カンボジア人の障害者観における一考察日
       −開発途上国におけるCBRと比較して−
平成16年度(2004年度)卒業論文

東京外国語大学外国語学部東南アジア課程カンボジア語専攻
本間 順子

目  次

はじめに                                    1

1. 宗教という文脈の中での障害者                           2
1.1. 障害と罪の意識                                 2
1.2. 仏教文学の描く業と障害                             5
1.3. 日常生活に現れる仏教的思想と障害者                       9

2.大衆文化における「笑い」と障害者                        11
2.1.民話中の笑い話                                12
2.2.職業としての道化                                 17

3.現代史上の戦争による障害者の生                         18
3.1.ポル・ポト政権下における障害者                        19
3.2. プロパガンダ文学の主人公としての障害者                     21
3.2.1. フランス植民地支配からの独立                       21
3.2.2. ヘン・サムリン政権期以降の内戦による障害者                  22

おわりに                                    24

文末脚注                                    26

参考文献表                                   39

はじめに
 1996年の統計では、カンボジアの障害者人口は総人口1,020万人[1] のうち、最低でも100万3,400人[2] とされている。これらの障害者はカンボジア社会の中で、どのようなイメージを持ち、また他者から持たれているのだろうか。カンボジアは国民の9割強がクメール民族によって構成され[3] 、その宗教は上座仏教である。また、カンボジア王国憲法(1993年制定)においても、上座仏教は国教[4] とされている。
 中西[1996:57]によれば、「仏教の考え方に基づき、カルマ[5] によって障害は神の罰であると長い間みなされていた」という。障害分野における2003年の国際セミナーでのカンボジアからの報告[6] でも、カンボジアの障害者観として「身体的あるいは精神的能力の喪失は個人の運命と関連付けられて考えられ、前世の罪果であるとみなされうる」ことを挙げて、カンボジアの障害者の現状を概観している。そのような障害者観に呼応する形で、2002年12月3日の国際障害者デーにカンボジアで街頭に掲げられたスローガンでは、「障害は罪ではない」、「障害者は動物ではない、人間である」と人権に基づいた障害者の権利と社会参加の促進を啓発している[7] 。これらのキーワードがスローガンとされるのは、その概念がカンボジア社会において、仏教に基づいた障害者観としてかなり流布しているからであろうか。再びカンボジアの障害者の現状報告によれば、その結果として「罪の意識と社会的なスティグマを生み、それは多くの障害者が経験している[筆者注:社会からの]排除を助長している[8] 」。つまり、これらの概念が障害者の生活や精神のあり方に少なからぬ影響力を持っていることも想定されるのである。
 そこで本稿では、この障害者観がどのような形で民衆の間に流布してきたのかを明らかにし、それが現代社会においてどのように継承され、いかなる作用を持っているのかをカンボジア語による文芸作品、雑誌記事及び地元英字紙を資料として分析する。第1章では宗教と障害者観の関係、第2章では民衆の中にある「笑い」と障害者、第3章ではカンボジアにおける戦争と障害者について考察していく。
 本稿では、身体障害(ハンセン病による後遺障害も含む)、視覚障害、聴覚障害を対象とする。その名称[9] としては、日本と同様に、現在では差別語とされる語と、時代の変化により言い換えられるようになった語[10] の2種類がカンボジアでも用いられている[11] 。日本では「障害の当事者が自己の人間的尊厳を意識しはじめたなかでおこってきていること[12] 」であり、生瀬[1994:149-150]はそれに加えて言う。

 「差別語」「差別用語」の問題は、「使ってはいけないことば」というレベルでしか理解されず、その「言葉」が歴史的に背負ってきた「意味空間」と、そこから見えてくる障害観、人間観などは意識もされず、ましてや、障害の当事者の「過去」の意識と決別してほしい、あたらしい障害観にめざめてほしいといった願望は、まったく通じようはずもない。

 カンボジアの文脈においてどのような場面で、差別語あるいは言い換えられるようになった語が用いられるのかを明らかにするため、本稿では邦訳されていない原文からの引用文においては、原典に忠実に筆者が翻訳する。
 また、歴史的な背景と現代社会における状況を照らし合わせるにあたり、カンボジアの大衆雑誌の中でも購買部数が多い『プロチアプライ(人気)』[13] を用いる。それは、その誌上で国内外の障害者が多く特集されていることに加え、カンボジア人に関してはインタビュー記事として、障害者が障害を負うに至った背景、現在の職業に至る経緯など個人史的な要素が詳細に語られているからである。
 本稿執筆にあたって多くの方々の協力を得た。カンボジア王立芸術大学考古学部生の卒業論文を含め、カンボジアの遺跡に関する情報を提供してくださった上智大学の丸井雅子先生、カンボジアの障害者に関する映像資料を提供してくださったアジア・ディスアビリティ・インスティテート代表の中西由起子氏、カンボジアの地雷被害者に関する調査報告等を提供してくださった地雷廃絶日本キャンペーン代表の北川泰弘氏、カンボジアの内戦前の都市の様子を聞かせてくださった東京外国語大学非常勤講師であるペン・セタリン先生、貴重な蔵書を利用させてくださった東京外国語大学カンボジア語研究室には大変お世話になった。ここに深く感謝を記す。

1. 宗教という文脈の中での障害者
 「障害を恥・罪とする価値観」は、障害者自身が選択し自己決定することによって社会参加することが「自立」であるとする「自立生活」[14] において、除去の必要な環境障壁の一つとして挙げられている[15] 。その価値観の背景の一つに宗教がある。本章ではまず、障害を「前世の業果」と考える宗教に基づいた障害者観が普及した歴史的な経緯を概観し、現代社会における影響を考察する。

1.1. 障害と罪の意識
 「障害は罪」という意識は、カンボジア固有のものではない。かつてあるいは現在に渡ってヒンドゥー教と仏教文化圏であるインド、ネパール、バングラデシュ、タイ[16] でも見られる。古代インドにおいてヒンドゥー教が依拠していた『マヌ法典』にそれは現れている。そこでは「神の清浄が保持され社会秩序が安定する」ように「浄と穢れ」が中核的な観念となり、「穢れ」と見なされたものは皆遠ざけられていた。「あるべき身体的秩序に背いている」身体障害者を「穢れ[17] 」とみなし、「バラモンのいるところから退去」を命じている[18] 。現代ではカンボジアやタイの上座仏教の出家システムにおいて、障害者は「純粋ではない」という理由で僧侶になれない[19] という宗教的制約がある。

障害者は僧侶にはなれない。当時13歳であったプレム・プレイは、将来について尋ねられたとき、「それは運命による」と答えている。プレム・プレイは、自分は僧侶になることができないと考えている。なぜなら、彼の身体は「純粋ではない」からだ。尼僧の一人が加えて言う。仏教徒のシステムでは、障害者は僧侶にはなれない[20]

それは、『ヴィサイ・サーマネー(未成年僧侶式目)』の中ではっきりと「男子32項目」として記されている[21] 。タイ上座部仏教では、その事項は得度式に行われる問答のなかで、いちいち確認され[22] 、この32項目に当てはまる男子を出家させた者は罪障を受ける[23] と明記されている。
 その一方で、この「浄、穢れ」の概念によってバラモン僧の前から障害者を排除するよりも、むしろ「完全なる美」を強調するためにその対比として御前に登場させたとも考えられる4つの事例がある。第一にそれを示すのは、大プリア・カン遺跡(コンポントム州コンポン・スヴァイ郡)の碑文における一文である。

 ……世尊のみ足をあがめばや。われこそはプレア・スレイ・ソオリポールと名乗る、ナーガ王として四たび祝福されし日族の大王。我はナーガ王の四美相を持てり。広き肩、細き胴、満月に似たる面、奇形の小人のうらやむ完きからだ。……[24] (傍線は筆者)

 この碑文における「奇形の小人」が実際に像として表象されたのかは不明である。しかし、第二の事例として現在人々に「せむしの像」[25] と呼ばれている石像が、アンコール遺跡群の中で多数発見されている。この像はバイヨン様式(1177-1230年頃の様式。ジャヤヴァルマン7世、在位:1181-1218?年の頃[26] )とみられている[27] 。また、第三に16世紀の仏教文学『パンニャーサ・チアドク(50のジャータカ)』中の「ルットサエン」では、王宮で働く使用人が「せむしの女」であり、水汲みの際に池に映った美しい姿を自分のものと勘違いして、美しい姿の主である12人の姉妹によって笑われる。その使用人が美しい姉妹たちを御前に報告している場面が描かれている。第四の事例としては、さらに下って19世紀の記録[28] ではあるが、「メアク(1、2月)の王の祭」と云われる、宮中の広場で稲穂を積み上げ、人体をかたどった山に火を点ける儀式の行列で、バラモン僧や王、王妃の行列の中に「せむし」が含まれていた。

両側に百人づつの棍棒および柄の括れた棍棒をもった儀仗が進む。その間に楽人、法羅貝や太鼓をならす波羅門を前駆として夫、妻、その息子と娘の人形を銘々輦臺の上に乗せ運ぶ。その人形は左肩に藤蔓つきの小刀を背負い、右手につるはしの如きものを持ち、妻の方は右腰に御飯入れの籠をつけている。その後から波羅門の一団、および楽人隊がつづき、メアクの王が象に乗ってその後にあらわれ、これに続いて、王の称号書や檳榔、蒟醤を持った盤を乗せた輦、それにかしづくクリス[29] をうちふるう二人のせむしを運ぶ象、その後に王の第二、第三夫人を乗せた象、ついで正妃の象が続く。御付女官の一団と棍棒および柄の括れた棍棒をもった儀仗十人がしんがりである[松本、1968:16-18](傍線は筆者)。                     

 アンコール王朝の衰亡と前後して王家によるヒンドゥー教の神々への信奉から、国家と民の宗教として上座仏教への信仰に変わっていった。しかし、高橋[1974:8]にあるように、国家行事としての「耕作始めの儀式」や豊作を感謝する「水祭り」などを司るのは、現代においても「アンコール時代以来の伝統を引くバラモン教の僧侶であり、かつてこの国に盛行したヒンドゥー教の痕跡をいまに伝えている」のである。しかし、ヒンドゥー教の「浄、穢れ」の概念による排除が全てを支配していたわけではなかった。上記の4つの例を照らし合わせてみると、「完全なる美」の対極として障害者を位置付けていることが見えてくる。
 また一方で、大乗仏教の信仰に基づき、施政を行なった12世紀のジャヤヴァルマン7世は、その勅令によって102の施療院[30] を建設した。その一つが、セデスによれば、「タケオ寺院の東にある養生院と呼ばれている礼拝堂[31] 」である。その「切妻壁にあるものは、専門家が見るところでは、レプラによる神経症の手当をしているのを表していて、医師たちが<かぎ手>と呼んでいる手の引きつりが現れている[32] 」。その治療の様子を表したバイヨン第2廻廊東壁北翼における浮彫りの詳細な解説を当時のヴェトナムのサイゴンのパスツール研究所長メナール博士のノート[33] より以下に引用する。

患者の両腕と両手こそ、彼を取りまいている女たちが目を注ぎ手当をしている対象物である。……右小指をつまんで<かぎ手>を伸ばすように引っぱっている。その身振りからみて、これがとくに重要なことだと隣の女たちの注意をひいているようである。
下肢は膝の下に置いてある物で支えられている。
一人の女が左手で人物の右足をつかまえ、右手で左足をこすっているようである。
女たちの仕草は、あきらかに疾患が患者の四肢の端に局所化していることを示しているようで、これはレプラによる神経痛か栄養障害であろう。
……[34]
可能な解釈。神経炎期に局所神経痛化したレプラ

 この壁画に描かれた患者は、その椅子や従者から見てかなり高貴な人[35] とされている。それを壁画として世に伝えるということは、ヒンドゥー教以来の「浄、穢れ」による排除の概念を超えて、大乗仏教の中でのハンセン氏病患者の平癒が当時の社会が抱えていた大きな関心事であり、かつ宗教的実践としても大きな意味を持っていたことがわかる。しかし、セデス[1990:91]は、13世紀、14世紀のアンコール王朝の急速な衰退の原因を次のように見ている。「人間の人格に根本的に反対な小乗仏教は、個人の存在を否定するところまで行き、人民を集めて王とその高官を崇拝させる貴族宗教の繁栄を没落させ」た。このことは、国王の宗教的実践に軸が置かれていたアンコール時代とは異なり、民衆の関心を個人の信仰と行いとに向けさせる傾向を一層強めていった。個人の信仰と行いへの重心の推移は、以下の成立時期が異なる『トッサ・チアドク(10のジャータカ)』と『パンニャーサ・チアドク』という二つの仏教文学における障害を巡る違いから明らかになる。

1.2. 仏教文学の描く業と障害
 カンボジアの仏教文学は、古くはストラーと呼ばれる貝多羅葉に記され、その後の古典文学に大きな影響を与えてきた[36] 。その一つに「ジャータカ」すなわち仏陀の前世を物語る「本生話」[37] がある。インドで古くから親しまれてきた『パンチャタントラ』や『ヒトーパデーシャ』といった物語を翻案として、仏陀の徳を人々に伝えられてきた[38] 。カンボジアには、13世紀にタイを経由して伝来した[39] 。スリランカから東南アジアにかけて広がる上座仏教のパーリ語経典『南伝大蔵経』(『トライバイドク(三蔵)』)には、547の仏陀の前生譚が伝えられている。その主題は、自己の身命をも提供する「布施」、徹底的な「戒」、「忍辱」、目的を達成させる「精進」の4つである[40] 。ここに挙げる『トッサ・チアドク』は、その仏陀の547回繰り返された輪廻のうち、最後の10の世におけるすぐれた徳行を伝える物語である。特に東南アジア大陸部では非常によく親しまれている[41]
また、15−17世紀には、『パンニャーサ・チアドク』がスリランカで仏教を研究した僧侶たち、おそらくラオス人僧によってパーリ語で新たに創作された[42] 。こちらもジャータカ物語としてよく親しまれている[43] が、インド、スリランカの経典には見られない説話を題材としており、東南アジア大陸部の独自性の強い仏教文学とされている。さらに、ビルマ(現ミャンマー)、ラオス、カンボジアの3地域間においてもそれぞれ異なる物語を編んでいる[44] ことから、それぞれの地域の独自性が現れている。ニョック[1963:6]によれば、その主題は「出家」、「布施」、「因果応報」、「他者救済(自己犠牲)」である。
 『トッサ・チアドク』に見られる因果応報思想は、王権や自己の欲望に囚われたり、人を殺めてしまうといった人の道に外れる行為によって、来世において地獄に落ちて苦しみを受けることを畏れ、自戒をするものであった。『トッサ・チアドク』中の「テーミヤ・チアドク」と「ソヴァンナサーマ・チアドク」において、障害は仏陀の徳のある行為を示す一つの装置であったが、それは主題ではなかった。完全なる精神と肉体としての仏陀[45]と成る前段階にあった菩薩は、障害者のふりをしても、実際には障害のある主人公として描かれることはなかった。『トッサ・チアドク』における視点は、菩薩の前世における地獄体験を意識して、現世の煩悩を断った行いによって、来世の地獄なき境遇を目指すものであった。そして、そのための「行い」つまり「業」は菩薩その人によって示された。
 以下に『トッサ・チアドク』から「テーミヤ・チアドク[46] 」と「ソヴァンナサーマ・チアドク」、『パンニャーサ・チアドク』から「ルットサエン[47] 」と「サンカパッタ」を紹介する。

『トッサ・チアドク』第1話「テーミヤ・チアドク」 
 後に仏陀と成る菩薩[48] は、インド・バラナシの王子として生を受けた。しかし、前世において、王位を継承したことにより地獄落ちの苦しみを経験したことから、今生において、あくまでも王位を継承しないように望む。そこで、前世で母君であった女神が以下のような助言を与える[49]

 知恵のある者ということを示さないように。つまり、四肢が不自由でなくとも、不自由なふりを。耳が不自由でなくとも、聴こえないふりを。口が利けても、不自由なふりをなさい。皆に愚か者として知れ渡ろうが、そうなさい。どんな風に軽蔑されようとも、そうなさい。このように振舞うことで、あなたは成功を手にできるのです[50] 。 

 これは、全てを捨てて出家をすることの意義を説く「出離行」の物語である。ここでの障害を持っていることとは、地獄に落ちないためにあらゆることを所有しないという原理によって貫かれている。しかし、ここには明らかに障害を持っている者に対する他者の障害観が描かれている。つまり、障害を持つことは愚か者に等しく、軽蔑され、見放されて同然の存在であり、それ故に見捨てられることが正当化できるというものだ。

『トッサ・チアドク』第3話「ソヴァンナサーマ・チアドク」
 両親の孝養の大切さを描いた物語ではあるが、一方で盲目の人間は当事者だけでは生きていけず、世話をする存在が必要であることを強調している。

 一方インドラ神は、隠者の夫婦のもとへやって来て遣えた。ある日、インドラ神はこの夫婦に災いの兆しを見てとった。それは、必ずや盲目となるであろうというものだ。そこで、インドラ神はトコール(夫の方の名)に近寄り、災いが起こることを伝え、二人に遣えることができる子どもをもうけるように懇願した[ソム、1959:59]。

 2人の息子、ソヴァンナサーマ、すなわちポーティサットは16歳になって出家の身となった。夫婦は、森へ食物を探しに出かけ、雨宿りをした大きな木の下にある蟻塚で、コブラの毒が眼に入り、盲目となってしまう。

 手探りで出口を探すが見えないので、その場で嗚咽していた。その時、サーマは、帰ってこない両親を探し、森中に響き渡るほどに叫んだ。両親は、息子の声に応じ、息子が近づいてくると伝えた。「ここで、災難にあったのだよ。」サーマは離れたところにいて、長い枝を杖として両親に掴ませると、両親を憐れんで、嘆き悲しみ涙した。その一方で、両親に一生遣えることができることを思うと微笑んだりもした[ソム、1959:60]。

 両親の盲目はサーマの両親への孝養の大きな理由となっており、また誤って矢に撃たれたサーマが生き返る根拠[51] ともなっている。
 しかし、『パンニャーサ・チアドク』に至って、障害に対する観念がより個人の業に焦点を当てたものへと変化した。現世の境遇は前世の行い、あるいは現世中の行いの結果であるという視点に移行している。菩薩は仏陀となり、物語の主体が菩薩ではなくなる。仏陀の行いを手本として、自らも仏陀となることを目指す人々が物語の主体となった。それは、「障害は業罰」という新たな障害者観[52] が主題となっていることにも強く現れている。前世の行いゆえに、現在その報いを受けているという因果応報と身体のあり方の関係をはっきりと伝えているのである。

『パニュニャーサ・ジャータカ』第39話「ラタセーナ」[53]

 サンタミア第一王妃は王が自分を強く愛しているのを確かめると、病気になった振りをした。どんな薬を飲んでもよくならないので心配している王に、サンタミア第一王妃は、「12人の王妃たちの目をくり抜けば治ります。」と言った。王は直ちに12人の王妃を呼び、サンタミア第一王妃の前に並ばせた。第一王妃は王妃たちの目をくり抜き、それをガジャプラ国にいる娘のコンライの所に送り保管させた。この時、上の11人は両目ともくり抜かれたが、末の妹は片目だけ助かった。(これは、この12人の姉妹は前世で魚を捕まえてその目を針で突いて潰してから水に戻したことがあったが、その時末妹だけは片目しか潰さなかった、その報いである。)[坂本、1994:106-107](傍線は筆者)

『パニュニャーサ・ジャータカ』第41話「サンカパッタ」
 賭博に負けて借金を負ったが、返せずに自殺をしようとしていたバラモン僧がいた。(ボサツである)サンカパッタ王子はそのバラモンを救うために指輪を一つ与えた。借金を返済するのに十分であったが、このバラモンはもう一つの指輪も欲しくなった。

 寝入った王子に襲いかかり目をくり抜こうとしたが、王子の方が力が強く取りおさえられてしまった。手を合わせて許しを乞うバラモンに、王子は、「指輪が欲しいのなら、そう言えば良いのだ。私は乞われれば何でも施す決心をしている。頭でも、目でも、肉でも、血でも、心臓でも、欲しいと言う人がいたら惜しみなくすべて施すつもりである。なぜなら、私は悟りを得てブッダとなり衆生を救いたいと思っているからだ。」と言って、もう一つの指輪も与えた。
 バラモン僧は指輪を二つ貰うと喜んで大急ぎで去って行ったが、ボサツに対して恩を忘れ危害を加えようとした天罰が直ちに下り、森の中に隠れ旅人を襲っていた五百人の盗賊に捕まり、指輪を二つとも奪われたばかりでなく、両目をくり抜かれて盲目になってしまった[坂本、1994:114]。(傍線は筆者) 

王女らは、座っている男が盲目であること以外は、船で嵐に遭難し、行方不明になったサンカパッタ王子にそっくりであったので、なぜ盲目となったのかを尋ねた。

 王子は「このように盲目になったのは前世の業であって、誰もそれを避けることができない[54] のは、牛車の車は前を歩く牛の足跡を避けることができないのと同じであろう。」と答えた[55] 。(傍線は筆者)

 このように、『パンニャーサ・チアドク』中の2作品において、己の業と障害の関係を説明している。すなわち、「ルットサエン」では現世で目をくり抜かれることになった理由を前世での行ないによって説明している。また、「サンカパッタ」ではバラモン僧が盲目になった理由を現世中の行いによって説明し、サンカパッタ王子が盲目になった理由を「前世の業」として説明している。
 また、障害を業罰で語る「因果応報」思想は民話の中にも見られ、人々の生活の中で語られていたことがわかる。文化人類学者バスティアン(Bastian、1826-1905)は東南アジア大陸部を旅行し、当時広く知られていた口承文芸の多くを採集し、その報告を1868年に出版した[56] 。その中にある民話「象とミソサザイとカラスと蛙と蝿」は、次のような物語である。

 怒りくるっていた象はミソサザイの夫婦のひなをつぶしてしまう。それを前世の宿縁として忍ぶしかないという夫婦の嘆きに、カラスと蛙と蝿が助太刀する。カラスは象の眼をくちばしで突いた。蝿は傷に卵を産みつけた。象は痛みに耐えられない上に、眼が見えなくなった。ミソサザイの夫婦の言葉に、象も後悔し、「いよいよ罪業にむくいるときがきた。小さいひなには罪などなかったのに、かわいそうなことをした」と言った。のどが渇いたが、蛙の声によって、本当は岩の上にいることもわからず、その鳴き声に誘導されて、岸から落下し死んでしまった。(傍線は筆者)

 また、直接「業罰による障害」とは言及していないが、主人公の出生の中にそれを描いている伝説に「プレア・コー、プレア・カエウ(聖なる牛、聖なるカエウ[玉])[57] 」がある。この物語はアンコール時代の後の都ロンヴェークの時代(1528年にアン・チャン1世が新都を造営)に時代は設定されている。この「プレア・コー、プレア・カエウ」はカンボジアの権力の象徴として民衆に語られ、アンコール王朝の崩壊(1431年)やその後の都ロンヴェークの陥落(1594年)の際には、これらを象った宝物がシャム(現在のタイ)に持ち去られていったという伝説につながっている[58]

 妊娠中にマンゴーの実を食べてはいけないと占い師に禁じられていたのにもかかわらず、我慢できずに自ら樹に登ってマンゴーを食べようとして落下した。妊婦は死亡したが、そのお腹からは男児と牛の双子が生れ落ちた。動物と双子のように生まれたことを不吉とされ、人々から指をさされ、村を出る[59] 。しかし、その牛は主人公の危機を救ってくれる不思議な力と叡智を持っているのである。

 このようにして、『パンニャーサ・チアドク』(15‐17世紀頃)以降現代まで、「障害=前世、あるいは現世における業罰」という図式が表す通り、因果応報思想と障害観が一致し、繰り返し物語を通して語られていく。

1.3.日常生活に現れる仏教的思想と障害者
 ジャータカの因果応報思想は、現代のカンボジアにおいても寺院を中心として民衆に共有されており、民衆の日常生活の中に、以上で取り上げてきた因果応報思想が一般的な認識として定着している。寺院本堂の壁画がジャータカの一節を物語る他、仏教の年間祭事などで民衆が寺院に集まった際に、僧侶やアチャーと呼ばれる寺男によってジャータカに関連して説法が行われる[60] 。それが因果応報思想の普及の場となっている。そして民衆は現世や来世によりよい生を受けるべく、寺院や僧侶に喜捨をして功徳を積むのである。このように因果応報思想は、功徳を積むという実践の拠り所となっている。
 また、農民らの生き方に対して仏教の教えを通して訓え諭したものにチバップ(訓えを韻文の形式で著したもの)があり、吟遊詩人がチャパイという長棹の弦楽器を爪弾き吟じて、訓えをわかりやすく説いた[61] 。その一人であるゴイ(1865-1936)は、フランス植民地下(1863-1953年)のプノンペン近郊で生まれ、平易な語彙で農民を教え諭す作品を多く創った[62] 。ゴイの次の作品においても「業罰と障害」を例示し、仏教の訓えを守れという因果応報思想が現れている。

『チバップ・ルバウク・トゥメイ』(1922年)[63]
……
219-子供をおろせば 陰部には悪く 口ではいいと自慢し はっきり見た者がいれば 
   強情にも誓う それらの罪からは放たれたと 地獄に堕ちる
220-愚かで恐ろしい盗人 知恵ある者たちは禁じて諭す 重罪の女と 先祖の魂が崇める 二人死
    に三人死に 赤子をおろすのは 仏を滅ぼすのに等しい
221-果てることはなくとも 足はいざり手は震え もがき足掻き 盲に目暗 
   痛わしい姿 名誉は傷つき 子々孫々と続く   
222-悪臭はあらゆる所に 母に及び 一族に及ぶ 死んでからも苦しみを受け 
   外の地獄では熱湯につけられ 死んでもまた生き返る
223-自らの膿と血をなめる 仏はいわれる 何万もの世を餓鬼として生き 業は堕ちず
   腹がすいても身よりはなく 自分の子供を裂いて喰う
224-仏も哀れみをかけず 仏法も哀れみをまたず あらゆる苦しみを受ける 悪い心のため 愚か
   な考え 雌豚として生まれ 去勢され刺される
225-無数の年月 業はまだ残り 人として生まれども 盲 ひ弱ないざり せむし
    半陰陽気狂い かたわ夫はなく
226-母も手をかす 踏みつけ 赤子を堕ろす 地獄で餓鬼となるのは同じ 光を見ることもなく
    心に慈悲なきため母も子も
227-故に恐れるべき 平正罪を犯せば 隠しおおせたことはなく 名は汚れ 一族郎党 先祖に至
   るまで縁を切られ付き合いはなくなる
228-人のことに構うな 抵抗するな いがみ合い恨みが生じる 
   規則を守る者には平穏があり 罪やいがみ合いからは説き放たれ 一生出会うことはない
……(傍線は筆者)

 子供を堕ろすことは仏法を守らない罪なことであり、その業罰によって来世では障害を持つことになる。だから仏法を守り暮らせよ、とゴイは説いている。チバップは将来のために善悪をわきまえて日々研鑽できるようにする教育の手段であり、年配者を敬うといった人間としての倫理・道徳観を育むことを目的としている。さらには涅槃に到達するための手段であるともいう[64] 。チバップによって「業罰による障害」という因果応報思想がより農民の生活にとって具体的な物語として直接語りかけられるようになった。そして19世紀になるとチバップは寺子屋で教えられるようになった[65]
 障害者はそのような文脈の中で、現世を実際にどう生きるかが語られてきた。大衆雑誌『プロチアプライ(人気)』には障害者の生き方がよく取り上げられる。その中に「障害は業罰」であるという因果応報思想が現代社会の中でどう現れているのかを見ることができる。その記事の見出しにあるように、障害者の実生活とは自分の「宿命に打ち克つ」[66] ことであり、社会に定着した「宿命に従う」という固定観念に対して挑戦することでもある。

「宿命に打ち克つ」『プロチアプライ』(第53号1997年1月16-31日)。

未亡人となった母を同時期に病気で亡くし、5歳のときにポリオになり、以来足に障害を持っている。孤児となり、障害を持った少女に対し、孤児院の先生は「ひがんじゃだめ、これはあなたの前世からの業なのだから、ずっと自分の業のためにみじめな人生に耐えて生きなさい」。しかし、彼女はその言葉にめげず、いつかは他の人のように生き生きと人生を楽しむ日が来ると希望を持ち、懸命に勉強し、今ではクラフト生産の縫製を担い、同じ障害者の職業訓練生だった男性と結婚し、娘と3人で幸せな生活を営んでいる[67]

 同様に次の歌謡曲は、歌詞帳『チョムリエング・サマイ・ニヨム・チュルッフ・ルッフ・トゥマイ・トゥマイ!!555ボット(最新流行歌ベスト555)』[68] 中の428番目に掲載されていたものである。「白杖」や「市場での物乞い」といった障害者に対する一般のステレオタイプを提示した上で、障害があっても生きるのだ、自殺は敢えてしないのだ、自殺へ向かわせないでおくれ、というメッセージを歌っている。
  
「チイヴット・チョン・ピカー(障害者の人生)」チュオイ・ソピエプ歌 [69]

1. ああ!運命[70] は どうして私を定めたのか
 押さえつける山のような 大きな苦しみを受けさせた
 障害のあるからだに貶めた それは私に巻きついて、私はそれに飼いならされた
 白杖を抱いて生きる 幾千もの惨めさに苦しんで
2. 足をひきずって いつまでもぼんやりと市場をまわる
  両手を拝み手に掲げ 人に乞う
 生臭さも芳しさに変わる 腐っていても 敢えてしない
  娘に橋を渡すため 生きる
R. これが障害者の人生
 この世で強く同情をひく
  実際に肉体はあるけれど 人生には意味がない
 カーカイ[71] のような性格の女に 滅茶苦茶にされ 何も残らない  
3. そう 耐えて生きよう 運命[72] の業 にしたがって
 残りものの浮気っぽい女とは別れて 
  臆病になってしまった もうずっと長いこと
 松の樹のてっぺんのような心をした女
  どうかわからせないでおくれ あらゆる輪廻から去ることを
R. と3.を繰り返す  (傍線は筆者)

 2002年にカンボジアの王立プノンペン大学で、カンボジアに関する社会的文化的研究第5回大会が開催され、農民と貧者のためのカンボジア開発協会(CADFP:Cambodian Association for Development of Farmers and the Poor)は、カンポット州チューク郡7地区における障害に対する人々の知識と態度に関する調査報告を行なった。CADFP職員が健常者による障害児童への差別と侮辱を発見したこと、障害児童が普通教育を受けることができないという疎外感に苦しんでいることから、コミュニティを構成する8グループすなわち、障害児童、非障害児童、障害児童の保護者、非障害児童の保護者、教師、地域の権威・警察官、僧侶、キリスト教徒に分類して、それぞれのグループに同様のインタビューを行なった。他のグループと同様に障害の原因を地雷や木からの転落と回答しつつも、興味深いことに僧侶のグループのみが「依然として、前世の業果」によると見なしている[73]
 しかし、現代の雑誌記事や「最新流行歌」からも見てとれるように、障害を業と結びつける因果応報思想は、カンボジアにおける障害者観のステレオタイプとして文化の中に根深く定着していることがわかった。これは数百年の歴史の中で仏教文学や口承文芸を通して普及し、現代においては、『パンニャーサ・チアドク』の「ルットサエン」が映画化される[74] など映画や雑誌といった現代メディア文化を通して再生産され続けているからであるといえる。


 
2.大衆文化における「笑い」と障害者
 前章では、一般的な障害者観とされる「障害は業罰」であるという因果応報思想に基づく事例を見てきた。しかし、民衆が障害者の生に注目するとき、全てを因果応報思想で語っているわけではない。生きていく上で必要な問題解決能力を持っているか、否かという点を「笑い」を通して関心を向けている。2002年教育・青少年・スポーツ省発行の教科書『社会科 第6学年』では、第1課「礼儀作法」において、次のように指導している。

8.事故と他者の苦しみ
 ……もし障害者に出会ったら、笑ったり、からかったりしてはいけません。上から下までじっ
 と視線を向けてはいけません[75]。もしその人が道を渡らなければいけないときは、手を引いて助
 けてあげるとよいでしょう [傍線は筆者]。

 では、教科書によって「慎むべき行い」として指導される、カンボジア人が障害者を笑いの対象とする文脈とは一体どういうものなのだろうか。カンボジアにおける「笑い」には、柳田[1964:105]の「笑い」に対する指摘がより近い。

この一種の闘争技術、即ち機敏に敵の弱点を見つけ出し、それを痛烈に笑ひあげる方法は相続せられ利用せられ、又時としては発達さへして居る。……たとへば個々の人物の見ぐるしい点、背が低いとか色が黒いとか、不具だとかいふことも目標になつたろう…… [76]

 2002年の社会科教科書によっても指導されているように、「笑い」に関するこの価値観は、第2節の職業としての道化、における現代の「笑い」に通じている。また生瀬[1996:74、77、79]は日本の近世期から明治までに障害者の登場する「見せ物芸」について、その見せ物の特質から障害者の位置を考察した。柳田[1998:157]が「同じ人を一つ話を以て二度笑はせることは困難であつた」と述べているように、障害者は見せ物において、その「新奇」性ゆえに民衆の心をひきつけたという。「新奇」であるために、その前提として民衆の間に「人間の体形や形状にたいする一定の社会的通念」が成立しており、その前提からの乖離が好奇心につながったという [生瀬、1996:74、77、79]。
 その「一定の社会通念」の中で、「笑い」には「笑う側」と「笑われる側」が明らかに対置されている。「笑われる側」すなわち笑われる主体が障害者である時、「笑う側」の障害者観がはっきりと現れているという点で、大衆文化における「笑い」から障害者観を分析することは有効である。そこで本章では、カンボジアの大衆文化の中で「笑い」の前提となっていた「一定の社会通念」における障害者観を考察する。

2.1.民話中の笑い話
 一般的に民話の中には、笑い話という類型[77] が多く見られる。社会的に弱い立場の者が力の強い者を打ち負かしたり、みずからをおどけ者にして笑いを誘ったりして、主人公の知恵の勝利を語り、痛快な笑いを提供[78] するという型である。
 カンボジアの民話は、1921年にフランス人文化人類学者エヴェリーヌ・ポレ・マスペロによって設立された「クメール風俗習慣委員会」によって採集と編纂が開始された。その活動を引き継いだ仏教研究所によって『クメール民話集(全9巻)』(1959-1971年)として刊行され、以後活字によってクメール伝統文化として民衆に伝えられる 。[79]高橋[2003:110、114、120]によれば、これらの民話のなかには「仏教文学が無視してきた民衆の感性や心性を密かに保ち続け」られてきた面もみられ、それが「語られた時代背景や精神的雰囲気を大まかに捉えることが必要」ではあるが、「農民の精神的世界や思考様式を表す一種の歴史的資料」とすることも可能であるという。
 以下にその『クメール民話集』より、障害者が主人公として描かれる「めくらといざり(アー・クヴァック アー・クヴァン)[80] 」と「つんぼ7人家族(ドムローン・プラムピー・ソンターン)」を紹介する。ここでは、物語の中で障害者自身が自身をどう認識しているかが描かれているだけではなく、障害者が笑い話において笑われる主体となっていることから、村人の障害者観をも読み取ることができるのではないだろうか。
 
 「めくらといざり」
 村人は皆、めくら、いざりと彼らを呼んだ。二人は別々の家で使用人として働いていた。主人はめくらやいざりだからと言って憐れむことなく、彼らをこき使った。2人は耐えられないほどうんざりして、逃げることにした。
 舟を漕いで逃げることにしたが、二人ともこれまで漕いだことがなかった。一生懸命一晩漕いだにもかかわらず、夜が明けてみると、全く同じ場所をぐるぐると廻っていたことがわかった。水汲みに来た主人も、舟を漕いでいる二人を見て、「逃げようとしたんだろうが、めくらやいざりで、どこに逃げるというのだろう」と思った。主人は二人を家に戻し、罵ったり、叩くこともなかった。
 今度は陸路で逃げよう、といざりが言った時、めくらは答えた。「自分はめくらで、お前がいざりなら、どう逃げるというのだ?」いざりは答えた。「俺はお前の肩に乗っかって、道を教えるよ。」朝になって二人が見えないので、主人は彼らが逃げたことに気づくが、前回と同様に考え、追いかけもしなかった。
 2、3日歩いた夕方、ある村に着いた。その村では子どもたちに、暗くなったら虎が恐ろしいから遊んではいけない、と言いつけていた。めくらといざりは、人がいないのをいいことに、野良道具を盗んで畑仕事をしようと村に入っていった。すると、村人が皆二人を目にして、「恐ろしい虎がいるよ」と教えた。めくらは、「クレー[81] は怖くなんかない。怖いのは虎だ」と答えた。その時、虎が誰かを噛み付くのが、めくらにも聞こえて考えた。「村人は最初俺を怖がった。でも今は、クレーが他にいて、村人はそっちの方を怖がっている。俺はそのクレーを見たことも聞いたこともない。しかと見てやろう。」
 牛小屋を見つけたいざりは、「お前、牛を捕まえておいでよ」と言って、そこに降ろしてもらった。めくらは、手探りで歩いていくと、虎に行き当たった。虎の方は、めくらがクレーだと思い、怖気づいて身動きできなくなった。めくらは、虎の全身を触ってみて、牛だと思った。頭を触っても角は見当たらなかったが、喜んだ。「この牛は角が垂れていて太っていていいぞ。」めくらは、鼻輪を通すために虎を引っぱって歩いた。虎はめくらをクレーと思い込んで、恐ろしくてされるがままだった。めくらは、いざりのところに戻ってきて鼻輪を渡すように言った。いざりが、「それは虎だ」と教えているのに、めくらは聞かずに、鼻輪をよこさせ、虎の鼻に突き刺した。虎は痛みに耐えられずに逃げ出してしまった。いざりが気を失う一方で、めくらは牛を追いかけた。田んぼの真ん中まで来ると、作業小屋があった。そこには熊手や縄、たくさんのざるがあり、亀も一匹見えた。いざりは重くて持ちきれないと言ったが、めくらは運ぶのは自分だ、これを全部持っていく、と言ってきかなかった。残りごはんの入った鍋も持った。
 いざりと荷物を背負って森を歩いていると、いざりが蜂蜜採りの男を見つけた。めくらは、それを聞いてその男に分けてくれ、と頼んだ。男は「自分は蜜だけでいいから、そのかすを上げよう」と言いながら、男は大便をして竹筒に入れ、栓をするとそれをめくらに渡した。しばらく歩いてお腹がへったので、蜜のかすの入った栓を抜くと、大便臭い。めくらは、ここは臭うからと言って別の場所を探すことにした。それを2、3回繰り返して、空腹も限界になり、ついに筒の中に手を入れてみて、ようやく臭いの原因がわかった。めくらは自分たちがだまされていたことに憤慨した。手を洗い、ごはんを食べると、自分たちをだました蜜採り男を殺しに行こうということになった。森で迷っていると、鳥が木をつついてシロアリを食べていた。めくらは蜜採り男だと思って「木から下りて来い」と叫んだ。いざりに、キツツキだと教えられた。
 二人は野を越え、森を越え、ある村に到着した。その村は人喰い鬼が出る村で、その日は王の一人娘が人々の身代わりとなることになっていた。二人が休むことにした東屋[82] の中で、王女は太鼓の中に身を隠し、鬼が来るのを待っていた。二人の声を聞いて、王女は太鼓の中から鬼の話をし、早く逃げるように伝えた。しかし、めくらは生まれてこの方恐れを知らず、力も知恵もあったので、王女にごはんと刀を用意するよう頼んだ。王女は、鬼を退治してくれたら、人々が鬼のために持ってきた財宝をくれるといい、めくらは大喜びをした。めくらは東屋の扉を全て閉じさせた。夜、鬼が飛んできて、地鳴りが轟いた。いざりは恐れのあまり、小も大ももれそうだった。鬼は自分のための東屋の扉が閉まっていたので、誰が閉めたのだと聞いた。めくらは自分が閉めたことを答え、何も恐ろしいことなどないと言った。鬼がこの肝太の人間の肝の大きさを観て見たいと言ったので、めくらは鬼に大きなざるを投げつけた。それを見て、鬼は相手が自分よりも大きい人間だと思って、しらみの大きさや足の毛を見たいと言った。めくらが亀や縄を投げたので、鬼は恐ろしくなって逃げ帰った。しかし、王女は鬼女もしばらくして来るという。めくらは扉のところで待ち伏せして、鬼女が扉をはねのけて首を伸ばしてきたところに刀を振り下ろした。
 二人は財宝を手に入れて、旅立った。翌朝クロサン[83] の樹の下でいざりはめくらの肩から降ろしてもらうと、財宝分けを取り仕切った。いざりは良いものを自分の前に置いた。めくらは相手の魂胆を見抜いて、いざりの側にある方を欲しいと言った。そこでいざりは、これは不公平だからもう一回やり直そうと言った。そして今度は良いものをめくらの前に置いた。めくらは自分の前にあるものを触ってみて、これにすると言った。同じことを何度か繰り返しているうちに、クロサンの実が落下し、めくらの頭に当たった。めくらは相手が不満のあまり手まで出してきたと言って、いざりの手足を蹴飛ばすと、彼の手足が真っ直ぐになった。次にいざりの拳固がめくらの目に当たって、めくらの両目は見えるようになった。そこで二人は財宝を平等に分けて、再び旅立った。
 村人が東屋にいる王女を見に行くと、王女が生きていて、鬼が死んでいることがわかり、王の耳にも伝えられた。王女から経緯を聞いた王は、鬼を退治した人間に王女を妻に、そして王位を譲るために探すように命じた。御触れの者に出会っためくら氏といざり氏は何事かと聞いた。理由を聞いた二人は、非常に喜んで、それは自分たちだと伝えた。今は回復してしまったが、もともとめくらでいざりだったのだ。それを信じてもらえるように東屋から運び出した財宝を証拠とすることにした。御前に参上し、王と王女と確認し合った。めくら氏が王に、いざり氏が副王となった。苦楽を共にしてきた二人は幸せに暮らした。知恵の眼は肉眼よりも事を成す。

 この民話では、目が見えないことから起こる失敗を笑いつつ、しかし生きる上で必要な知恵によって富と地位を手に入れた「めくら」を賞賛している。また障害者観を考える上で興味深いのは、障害が無くなり、さらに王に二人の功績が知られた後、二人のタイトルは「アー」から「チャウ」に一段格上げされている点である。これは「一人前」の人間になったことを意味している[84] 。もともと、二人は下僕の身分であったことから、このタイトルの格上げは「自由人」になったことを意味するとも取れる。また、用いる場面、人物により「アー」には親しみと蔑視の両義性[85] があり、この話でも全編に渡り、一概に蔑視のみで判ずることはできない。しかし、前半で「障害者だから逃亡もできないにちがいない」という主人の意識やタイトルの格上げという観点から、関[1980:120-122]が昔話の「誕生譚においては動物形態、畸型児もしくは少童として現われ、求婚あるいは結婚することによって、人間に転化し幸福な婚姻に到達する」過程を、「成年式の儀礼の諸過程としばしば一致する」とみたように、障害者と非障害者の間の「一人前」という線引きの意識を読み取ることもできる。
 次の話は、耳が聞こえない者同士あるいは、耳が聞こえる者との会話の行き違いのおかしみを描いている。

 「つんぼ7人家族」
 ある夫婦が牛に田を耕させている男に道をたずねた。すると、つんぼの男は怒りながら答えた。「これは舅がくれた牛で、よそ様から盗んだんでねえぞ」それを聞いた夫婦は憤って去ってしまった。
 つんぼの男は正午近くになっても田を耕していた。そこで妻はこの夫のためにごはんを持ってきた。夫は先程夫婦に盗人呼ばわりされたことを妻に話した。夫が食べながら話すので、妻は自分が責められていると思って憤慨して言い返した。「あなたが正午まで耕しているから急いでごはんを持ってきてあげたのに、おらに愛人がいるだと」夫は口中いっぱいにごはんをほおばって、妻の言葉など何も聴こえていない。夫が食べ終わると妻はざるを抱えて去っていくので、夫はたずねた。「何でそんな急いで家に帰るんだ?」妻は言った。「絶対に両親に言ってやる」
 夫から愛人がいるとそしられたことを、妻は怒りで顔を赤くしながら母親に訴えた。すると母親は怒りに震えて言った。「お前が夫にごはんを持っていったとき、家で留守番をしていてあげたのに。帰ってきたらお前は母親のこの私が薬をくすねてココナツに換えてしまったと言う。お父さんに言って、お前を叱ってもらうんだから」
 父親は牛や水牛に田植えした苗を喰われないように、杭で囲いを造る作業から帰ってきた。母親が娘に盗人呼ばわりされたことを告げても父親も耳が聴こえないので、怒って母親を罵った。「俺が着飾ってどこの女と遊ぶと言うんだ。杭を打つための木を切りに行ってたんじゃないか。今度そんな言いがかりを付けてきたら、蹴り飛ばすまでだ」父親はごはんを食べると魚を釣りに行ってきた。夕方母親は父親のために魚を焼いた。そして、出家した息子とその兄に付いて読み書きを習いに行っている子のために魚を取り残しておいた。
 翌朝、母親はごはんを炊いて、お寺に持っていった。僧である息子に差し上げながら「私はあなた様をとても懐かしく思っています。それから、弟の方の勉強はなんとかなってますか?」僧である息子は答えた。「私、ここのところ、出家戒を慈しんでおります。還俗するつもりはありません」母親は兄に仕えている弟の方を呼んだ。「ああお前!お兄さんにさよならして、お母さんと家に帰ろう。一日二日でも、お父さんも会いたがっているよ」弟の方は答えた。「お兄さんは庫裏に干物を二尾取っておいてた。お兄さんが今朝食べ残したものを夕方僕が食べるよ」辺りの庫裏にいる他のお坊さんたちは皆、この母子のかみ合わないやりとりを聴いていて我慢できずに笑い声がざわめき立っていた。
 在家信者の母親は家に帰ると、父親にひざまづいて徳の回向を行なった。父親は答えた。「俺は吊りざるの中の煮付けをすっかり食べてしまったよ」母親も父親も互いに見合って目をぱちぱちさせ、それぞれ構わなかった。
 父親の妹が遠くの村からやって来て、ポングローの実[86] を一椀とプロホ・スワーの葉[87] を一束を兄に渡した。妹はたずねた。「田植えはどれくらい済んだの?」兄夫婦は答えた。「あれに夫を持たせるのにちょうどいい頃だよ。ただ、相手のトランプ、酒、アヘン癖については注意して見てやらないとね」この妹も耳が聴こえないので兄夫婦に言った。「私、口惜しくって。冬瓜一棚に実が付いたばかりなのに、メス豚に根っこの土を掘っくりかえされてだめになっちゃったのよ」兄夫婦は言った。「子どもが泣いてお前を探すだろうから、もう遅いし帰りなさい」
 夫婦に両親、成年僧にその弟、義妹の7人が皆つんぼで、会話がかみ合わない。だからこの話を「つんぼ7人家族」という。はっきり聴き取れていないうちに、眉をピクリと動かすものではない。

 この話では、耳の不自由な兄が成年僧となっており、障害者の出家を許さない『ヴィサイ・サーマネー(未成年僧侶式目)』「男子32項目」の第28項に照らすと例外である。しかし、民話の成立時期が出家の規則が一定のものとなる以前であれば、出家において障害が問題とされなかったのかもしれない。また、話者が僧侶の可能性もあり、ろう者を主人公としたのは教訓としての最後の一行をおもしろく伝えるための演出とも考えられる[88]
 民話が伝えたいことは「笑い」だけではない。「笑い」を通して諭すことは、教訓としての最後の一文が語るように、そこに生きていく上で必要な「賢い知恵」や「意思疎通の大切さ」などを伝えているのである。しかし「めくらといざり」も「つんぼ7人家族」も登場人物の障害故に起こる「失敗」を笑う笑い話である。ここに村人の障害者観の一端として障害者が「一定の社会通念」のもとで「笑い」の対象となりえたことを見ることができる。

2.2.職業としての道化
 では障害によってできること、できないこと、あるいは外見をネタとする笑い話の型[89] は、どのように職業として成り、カンボジア社会に定着していったのだろうか。クメール研究の古典とされるフランス植民地期のドラポルト(1842-1925)[90] の記述によれば、バッタンバン州の知事は「一寸法師や奇形児の幇間」を伴って外国の賓客を迎えた[91] 。いつも知事のそばにくっついているその幇間の役目は、古いカンボジアの俚諺通り「しょっちゅう機嫌をとる」ことであった[92]
 また、20世紀カンボジアの小人のコメディー王ロートーは、その芸名をスラマリット王(在位1955-1960)から芸術祭におけるパントマイムで最優秀賞を獲た際に賜わった。そのロートーはドラポルトの記した歴史を再現するかのように、現代カンボジアを舞台にしたアメリカ映画「シティ・オブ・ゴースト」[93](2002) でも、ケップ特別州副知事の代理として外国人の賓客をもてなすホストを演じている。このようにカンボジアを代表するコメディー王ロートーの次のような経歴からも「小人=芸人」というイメージがカンボジアの人々の間で一般的であったことが伺える。

 カンダール州カンダール・ストゥン郡で育ったロートーは、親の離婚と再婚で、13歳(1941年)のときに首都プノンペンを目指して家出をする。プノンペンで寄る辺もない浮浪児を憐れんだ人がシクロ(人力三輪車)に乗せて、シルップ市場近くの劇場街[94] まで彼を送り届けたのだ。そこでロートーは劇場主に雑用でも雇ってくれるよう頼み込み、やがてバサック劇[95] の道化として舞台に上がるようになった。芸人経験もなかったため、初めは他の芸人の型を演じていた。舞台で首をくくったがロープが切れてそれも叶わなかった。僧侶に諭されてからは自殺は考えなくなった。自分は手足が短く、シクロのこぎ手すらも[96] できない。自分には芸人しか道がないと悟った。その後お笑い芸人として映画に出演してからはあらゆる劇場、全国巡業、映画にと欠かせない芸人となっていく。カンボジアでは、バサック劇にしろ、映画にしろ、お笑いはなくてはならない要素であるからだ。ロートーは天賦の才があると言われたが、それは他者と異なる小人という体型ゆえであり、その体型や子供のような仕草に観客は笑いを堪えられない[97] [傍線は筆者]。

 大衆雑誌『プロチアプライ』では、「小人、真実の人生」特集[98] を行っており、ロートーを含めてプロの芸人として活躍する3 人、プロを目指す1人、地元で歌を歌う1人を取り上げている[99] 。非熟練労働の一つであるシクロこぎ手すらもできないと自ら思ったロートーと同様に、カウ・ウオイ(1959-、コンポンチナン州出身)も身体的条件から職業を選ぶことができず、その身体的特徴を元手に地元のバサック劇団に入団し、王子王女のお守り役やお化け、老婆、子供の役を演じていた。その名声からプノンペンのお笑いの舞台に上がるようになった[100] 。ロートーの相方であった女性カウ・イアク(1956-1996年、クラチエ州出身)[101] は、小学校入学1週間目にして、人と違う外見故に皆の視線が常に集中し、笑われるその恥ずかしさに自主退学したという過去を持つ。しかし、お笑い芸人一座の目にとまり、1981年以降アヤイ歌手[102] として、お笑い芸人として、その天賦の才によって口々にその名声は広まっていったのだった。
 このように、身体的特徴に基づく笑いの型が芸能の一つとして社会に認識され、それが職業として成り立っている。それはカンボジアの社会で生きていくためには、それを職業として選択する以外には道がない、という逆説的な意識の中での職業選択である。また同時に、大衆雑誌『プロチアプライ』誌上では、胎児期の発達異常を持って生まれた乳児や結合双生児を「世界のおかしな話」特集の中で取り上げて「奇蹟」として扱っているという一面もあり[103] 、大衆の好奇の目が上記の芸人に対する視線と基本的に同根のものであることが見えてくる。上記に引用した『プロチアプライ』誌でロートーの芸がカンボジアのお笑い界において「欠かせない芸人」になったと言われたように、「笑い」の分野でクメール文化の発展と継承への功績を讃えられたロートーは、2001年にシハヌーク前国王よりクメール文化芸術勲章を受章した[104] 。それがカンボジア人の「社会的通念」であり、「笑いとしての価値」を持つ限りにおいて、身体的特徴に基づく笑いの型が、メディアと大衆の好奇の目を助長し続けるという逆説的な相関関係にあるのである。

3.現代史上の戦争による障害者の生
 1953年の独立以降のカンボジアの現代史において、内戦の占める年数は20余年にも及んだ。これはカンボジアの障害者を考える上で無視することのできない期間でもある。それは「地雷と障害者[105] 」や「内戦による心的外傷後ストレス障害(PTSD)[106] 」の増加を内戦後のカンボジアを象徴する一つのイメージとして、カンボジア国内外の人々が持つに至ったことからもいえる。2001年のバッタンバン州における地雷除去の社会的経済的影響に関する調査報告では、前世の悪業の報いで被害者となったと捉えられる場合もあり、被害者とその家族は人前に被害に遭った姿を出すことを嫌い、そのことが被害の実態把握と被害への適切な処置を困難にしているという[107] 。その一方で以下で扱うテキストにおいては「障害は業罰」という因果応報思想は描かれることはなかった。それは、ポル・ポト政権下(1975-1979)において、仏教が徹底的に否定され、寺院も僧侶も壊滅させられたこと[108] に加えて、次の問題が大きかったと思われる。それはいつ自分が犠牲になるかもしれないという現実的に緊迫した他人事ではない問題であったことに加え、内戦による障害があまりに政治的な象徴であり、人為的なことの結果であるからだと思われる。2003年3月の『プノンペンポスト』紙掲載の元兵士の言葉はその政治性を象徴的に表している。

「私たちは戦った。個人的な利益のためではなく、国家のために」
「政府は肉体的に良好なときに私たちを必要とした。だが障害を負った今や、私たちを無視する[109] 。」
「戦争の間、私たちは国のために闘うことが誇りだった。私たちは英雄だったのだ。しかし、今私たちは飼い犬以下の扱いを受けている。」[110]

 社会事業・労働・職業訓練・青年更正省(1996年当時)は、1979年から1995年までの障害を負った兵士の総数を1万7,801人と報告しており[111] 、2002年教育・青少年・スポーツ省発行の教科書『社会科 第3学年』はその第1課「敬意を表す」[112] の中で、「障害者へ敬意を」を取り上げている。写真が地雷被害者を映し、本文の中でも障害を負った兵士を特に大きく扱っている。写真には2人の地雷被害男性が映っている。一人が片足で立ち、装具技師によって切断した足の義足のための計測を受けている。両足を切断しているもう一人は、隣でイスに腰掛けてその様子を見ている。おそらく、いすの後ろに置かれているのは彼がはずした義足であろう。

    本文:障害者は非常に困難な状況の下生きている。どんな理由で障害を負ったとして
       も、私たちは彼らを憐れみ、助けるべきである。
       軽蔑してはいけない。(障害による動作を)真似するべきではないし、愚弄して
       はいけない。特に障害を負った兵士には、金銭あるいは物資による援助を行なう
       べきである。彼らは自分の名誉と引き換えに祖国を衛ってくれたのだ。
    問い:1. 私たち人間はどういう理由で障害を負いますか?
       2. 障害者はどのような生活をしていますか?
       3. 障害者に出会ったら、あなたはどのようにすべきですか?
       4. 障害者が兵士である場合、あなたはどのようにすべきですか?
       5. どうしてあなたは障害を負った兵士を憐れみ、支援することを強めるのですか?

 このように教科書に取り上げられる障害者像としても「元政府軍兵士としての障害者」であり、国民として敬意を最も厚く表す対象として指導している。このことから、政府が演出する「英雄像」と、障害を負った元兵士たちの主張との温度差を読み取ることができる。以下では、カンボジアの現代史における、体制に翻弄された障害者のあり方から世相を大きく反映している障害者観を考察する。

3.1.ポル・ポト政権下[113] における障害者
 ポル・ポトの革命軍が首都プノンペンを陥落させた1975年4月17日、前ロン・ノル政権の軍人や傷病兵たちは旧政権の象徴であり、それはつまり資本主義という憎悪の対象としての敵でもあった。フランス人のカトリック宣教師であるポンショー神父は、革命軍兵士が病人や障害者を含めた全市民を都市から強制退去させたその日のプノンペンの光景を次のように記している。

 ちょん切られた虫のようにもがきながら進んでいく両手両足のない人、十歳の娘をシーツにくるみ、吊り包帯のように首から吊るして泣きながら歩いていく父親、足にやっと皮一枚でつながっている足首がぶらぶらしたまま連れていかれる男[114]

 そして当時国王としてポル・ポト政権に幽閉されていたシハヌークの証言によれば、旧ロン・ノル軍の傷病兵や障害を負った兵は、ポル・ポト政権によって処刑されたという。それは強制退去の際に歩くことを拒み、自動車による輸送を旧ロン・ノル政府軍兵士は求めたが、ガソリンがもったいないとの理由で処刑したという[115]
 また、生き残れたとしても、米などの輸出産品の生産能力の向上を急ぎ、ダムや水路の建設といった過激な労働を国民に強制した[116] ポル・ポト政権(1975-1979)の下では、生産性の高い労働力となるか否かで食糧の量や生死が決まった。ポル・ポト政権はその組織、その権力を「オンカー・パデワット(革命組織)」あるいは「オンカー・ルー(上層部)」とし、「オンカー」[117] と呼んでいた 。ポル・ポト政権期を生き延び、難民としてアメリカ合衆国へ移住し、「地雷のない世界へ」というキャンペーンの広報を担当しているウンの証言がここにある。

 ……ここで働かされる人は村へは戻ってこない。地雷を踏んで、胸や脚を吹き飛ばされたら、もうオンカーには必要のない人間になるからだ。そうしたことが起こると、兵士が銃を撃ってその人たちの作業を終わりにさせる。この新しく純粋な農耕社会では身体障害者が生きる余地はない[118]

 その絶対なる「オンカー」にとって生産性の高い労働力とはどういうものか、そしてその食糧の量の差について、カンボジア人の夫を持ち、その子供とポル・ポト政権下の困難を生き抜いた日本人女性・細川美智子さんの証言から明らかになる。

        /第一級 労働意欲も体力も申し分ない(優秀) 
       |     通常の農作業+ダム・水路建設のような過重な労働義務を課されていた。
       | 第二級 労働意欲、体力ともに第一級よりやや劣る(普通)
      /      部落内の農作業
    ▽ \  第三級 労働意欲があっても乳幼児がいて十分に働けない(条件
第三級以下は |     つき普通)
米が乏しい  | 第四級 体力の有無にかかわりなく、労働意欲と思想に問題があり   
時は食事抜き |     (要注意)   
となりうる。  \第五級 老人、身体障害者、虚弱体質の人など 
              [井川と細川、1980:93-96]より筆者作成

 図のように障害者や老人、虚弱体質の人など社会的弱者とされる人々は第5級という最下位に位置付けられ、食事の量はままならなかったことがうかがえる。
 また、チャパイ奏者のプラーィチニャ・チュオン(1975年当時39歳)は7歳より半径5メートルがぼんやりと白い影となって見える視覚障害者であったが、他の一般の人々と同じように労働をさせられたという。その労働とは、屋根や壁となるヤシの葉を編んだり、バナナの根を踏んで豚の飼料を作ったりすることだった。スパイにより殺されそうになるも、銃を持っているわけではないからという地区長の判断で命拾いをした[119]
 このように一言に障害者といっても、その人の持つ社会的背景や障害によって生死が決まる状況にあった。すなわち、旧政権を象徴する軍人・兵士たちは処刑され、また民間の障害者にあってもその生産能力の多寡によって状況は異なったと考えられる。

3.2. プロパガンダ文学の主人公としての障害者
 ポル・ポト政権から政権を奪取すると共に非人道的な生存状況から国民を解放した、ヴェトナム寄りの社会主義を柱としたヘン・サムリン政権(1979-1991)において、文学はプロパガンダの一手段として統制された状況で出版された[120] 。以下では、同政権下で社会主義思想や愛国のプロパガンダとして扱われた文学作品に現われる障害者から時代と政治的背景を反映した障害者観について考える。

3.2.1. 植民地フランスからの独立
 『徴用労働者(クーリー・コムナエン)』(1956年)は、1953年にフランスから独立した直後に刊行された。その後、ヘン・サムリン政権下[121] では教育省より、12年生(日本の高校3年生にあたる)用の副読本として発行されている[122]
 舞台となるのは1935年から1956年にかけて、フランス植民地から独立に向けてインドシナが動いていた時代のカンボジアである。とりわけ中心となるのは、表題にもある通り、1941年から1945年まで日本軍が占領し、空港を建設のためにカンボジア人を徴用していたことである。このヴェトナム人が悲惨な状態にある理由について「短足の在家」と僧侶が問答をしている。その中に因果応報論が現れているが、著者の目的は現状を的確に認識し、その原因に対処していくことである。つまり、現状に甘んじることになりがちな因果応報思想を打破することにある。

 僧侶たちは口をそろえて言った。「ヴェトナム人の悲惨な苦しみは前世に己が為した悪業から生じている。故に、この世で己の業果を受けなければならない。それを脱するには涅槃の道を求めなければ」
 短足の在家は答えた。「ヴェトナム人とクメール人の悲惨な苦しみは、この両国政府の統治の仕組みにある。人民を朝から晩まで毎日働かせて食べるものもない状態が何年にもなっているのは、寄ってたかって自分の利益を守ろうとするフランスや雇用主たちの圧制による」[123]

 「短足の在家」は本当の名前ユムよりも、この通称で登場することが多い。フランス学校を卒業後、赤足の軍隊に入隊して第一次世界大戦のフランス戦に出兵した。除隊後はフランスで労働者となり、4、5年のフランス滞在でフランス人の自由思想を賞賛していた。カンボジアに帰国後も政府の命令で2年間赤足の軍隊に入れられた。フランスはインドシナにおける抗仏ゲリラ闘争において、カンボジアに後方援護させていた。ユムはフランス植民地当局軍の残忍な行い(レイプや子ども殺し、略奪)に敵対するようになり、フランスより先回りして農村地帯へ資金を戻した。植民地当局に追われ、狙撃されたことで左足に障害を負って以来、足を引きずるようになった。当局はユムを発見できず、死亡として戸籍からは抹消された。
 この中で、障害を負うが人民に独立闘争の思想を説き奔走するユムの姿は、植民地として自由にならないが闘うカンボジアを象徴している。この闘争の姿勢、その思想に一つの歴史的価値を見出してヘン・サムリン政権は、12年生用副読本として位置付けていた。

3.2.2ヘン・サムリン政権期以降の内戦による障害者
 地雷被害者のリハビリテーションを中心に障害者のエンパワメントを行なっている、国際NGO・HANDICAP INTERNATIONAL BELGIUMの2001年の年次報告書によれば、カンボジアにおける地雷障害者数は3〜4万人である[124] 。坂梨[2001:27]は、1979年から1999年の20年間の被害者の割合は市民が53.1%に対して、兵士が46.2%であり、1984年から1991年のパリ和平協定までの内戦の期間は被害者の多くが兵士であり、それ以外の期間では市民の被害率が高まっているという[125] 。以下で扱うテキストに登場する障害者は全て政府軍兵士であり、その任務中に地雷被害に遭っている。
 ヘン・サムリン政権下で発表された『春(ロダウ・プカー・リーク)』(1986)の序文では、「カンプチア人民革命党ならびにカンプチア・ヴェトナム・世界の社会主義国家の兄弟の友好親善に」という言葉に続いて、「カンプチア革命のために、人民のために犠牲となった兵士、負傷した兵士、障害を負った兵士に」捧ぐとある[126] 。本稿に取り上げた3作品を通して主人公は親兄弟の仇(ポル・ポト政権下で虐殺された)を取るために政府軍の志願兵となり、任務中に地雷を踏んで障害を負う。
 『泣くな、弟よ(チョップ・ユム・タウ・オーン)』(1988)[127] は、モデルとなった女性の依頼により著者が新聞小説[128] に連載した作品『アエク凧[129] の哭き唄(トゥムヌオニュ・クラエン・アエク)』を、モデル女性の状況の変化に伴って修正したという興味深い作品である。その女性は婚約者が障害を負ったために母親から別の男性との結婚を諭されていた。そこで著者も小説の結末をヒロインの死で締めくくった[130] 。しかし、連載終了から5ヶ月後、その女性は障害のある元婚約者との結婚が叶うことになった。その結果著者はヒロインを生かし、結婚するという結末に書き直して出版したのである。ただ、結婚が可能となったのは第一に、新しい婚約者が非合法の事業によって逮捕されたことが大きかった。さらに、娘の元婚約者に対する想いを断つことの困難さや元婚約者の人柄について母親も理解を深めたことに加え、地方行政から村の人民としての紹介という後押しがあったという。しかし、著者も説明しているように、小説には事実を全て挙げることは避けたため、新しい婚約者の話は一切語られない。
 修正の後に改題した題名は主人公ナルンの台詞である。ナルンはポル・ポト政権下に両親と弟が虐殺された。その仇を討つために兵隊に志願した兄と離れて暮らしていた弟が再会した時に、片足を地雷で喪った兄に対して大声で泣いたのだった。また、ポル・ポト軍の居場所をナルンに伝えた子供は、その結果ナルンが地雷で片足を喪ってしまったことに非常に責任を感じていた。しかしナルンは言う。「障害を負った僕の片足とオク(ナルンの父親を処刑した男)の殺した数十万もの人民の命と。もし奴が生きていて、僕らの国の安全を考えたらどちらがより大切なことかな?[131] 」そのようにナルンが言えるのは、親の仇討ちを果たし、「国のために自分を捧げ、犠牲を払うことができて非常に満足[132] 」な結果となったからである。以下は小説の最後でヒロインの母ナップが障害を負ったナルンを暖かく励ます場面である。

ナップはナルンの肩をやさしくなでて云った。
 「息子や!おまえの英雄ぶりは村中で有名だよ。誰もが関心してほめている
  この障害を悔やまないんだよ」
 ナルンは顔を上げ、涙で一杯の目で将来姑となる女性を見つめた。彼は例えようも  
ないほど感激し、幸福であった。ナップが依然と同様に自分を愛し憐れんでくれてい
ることがわかって幸福であった。
彼はナップの胸にうつ伏せて、小さく、小さく感嘆
の声を上げたのだった。
 「義母さん!義母さん!」(了)[133]  (傍線は筆者)

 このように政府軍としての行動は英雄視され、その結果の障害を悔やむことはないと自身も周囲も評価する。しかし、同時に障害を負ったことによる結婚への影響を不安に思う状況も描かれている。『巣に還る鳥(バサイ・スヴァエン・ローク・トロノム)』(1990)で、地雷により負傷した兵士・チョムノーが、恋人で医学生のピサイに尋ねる。

 「ピサイ! もし僕が障害者になったとしたら、君は僕を愛してくれるかい?」
 「たとえあなたが腕を喪おうとも、足を喪おうとも、両目を盲いることになろうと
も、ひるむことなく私はあなたを愛します!私があなたを愛するのは、祖国と我ら
人民に最も高貴な貢献をしている、あなたが勇敢で立派な戦士のひとりだから
!そ
して誓って言うわ。もしこの世にあなたがいないのなら、独身を貫きます!」[134]

 以上のように、ヘン・サムリン政権のプロパガンダとして取り上げられた障害者は、政権側の兵士として障害者となり、愛国を表し、愛する者の仇を果たす英雄譚として描かれる。そのため主人公の周囲が障害を嘆き悲しもうとも、障害を悔やまず、かえって誇りをもって将来へ向かう。しかし、いかに英雄譚であっても、若者たちにとって障害を負うことは結婚において一つの障害となり、物語の展開の中で葛藤の場が描かれることも事実である。
 また、雑誌『プロチアプライ』誌上のインタビューでは、政府軍兵士として地雷除去中に両手と片目を「盲いた」男性がその後の努力と職業訓練によって、団体の管理職に就き、足に障害のある兄を持つ女性との恋愛結婚も成就したという生活の安定したケース[135] として取り上げられる一方で、若いうちに戦場に駆り立てられ、軍事以外の教育や職業技術を身につける機会がなかった障害を負った元兵士たちが、傷痍軍人恩給があっても恒常的に遅配が多く、生きるために家族を養うために、物乞いとなる他ないというケースもある[136] 。本章冒頭のプノンペンポスト紙の元兵士らの証言も含め、2002年度の社会科の教科書における扱いとを照らし合わせてみると、現実の生活では多くの場合において「英雄」とは対極の障害者観の中にあることが明らかとなった。

おわりに
 これまでカンボジアの障害者観を考察してきた。国民の約9割が仏教徒であり、年間行事が仏教行事とともに進行するカンボジアでは、仏教に基づく「障害は前世からの業罰」という因果応報思想が日常のさまざまな場面で繰り返されている。また、カンボジアの「笑い」における障害者観では、「障害者はできるか、否か」という視点で、あるいは「好奇」の対象として捉えていることが明らかになった。この障害者観も「前世からの業罰」という意識と同様に、現代社会においても深く浸透しており、障害者が社会で活動する上で大きな障壁となっていると言える。また、現代では20余年の内戦を経て、カンボジア人の障害者観には「前世からの業罰」では語りきれない戦争や政治的な象徴としての側面が加わってきた。これまで口承においても、活字においても、多くの場合においてメディアは、日常の生活の中で障害者観の負のステレオタイプを普及させてしまう側面を担ってきた。そのことは多くの障害者が社会参加しにくい状況をつくっている。
 国連アジア太平洋経済社会委員会(ESCAP)の第2次「アジア太平洋障害者の10年 2003-2012年(58/4決議、2002年5月)」の行動枠組として、「びわこミレニアム・フレームワーク(2002年採択)」が採用された。2000年のミレニアム・サミットで各国首脳陣によって合意された、国連のミレニアム開発目標(The Millennium Development Goals)は貧困削減と生活の向上を目指した、2015年までに達成すべき行動計画[137] であるが、それについて、障害者が障壁のない、権利に基づいた社会への統合を目的とした施策を補足するものである。ここでは、7つの優先すべき課題の1つとして、「能力開発と社会保障と生計を立てる手段による貧困削減」を挙げている。これは、各国政府と同様にカンボジア政府も取り組むべき課題である[138] 。障害者の多くは貧困の中におり[139] 、教育・就労・コミュニティの意思決定過程への参加などにおける社会参加の機会を阻害することは、貧困からの脱却をより困難にするだけではない。健康・栄養・衛生状態、労働環境すべてにおいて劣悪な状態で、障害原因の予防に必要な情報にアクセスできないということは、当事者とその家族を予防可能な障害の原因からも守りにくい状況へと追い込んでしまうことを意味している[140] 。そのことは貧困から脱却できないという悪循環を産む。障害者の社会参加を促進するには、物理的・文化的・制度的な環境障壁を取り払う必要がある。その文化的障壁として人々が抱いている負の障害者観を撤廃するには、障害者が他の障害者に意義深いロール・モデルを示すと同時に、社会に対してアピールしていくことが最大のエンパワメントになり、社会を変えうる力となるといえるだろう。
 元兵士で地雷によって障害者となったトゥン・チャンナレット氏は車イスを設計し、修理しながら、他の地雷被害者をエンパワメントし、社会参加を促していく活動を行なっていた。1997年にノーベル平和賞を国際NGO「地雷禁止国際キャンペーン(International Campaign to Ban Landmines:ICBL)」として団体受賞した際に、彼が代表して授賞式に出席したことは、国際社会だけではなく、カンボジアの人々が抱いてきたであろう、これまでの負の障害者観を覆すようなロール・モデルを示す歴史的な出来事となった[141]
 それに加えて、次のような啓発を目的としたメディアが主流になることによって、障害者の自立した生活が語られることは今後カンボジアの障害者観を動かしうる一つの流れとなる可能性をも持っている。その一つとして、地雷による障害者が活躍する障害者スポーツは、雑誌『プロチアプライ』でも数回に渡り特集されている[142] 。内戦により、「愛国」や「愛する者のために」を胸に人々は銃弾や地雷によって障害を負った。そこでは「一度喪われた人生」をメダルに塗り替えて、それを誇りにし、希望として日々精進している姿が描かれる。さらに、2005年カンボジアは「障害者バレーボール世界機構(WOVD)アジア・オセアニアバレーボール・チャンピオンシップ2005」のホスト国となる。これはカンボジアの国際スポーツ界のメンバー入りを意味する歴史的なイベントとなると予想されている。その中で意義深いことは援助機関だけではなく、民間企業も一丸となって「カンボジアの障害アスリートのスポーツ及びリクレーション活動の発展」を目的として、第3回カンボジア障害バレーボール・ナショナルリーグをサポートする機運が高まっていることである[143]
 また、雑誌『プロチアプライ』による障害者スポーツや障害者の教育機会に関する特集[144] 以外にも、カンボジア語日刊紙『リアスメイ・カンプチア(カンボジアの光)[145] 』における「全ての児童に教育を[146] 」というシリーズの紙面で、障害児童の教育を受ける権利や本人の学ぶ意欲などを紹介している[147] 。さらに、カンボジアにおけるメディア史上で最も画期的な企画が、自らも内戦で片目を喪って義眼を入れているフン・セン首相の後援を得て開始された。国立障害者センター制作の障害者の生活と問題を社会に啓発する番組「ヴェテカー・チョン・ピカー(障害者フォーラム)」[148] が2004年より手話通訳付きでテレビ放送され始めたことだ。ここでは、障害者の職業や障害児童の公教育への統合の現場を取り上げ、自立生活における障害者自身による自助(例えば、地雷被害者による車イスの製作や、縫製工場で縫製に携わる姿や、当事者同士の情報の共有など)を示すことで社会の理解を促進することを目的とし、さらには2004年以降の障害者に関する政策や活動の指針を討論し提言している。そのテーマ曲には、本稿第1章でも取り上げたチュオイ・ソピエプの「チイヴット・チョン・ピカー(障害者の人生)」が採用されている。
知的障害者と精神障害者における問題や高齢化した障害者の問題などを含め、障害者の社会参加における環境障壁を当事者の声の側から認識し、カンボジア社会とその発展について継続して考えていくことを今後の課題としたい。


文末脚注
1 Cambodia Inter-Censal Population Survey 2004 (CIPS), Ministry of Planning/National Institute of Statistics によれば、2004年現在、人口は推計で1309万1000人とされる。
2 San[2003:118]のこの統計は、Socio economic Survey of Cambodia, Ministry of Planning/National Institute of Statistics,1996からのものだが、同時に、国連(United Nations and Disabled Persons, Bangkok,1999)による試算である140万人という統計も示している。 このことからもわかるように、Sanはセミナーの報告でも、現在のところ信頼しうる統計は難しい状況にあり、今後、障害の分類の定義や統計の方法などを統一していきたい、と述べている。
3 その他の民族としてヴェトナム人、華人、チャム人、複数の先住民族がいる[綾部、1996:85-101]。
4 第四三条。信仰の自由は認められており、チャム人のイスラム教、ヴェトナム人及び少数のクメール人のキリスト教(カトリックが主)、ヴェトナム人のカオダイ教などがある[林、1996:113-114]。
5 三枝[1990:120]によれば、「おこない・行為をインド一般にカルマ(カルマン)といい、業と漢訳され、インドの宗教や哲学において最重要視されて、今日に及ぶ。カルマは、なす、つくるを意味する動詞「クリ」を語根とし、この述語はすでに古ウパニシャッド中に輪廻思想と関連して説かれる。」石井[1991:118]によれば、「プロム・リカット(神によって記された運命台帳)」に対して、「人間の行為の軌跡」を意味する。
6 San前掲書、pp.118-119。
7 Green & Nara, Phnom Penh Post , 6-19 Dec. 2002。国際障害者デーは1982年の国連総会決議47/3号に基づき、2004年で22回目を数えるが、カンボジアでは1999年から実施している[メeveryday.com.kh"ポアドミエン・トゥガイ・ニッヒ(今日のニュース)03/12/04 http://www.everyday.com.kh/non_members/channels/news/khmer/2004/12/031_5229_%20crippl.htm]。国際障害者デーが22年を迎えることには、次の背景がある。「国際障害者年」が1981年であり、1983年から1992年までが「国連障害者の10年」であった。発展途上国の障害者への取り組みが必要であるとの報告から、1993年から2002年を「アジア太平洋障害者の10年」としてアジア太平洋地区の障害者の生活、人権、福祉、医療、教育などに対して各国が行動計画を策定し推進することとなった[ニノミヤ、1999:64]。
8 San前掲書、p.118
9  障害者全般を表す語は「チョン・ピカー」である。「チョン(人)」と「ピカー(障害)」の合成語である。同じく「人」を表す「ネアック」で、「ネアック・ピカー」を用いる場合もある。しかし、小人の場合は、「ピカー」を用いず、「コッホ・クナート(異なる形状)」に分類される。
10 日本における障害者と差別語の問題については、生瀬編(1996)が詳しい。
11 例えば、「クヴァック(めくら)」と「ピカー・プネーク(視覚障害者)」の2語である。
12 生瀬、1994:12。
13 これは内戦終結後の1994年11月に創刊された、カンボジア初の総合娯楽雑誌である。月3回の発行で価格は3000リエル(2000年3月以前は月2回、2500リエル)、雑誌の流通、読者の購買能力(識字能力や経済能力)から見て、都市部の中産階級層が読者ターゲット層とされる[岡田、2001:26-27]。創刊第1号より270号(2004年6月)までにカンボジア人障害者に関する記事は、芸能人から一般人まで延べ53件(外国の事例は24件)見られた。東京外国語大学カンボジア研究室所蔵。
14 中西と上野、2003:6-8。中西と上野によれば、この「自立生活」という概念は、それまでの「だれにも迷惑をかけずに、ひとりで生きていくこと」を「自立」とする自立観を、自己決定権がある生き方を「自立」と定義して、社会にパラダイム転換をもたらした自立生活運動という障害当事者運動によるものである。1970年代にアメリカで生まれた自立生活運動は、障害者が「保護」という名目で、施設に入れられ、自己決定よりも、医療側の専門家の決定によって人生を決められてきた歴史への疑問と、障害者自身が自分たちが必要なサービスを障害者へ提供できるという実践から始まった(前掲書pp.22-29)。
15 ニノミヤ、前掲書pp.38-39。それによれば、10の環境障壁が挙げられている。すなわち、@障害を恥・罪とする価値観A経済的保障が不十分なことB社会的環境C教育環境D就労環境E社会経済的地位F希薄な家族・友人・隣人の人間的支援G交通機関環境H建築物環境I法律制度環境。
16 中西、1996:21、86、127、143。また、高橋[2000:120-121]によれば、中世イタリアでは「双子や障害児が生まれるのは、神が親の罪を知らしめるためであるという言説が、人びとのあいだで信じられていた」という。「当時の教会の教義によれば、障害児が生まれるのも、その親が教会の教えに従わず、逸脱した『恥知らず』な夫婦生活を営んでいることの証しであった。そのために、障害児が生まれた場合、親が社会的な不名誉を被ることになるので、これを避けるために、こどもが養育院に送られたのである」は、双子の場合は経済的・心理的負担により片方を手放したとしている。同じく高橋によれば、養育院には、すでに死亡したこどもも運ばれて来たことから、庶民のあいだでは、養育院はこどもに関するあらゆるケアをしてくれる場所とみなしていた。
17 野間と沖浦[1983:56-57]によれば、癩を病んでいる者、さらには女性も「穢れ」とみなされ、それは現在の差別全般につながっているという。
18 野間と沖浦、前掲書pp.56-57。また、中西[1996:143-144]が、バングラデシュのイスラム教の事例を伝えている。「前世の罪」という意識に加え、「肉体がアラーの前に出るには不完全であるとの理由で、モスクで祈ることさえ許されないことがある。」
19 日本では、謡曲「蝉丸」のように、視覚障害は自分の所業が至らない故であり、父君はその罪障を晴らすべく、出家する機会として、従者に自分を森に捨てさせるのだ、という論理がある。また、日本の昔話として「耳なし芳一」が広く知られているように(中山[1985:160]によれば、「耳切り団一」)、琵琶法師には視覚障害者が多くいた。しかし、琵琶盲僧とは「盲人の清僧では無くして、既に寺を離れて経文を琵琶で弾奏する下級の盲僧」を意味しているという [中山、前掲書p.69]。
20 Nakry他、1998:64。翻訳は筆者による。
21 ヨンとヌワン、1972:32-33。
22 石井[1991:69]は、その項目が、「らい、るいれき、てんかんなどの病気にかかっていないこと、自由人であること(奴隷でないこと)、負債のないこと、官吏でないことなどの合計八項目が伝統的要件とされている。」としている。
23 ヨンとヌワン、前掲書pp. 32-33。
 『ヴィサイ・サーマネー(未成年僧侶式目)』
「男子32項目」

 仏陀は32の男子に得度することをお禁じになった。
1. 腕を切断された者           17. 足が麻痺している者   
2. 足を切断された者           18. 悪い病気の者
3. 腕足、共に切断された者        19. 処罰された悪い信徒
4. 耳を切断された者           20. 腕や足の曲がった者
5. 鼻を切断された者           21. 盲目になったばかりの者
6. 耳鼻、共に切断された者        22. 足をひきずる者
7. 手指を切断された者          23. 半身不随の者
8. 手足の親指を切断された者       24. 四肢不自由の者
9. 神経が切れた者            25. 年老いて衰弱している者
10. 手指がくっついている者        26. 盲目の者
11. 背中にこぶのある者    27. 口が利けない者
12. 小人の者       28. 耳が不自由の者
13. 首にこぶができている者        29. 盲目かつ口が利けない者
14. 鞭で打たれた者     30. 盲目かつ耳が不自由の者
15. 病気によって傷跡ができた者      31. 口が利けず、かつ耳が不自由の者
16. 刑の執行を猶予する官吏である者    32. 盲目かつ口、耳共に不自由の者
          
 この32に当てはまる男子が、もし頑固に出家し、未青年僧となった場合、出家させた者は、罪障を受ける[翻訳は筆者による]。 
24 ドラポルト、前掲書p.208に記録されている、文化人類学者エイモニエ(Aymonier)氏の翻訳による。
25 出土した遺跡が現在のところ「不明」とされている石像で、その時代にはかなりの量が造られ、配置されていたと考えられている。現在、アンコール遺跡保存修復事務所所蔵。
26 ダジャンス、1995:182-183。
27 2004年8月のカンボジア王立芸術大学考古学部長への筆者によるインタビュー。
28 松本[1968:16-18]は、その本文にもあるように、ルクレールの報告、Lecl俊e, Adh士ard. 1917. Cambodge, tetes civiles et religieuses, Paris(『カンボジア、その俗的及び宗教的祭典』によっている。ルクレールが調査した際には、すでにその30年前にこの王が三日間假王に位をゆずる習俗は途絶えてしまったという。
29 「クリス」とは、腰にさす両刀の短刀 [坂本、1993:59] か。
30 セデス、1990:199。
31 前掲書、p.199。また、アンコール・ワットの向かい側にあるプラサート・タプローム・カル(いざりのブラフマ)という遺跡も、同様の機能を果たしたとされる。『クメール民話集・第5集』には、コンポンチャム州のチャップ・チャン先生の語りとして、次のような民話が語られている。ある杖を手にした男がその杖の力により、王となった。王になって7年と7月、7日目に地上にあまねく照らす月に3重のかさのある星がひとつ昇って明るく輝くのを目にし、占星術師に占わせたところ、占星術師は非常に徳のある者がこの国に誕生し、その御方が国を治めるであろうということだった。王は権力を譲りたくなかったので、国中の妊婦を殺させた。王の側女の一人が火の中で息絶えていたが、赤子が産まれ落ち、役人たちに助けられ密かに森に隠された。火の中で産まれたため、そのやけどによって、四肢はくっつき合っていた。その子を森で修行をしていた僧侶が養い育て教育した。ある日、杖の王は月と対になって昇る星を見た。占星術師は「徳のある御方がお生まれになった。王よりも強い徳をおそなえになっている。5日後白い馬に乗って東北の方角から現れ、この国をお治めになるでしょう」と告げた。国中の者たちは徳のある御方にお会いしようとアンコール・ワットにある王宮を目指した。タプローム・カルも養い親である僧侶と別れ、村人とともに都を目指した。タプローム・カルが人よりはるかに遅い足取りでいざり疲れ果てていると、インドラ神の化身であるおじいさんが現れ、白い馬と着物と食べ物をくれた。おじいさんの言うとおりに手綱を四肢に巻きつけると、四肢がからだから離れ、身動きできるようになった。占星術師の言うとおり、タプローム・カルは空飛ぶ白い馬に乗って、王宮の上空に現れた。王は力ある杖をタプローム・カルに向かって投げつけたが、当たらずにどこかへ飛んでいってしまった。王は自分に権力がなくなったことを悟った。この杖が落ちた地をバッタンバン(バット・ドンボーング、すなわち「杖を喪う」)と呼ぶ。そして、タプローム・カルが王位に就き、インドラ神に助けられた地に寺院を建てた。これがプラサート・タプローム・カルである[仏教研究所、2001b:98-100]。
33 前掲書、p.199引用。
34 前掲書、p.200引用。これは、セデスによれば、癩王伝説を研究していたゴルベフ氏に、メナール博士が提供したノートを、ゴルベフ氏の申し出によって見たセデスが抜粋したものである。
35 省略した部分では、同じ浮き彫りに描かれた治療薬について、説明している。「その他の重要な注目事項。患者の両脇に円形の果実を一杯にした容器を持っている人がいる。これは大風子(クラバオ)の実ではあるまいか? 学名ヒドノカルプス・アンテルミンチカはクラバオと呼ばれていて、アンコールの森に大へん広く分布している木である(なお現在もカンボジア人はクラバオの炒った実を病人に食べさせてレプラの治療にあてる)。
[古来から大風子の実から採った油、または実を煎じて膏状にしたものを薬用にした(訳者による注解)]」
36 伊東[1993:186、196]では、「王」としている。
37 岡田[1996:30]
38 伊東[1985:17、23-24、75-81]によれば、インドでは、サーンチー遺跡第1塔(マウリア王朝の仏教王であるアショーカ王[前273-236]による建立とされる)、西門の石柱の浮き彫りに、アジャンター石窟(前2世紀から後7、8世紀までの壁画が見られる)第10窟の側壁の壁画(この石窟内でも最古の前2世紀の作品といわれ、インド最古のジャータカ壁画とされる)に描かれている。
39 インドの『ヒトーパデーシャ』は、カンボジアでは『スライ・ヘタオパテ』としてカンボジア語に翻訳され読み親しまれている。「印度には古来から婆羅門(僧)族の梵童や王子等を教育する為に色々の説話・童話・物語が作られてあって、それらの子女の道徳教育の為に役立っていた。五巻抄(パンチャタントラ)・利益の説話(ヒトーパデーシャ)・話の海(カターサリット・サーガラ)・タントラアークヤーイカ等がそれであり、摩訶婆羅多・羅摩耶奈の大叙事詩もその目的に使われた。それらの印度古来の物語・エピソード・ロマンスの主人公を本生話の主人公の菩薩・大士に入れかえて、その行為を仏教の徳目−波羅蜜に結びつかせれば、即座にヂャータカ−仏の前生修行物語になるのである [平等、1983:8-9]。」そして「仏教教団では新入門の修行者たちの修行の指針・教科書として役立てたのである。一般社会人には難しい教理を説くのではなく、低俗の庶民に面白く話し聞かせて、その内に若干の仏教的真理を織り込んだのである[平等、1985:8-9]。」
39 岡田[1996:155] 。13、4世紀よりそれまでの大乗仏教に変わって、上座仏教が支配的となっていた林[1996:115]。
40 渡辺[1974:165]。さらに、渡辺[1974:165]は、それが「ボサツ(仏陀)の信条」であり、特に在家信者にとっての「仏教のモラル」であるという。
41 REYUM[2003]、pp.3-4。
42 Jacob[1996]、p.50。
43 前掲書、pp.3-4。
44 Jacob、前掲書p.51。それによれば、3カ国において共通しているのは50話中15話で、さらに他の4話において、ラオスとカンボジアが共通している。
45 大塚[2001:35-38]は、平安文学の中でブス・ブ男が急増しているが、それは「完全無欠の美貌の人」すなわち仏、という仏教思想に基づくものだと指摘している。この仏教思想を日本で最初に取り入れ、広めた仏教説話集『日本霊異記』(822年頃成立)を挙げている、善悪の報いを描いたその物語に登場する、『法華経』に基づいた障害者観として、「現世の身体障害は仏罰である」ことに触れている。そこで、「身分も健康も見た目も、前世の善業や悪業しだいという仏教思想の導入は、高貴な者と下賎な者、健康者と不具者、長身者と短身者といった違いに、道徳的な優劣をつけるものとして画期的だった」としている。その優劣によって、「恥じる」、「後悔し憂え」るようになっていったという。柳田[1964:104]は、日本の仏教実践に比べ、「この罪業観ばかりは最も弘く徹底してゐる」としている。「親を睨めばヒラメになる」など「前世の罪を説く諺の多いのは、乃ち後世の為に現世の悪行を戒める教へだつた」という。
46 この物語をモチーフとした彫刻や壁画は、以下の海外の遺跡で見られる。サーンチー遺跡より古い、インド最古の仏塔バールフト遺跡(ジャータカ彫刻美術の宝庫とされ、前2世紀の作品とされる)の欄楯彫刻に見られる。現在では保存のため、コルカタのインド博物館バールフト室で展示されている [伊東、1985:37-43、48-52]。スリランカのポロンナルワ遺跡、ティヴァンカ・ピリマゲ堂に見られる(パラークラマバーフ1世王[在位1153-1186]による建立で、この王かパラークラマバーフ2世王[在位:1236-1371]のころ、描かれたとされるスリランカ最古のジャータカ壁画群である) [伊東、1993:45、54-55、58-60]。ミャンマー・バガンのローカティパン寺西壁、ミンガラー・ゼーディー(1274年完成。バガン王朝11代目ナラティーハパテ王[在位:1255-1287]による建立)、ミンカバー村クービャウチー寺、ウェッチーイン村クービャウチー寺前室南壁(13世紀初期)、マンダレーのシュエ・ナンドー僧院の木彫(1880年にアラウンパヤー王朝最後の王ティーボー[在位1878-1885]による建立)で見られる[伊東、2003:275-276、352-353]。
47 これは、『ルーワン・プロチュム・プレーン・クマエ ピエック・ティ・プラム(クメール民話集第5部)』の「16.ルーワン・プノム・ニアン・コンライ・ヌウ・カエット・コンポン・チナング(コンポンチナン州にあるニアン・コンライ山の話)」として、一般に知られている。この山は、夫であったラタセーナに置き去りにされたニアン・コンライが泣き崩れて、死んだ後に山となった。そして、地元の人々がその山に生えている植物を食さないのは、ニアン・コンライの陰毛であると信じているからだ、と民話は伝えている[仏教研究所、1990c:142-144] 。
48 渡辺[1974:79]によれば、「のちに仏陀となる人を仏教文学の作者たちはボサツ [菩薩]とよぶ(…パーリ語のボーディサッタ bodhisattaの省略)。ボサツというのは“仏陀となる資格をそなえたもの”という意味で、…すなわち、その多くの過去の生涯および、この世に生まれてから仏陀として成道するまでをボサツという。」
49 あらすじは以下の通りである。ポーティサットと同時に生まれた、王の側近たちの赤ん坊500人は、泣いたり、叫んだり、乳をせがむ一方で、ポーティサットは微動だにせず、泣いて乳を求めたりしない。王がバラモンや長老、賢者を集めて検討をした。「四肢が不自由な者の手足はこのようではない。口が利けない者のあごはこのようではない。更に、耳が聴こえない者の耳の神経は、このようではない。おそらく、何らかの理由があって、このようにしているのだろう。」[ソム1959:7]
ポーティサットは1年間も同じ状況を続けていたので、父王はポーティサットが気を引くような16の実験〔1〕を16年かけて行なった[ソム1959:11] 。しかし、依然として身体は不自由なままであり、何かを渇望し、あるいは恐怖によっても身体を動かすことはなかった 。王はバラモンを呼び、吉凶を占わせた。ポーティサットの誕生時と同じく、「4大陸を治めるやんごとなき御方」と出たが、王の怒りのために、バラモンたちは、偽りを告げた。このまま、王子を宮中に置くことは、王、王権、王妃に障りとなるので、急いで不吉な馬車に乗せて、西の門〔2〕より出て、死者の森に生き埋めにして殺すのだ、と。そこで、王はそれに同意した [ソム1959:12-13] 。
母である王妃は最後までポーティサットに障害がないことを信じ、王位継承を訴えたが、ポーティサットは情に流されないよう、地獄の苦しみを思い出し、母君に応えることはなかった [ソム1959: 13-14]。  
ポーティサットはその力によって、女神をも惑わし、吉なる馬車に乗せられて、東の門から出た。ポーティサットは馬車の御者によって埋められる段になって、ようやく御者に本性を表した。何のために土を掘っているのか、と尋ねられた御者は答える。「王子が生まれたが、口が利けず、四肢が不自由で、まるで心がなかった。王は森に埋めて来いと、私にお命じになられたのだ。」すると、ポーティサットは告げる。「私は耳が不自由ではない。口も利ける。四肢も不自由ではない。障害のある不具ではない。御者よ!私を森に埋めるなら、それは人の道を外すことです。私の腕を見よ、私の言葉を聞きなさい。」と言って、地獄の苦しみを二度と見ないよう、王権から逃れ、出家をするために、障害のあるようにふるまってきたことを諭した [ソム、1959:15-19]。
〔1〕16項目の実験とは、次のものである。1歳時より1年毎に王子と500人の側近の幼児の周りにあらゆる種類の1.お菓子、2.果物、3.玩具、4.食べ物を置き、取り合わせようとした。5年目以降は、5.ヤシの葉で覆った家に放置して、火を点けたり、6.象による脅かしや7.あらゆる種類の蛇による身体への巻きつき、8.あらゆる芸能のショーによる誘惑、9.あらゆる武器を持った男たちによる一つ一つの脅迫によって、ポーティサットの反応を期待した。10年目以降は10.ほら貝、11.太鼓の音による脅迫、12.油のランプを消して、暗闇に放置し、ランプを付けさせようとする、13.体中にサトウキビの砂糖水を塗りたくり、蝿をたからせる、14.汚く、臭う物(大便や小便など)を近辺に満ちさせる、15.下から火であぶる、16.美しく着飾った若い女性たちに性的に誘惑させた。これら1項目毎を1年にわたって実験した。[ソム1959:7-11]からの要約。
〔2〕 西は、死者の出て行く、つまり死の方角を表している。逆に東は、誕生の方角を表している。
50 ソム、前掲書pp.5-6
51 サーマは誤って矢を射られて、次のように泣いて嘆いた。「ああ、尊敬する母上、父上よ!あなた方のお命は多くとも6日限りです。なぜなら食料がそれしかないからです。目がお見えにならないために、水を得ることがかなわない」
52 中山[1985:11-12]は『日本霊異記』を挙げて次のように述べている。「佛教の輪廻説は、盲人をして深き宿命觀を懐かせるやうになつた。即ち両眼の明を失ふは宿業であつて、人力の如何とも為す能はざるものなりとの觀念がそれである。……由来、我國の固有思想には、斯うした宿命観は欠如してゐた。従つて、失明して盲人となつたことが、宿業の招ぐ所と云ふが如き觀念は、全く存してゐなかつたのであるから、霊異記のこの記述は僧徒の手に成つたものとは云ひ、一部の盲人間には斯うした思想が、仏教により懐抱せられてゐたことを推知し得るのである。」また、柳田[1964:104]は、「神道の罪は祓と贖ひとによつて、この世ながらに淨め消すことが出来たのに反して、佛法ではそれを次々の生まで、持ち越すものと教へられた為にイングワという言葉がつひにこの不可解なる悲痛事の、別名ともなつた」と、仏教思想による罪業観の強化を指摘している。
53 本稿ではカンボジア語に即した発音で『パンニャーサ・チアドク』の「ルットサエン」として表記しているが、引用に際しては、坂本(1994)に従った。
54 王子は後の部分でも同様に説いている。「輪廻の中にある生き物はすべて業から逃れることはできないのである、この世で苦しみに会うのも、殴られたり、殺されたり、種々の刑罰を受けるのも、すべて業によるのである。だからこの世の生き物は互いに苦しめ合ったりするべきではない[坂本、前掲書p.115]。」(傍線は筆者)
55 坂本、前掲書p.115。「サンカパッタ」中の「因果応報」観とは異なる障害者観をここに挙げる。それは、障害故に、一人前とは見なさない認識である。「お付きの者達は公園に行き、そこにいる男達を立ち去らせた。その声を聞いた王子が猟師に何事かとたずねると、猟師は、ラタナヴァティ王女がおいでになるので、男はここにいてはならないが、あなたは男だが盲目だからいても構わないと言って立ち去った。[坂本、前掲書p.114]」(傍線は筆者)
 さらに、王子が婚約者の王女と再会し、結婚したが、まだ目が開く前にもそれは現われる。「王子は氷砂糖を食べたくて、妻である王女を呼ぶが、声が届かなかった。王子が2、3回言って初めて聞こえ、すぐにもって来た。しかし、王子は、妻は夫である自分をないがしろにしている、と思って立腹し、妻の不幸八項目を説いた。即ち、貧しい夫、病気の夫、老いた夫、飲んだくれの夫、手足の不自由な夫、気の触れた夫、働く技術のない夫、財産を築くことのできない夫、である。[坂本、前掲書p.115]」(傍線は筆者)
56 Jacob(1996)、p.41。訳者である三宅一郎の解説(ドラポルト、前掲書p.251)によれば、それはBastian, Adolf.1866-1871.Die Volker des Ostlichen Asien, Studien und Reisen(『オーストロ・アジヤ民族、研究と紀行』) 全6巻中の第1巻Die Geschichte der Indochinesen : aus einheimischen Quellen(インドシナ史), Leipzig:Otto Wigand(1866) 及び、第4巻Reise durch Kambodja nach Cochinchina(カンボジアからコーチシナ), Jena:Hermann Cosrenoble(1868)参照とある。この民話は1868年刊の第4巻pp.224-227だが、ドラポルト[1970:55-57]の引用を用いて要約した。
57 Chandler[1993b:85-86 ]によれば、プレア・コーはカンボジアのインド的文化遺産を、プレア・カエウはおそらく、仏陀のイメージによって具現化された仏教徒の正当性を隠喩しているという。というのは、前者の像の内部には、式文を学ぶことができる本が、後者の像の内部には、世界のあらゆる事象について学ぶことのできる本が入っていたとされ、そのためにシャムは軍を挙げ、それを奪われたカンボジアは弱体化したという文脈で語られているからである。
58 2001年にカンダール州で、耳の下あたりから五本目の足が生えている奇形の牛が生まれた。その飼い主一家は無病息災で身入りもよくなった。霊媒師は、この牛はかつてタイに持ち去られた「プレア・コー」がカンボジアに戻ってきて再びカンボジア人を見守るために産まれたのだと語り、人々はこの牛に線香や供物を上げ、崇め奉っている[『プロチアプライ第185号』2001年11月1-10日pp.17-18]。
59 同じく仏教文学の古典『サンサリチェイ』は、王の2人の妻が同日に産んだ子が菩薩であるサンサリチェイと、ライオンであった。サンサリチェイは生まれたとき、杖と巻貝を手にしていた。母親の姉であり、同時に王の妻である6人の陰謀で、このことを占星術師に凶と言わせ、妹親子を国から追放する口実にされた。しかし、この動物たちは、サンサリチェイが6人の伯母とその息子たちに命を狙われたり、鬼に連れ去られた父王の妹である叔母を救出する際にその神通力によってサンサリチェイを救う役割を担っている[Jacob、1996:172-174]。また、『50のジャータカ』中の「サンカパッタ王子」も菩薩であり、その名は手足にほら貝の紋があることにちなんでいる[坂本、1995:112-113]。
60 テーミヤ・ジャータカの他、マハージャナカ・ジャータカ、ニミラジャ・ジャータカは世紀の変わり目(筆者注:19世紀から20世紀にかけて)に人気があって、常に祭りで声高に読まれていた[Jacob、前掲書、p.51]。
61 吟遊詩人の中には、盲人がおり、両者のイメージが一致している。そのことを象徴的に表したのが、1923年に考古学調査のためにアンコール遺跡群を訪れ、バンテアイ・スレイ遺跡で盗掘をしたフランス人作家マルローの『王道』(1930年)である。
「悪臭から、クロードはプノン・ペンで、貧しい人たちに取り巻かれてひとりの盲人が、原始的なギターの伴奏でラーマーヤナ(聖王ラーマの生涯をたたえた、古代インドの叙事詩で、紀元前数世紀頃のもの)を口ずさんでいるのに出会ったのを思い出した。崩壊しているカンボジアの姿は、いまでは、自分の英雄詩篇でまわりの乞食や召使女たちの心だけを動かしているこの老人の姿に似ていた。[渡辺、2000:66]」
 『チバップ・ボンダム・バイダー(父の訓え)』(ミサエル[2003:10-11]、翻訳は筆者)は、成立年代、作者ともに不詳であるが、『チバップ・ルバウク・トゥマイ』と同様に、仏法を子孫に説いている。以下は、無いものねだりや陰口を叩くことは、大きな罰となり、障害を持って無いものねだりをしたり、あるふりを装うことになるから、子よ訓えを大事にしなさい、と伝えている。
「……38-自慢するな ほらを吹くな 姿を見ないで歩く 自分を見よ
      人の家をほっつくな 時間を過ぎてから 求めるなかれ 人の財産を
    39-うつ伏せに寝るな 楽しいと云って 水溜りを跨いで歩いてつまずくな
    人に罪があると 人の陰口を叩くな さらに大きな罰となる
    40-背丈の小さい者よ すがるなかれ 手の短い者よ 手を伸ばすなかれ
      何でもかんでも 山を抱く 曲がった年寄りは 杖を抱く
      自慢し吹聴する くぐもって吹く たて笛は 風を引っ張る
    41-めくらは鏡に映す 首を引っ込め、首を振る まるで自分が目が見えるように
      いざりはほらをふく 跳ぶのだと 株の上を跨ぐのだと
      禿げ頭は 策を練る 塗り油が欲しいから
    42-腕足の曲がった者は踊りたい 隆起し、湾曲している 尋常でなく弛緩して背が低い
     ろうの者は歌が聴きたい 左に右にアープラープと体を傾ける
     手が小さく背が低い 手をからだを伸ばしたい 星をつかむために
    43-子よ 聴きなさい 大いにふさわしい この言葉を 一語一語 すべて
     おまえは深く考える あれこれ考えて 遠ざける
   散漫にすることなかれ このどの訓えも……」                         
62 岡田[1996b:65]、Jacob[1996:75]
63 岡田[未発表訳]
64 ミサエル、前掲書、序文。
65 岡田、前掲書p.34。
66 "Nika triumphs over society's blind prejudice" by Elena Lesley, Phnom Penh Post, September 10-23, 2004 によれば、多くのカンボジア人は子どもが「視覚障害を持つなら死んだ方がまし」と信じ、さらに「死ねば、光を持って生まれ変わる」という迷信から周囲は視覚障害児に死を迫る。幼児期にはしかによって視覚を喪ったニカ(28歳)も、子ども時代をそのような偏見の中で育ち、周囲は彼女が何もできないであろうと考えていた。19歳のとき、按摩の技術と視覚障害者をエンパワメントすることを学び、現在は国際協力機構(JICA)によって、他の視覚障害者のリーダーシップ能力の強化を目的とした技術研修を日本で受けることになっている。ニカは幼い頃から常に自分の能力を伸ばそうとしてきたが、今はさらにカンボジアの視覚障害者をエンパワメントすることに努めている。
67 翻訳は筆者による。
68 この歌詞帳には発行年が記されていない。ちなみに「障害少女の美しい歌声」『プロチアプライ』第40号(1996.5.1-15)の美声の盲目の少女がテレビ番組の「のど自慢大会」に出場したときの歌は「ヴィアスナー・ネアック・ピカー(障害者の運命)」。
69 カセットテープ「チイヴット・チョン・ピカー(障害者の人生)」、チュオイ・ソピエプ、CS STUDIO CD15。歌詞は同歌詞帳をもとに筆者が一部カセット聞き取りによる訂正をした上で、翻訳した。
70 この「運命」は「プロム・リカット」で、石井[1991:118]によれば、神の手によって個人個人の定められた運命が記してある台帳をいう。坂本[2000:375]では、「各人の寿命が記入してある本」、「寿命」とある。
71 アン・ドゥオン王(在位1841-1859)がタイ語から翻訳したという古典『カーカイ』(1815)の主人公カーカイ妃は美貌の持ち主で、王以外に2人の男性を同時に愛し、王によって海に流されたという物語[岡田、1996a:33]に由来する。現代においても貞節のない悪い女の代名詞としてよく登場する。
72 こちらの「運命」は「ヴィアスナー」で、純粋に運命を表す。
73 調査は2002年6月から9月に実施された。"The 5th SOCIO-CULTURAL RESEARCH CONGRESS ON CAMBODIA 12-14 November 2002"プログラムとCADFP発表レジュメ"Attitude and Knowledge General People on Disability Research"(2002.11.13)による。
74 reyum[2001:176-189]によるインタビューで、リー・ブン・イム(Ly Bun Yim、1942-)監督によれば、1960年代には映画「ルーワン・プッティサエン・ニアン・コンライ(Puthisen Nean Kangrey)」が制作された。ポル・ポト時代(1975-79)の混乱により、喪われていたフィルムであったが、香港とフランスで他の作品と共にコピーを探し出し、フランス、アメリカ、カナダのカンボジア難民コミュニティーでの配給を行う他、1994年にカンボジアに帰国してからはプノンペンやその他の地方で上映したという。
 他の作品としてはFCI制作、ソク・ソトン監督の映画「プレアハ・コー、プレアハ・カエウ」(2003)がある。
75 教育・青少年・スポーツ省、2002b:3。
76 柳田、前掲書p.105。
77 民話は大きく4つに分類される。すなわち、民間の神話、伝説、昔話、世間話である。さらに昔話は本格昔話、動物昔話、笑い話、形式譚に分類される。これはアアルネ、トンプソンの『昔話の型』における「A・T番号」に基づく分類による。これにより、昔話の国際比較がなされている[米屋:382、384-385]。
78 米屋、前掲書p.386-387。
79 高橋、2003、p.10。
80 これと同類の民話は、インドネシアを含めた他の東南アジア地域でも知られている(Jacob、前掲書p.15)。チューン[1967:1068]によれば、「アー」は同位の者か、それ以下の者に使う語で、上品な語ではない。「それ以下の者に使う語」の例として、国民大虐殺で悪名高いポル・ポト(1925-1998)は政権陥落後、国民から「アー・ポト」(小説『泣くな、弟よ』)と呼ばれている。すなわち、「アー」は「あの、あいつ」という代名詞もしくは、固有名詞化を行なう語である。
81 坂本[1993:106]「クレー」は「虎(=クラー)」の忌みことばである。原文は「クレー・ムン・クラーッチ・タウ・クラーッチ・アエ・クラー」。
82 原本では「サーラー」といって、道中にある誰でも休息できる簡易の小屋をいう。新村出編・広辞苑第4版[1991:47]によれば、日本の東屋は「四方の柱だけで、壁はなく、屋根を四方葺きおろしにした小屋」とある。「サーラー」は本文にもあるように扉で閉じることができる構造になっているが便宜上「東屋」と訳出した。
83 タデ科ニオイタデ(Polygonum Odoratum)。実は酸っぱく、サムロー・ムチュー(カンボジアの代表的なスープの総称)を作るのに用いる[坂本、2001a:206]。
84 奴隷という身分が一般的であった時代に「チャウ」というタイトルは平民を示した [チュオン、1967:129]。
85 注釈80参照。
86 ムクロジ科(Schleicheria oleosa) [ディ 、2000:582]で、東京外国語大学カンボジア語専攻客員教官であるバン・ソヴァタナー氏(1968年、首都プノンペン生まれ。王立プノンペン大学文学部教官、2004年より本学)によれば、サムロー・ムチューに酸味を加えるために用いる。
87 学名Kaempferia harmandiana [ディ 、前掲書p.390]で、バン氏によれば、この葉をトゥク・クルワンという汁につけて食べたり、オンルオク(野菜をつけ汁につけて食べる)として食す。
88 柳田[1998:530-537]によれば、日本の民話の中に盲人を主人公とした笑い話がいくつか見られ、それを流布させたのは盲人自身の作話及び語りによっていたのではないかとしている。というのは、盲人を主人公にした笑い話を盲人自らが語ることによって人の笑いを誘ったと考えられるからであるという。
89 生瀬[1996:74、77、79]。障害者の「見せ物芸」において民衆の心をひきつけた、その「新奇」さとは、「人間の体形や形状にたいする一定の社会的通念」から乖離した「異形」の肉体そのものと、その「異形の者」がおこなう「常人」のごとき「仕草」である。
90 訳者三宅一郎の解説[ドラポルト、前掲書p.249]によれば、ドラポルトはフランスの第1回メコン河探検隊(1866-1868年、隊長はドゥーダール・ド・ラグレ海軍大佐)の隊員であり、第2回(1873年、隊長はドラポルト)の帰国後、本書を発表した。ドラポルトによるアンコール遺跡群のデッサンや調査隊に関する詳細はダジャンス(1995)を参照。
91 ドラポルト[1970:79]。柳田[1998:162]は日本においても、富と権力のある者が道化を抱えており、室町幕府以降、大名の家々に「咄の衆」、「御伽の衆」と呼ばれる臣下がいたことを伝えている。
92 ドラポルト、前掲書p.79。
93 映画「シティ・オブ・ゴースト」(2002)、アメリカ、Mainline Production制作。監督・主演・脚本(共同執筆:Barry Gifford)Matt Dillon。
94 ポル・ポト政権時代以前、プノンペン中心部に位置するこの街区には、バサック劇場や映画館が多くあった。知識人層が観劇するルカオン・チアット(国劇)に対して、ここで上演される舞台は、大衆が好んで観に行くところだった。ロートーが門を叩いたバサック劇場主のクン・タートは、同時にルカオン・ルアン(宮廷劇団)も抱えていて、劇団に入ることを望む子供がその家の前に並んでいたという[REYUM、2001:124、2004年11月5日の東京外国語大学非常勤講師ペン・セタリン先生への筆者のインタビュー]。
95 1930年にカンボジアで最初のバサック劇団が創設された。もともと近代以前にカンボジア領であり、現在でも「カンプチア・クラオム(下のカンプチア)」と呼ばれ、当時は「バサック地方」とされていた、ヴェトナム南部から来たミュージカル劇の形態をバサック劇という。The Nationalist(November 27,1960)のハエル・ソンファの記事には、衣装、舞台美術、歌、音楽全てにおいて、中国の京劇の影響を強く受けているという記述がなされている[Ly、2001:95-96]。バッサク劇では『トッサ・チアドク』中最も有名であり、寺院の天井画などで親しまれている10番目の「ヴェッサンドー布施太子」も演目の一つである。
96 デルヴェール[2002:44]は「都市の単純労働」の一つとして挙げている。
97 『プロチアプライ』第18号1995.8.1-15、ソヴァト記者を要約した。一躍有名となった映画第1作は「プレア・チナヴォンとニアン・プロームケーソー」。晩年、相方カウ・イアクと共に1995年1月から半年間、アメリカのカンボジア人コミュニティ巡業も行なっていた(『プロチアプライ』第186号2001.11.11-20、第196号2002.2.21-28)。
98 他に『プロチアプライ』「7タック[筆者注:1タックは10センチメートル]、心は豪傑―愛に外見は関係なし」第3号(1994.12.16-31)、サーン・サーナー記者。この雑誌の特集で職業の他に注目されている点は2点ある。1つには兄弟の中で唯一人小人としての身体的特徴を持っており、成長が止まってしまったその理由についてである。もう一点は、その身体的特徴故に結婚とその生殖能力の可否について触れていることである。第一点目については、義母が叩きすぎたからとか、川で溺れて助けるのが遅れたなど、母親は自分の行動のいたらなさを責めている。また第二点目については、カウ・イアクの母は、娘が結婚もしないうちに親しくしていた男性の子供を身ごもったことに関して、娘の外見から娘を愛する者が出現しようとも想像だにしなかったこと、そして医者もその体型ゆえに妊娠を信じなかったことを伝えている。
99 「5人目の小人さん」『プロチアプライ』第29号(1996.1.16-31)、サーン記者では、難民キャンプで英語を学び、祖国帰還後に英字新聞カンボジアデイリー紙で通訳・翻訳として活躍する1人も取り上げられた。
100 「異形の者の不幸な運命 カウ・ウオイ 野蛮な男のために苦しむ」『プロチアプライ』第122号(2000.1.16-31)、ターラー記者。
101 彼女の芸名は1983年にニ・コイ(現在も映画にテレビに引き手あまたのお笑い芸人)の一座に呼ばれた際に、ニ・コイによって名付けられた。彼によれば、それ以前はカウ・イアクは義姉と結婚式場を廻って唄を歌っていたという。カウ・イアクはヘリコプター墜落により人々に惜しまれる中若くして亡くなったが、その時も軍高官の出産祝いの式に仕事で向かう途中であった。以上全て「カウ・イアクの真の人生」『プロチアプライ』第19号(1995.8.16-31)、「カウ・イアクの死の後で」第46号(1996.10.1-15)、サーン記者。
102 アヤイとは男と女の間で即興的になされる掛け合い歌で、最も一般的な娯楽の一つである[Jacob、前掲書pp.22-23]。特集3人目として登場したカーレー・ダイ・クライ(短い両手、1955年タケオ州出身)も、地元でルカオンの歌やアヤイを歌って生計を立てている。「短い手のカーレー―カンボジアで最小の男」第6号(1995.2.1-15)。
103 「奇形の双子?」第154号(2000.12.21-31)、ホン・チーリー記者、「頭蓋骨のない奇形児」第156号(2001.1.11-20)、「奇形の赤子」第163号(2001.3.21-31)、プームン記者、「2002年のおかしなおかな話」第227号(2003 .1.1-10)、マーリサー記者、「2003年の不思議な奇蹟 奇妙な双子」第259号(2003.11.21-30)以上『プロチアプライ』。外国の例は、これ以外に8記事あった。
104 「ター・ロートー、芸能界引退」『プロチアプライ』第196号(2002.2.21-28)、ターラー記者。
105 カンボジアの地雷被害者と塩酸強盗による失明被害者を含む、一般カンボジア人の苦しみをオーストラリア人が写真と詩によって伝えている作品として、Mead,David.2000, Cambodia THE CHURNING Portrait of a people tormented, Phnom Penh:Phnom Penh Post Publishing.がある。
106 WHOとTranscultural Psychosocial Organaization(TPO)の調査によれば、ポル・ポト政権下を生きた成人の75%が極度のストレスとPTSDに苦しんでいるという。また、社会的なネットワークがずたずたになった時期に育った若者の40%もストレス障害に悩んでいる[TIME, November 10, 2003 Vol. 162, No.18. COVER STORY メA TIME special report on Asiaユs mental-health crisis" pp.30-39.]。『プロチアプライ』(第270号2004.6.11-20)「精神障害の憂うべき増加」で国立シハヌーク病院の精神科医は、内戦によって精神に触ったり、恐怖でうろたえさせられたこと、財産が滅茶苦茶になったり、家族の成員を喪うこと、手足を喪失するといった障害などを原因とみている他、麻薬依存の問題も挙げている。政府は心身の健康のために、国民が無料で利用できる休息所あるいはスポーツセンターの設立を準備しているという。両誌共に、精神に障害を感じて、クルー・クマエ(クメールの医者)と呼ばれる伝統療法師のもとで祈祷や霊媒などによるカウンセリング療法を受けたが、その効果が見られないというケースにも触れている。
107 坂梨、2001:9、29。これは当時坂梨が教鞭を執っていたカンボジアの王立プノンペン大学社会学部が、国際NGO・地雷廃絶日本キャンペーンより委託を受けて行なった調査である。
108 天川、2001:275。ポル・ポト政権の民主カンプチア憲法(1976年1月5日公布)では、「第二〇条 カンプチア市民は、いずれの宗教を信仰し、又は信仰しない権利を有する。民主カンプチア及びカンプチア人民に有害な反動的宗教は、絶対的に禁止する。」[四本、1999:222]。
 その後ヘン・サムリン政権下のカンプチア人民共和国憲法(1981年6月27日採択)では、「第六条 信教の自由は、尊重する。(後略)」[四本、前掲書p.225]。カンボジア国憲法(1989年4月30日採択)では、「第六条 仏教は、国教とする。」[四本、前掲書p.235]。
109 国家の障害者に対する社会保障は次の通りである。ロン・ノル政権下(1970-1975)のクメール共和国憲法(1972年5月10日公布)では、「第十五条 国家は、社会的職業的弱者層が人間の尊厳に値する生活水準を確保できるよう、生活条件の向上に努める。 労働に適さず、且つ生活手段を有しないと認められた市民は、社会保障を受ける。」[四本、前掲書p.207]。カンプチア人民共和国憲法(1981年)では、「第二十八条 国家は、革命に多くの貢献をなした退役軍人、傷痍軍人、革命のために戦死した軍人の遺族及び革命に偉大な功績のあった家族を特に援護する。 第二十九条 国家は、老齢、疾病及び労働災害により障害者となった幹部、服務員及び労働者のための社会保障制度を整備する。 国家及び社会は、援助のない老人、負傷者、寡婦及び孤児を援助、支援する。」[四本、前掲書p.228]。カンボジア国憲法(1989年)では、「第二十八条 国家は、永年にわたり革命の遂行に多くの貢献をなした者、傷痍軍人、革命のために戦死した軍人の遺族及び革命に偉大な功績のあった家族を特に援護する。 第二十九条 国家は、疾病、老齢、労働災害により就労不可能となった者に社会保障を給付する。国家及び社会は、援助のない老人、障害者、寡婦及び孤児を扶助する。」[四本、前掲書p.237]。カンボジア王国憲法(1993年)では、「第七十四条 国家は、傷痍軍人及び国のために命を犠牲にした軍人の遺族を援護する。」[四本、前掲書p.257]。カンボジア王国憲法(1999年改定)で、「第三十一条 すべてのひとの基本的人権、自由、平等を尊重し、不平等と差別を禁止する」、「第三十四、三十五、三十六条 政治、経済、社会、文化的活動に参加する権利、雇用機会均等及び同一の職務における平等の利益を得る権利を保障する」、また第七十四条には「障害者の支援」を追加しているが、「カンボジア障害者法」については草稿段階の途上にあるという[Ngy、前掲書pp119-120]。  
110 Phnom Penh Post, March 14-27, 2003. "Former enemies bound by poverty and disability" by Vong Sokheng
111 「2,000人を越える障害者」『プロチアプライ』第40号(1996.7.1-15)、ソヴァッタディ記者。戦死者は4万人という。
112 教育・青少年・スポーツ省、2002a:4。その他の敬意を示す対象として第1に高齢者、次に女性が取り上げられている。
113 国号は「民主カンプチア」という。
114 ポンショー、1991、p.27。同p.300の訳者の解説によれば、ポンショーは1965年から1975年までカンボジアに滞在し、カンボジア語を学んで農民と共に生活したという。
115 シハヌーク、発行年不詳、pp.296-297。シハヌークはこの話を自分の見張りであるポル・ポト兵から聞いたという。
116 Chandler、1993a、pp.255-260。
117 Chandler、前掲書、p.258。
118 ウン、2000、pp.90-91。
119 「雄弁な吟遊詩人プラーィチニャ・チュオン」『プロチアプライ』第42号1996.8.1-15、ソヴァタディ記者。
120 それらは全て政府の出版局・文化出版舎から出版されている[岡田、1996a:41]。
121 底本としたものは1987年の版で、現在市販されているものであるが、3つの序文から次のことがわかる。初版(1956)は「ワット・プノム(「丘の寺」、首都プノンペンの名の由来となった、ペン夫人の丘にある寺院の名前)紙元社長であった著者ウムによるもので、第2版(1961)は 第3版(1983)文学・言語委員会による。
122 教育省発行の教科書『国語 第11学年』(2002年)pp.25-28に一部掲載されている。
123 ウム、1956、p.14
124 HANDICAP INTERNATIONAL BELGIGM、2001:19。
125 坂梨、前掲書、p.27。なお、坂梨によれば数値はMine Incident Database Project (MIDP), 2000, Mine & UXO Casualties in Cambodia: BI-Annual Report 1998-1999, Handicap International & Cambodian Red Cross.を使用している。
126 ソープ、1986、p.オ
127 この小説は短編集として、「4本指」を共に収録している。「4本指」はポル・ポト政権下に「僕」の父親を処刑したクメール・ルージュ兵士のことで、4本指ゆえに後でその兵士が自分の前に再び現れたときに、それが目印となって親の仇であることに気づく。孤児となった「僕」の養母の息子(義兄)はポル・ポト政権崩壊後もクメール・ルージュ兵士ゲリラとして活動しており、食事の補給で仲間と実家に密かに立ち寄った。そこで「僕」は義兄とともに行動をする「4本指」の男を目にし、義兄から手榴弾を奪い、それによって親の復讐を果たす。
128 著者のまえがきによれば、『カンプチア』紙に連載された。
129 アエク凧は凧の一つで、その頭部に付属した藤、竹、あるいはサトウヤシの葉でできた楽器の部分が風によって擦り合って音が出る[スムとチアン、2002:20-21、33-35]。
130 これはカンボジアの小説における恋愛と結婚に関する定型と言える。恋愛関係にある男女でも、結婚については母親の決定が絶対である。もし双方の家族に経済的な格差が大きければ、その恋愛は強制的に断絶させられ、経済的に可能性のある相手との縁談を母親は探してくる(『巣に還る鳥』)。ヒロインはもとの恋人への貞節を誓い、自ら死を選ぶ(『トム・ティアウ』(16世紀、当時王都であったロンヴェークでの実話に基づくとされ、口承で伝わっているが初めに整えたのは宮廷歌人サントー・モックとされる。サオム(1852-1932)の7音節の韻文(1915)、ヌー・コン(1874-1847)の8音節の韻文で『ティアウ・アエク』(1942)がある[岡田、1996a:35]。)では、新しい婿により殺された恋人を追ってヒロインが自刃する)か、母親に抵抗することもできずに心労により衰弱死する(『萎れた花(プカー・スロポーン)』(1947)で、著者ヌー・ハイは古い因習への批判を試みた)。
131 ヤーウ、1988、p.42。
132 ヤーウ、前掲書、p.41。
133 ヤーウ、前掲書、p.45。
134 ポン、1990、p.236。発行者によるまえがきによれば著者は、ポル・ポト政権下の国民大虐殺における喪失から党と政府の救済により新たな希望の光を見出し、1987年にこの作品を描いた。精神に傷を負ったり、身体に障害を負うその痛みは未だ癒えることなく、また家族との離散、その喪失はカンボジア人に癒すすべを何一つ見出せないほどの苦しみを与えていると、そのまえがきは伝えている。                 
135 「障害者の愛の呪文」『プロチアプライ』(第4号1995.1.1-15)、パンナー記者。
136 『プロチアプライ』第40号、前掲記事。
137 http://www.unmillenniumproject.org/html/dev_goals1.shtm。
138 Ngy、前掲書、pp.125-128。
139 UN ESCAP[2002:19]によれば、アジア太平洋地域の障害者4億人のうち、40%以上の1億6000万人が貧困の中で生活しているという。
140 「びわこミレニアム・フレームワーク」日本語版は、「内閣府 共生社会政策統括官」http://www8.cao.go.jp/shougai/asiapacific/hi-meet/apddp4.pdf 参照。
141 トゥン・チャンナレット氏のカンボジアにおける活動と受賞の経緯については、ドキュメンタリー"The Road from Kampuchea". Directed by Anne Henderson, Produced by Foundation on Independent Livingが詳しい。テーマソングは本稿第3章2節で取り上げたチャパイ奏者・プラーィチニャ・チュオンであり、出演している。このビデオは中西由起子氏のご厚意によりお借りした。
142 障害者スポーツを取り上げた『プロチアプライ』の記事は以下の8記事である。「障害者スポーツ、パープ・シヌオン、1、2を争うアスリート」(第36号1996.5.1-15)、ソヴァタディ記者、「スポーツ寸描、カンボジアを引き上げる障害者」(第102号1999.3.1-15)、「スポーツ寸描、シム・ハーン:食べていくために競技に出場する」(第111号1999.5.16-31)、ソムウーウン記者、「スポーツ寸描、ソク・ヴーワン:カンボジアの優れた障害アスリート」「スポーツ寸描、3輪車イスチャンピオン:外国人と競技してみたい」(第116号1999.10.1-15)、イン・ユーウン記者、「地雷の日を歓迎して、兵士、障害アスリートとなる」(第125号2000.2.16-29)、「オーン・ソクエーング、フェスピック・ゲームで金メダルを獲得を狙う」(第217号2002.9.21-30)、ソピアロム記者、「2003年に金2つの競技女性の人生」(第266号2004年2.1-10)、ソピアロム記者。
143 Phnom Penh Post, October22-November4, 2004。「障害者バレーボール世界機構(WOVD)アジア・オセアニアバレーボール・チャンピオンシップ2005」は2005年6月27日から7月4日、首都プノンペンで開催予定である。
144 「ボディ・ランゲージ[筆者注:記者はカンボジア手話のことを意味している]を教える学校」第140 号(2000.7.21-31)、サプーン・ティトーマー記者、「視覚障害児には社会性がある」第141号(2000.8.1-10)、サプーン・ティトーマー記者、「視覚障害のある青年がコンピュータを操作する」第224号(2002.12.1-10)、マリサー記者、「国内の児童のための新しい機会の支援」第263号(2004.1.1-10)、MobiTel基金、以上『プロチアプライ』。
145 英字紙『プノンペンポスト』が隔週刊で1部3500リエル(1ドル≒4000リエル、2004年現在)に対し、カンボジア語日刊紙『リアスメイ・カンプチア』は1部700リエルである。
146 1990年にタイ・ジョムティエンでのEFA世界会議において歴史的な議題に上がり[メDISTANCE EDUCATION IN DEVELOPING COUNTRIES"(Govinda Shrestha.1997), http://www.undp.org/info21/public/distance/pb-dis.html]、2000年セネガル・ダカールにおける世界教育フォーラムで採択された"Education for All(EFA): Meeting our Collective Commitments(すべての人に教育を:共同宣言達成に向けて)"に基づいた理念であり、活動指針である。すべての児童、青年、成年に基礎教育による恩恵を受ける権利を保障するとともに、それを促進することで国・地域全体の発展を目指した枠組みである[メUnited Nations Development Goals Cambodia 2001", http://www.undp.org/mdg/cambodia.pdf]。現在これは、国連のミレニアム開発目標(The Millennium Development Goals)の2015年までに達成すべき8項目の課題の一つとなっている。
147 『リアスメイ・カンプチア』2002年12月13日、レッカナ記者。Disability Action Council(DAC)のニュースレターによれば、2003年初めより、DACは『リアスメイ・カンプチア』紙と障害者に関連した記事を掲載する契約を結んでいる。2004年2月から6月までに、「女性障害者と社会」、「地雷生存者の生活向上」、「自助による自立を目指して」、「障害者による良きロール・モデル」、「障害児童の教育と希望」をテーマに月1本掲載された["DAC NEWALETTER" January-June 2004 http://www.dac.org.kh/PDF%20files/Newsletter_English_Jan-Jun-2004.pdf]。
148 2004年5月末に収録された放送第1回は社会事業・労働・職業訓練・青年更正省大臣イット・サム・ヘン氏、世界リハブ基金のチェム氏、DACのニイ・サン氏、国立障害者センター(National Centre of Disabled Persons:NCDP)代表のイ・ヴィスナー氏がパネリストとして出演した。NCDP制作のテレビ番組「ヴェテカー・チョン・ピカー(障害者フォーラム)第1回〜第3回」の番組VCDを中西由起子氏のご厚意で頂いた。




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『チョムリエング・サマイ・ニヨム・チュルッフ・ルッフ・トゥマイ・トゥマイ!!555ボット(最新流行歌ベスト555)』.作者、発行年不詳.
チュオン・ナート編.1967.『ワッチャナー・ノクロム・クマエ(カンボジア語辞典)』第5版.プノンペン:仏教研究所.
ディ・ポンポーリン.2000.『ルカチアット・プラウ・プラッハ・クノン・プロテッへ・カンプチア(カンボジアで利用される植物)』(英語・仏語併記).プノンペン:Imprimerie Olympic.
ティエング・ヨン、ウオング・ヌワン.1972.『ヴィサイ・サーマネー(未青年僧出家式目)』プノンペン:仏教研究所(初版1964年).
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ノロドム・シハヌーク.刊行年不詳.『ネアック・トッホ・クマエ・クロホーム(クメール・ルージュの囚人)』(Hachette.刊 "Prisonnier des Khmers Rouges" からティ・キアユによるカンボジア語訳).
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ミサエル・トラーネー監修.2003.『プロチュム・チバップ ピエック・ムオイ(教訓集 第1部)』(監修者がこれをまとめたのは、1987年、タイ・スリン県にあったシハヌーク国王派難民キャンプ・サイトBと、前書きに記されている。)
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レッカナ「カー・アピヴォアット・カー・オプロム・ソムラップ・テアン・オッホ・クニーア・ソムラップ・ボムポン・サハコム(コミュニティを豊かにするための統合教育)」、日刊紙『リアスメイ・カンプチア(カンボジアの光)』2002年12月13日。

ウェブサイト

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United Nations Millennium Project
http://www.unmillenniumproject.org/html/dev_goals1.shtm 検索日:2004年12月13日.

映像資料

Video CD「ヴェテカー・チョン・ピカー(障害者フォーラム)第1回〜第3回」国立障害者センター(National Centre of Disabled Persons)制作(2004). 2004年カンボジア国営放送(TVK)、カンボジア・テレビネットワーク(CTN)などで放映された。
Video "The Road from Kampuchea"(1998). Directed by Anne Henderson, Foundation on Independent Living制作.
映画「シティ・オブ・ゴースト」(2002)、アメリカ、Mainline Production制作.監督・主演・脚本(共同執筆:Barry Gifford)Matt Dillon.

音楽資料

カセットテープ「チイヴット・チョン・ピカー(障害者の人生)」、チュオイ・ソピエプ、CS STUDIO CD15.