらえる時間を作り出すことが必要なのである。7)
 ピア・カウンセリングでは、障害を持っていることはひとつの「個性」であり、それ自体何も悪いことではないと伝えられる。ただ、周りの社会がその受け入れ体制を用意していないため、自分が悪いような気がしているだけで、社会の人の心の中の偏見や建築上の障壁を取り除くことによって、障害者は障害者でなくなるのである。
 ピア・カウンセリングの役割を以下のようにまとめてみた。

 ○ 自立のための情報提供
 
・ 住宅探し、情報提供と改造等の相談
 ・ 所得保障に対する相談。情報提供
 ・ 介助に関するさまざまな情報提供
 ・ 余暇・旅行・レジャーの情報提供
 ・ その他、自立生活に対するさまざまな情報提供・相談

 ○ 精神的サポート
 
・ 自己信頼を回復するためのサポート
 ・ 権利擁護、意識確立のためのサポート
 ・ 施設や親元から独立するためのサポート
 ・ 性やセクシャリティの悩みにたいするサポート
 ・ その他、対人関係など自立生活全般に必要な精神的サポート      ・・・8)

 このようにピア・カウンセリングは、障害を受容し、克服する上で見捨てることなく支援してくれる存在である。この信頼感によってピアカウンセラーは、ほかの支援者に比べ格段に重要な地位を占めているのである。

4項 アドボカシー

 アドボカシーは、英語の言語的意味では「主張」、「弁護」、「支持」、「擁護」、「唱道」と訳されている。自立生活運動におけるアドボカシーの意味として、「権利擁護」もしくは「代弁」と訳すことができる。人が持ち合わせている「権利」が侵害・実行できないような状況にある場合、その権利がどのようなものであるかを明確にし、その権利の救済や獲得を支援することである。また、その権利に関する問題や課題を自らが解決できるよう、必要なさまざまな支援を行うことである。特に、知的障害者に対するアプローチとしては重要となっている。
 アドボカシーは、「個別アドボカシー」と「システム・アドボカシー」の2つに分けられる。「個別アドボカシー」は、例えば、車いすの乗車を拒否した運転手や交通機関に対して交渉することなどを言い、「システム・アドボカシー」とは、変えるべき制度や社会を変えたり、守るべきものを守る活動のことを言う。
 障害者は、何が必要であるかを訴え、その正当性を説明して人々を説得し、権利を開発、確立していかなければならない。9)しかし、多くの障害者は自らの権利を認識していなかったり、認識していても主張できなかったりする場合が多い。これは長年にわたり障害者が家族や施設に管理、支配の状況の下で生活を強いられてきたために依存性が生まれ、主体性を欠如させているのである。自立生活センターは、障害者の権利を擁護、弁護、代弁しながら同時に自らの権利を主張できるよう障害者を主体化していく援助をしなければならない。また、自立生活センターはサービス供給体であり、消費者でもある。行政が提供する社会福祉サービスなどの消費者としての地位が脅かされた場合などに、個人の消費者と共に、あるいは単独で改善するようアドボカシーを行う役割がある。10)
 アドボカシーは障害者が地域の中で自立生活をしていく上で、非常に重要なものであり、積極的に取り組んでいかなければならない。

5項 広報・啓発活動

 障害者が地域で自分らしく自立生活をしていくためには地域に住む人々の理解は不可欠である。また、自立生活センターの運営費は行政からの助成金や自立生活センターのメンバーの会費だけでなく寄付金も重要な運営費のひとつである。自立生活運動がどういうもので自立生活センターがどれだけ重要なのか、また、障害への理解を深めてもらうために広報活動や啓発活動は有効な手立てである。一般的な広報活動は、会報の発行や講演会やセンターの記録などの出版、ホームページによるリアルタイムの情報の発信などがある。
また、啓発活動として福祉講座や市民講座、講演会などの実施、講師派遣などが一般的である。なかには、説明会を実施したり、メーリングリストで情報を流しているセンターもある。
 私が今年の夏に行った、サンフランシスコの自立生活センターでは、とてもユニークな広報・啓発活動を行っていた。それは、市民が障害者の差別や偏見をテーマにしたイラストなどを投稿する「ポスターコンテスト」である。これは、アメリカの各都市で行われているという。サンフランシスコ自立生活センター内にも数多くのポスターが貼られていた。ポスターは英語だけでなく、中国語などの多言語のものも見られた。(図1)それは、アメリカが他民族国家であるからである。このサンフランシスコ自立生活センターは、利用者を分類すると、アジア人が全体の4割を占めている。続いて白人、アフリカ系アメリカ人、ラテン系の順である。また、イラストだけではなく、写真などを切り抜いてひとつの作品にしたものもあった。(図2)

(図1)


(図2)

                              

第4節 今までの自立生活運動に関する研究

 自立生活運動に関する研究は当事者たちの論文をはじめ、多くの研究者も論文を書いている。
 アジア・ディスアビリティ・インスティテートの中西由紀子は、「途上国の自立生活運動」で先進国の自立生活運動と途上国の自立生活運動を取り上げ、いかに途上国に自立生活運動を発展させるかを述べている。中西は、「途上国で自立生活運動を広めるためには、理論的理解を進めるための啓発活動、権利擁護活動、自助団体への重度障害者の参加、自立生活でのローモデルの提示などのいずれかの方法が適切である。また、途上国の障害者の間で自立生活運動に対する期待感が強まっているが、彼らの大半は、自国の資源がないことや障害者に対する偏見の強さ、政府の政策が不十分なことから自立生活運動の導入は難しいとあきらめている。しかしそのような国でも自立生活運動を導入する方法はある。自立生活運動本来の理念はすべての障害者に当てはまるものであり、問題は新たなことにチャレンジする勇気を持ち合わせる重度障害者と彼らを支援する障害者の仲間の存在である。そのような彼らが出てこれるよう、私たち先進国の障害者は、自立生活のグッドニュースをあらゆる機会を通じて流していかなければならない。」11)と自立生活運動を発展させるための方策を述べている。
 立石真也は「季刊福祉労働」で、自立生活運動の現在を11回に渡り連載している。その内容は以下のとおりである。
 第1回「設立2年目に入った自立生活センター・立川」:各地に誕生している自立生活センターの中から、立川の自立生活センターを取り上げ、1994年に設立した経緯から介助サービスや自立生活プログラムなどの活動内容、センターの財政規模などを紹介している。
 第2回「「自立生活プログラム」:自立生活プログラムは「自立した生活を援助するために、当事者が当事者のために行うプログラムである」12)という説明から自立生活プログラムが始まった経緯、自立生活プログラムが実際行われている場所の紹介、自立生活プログラムの対象者と作成者の両者は当事者であるという位置関係の説明から細かいプログラム内容の紹介、今後の課題を述べている。
 第3回「東京都地域福祉振興基金による助成事業」:1991年から地方交付税交付金に自立生活センター設置費が含まれるようになり、各地方自治体で「地域福祉振興基金」の設置が始まっている。その基金設置と運用の経緯とその目的、基金の申請方法や助成対象団体について、助成対象事業として有償家事援助サービスや毎日食事サービス、障害者自立生活プログラムなどの10の事業が挙げられている。最後に課題として、先駆的・開拓的・実験的であるこの基金が将来、当然のものになった場合、どう対応していくかなどと述べている。
 第4回「全国自立生活センター協議会(JIL)」:全国自立生活センター協議会の設立経緯と目的、「自立生活センターの設立、提携、制度化」を具体的な目標としていくこと、「全国自立生活センター協議会は、団体を構成員とする協議会であり、会員と準会員、未来会員からなる。」13)ということ、具体的な活動内容、介助費用や運営基金や地域格差についての今後の課題が述べられている。
 第5回「東京都脳性麻痺者等介護人派遣事業」:1974年から始まった東京都の「重度脳性麻痺者等介護人派遣事業」の基本的な枠組み、経緯、派遣対象について述べている。最後に介助人の位置づけや対象者の整合性の問題、制度の曖昧さなどの今後の課題が述べられている。
 第6回「生活保護他人介護加算」:「生活保護を受けている人あるいは受けられる人で、1日4〜10時間(以上)の介助(ただし家族外)を要する人なら、月に7〜17万円ほどの介護加算を受け取ることができる。手続きは確かに面倒だが、すでにこの制度を利用している人たちの助けを借りるなら、なんとかなる。」14)この「生活保護他人介護加算」について、制度の概要と推移、申請・受給の方法などが細かく紹介されている。
 第7回「障害者総合情報ネットワーク・他」:「障害者総合情報ネットワーク」の設立経緯から活動内容、機関紙「BEGIN」などについて紹介をしながら、情報提供のあり方や重要性を述べている。最後に、立石が所持しているデータなどの情報を紹介している。
 第8回「当事者組織にお金は出るか→『地域福祉基金』他」:サービス供給のあり方に関わる動きである当事者組織に対する助成についての報告が述べられている。「全面的な自己負担が不可能であり、不合理でもある『サービス』に関わる費用の負担と供給のあり方とホームヘルプ事業を当事者側に立ったものに変えていくという方向性を将来的にどう調整していくのかという問題が生じている。」15)という現状を「長寿社会福祉基金」と「地域福祉基金」という2つの基金を挙げながら見解を述べている。
 第9回「社会的支援システムの変更」:「地域福祉計画」の中にある「社会的支援システムの変更」について紹介している。立石は、「この社会的支援システムの変更は、『自立生活運動』の理念を詰めていった時に辿り着いた、そしてこの運動を見てきた私が辿り着いた一つの場所(現実ではなく目標としての場所)だと言ってよいと思う。」16)と述べている。
 第10回「ホームヘルパー制度はもっと使える」:「誰でもあることは知っているし、実際かなり広く使われて入るが、どこまで使いきれるかとなると、知っている人は知っているが、知らない人は知らない。そういう制度が『ホームヘルプサービス事業』である。『ホームヘルプサービス事業』は、現状のままで、もっと使えるはずである。」17)と述べている。第10回では、この制度をどこまで、どのように使えるのかが紹介されている。
 第11回「第6回自立生活問題研究全国集会・他」:最終回では、「第6回自立生活問題研究全国大会」の開催内容が紹介されている。2日間に分け、3つの分科会、交流会、シンポジウムなどが行われた。「これららの自問研をどうするか」というのが今後の考えどころとなり議論された。最後に、立石氏が参加した「公的助成」についての分科会について自立生活センター立川の事務局長、野口俊彦氏のコメントを掲載している。
 奥平真砂子は、「自立生活運動のグローバルネットワークを目指して」で、カナダの自立生活センター協会と日本の自立生活センターをサービスの内容や国の政策などについて比較し、「当事者組織に対する政府の態度やサービスの内容が違うものの基本理念は同じである。」18)と述べている。また、「アメリカの自立生活運動における最新情報」において、「今まで脊椎損傷や脊髄損傷といった言語障害のない人が中心となり運動し、エリートの運動だといわれてきた自立生活運動だったが、次第に重度障害者や知的障害者も加わり新しい流れが生まれた。社会への完全統合を目指し、そのための権利を保障する法律を獲得し、それを真に価値のあるものとするために責任を持って活動していくことが一番重要である。」19)などと全米自立生活協議会の総会の参加した際に感じたことや、アメリカの自立生活運動の現状と課題、日米自立生活センターの関係作りについても述べている。
 野村歓は、「障害者運動からみた福祉のまちづくり」で自立生活運動の経緯などではなく、身近な交通問題や住宅問題、さらに災害時の問題等の視点から自立生活運動を述べている。
 中でも、阪神・淡路大震災の時の当事者団体について「被災時直後、障害者は市民とともに街の中に放り出された。そんな中、障害者に救いの手を伸べたのは同じ障害者であった中心となっていたのは全国各地にいる当事者団体で、物資や義援金の活動だけでなくネットワークを利用した情報発信、ボランティア登録・派遣などさまざまな救援・支援活動が展開された。このようなことから阪神・淡路大震災で当事者が果たした役割は特筆すべきことであり、今後の災害での緊急対応時における高齢者や障害者の対策が重要であると。」20)と述べた。
このような中で、今回私は、発展途上国とされているタイと日本の自立生活運動を取り上げた。奥平真砂子が言っていたように、「自立生活の基本理念は同じでも国によってサービスの内容などは違っている」ということから、その違いがどのような背景で生じたのかを今回着目し、比較する。
 また、自立生活運動の中心となって活動している当事者たちは、自立生活運動が各国によって違うというということを承知しているが、自立生活運動の中心にいない人間にとっては「世界で行われている自立生活運動=世界で共通して同じことが行われている」という概念を持ってしまっている可能性が高い。私自身、自立生活運動について詳しく勉強するまで、この概念を抱いていた。これからも確実に発展していく自立生活運動は、当事者だけでなく周囲の人々からも注目されていく。さらに他国の自立生活運動にも目が向けられていった場合、「なぜこの国は自分の国と同じことをやっていないのだろう」「発展している国の真似をすればいいのにどうしてできないのか」「なぜその国独自の活動が生まれたのだろう」などの声が上がると推測される。人々がこの疑問を抱いたとき、わかりやすく且つ詳しく説明するためには、その要因となるさまざまな背景を今後早急に追求していく必要がある。

注)1)中西正司・上野千鶴子(2005)『当事者主権』岩波新書、24-25頁
  2)infoseekホームページ:自立生活の基本理念とその歴史
    http://cilshien.hp.infoseek.co.jp/text/txtsec1.htm 平成17年4月14日アクセス
  3)リハビリテーションギャゼット編集委員会(1973)「リハビリテーションギャゼット」東京コロニー
  4)全国自立生活センター協議会パンフレット『障害者の自立の理念』
  5)成瀬台口腔ケア介護センターホームページ:ケアマネデンティストからの知り得・聞き得情報〜自立支援とはなんのことか〜
http://www.dental-shuttle.co.jp/ 平成17年11月9日アクセス
6)日本太平洋ネットワークホームページ:アメリカにおける雇用や職業問題を扱うNPOと行政(柏木宏)http://www.jprn.org/japanese/images/nav_03.gif
平成17年11月11日アクセス
  7)全国自立生活センター協議会(JIL)ホームページ:ピアカウンセリングとは
    http://www.j-il.jp 平成17年 4月14日アクセス
  8)前掲ホームページ(JIL): 平成17年 4月14日アクセス
9)橋本義郎(1991)「人権と障害者の『訴え』−身体障害者をめぐる事情の検討を中心に−」『ソーシャルワーク研究』Vol.17、18頁
  10)学校法人関西学院大学社会学部ホームページ:「障害者」福祉におけるアドボカシーの再考―自立生活センターを中心に―(横須賀俊司)
    http://syass.kwansei.ac.jp/img_home/title.jpg 平成17年11月15日アクセス
  11)中西由起子(2003)「発展途上国の自立生活運動」『アジ研ワールドトレンド』
96号、25-28頁
  12)立石真也(1992)「自立生活プログラム−自立生活運動の現在・2」『季刊福祉労働』56号、154-159頁
  13)立石真也(1993)「全国自立生活センター協議会(JIL)−自立生活運動の現在・4」『季刊福祉労働』58号
  14)立石真也(1993)「生活保護他人介護加算−自立生活運動の現在・6」『季刊福祉労働』60号
  15)立石真也(1994)「当事者組織にお金は出るか→『地域福祉基金』他−自立生活運動の現在・8」『季刊福祉労働』62号、153-158頁
  16)立石真也(1994)「社会的支援システムの変更−自立生活運動の現在・9」『季刊福祉労働』63号、100-105頁
  17)立石真也(1994)「ホームヘルパー制度はもっと使える−自立生活運動の現在・10」『季刊福祉労働』64号、144-151頁
  18)奥平真砂子(1999)「世界の障害者政策-自立生活運動のグローバル・ネットワークをめざして」『月間福祉』11号、72-77頁
  19)奥平真砂子(1999)「世界の障害者政策ーアメリカの自立生活運動における最新情報」『月間福祉』12号、72-77頁
  20)野村歓(1997)「障害者運動から見た福祉のまちづくり」『リハビリテーション研究』91号、39-43頁

2章 日本における自立生活運動                        

第1節 自立生活運動の経緯

 日本の障害者運動はアメリカで自立生活運動が始まった時期と同じ1970年代に脳性まひ者の権利擁護運動を萌芽として始まった。きっかけは、1970年に神奈川県で起きた障害児の養育に疲れた母親が、脳性まひのわが子を殺すという事件である。その母親の減刑嘆願運動が、母親の周囲の人たちや同じような障害児を持つ親などから起こり、世論やマスコミもそれをサポートし、母親に執行猶予付きの判決が出た。それに反対する脳性まひ者たちの団体である「青い芝の会」は、障害児を殺した母親は殺人者であると規定し、障害児の人権が守られないのであれば、自分たち成人の障害者の命も人に委ねられるとして裁判所に不服申し立てを行った。青い芝の会は、1957年に日本で最初の公立肢体不自由児学校である光明養護学校の卒業生がスタートさせ、同窓会的な親睦団体から次第に脳性まひ者の全国的な集まりとなり、日本の自立生活をひっぱってきた。1)青い芝の会はこの事件だけでなく、府中療育センターでの移転反対と待遇改善を求め、都庁前で1年間あまり座り込みの闘争を広げたり、神奈川県の川崎駅でバスの籠城闘争など行ったり健常者社会に対し、昴然と挑み続けてきた。
 それは、健常者社会に対する障害者の猛烈なアピールであるとともに、自分たちのありのままの姿を取り戻す、開放への過酷な戦いだった。自立生活運動は、家庭からも施設からも当事者を解放しようとしていたが、簡単なものではなかった。親許や施設から離れ、地域で協力者を求め、生活を創っていたが、全身性障害で言語障害を併せ持つ障害者達のおかれた状況はすさまじいものだった。「障害者だから仲間」という土壌ができていなく、また妥協を許すことは自分たちの存在が危ぶまれるといった危機感を持っていたのである。
結果論としては、この当事者運動は、障害者が地域で介助を受けて暮らすという福祉サービスが提供されるようになる端緒となった。
 1981年の国際障害者年の少し前に海外の情報が当事者のもとにも入ってくるようになり、1980年のリハビリテーション・インターナショナル会議から、当事者は自身の声を上げるというかたちでDPI(障害者インターナショナル)の立ち上げを宣言した。日本でもその動きを受けて「DPIを作る日本委員会」を設置し、1981年12月にシンガポールで開催された第1回DPI世界会議への参加へとつながった。こうして一気に世界への窓が広がり、この年以降に実施されている、財団法人「広げよう愛の輪運動基金」の障害者リーダー育成米国研修プログラムによってこの後の障害者の国際化が進んでいった。2)このプログラムは、毎年10組のさまざまな障害を持った人たちが1ヶ月から1年間、自分のテーマに沿った研修を支援するもので、肢体不自由者の多くはカリフォルニア州バークレーの自立生活センターで研修を受けた。そこで当事者運動のパワーと成功の姿に大きな影響を受けた。この自立生活センターで学んできた人たちは日本で最初の自立生活センターといわれるヒューマンケア協会の創設スタッフの多くを占めている。
 1983年、脳性まひ者を中心とした実行委員会でアメリカの自立生活運動のリーダーを招き、全国数箇所で「障害者自立生活セミナー」を開催した。実行委員会の多くのメンバー
は、アメリカの脳性まひ者の自立生活の現状を知り、自分たちの運動と重ねあいたいという思いを持っていた。しかし、実際に来日したメンバーの多くが言語障害を持っていなく、脳性まひ者はひとりも含まれていなかった。脳性まひ者は失望したが、一方で障害者としてのアイデンティティを見出したいと模索していた脊椎損傷や筋ジストロフィーなど、脳性まひ以外の重度といわれている障害者には大きなインパクトと希望を与えた。
 日本の自立生活運動の始まりはアメリカの自立生活センターの動きとさほど大きな隔たりはない。しかし方法論の違いは大きく、マイノリティの公民権運動として消費者運動として世論に訴え、味方・力にして発展したアメリカとは対照的に、日本は障害者の中でも過激で行動的な集団というレッテルが貼られた。そして、仲間として見られることは迷惑と感じるほかの障害者も多く、脳性まひ者だけの運動として展開していったのである。

第2節 日本の自立生活センター

1項 日本で始めての自立生活センター

本章、第1節でも述べたように、日本におけるサービス事業体としてアメリカ型の自立生活センターを始めたのは、1986に設立された、ヒューマンケア協会といわれている。それ以前にも自立生活センターは日本自立生活センター(京都市)、静岡自立生活センター、宮崎自立センター(前述、千葉市)などと、障害者が中心となって設立運営されている作業所や生きる場の活動はあった。3)しかし、当時の通所センターは昼過ぎにぽつぽつと集まり、溜まり場のような存在だった。
 当時の障害者運動は、脳性まひ、脊椎損傷などの障害種別の団体か、地域別団体で、それらの団体が個別団体の利益追求に走っていた。行政の地域サービスはないに等しい状況であり、そのため、地域に重度障害者が暮らすことは不可能な状況にあった。この状況を変えるためには、自分自身で必要なサービスを作り上げていくしかなかったため、ヒューマンケア協会はサービス事業体として自立生活センターをスタートしたのである。
 ヒューマンケア協会はスタート当初、八王子市にある通所施設「若駒の家」の一部を借りて運営していた。一般の利用者と若駒の家の利用者を公平・平等に扱い、身内、外の区別をなくして団体としての公明・公平性を目指す4)ため、いくつかのけじめをつけた。たとえば、若駒の家の利用者が来ても、相談以外は受け付ない、服装はネクタイと背広を着用し、9時始業、5時でオフィスを閉めることなどを励行した。その後、自立生活プログラムやピアカウンセリングを創設し、地域行政とも正面から戦っていった。また、発足時の職員の多くが海外研修修了者であったこともあり、海外の障害者運動との連携は強かった。そのことからヒューマンケア協会では日本以外のアジア諸国へ自立生活運動を広める支援を行っている。アジアでは施設もなくサービスもない国が多く、障害を原因とした障害者殺しや褥瘡を原因とした死亡事故など悲惨な状況がある一方で、今の何もない段階で当事者運動を作り上げ、自立生活センターの提供を始めてしまえば、自然な形で地域ケアの社会が形成されることになる。5)これまでに、フィリピンやマレーシア、タイ、韓国などの自立生活運動に携わっている。

2項 全国自立生活センター協議会

 1990年代に入って、全国組織を立ち上げようと動き始めた。当時、自立生活センターと名乗って活動していた当事者組織が、東京に5ヶ所、静岡、名古屋、京都など10ヶ所近くになっていた。その主だったところが集まり、何回かの討議を重ね、1991年10月22日全国自立センター協議会が発足した。全国自立生活センター協議会発足の大きなきっかけは、ヒューマンケア協会設立のインパクトや自立生活が一部の障害者だけのものから、広い視野で取り扱われるようになった6)ことがあげられる。
 全国自立センター協議会は、全米自立生活協議会の試行錯誤の歴史に学び、発足当時から自立生活センターの定義として、以下のことを規定している。

1.意思決定機関の責任および実施機関の責任者が障害者であること。
2.意思決定機関の構成員の過半数が障害者であること。
3.権利擁護と情報提供を基本サービスとし、且つ次の4つのサービスのうち2つ以上を不特定多数に提供していること。
3-1.介助サービス
3-2.ピア・カウンセリング 
3-3.自立生活プログラム
3-4.住宅サービス(住宅情報の提供) 
4.会費の納入が可能なこと。
5.障害種別を問わずサービスを提供していること。          ・・・7)

これらの基準を設定し、自立生活センターに加盟申請をしてもらっている。しかし、新しく自立生活センターを設立する際、最初からすべてこれらの基準をクリアするのは難しいことから、すべての基準を満たしているセンターは正会員、サービス内容3つのうち2つスタートしているセンターは準会員、まだ準備中のセンターは未来会員という分類に分け、加盟団体を増やしている。現在、全国自立生活センター協議会には134団体(2005年10月25日時点の加盟団体数)が加盟している。
 全国自立生活センター協議会は自立生活センターに対するものと広く一般社会に向けて行う活動に別れており、個人に対する情報提供以外のサービスは行っていない。自立生活センターに対して「人材育成の手伝い」、「各サービスのノウハウの提供」、「情報交換と交流」を行い、一般社会に対しては「広報や啓発活動による自立生活理念の普及と自立生活センターへの理解の促進」、「障害者の権利擁護」、「寄付金の一括申請や海外交流にあたっての自立生活センター代表と他団体との連携・調整」を行っている。特に全国自立生活センター協議会は、「当事者の当事者による人材育成」に力を入れている。障害者リーダーの育成は、地域の核として福祉をリードしていくことで、地域や行政から認知され、社会的な存在のなることから最重要課題とし、取り組んでいる。

 また、「自立生活センターは、自立生活に必要なサービスを提供する事業体としての機能と、障害者が地域で生活していくうえでの不都合をなくし、誰もが、障害を理由に権利を侵害されることがないよう、社会を整備していく運動体の機能を持っている。」8)そしてこの2つの機能体は社会を当事者主体のシステムにする際、欠くことのできないものである。この2つの機能体を円滑に進めるために全国自立生活センター協議会は各種委員会を設置している。(図3)

(図3) 全国自立生活センター協議会組織図

第3節 当事者の声

 この節では、実際に自立生活運動をした当事者のインタビューを紹介していく。1項では、2003年11月にAJU情報誌のスタッフがAJU自立の家常務理事である山田昭義さんに自身のことや自立生活運動のこと、今までのこと、これからのことをインタビューしたものである。続いて、2項では「自立生活運動と障害文化」に記載されている、「青い芝の会」神奈川県連合会会員、障害者活動センター会員、「CP女の会」会員である、内田みどりさんのインタビューを紹介する。

1項 山田昭義さんへのインタビュー

Q:山田昭義さん(現在61歳)は、15歳のとき、海に泳ぎに行き受傷し、頸椎損傷になり、それ以来、四肢麻痺になられたということだが、当時の様子はどうだったか?

山田:名古屋市の済生会病院に10年間入院していた。3年間寝たきりの生活だった。
退院後、施設へ入所した。規則はとても厳しく、午前中は訓練があった。自分がアパラート(補装具)を付けて、施設の外へ歩行訓練に行っていた。今みたいに専門の指導員はいない。 ある日、タイプライターを見つけて、教本を読みながら練習し文章が打てるようになった。職員からタイプを打ってと頼まれることもあった。でも、タイプを打つことは、肉体労働だったため、結局タイプを打つことはあきらめた。 施設というところは職員の都合ですべて決まり、起床や就寝の時間など365日同じ。 親、兄弟が会いに来ない入所者に職員が、「なぜ、自分たちが面倒をみなければならない?」「正月ぐらい家に帰れよ」と言う。

Q:高校や大学時代の時はどうだったか?

山田: 20歳の頃、母に「遊んでばかりいないで、これからどうしていくの?」と聞かれ、どうしようかと思った。愛知県でただ一つの通信教育に申し込んだが、「病気が治ってからにしてください」と、門前払いだった。その後、NHK学園(通信教育)ができることを知り、そこへ行くことができた。(昭和38年卒業) 大学については、初めは翻訳の仕事なら障害を持っていてもできると思い、英文科を考えたが、入院先で一緒だった人から、「世の中は法律で動いている」と言われ、中央大学を勧められた。希全寮に入るとき勉強の時間は認めてもらったが、訓練ということで朝早くたたき起こされるので、障害を持った身体ではとてもつらかった。 大学からは入るとき、「あなたのために特別なことはできない」「念書を書いてください」と言われた。
 下宿先は、学校から200mぐらいのところにあった。母が介助者として一緒に東京にいてくれた。4畳半一間の部屋で炊事場と便所は共同だった。便所は入り口に段があったので使えず、おまるを使っていた。風呂はないので、銭湯に一週間に一度通った。3時から開くのでそれに合わせて行った。脱衣所など、ひじをついて足は母にちょっと持ってもらってね。入れ墨のおじさんがいて手伝ってくれた。朝は車いすを押してもらい、週三日学校へ通った。授業は4階であり、母に背負ってもらって上がった。車いすと教科書も別々に上げてもらった。階段に手すりはなかった。 2階からEVが付いていたので、1階からEVを付けて欲しいと言ったら、念書を見せられた。あのときは辛かった。大学卒業後のことで就職課に行ったときも、また、その念書を見せられたな。夏休みにリハビリ施設に通って、母に支えてもらいながら松葉杖をついて階段を一段ずつ上がれるようにした。「手伝いましょう」と言われたのは、一度だけだった。

Q:大学卒業後はどのようなことをしていたのか?

山田:都立のリハビリセンターへ週に2回通っていた。就職のことでそこへ相談に行ったとき、「名古屋に戻って、障害者運動をやっていって欲しい」と言われ、名古屋に帰ることにした。 名古屋の職安に行ったときは、「健常者でも仕事がないのに、車いすの人に仕事があるわけがない」と障害者担当の人から言われた。障害者担当の言うことかと憤慨した。
近所の人から大学を出たのならと、子ども(小学生)の家庭教師を頼まれるようになった。勉強をみていた子の成績が上がって、それが口コミで広がり、15年ぐらい学習塾をやっていた。平日は塾をやり、友だちとは土日に集まった。 そんな中、希全寮で友だちになった中村力さんが、その後の「会づくり」「運動づくり」の力になってくれた更生相談所の人と知り合った。 それから、仲間で市営住宅に住んでいる人がいて、段差が多く這いずって移動するしかなく、褥瘡できて困っていた。市へ改善の要望書をだすことになったが、どのように書けばよいかと自分のところに話がありAJUへ相談に行くと、「個人で出しても効果はない」と助言された。そういうことで「勉強会をしよう」「会をつくろう」になった。希全寮の仲間や瀬戸の仲間で昭和48年9月「よくする会」を結成した。

Q:「愛の実行運動」の理念を持つ障害者運動とは?

山田: 楽しくなければ福祉じゃない! 楽しく生活できるようにしようと、街にでていくことをやった。教会の外郭団体AJU(愛の実行運動:AJUはその頭文字)と出会った。障害者のために何かしてやるということではなく、みんな同じレベル。兄弟として付き合おうよという考え方だったので、宗教に関係ない人にも受け入れられた。みんなが一人の人として認められた。自分も人のために働けると思った。車の免許を持っていたので、車を運転し移動手段を持たない仲間の送迎をした。障害を持っている人が、もっと重い障害を持った仲間のために手伝えた。それがAJUだった。

Q:「よくする会」の運動<街に出よう>の意味するものは?

山田:昭和48年9月、仙台で車いす市民全国集会があった。これは、全国の車いす障害者運動の草分けだと思う。よくする会からは5名が参加した。この集会は「生活圏拡大運動」ということがメインテーマだった。名古屋では車いすで利用できるトイレは緑風荘(名古屋市重度身体障害者更生援護施設)にしかないときに、仙台市には駅や百貨店に車いすトイレがあり、これがとても刺激になった。 当時は、車いすを見たことがない人が多かったため、周りはどうしてよいかわからない。僕たちをジロジロ見る子どもに、「見てはいけないよ」「悪いことをしたから、あんなふうになったんだよ」と言っていた時代、車いすの人も、目立たない時間、曜日を選んで出掛けていた時代だった。
 しかし、僕たちはそんなことではダメだと思い、わざわざ、人出の多いときを選んで東山動物園へみんなと行ったり、新幹線で京都に出掛けたりした。毎年、開催している名古屋シティ・ハンディマラソンもそうした考えに基づいている。
 街は段差だらけだが車いすを利用している僕たちが街に出て段差で困っていれば、誰かは手伝ってくれた。手伝ってくれた人はきっと、家に帰ってこんなことがあったと話すだろう。トイレがないから行かないのでは何も変わらない。まず、自分がでていく、そうすることで社会が変わるだろう。でも、どうしても変わらない部分は行政にやってもらう。
  障害があるからかわいそうなのではなく、障害者を差別する社会がかわいそうなのではないか。段差をなくしスロープにすれば、みんなと同じレベルで動けるのである。

Q:これまで、様々な運動をしてきて、「AJU自立の家」ができたわけだが、自立の家が目指しているものとは?

山田:どんなに重い障害を持っていても、寝たきりになっても、生まれてきてよかった、生きていてよかったと言える社会をつくりたい。施設の中ではなく地域社会の中で生活していけるということを、障害者が社会で実践していく。
 昔は、介助を受けると自立じゃないと言われたが、自分のことは自分で決め行動し責任を持つことができれば、それは自立していると言える。自分にできないことをやってもらうのは当たり前のこと。

Q:障害者が<福祉の担い手になる>というのは、どのようなことですか?

山田: 制度としてつくっていけば、社会人として一緒に生きていける「社会」になるのではないか? 障害者として生きるというより、1人の市民として社会を構成する、担っていくという考え。 障害者という特別な存在ではなく、また、自分は障害者なんだからとヘンに頑張らず、障害を持っているからこそわかる必要なことを自ら整えていく。例えば、制度をつくっていく。そういうことで、1人の人間として社会で自立して生きていける。 サービスを受けるばかりでなく、これからは、そういったことを必要としている人たちや社会へ返していくことができる。

Q:これまで、ずっと、障害者運動を続けてこられた中で、どのようなことが重要なこととして思い出されるか?

山田:トイレの話からすると、導尿をするようになり失禁はしなくなった。それまでは出掛けるときは失禁セットを持ってでた。一度、持ってでることを忘れ、そのときは大変だった。失敗したこともあるが、始末をしてくれる人がいた。感謝の気持ちでいっぱいだった。これまで、多くの人と出会って、多くの人に支えられてきた。声を掛けたら手伝ってくれた。自分のことだけではなくみんなの声として、社会を変えていこうと思った。
 大きな出会いとしては、初期のよくする会の運動を物心ともに支えてくれた「朝日新聞名古屋厚生文化事業団」。よくする会の勉強会の講師としてずっと参加された「日本福祉大学の児島美都子先生」。福祉ホームは障害者の下宿屋であること、下宿屋はそこに一生住むところではなく、卒業するものという提起をされた寛仁親王殿下との出会い。この提起がAJUの福祉ホームの理念になった。

Q:よく、当事者がやっていくことが大事と言われていますが、それはなぜか?

山田:支援費制度になって、機能障害に起因する能力障害の多くは、カバーできるようになったと思う。文が書けなければヘルパーに頼めばよい。できない部分をヘルパーに頼んでやってもらう。今後は、ひとりひとりの生き方、生きるための能力が問われるだろう。
 身体障害も知的障害も変わりはない。身体障害は「話すことができるからノ」と知的障害者の家族は言ってきた。聴覚障害や視覚障害についても知らないことが多い。当事者にもっと、自分のことを話してもらうことが大事。 障害者は介助される人、ヘルパーは介助する人と、離れていってしまった人たちもいる。 福祉に不満がある健常者が障害者を利用している場合もある。利用されるのではなく、当事者主権でやっていくこと。これからは、当事者運動がもっと必要になっていくだろう。
 それから、世界的なことでは障害者権利条約の制定、国内的には障害者差別禁止法の制定を目指していく。9)

2項 内山みどりさんへのインタビュー

Q:障害者解放運動に出会うまでの経緯は?

内田:1939年富山県に生まれた。私の障害を両親が知ったのは、1941年の春。いつまでたっても首が座らないことに不安を感じた両親は、金沢の医大に行った。そこで小児脳性まひと診断された。小さなころから妹といつも一緒で、妹は本当に大変だったと思う。常に譲る者と譲られる者、そういう関係がとても重いということを私と妹は年を追うごとに感じて言った。小学校のころは、みんなと一緒に遊んでいた。いじめられることもあったが、誰かがかばってくれてそれなりに仲間に入れてくれた。それでも、入れてもらえず泣いていたときは、母がやさしく受け止めリードしてくれたおかげで学校には行っていた。中学のとき、父の仕事の関係で横浜に移り住んだ。しかし、父が癌に侵され急死。生活が一変し、母は朝早くから仕事に出かけ、4人の子供を1人で育てなければならなかった。私はそのころからいじめにあっても母に頼ることはできなくなり、登校拒否になってしまった。いじめは、私だけならまだしもいつも一緒にいる妹もやられてしまう。妹は強かったため、私をかばって闘ってくれるのが辛かった。自分だけならまだしも親や兄弟まで巻き込まれてしまうのが一番嫌だった。
 私の時代の子ども達は、みんな「金の卵」なんて言われて、中学をでるとすぐ就職できるような時代だった。自分も働かなきゃいけないって真剣に考えたが、「障害者=福祉」という時代ではなかったので、東京にできたばかりの国立身体障害者更正指導所というところに入った。1年半その施設にいたが、何もできずに家に帰った。しかし、そこの施設で、身体に障害を持っている人は自分だけじゃないと知った。また、自分の障害についても知ることができた。たくさん友人もでき、今でもその人たちとは友人関係が続いている。この施設に私の青春時代があったのだろう。
 家に帰って、もうそこに自分の居場所はなかった。障害者を一度はずした家族が改めて障害者を受け入れ、一緒に暮らしていくことは難しく、私は、横浜にある授産施設の寮に入り、5年過ごした。

Q:障害者解放運動とはどんなきっかけで出会ったのか?

内田:17歳から24歳で結婚するまで、ほとんど施設の中で暮らしていた私が、結婚をきっかけに地域生活を始めたわけで、その混乱は大変なものだった。私は、言語障害をもっているだけでなく、人見知りも激しかったから近所の人ともまともに話せなかった。でも子供が生まれたらそうは言ってられず、子供の成長を追いかけるように近所づきあいにも慣れていった。また、いろんな形で子供が私と地域の橋渡しをしてくれた。
 今住んでいるところに越してきて半年ぐらいたったときに、仕事の話が舞い込んできた。掃除の仕事だったのだが、31歳から8年間働いた。老人の多い仕事だったから働けたのかもしれない。働きながら差別や偏見、人間関係の難しさなど多くのことを学んだ。
 そんな時、1枚のビラを受け取った。それが「青い芝の会」との出会いだった。当時、茨城の山奥に集団で暮らしている障害者がいて、その人たちと「青い芝の会」とのイメージがつながっていたため、はじめは「なんで障害者が山奥で暮らさないといけないんだ。」とあんまりいいイメージではなかった。しかし、もらったビラに「地域の中で・・」みたいなことが書かれていた。そのビラを持って「青い芝の会」方に会いに行ったのが入るきっかけとなった。

Q:障害者解放運動を始めて変わったことや、これから挑戦したいこと、また今後どう発展してほしいか?

内田:「青い芝の会」では、会合、集会への参加やカンパなど多くのことに参加した。
 私自身も変わった。それまではおとなしく、口数の少ないやさしい人みたいな印象だったが、なんだか性格をがらりと変わってしまった。子育てに対しても変わり、やさしいだけではだめなんだと知った。当時子供には「お母さん、急に厳しくなって恐ろしい親になった。」と言われた。
 国際障害者年を境に障害者を取り巻く環境が変わったといわれるが、本当かなって思う。
ここのところ、養護学校を卒業してきた人がだんだん多くなってきたが、やっぱり社会性に乏しい。私たち障害者が社会性というものをマスターするには普通の子どもたちの何十倍もの経験が必要だが、それが今閉ざされてしまっている。最近では施設の職員たちのほうが、こんなにのんびりしていていいのだろうかとピアカウンセリングを呼んでいる。
障害者自身が不安を感じているのではなく、健全者がいろいろ不安を感じなんとかしなければと思っている。自分の立場では障害者様に強く言ったらまずいからピアカウンセリングを呼ぶという現状。とても悲しい世の中になってしまった。
 養護学校や作業し、行く所、行く所、健常者の考えで動かされている今、やはり障害者が運営する自立生活支援センターは必要だと思う。健全者に勧められてピアカウンセリング、健全者に勧められてグループホームではなく、障害者自身がしっかりと自分たちはこんな風に生きていきたいんだという意識をもって生きてほしい。10)

第4節 今後の課題

 日本の自立生活センターは、当事者運動であり、かつ事業体としてさまざまな成果を達成してきた。当事者運動は今、第2期を迎えている。そのうえで、自立生活運動が成功したゆえに新しく直面している問題も浮き上がっている。
 まず、自立生活運動の達成してきたものとして以下ことがあげられる。

(1) サービスニーズを顕在化させて行政のサービスを改善した
(2) 街のアクセスを格段に良くした
(3) 介助サービスがニーズ中心にできるというモデルを示した
(4) 自立生活センターの事業を国の制度にした
(5) 介護保険や支援費制度の基本的理念をつくった
(6) ホームヘルパー制度で24時間介護派遣を可能にした
(7) 介護保険を超えるサービスを実現してきた
(8) 障害者に誇りと自尊心を与えた
(9) 福祉サービスとしての当事者の自己選択、自己決定を可能にした
(10) 専門家と当事者の関係を変えた
(11) 当事者が政策提言能力をもつようになった
(12) ピアカウンセラーという新職種を創出し、定着させた
(13) 恩恵としての福祉を、権利としての社会サービスに変えた      ・・・11)

 上記のように自立生活センターを中心とする障害者当事者運動の達成には目覚しいものがあるが、運動体および事業体として成功したゆえに新しく登場した課題もある。そのひとつに制度化にともなう問題がある。自立生活センターの1部が、市町村障害者生活支援事業という形で制度化されたことにより、ピアカウンセラーを職員として雇う事業所が増えてきた。ニーズに見合うだけのピアカウンセラーの数が足りないだけでなく、養成研修システムがないのか、自立生活センターにピアカウンセラーを紹介してほしいとの要望が殺到している。自立生活センターはこの要望に対して、「市町村障害者生活支援事業全国連絡協議会」を設立し、毎年2ヵ所で研修会を開催するようにした。ピアカウンセリングや自立生活プログラムなどの事業に関する質問や研修に応じるだけでなく、ピアカウンセリング講座開催を支援するため、依頼に応じて講師を派遣するシステムを作り上げた。
 このことによってピアカウンセラーの数は増えたもののその質の低下が危ぶまれた。しかし、全国連絡協議会を作っていたため、自立生活センターと同じピアカウンセリング講座を、各地の支援センターが開催することができるようになってきた。
 次に、介助者の問題だが、全国に2万名の介助者を養成し、150市町村において国のホームヘルパー制度の中で、長時間介助が必要な全身性障害者を対象とした「自薦登録ヘルパー」制度を全国に広めることができた。しかし、この展開が急速だったために職員に過剰な労働を強いる結果となった。また、会計規模が1桁2桁上がることによって起こる事業所運営の質的な変化に対応しきれない事業所がでた。その対応と支援費制度発足に向けての新規事業立ち上げのため、全国自立生活センター協議会は自薦ヘルパー(パーソナルアシスタント制度)推進協会を立ち上げ、会計処理や職員研修、運営体制などの見直しを支援したり、100名あまりのリーダーを都内で研修するなど精力的に行った。その結果18県存在しなかった自立生活センターを100%全国に配備できた。さらに、1県に複数の自立生活センターを配置する道も開いた。しかし、各地のセンターの経営や運営のノウハウ、職員の質の確保、研修システムの構築などについては今後の課題となっている。
 また、当事者運動の制度化の成功の影で、行政からの揺りもどしという問題が生じた。
 全国342ヵ所の市町村障害者生活支援事業の受託団体のうち、180団体が全国連絡協議会に属するなどあまりに当事者よりの団体となった印象を与えたこと、障害者ケアマネジメント事業の主なる実施場所を、国の障害者ケアマネージャー養成講座テキストのなかでは市町村障害者生活支援事業と指定されたことが原因で、2003年度予算原案で重点項目となっていた市町村障害者生活支援事業と障害者ケアマネージャー配置費用が12月の予算決定段階で重点項目から外され、一般財源化(地方交付税化)されるといったような事態が起こった。そこで全国連絡協議会は、一般財源化反対の署名運動を行い、補助事業に戻すことを訴えた。さらに制度として43%しか普及していないものを一般財政かする不合理をついた。政府はその後、地域生活支援ステップアップ事業と地域生活移行モデル事業という同じ予算規模の制度を開始することで失地回復をはかろうとしている。
 制度の改革は、一進一退で進んでいる。急速な改革には一時的な揺りもどしもともなう。当事者団体には、経過を監視しながら、いち早く情報収集して対策を立て、行政と交渉する能力が求められているのである。12)
 このように日本は、制度的なものに対しての課題は積極的に挙げられているがはたしてその他の課題はないのだろうか。私は、いくつかの自立生活センターに出向き、センターの方に話を聞いてきた。また、第1章でも述べたようにアメリカのカリフォルニア州の自立生活運動を目の当たりにしてきた。そこで感じ取ったものは、日本の自立生活運動は、その内容を当事者だけに発信し、地域などの周囲に発信していないことから、障害者の問題は、障害者だけの問題であり、障害のない自分たちには関係ないという印象を与えている。そのことにより国会前での運動なども、国会だけに訴えているように思われ、さらに過激な運動組織というレッテルが張られてしまう。当事者たちは、自分たちの不便さや差別の現状などを国会に訴えるだけでいいのか。いくら法律が改善されたとしても、法律だけでは対応しきれない差別の問題や偏見の目は直らないのである。今後ますます当事者が地域に出て自立生活をしていくケースは増えていくと思われる。自立生活センターが存在する意味、障害者が地域の中で生活する意味を地域住民に訴えかけ、住民に理解してもらわなければ、地域の中で自立生活しているという意味にはならないのではないか。
 また、日本は「障害者の人権」に対して最重要視していないのではないかというものだった。どの文献やホームページにも人権に対してのコメントが記載されているが、現状は、制度化やサービスの向上と比べ人権保障やアドボカシーに対し、力が入れられていない。日本はアメリカと比べ、人権重視の社会ではないため、アメリカの自立生活運動の展開を真似していくことはできない。今後、日本らしい自立生活運動にするためにも啓発活動や人権保障を重要視し、国民の障害者の自立生活運動に対する理解を促していかなければならない。

注:1)全国社会福祉協議会(2001)「自立生活運動と障害文化―当事者からの福祉論」
現代書館、13-14頁
  2)全社協・前掲書、14頁
  3)全社協・前掲書、16-17頁
  4)全社協・前掲書、35-36頁
  5)全社協・前掲書、39-40頁
  6)全社協・前掲書、17頁
  7)全国自立生活センター協議会ホームページ:JIL加盟要件http://www.j-il.jp/ 
    平成17年4月15日アクセス
  8)全社協・前掲書、20頁
  9)くれよんBOXホームページ:AJU自立の家 山田昭義さんに聞きました!(2003)
    http://www.crayon-box.jp/index.htm 平成17年11月8日アクセス
  10)全社協・前掲書、280-288頁
  11)中西正司・上野千鶴子(2005)「当事者主権」岩波新書、44-56頁
  12)中西・上野・前掲書、56-60頁 


3章 タイにおける自立生活運動                        

第1節 自立生活運動の経緯

 途上国の障害者にとっても、自己決定と自己管理と基本概念とする自立生活運動は魅力的なものであり、必要なものである。しかし資源が限られる途上国は、介助サービスや悪説の良い環境などは遠い未来のことと考えられていた。
 自立生活運動に関わるアメリカの障害者は、1980年代からほかの国々に自立生活運動を広めようとした。現在は、日本がアジアでの伝藩を幅広く行っている。途上国で自立生活運動を広めるためには、理論的理解を進めるための啓発活動、権利擁護活動、自助団体への重度障害者の参加、自立生活運動でのローモデルの提示のいずれかの方法がとられている。
 タイにおける当事者運動は、視覚障害者による運動をきっかけに、1980年から行われ始めた。障害の種別を問わない当事者同士のつながりとなるDPIが作られてからは、当事者運動の強力なリーダーが生まれてきた。
 タイでは宝くじ売りが、かわいそうな障害者から買ってやろうとする顧客の慈善をあてにした行為ではあるものの、障害者に家族を扶養できるほどに儲かる職業となっていた。一方で、その利益のために利権争いから障害者運動が分断される弊害もあった。1)この状況を改善するには自立生活運動しかないと考えた、現DPIアジア太平洋開発事務所・所長のトッポン・クンカンチットは、各県の障害者協会のうち権利意識が明確なノンタブリ、チョンブリ、ナコンパトムの3県の団体を通して自立生活運動を進めようとした。これらの3団体は、民主的に運営されている自助団体であり、住宅の重度障害者の家庭訪問も実施していた。しかし、重度障害者に対してそれ以上のアプローチを見出せず、団体の活動に行き詰まりを感じていた3団体のリーダーは、自立生活運動の推進に賛成した。
 この自立生活運動の推進に関わったのが、国際協力機構(JICA)とヒューマンケア協会、アジア・ディスアビリティ・インスティエートなど日本の自立生活運動に携わっている当事者団体である。この推進活動は、2001年よりJICAの開発支援プロジェクトとして展開されている。タイでは、政府だけでなく、レデンプトリスト職業訓練校、DIPアジア太平洋開発事務所(DPIAP)、アジア太平洋障害者センター(APCD)もこのプロジェクトに携わっている。
 このプログラムの目的として、以下のことがあげられている。

(1) 自立生活運動の概念とスキルを得る
(2) ピアカウンセリングや自立生活センターの運営のみならず、社会全体の意識や障害者が国民とともに独立して生活するという実情を理解してもらうよう活動する
(3) 社会の中にいる障害者をタイ国民の一員としての権利を与える    ・・・2)

 このプログラムは、3年間の内容で、1年目に「自立生活の概念について」、2年目に「ピアカウンセリングについて」、3年目に「自立生活センターの運営について」を毎年1週間程度の講習会を行った。また、それぞれの年度には、「開発ならびに情報の普及→理解の促進→技術の移転」という段階形式をとっている。各年のトレーニングにより得られる結果は以下のとおりである。

2001年
・ 自立生活の概念について、タイにおける開発と情報の普及
・ 障害分野に関係のあるタイ人を対象にした自立生活の理解の促進
・ 対象とする3つの郡の障害者リーダーへの自立生活の概念の移転

2002年
・ ピアカウンセリングについて、タイにおける開発と情報の普及
・ 障害分野に関係のあるタイ人を対象にしたピアカウンセリング理解の促進
・ 対象とする3つの郡における障害者リーダーへのピアカウンセリングの知識、ならびに技術の移転

2003年
・ 自立生活センター運営について、タイにおける開発と情報の普及
・ 障害分野に関係のある人を対象にした自立生活センター運営についての理解の促進
・ 対象とする3つの郡における障害者リーダーへの自立生活センター運営についての知識、ならびに技術の移転            ・・・3)

毎回、各団体から10名程度参加し、日本から来た講師のレクチャーを受ける。そして、プログラム終了後は各団体へ持ち帰り、展開していく。1年目の研修後は重度の仲間を訪問し、介助者を集め育てることから始めた。2年目の研修後はピアカウンセリングを中心に自分の障害を正面から捉え、3年目の研修後には自立生活センターの設立という段階を踏んで、タイの社会に適応させていく。そのため、研修の際に前年の活動のフィードバックを行った。
資金面に関しては、このプログラムを行う際、1千万円ほどの予算が組まれている。

第2節 タイの自立生活センター

 タイの自立生活センターはノンタブリ県、チョンブリ県、ナコンパトム県の3ヵ所にある。8月下旬から9月上旬にかけ、私はその3ヵ所の自立生活センターを訪れた。3ヵ所の自立生活センターに関する資料はほとんどない。そのため、以下の文章は、実際に当事者とセンター関係者に聞き取り調査をした内容である。

__ ノンタブリ自立生活センター

 ノンタブリ県はバンコク郊外にあり、宅地化が進み工場も増えている。ノンタブリ自立生活センターの主な活動内容として、ピア・カウンセリング、介助者派遣、情報提供、アドボカシー、自立生活トレーニングがある。メンバーは全部で30〜40名おり、ほとんどが重度の肢体不自由者である。メンバーの中で一人暮らしをしているのは女性1名で、その女性も結婚し夫と暮らし始めたため今現在一人暮らしをしている人はいない。一人暮らしをしたり、自立生活をするには介助者が必要だが、お金がないため介助者を雇うことができない。介助者派遣のシステムが完全に確立していなく、政府の補助もないため介助者の確保が一番の課題となっている。
ノンタブリ自立生活センターの将来の展望として、まず今の自立生活センターの場所は、ほかの障害者団体の事務所の一画を間借りしているため、独立した場所を確保すること。2点目に、介助者を雇う費用を国が補助してもらえるよう交渉しているので本人が全額を負担するという状況を改善したいこと。3点目として、センターの場所を確保できた際、自立生活の実習室を作りたい。最後に、国中の障害者のQOLを高め、自立生活センターをもっと他県にPRし、自立生活センターが増えるよう努力していきたいということを述べていた。

2項 チョンブリ自立生活センター

 チョンブリ県はタイ東部にあり、シャム湾に面している。障害者は5万人と言われているが、登録者はその12分の1程度である。親が登録したら援助をもらえることを知らなかったり、職業を持っている人には援助がない、援助は小額である、登録すると障害に関する部分を担当する病院を指定され面倒であるなどの理由で登録が進んでいない。
 私がチョンブリ自立生活センターに訪問した日は、ちょうど介助者養成講座が実施されていた。参加者は比較的学生が多く、ほとんどが女性だった。この講習は2日間にわたり行われ、初日は自助具や福祉機器をスライド利用して説明したり、実際の介助方法のレクチャーなどを行った。2日目は、DPIAPの福田暁子さんの講演とデパートへ当事者たちと一緒に出かけるという実践的なものが行われた。福田暁子さんの講演では、自己決定についてと福田さんが体験した介助者の困った態度などを紹介した。
 チョンブリ自立生活センターは、開発支援プロジェクトのオーナーシップをしているレデンプトリスト職業訓練校の施設内にある。施設内は、生徒が通う職業訓練所を生徒でない人が通う職業訓練所が存在した。そこは就職を希望している人のための場所だが、個人個人のスキルチェックやバックアップなどを実施している。短期トレーニングは3ヶ月で、定員は20名。スタッフ2名で運営している。また、施設内には職業斡旋所もあり、すでに3000人以上が利用している。主な職業としては組立工場関係・コンピューター関係・機械関係だが、縫製など希望があればそれに応じている。
 チョンブリ自立生活センターの事業の中で、特徴的なのは、FM放送である。夜の6時から12時まで途中ニュースを挟みながら実施している。

3項 ナコンパトム自立生活センター

 ナコンパトム県はバンコクの隣にあり、7つの郡から成り立っている。5000人が障害者登録をしている。ティラワットさんが8年前に設立した県の全障害者を対象としたナコンパトム障害者クラブがその前身である。このナコンパトム自立生活センターは、特殊学校の一部を借りていたが、7月に引越しをし、独立してセンターを運営している。残りの2つの施設は、まだほかの団体に依存しているのに対し、このナコンパトム自立生活センターは自分たちの足だけで立っている。ナコンパトム自立生活センターを運営する前は、運動の展開、関係機関との連携、障害者への支援、障害者への自助と社会貢献に関する教育を目的とし障害者家庭訪問や障害者登録の推進、障害者の学校外教育、選挙権の運動など活動していた。今現在メンバーは45名で、実際自立生活をしているのは5名。全員家族と住んでおり、ピアカウンセラーとして県内の各郡を回っている。
 センターはまだ引越しをして2ヶ月しかたっていないということからが会議などしか行われていない。今後の展望としては、多くの情報を障害者に伝えたい(そのためセンターにパソコンを8台設置し、メンバーが情報をアクセスしやすいようにしている。)2点目として、ピアカウンセリングに力を入れること。3点目として自立生活に関するセミナー教育を徹底し、社会や地域の中の活動にもっと参加できるようにすること。最後に介助者のシステムの強化を述べていた。特に介助者の問題は、ナコンパトム自立生活センターにとっても深刻で、自立生活プログラムを勉強しても金銭的な面からもとの生活に戻ってしまう人がいるという。障害者年金は、ほとんどの人がもらえないという現状である。
 自立生活センターとしては、実現可能なところから始め展開していくという。また、介助者を雇うために基金を募っている。また、障害者が書いた絵やカードをナコンパトム県内外の店や学校で売り資金を集めている。

第3節 当事者の声

 タイの当事者の声として、私が実際に出会った当事者の中から特に印象の載った3名を紹介していく。

1項 トンさんへのインタビュー

 トンさん(男性)は、ノンタブリ自立生活センターのマネージャーをしている。自宅で両親と一緒に住んでいるが、介助に関しては両親が行っているのではなく介助者を雇っている。介助者は1ヶ月単位で契約を交わしており、住み込みで給料は1ヶ月5000バーツである。24時間の介護が必要なことから住み込みのほかにも通いの介助者も雇っている。シーサンワン養護学校を卒業後、大学(オープンカレッジ)に進み、その後はタイの障害者協会や脳性まひ障害者の団体で仕事をしていた。自立生活を始めたのは4年前で、ノンタブリの自立生活運動の先駆者の一人である。
Q:自立生活運動は、トンさんの人生をどう変えたか、また、困ったことや問題にぶつかったことはあるか?

トン:昔に比べ、自分の中に自信が生まれた。また、多くの知識も得ることができた。問題はたくさんある。特に介助者に関しては自分を含め、自立生活をする上で1番大きな問題である。私の場合、体は大きいし24時間介護ということもありなかなか介助者が見つからない。一応センターで介助者リストを作っているがそれでは見つからなく、今は知り合いのつてで探している。介助者は今までに3〜4回変わっており、今の介助者も近いうちに変わるだろう。専属の介助者がほしい。

Q:1人で暮らそうとは思わないのか、また家族は自立生活運動に対して理解しているか?

トン:理解はまぁまぁしてくれているとは思っているが、1人暮らしとなると反対するだろう。自分ではやってみたいとは思うが、自分がいなくなると母親が寂しがる。

Q:トンさんの今後の夢ややりたいことは?

トン:自分のビジネスを始めたい。今探している最中だが、本屋さんとかやってみたい。

トンさんのような重度の障害者でこんなに活動的なタイ人はいない。重度障害者の場合はほとんどの親が面倒見切れず、捨てたり家に閉じ込めておくという。家族の行事があっても参加させてもらえず、もちろん社会参加など問題外であるという。

2項 ピジットさんへのインタビュー

 ピジットさん(男性)はチョンブリ周辺の村に住んでいた。彼の場合は、自ら自立生活運動に参加したのではなく、チョンブリ自立生活センターが彼を保護し、自立生活運動に携わるようになった。ピジットさんは保護されるまでどのような生活を送っていたかというと、ピジットさんはいつ障害を持ったかは不明だが、年老いた母親と2人で住んでいた。母親も障害を患っており、8年間ピジットさんはベッド上に放置されていた。排泄の処理もできず、着るものも着せてもらえず、裸の上に毛布を掛けられ過ごしていた。褥瘡がひどく彼の身体にはハエがたかり、足をねずみが食べるなどしていて感染症になっていた。そのような話を自立生活センターが聞き訪問し、褥瘡のケアのため入院させた。ピジットさんにはお金がなく、入院後の生活もままならないことから、日本の現全国自立生活センター協議会代表の中西正司氏らが半年分の生活費(介助費等)を寄付し、チョンブリの自立生活センターに住んでいる。

Q:ベッド上から開放された今の状況は?

ピジット:人生の中でこんな幸せに出会ったことはない。今回が新しい人生の始まりだと思っている。

Q:これからの夢は?

ピジット:家を探し、自立生活センターを出て生活したい。息子が1人いるので面倒を見てほしいが、今大学に通っており卒業後就職をすることから難しいだろう。

3項 オーさんへのインタビュー

 オーさん(男性・本名:サンティー)は、1997年にオートバイ事故で下半身が不自由になった。不自由になったとき、どうして他人の負担になってまで生きなければならないのかと思った。しかし、彼には夢があった。それは闘鶏を育てたいということだった。
 オーさんは、闘鶏を育てるため養鶏場をはじめることにした。福祉局に20000バーツの融資を申請したが、困窮障害者として障害者年金(薬や物を買うために月500バーツ貰える)を貰っている人には融資はできないという問題が生じた。オーさんは、夢を選び、月500バーツの年金をあきらめた。そして20000バーツの融資を受け、養鶏場をはじめたのである。鳥小屋をどこに建てるか、どうやってエサを調達するか、どのように養鶏場を運営するか、どう交配させるかなどすべて自分で計画し、行わなければならないため、とてもストレスが溜まる仕事だった。お金がないときは鳥を売って少しでも自分で稼ぐようにした。それいつか親はいなくなったとき薬代などを払ったりするための収入源を自分は確保できるからである。オーさんは誰かの厄介にはなりたくない、お金持ちじゃなくても少しでも自分で何かできるほうが幸せだという。
 オーさんは今、ナコンパトム自立生活センターのピアカウンセリングとして活動もしている。

Q:ピアカウンセラーをしてみての感想は?

オー:自分の話でほかの障害者が前向きになるととてもうれしい。他者の助けになったということに満足感がある。家にいたほうが幸せと思われるかもしれないが、自分にとって家にいたほうが悩むことが多い。私は外に出る苦労を選ぶ。今度ナコンパトム県内10ヵ所を巡り、自立生活運動を知らない人に教えていく仕事がある。

Q:1人暮らししようと思ったことはあるのか?また家族は自立生活に対して理解しているか?

オー:自立生活運動に対し完全には理解していないだろう。闘鶏を育てたり、生活をしていく上で家族とぶつかることが多いため今後1人暮らしをしたいと考えている。

第4節 今後の課題

 タイの自立生活運動は本格的に展開してから2年、プロジェクトが始まってから5年しかたっていないため、今後の課題が多く残されている。私自身、今回の聞き取り調査や施設、市街の視察、文献などからいくつかの課題を見出した。その課題は以下のとおりである。

(1) 日本の支援の下で自立生活運動が始まったことから、寄付などの資金面に対し、依存している点がある。
(2) タイは、ピアカウンセリングに対しては受け入れられているが、根本的に日本は社会保障と環境が整えられていることが前提となったサービス展開のため、タイでは手を加えなければならない「タイモデル」の確立が必要である。
(3) 介助者も問題は、タイの自立生活運動に対し重要な課題である。家族の協力がある人は家族と一緒に住み、協力のない人は我慢して家族と一緒か、友人や同じ地域の人と一緒に住んでおり、1人で暮らすということはない。それは、介助者を雇いたくてもお金がなくて雇えないという現状があるからである。これは国の社会保障の問題であり、この保障に関する問題の解決には時間がかかる。そのため、今は地方行政に働きかけ、介助者を当ててもらうよう保障してもらっている。
(4) タイでは自立生活センターがまだ3ヵ所しかないため、サービスなどは情報を得ることのできるわずかな障害者に向けられ、都市・農村の貧困地域で本当に必要とされるニーズはまだまだ表現されてない。また、その環境から当事者側に自分の権利として主張していく考えが少ないため現段階では当事者の声は全体から比べればあまりにも小さい。私自身、真の当事者の声を聞けたのはナコンパトムの自立生活センターだけだったと感じている。ノンタブリやチョンブリの自立生活センターはほかの施設に寄りかかっている状態で、ひとり立ちしていない。今後両センターがひとり立ちするかどうかは不明だが、都市や農村など関係なく、当事者たちの声が各地から聞こえるように3つのセンターは自立生活運動を他方に広めていく必要がある。
(5) タイではまだ、自立生活の概念が一般に十分に広がっていないため、専門家への理解を深めなければ協力を得ることが難しい。自立生活運動は、当事者自身がサービスの主体者となる発想でそこにはこれまで活動をしてきた専門的な技術や知識は必要ないというものではない。専門家たちが障害者自身の主体性を理解したうえで、時に必要となる医療や制度、政策への切り込みをニーズに即した形で展開していくことが大切である。
(6) 上記にも書いたとおり、自立生活運動の拠点となるセンターが少ないため、地域にクラス障害者の家を実際に訪問しなければならない。その際に訪問する側の立場が「強い活動家」であったり、無理に押し付けにならないようピアカウンセリングを使い、お互いに対等を保つよう心がけなければならない。多くの障害者は家の外に出た経験がなく、不安と恐れを持っている。そのため、強い拒絶を受ける場合もある。そこであきらめるのではなく、家族や社会に対して抱く壁を壊していくことからはじめる姿勢をもつ必要がある。実際にノンタブリの自立生活センターで、4回家庭訪問をし、4回目でようやく心を開いた当事者の実体験を聞いた。長期間人と触れ合うことをしないと、人間不信に陥り、みんな自分を騙すのではないかと疑ってしまうという。障害者を家の外から出すには、当事者達の根気と信念が必要である。
(7) タイは障害者に対し強い偏見を持っている。親でさえも障害を持つ子供を捨てたり家の中に閉じ込めたりしている。社会参加も家族参加さえもできない状況の障害者は多い。また、一般は障害者を同情という形で見ている。タイでは、障害を商売にしている人が多い。宝くじ売りだけでなく、ナイトバザールでも多くの障害者が座り込んでいたり町中を徘徊し、同情でお金を集めようとしている。中には障害のフリをして稼いでいる人もおり、ひとつの商売として成り立っている。そのような商売がなぜあるのか。それは国民が障害者を同等としてみていないからだ。今では、職業訓練所なども増えており、一般企業などに就職する障害者も増えてきている。しかし同情を売り物にした商売がなくなることはないだろう。国民の意識改革と、より発展した社会参加支援の展開をしていかなければならない。これも制度と同じく時間のかかることである。

注)1)中西由起子(2003)「発展途上国の自立生活運動」『アジ研ワールドトレンド』
96号、25-28頁
  2)Asia-Pacific Development Center on Disabilityホームページ:APCD Training Courses 2003 −Independent Living 2003− http://www.apcdproject.org/
    平成17年9月5日アクセス
  3)前掲ホームページ(APCD):平成17年9月5日アクセス


4章 日本とタイの国際比較                          

 第1章から第3章までで述べたように、自立生活運動の展開は、国によって様々である。この展開の違いは、歴史的背景、福祉的財源とシステム、家族制の違い、権利や自立に対する考え方の、農村と都市での違いなどが要素にあげられる。本章ではこれらの要素の中から、日本とタイの福祉的財源とシステムについて、家族制について、権利や自立に対する考え方を比較していく。

第1節 福祉的財源とシステム

1項 日本の場合

 日本の障害者政策は、医療保障・教育保障・雇用保障・所得保障・社会福祉などのさまざまな分野に分かれている。障害者基本法(1970)をはじめとし、教育に関する教育基本法・学校教育法(1947)や雇用に関する障害者雇用促進法(1987)、生活保護法(1950)、障害者年金制度などの多種の障害者政策があり、さらに障害者が住みやすい環境にするための改正が幾度となくされている。それらの政策によって展開されている福祉サービスは非常に多い。在宅福祉サービスや地方自治体が独自に行っている支援事業を加えると100以上になり、さらに年金や雇用などのサービスも加えるとその倍以上となる。このサービスは、現段階で留まることはなく、年々増えている。今日、障害者が自立生活をするうえでの重要な制度は「支援費制度」である。支援費制度は今、介護保険法との統合が問題にあがっているが、根本的に支援費制度とはどういうものなのかをまとめてみる。

(1) 支援費制度とは
 2000年に「社会福祉の増進のための社会福祉事業法等の一部を改正する等の法律」が成立し、社会福祉事業や措置制度等の社会福祉の共通基盤制度について、今後増大・多様化が見込まれる国民の福祉ニーズに対応するための見直しが行われた。1)これにより、「措置制度」から「利用制度」へと移行され、新たな利用の仕組みとして「支援費制度」が2003年から始まった。支援費制度は、障害者の自己決定を尊重し、利用者本位のサービスの提供を基本として、事業者との対等な関係に基づき、障害者自らがサービスを選択し、契約によりサービスを利用することより、事業者は、行政からの受託者としてサービスを提供していたものから、サービス提供の主体として、利用者の選択に十分応えることができるようサービスの質の向上を図ることが求められることとなった。また、身体障害者手帳・療育手帳を所持している障害児・者を対象とする。

(2) 支援費制度の流れとサービスの仕組み
 支援費制度を利用する場合、まず、必要に応じて適切なサービス選択のための相談支援を受け、区市町村に支援費の支給申請を行う。申請を受けた区市町村が支給決定を行う。この際、支援の種類や支給期間、利用者負担額、支給量(居宅生活支援のみ)、障害程度区分(施設訓練等支援のみ)が定められる。これらは支給決定時に交付される受給者証に記載される。決定後、利用者は、指定事業者・施設の中から選択して、サービスの利用に関して契約を結び、指定事業者・施設は、契約に基づき、利用者にサービスを提供する。サービスを利用した時は、利用者本人および扶養義務者は、指定事業者・施設に対して、サービスの利用に要する費用のうち、利用者負担額分を支払う。定事業者・施設は、サービスの提供に要した費用の全体額から利用者負担額を控除した額を支援費として、市町村に請求し、市町村は、請求を審査の上、指定事業者・施設に対し、支援費を支給する。支援費を指定事業者・施設が代理受領する方式となっている。(図4)


(図4)支援費制度のサービスの流れ 2)


(3) 支援費制度の対象サービス
    支援費制度の対象となるサービスは、大きく、施設訓練等支援と居宅生活支援との2つに分けられる。施設訓練等支援とは、身体障害者更生施設・身体障害者療護施設・知的障害者厚生施設・知的障害者授産施設・知的障害者通勤寮・心身障害者協会が設置する福祉施設などである。また、居宅生活支援とは、身体障害者居宅介護事業(ホームヘルプサービス)・身体障害者デイサービス事業・身体障害者短期入所事業(ショートステイ)・知的障害者居宅介護事業・知的障害者デイサービス事業・知的障害者短期入所事業・知的障害者地域生活援助事業(グループホーム)・児童居宅介護事業・児童デイサービス事業・児童短期入所事業などである。

(4) 支援費制度の問題点
 支援費制度が始まって2年がたった今、下記のようないくつかの問題点が生じている。

・ 利用の促進による地域格差
 支援費制度が始まってから、障害者を対象に福祉サービスを提供する事業者は在宅福祉分野を中心に急増した。今まで在宅での生活が難しかった障害者でもホームヘルプサービスの活用などにより、自立生活を営む道が開けたことは大きな成果である。今後は、既存の施設の活用による在宅サービスの提供や、より身近な地域でのサービス利用などの広がりが期待されるが、一方で地域によって福祉サービスを提供する事業所数の偏りが見られる。事業所の多くは都市部に偏在しており、そのことによる町村部との地域格差が懸念されている。事業所の採算性を考えると利用人口の多い地域への立地が優位にならざるを得ないのが現状である。
 支援費制度でのサービス利用は本人からの申請を受けた市町村が調査を実施した上で支給量を決定する。支給量には上限は設けていないものの、決定は市町村の裁量に委ねられるため、利用したいサービスが全て認められるとは限らない。また、障害の程度だけでなく地域の財政状況や用意できるサービスの種類や量によって市町村間の格差は現実として存在している。

・ 財源不足
 支援費制度の費用は利用者自己負担分を除いた額が公費でまかなわれている。その公費負担分の財源不足が1年目から生じた。これは国の当初の試算をはるかに超えて利用者が増加したためで、これから新たな利用者が増え続けることを考えれば、財源面の問題は深刻である。 
 現在、施行さから5年目を迎える介護保険制度の見直しと併せて、国では支援費制度と介護保険制度との統合へむけた検討が進められている。介護保険は、その人の所得に関係なく、利用した分だけ確実に払ってもらう「応益負担」という費用負担方法である。一方で、支援費制度は、その人の所得(支払い能力)に応じて支払うという「応能負担」という費用負担方法である。つまり、支払能力がなければ、100万円のサービスを利用しても負担額は0円なのである。現在、支援費制度を利用する95%の障害者は利用料負担がない。単純に介護保険と支援費制度が統合されると、障害者にとっては利用者負担の増大は必至となる。問題は、この金額が払えるかどうかである。いま支援費制度を利用している障害者は、18%が生活保護、77%が年金だけの人で、所得があって費用を払っている人は5%しかいない。これからわかるように、支援費制度を利用している障害者の95%が低所得者層なのである。3)月に8〜11万円程度の年金や手当だけで生活している障害者にとって、負担額が増大すれば生活していくことが難しい。しかし、払えなければサービスは受けられないし、サービスを受けたくても受けられない状況が予想される。このことにより、サービスの利用低下が懸念される。

・ ケアマネジメント
 介護保険制度では介護支援専門員と呼ばれる職員が介護計画(ケアプラン)を作成し、利用者に必要なサービスを提案してくれる。しかし支援費制度では同様の職種は設置されていない。国としては今後、支援費制度にもケアマネージャーの設置を考えている。障害者にも制度のことがよくわからなかったり、自分では上手くできない人にはケアマネジメントはあった方がよい。しかし、支援費制度を十分理解し、自分自身でマネジメントができる障害者にとってケアマネジメントは必要ない。ケアマネジメント制度が義務化になってしまったら、いままで言ってきた「自己選択・自己決定」などできなくなってしまうおそれがあると当事者達は意見を述べている。4)
 本来、利用者のニーズに対し、必要であると判断されるものは上限無く提供されるのが、真のサービス提供である。しかし、日本の介護保険のケアマネージャーはいかにサービスを少なくするかが求められ、支援費制度はケアマネージャーが設置されていないことから上限なく、本来必要ないサービスまで無駄に提供してしまっている場合がある。
 本来のサービス提供を行うためには、支援費制度にもケアマネジメントを取り入れ、利用者のニーズを的確に把握し、障害や環境の状況にあったサービスをトータル的にマネジメントするべきである。そのためには自立生活をする場である地域のネットワークとの連携も必要であり、専門性を持った人材が必要である。

 日本の障害者政策は、上記で述べたとおり、支援費制度だけでなくいくつもの制度や福祉サービスなどの福祉財源が存在している。今現在、政府では障害者の地域生活と就労を進め、自立を支援する目的の自立生活支援法というものが制定された。この法案は、サービスの一元化や財源の安定化、サービス決定のルールを安定化させることが目的である。一方で利用抑制と給付制限をもたらすことで国の財政負担を減らし、行き着く先は、介護保険制度に統合し保険方式にするというもくろみもあると言われている。障害者にとって良い点と悪い点が両方備わっているこの支援法に対し、当事者団体は、署名活動や座り込み、集会などの反対運動を推し進めていた。障害者が住みやすい環境を作り出すには、まだ時間がかかりそうである。

2項 タイの場合

 タイは、障害者政策が数えるほどにしか存在しない。サービスとしても医療、教育、雇用、社会の分野でわずかしかないため、貴重な障害者政策だといえる。しかし、この数少ない障害者政策は自立生活運動にとってすべて重要であり、且つ有効であるともいえないのである。タイの障害者政策として以下のものがあげられる。

(1) 障害者リハビリテーション法(1991)
この法律により障害者は以下のサービスを受けることができる。
・ 医療、および身体的・精神的・心理的リハビリテーション
     ・ 義務教育、および高等教育の保障
     ・ 障害者教育の保障
     ・ 職業訓練と職業相談助言
     ・ 障害者がアクセスできる建物や環境の整備
     ・ 社会参加のための生活必需品の援助
     ・ 法律扶助、行政機関との折衡の援助
・ 生活扶助や社会復帰支援などの経済的援助

(2) 障害者登録制度
 リハビリテーション法で保障されたサービスを受けるためには、障害者登録を行わなければならない。障害等級は1~5段階に分けられているが、サービスを受けられるのは障害の重い3~5級の人のみが受けられる。この限られた障害者しか受けられないことと、障害判定をする医師が少ないことから、地方では障害者登録自体知られていなかったり、知っていても何の利点もないと感じている障害者が多いことから、障害者登録をしている障害者は全体の5%以下と推定されている。
登録が何の利点もないとされる要因としては、次のことが挙げられる。
  ・ 政府の病院が無料で利用できるが、公共施設へのアクセスに問題があり、病院内も混雑していて利用しにくい。
  ・ 給付金として、貧困家庭(主に自立のための学習効果やリハビリをしても回復が見込めない人が対象となっている)への生活扶助(500B/月)や開業金貸付(20000B・5年間で無利子で返済)緊急時特別給付(2000B/回・年に3回以下)が受けられるが、政府の財源不足により予算枠を超えた時点でサービス提供が打ち切りになる。5)

(3) 雇用割当制度(1994)
障害者の雇用を拡大するために、200名以上の企業に対し、200名に1名の割合で障害者を雇用することを義務付けている。6)
また、障害者を雇用する代わりに、障害者リハビリテーション基金に補償金を納付することもできる。実際に1998年現在、障害者雇用をしているのはわずか7.9%で、補償金を納付しなくても罰則がないことから、納付をしない企業が55.2%と企業の半数を上回っている。

(4) 新憲法発布(1997)
 1997年に制定された新憲法は、政党政治の腐敗防止を眼目とし、汚職防止の制度改革、国民の政治への参加、人権・環境への配慮が特色となっている。障害者に関する項目としては、第55条「障害者あるいは虚弱者は、法律の規定に基づき、国の保健サービスおよび他の援助を受ける権利を有する」、第80条「国は高齢者、貧困者、障害者あるいは虚弱者および機会に恵まれない人の生活改善及び自立のために援助しなければならない」とある。7)

(5) 新教育法(1999)
   1999年を「障害者教育年」とし、同年に施行された。すべての障害者が無償で教育を受けられる権利と個々の人の特性や環境にあった教育を受けられる権利が保障されている。また、普通校が障害者教育を行えるよう支援したり、教育機関へのアクセスが難しい障害者には在宅で教育が受けられるようになった。この新教育法により、障害者の教育機会が飛躍的に拡大されている。

 このように、タイは日本と比べ、確かに障害者政策は少ない。また、最低限の政策はあるにしろ、その政策がフルに利用されていない。それは国の財政的な問題が最重要原因として挙げられるが、当事者達の声が聞こえていないというのも原因なのではないか。私が行った聞き取り調査でも、経済的な問題だけでなく、介助者不足の問題や就労支援・雇用問題、公共交通や移動の困難さなどが浮き彫りとなっている。まず当事者がどんなことを必要としているのかを聞き取り、今ある制度で何が問題なのかを明確にし、改善を行う必要があるのではないか。

第2節 家族制の違い

 日本とタイの自立生活運動の比較の際、一番わかりやすいのが当事者の生活形態からみられるこの家族制の違いである。日本の自立生活をしている当事者たちは、施設や家庭から出ている者が多い。それに比べ、タイの当事者たちは、ほとんど家族と一緒に住んでいた。中には当事者同士で住んでいる者もいるが、基本的に一人暮らしをしている当事者は非常に少ない。それは、両国の家族構成と考え方の違いが原因であると考えられる。日本の家族構成は、核家族世帯と単独世帯が全体の多くを占めているが、タイの家族構成は、核家族と親族世帯との同居が多くを占めており、単独家族は日本の3分の1程度である。
 タイには「屋敷地共住集団」という特有の家族形態が存在している。これは、親の敷地内に子供夫婦が居住する形態のことで、特に娘の家族が親世帯と結合して生活を営む。さらにタイでは必ずしも個人中心の家族形成の規範が確立しているとは言い難く、合同家族や複雑な親族構成の家族も存在する。親族たちは、日常の生産消費活動を相互扶助し、子供のしつけにも加わったりする。また、アユタヤ王朝から妻方居住という伝統的な慣行がある。結婚するまでは親と同居し、男性は結婚し家を出、女性が生家に残る。必ずしも義務付けられているわけではないが、結果的に末娘が親の扶養者になりやすいという特徴がある。タイ人の多くが子供は親の老後の面倒を見るのは当たり前だと考えている。そのかわりに親は財産をできるだけ子供に残すべきとも考えられている。そこで印象に残っている話がある。私がチョンブリの自立生活センターへ訪問する際に同行してくれたタイ人のソーシャルワーカー(女性)は「タイでは親に孝行することが最大の徳である。将来子供が親を見、見れない場合でもお金を送るのは当たり前のこと。子供が障害を持った場合、それは社会的な罰が下ったのだと周りから言われてしまう。だから親は子供の障害を家に閉じ込めることで世間に隠したり、子供を捨てたりする。」と言っていた。この話で私は、日本とは違い、親に対する絶大的な尊敬と感謝の念がタイにはまだ残っているという感心とそれと同時に昔の日本がやっていたような障害を持ったために捨てられたり閉じ込められたりする残酷さを感じた。
 一方日本は、昔から「家」規範の存在があったため、兄弟のように近い親族であっても「家」として独立できたか否かで、当事者への社会的評価は大きく異なった。「家」の視点から見れば、たとえ兄弟でも、他家に養子に入ると別の「家」の人になるという社会を構成する。「家」を構成する家族形態は、直系家族が最も適合的な家族となった。8)
 このようにタイでは障害の有無に関わらず家族と一緒に住むのが一般的である。障害者は特に、自立生活運動が始まるまで家の外へほとんど出る機会がなかったこともあり、家族と一緒に住む以外選択肢はなかった。現在は家の外に出ることも可能だが、社会保障制度が完全でない現状では、日本のように障害者が一人で暮らすという形ではサポート体制もなく、生活するのは難しい。一人暮らしをしてみたいという当事者は何人かいたがこの現状で一人暮らしを実現するのはかなりの努力と経済力が必要である。したがってタイの当事者は、「家庭」を拠点にした自立生活運動を展開していくしかほかないのである。

 
第3節 権利に対する考え

1項 権利に対する世界規模での対応

障害者だけでなく、すべての人が社会の中で生きていく上で「権利」というものは必要不可欠である。「権利」がなければ、自分のことでさえも決めることができない社会が出来上がってしまう。そのような社会ができないよう、国際連合(国連)は人間の権利に対する宣言や原則を打ち出している。まず、代表的とされるのが、世界人権宣言(1948)である。世界人権宣言には以下のような内容が記されている。

・ 「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ尊厳と権利について平等である。」
・ 「すべての人は、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上、そのほかの意見、国民的若しくは社会的出身、財産、門地その他の地位又は、これに類するいかなる事由による差別を受けることなく、この宣言に掲げるすべての権利と自由とを享有することができる。」
・ 「すべての人は、いかなる場所においても、法の下において、人として認められる権利を有する。」
・ 「すべての人は、法の下において平等であり、また、いかなる差別もなしに法の平等な保護を受ける権利を有する。すべての人は、この宣言に違反するいかなる差別に対しても、また、そのような差別をそそのかすいかなる行為に対しても、平等な保護を受ける権利を有する。」
・ 「すべて人は、社会の一員として、社会保障を受ける権利を有し、かつ、国家的努力及び国際的協力により、また、各国の組織及び資源に応じて、自己の尊厳と自己の自由な発展とに欠くことのできない経済的、社会的及び文化的権利を実現する権利を有する。」                     ・・・9)

 また、障害者を対象とした、「知的障害者の権利宣言」、「障害者の権利宣言」、「障害者の機会均等化に関する標準規則」などがある。特に「障害者の権利宣言」では、「人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上若しくはその他の意見、国若しくは社会的身分、貧富、出生又は障害者自身若しくはその家族の置かれている状況に基づく区別又は差別もなく、すべての障害者に認められる。」こと、「障害者は、その人間としての尊厳が尊重され、生まれながらの権利を有している。」こと、「障害者は、その障害の原因、特質及び程度にかかわらず、同年齢の市民と同等の基本的権利を有する。このことは、まず第一に、可能な限り通常のかつ十分満たされた相当の生活を送ることができる権利を意味する。」こと、「障害者は、差別的、侮辱的又は下劣な性質をもつ、あらゆる搾取、あらゆる規則そしてあらゆる取り扱いから保護されるものとする。」ことが宣言されている。10)

2項 日本の場合

 日本では、障害者基本法において、「すべて障害者は、個人の尊厳が重んぜられ、その尊厳にふさわしい処遇を保障される権利を有するものとする。」、「すべて障害者は、社会を構成する一員として社会、経済、文化その他あらゆる分野の活動に参加する機会を与えられるものとする。」11)と障害者の権利が保障されている。また、各種障害の分野に分かれた法律でも権利は保障されている。当事者運動が始まるまで、障害者たちは施設や家庭などに隔離されている状態だった。脱施設化を目指した当初は、障害者の人権に対し力が入れられていた。しかし、自立生活運動が始まって35年ほどたった今、日本の自立生活運動は、障害者の人権というよりも、障害者のためのサービス援助や経済的援助などに力がいられているように思える。第2章でも述べたが、どの自立生活センターのホームページを見ても、自立生活プログラムやピア・カウンセリング、提供しているサービスなどの情報は事細かに書かれているが、障害者の権利擁護などは活動内容の一項目に掲載されているものの、具体的な内容や障害者の権利に対する内容はほとんど書かれていない。
 日本の自立生活運動は、障害者の権利とサービスの充実の関係をどう位置付けているのか。「彼らが生活していくための制度やサービスがあるからこそ障害者の人権が守られている」のかそれとも「障害者にも人権があるからこそ彼らが生活していくための制度やサービスが必要である」のか、この考えの違いによって日本の自立生活運動の発展は間違った方向に行ってしまうのではないかと危惧している。私は、後者こそが、自立生活運動の発展の鍵となっていると考える。
 日本は、障害者の分野だけでなくあらゆる分野でも人権というものに対しての意識が薄い。今まで日本は人権社会ではなく、今後もアメリカのような人権社会にはならないだろう。しかし、人権保障は無視してはならないもののひとつである。障害者の人権とサービスや制度の存在がうまく融合し、日本の自立生活運動がより良い発展をすることを望んでいる。

3項 タイの場合

 昔からタイ人の間に「障害者は前世の業のせいで障害を負ったのだ」という考え広く信じられていた。これは、「良いことをすれば良い結果が得られる」という考えと「悪いことをすれば不幸が降りかかる」という考えが、人々の規律の規範になっており、「現世で良いことをすれば来世はもっと幸せになれる」、また「前世で良いことをしたから現世では幸せだ」という輪廻転生、生まれ変わりが信じられている。これは反対に、「現世で悪いことをしたら、地獄に落ちたり、来世で虫けらや動物となって大変な目に遭う」「前世で悪いことをしたから、現世ではこんなに悪いことが起きるのだ」などとも考えることができる。12)いずれにしろ、現世での善行の奨めと悪行の防止を目的とした、社会規律のためのシステムなのである。しかし、その社会規律のシステムが、障害者への差別や偏見を生み、障害者の人権を無視していたのである。
 私はチョンブリの自立生活センターで出会った当事者の男性に偏見にまつわるこのような話を聞いた。
「タイでは障害者、特に男性の障害者が酒を飲むのは否定的に見られる。タイでは男性が酒を飲むと翌日に影響が出る可能性があり、信頼が落ちるという考えを持っている人が一部でいる。障害者が酒を飲むことにより、ただでさえ障害を持っているのにさらに信頼を下げてこれ以上自分の価値をさげてどうするのだという見方をされる」というのだ。
 日本では、付き合いのために酒を飲む機会が多いため、飲むことに対してタイのような否定的な見方はなく、障害者が飲酒することに対して言及されることはない。時には飲酒でさえもタイでは偏見の要因にされてしまうのである。しかし、実際のところ、飲酒をする男性も多く、障害者も気にせず飲酒していることから、大きな偏見でないことがうかがえた。
 偏見や差別に対し障害者は黙ってはいなかった。タイの障害当事者団体は独自の活動に加え、人権擁護や環境分野の団体とともに、人間開発を重視する内容を盛り込んだ新憲法の草案をつくり、積極的に法律や行政を動かす運動を行ったのである。その結果、1998年に新憲法を補い、障害者の有する権利と自由を一般社会とタイ国内の障害者に知らせるものとして、「タイ障害者の人権宣言」がタイ政府から発表した。その内容は、障害者の政治や社会活動への参加の権利、リハビリテーションや教育、職業訓練を受ける権利、そして情報を知る権利などが記されている。
 今では、「障害は前世の業」とし、差別や偏見を生む原因になっていたタイ仏教による障害者観を徐々に取り崩すムードが広がりつつある。そして偏見や差別は徐々に軽減されてきている。

第4節 自立に対する考え

 自立の概念は第1章で述べたとおり、「障害者がたとえ介助を必要とするにしても自らの人生におけるあらゆる事柄を自分で選択し、自分の人生を自分の責任において決めていくこと」である。しかし、この概念は説明をする時に使うものであり、実際当事者たちが考えている自立と当てはまっているのだろうか。
 家族や友人に自立とはどういうことかを質問してみた。ほぼ全員が「自立とは、家から出て1人で暮らし、稼ぎ、自分のことは自分で決め、身の回りのことは全部自分ですること。」と答えた。おそらく、私の周りだけではなくほとんどの日本人がそう思っているであろう。実際、「自立するために家を出た」という若者も多い。また、日本の自立生活運動に参加し、自立生活を始めた当事者も一人暮らしをしている場合が多い。グループホームなどの一人部屋で生活している当事者もいるが、一人暮らしをするのが困難であったり、したくても出来ないという状況からこのような生活をしている。一人暮らしでもグループホームでも根本的に家を出ているという点では共通している。障害者と障害を持たない人の自立観は、「自分で何もかもやって生活するのか、介助者を雇いながら生活するのかの点でしか違わないのである。したがって日本人の考える自立感の前提として、家をでて、一人暮らし、もしくは一人部屋などの空間で、一人で生活するのが根底にあると考えられる。
 一方で、タイ人の自立観はどうなのだろう。本章第2節で述べたように、タイは障害があるなしに関わらず、家族と暮らしているケースがほとんどで、一人暮らしをしているは仕事や学校などの関係で住むわずかな人間だけである。つまり、タイ人の自立観に家をでるなどの考えはない。障害者は8〜9割近くが家族と同居であろう。中には、仲間同士で暮らしているケースもあるが、それはごくまれなことであり、なんらかの事情があるからだと推測される。タイの自立生活運動の中心的存在となって活躍している当事者たちは、家族と一緒に住んでいても忙しいことから介助などを家族に頼ることもない。家族と一緒に住んでいても介助者を住み込みで雇っている当事者もいるぐらいである。
 では、タイの障害者たちにとって何をすれば自立といえるのだろうか。自己決定や自己選択は、自立生活運動の理念であり、世界共通であるといえる。聞き取り調査をした結果、タイの当事者の自立観はまさに自己決定と自己選択そのものであった。それは、今までの障害者に対する差別や偏見が大きく関わっている。前節でタイの障害者に対する差別や偏見は仏教による障害者観から生じたものであると述べた。その障害者観から、子供が障害を持った際、親は家の中に閉じ込めたり、施設に押し込んだり、捨てたりしており、障害者にとって自己決定や自己選択は無縁の存在だったのである。つまり、タイでは、障害者本人が「家の外にでたい」、「この学校に行きたい」、「外でこういう仕事がしたい」などという欲求を満たしただけで自立が成立するのである。私が出会った当事者たちは、「自分が外へ出たいと思ったから外へでた。これが自立や自立生活運動の始まりなのだ。」と言っていた。タイの自立生活運動は、まだ始まったばかりのため、自立観も芽生えたばかりなのである。今後、自立生活運動が発展すれば、基本的な自己決定や自己選択だけでなく、他の考えも生まれてくるだろう。

 

注)1)厚生労働省ホームページ:支援費制度(平成14年4月)http://www.mhlw.go.jp/
   平成17年11月10日アクセス
  2)NDソフトウェア株式会社ホームページ:障害福祉における支援費制度とは
   http://www.ndsoft.jp/index.html 平成17年11月17日アクセス
  3)DPI日本会議ホームページ:改革のポイントとその問題点
   http://www.dpi-japan.org/pic/newlogo.jpg 平成17年11月16日アクセス
  4)沖縄県社会福祉協議会ホームページ:支援費制度の今
http://www.okishakyo.or.jp/menu2.html 平成17年11月16日アクセス
  5)国際協力事業団企画・評価部(2000)「平成11年度特定テーマ 評価調査報告書 タイ障害者支援」
  6)国際協力事業団企画・評価部:前掲論文
  7) 国際協力事業団企画・評価部:前掲論文
  8)清水由文・菰渕緑(1999)『変容する世界の家族』ナカニシヤ出版、86-87頁
  9)障害保健福祉情報研究システムホーページ:社会で守る大切なこと〜法律〜http://www.dinf.ne.jp/ 平成17年11月16日アクセス
  10) 障害保健福祉情報研究システムホーページ・前掲ホームページ
  11) 障害保健福祉情報研究システムホーページ・前掲ホームページ
12) アジア・ディスアビリティ・インスティテートホームページ:「タイにおける障害者リハビリテーション- Community Based Rehabilitation の現在と今後」(関明水)http://www.din.or.jp/~yukin/index.html 平成17年11月17日アクセス


最後に                                     

 アメリカで誕生した自立生活運動は、日本へ渡り展開されてきた。その日本が今度はタイへ自立生活運動を広めた。そして自立生活運動と出会ったタイの当事者たちは、タイ独自の自立生活運動へ展開させようと努力している。これまで述べてきたように、日本とタイは、自立生活運動は根本的な理念は同じにしろ、考え方や展開の経緯、内容などが違っていた。その違いの要因として推測した福祉的財源とシステム、家族制について、自立や権利の考え方について比較を行ったが、どの要因も各国の自立生活運動の特徴のひとつとして大きく関係していることが証明された。
タイに聞き取り調査へ行き、感じたことは、タイの障害者達は、日本よりもはるかに住みづらい環境に住んでいるということだ。バリアフリーはバンコクの一部分にしなく、少し離れると道はガタガタで段差が多い。障害者に対する偏見や差別も多い。障害者に対する政策もほとんどない状況であった。それでも自立生活運動をした当事者たちは笑顔で元気に住んでおり、私を親切に迎えてくれた。彼らは言葉にはあまり出さないが、自立生活運動に出会う前、たくさんの辛く悲しい思いを経験してきただろう。今現在も、家に閉じ込められていたり捨てられたりしている障害者達が大勢いる。その環境から助けられるのは、自立生活運動と出会った当事者たちである。もちろん周りのサポートも必要である。
今後、どうタイの自立生活運動が発展し、「タイモデル」を作り上げていくか、また、日本の自立生活運動がより発展していくさまを継続して見つめ、考えていくことが私への課題である。
最後にこの論文を書くにあたり、たくさんの方に支援をしていただいた。タイでの調査のプランを立てていただき、同行もしていただいたDIPアジア太平洋開発事務所(DPIAP)のトッポン・クンカンチットさん、福田暁子さん、本間順子さん、鈴木ゆうきさん、タイ語の通訳していただいたよしみさん、JICA開発支援プロジェクトについて説明してくださったアジア太平洋障害者センター(APCD)の伊藤奈緒子さん、タイ語もできない私を温かく迎えてくださった当事者のみなさん、日本の自立生活センターについてお話していただいた自立生活センター日野の秋山浩子さん、最後に長期にわたりご指導してくださった萩原康生教授にこの場を借りて謝辞の意を表したい。
参考文献                                    

<文献>
安積純子(1995)『生の技法―家と施設を出て暮らす障害者の社会学』藤原書店
定籐丈弘(1993)『自立生活の思想と展望―福祉のまちづくりと新しい地域福祉の創造をめざして』ミネルヴァ書房
高嶺豊(1997)「これからの障害者運動」『ノーマライゼーション 障害者の福祉』
日本障害者リハビリテーション協会 通巻195号
竹前栄治(2002)『障害者政策の国際比較』明石書店
中西正司(1994)「アジアに広がる自立生活運動-自立生活プログラム・マニュアルのインパクト」『月間福祉』77号、106-109頁
樋口恵子(1998)『エンジョイ自立生活―障害を最高の恵みとして』現代書館
樋口恵子(1992)「日本における自立生活運動」『リハビリテーション研究』
日本障害者リハビリテーション協会第71号
目黒輝美(2000)『障害者運動と福祉―国際比較による障害者のエンパワーメント』
恒星社厚生閣
森和子(1981)「アメリカにおけるIL(自立生活)運動とリハビリテーション法」『障害者問題研究』27号、72-77頁

<ホームページ>
タイ王国基礎情報ホームページ:
http://www.thaiokoku.com/fundamentals/traffic/train.html
自立生活センターHANDS世田谷ホームページ:
http://www.sh.rim.or.jp/~hands/
JICA-国際協力機構ホームページ:http://www.jica.go.jp/Index-j.html
「暖炉の会」ホームページ:http://home.p02.itscom.net/kibunnet/index.htm
ヒューマンケア協会ホームページ:http://humancare21.at.infoseek.co.jp/
「arsvi.com」http://www.arsvi.com/index.htm
吹田市ホームページ:『支援費制度の現状と課題』(吹田市地域福祉策定委員会 2005)
http://www.city.suita.osaka.jp/kobo/hukusomu/page/005053/upload/appendix3.pdf
総務省統計局ホームページ:http://www.stat.go.jp/
サントリー次世代研究所ホームページ:
http://www.suntory.co.jp/culture-sports/jisedai/active/family/

<その他>
 放送大学学園 ビデオ教材
  科目名:社会福祉の国際比較(2002)
第07回「タイの社会福祉」
第14回「アジア太平洋地域の障害を持つ当事者運動」