カンボジアの精神保健
―その現状と地域精神保健システム構築へ向けての一提言―  
2003年度卒業論文

上智大学 文学部社会福祉学科

高橋智美



目  次
 要約・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2
 用語の解説・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・7
 氈D研究の目的と方法
      1.1 目的と意義・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8
      1.2 方法・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・9
 .カンボジアについて
      2.1 国の概要と歴史 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 11
        2.1.1 古代〜アンコール遺跡再発見まで ・・・・・・・・・・・・・12
        2.1.2 植民地から独立へ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・14
        2.1.3 激動の23年間 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 16
        2.1.4 ポルポト政権崩壊後・・・・・・・・・・・・・・・・・・・17
          2.1.5 パリ協定が結ばれてから・・・・・・・・・・・・・・・・・18
      2.2 政治、経済、社会的様相の動向 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 20
      2.3 社会的基礎構造 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 22
      2.4 歴史的視点にみる社会問題とその諸相 ・・・・・・・・・・・・・・ 24
 。.保健・福祉の現状
      3.1 医療保健と福祉の現状 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 27
        3.1.1 医療保健の現状 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 27
        3.1.2 社会福祉の現状 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 28
      3.2 人的資源 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 30
      3.3 政府の医療保健政策 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 32
 「.カンボジアの精神保健の歴史的変遷
      4.1 伝統治療 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 36
        4.1.1 伝統治療師の種類 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 36
        4.1.2 人々の受療行動 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 38
        4.1.3 伝統治療師を受診する理由 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 39
        4.1.4 伝統治療の問題点 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 40
      4.2 内戦前後の精神保健活動と歴史的視点に見る課題 ・・・・・・・・・ 41
        4.2.1 1975年以前の精神保健・・・・・・・・・・・・・・・・・・41
        4.2.2 ポルポト時代とそれ以降の精神保健 ・・・・・・・・・・・・ 42
      4.3 現在に至るまでの道のり−NGO活動を中心として ・・・・・・・・・44
 」.現在のカンボジアの精神保健活動の実態
      5.1 精神保健の現状・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 48
      5.2 政府の精神保健活動・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 49
      5.3 コミュニティーレベルの活動・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 51
 、.インタビュー
      6.1 インタビュー調査に至るまでの経緯・・・・・・・・・・・・・・・ 52
      6.2 結果・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 53
 ・.考察  
      7.1 考察・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 60
      7.2 研究の限界と今後の課題・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 63
    引用文献 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・65
    参考文献 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・68
    表1 カンボジアと近隣諸国の開発指数の比較 ・・・・・・・・・・・・・・・73
    表2 各国の保健医療指標 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・74
    表3 各区における保健・医療システムの種類と数 ・・・・・・・・・・・・・75
    表4 障害種別障害者の割合・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・76
    表5 原因別障害者の割合:男性、女性 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・77
    表6 保健分野の公的セクター財源(1996−2001) ・・・・・・・・・・・・・78
    表7 2001年保健の公的セクター経費 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・79
    表8 伝統治療師が使う方法 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・80
    表9 現在のプロビンスレベルでのサービス ・・・・・・・・・・・・・・・・81
    表10 東南アジアの精神医療・保健の資源・・・・・・・・・・・・・・・・83
    表11 インタビュー対象者・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・84
    図1 行政区とヘルスセクターリフォーム後の区分け ・・・・・・・・・・・・85
    図2 カンボジアの州別地図 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・86
    付録 インタビュー質問紙・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・87

要約
 カンボジアは、長年に渡り隣国からの脅威にさらされ、近年では植民地支配や冷戦構造の波に巻き込まれ、特に1970年代から20余年続いた国内の派閥闘争や殺戮の結果、国内は一切にわたり壊滅状態となった。カンボジアは多くのサポートを得て10年前にようやく現在の国家体制をもって、新しいスタートを切ったばかりである。
 このような混乱や政情不安で国内の政治もままならなかったことから、カンボジアの精神保健についての研究や活動は限られている。そこで本研究の目的は、@カンボジアの歴史的・文化的背景に言及しながら、精神保健の歴史的経緯、現在の精神保健活動の実態について明らかにすること、A現地ソーシャルワーカー(以下、SW)へのインタビューから、カンボジア人の精神疾患の捉え方や行動様式、そしてSWの役割などを明らかにし、考察としてカンボジアの地域精神保健システム構築へ提言することである。その方法として、国内外の文献調査と現地SW、4人へのインタビュー調査を行なった。
 まず文献調査では章で、カンボジアの概要について述べた。カンボジアにはかつて偉大な王朝が存在したが、隣国からの攻撃や近代のフランスの植民地政策により、苦難の歴史を歩んできた。1970年代からは世界大国の冷戦構造の波に巻き込まれ内戦に発展し、特にポルポト政権下では国土は壊滅状態になった。1990年代になりようやく情勢が安定し、国家が再建され始め、ASEAN加盟や選挙実施などにより少しずつ発展を遂げている。
 。章では、保健・福祉の状態について述べているが、現在はHIV、結核、マラリアを中心とした感染症が疾病構造の大部分を占め、乳児死亡率や5歳未満児死亡率が高い。人的資源の面では、医療従事者の人材不足と共に医療従事者の能力不足が問題となっている。現在保健行政を行なう保健省は、内部機構の改革や新たな戦略を策定し、着実に動き出している。しかし未だ資金面、活動面で対外援助に頼っている部分が多く、保健システム自体が脆弱という問題もある。
 次の「章では5種の伝統治療師を紹介し、彼らは人々から尊敬され、人々にとって近い存在であることを述べた。また戦前には精神病院があり精神科医師もいたが、ポルポト時代に病院は壊され、医師、患者とも虐殺された。1990年代に入り、UNTACや西側諸国の支援やNGOにより精神保健分野の活動も始まり、保健省には精神保健小委員会ができ、更なる精神保健セクターの発展と各地域への普遍的サービスの拡充が望まれているところである。
 」章では現在の精神保健活動について述べている。戦時中の外傷体験が人々の精神的疾患に影響し、精神疾患を患っている人は多いとされているおり、保健省で精神保健に関する戦略がたてられ、実践可能なプランの策定や地域における精神保健活動の発展が望まれる。またコミュニティーには強い家族、親族の結びつきといった潜在的サポートシステムあり、地域で患者を支えていく上で重要な社会資源となり得る考えられる。
 、章のカンボジア人SWへのインタビュー調査により、精神疾患は呪術的原因により起こると考えられ、人々の多くは伝統治療師を受診するが、患者の状態が良くならないと家族は「無視する」「ほっておく」という行為が多くとることがわかった。また、人々はソーシャルワークをおおむね肯定的に捉えているが、基礎教育の欠如から理解することが困難なことがある。そしてSWの役割としては、患者に理解を示すなど本人への支援と共に、家族や地域住民への教育的役割があるということがわかった。 
 そして・章では考察として、コミュニティーに根付く伝統治療、人々のつながりやサポートシステム、そして仏教に基づいた慈悲の精神など、カンボジアの特有の重要な社会資源を活かすこと、人々が精神保健に関する新たな知識を持ち、SWが地域に入り込んで活動していくことを、地域精神保健システム構築へ向けての一提言として述べた。
 カンボジアにおける精神保健についての研究はほとんどされていないのが現状であるので、それについての実態について明らかにし、論文としてまとめたことには大きな意義があるだろう。

用語の解説
  Accha:アチャー、伝統治療師の一種
  CCMH:Center for Child Mental Health
  HPRT:Harvard Program in Refugee Trauma
  IOM:International Organization for Migration 国際移住機構
  JICA:Japan International Cooperation Agency 国際協力事業団
  Kruu Khmer:クルークメール、伝統治療師の一種
  MHSC:Mental Health Sub-committee 精神保健小委員会
  MoH:Ministry of Health 保健省
  MoSALVY:Ministry of Social Affairs, Labor, Vocational Training and Youth Rehabilitation 社会省
  OD:Operational District 保健行政区または臨床区
  OPD:Out Patient Department  精神科外来
  SNC:Supreme National Council カンボディア最高国民評議会
  SSC:Social Service of Cambodia
  SUMH:Supporters for Mental Health
  SW:Social Worker ソーシャルワーカー
  TBA:Traditional Birth Attendant 伝統的産婆、伝統治療師の一種
  TPO:Transcultural Psychosocial Organization
  UNTAC:United Nations Transitional Authority in Cambodia 国連暫定統治機構
  WHO:World Health Organization 世界保健機関

氈D研究の目的と方法
1.1 目的と意義
 世界においてカンボジアほど激動の歴史を歩んできた国も珍しいであろう。かつてインドシナ半島全域を統一したクメール民族は束の間の栄華の後、長い年月の間、隣国からの脅威にさらされ続け、近年では植民地支配や冷戦構造の波に巻き込まれた。そして特に1970年代からの動乱は、国内の派閥闘争や世界でも稀に見る同民族内のジェノサイドに発展し、国内は一切にわたり壊滅状態となった。カンボジアは多くのサポートを得て10年前にようやく現在の国家体制をもって、新しいスタートを切ったばかりである。
 戦火にさらされ疲弊した国土では、経済、産業、社会、文化のあらゆる面が傷つけられ、そして人々も体、心に深い傷を負った。この長期に渡った内戦や戦争により、カンボジアには精神的に問題を抱える人が数多く存在していると言われている。しかし先進国においてでさえ精神保健分野は他の保健福祉分野より立ち遅れているが、カンボジアでは国内での悲惨な状況により国政もままならなかったことも加わり、精神保健分野が積極的に論じられたことはなく、それは現在においてもあまり変化していない。
 しかしいつの時代、どの国・地域においても人々が心の健康を保つことは非常に重要であり、国の発展のためにも優先して論じられるべきである。カンボジアは外国から多大な援助を受けているが、母子保健や感染症対策に重点が置かれ優先されてきた経緯により、精神保健についての研究はほとんどされておらず、特に日本においては見つけることは難しい。それを明らかにし、論文としてまとめることには大きな意義があるだろう。
 また本研究の目的としては、前述の通りカンボジアの精神保健についてほとんど論じられていないという現実があるので、カンボジアの歴史的・文化的背景に言及しながら、精神保健の歴史的経緯、現在の精神保健活動の実態について明らかにすることを第1の目的とする。更に現地SWへのインタビューから、カンボジア人の精神疾患の捉え方や行動様式、そしてSWの役割などを明らかにし、考察として、カンボジアのコミュニティーにおける、精神保健システムの構築へ向けて提言することを第2の目的としたい。
1.2 方法
本研究を進めるにあたって、文献調査とインタビュー調査を行なった。文献調査に関しては、日本国内においてカンボジアの精神保健についての研究がほとんどなされていないことから資料も少ないので、2003年3月に現地NGOを訪れた際に、そのNGO独自の調査資料、カンボジア国内で研究者によってまとまられた論文、カンボジア政府の調査資料、国連機関が遂行した統計調査、その他カンボジアの精神保健に関連する資料など、日本では入手できないものを中心にコピーさせていただき、持ち帰った文献を使用した。国内においては、市ヶ谷にある国際協力事業団(以下、JICA)の図書館にあるカンボジアに関する調査、統計資料などを主に使用した。また大学、国立国会図書館などの文献も活用したが、東南アジアの社会福祉・保健についての資料が多く、カンボジアについては省いて書かれているものが多いので参考程度に用いた。
さらに多くの資料を得るため、日本国内でカンボジア援助に関わっているNGO、カンボジア大使館等7ヶ所に、メールにより資料提供を依頼したが、うち返答がありかつ資料を所持していた2つのNGO、JOCS(日本キリスト教海外医療協力会)とJVC(日本国際ボランティアセンター)からカンボジア保健省やNGOに関する資料をコピーさせていただき使用した。また、インターネットも利用し、国内外のカンボジアに関する報告書や論文などを集めるのに役立てた。
その他の資料として2002年12月にカンボジアスタディーツアーでクルークメールと僧侶のもとを訪問した際の記録を用いた。またJOCSの現地派遣員として2年間カンボジアに赴任していた宮本和子さんの報告会に参加し、その後現地での保健システムや人々の行動様式などについてお話をうかがったこと、立教大学で国際社会福祉を研究されている岡田徹教授に、国際社会福祉の構築についてのお話をうかがったなどを、論文構成の上で参考にした。
次にインタビュー調査として、カンボジアでの精神保健活動や人々の行動・思考形式、SWの役割などをつかむことを目的とし、2003年8月に在カンボジアNGOを訪問した際に、カンボジア人スタッフ4人に対してインタビューを行なった。同NGOでは精神科医師、心理学専攻者、精神科看護者などの基礎養成を終えたカンボジア人に対して集中研修コースを行ない、心理社会リハビリテーション専門職員を養成しており、その養成コースはカンボジア政府保健省に認可申請中である。インタビュー対象者はすべてこのコースで養成を受けており、同時に実践を行なっているカンボジア人である。カンボジアでは、国家によるSW養成機関がないことにより資格化されたSWはいないが、インタビュー対象者は、コミュニティーで生活している精神的疾患を持った村人に対し、社会的な面での援助やリハビリテーションを行なっているという点でSWの役割や援助方法と合致する点が多くSWと位置づけられると判断し、インタビューをすることにした。詳細については、章で述べる。

.カンボジアについて
 ある特定地域の精神保健を論じるにあたって、その地域の人々の行動様式を成り立たせている歴史的・文化的事象を考慮に入れる必要がある。これに関し、原(1977)は「東南アジアという特定地域の福祉問題において重要なことは、何よりも地域の特性について実態をどう正しく捉えるかということにあろう。そこから国民の福祉に対する価値思考の一般的なパターンを汲み取るべきである」(p. 2)と述べ、歴史的、文化的背景や状況に言及することは価値思考を歪曲化しないためにも重要であるとしている。また、東南アジアを均一の地域と捉えがちであるが、アジア諸国が先進国と大いに違う乳児死亡率についてみれば、「日本とほぼ同じ水準に達しているシンガポールから、死亡率が100(出生1000当たり)を越すカンボジアやミャンマーまで国によって大きく異なる」(総合研究開発機構, 2002, p. 33)ため、また、各国の社会福祉を論じる国際福祉研究の観点からみても、「各国の社会福祉政策にみられる独自性や特徴は、歴史的に形成されたものであり、それぞれの国民がおかれてきた経済的・社会的・政治的・文化的な状況を反映している」(佐藤・徳田, 2001, p. 141)ことから、その国の固有の歴史的観点や価値体系に沿って、福祉や精神保健を論じていくことは非常に重要であると考えられる。
 そこでこの章では、現在のカンボジアの精神保健を成り立たせている土台ともいえる国の様相について、歴史や政治、経済そして社会などを中心に述べ、その全体像を把握する。
2.1 国の概要と歴史
〔カンボジアの概要〕
  正式名称:カンボジア王国
(英語:Kingdom of Cambodia /クメール語:Reacheanachak Kampuchea)
  政体:立憲君主制
(多政党の自由民主主義が1993年に確立された)
  元首:ノロドム・シハヌーク国王
  首相:フンセン首相(人民党)
  首都:プノンペン
  言語:クメール語(公用語)
  民族:クメール族が9割以上、その他チャム族、ベトナム人などの36の少数民族
  宗教:仏教(国民の8割以上が上座部仏教)、その他イスラム教、カトリックなど
  主な産業:農業、木工、漁業
北緯10〜15度 東経102〜108度、インドシナ半島の中央やや南西に位置し、タイ、ベトナム、ラオスと国境を接している。
  面積181.305 kF 日本の国土の約1/2 国土の60%は森林であり、耕作地は10数%。
  気候は熱帯モンスーン気候、年間を通じて高温多湿。5〜10月の雨季および11〜4月 
  の乾期に分かれている。
  中央平原東よりをメコン川が流れ、西よりにはトンレサップ湖、この2つがカンボジアの大地を潤し、人々の生活を支えている。
(国際協力推進協会, 1995, p. 2; 高橋, 2001, p. 248; 東方観光局, 2003a, b; 原島, 2003をもとに作成)
 次にカンボジアの歴史についてみていく。
2.1.1古代〜アンコール遺跡再発見まで
 カンボジアの歴史は、「1世紀に基幹民族のクメール民族が、カンボジア東部のヴィヤダプラを中心に扶南王国を成立させたこと」(国際協力推進協会, 1995, p. 2)に始まる。この王国はメコン川デルタ地帯に存在し、紀元前からインド人が航海術を利用し東南アジアへ頻繁に来航し、現地では港市ができ、農業、灌漑、文化的なものでは王権の概念、宗教が入ってきて(綾部・石井, 2000, p. 7)インド人と土地の女性の混血が下地となり文化が浸透していった。
 6世紀後半に入り扶南は、「王位継承をめぐる国内の混乱の中で次第に衰退し」(国際協力推進協会, 1995,p. 2)扶南の属国であった真臘に併合された。「7世紀後半のジャヤヴァルマン1世時代に国内を統一し隆盛を誇った」が、「王の死後30年後には継続者不在の混乱から水真臘(カンボジア南部)と陸真臘(カンボジア北部と東北タイ地方)に分裂し」(国際協力推進協会, 1995,p. 2)、水真臘は島嶼部のジャワに占拠されていたと言われている(平山等, 1995,p. 6)。
 8世紀にはジャワに捕らわれていたジャヤヴァルマン2世がでて790年にアンコール地方を平定し、802年にアンコール王朝を樹立した。これが現在のアンコールワットなどの偉大な遺産を残し最も栄えたアンコール王朝の始まりである。また、それまでの時代とは政治的な変化のみならず、文化、美術の面でも様々な発展がみられ(平山等, 1995, p. 7)、インド文化がクメール流に理解、消化され、偉大な建造物が作られ始めたのである。
 アンコール時代は世襲制ではなく激しい王位争奪戦の結果、王位を獲得するという実力社会であった。「国内の支配体制を確立するため、また、王権を神格化し、神から授かった崇高な使命を都城造営の形で見せる必要があった」(石澤, 1996,p. 45)ため、ジャヤヴァルマン2世を初代王として26人が王位に就き、現在のシェムリアップを中心に数々の宮殿を建設している。その建築様式や彫刻一つひとつを見ても高い技術を駆使しており、当時の王の権力や支配力、経済能力、人々の深い宗教心を反映させているといえる。
 12世紀後半に、当時アンコール王朝を統一したスールヤヴァルマン2世が出て30年の月日をかけてアンコールワットが造営された。これはインド文化の影響下にヒンドゥー教の寺院として建てられたものである(平山等, 1995, p. 13)。この王の治世には近隣諸国を征服し、インドシナ半島全域を統一するまでに至った(国際協力推進協会, 1995, p. 2)。
 12世紀〜13世紀前半にはジャヤヴァルマン7世が出て、スールヤヴァルマン2世の死後、チャンパー軍からの侵略を撃退し、全国的な道路網の整備、灌漑設備の充実により農業が発展された。この時代にアンコール王朝の勢力が最高潮に達し、アンコールトムなどが創建された。この王は施薬院の設立にも尽力した王であり、仏教と薬草を中心とした102ヶ所の公的病院があったという(菅原等, 2002,p. 76)。しかし王の篤信的な事業、つまり大規模な宮殿の建設などが人びとを疲弊させてしまったこと(レイ, 2000, p. 62)、そしてアユタヤ朝軍やチャンパー軍と大戦争がおこったことで、彼の死後、王朝は急速に衰退し始め、14世紀以降はアユタヤ朝タイの激しい侵略を受け、1432年には首都アンコールが陥落した。
 その後は1474年にアユタヤ朝タイが宗主国となり、諸州をタイへ編入され、その対抗勢力となったフエ朝ベトナムにも領土を奪われた(国際協力推進協会, 1995, p. 3)。カンボジアは首都を転々としてなんとか存続している状態であり、19世紀前半はシャム、ベトナムの二重宗主権下に置かれ(綾部等, 2000, p. 33)、最終的には1841年にグエン朝ベトナムに併合された。それから20年が経ち、1860年にフランス人アンリ・ムオによってアンコールワットが再発見され、かつての王都が西欧社会に知れ渡ることとなったのである。
2.1.2 植民地から独立へ
 アンコールワットが再発見された当時は、プランテーション、天然資源を求めたヨーロッパ各国が次々と東南アジア諸国を植民地化した時代であり、フランスは1859年にベトナムのサイゴンを陥落し、1862年にはベトナムのカンボジアに対する宗主権を譲渡させた(綾部等, 2000, p. 34)。タイ、ベトナムの属国状態の挟撃に耐え切れなくなったカンボジアは、ベトナムに進出していたフランス領事に密使を送り、独立を保証してもらうよう試みた(永井, 1994,p. 36)。しかし、1863年にフランスとの間に結ばれた保護条約はカンボジアを仏領インドシナとして植民地化してゆくものであり(国際協力推進協会, 1995年, p. 3)フランスはカンボジアの管理代理としてベトナム人を登用し(永井, 1994, p. 37)、結果的にカンボジア人の、ベトナムに対する憎悪感情をあおることになった。フランスはカンボジア人に対して愚民政策を行ない、「家や寺院の強奪、暗殺、婦女暴行などをほしいままにし、民衆は戦時とかわらぬ苦難をこうむらざるをえなかった」(永井, 1994, p. 38)という。
 1941年に第二次世界大戦がはじまり、1945年には日本による仏領インドシナの武装解除が行なわれ、カンボジアは独立を宣言するが、同年の日本の降伏によりフランスはカンボジアの内政自治を認める形で再度支配を開始し、独立は白紙に戻された(国際協力推進協会, 1995, p. 3)。
 しかし戦後、植民地が西欧諸国から次々に独立していくという世界情勢の中で、シハヌーク王は完全独立を目指し精力的に独立運動を開始した。1952年に3年以内に独立を果たすとの公約をし、その巧みな外交手腕を発揮し独立に臨んだ。フランスが直接交渉に取り合わなかったため、世界各国の訪問、メディアへの訴えなどを通し、国際キャンペーンにより国際世論を味方につけ、独立の必要性を訴え続けた(今川, 2000, p. 32、永井, 1994, p. 40)。そしてついに1953年、完全独立を達成し、翌1954年のジュネーブ国際会議において国際的な承認を得て(国際協力推進協会, 1995, p. 3)、立憲君主制の「カンボジア王国」がようやく誕生したのである。
 この様にタイ、ベトナムからの圧力やフランスの植民地政策など、幾多の困難を乗り越え独立が達成され、カンボジアはシハヌークにより統治され国家の再建が目指された。シハヌークは王位を父、ノロドム・スラマリットに譲り自らはサンクム・レアストム・ニョム(社会主義人民共同体)を結成し、その総裁に就任し政治権力を発揮し(綾部等, 2000, p. 42)、国家体制の整備が行なわれ、大国とも渡り合う独立国へと成長していった。当時は、第二次世界大戦後の世界的動向として冷戦の脅威が広がっており、それから逃れるためにとったシハヌークの政策は、あくまでも中立路線を貫くことにあった。その例として東西両陣営の対立を逆手にとって小国の独立、主権の維持と経済発展を図ろうとし、西側の米国と軍事援助条約を結び、東側の中国・ソ連からも経済援助を取り付けるなどをして東西関係の均衡化をはかり、訪問外交も精力的にこなした(永井, 1994, p. 42)。
 しかし隣国ベトナムでの対米戦争が激化するにつれて、北ベトナムから南の解放戦線への補給路である「ホーチミンルート」への爆撃によりカンボジア領内にも誤爆が多くなったこと(綾部等, 2000, p. 43)、ベトコンを追撃する南ベトナム軍が国内に侵入してきたこと、米国からの巨額の軍事援助で支えられたタイの圧迫からのがれるためなどの理由で、中国に接近してゆき(永井, 1994, p. 42)、米国の援助を全面否定し、1965年には外交断絶に至った。
 独立したばかりの小国が隣国からの脅威や世界大国の亀裂によって生じた圧力を受けてとった体制は長く続くことはなく、その後20年近くに渡り続く戦火への幕開けとなった。
 こうした事態の中、政権を支えていた右派のロンノル将軍一派が1970年、シハヌークの政策を嫌った米国からの支持を受けてシハヌーク追放のクーデターを起こした。そして王政を廃止し、共和制として親米・自由主義路線を掲げる「クメール共和国」が樹立され(国際協力推進協会, 1995年, p. 3)、ここからカンボジアの運命を大きく変える内戦時代に突入するのである。
2.1.3 激動の23年間
 比較的穏やかであったシハヌーク統治時代に代わり、「米国と南ベトナムとの関係を急速に深めるとともに、王制から共和制への移行を宣言」(永井, 1994, p. 56)したが、ロンノル政権は軍とプノンペンを中心とする少数のブルジョアジーだけ支持されており、国家財政の64%が軍事費にまわされ、民政予算は皆無になった(綾部等, 2000, p. 192)。またアメリカから巨額の精神的、物的支援を得ることになったが、大半はロンノル政権指導者のふところに消え(永井, 1994, p. 56)、それと引き換えにロンノルはカンボジア国内にまたがるホーチミンルートの爆撃を承認した(駒井, 2001, p. 32)。その結果難民が大量に発生し、プノンペンに流入し首都を疲弊させる結果となってしまったのである。
 その間、シハヌークは北京へ亡命し、中国に支援されながら「カンプチア民族統一戦線」(以下、統一戦線)を結成し、ロンノル政権との間で内戦状態となった。ロンノル政権は5年間にわたって米の支援に支えられてかろうじていくつかの都市をおさえていたが(永井, 1994, p. 57)、1975年4月、統一戦線がプノンペンに入場したことにより崩壊し、権力を奪い返した統一戦線の新たな一歩が踏み出された。しかし、ここからが23年の中でも最も過酷な時代、恐怖政治の始まりであった。
 内戦に勝利した統一戦線において、実際に権力を持っていたのはポルポト率いるクメールルージュであり、シハヌークは幽閉され、国名は「民主カンプチア」と変えられた。クメールルージュとは、「毛沢東思想と文化大革命に心酔した極端な民族主義的共産主義の集団」(綾部等, 2000, p. 45)で、それまでの文化、社会、経済、価値すべてを否定し、金融システムは破壊、学校は閉鎖され、知識層は投獄、虐殺され、プノンペンやその他都市住民は地方に連行され、ダム建設などの強制労働にかりだされた。人々は家族と引き裂かれ、子は親と離され、サハコーと呼ばれた集団共同労働組合へ収容され、管理された。クメールルージュが権力を掌握していた3年8ヶ月の間に多くの人命が失われるとともに、工業生産設備などが壊滅的なダメージを受けた(国際協力推進協会, 1995, p. 4)。
 この期間に虐殺された人は170万人(当時の人口は800万人)ともいわれ、クメールルージュに殺された人よりも、飢餓や重労働、病気で死亡した人数の方が多いといわれている(MoH, 1999, p. 6)。クメールルージュは国民の反抗心をそらせるため反ベトナム感情を煽り、幹部でさえも粛正の対象としていたが、その粛正を逃れた一部の中堅幹部、ヘンサムリンらが、ポルポト政権勢力の危機感を感じたベトナムの支持を受け、「カンプチア民族統一戦線」を結成し、1978年12月にプノンペンに侵攻、13日間で攻略し、ヘンサムリンを元首とする「カンプチア人民共和国」を成立させ(国際協力推進協会, 1995, p. 4)、クメールルージュはタイとの国境付近にまで逃げることとなった。
2.1.4 ポルポト政権崩壊後
 ヘンサムリン政権はソ連・東欧の援助とベトナムの支持の下に作られた政権であり(国際協力推進協会, 1995年, p. 4)、西側からの援助をほとんど受けずに厳しい条件下におかれた。新政府の課題は山積みであり、「農業を復興し食料の自給を達成すること」(永井, 1994, p. 140)を緊急課題とし、経済は自由市場にまかされ、ないに等しかった工業もゴムや綿の輸出により再開した。とりわけ深刻だった教育者不足も、複式授業、上級生による下級生への教授などで「学年齢時のこどもの80%以上が学校にかよえるようになった」という有史以来の就学率(永井, 1994, p. 142)を達成した。
 一方ヘンサムリン政権に対抗するように、中国やASEANなどの強力な後押しで、主義、主張の異なるポルポト派、シハヌーク派、ソンサン派の三派が1982年に「民主カンプチア連合政府」(以下、三派連合政府という)が樹立された。この三派連合政府は国連において正統政府として認められ(JICA国際協力総合研究所, 2001, p. 85)、1980年代にはカンボジアには2つの政府が存在していたと言える。特にベトナム軍とクメールルージュの戦闘は継続し、多くの難民が発生し、農業は壊滅的な打撃を受けた。ベトナムはベトナム型共産主義によりカンボジアの再建を図り、農地の共同所有制を推進した(JICA, 2002, p. 1)。
 しかし1980年代半ばを過ぎると内戦も下火になり、この三派連合政府とヘンサムリン政府の内戦を終わらせた背景としては国際情勢の変化が大きくあげられる。米・ソ両国の歩み寄りと東西冷戦の終結で、競って後押ししていた強国のカンボジア支持の理由がなくなり、「『ドイモイ政策』に代表されるヴィエトナム政府の政策変化」(国際協力推進協会, 1995年, p. 5)などにより和平が一気に進み、1987年には三派連合政府側のシハヌークとヘンサムリン政府側のフンセンが初めて会談を行い、その後も世界各地で会議が行われ、和平交渉が活発化することとなった。交渉は何度も決裂を繰り返したが、1990年はじめにソ連・東欧圏の崩壊もあり、1991年にはジャカルタでシハヌークとフンセンの合意がなされ(国際協力推進協会, 1995年, p. 6)、同年19カ国による「カンボディア問題パリ国際会議」において和平パリ協定が成立、調印された。
2.1.5 パリ協定が結ばれてから
 パリ協定の中で、効力発生から新憲法成立までの期間を暫定期間と定め、シハヌークをトップとする、独立、主権、統一をすべて実現するための唯一の合法機関としてカンボディア最高国民評議会(SNC)がつくられ、外交、国防、治安、情報の行政機関は国連暫定統治機構(UNTAC)の下におかれ(国際協力推進協会, 1995, p. 5; 永井, 1994, p. 186)、国が統治された。
 ポルポト派による攻撃やドル流入による物価の上昇、その他様々な問題などがあったものの、1993年にはポルポト派不参加のまま、UNTACの監視下において初めての制憲議会選挙が行なわれた。選挙の結果シハヌークの長男、ラナリット率いるフンシンペック党(FUNCINPEC)が第1党、第2党にフンセン政権の人民党が決定したが、1党だけでの組閣も行政担当もおぼつかなかったため、第3党の仏教自民党も含めた連立内閣誕生(大橋, 1998, p. 9)、そしてまもなく現行のカンボジア王国憲法が制定され、シハヌークが23年ぶりに王位に戻った。
 わずか23年の間に「共和制―極左共産制―社会主義体制―共和制―そしていまの立憲君主制と5度も体制を変えた」(大橋, 1998, p. 3)カンボジアは、ようやく形式的に機構が整った。当時直面していた問題としては戦争からの復興、脱社会主義化と市場経済導入、貧困からの脱却(JICA・国際協力総合研究所, 2001,p. 85)であるが、カンボジアは当初政党の内情を考え合わせ、第1党と第2党から首相を出し、政治史上稀にみる2人首相制をとった。しかしもともと考え方の違う者同士、足並みがそろわず、ついに1997年「7月政変」が起こり、フンセン第2首相が武力攻撃をかけ、軍を壊滅させ、ラナリット第1首相を追放した。これにより国際社会からの信用は失われ、ASEAN加盟承認は延期、主要国からの援助やIMF(国際通貨基金)、世界銀行からの融資が凍結した結果、国家歳入の約2割が失われるなどの問題が起こった(駒井, 2001, p. 136)。
 しかし98年7月、第2回選挙が国際監視のなか行なわれ、「自由で公正な選挙」をかかげ、第1党は人民党、第2党はフンシンペック党になり、連立政権は安定化に向かった。また同年ポルポトが死去し、事実上ポルポト派が崩壊した。この選挙により概ね自由且つ公正な選挙をなしとげたカンボジアは、1999年4月にはASEANの10番目の加盟国となった。
 こうして発足した新政府の課題は、クメールルージュによる虐殺をどのように総括するかということにあった。200万人近くにのぼる死者を出したクメールルージュの虐殺は、人間的行為の是非に関わる部分を厳しく追及することでけじめをつけるためにも必然的なものとされているが、「被害・加害の両面で国民の多くが関与しており、また、国際法廷による厳しい訴追が行なわれる場合現在投降して正規軍に編入されている元クメールルージュ幹部・兵士の離反など」(国際協力推進協会, 1999, p. 5)により社会不安や対立が再熱する可能性もあり、対応には苦悩している。しかし、1999年2月に東京で行なわれたCG会合への出席や4月のASEAN加盟など外交上の得点を重ねて、国際社会への表舞台へも躍進している。
 現在に至るまでに政情は徐々に安定化に向かい、多くの国の援助と共に国の復興、開発が進められている。2003年7月には第3回目となる総選挙が、初めてカンボジア人の手によって行なわれた。過去2回の選挙と比べ買収や殺人が減少し、平和かつ公正な選挙が行なわれたとみられる。国民の投票率も高く、これからのカンボジアの発展に様々な可能性が見えている。
2.2 政治、経済、社会的様相の動向
 前章ではカンボジア古代の栄華から、現代に至るまでの苦難の歴史について述べた。では政治経済そして社会はどのような状況にあるのか見てみる。
 カンボジアは元来「メコン水系に開けた肥沃な土地と豊富な水産資源に恵まれた農業国」(国際協力推進協会, 1995, p. 11)といわれる様に、自然条件には大変恵まれている。大きな偉業を成し遂げたアンコール王朝は灌漑設備を整えた水利都市であり、それが王朝とその経済を支え宮殿建設を可能にしたと言われており、また1960年代には、フランスからの独立を勝ち取ったシハヌークのもと、農業に重点をおいた経済政策がとられ、食料の自給自足を達成し、米やゴムなどの輸出も行なうほどであった。しかし1960年代末以降の戦乱とポルポト政府の自然水系の乱開発や生産基盤の破壊により、79年にヘンサムリン政権が成立した時には全国民が飢餓状態、カンボジア経済は壊滅状態にあった(天川, 2001a, p. 78)。
 この様な惨状に対し、国際社会によって寛大な人道支援が行なわれ、カンボジアは食料、衣料品、他各種人道的緊急援助を受け(国際協力推進協会, 1995,p. 11)、1979年10月から1981年12月までの期間に計6億7,830ドルが主要国際機関を通じてカンボジア国内および国境地帯に流出した難民に対して供与された(天川, 2001a, p. 78)と言われている。しかし冷戦の影響は各国のカンボジアへの支援にも現れ、1982年に緊急事態の終結宣言が出されると当時の西側援助国は、親ベトナム派のヘンサムリン新政府をベトナムの傀儡政権と見なして、開発援助を禁止する措置をとった(国際協力推進協会, 1995, p. 12)。カンボジアはソ連、ベトナム、その他コメコン諸国、および各国NGOによる援助協力のみをたよりにし(天川, 2001a, p. 78)、「西側諸国による二国間援助および国際機関からの援助を否定された唯一の途上国」(国際協力推進協会, 1995, p. 12)として過ごさなければならず、この状態は1991年にパリ協定が結ばれるまで続いた。
 この国際的孤立状態において、三派連合とヘンサムリン政権の闘争で、三派連合が国内の軍事拠点を失い、優勢となったヘンサムリン政権下で経済政策が積極的にとられ、1985年には第1次5ヵ年計画(1986〜90年)が決行され、私的経済活動が公認された他、国民の土地占有権および国家により分配された土地の相続権、農民の耕作地の私的所有権や自由販売も認められ(国際協力推進協会, 1995, p. 13)、経済自由化の制度が整備され始めた。さらに1991年からは第2次5ヵ年計画(1991〜95年)が始まり、「主にコメの自給達成・輸出体制構築が目標」とされ、1990年の国営企業の改革(民営化)に引き続き農業を基本とした発展が促進された。しかしこの計画が着手された1990年代初めには冷戦構造の崩壊と共に、ソ連を始めとする東欧諸国の経済改革により、これらの国からの援助が途絶えることとなり、またパリ和平協定を受けての「ドルの急激な流入による『UNTAC景気』ともいうべき経済の加熱、物価の高騰」(国際協力推進協会, 1995, p. 14)がもたらされ、経済的混乱に陥った。
 しかしながら1993年の新政府成立後は国際社会からの援助も復活し、1991年〜1996年の5年間に経済成長は着実に発展した。その要因は「金融・財政の回復を進め、国際的な金融団体と良好な関係を確立」(東方観光局, 2003b)した事にあると考えられる。1994年には経済法制の整備が始まり、銀行法、税法、投資法などの諸法が整備され、翌95年には降雨量が多かった好条件による農作物の収穫率の上昇に伴いGDP成長率は7.6%と高かった。この年には市場経済体制下の統合的経済発展のため、国家の最大の目標を貧困撲滅とおき、1996〜2000年の「第1次社会経済開発プランモSEDP: Socio-Economic Development Planモ」が策定された(対カンボジア援助実施特別調査団, 2000)。このプランは以前の5ヵ年計画同様、史上経済の枠組みを強靭にしていくものであるが、同時に「保健医療サービス、上下水道の整備、初等教育の普及などの各種プログラムを農村部において重点的に展開」しなければ貧困問題の早期解決は望めないとしている。特に「貧困層の中でもさらに弱者とみなされる、片親家族、孤児、身体・精神障害者、難民、少数民族、などを対象としたプログラムの実施というような、焦点を絞った活動が必要である」としており、経済発展と並び、教育と保健医療サービスの改善に重点がおかれた。
 しかし、1997年にはGDP成長率は1.0%にとどまった。これは「7月政変」と呼ばれたフンセン第2首相によるラナリット第1首相の追放、そして時期を同じくして起こったアジア通貨危機による。翌98年のGDP成長率はかろうじてマイナスにはならないと見込まれる程度に落ち込んだが、1998年の選挙が無事に終了したことを受け、また99年のASEAN加盟により情勢は安定し、現在好調な観光業、織物工業、そして基盤となる農業による経済成長が見込まれている。
2.3 社会的基礎構造
 カンボジアの総人口は2002年の統計によると1380万人、比率では15歳未満が43.9%(国連開発計画, 2002, p. 196)と、人口の半分近くを占めており、発展途上国の人口転換初期の人口構成の典型とされている(JICA国際協力総合研究所, 2002, p. 78)。クメールルージュ時代に粛正や飢餓により人口が減少したが、現在人口増加率は2.4%(UNFPA, 2002, p. 73)で、ASEAN諸国の中ではラオス(2.9%)に続いており、低識字率、家族計画普及率の低さ(JICA国際協力総合研究所, 2002, p. 78)などの人口増加の要因がそろっている。
 カンボジアの人口の特徴としては、生産年齢(15〜24歳)の人口の男女比が24.9:28.8と女性人口が高く、また女性世帯が世帯主になっている率は25.7%(菅原等, 2002, p. 74)と高いことがあげられる。また、人口ピラミッドでは1973年〜1978年の間に生まれた人口グループはクメールルージュによる粛正の影響を受けていることから小さく、特に成人男性の人口の損失が顕著である。農村部では男性成人人口の不足により「肉体労働を要する活動において労働力不足を引き起こしている例が指摘されている」(JICA国際協力総合研究所, 2002, p. 78)が、逆に1980年から戦後のベビーブームにより20歳代前半、それ未満の人口が爆発的に増えている。このことから1970年代の紛争、混乱の影響が人口統計にも色濃く反映していることが分かる。
 人口分布としては、都市人口は2000年統計で16.9%(国連開発計画, 2002, p. 196)であり、人口集中問題は指摘されていないが、都市部における人口増加率は2000年に5.6%(JICA国際協力総合研究所, 2002, p. 79)とされている。しかし総人口の約8割、圧倒的多数の貧困層は農村に居住している。社会経済状況は都市と農村の間に歴然とした格差があり、農村居住者はインフラ、経済的、教育的側面によって不利な状況に置かれている。この経済格差の状況は過去の混乱にその原因を言及できるが、永井(1994)はあいつぐ戦乱と外国の干渉を避け、ジャングルを開拓し、その中で自給自足を行い、閉鎖的な小農村を作り、これがやがてカンボジア特有の都市と農村の断絶、対立を形成することになる、と説明している。若年人口の増加が顕著である農村部では農地需要が高まり、「資源分配や環境劣化など人口増加の圧力の社会経済問題の深刻化」(JICA国際協力総合研究所, 2002, p. 80)が問題となっている。現在では1980年代に出生した人口の労働市場参入により労働人口が急増し、除隊兵士、公務員改革の推進によって労働力が市場に放出されている(JICA国際協力総合研究所, 2002, p. 80)ことを考えると、失業や低賃金の問題の解決は容易ではない。
 次にインフラ構造と社会基礎構造をみてみると、全国平均で改善された水源を利用できない人口は2000年に70%(国連開発計画, 2002, p. 190)、上下水道の普及率は98年には29.0%、トイレが家屋内にある率は14.5%で電気普及率は15.1%、家庭火力のエネルギー源は90%が木材であり(菅原等, 2002, p. 74)、基礎構造の整備は十分ではない。また教育状況をみると、入学率は、初等教育88.3%、中等教育23.7%、高等教育8.1%で、高等教育より更に進学する率は0.8%と、上級教育の履修者はわずかしかいない(菅原等, 2002, p. 74)。カンボジアの教育状況の特徴としては、初等教育においてでさえ留年者が多いということであるが、その理由としては貧困や学校、教師の数が限られているために教育機関に通えないこと、また教師の質が悪いことなどの理由があげられ、これは特に都市部より遠隔地によって顕著に見られる。
 識字率は1998年には全体で67.3%、男性79.5%、女性57%(菅原, 2002, p. 74)であるが、1985年には69.9%であった若年層識字率(15〜24歳)は、2000年には78.9%と高く(国連開発計画, 2002, p. 216)、若年に対する教育の普及が見られる。
 国民一人当たりの年収は2001年で259US$(外務省, 2003)であり、36%の人が一日に50_(US)という貧困ライン以下で生活している(MoH, 1999b, p. 15)。人口が爆発的に増えていることからGDP値が相対的に減少していることや、農村地域など、貨幣を通さない産業も多く存在しGDPに反映されないことから、数値のみでは一概に判断できない。しかし、20年以上に渡る戦乱の間に「(カンボジア以外の)ASEAN地域の近隣諸国は開発の基礎を固め、更には外国直接投資を誘致しながら経済成長を成し遂げてきた」(JICA国際協力総合研究所, 2002, p. 14)ことから、近隣諸国の開発指数を比較してみても(表1参照)、カンボジアはアジア圏でも最も貧しい国の一つであることが分かる。
2.4 歴史的視点にみる社会問題とその諸相
 前章までに述べてきた歴史的動向、そしてそれに伴う政治・経済的変化とともに、社会にも大きな動きが見られるようになった。JICA国際協力総合研究所の報告書(2002, p. 2,3,14)を参考にまとめると、社会問題として、@社会資本の劣化、それに伴う貧困、Aコミュニティーの基本的価値・規範、社会関係が崩壊、B人的資源の量的、質的低下と教育のニーズの高さ、C国民への肉体的、精神的打撃、の4点が挙げられる。
 まず1つ目として、長期に渡り内戦が継続したことで公共・民間を問わずインフラが壊滅的になったことにより、農業をはじめとする生産基盤や各種サービスが大打撃を受けたことがあげられる。またそれに伴い国民には貧困が蔓延し、これは現在カンボジアが直面する最大の課題であり、かつ更なる社会的問題の要因ともなっているものである。国としても開発計画として「国家復興開発計画(National Programme to Rehabilitate and Develop Cambodia)」を1994年に発表し、GDPの倍増を目指す経済の安定化と構造改革をその目標の1つとして挙げている(JICA国際協力総合研究所, 2002, p. 3)。同様に海外からのNGOも貧困対策に基づく開発援助に多く従事している。
 第2については、特にポルポト時代にそれまでの基本的価値などが崩壊し、「ネポティズム、汚職、暴力、人権侵害が蔓延している」(JICA国際協力総合研究所, 2002, p. 14)他、1993年に和平が現実のものとなってから海外からの援助が大量に流れ込んだ中で、同時にそれまでカンボジアになかった考え方も入るようになった。90年代以前は「政府高官と一般公務員らの生活に大きな違いはみられず、人々の間に経済的格差を実感させるようなものは少なかった」(高橋, 2001, p. 257)ようだが、今では「所有権の変化を含む大きな経済変化」(JICA国際協力総合研究所, 2002, p. 2)もあり、人々の経済的格差、地域格差が顕著にみられるようになった。資本経済導入により人々の生活にも変化が起こり、新しい体制に適した法治国家としての整備が早急になされるべきであると考えられる。
 第3に人的資源の量的、質的低下と教育のニーズが挙げられるが、これは現在カンボジ
アが抱えている問題の1つである教育の欠落と密接な関係がある。戦争により教育もままならず、また戦後も教育者不在から充実した教育プログラムの実施が難しい状況にあった結果、国を主導していくのに十分な能力を持った人材が欠落しているのである。しかし、1980年代以降人口が爆発的に増加し、「近い将来には労働市場における新たな雇用ニーズとして顕在化する」(JICA国際協力総合研究所, 2002, p. 14)のは明らかであり、これから先カンボジア国民が主体的に開発に取り組むのなら有能な人材は不可欠であり、「新たに育ってくる青少年の生活能力・自活能力を高めること」は非常に重要になり、そのためにも教育は優先課題とされるべきである。
 最後に4番目であるが、カンボジアにおける戦争の打撃は物的なものだけではなく、人やその精神的なものにも影響している。内戦のため多数の人命が殺害や飢餓によって奪われ、肉体的損傷も多く、原因別障害者の割合では(表5参照)、男性障害者の29.8%、女性障害者の4.0%は戦争又は紛争、地雷の爆発によるものであり(JICA企画・評価部, 2002,p. 5)、障害種別障害者割合では、1本以上の手足を切断している割合は全体の18.2%である(JICA企画・評価部, 2002, p. 3)。それでだけには留まらず、カンボジア人が精神的に受けた傷は深く、親族からの離別、強制移動、死にさらされた経験からトラウマが増加し、また特にポルポト政権下においては仏教に対する弾圧により、国民の精神的支えとなっていたものが突き崩されるという体験をしている。仏教徒が国民の8割以上を占めている国でのこの否定的行為は、カンボジア固有の歴史と文化に対する自信の喪失にもつながっており、精神的安定のための改善も急がれるのである。
 このように、カンボジアの過酷な歴史は政治経済のみならず、社会や人々の心の中までも変化をもたらし、その歪みが社会的問題として現れている。これらの問題は互いに絡み合い容易には解決できない。このようなカンボジアの歴史的、社会的背景を踏まえながら、次にカンボジアの医療福祉の状況について見ていく。

。.医療福祉の現状
3.1 医療保健と福祉の現状
 3.1.1 医療保健の現状
 医療保健の現状としてまず基本的指標を見てみると、乳児死亡率は1000人に対し95、5歳未満児死亡率は1000対135、また出生児平均余命は56.5歳と低い(国連開発計画, 2002, p. 208)。合計特殊出生率は5.2と高いが、妊産婦死亡率も10万件対440(国連開発計画, 2002, p. 208)で、原因は妊娠中絶時、子癇、出血などがあげられ、高い数値を示している。カンボジア近隣国のタイ、ベトナムと比べてみても保健医療発展度が著しく遅れ(JICA医療協力部, 2002, p. 8)、乳児死亡率、5歳未満死亡率、妊産婦死亡率の割合が高く、典型的な多産多死を示している(表2参照)。
 同時に疾病としては病院報告に基づくものであるが、三大感染症と言われるHIV、結核、マラリアの感染率が最も高い国の1つであり、全年齢で感染が認められるマラリアが死亡の1位(20%)を占め、結核による死亡も6%と高い(JICA国際協力総合研究所, 2002,p. 8)。外来患者の疾病では急性呼吸器感染症(18%)、下痢(11%)、マラリア(4%)が多く、入院患者の疾病状況も同様にマラリア、結核が上位を占め、地域によっては赤痢、コレラ、髄膜炎、チフスなども問題(JICA国際協力総合研究所, 2002,p. 8)になっていて、感染症が主要な問題であることがわかる。
 更に最近特に問題になってきたものにHIV感染があり、1995年、1997年、1999年ではそれぞれ2520、4102、7726人と直線的に増加しており(菅原等, 2002, p. 75)、2000年統計では推定16,000人前後であり、成人(15〜49歳)の感染者は男性0.97%、女性2.49%(国連開発計画, 2002, p. 70)と高く、ハイリスク集団である性風俗業従事者の感染者は増加しており、30〜60%の罹患率と言われている(菅原等, 2002, p. 75)。
地雷事故においては、事故数は1997年の1265件から1998年727件に減少しているものの、四肢切断は受傷者の0.38%で(菅原等, 2002, p. 75)、世界では最も高い頻度となっている。地雷はいまだに600万〜800万が残っているといわれており、身体への受傷と同様心のケアも重要である。
 この様な状況の下、カンボジアの健康レベルはWHO報告のHealth System Performanceでは191か国中174位となっている(JICA医療協力部, 2002,p. 8)。政府による医療対策はこの様な状況を鑑みて母子保健と感染症対策が最優事項として認識されており(菅原等, 2002, p. 76; 和泉, 2001)、海外からのNGOや国際機関の援助も同様に母子保健プロジェクトと感染症対策に集中している。
 また、医療施設についてであるが、「全国のベッド数は6,516床(人口10万当り約57床と少ない)、ベッド占有率は48.76%である。平均入院期間は4.75日」(JICA国際協力総合研究所, 2002, p. 224)となっている。カンボジア国内は保健・医療システムのために「中央区(Central District)」、「地方区(Provincial District)」、「保健行政区(Operational District)」と分かれているが(3.3で詳しく説明)、それぞれの区における医療施設の種類と数はまだ限られているのが現状である(表3参照)。中央区の国立病院においては「広い敷地に病棟が点在するパビリオン形式が一般的で、一般外来部門として敷地の一角にヘルスセンターを持つ」(JICA国際協力総合研究所, 2002, p. 226)ことが多く、水は井戸からポンプでくみ上げ、電気は市の電気と発電機の併用というのが一般的で、病院のレベルはドナーによって様々である。地方病院では、「入院ベッド50床ほどで手術室はなく、電気も発電機で起こす場合が多い」(JICA国際協力総合研究所, 2002, p. 226)ので、電気を使う検査や治療は通常行なわれない。また保健行政区のヘルスセンター(保健センター)では「通常2つほどのベッドを持つ以外入院施設を持たない」(JICA国際協力総合研究所, 2002, p. 226)ところであるが、すべてのヘルスセンターが設置されたわけではない。この各区の病院、ヘルスセンターなどは、老朽化が激しいところが多いのが現状であり、援助を受けて改築・改修が行なわれている。
3.1.2 社会福祉の現状
 次に社会福祉についてであるが、カンボジアにおいて社会福祉を所管している行政庁は、社会省(Ministry of Social Affairs, Labor, Vocational Training and Youth Rehabilitation 通称MoSALVY)であり(和泉, 2001)、医療を担当する保健省(Ministry of Health)と共同して国家の保健、福祉やそれに関する活動を支えている。社会省が主な事業として行なっているのは、身体障害者リハビリテーションおよび職業訓練、人身売買対策、児童労働防止対策、孤児対策、少年教護対策であるが、貧困者や障害者に対する現金給付の制度はなく、公的扶助は行われていない状態である。社会的サービス実施については「国際NGOが社会省と覚書(Memorandum of Understanding)を交わして独自のプログラムによって特定の地域に入り込む形で行なわれている」(和泉, 2001) 状況であり、障害者のリハビリテーションや訓練に関しては各国から約300のローカルNGOが入り支援されている。現在社会省には十分な経験や知識、人材がないので、主に国際NGOの活動を支援している状態である。社会省以外の省では93年の総選挙以降、国連資金、諸外国ODAが入ってきた結果NGOに対し無関心になったが、社会省は一番貧しい省であり、援助をしてくれるNGOに対して理解があるようで(石本, 2000)、協働して行なっているのである。
社会省の問題点としては、およそ7億ドル(US$)の社会省2000年度予算のうち、半分以上が公務員給与、行政事務経費や公務員年金や疾病給与に充てられ、正味の事業費が少ない(和泉, 2001)ことであり、社会省の予算規模自体が小さいのである。また、社会福祉における法制の整備は遅れており、公務員の年金制度は存在するものの(JICA国際協力総合研究所, 2002, p. 22)、2001年3月の時点では、未だ社会保障法が閣議決定されて国会に提出されている段階(和泉, 2001)であり、施行段階には至っていない。
 次に障害者の福祉に限定してみてみる。障害者に関する信頼できるデータは入手不可能であるが、1999年に計画省によって行われた「カンボディア社会・経済調査」では、障害者の概数は16万9058人であり、そのうち21%は子供であるとされている(JICA企画・評価部, 2002, p. 4)。精神障害は、表4では、知的障害とともに全体の7.4%を占めており、「障害者の権利」の法案で「障害者」とされているが、社会省でのリハビリテーションや訓練の対象には含まれてはいない。つまり精神障害の場合は何かしらの医療にかかることを第一の段階とし、保健省に関わることが多く、国家での社会福祉の対象とはなっていないのである。また、リハビリテーション、訓練の段階に入っていない潜在的患者が多くいるのが現状であるが、「精神疾患は長期間の療養を必要とすることが多く、患者の生活全体を支えるためには、医療だけでなく福祉サービスが欠かせない」(杉山, 2002, p. 36)ことから、今後社会省でも精神障害者を対象としたプラン作りや活動が期待される。
 障害者に関する法律については、法律制定作業部会により「障害者の権利」に関する法案が作成されている(JICA企画・評価部, 2002, p. 6)。その第2条では「障害者」は「身体の器官や能力を喪失している、または重度の精神障害を持つ人」と定義し、具体的にはその障害により社会活動の参加に極度の影響を与える状態にある人を指しており、保健省から発行される障害者手帳を持つことを義務付けられている(JICA企画・評価部, 2002, p. 6, 7)。しかしながら障害者の普遍的な登録システムは存在しない。
 障害の原因別に見てみると、疾病、先天性が最大の原因となっている。また特に男性は「戦争又は紛争」「地雷の爆発」による障害の割合が大きく、約10人に1人は戦争や紛争を原因としている(表5参照)。この統計からは、戦争、そして医療制度の未整備などのシステムの欠陥による疾病の増加などが大部分の障害を引き起こしていることがわかる。そして昨今は都市部における交通事故(JICA企画・評価部, 2002, p. 17)、資源や障害に関する認識の欠如、地域レベルでの教育レベルの低さ、絶対的貧困に起因しているとされる。
3.2 人材資源
 カンボジアにおける保健、医療関係者は、ポルポト政権下でその大部分が殺されるか国外脱出したために、1975年にポルポト派が政権を握った時点では、医師487人、歯科医71人、薬剤師149人、助産婦1380人であったが、1979年のポルポト派崩壊期にはそれぞれ43人、8人、26人、341人であり(菅原等, 2002, p. 75)、1975年以前に2人だった精神科医は0人になった。
 全国の医療従事者の人数について、保健省は公的医療機関の従事者数を把握しているが、私的医療機関においてどのくらいの人が働いているのかは把握できていない。さらに公的と私的の医療機関で兼業している従事者がいることから、正確な数がわからないのである。一方、保健省に雇用されていた医療関係者は1996年1万5,594人、1998年1万6,593人、2000年1万6,952人、2001年1万7,874人(JICA医療協力部, 2002, p. 15)と確実に増えてきている。しかし、医師に関しては「解剖、生理、病理などを理解していない者も多く、基本的医学知識がないままに専門業務(検査や手術)を行なっている印象」(JICA国際協力総合研究所, 2002,p. 227)であり、また看護においては「“看護”に当る部分は、家族が担うことが多く、看護職員が行うことは“処置”に限られ(中略)基本的医学教育やそれぞれの専門教育のみならず、読み書きや計算などの基礎教育の不十分な者もいる」(JICA国際協力総合研究所, 2002,p. 227)と言われ、人材不足と共に医療従事者の能力不足が問題になっている。
 現在、カンボジアにおいて医療従事者の養成システムは、「医師、歯科医師、薬剤師、助産婦、看護師、衛生(臨床)検査技師、理学療法士、歯科衛生士」の教育システムがあるが、それらの職種においては「国家免許制度は実施されておらず、卒業を持って有資格者としている」(JICA医療協力部, 2002, p. 18)のが現状である。
 医療従事者の質や量に関しては問題も多く、「専門家の都市部集中、低賃金(10〜20US$/月)に伴う専門職としての責任感の低下、知識、技術の未熟さ」(菅原等, 2002, p. 76)や、民間保健医療活動を規制する法がなく、「専門家としての倫理、行為基準の乱れ」が問題視されている。これは専門家教育や卒後教育の未整備から来ているとの見方もされ、医療従事者の教育に関する教育カリキュラムの改善や意識改革が望まれる。
 精神科の人材資源に関しては、カンボジア内には20人の精神科医がいるが、比率は国民625,000人に対し医師1人(MoH, 1999b, p. 13)であり、国際水準からはかなり低い。精神科医は、国内における資格制度がないので、海外機関より与えられる修士号、又はNGOの4年間のレジデント研修などの養成コースを終了するしかなかったが、2002年から大学による3年間のレジデント修了者(手林, 2002, p. 55)も含まれるようになった。また精神科看護師も20人いる。臨床心理士については、プノンペンのRoyal Universityから学部卒業生が出ているがNGOなどの精神保健活動の中では少数しか働いていない。精神保健福祉士と作業療法士については大学レベルの養成コースなど体系的な研修はないが、各NGOで養成しており、専門家はいる。また、一般医については、訓練期間中に60時間の精神保健に関する授業と2〜4週間の実習が可能である。または3ヶ月のフルタイム精神科訓練がある(MoH, 1999b, p. 13)。この研修の目的は一般医であってもプロビンスレベルの外来で精神疾患の患者に対し、基本的な処置、軽度な患者に対しての薬の処方ができるようにするものである。
 現在、人材開発はヘルス・セクター・リフォームの主要構成要素の1つとされ、1997年にThe First Health Workforce Development Planが承認された。これには「計画期間中に医療従事者の供給と需要の明確な情報を含んだ、国の保健人材配置状況の包括的情報を提供する」また、「計画には現存のトレーニングについても改革を行うこと」が記載されている(JICA医療協力部, 2002, p. 16)。医療保健の充実のためにはこの人材開発が重要であり、国のリフォーム計画と共に人材の教育が急がれる。
3.3 政府の医療保健政策
 前章では医療保健、社会福祉の状態について述べてきたが、それを支えている政府の医療保健政策についてみていきたい。
カンボジアの保健について業務を行なっているのは保健省であるが、「未だ量の充足に重点はあるが、徐々に質への転換に向かいつつある」(JICA国際協力総合研究所, 2001, p. 224)ようだ。保健省の組織内の構造としては、1998年の保健省内部の機構改革により、大臣、長官、次官、局長とその下の部署に分かれる(JICA国際協力総合研究所, 2001, p. 224)。また、内部機構の改革、セクターリフォームが1996年から着手され、これは行政区分に応じた医療保健機関の配置の破綻に伴い、医療圏を再構成したものであり(2001, 和泉)、図1のようになっている。それまでは首都プノンペンに国立総合病院や専門病院といった3次医療施設、州都に州病院、群に群病院という2次医療施設、その下に1次医療施設のヘルスセンターが配置され、更に伝統医が非公式に地域で医療に携わっていた(JICA国際協力総合研究所, 2001, p. 224)。しかしながら州レベルから郡レベルにおいてさえ病院としての機能を果たさず、コミューンレベルでは医師もいないという状況であり(和泉, 2001)、首都や都市にある3次医療施設以外は医療が成り立っていなかった。
 リフォーム前は行政区として、国−プロビンス(州)−ディストリクト(郡)−コミューン−ビレッジ(村)と地区が分かれていたが、それとは別に、地域を中央区、地方区(Provincial District)、保健行政区または臨床区(Operational District)の3段階に分け(菅原等, 2002, p. 75)、臨床に適した新しい区分けを行い、保健資源を提供している(図1参照)。このODは「保健サービス活動の最小単位であり、10-15ヶ所のヘルスセンターを擁しており、ヘルスセンターは原則的にいくつかのコミューンに1つ、人口が集中している場合はコミューンを分割して配置」(和泉, 2001)、つまりヘルスセンターは、「住民の利用の便を最大限にするために半径5〜10km(徒歩2時間相当)」(菅原等, 2002, p. 75)に1つ配置されるよう改善された。
 ここでいうヘルスセンターは、看護婦を中心とした医療サービスを提供する場で、原則として5〜7人の職員からなり、「ヘルスセンター長(準医師か看護婦か)の下に6人ほど(小児、妊産婦、予防接種、事務員を含む)の職員がいる」(JICA国際協力総合研究所, 2001, p. 226)ようで、「出生前ケア、予防注射、受胎調節、感染症対応を主な任務」(菅原等, 2002, p. 75)としている。つまり、公衆衛生の成果を期待する位置付けであり、住民の最も近いところでプライマリーヘルスケアを提供する機関とみなされ(和泉, 2001)、人々が医療機関に関わる際の窓口ともなるべきところである。また特徴的なこととしては、ヘルスセンターごとに住民の代表者からなる委員会が、運営方針を決定する権限を有している(和泉, 2001)ことである。住民参加意識によってヘルスセクターの運営が左右されることとなるが、同時に住民の中の保健に対する意識を向上させ、モチベーションが高められるという利点がある。
 国の政策としては、1999年から2003年の5ヵ年計画が立てられ、その方針では@保健医療(ヘルス)システムの強化、AOperational District、特にヘルスセンターにおける既存のプログラムの統合、B出現してきた問題(耳鼻咽喉科、口腔保健、精神保健など)への対策、C国立病院や州病院の医療技術能力の再強化と国全体のReferral病院への輸血サービスの拡大(JICA国際協力総合研究所, 2001, p. 224)の4分野に焦点を当て投資することとされていた。
 そしてさらに今年からは「Health Sector Strategic Plan 2003-2007」が打ち出され、カンボジアでは初めての、すべてのセクター、関係者(私的セクター、MoHの職員、その他)を統合した戦略が始まった。このプランは、導入後5年間に渡りヘルスセクターの指針や活動領域などを定めるものである。これまでは機関ごとにプロジェクトを打ち出していたが、今回のプランにより保健省やその他の出資者が同一の枠組みの中で活動をするようにした。その目的とはMoHやNGOなど活動体すべてが、政府の掲げる目標に向かって進んで行くことにある。カンボジアにおいては、「個人サービスの提供では各国の国際NGOの活動に頼っており、国家的な取り組みに関しては国際機関を通した多国間援助の枠組みもしくは二国間援助」(和泉, 2001)が中心となっており、このように海外NGOや国際機関による援助が大部分を占める国においては、それぞれが効果的に活動を行うため、また活動における一定の規律を設けるため、目標を掲げることが重要になってくるのである。この戦略の総合的目標は「カンボジアの人々の健康、特に母子保健を増進させるためにヘルスセクターを発展させる、それによって貧困の軽減、社会経済の発展に貢献すること」であり、優先すべき分野として@ヘルスサービスの充実、Aヘルスセクター人員の態度の向上、B質の向上(公衆衛生、サービスなど)、C人材の開発、Dヘルスセクター財源、E制度の整備、の6つが挙げられており、それを達成する20の具体的戦略を挙げて、計画を進めているところである。  
 保健省の予算は、1999年に「国家予算の7.0%、GDPの0.6%を占めているが、予算と実際の執行の間にかなりの乖離(特に州レベルでは執行予算が議会で承認された予算の30−50%)と時間的遅れが指摘」(JICA国際協力総合研究所, 2001, p. 232)が指摘されていた。1999年にカンボジアの1人当たりのGDPは260ドルであり(JICA医療協力部,2002, p. 11)、保健の支出は同年に1人当たり1.83US$で、その内訳は人件費約20%、オペレーション費約35%、薬剤物品費約40%などとなっている(JICA国際協力総合研究所, 2001, p. 232)。また、1996年から2001年までの保健に関する公的セクターの財源については表6で示してあるように、海外投資による財源が各年ほぼ3分の2以上を占めている。また2001年の保健の公的セクター費を表7に示したが、その使い道は中央である保健省での経費よりプロビンスレベルでの経費の方が若干高めであるが、ほぼ同数であり、ここからも多額の予算を外国投資に頼っており、自国のみの運営は難しい状態であることが見て取れる。2000年からは徐々に地方保健局に一部の予算執行を任せつつあるが、試行段階である。診療費に関しては、「以前は公式に無料であったが、実際には直接医療者に患者が支払っていた」(JICA国際協力総合研究所, 2001, p. 232)ようである。このため料金もそのときによって違い、貧困者がなけなしの金を払わなければならないこともあったようだが、1997年から診療費制度がパイロット施設で導入された(JICA国際協力総合研究所, 2001, p. 232)。しかし、「本来、無料で行なわれなければならない公衆衛生と有料で行なわれる医療サービスの区別がついていない医療従事者が多い」(和泉, 2001)ことが指摘されており、公衆衛生の対価を徴収する従事者が多い。
 以上のように、政府において戦略が打ち出され、各活動体の総合的目標が掲げられるなど、改革にむけて踏み出してはいるが、未だ資金面、活動面で対外援助に頼っている部分がかなり多いこと、保健システム自体が脆弱であることが問題視されている。この現状を踏まえ政府による人材の育成や医療保健システムの構造的改革が望まれるところである。


「.カンボジアの精神保健の歴史的変遷
4.1 伝統治療
 カンボジアの精神保健の歴史を辿ってゆくと、何と言っても重要なのは民族信仰的な伝統治療である。古くは、今日ほど病気の原因が科学的に解明されておらず、治療法も発達していなかったことから、「病も癒しも人間の知恵や能力を超えた『大きな存在』、つまり『神』や精霊(とくに悪霊)のしわざであると考えられることが多かった」(大木, 2002, p. 26)。古くから人々の病を癒してきた伝統治療師たちは、近代医療がなかった時代、内戦後、国土が疲弊・壊滅状態であった時代、そして現代においても人々の病を癒し続けている。
4.1.1 伝統治療師の種類
 伝統治療師はその役割からいくつかの種類に分類されるが、ここではクルークメール(Kruu Khmer)、僧侶(monk)、霊媒師(Medium)、伝統的産婆・TBA(Traditional Birth Attendant)、アチャー(Accha)の5つの分類を紹介する。
@ クルークメール(Kruu Khmer) 
クルークメールは代表的な伝統治療師であり、様々な病を癒す人たちのことを言い、精
神的病を持った場合も彼らに診てもらう場合が多い。クルークメールになるのは一般の人であり、今回のSWのインタビューでDさんは「政府役人、先生、医師などがなることもある」と言っていた。男性が多く、「守るべき堅い法典(code)にしたがい、何年もの訓練を受けてなる」(TPO, 1997, p. 41)ものであり、独特の教育を師匠から受け法典に従い様々な制約や犠牲を払って一人前のクルークメールになるのである。クルークメールは治療の様々な特異分野、例えば「子供の病気や魔術によって人に伝わる病気」など(TPO, 1997, p. 42)で手腕を発揮し、また「多くのクルークメールは薬理学に通じていて、薬に使う薬草を集めたりする」(TPO, 1997, p. 42)といわれる。薬の例としては、2002年のスタディーツアーの際のクルークメール訪問によるインタビューでは、「鹿の角、象の鼻、貝、香木」などを治療に使用していた。
A 僧侶(monk)
僧侶は儀式的活動の中で人に聖水をかけたり、自前の薬を使ったり、師匠につき何年も
勉強した技術を使い、人に対して治療を行なう。パゴダ(寺院)での儀式の際に行い「(病気の)予防的な側面はとても重要」(TPO, 1997, p. 43)であると言われる。訪れた人に対し経文を読んだりアドバイスをしたり、「人生において辛い時期を乗り越える支援をする」(TPO, 1997, p. 43)ため、大きな支えになっている。
僧侶の元を訪れた際に聞いた治療の一例がある。例えばてんかんの治療の場合、その発作の特徴によって、てんかんを牛、蛙、ワニ、ライオンなど12種類の型に分類する。ライオン型の場合、「患者は右の足首だけを噛みたがる」という特性があり、患者の生まれた年によって7つの治療法が使い分けられる。辰年生まれの場合、患者の足から頭にかけて経をとなえ、ひもでできたネックレスをかけ、木と動物の骨を削ったものに水を加えたものを飲ませる、という治療を行なっていた。
クルークメールと僧侶の線引きは難しく、やり方を共有している部分も多くある。
B 霊媒師(Medium)
霊媒師には女性が多く、とりわけ人生の中で大きな危機を乗り越えてきた人がなることが多い。霊媒師は「ある日突然霊媒師になり、霊がその人の言葉を借りて他の人にアドバイスをする」(TPO, 1997, p. 42)とされている。人々は自分の体の不調の原因を知るべく霊媒師に相談をし、「人々が問題について話す機会を与える」(TPO, 1997, p. 42)役割があるとされている。
C 伝統的産婆・TBA(Traditional Birth Attendant)
子供の誕生にまつわる事柄に関して知識を持っている人であり、相談役ともなる。出産前からの教育や出産時の子供の取り上げ、予後についてのアドバイスなどをする。カンボジア女性の出産の約7割はTBAの手によるものであり(原島, 2003)、母子保健に関する彼女らの役割は大きい。
D アチャー(Accha)
パゴダ(寺院)の儀式的アシスタントであり、僧侶ではなく檀家の一員である。たいて
いは年をとった人であり、人々からは尊敬されている。人々に対して主にアドバイスをすることで援助している。
 この様な伝統治療師はどの村にもおり、「彼らはそれぞれ異なったスキルをもち、潜在的ニーズをカバーしている」(TPO, 1997, p. 40)とされる。クルークメール、僧侶は自分の住居、もしくはパゴダ内に「10〜15人の入院患者を持っており、100人以上の外来患者を診て、約70%の改善率を持つ」(TPO, 1997, p. 41)ようであり、そこでかかる費用は「病院で診察を受けるほどの額ははらわなくてよい」(TPO, 1997, p. 41)、または収入に応じた程度を、現金ではなく物により支払うこともある。
 表8には、この5種の伝統治療がそれぞれどの様な手法をとるかについて示しているが、それぞれ何に重点をおいて治療しているか違っている。特にクルークメールは薬草を使った薬物療法、身体に対する身体療法も行なっており、現代医療の医師の役割に類似した部分が強くみられるが、同時に魔術を使うという過程において医師とは業を異にする。また、霊媒師、Acchaは年齢層が高い人、TBAは出産を経験している女性がその役割を担う場合が多い様で、経験豊富な年上の者から年下の者へ人生におけるアドバイスを行っているとも考えられる。
4.1.2 人々の受療行動
 カンボジアにおいて人々が病を患った場合、どのような行動をとるのかを見てみる。TPO(1997)によると、人が病気になった場合まずは自然に治癒するか判断するため様子を見る。それでも治らない場合、友達や近所の人に相談する、薬局で薬を買うなどする。しかし、カンボジアの街中は薬局が多く見られるが、「約2,000か所の違法薬局が発見されている」(菅原等, 2002, p. 76)事から、薬剤の乱用が懸念される。また、直接的な援助を施す専門家(伝統治療師など)のもとへ行く人々も多い。往診をしてくれる医師、看護婦、助産婦に頼む場合もあるが、場合により20ドルほどのかなり高額の診療費を支払う場合もある(JICA医療協力部, 2002, p. 226)ので、病院を受診するのは、八方手を尽くしても治らない場合のようである。
また、手林・岩間(1999)による、「精神保健上の問題を持ったときの解決策(Helping Behavior)の調査」では、その方法として一人は「伝統的治療師に会いに行く」、もう一人は「穏やかな、景色を見に行く」「テレビを見る、音楽を聞く、友人と話す」そして「伝統的治療師の儀式に出る」を並行して挙げた。このことから、精神的不調に対して伝統治療師に会いに行くことは「普通の選択肢である」ことが分かる、と述べている。人々にとって伝統治療師はとても身近であり、受療する際にも選択肢の上位に入っている。彼らは社会資源の重要な構成要素となっており、人々やコミュニティーにはなくてはならない存在のようである。
4.1.3 伝統治療師を受診する理由
 なぜ人々は疾患を抱えると伝統治療師を受診するのか、という疑問に対しては3つの理解の仕方が考えられる。
 1つ目としては、伝統治療師には賢い、年上の人々が多く、人の話をどう聞くか、どう話をするかについて熟知しており、人々の「罪悪感、不安、苦痛を伴う感情をアドバイスやコメントすることで和らげる」(TPO, 1997, p. 50)ことができるからである。これは、伝統治療師は医療の行為を行なうだけでなく、これまでに何が起こってこれから何が起こるのかを整理し、現在の状況を受け入れるための援助を行なう、つまり人との間に心理社会的問題を共有するという重要な役割があり、コミュニティーのほとんどの人が尊敬しているからである。これは年上を敬う、僧を敬うといった、国民の精神体系の一部である仏教的な考え方が大いに反映されているという背景も考えられる。
 2つ目としては精神的疾患の特徴に理由がある。はっきりとした身体症状が出ていれば人々は薬を買ってくる、もしくは現代医療で治すよう、手段を考えるが、原因がはっきりしない精神疾患の場合「多くの人は呪術的原因をさがそうとする」(TPO, 1997,p. 53)様であり、伝統治療師にかかるようになるのである。
 そして最後に、伝統治療師はコミュニティーにとても近い存在であり、比較的安価であることがあげられる。病院が居住地のそばにない場合は何時間も離れたところまで通わなければならず、交通費だけでも治療費以上にかかる場合もある。各村に存在する伝統治療師はアクセスし易く、治療費も病院治療よりは安価で所得に応じており、また治療師が村の人々やコミュニティーを良く知っているということが治療を施す上で大きなメリットとなるのであろう。これに関し岩村(1982, p. 220)は、伝統治療師(次の文章では「呪医師」)について次のようにまとめている。
 呪医師は、村落共同体の一員として患者の生活行動様式などについて熟知しており、かつ患者の家族関係および経済状態などを考慮した分身両面から、血のかよった具体的な診療を行なっている。この診療に対する報酬も患者の身分および経済力に応じたものを受け取っている。したがって、呪医師は村民にとって最も信頼される人であり、患者は呪医師の伝統的診療技術を信じ、また信じることによって疾病の快復をより有効たらしめているのである。この意味でも呪医師は村落社会における医療福祉の担い手であるといえる。
 このように、人々から尊敬、信頼され、コミュニティーを熟知していること、そしてとても近い存在であることにより、人々の多くは伝統治療師を受診するようである。
4.1.4 伝統治療の問題点
 以上のように、伝統治療師は人々の尊敬を受け国中に広がっているものの、問題点もある。彼らは簡単なケースにしか対応できず、治療の仕方にも問題点が挙げられることがある。伝統治療師の中には人を叩いたり、焼いたり、怖がらせるなどを、治療の一環として取り入れることがある。これは「患者にショックを与えて現実に引き戻す」(TPO, 1997, p. 49)といった理由があるが、心身に害を及ぼすような治療法があり、患者の症状が悪化、複雑化する可能性は否めない。またクルークメールなどは、それになるための法典があり、その法典の規律や指示に従い訓練することになってはいるが、資格などがないため取締りができない状態であり、人々を治療するどころか害を与えてしまう場合もある。人々の生活に根付いているからこそ、危険または害を及ぼす行為を積極的に改善していかなければならないと考えられる。
4.2 内戦前後の精神保健活動と歴史的視点に見る課題
 このように古くから伝統治療師が人々を治療してきたが、近代に入るとフランス統治下で現代医療が導入されることになった。しかしカンボジアの医療や精神保健の歴史については、ポルポト時代に、政策の過程で文書類・記録類がほとんど消失し、医療従事者や政府関係者も多数殺され、もしくは国外に避難した事により、その当時のカンボジアの様子を示す記録は少ない。しかしながら、その時期に書かれ保存されている少数の文献、またポルポト時代を生き残った看護師・学生へのインタビューを文章化したもの、そしてポルポト時代以前にカンボジアに視察に来た他国の報告書などにより、その姿を垣間見ることはできる。
4.2.1 1975年以前の精神保健
 1960年代当時の医療保健の様子は、海外技術協力事業団の報告書(1969, pp. 78-80)によると、保健衛生行政の機構としては、「中央官庁(厚生省)の指導の下に、各州がほぼ独立した形で行政を行なって」おり、医師の数は「逐年増加しているが、昭和44年(1969年)には全国で4440人。人口1万6千人に1人の割合である」と報告している。しかも、「医師の中、約8割は首都プノンペンに集まって」おり、地方では特に医師不足はかなり深刻な問題であった。また、この報告書によると「カンボジアの医療は、外国からの医療活動によって支えられているといっても過言ではない」と述べ、ソビエト、フランス、中国、北ベトナムなどから援助が出て、それぞれが病院を設立していることが分かる。しかし、こうした他国の援助による病院は、外国人医師が「現地人を診察しない」、「診療費が高いので、現地人患者は少ない」など、評判は良くないものもあった。また、WHO、ユニセフより医薬品等の援助があり、フランス、ソ連が主に抗生剤の援助をし、地方の医療をまかなっていた。
同事業団(1968, 1969)の調査等により、「カンボディアの社会環境条件はきわめて劣悪であり」、「とくにへき地における(カンボディアの大部分がへき地であるが)保健予防活動と医療サービスをどのように結びつけていくのかを検討すること」(1969, p. 81)が焦点の1つとなっていた。カンボジアの公衆保健局から出された「疾病と死亡の主な原因」(1968, p. 102)を見ると、特にこの時期は、結核による疾病、死亡者の数(呼吸器症状の有無を問わず)が高く、重要な問題として重点がおかれたとみられる。
 一方、精神保健活動に関しては、前章で述べたように東南アジアに近代医学が持ち込まれたのは最近のことであり、それまで人々は民間医療、伝統医療により病を癒してきた。それに並行し植民地化、近代化により現代医学はカンボジアにも導入され、カンボジアの首都、プノンペンから約9kmのカンダール州、タクマウに、1935年から精神科病院の建設がはじまり、1945年にタクマウ精神病院が開院し、これがカンボジアの精神保健システムの中心となっていた。そして、サンバウナット(Sunbaunat, 1995)によると「カンボジアの中でたった一つの精神病院であり、州レベルでさえ、精神科クリニック、診療所と呼ばれるものはコミュニティーのなかに存在しなかった」(p. 1)と言われている。当時の報告書の疾病別統計(海外技術協力事業団, 1968, p. 102)には「精神病、精神系症及び性格異常」という欄はあるが空欄になっていることから、全国的には精神疾患が認識されていない、又はそれに対する枠組みや診察が確立されていなかったことが分かる。
 このタクマウ精神病院は、フランスの統治時代に建設され、構造はその当時のフランスのシステムを踏襲したものであり、患者に対し身体的拘束を主な治療とした収容所だった。この病院には「800床のベッドがあったが、クメールルージュが権力を持ち出した頃には、2000人の患者が入院治療していた。その当時、外来やアフターケアのサービスはなく、フランスの精神科で訓練を受けた2人のカンボジア人精神科医師がいた」(MoH, 1999, p. 7)ことが知られている。しかし、どんな治療が施されていたかについては分かっていない。
4.2.2 ポルポト時代とそれ以降の精神保健
 クメールルージュが権力を持ち出すと、「保健医療を含む旧制度の施設が閉鎖され、医師や専門家、そして入院者も虐殺され」(手林, 2002, p. 55)たと言われているが、タクマウ精神病院においても例にもれず患者や職員のほとんどが殺された。この病院はクメールルージュによって収容所にされ、人々が拷問を受けたり虐殺されたりする場所ともなった。特に教育のある医師などは虐殺の対象となり、強制労働なども加わった。
 クメールルージュ統治期に終止符が打たれた1979年、ベトナム侵攻によりヘンサムリン政権が擁立された時、プノンペンにあった医師団(the Faculty of Medicine)が再開されたが(MoH, 1999b, p. 7)、1975年当時、国内にいた487人の医師のうち、ポルポト時代を経て生き残った医師はたった43人で、タクマウ精神病院にいた精神科医師2人は、どちらも亡くなっていた(JICA医療協力部, 2000, p. 8)。また別の資料(JICA国際協力総合研究所, 2001)では、ポルポト体制が崩壊した後に残っていた医師は43人、あるいは25人ともいわれ、保健省のスタッフは3人のみであったといわれる。
 1975年から1980年代のベトナム統治期を経て1992年までは、カンボジアでは人的資源の不足などから精神保健医療は行なわれていなかった。カンボジアとタイの国境の難民キャンプをのぞいてはThe Mixed Faculty of Medicine, Pharmacy and Dentistry が一般の医師の養成を行なっていた。精神保健に関するプロジェクトは行なわれておらず、多くの西洋からの訪問者はカンボジアに訪問し、実情を観察しカンボジアの精神保健の状況を評価するだけで、プロジェクトは始められていなかった。クルークメール、 アチャー、 僧侶、 尼、 霊媒師、そして年寄りが精神疾患のある患者を診ており、それがメインセクターだったようである。
 世界情勢が変化し始めた1990年代に、UNTACやそれまで援助を拒否していた西側諸国からの支援が再開したため精神保健分野の活動も始まり、その中で最も早く始まった国際精神保健支援は児童精神科診療だった(手林, 2002, p. 55)。NGOは、初期にはタイとの国境付近の難民キャンプに住んでいた人々を対象として精神保健サービスを含む、社会的支援を行なった(Sunbaunat, 1998b, p. 1)。精神保健のニーズは、統計的に患者が増えてきたこと、そして国の発展のためにも必要になっていった。こうしてカンボジアの精神保健は、国内、国外からの支援によって再編成されることになったのである。
 1992年の3月に、保健省には精神保健の分科委員会ができ、省から支援を受けながら精神保健サービスを計画し、発展させた。NGOやプノンペンの世界保健機関に支えられながら精神保健分科委員会はこの委員会の創設と共に動き出し、活動をはじめた。その当時のメンバーは、誰も専門的知識を持ち合わせておらず、活動を進め、スーパーバイズし、プロジェクト、計画、そして政策を仕上げるのは容易なことではなかった。現在までには、何もない中で、特に財政とアドバイザー、政策や包括的な計画がないにも関わらず、精神保健のきわめて初歩的な構造はできあがった。
 このような状況で、課題として出てきたのは、精神保健に携わる専門家などの人材不足、人々に対する教育が重要、そして政府による精神保健分野の政策の強化、特に福祉分野での発展が必要ということである。そのためにはヘルスサービスを巻き込んだ国の構造、インフラを設立、そして発展させていくべき、という点が強調される。現在。精神保健はヘルスサービスの中でも低い優先度を示しているが、精神保健問題を解決するということは、社会問題を解決することにつながる(Sunbaunat, 1995, p. 2)のであり今後の最重要課題の1つともなるべきものなのである。
4.3 現在に至るまでの道のり−NGO活動を中心として
 このように1990年代に入り、国は外国から援助を受けるようになり、現在に至るまで精神保健援助が年を追って次々と入り、その大部分はNGOによって担われてきたといっても過言ではない。この章では1990年代からのNGOや国際機関がどのような活動をしていったのかをみてみる。
 カンボジアにおいてまず始めに精神保健を着手したのはCCMH(Center for Child Mental Health)であった。CCMHは1991年に援助を開始し、子供の精神保健、行動障害、精神性の問題や発達障害を対象として、以前精神科の大病院だったカンダール州のタクマウ病院のあとにつくられた(MoH, 1999b, p. 8)。児童精神科診療から始まった精神保健支援は、カンボジアでは功を奏し尊敬を集め、「人々の心のよりどころとなってきた仏教寺院の僧へのソーシャルワーク研修や、医師への精神科レジデント研修を通して精神科医師養成、短いスタッフ研修後に実施される地域精神保健ケア」(手林,2002, p. 55)など、プログラムが組まれNGOの手で行なわれた。インド人児童精神科医師が、カンボジア人医師や看護師を対象に留学プログラムなどを含め技術移転をしている(SUMH, 2002, p. 7)ところである。この病院は現在でも国で唯一の児童精神病院であり、カンボジア中から患者が診療に来ている。
 同年に、ハーバード大学のHarvard Program in Refugee Trauma(HPRT)がタイとカンボジアの国境付近の難民に対し行なわれた。これは同じ難民仲間を精神的に支援するためのトレーニングとして行なわれたものである。翌年HPRTはMoHの依頼によりシェムリアップでコミュニティーメンタルヘルスプロジェクトを開始し、カンボジアで初めてのコミュニティーメンタルヘルスクリニックを立ち上げた。その後8年に渡り現地カンボジア人スタッフが2,000人以上の患者を診てきている。
 翌1992年にはSSC(Social Service of Cambodia)が活動を始めた。SSCの前身はKhmer Buddhist Societyであり、コンポン・スプー州を拠点としている。活動内容としては精神保健に限らず、ソーシャルワークというものを僧侶や保健省の職員に教えることを中心としていたが、その後精神保健やカウンセリングなどを含んだソーシャルワークの提供を、ワーカーの手を介して行なってきた(MoH, 1999b, p. 8)。11人のワーカーを養成しながら28人のカンボジア人スタッフが活動している(SUMH, 2002, p. 7)。コミュニティーデベロップメントの一部としてセルフ・ヘルプ・グループもおこなっていた。
 1994年にはIOM(International Organization for Migration, 国際移住機構)、ノルウェーのオスロ大学、そして保健省によって共同トレーニングプログラムが行なわれた。ここでは国外の精神科医や精神科看護師によってカンボジア人医師、看護師へ養成プログラムが行なわれ、現在は養成を終えた20人の精神科医と20人の精神科看護師が各地で働き、数多くの精神科外来(OPD)も建てられている。初めて国内にOPDができたのは同年の1994年のことであり、プノンペンにあるシハヌーク病院に作られた。
 TPO(Transcultural Psychosocial Organization)はカンボジアで一番大きい精神保健NGOであり、1995年に活動が始められた。村のリーダーに対してコミュニティーに根付いたアプローチの訓練をし、精神保健の基本的知識について教える。TPOはカンダール州、コンポンスプー州、バッタンバン州活動を始め、バッタンバンでの活動が成功したことを受け、国のヘルスサービスの中に取り入れられた。
 また1996年から2000年にかけて前述のハーバード大学によってHarvard Trauma Project in Cambodiaが行なわれた。このプログラムは精神科における医師と医療スタッフに対する訓練を目的とし、102人の医師に対し1年にわたり月に1週間の教育プログラムを行なっていた。しかし州の保健活動とは関係を持っておらず、訓練生に対してのアフターフォローのシステムもない。
 1997年にはSUMH(Supporters for Mental Health)が設立され、2001年までは一般保健活動、精神保健に対する知識、行動についてのベースライン調査を行い、2001年からはカンボジアにおいて精神保健ケアを含む地域での保健活動モデルを創出することを目標に活動をしている。また2年間の専門家研修、シェムリアップ近郊の村落をプロジェクト地としてベースライン調査を行い、その地域の精神疾患を持つ人への援助を行うなど、9つのプロジェクトを企画、運営している。
プサー・ドエム・トゥカウ(Phsar Doeum Thkauv)心理社会リハビリテーションセンターはプノンペンにあり、SSC、IOMとプノンペンの自治体と共同で、レクリエーション、日常生活の中での指導や支援などを提供している。2001年には60人のメンバーがおり、2グループ、週に3日行なっていた。
 上記したものがカンボジアの精神保健を支えている主なNGOである。毎年のように各国の機関や団体により設立され地域での活動が広がっている。しかしNGO協力はカンボジアに対し多大な貢献をする反面、問題も少なからずある。例としては「サービスの技術水準や一定の資金などを有するNGOの参入により住民の健康が増進するが、その方法はNGO独自の方法論と特別地域の住民にのみサービスを提供するので、平等で普遍的なサービスとは言いがたい」(和泉, 2001)ということだろう。
 サンバウナット(1999a)によると、「カンボジアの精神保健領域でNGOやプロジェクトを運営している団体は、National Health Policy and Strategiesに従い、それの成功や長期持続可能につなげるためMHSCと共同するべき」、つまり国全体の精神保健サービスを持続的に行うためには精神保健を手がけているすべての人が共同するべきであると述べており、NGOと政府、またNGO同士の協働により更なる精神保健セクターの発展と各地域への普遍的サービスの拡充が望まれているところである。

」.現在のカンボジアの精神保健活動の実態
5.1 精神保健の現状
 現在、精神疾患を持った患者の総数などについての詳しい統計は出ていないのが現状であるが、精神疾患の調査においてノルウェーのオスロ大学、ハウフによる報告がある(Hauff, 1999)。彼は1995年4月から1996年4月までの継続的な外来受診者993名を対象にした研究をまとめた。993名は24州・自治体からやってくる人であるが、54%は首都、プノンペンからである。診断にはICD−10を使用している。
 まず外傷体験としては、受診者の80%が強制移住を経験し、38%の人が強制労働収容所を経験し、さらに7%は投獄経験を、4%の人が被虐待経験を持っている。また、社会心理的ストレッサーとしては貧困が41%で、女性にこの比率が高く、家族内葛藤が28%、住居、仕事、文盲と続く(菅原等, 2002, p. 79)。
 また、精神疾患において一番多い疾患は感情障害であり、約40%、しかし統合失調症と他の精神疾患も多く、5人に1人(20%)である。そして心的外傷を残すような諸体験と関連しているような適応障害、ストレス関連障害は7%と低い(Hauff, 1999, p. 5)。ちなみに日本の外来患者の疾患別割合は、「統合失調症(精神分裂病)圏が26.5%、神経症圏が24.4%、気分(感情)障害が24.3%、てんかんが13.3%」(木太, 2003, p.202)であり、疾患の分布が大きく違っていることが分かる。
 カンボジアにおいては上記のようにICD−10の診断で「PTSD」や「ストレスに関連する疾患」と診断される人が少ないのには、
@ PTSD基準は、異文化の中では十分に実証されていない。
A 特に心的外傷が起こってから年数が経っていると、その後遺症は個人や集団によって様々な形であらわれてくる。
B クメールルージュ時代を体験した医師たちも心的外傷的経験を受けているので、当たり前のこととしてとり、それに関して深く介入した質問がされていない。
 というような要素があるといわれている(Hauff, 1999, p. 7)。また患者の多くは医療機関を受診していない(菅原, 2002, p. 80) ことも原因であると考えられる。20年もの時が経った今でも「少なくとも病院を受診した人々にはこの時代の外傷体験が現在症に対して色濃く影を落としている」と述べられ、「カンボディア国民は暴力や脅迫に容易に影響を受けやすくなっている」とも言われている(菅原, 2002, p. 79)。
 現在、カンボジアにおける精神保健は、前章で取り上げたとおり、NGOが中心となってそれぞれの地域で活動をしている他、次項で述べるように保健省内で保健行政について検討しており精神保健に関する戦略がたてられている。また病院やクリニックのOPDといった医療セクターも民間や政府によって運営され、患者を支えている。OPDでは、伝統治療や保健センターなどのプライマリーヘルスケアで処置ができない、症状が重い人を診察するところであり、2001年には4,158人がOPDで診察を受けたとの報告があり、ここでの治療としては、アセスメント、診断、精神病薬の処方そしてカウンセリングなどが行われている(MoH, 1999b, p. 10)。
 表9には、州別に精神保健サービスがあるか、OPDがあるかの統計を示しているが、前者は24州中10、後者は24州中7 (州の場所については図2参照)と限られているのが現状である。またサービスや外来があるとされている州においても、州に1ヶ所という場合もあり、居住している地域によっては遠距離、交通費などの問題により多くの村人にとってはアクセスしづらいところもある。
 また、精神病院や一般病院において精神科の入院施設はなく、現在は地域の中で家族が患者のサポートをしているのが現状である。戦前に1つだけあったタクマウ精神病院がポルポト時代に壊されてから、現在に至るまで入院施設は作られていない。表10で示しているように、東南アジアにおいてカンボジアと同じく「経済状態」が「低所得」の国においても精神病の病床は若干あるが、全くないという国はカンボジアだけであり、そこにカンボジアの精神保健の現状の特殊性が見て取れるだろう。
5.2 政府の精神保健活動
カンボジアの精神保健ケアの多くがNGOの手によって行われているのが現状であることは前述の通りだが、政府による活動も少しずつ行われている。
 カンボジアには現在、"Mental Health Sub-committee"(MHSC)と呼ばれる、国の精神保健について話し合いを持つ「精神保健小委員会」と呼ばれるものがある。精神保健に関する経験も人材も不足しているカンボジアにおいて、現実的には「保健省自体が省内に精神保健部局をつくるのは時期尚早」(手林, 2002, p. 55)ということで、部局をつくる前段階として、1992年に保健省内にこの小委員会が作られ、ここを中心として精神保健に関する政策、精神保健サービスの計画、精神保健の国全体への推進などを策定している。この委員会は最低月に1度のミーティングがあり、委員会員の任期は3年である。現行メンバーは多数の精神科医師と精神保健に関するNGOの代表によって行なわれている。しかし、「毎回NGO代表者の外国人が数人いろいろと発言し、カンボジア人医師は聞く側にまわっていることが多い」(手林, 2002, p. 54)、「予算措置の低い領域であることから保健省の係官の志気は乏しい」(菅原, 2002, p. 76)のが現状であるという。今後メンバーの中に、関連した政府機関やサービス提供者の参加を促し、委員会を高めていくことが重視される。また当事者や家族といったコミュニティーメンバーは、村民に精神保健サービスの重要性を伝える大きな役割を持っているのでMHSCは彼らのような人々のためにも、公に開かれているべきであり、またメンバーでなくても会議に参加できるようにし、当事者、家族がコミュニティーにおけるアドバイザーとなるべきであるとされている。
 現在MoHでは精神保健に関する様々なプランを作成し実行に移しているが、いくつもの戦略や計画が出されている状況であり、「Mental Health Development Strategies in Cambodia」として1998-2002のプランと2002-2007のプランが出されている他、「National Mental Health Plan 2003-2022」という10年計画が出されており、それぞれ期間を区切り目標を定めて精神保健分野の活動指針とされている。今年から始まった後者の「National Mental Health Plan 2003-2022」は、3.3で述べたMoHの「Health Sector Strategic Plan 2003-2007」という保健セクターの戦略に基づいて、精神分野における9つの戦略が計画されており、@国レベルでのマネジメント構造の発展、A精神保健をプライマリーケアに統合し、全てのプロビンスに拡充、B各地域で精神保健チームを創設、C急性期の患者に対する入院施設の整備、D法律の制定、E当事者、家族のアドボカシーの促進、F専門的サービスの発展、G精神保健推進と予防活動の拡大、H精神保健における専門家の増員(MoH, 1999b, p. 16)、を掲げている。しかしながら、上記の9つの戦略の各項目において具体的目標数値や案が出されているものの、現段階ではそれを実施するプランが少ないのが現状である。今後、MoHが中心となり、人材開発を基礎とし、実践可能なプランの策定や地域における精神保健活動の発展など、9つの戦略に基づいた活動を広げてゆくことに期待がかかる。
5.3 コミュニティーレベルの活動
 このように見ていくと、カンボジアは精神保健に対する国の活動も開始されたばかりの精神保健後進国であり、一見何もないのが現状のように思われる。しかしながらカンボジア村落には、伝統治療を中心とする医療セクター、そして「精神的病いを持った家族メンバーに対し、仏教の考えに基づいた、強い家族、親族の結びつき、そしてサポートがある」(MoH, 1999b, p. 15)といわれる。手林(2002)は、「日本をはじめ、多くの先進国では社会保障として、行政が提供することになっているもののほとんど(住居、食べ物、仕事など)が、村落の家族・親族のサポートにより賄われ、現金がすべてではない農村の経済が背景にあって、多少の人々は受容できる」(p. 56)と述べている。そのため病者・障害者も村落での一定の役割を果たさなければならないが、障害があってもできる範囲で仕事をすることで、村落の一員として認められるという、コミュニティーにおけるサポートシステムが存在するのだと考えられる。
 精神保健に関する制度や保障がなく、表面的にはサポートが受けられないと見えるが、村落では伝統治療、人々の相互支援などの潜在的サポートシステムが成り立って、社会的弱者を支えるような機能ができていると考えられる。このような、人々の生活の中に入り込んだ構造は、一番身近であり、かつ精神保健を支えていく際には大きな社会資源ともなり得る、重要な部分であると考えられるのである。


、.インタビュー調査
6.1 インタビュー調査に至るまでの経緯
 筆者は2002年8月に上智大学の石澤良昭教授の主催するカンボジア緑陰講座に参加し、その過程でJICA派遣の国際協力隊員と出会う機会を持ち、その方から、今回調査対象とした精神保健NGOの存在を知った。帰国してからそのNGOについてホームページ等で調べメールにて連絡をとり、カンボジアでの活動や調査などを知り、2002年12月に同NGO主催の「カンボディアの国際精神保健協力の現場を訪ねるスタディーツアー」に参加し1週間ほどにわたり、国立病院の精神科外来やデイケア、精神保健を担っているNGO、そして伝統治療師(クルークメール、僧侶)のもとを訪れ、現地での精神保健活動を実際に見ることができた。その時の伝統治療師からのインタビュー内容は4.1で使用した。
 それから卒業論文で「カンボジアの精神保健」について取り上げることを決め、2003年3月、3度目のカンボジア渡航の際に同NGOから精神保健に関する多数の資料をコピーさせていただくと共に、NGO代表であるT氏に4月から始まる卒業論文の趣旨を説明し、調査研究や論文構想についての指導を受けた。6月にはメールで、「カンボジアの精神保健を調査するためにインタビューをさせていただきたい」との依頼をし、T氏より同NGOスタッフであるカンボジア人SWを4人紹介していただき(表11参照)、依頼とインタビューの説明についてのメールを送り了承を得た。
 インタビューに先立ち質問表を作成し(付録参照)、筆者が英訳したものを英語学科の友人に添削を依頼した。今回のインタビューの目的は、現地SWへのインタビューから、カンボジア人の行動様式や精神疾患の捉え方、そしてソーシャルワークについて明らかにすることであったので、精神保健に関する一般的見解と人々の行動、そしてソーシャルワークについて質問を行なった。つまりインタビュー対象者には「カンボジア人」としての一般意見と、「SW」としての意見を質問した。
 2003年8月、4度目の渡航で同NGOに赴き、SW4人に対し質問紙を用いてインタビューをし、MDに録音した。SWへのインタビューは英語で行うこととしたが、筆者の英語能力に限界がありインタビューだけでは不十分と考え、質問紙にあらかじめ筆記で答えていただき、それを踏まえた上で同内容に関するインタビューを口頭で行うという方法をとった。1日目に質問表を配布し、2日目にAさん、3日目にBさんとCさん、4日目にDさんのインタビューを行なった。尚、Dさんについては、英語での会話が不可能であったため質問紙の筆記回答は行なわず、既にインタビューを終えたBさんに英語の通訳をしていただき、インタビューのみを行なった。
 インタビューは同NGOオフィスの一室でAさん約62分、Bさん約60分、Cさん約86分、Dさん約89分にわたり行なった。Aさんはプノンペンにある大学で心理学を専攻し、卒業の後教員過程を経て小学校で教師として働いていたが、その後同NGOの養成コースを受けながらSWとして7ヶ月働いている。Bさんも同じく大学で心理学科を卒業し、養成コースでSWとして8ヶ月働いている。Cさんも大学で心理学を専攻し、卒業後HIVの教育・カウンセリングに携わり1997年からは心理社会リハビリテーションセンターで、2001年からは同NGOの養成コースを受けながらSWとして働いている。Dさんはハーバード大学の養成プログラムなどを経て1994年から9年間SWとして働いており、同NGOには2001年に入った。現在は精神科看護師も兼任しており、同NGOの仕事の後と土日には看護師としてクリニックで働いている。
 尚、インタビューの際に秘密の保持を条件としたので、NGO名は匿名とする。現地で行ったカンボジア人SWへのインタビューにより、@人々の精神疾患に対する考え方、A人々の受療行動、B家族の患者への対応、CSWの役割、D人々にとってのソーシャルワーク、の5点について明らかになった。以下にまとめてみたい。
6.2 結果
@人々の精神疾患に対する考え方
 人々が精神病をどう捉えているかという点で4人のSWに共通した見解では、精神の病は「悪霊、先祖の霊、祟り」、「前世からの不幸、他人からの魔術」などを原因とする考え方が多いとし、Aさんは「70~80%の人がそう信じている」、また他の3人も「ほとんどの人が信じている」と答え、人々の間では精神病は呪術的原因で起こるという捉え方が広く受け入れられていることが分かった。
 しかしながら、Dさんによると「都会の人は精神病のことを理解している(中略)すべてではないけれど〔体の機能のために精神的問題が起こっているということを〕理解している、理由も。」と述べ、都会では地方に比べ「学校、雑誌、ポスター、NGOが働いていること」により、精神病の知識や情報を得る機会が多いことで病気の医学的原因に関する理解度が高いと言える。
A人々の受療行動
 次に、精神の病にかかった場合人々がとる行動に関する質問に対し4人は、「ほとんどの人は、はじめに伝統治療師のもとに行く」と答え、はじめから病院やクリニックなどの現代医療を受診する人はまれであった。また、その伝統治療が効果的でない場合、「違う伝統治療師へ相談に行く、それでもだめならまた違う伝統治療師へ」(C)、という答えと「病院かクリニックにいく」(B, D)という答えが出て、現代医療にかかるのは伝統治療の効果がなかったときの手段としてとられることが多いとわかった。ちなみに4人のSWに「あなた自身が精神的病気になったらどの医療機関にかかるか」と質問したところ、3人(A, B, C)は「病院に行く」と答え、その理由としては「精神保健の勉強をして、近代医学が理解できているので病院で治療してもらう」ということだったが、Dさんは「はじめに伝統治療師に行く(中略)〔それでも治療できなかったら〕クリニックへ」と答え、人々の間の伝統治療師の位置づけは非常に高いことが分かる。
 では、なぜ人は病気になったとき伝統治療師のもとに行くのか。1つ目としては「人々は病院でどんなサービスが受けられるか知らないから」、「〔国の行なっている〕ヘルスシステムを知らないから」(A)、「精神病は現代医療では治せないと思っているから」(C)など、伝統治療以外の治療セクターの知識が乏しいため、身近であり知っているところ、つまり伝統医療に診療に行くと考えられる。そして、「精神病は現代医療では治せない」という見解に対しては、精神疾患から起こる特異な行動形態に対し、病気というよりは「悪霊が取り付いた、先祖の霊のしわざ」という解釈をし、それを解決できそうな伝統治療師のもとに行くのではないかと思われる。
 また2つ目として「〔伝統治療にかかるという〕受け継がれた考えかたがあるから」(C)、「それ〔伝統治療〕がカンボジアの信仰であるから。医師でさえクルークメール〔の治療〕を信じている」(D)などの理由を挙げている。伝統治療を敬い、受診することは、長年人々の間で受け継がれ、人々に根付いている考えや信仰、そして文化を背景とした行動様式として定着していることが分かる。
 そして3つ目としては「〔伝統治療はある種のカウンセラーと〕言うこともできる。(中略)〔治療師は〕患者に対しアドバイスをしたりする」(B)、さらに「それ〔人々が伝統治療にかかること〕が感情的サポートになるし、精神的病気を抱えている時、何か信じられるものがある方が良くなるから」(B)との意見も聞かれ、伝統治療師には人々の心の悩みを聞くというメリットがあるといえよう。
 このように人々が伝統治療以外のセクターに関する知識がないことや病気の特徴、そして伝統治療師が人々に根付いている考えや信仰を背景とし人々の生活に入り込んで相談役を担っていることなどから、伝統治療師は人々の受療対象のトップに上げられると考えられる。
B家族の患者への対応
 では次に、家族は精神疾患を持った患者に対しどう接しているのか。インタビューでは「患者の面倒をみている家族は30%程しかいない。(中略)〔他の70%の家族は患者を〕無視するだけ。(中略)患者が誰にも言わずどこへ行っても気にしない」(A)、「crazy personと考え、何も知らない、自己決定できない、稼げない、社会活動にも入れない、人間関係が作れなくなった人だと思っている」(B)、「はじめは患者のことをケアし、クルークメールに行くように言うが、その後はそのままにしておく」(C)などの対応があることがわかった。カンボジアには精神科の入院施設はなく(寺院などには、少数ではあるが患者を住まわせ寺院の仕事をさせるところもある)、患者はすべて地域で生活をしている。そのため状態が悪化した場合でも、「ほとんどの家族は患者を無視する」(A)、「そのまま生活し、死んでしまうこともある」(C)、「もし患者が荒れて攻撃的になったらチェーンをかけたりする」(D)といった対応がとられ、初めは患者の状態に対し伝統治療師に行かせたりと働きかけるが、状態がよくならない場合、「無視する」「ほっておく」などという行為が一般的のようである。
 なぜ家族はこのような行為になるのかというと、「〔患者を無視するのは、病状が〕良くなるとは思わないから」(A)、同様に「人々は精神病が現代医療では治せないと思っているから」(C)と、人々の知識、教育不足により精神疾患における正しい理解がされておらず、「病気は治らないものだ」との固定観念により、患者を医療につなぐことに非協力的になることが挙げられ、その結果患者は十分な医療や援助が得られないことがある。また「家族を養うため稼ぐので忙しいから」(A)、「裕福な人は患者をクルークメール、僧、クリニック、病院に連れて行くが、貧乏な人は何もしない。(中略)〔そのままにしておくだけで〕無視はしないが貧困のために何もできない」(C)ということから、貧困のため医療機関にかかれない、または継続してかかることが困難であり、状態が悪くなってもそのままにしておくしかないという。このように、「無視する」「ほっておく」という行動の裏には、病気が治るものとは思わないという間違った理解と、貧困のため医療機関にかかるのが困難であるという2点が浮かび上がってくる。
C人々にとってのソーシャルワーク
 人々にとって伝統治療は重要な位置付けであることは前述の通りであるが、カンボジアにおいて新しい流れとしてのソーシャルワークはどのように受け止められているのだろう。
 「(SWによって人々は)援助を受けられる、または知識を得られる」(D)、「10〜20%の人が(ソーシャルワークを)理解しておらず、80〜90%の人が理解している。(中略)〔理解するのは〕私たちが助けに来ていることを知っているから」(C)、「おそらく嬉しいと思うし、考えには賛成している」(A)、「何人かはそんなに満足していないが、ほとんどの人はとても満足している。人々は助けられるのは嬉しいこと」(B)と、コミュニティーの人々はSWの介入に対しては、十分に理解しているのかは分からないが、SWが厚意をもって接していることやその有効性を目の当たりにしていることもあり、肯定的に捉えている割合が多いことが分かる。
 しかし一方で、「お金や物、病院につれていってくれるなどの直接的な援助を望んでいる人たちは非協力的」(A)、「私たちの仕事は患者を見守ること、共感することなので〔金銭的援助を望んでいる人は〕私たちの介入には満足していない」(B)、「ただ話しているだけなので〔SWが〕何をしているか分からない。効果がわからない」(C)、との答えもあり、人々の中にはSWに対し金銭的物的支援を望んでいる人がいたり、SWはわざわざ村までやって来て何をしているのかと考える人がいたりと、ソーシャルワークの概念や援助についての理解の難しさがあるように思われる。また、「彼らが私たち〔SW〕の介入を受け入れるのは、無料である又は裕福な人や中流階級の人のみに有料にしているから」(B)との意見があり、特に生活が豊かでない人にとっては、無料だから介入を受け入れているが、金を払ってまで援助をしてほしくないと考えるのだろう。
また、「コミュニティーに住んでいる人たちは、読み書きを学んでいないのでソーシャルワークを学ぶのは難しいと思う」(A)、「全ての人たちが〔ソーシャルワークを〕理解すべきと考えているが、国内の状況を考えて、医師、看護師や現代医療についての教育を受けている人に始めに教えるべき」(D)との意見が聞かれ、理解といっても基礎教育、読み書きなどができないとソーシャルワークなどの新しい事柄について理解することが困難であることが難点として挙がっている。
DSWの役割
 インタビューを行ったNGOの4人のSWは、シェムリアップ市内と郊外の2つのプロビンスにおいて精神的疾患を持った患者、約60名に対しhome based care(各家庭を訪問し、援助をすること)を行っている。ではそこで彼らは何を行っているのか。
 まず見られるのは「患者に対して共感を示す」というのが4人のワーカーの共通するものである。「患者の文句や言いたいことを聞く」(A)、「患者の内部、何を考えているか、感じるか、理解するかを見てサポートする」(C)、など、患者に対し共感的態度で接しながら彼らを理解している。前述のように治る見込みがないと判断された患者に対して「無視する」「ほっておく」という対処が主なコミュニティー生活の中で、理解を示してくれる存在がいるのは、患者にとって回復の第一歩ともなるべく、重要な支援なのである。
 そして家族やコミュニティーの人々に対しては、「日常生活について、どのように患者の世話をするか、急に患者が事故を起こしたと時どう対処するかを教える」(A)、「自分が患者と接している姿を見せることにより、家族に対し、患者とどう接していったらいいのかを示す」(C)、「コミュニティーに対して患者や精神病を理解してもらう」(B)との意見がだされ、どう患者を扱えばいいのかわからない人々の疑問に応対する、またはSW自らが態度で示していく事で、家族に接し方を学んでもらうという役割があることがわかった。また、「患者に対するSWの介入がなかったら〔患者の面倒をみる家族は〕30%だけど、介入をした後は家族は70〜80%ケアをするようになる、なぜなら家族は患者の症状を的確に理解するから」(A)、「今はhealth systemが有名になりNGOでSWが働き出し、そういう考え〔患者をcrazy personと考えること〕をやめ始めた」(B)、「人々は私たち〔SW〕の態度から学んでいく」(C)というように、人々が患者への接し方を変えることや知識を得ることなどの形でSWの援助の効果が現れてくることがわかる。村落の多いカンボジアでは基本的教育も十分に行なわれていないところがあり、特に精神保健に関しては本もなければ教えてくれる人もいない。前項のように人々のソーシャルワークの理解が難しいこともあるので、定期的にSWが村落に入り、患者本人への支援と共に、患者のサポート役になりうる人へ教育をしていくことは非常に重要なことであると考えられる。
 今回はこのNGOのSWに対してのみのインタビューであったのでカンボジアで働いている全てのSWに当てはまる役割ではないが、home based careを中心に行なうSWの基本的役割を知ることができた。
 以上のようにSWのインタビューから分かったことをまとめると、@人々の間では精神疾患は呪術的原因により起こるという考えが主である、A人々はまず伝統治療師を受診するが、それは伝統治療以外のセクターに関する知識不足や病気の特徴、伝統治療師が人々に尊敬され、生活に入り込んで相談役を担っているから、B家族は患者の状態が良くならないと「無視する」「ほっておく」という行為が多くとるが、それは「病気は治らない」という認識と、貧困のため医療機関にかかるのが困難という理由から、C人々はソーシャルワークをおおむね肯定的に捉えているが、金銭的物的支援を望んだり、基礎教育の欠如からソーシャルワークについて理解することが困難、DSWの役割としては、患者に理解を示す、本人への支援と共に、家族や地域住民への教育的役割がある、ということが分かった。

・.考察
 以上のように、章からは文献調査として、カンボジアの歴史、政治経済、社会的側面について、。章では医療・福祉、人的資源や政府の活動、「章では精神保健の歴史と実情、」章では現在の精神保健活動について、そして、章のインタビュー調査では人々の精神疾患の捉え方、行動様式やSWの役割などが明らかになった。最後のこの章では、これらの調査を踏まえ、考察としてカンボジアのコミュニティーにおける、今後の精神保健システムの構築へ向けて、提言してみたい。
7.1 考察
@伝統治療を重視
 伝統治療は、古くからカンボジアのコミュニティーの中に存在し、人々の病を癒してきた。内戦後にも国土が疲弊した中で草の根の治療活動は続けられ、現在でも伝統治療師は人々の生活に根付いて尊敬され、なくてはならないものとなっている。これは、人々が近代医療に容易にアクセスできないがゆえの選択肢という理由と共に、伝統治療が人々の生活の一部となっており、心の支えとなっているからだと考えられる。このような状態を見ると、伝統治療はカンボジアの医療セクターからは外せない、重要なものであることがわかる。そこで、非科学的という理由での伝統治療セクターの除外をさけ、未だ農村部における医療は伝統治療に頼っている部分が多いという現実や、伝統治療師が人々の心の支えであること、人生における相談相手であることのメリットを重視し、医療セクターの1つとして伝統医療を活かすことが、コミュニティーにおける精神保健活動において重要であると考えられる。
 そのために、他の医療セクターの専門家との相互の理解と連携が不可欠であり、例としてSUMHなどが行っている活動で、伝統治療師をコミュニティーにおけるキーパーソンの1人として、村でのミーティングに参加してもらい、ディスカッションを重ね、他の専門家や住民と共に理解しあうのは、とても有効であると考えられる。人々の精神体系を理解し、その基礎ともなる伝統治療を活かすことを提言の第1とする。
A知識の向上
 カンボジアにおいては、精神疾患における知識不足から精神病に対する考え方の歪みが生じ、そのため患者は治らないものと決め込んだり、「無視する」「ほっておく」などのケースが目立つ。それを解消するために、「知識不足→精神病は治らない→放っておく」の悪循環を断ち切る必要があり、病気は治療をすれば治る確率が高まるという知識の向上が必要になってくる。これは人々から患者に対する偏見や差別を減らすことにもつながり、地域におけるサポートシステムを強化するためにも不可欠な要素である。
 しかしインタビューからも明らかになったように、基礎教育がままならない状態で精神保健の新しい知識を理解してもらうのは困難なケースが多い。国の教育水準や識字率の向上など、基本的な部分での開発が行なわれ、それに付随して少しずつ専門的知識も理解していくことが必要になる。知識を得ることにより、精神疾患の問題が重要であることも認識し、地域の住民自らが主導になり、地域のサポートシステムが構築されていくことになることを考えると、知識の向上は非常に重要性をもつ。
Bカンボジアの社会資源の活用
 歴史的経緯から、カンボジアは一時国家全体が壊滅状態に陥り、その被害は現在でも計り知れないほど残っている。それがアジア圏の中でも最も貧困している国のひとつであるといわれる所以であるが、カンボジアは医療施設や人材資源などの不足が大きな問題となっている一方で、もとから備わっており活用できるものもコミュニティーにはある。
 その一つの例としては、カンボジアに古くからある、人やコミュニティーの深いつながりが挙げられる。人々は共に支え合って生きてきたのでありそれは障害者も一緒であった。地域の中で問題が起これば伝統治療師や村の長に相談にいっていたし、手林(2002)によると「日本社会では、自分個人が判断し解決すべきと思われている部分でも、簡単に相談に訪れ助言を求め(中略)個人に貯まっていく社会生活上のストレスのエア抜き機能を果たしているようにも見える」(p. 56)とし、コミュニティーのなかで問題を解決しようとする能力が備わっているのである。それはさらに、当事者が医療によってのみ治療をされるという構造ではなく、コミュニティーも当事者を支えるという、本来の支えあいの考えに通じるものであると思われる。また、村落の中でも伝統治療師や村長、そして年寄りなどは多くの場合、村民から尊敬を受けている。これは仏教の考えに基づくものだという見方がされるが、新しい観念や思想に対しても、彼らが理解しそれを受け入れる体勢ができれば、村民に対する受け入れもスムーズに行われる場合がある。このように地域の中の枠組み、つながりなど、コミュニティーに存在するものを利用することで人々に受け入れられる精神保健が確立されるのである。
 また資源の不足もメリットとして活かすことができる。内戦時の影響で現在に至るまで精神科の入院施設のないカンボジアにおいては精神疾患における急性期の患者であってもコミュニティーにおいて生活している。しかしこの先入院施設ができれば家族やコミュニティーで面倒が見切れない患者を病院に置き去りにしたり、地域での生活基盤がない患者の社会的入院が問題となることは目に見えている。入院施設がない今のうちに地域でのサポートシステムを強化することで、入院施設ができた後も不必要な入院を防止し、効果的な入院医療、そして地域に戻ってからの生活を支える仕組みを建設することが重要課題であるといえる。
 このように現在コミュニティーに存在する、人々の相互支援やつながりというカンボジアにとって重要な社会資源を活かすことを第3の提言とする。
CSWの役割
 現在地域における当事者の社会的部分の援助を支えている専門家の活動は、インタビューしたNGOの行っているhome based careのような訪問や各地域にある保健センターのスタッフによる活動が中心になると思われる。しかし、NGOでの活動も地域が限られており、ヘルスセンターはあるものの、機能していない状態のところが多い。だがこれは保健セクターだけの問題ではなく、国家における予算配分の方法や貧困などさまざまな問題もからんでおり、保健の部分だけを解決できるものではない。現在の限られた人材での活動において、そしてこれからの地域における精神保健ケア構築においてもコミュニティーの人々からの協力や理解が不可欠である。それを踏まえた上でSWとしてのコミュニティーへの働きかけとして、まずは医療を受けていない当事者に情報を提供し医療につなげること、そしてSW自らの行動で精神疾患を持った当事者にどのように接したらいいのかを示し、家族やコミュニティーに理解してもらうという教育者的役割が必要になり、この様な活動は当事者に対する意識改革へとつながる。特にこれらの活動は、精神疾患に関する情報がほとんどないカンボジアの村落において、SWが積極的に行なっていくべき役割として最後に提言したい。
 以上のように考察をしてきたが、カンボジアでは保健分野の中でも、特に精神保健の領域は発展途上と言わざるを得ない。しかもその活動はNGOによる活動が大部分であり、国家としては基本的枠組みしか構築していない状況である。しかしカンボジアのコミュニティーには、伝統治療、人々のつながりやサポートシステム、そして仏教に基づいた慈悲の精神など、人が生きていく上で、大切な資源が現在でも至るところに存在する。その資源を活かし、人々が精神保健に関する新たな知識を持ち、SWが地域に入り込んで活動していくことで、これからのカンボジアの精神保健の未来が明るくなる余地は十分にありえる。海外からのサポートと共に、カンボジア特有の社会資源を活かした継続的な地域精神保健システムの構築が、これからのカンボジアにとって重要であるといえるのである。
7.2 研究の限界と今後の課題
 今回の論文で、インタビュー対象者をカンボジア人SWとしたが、カンボジア内におけるSWの数自体少なく限られており、アクセスが困難だったこと、筆者の金銭的時間的制約から多数のSWの元を訪れることができなかったことの理由により、今回は去年の12月から関わりのあった1NGOの4人のSWにインタビューすることになった。
 カンボジア人SWに対するインタビューは日本においてはあまり例がなく、それを行った事に関しては大変意義があるが、カンボジア一般の、より普遍的データをとるため、次回の研究では対象者えらびに力を入れ、今後も引き続きカンボジアの精神保健について研究を行っていきたいと思っている。
謝辞
 この論文を書くにあたりお世話になった方々に心よりお礼を申し上げます。特にお忙しい中研究に協力をしていただいたT氏、インタビューに応じてくださったSWの方々には長時間に渡り現場の貴重な意見を聞かせていただき、これから研究を続けていくためにも大変有益なお話を聞くことができ、感謝しております。また資料提供に協力していただいたNGOの方々や現地での活動のお話を聞かせていただいた方、そして最後に、実習指導と共に卒業論文指導もしていただき、何度も論文に目を通して根気よく指導してくださった松永先生にお礼を申し上げます。この論文を執筆するにあたって、たくさんの人がかかわってくれたことに改めて感謝したいと思います。ありがとうございました。

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表1 カンボジアと近隣諸国の開発指数の比較

カンボジア

ラオス

ベトナム

タイ
GNP(10US$, 99) 3.0 1.4 28.2 121.0
一人あたりGNP(US$, 99) 260 280 370 1,960
中等教育就学率(, 97) 39 63 55 48
安全な水へのアクセス(, 90-96) 13 39 36 89
潅漑率(, 95-97) 7.1 18.6 31.0 23.9
可耕地の割合(ha/capita, 95-97) 0.34 0.17 0.08 0.28
舗装道路の割合( of total, 98) 7.5 13.8 25.1 97.5
1,000人あたりのテレビ保有率(98) 123 4 47 236
1,000人あたりの電話保有率(98) 2 6 26 84
1,000人あたりのパソコン保有率(98) 0.9 1.1 6.4 21.6
純民間資本フロー(百万US$, 98) 118 46 832 7,825
海外直接投資(百万US$, 98) 121 46 1,200 6,941
一人あたりODA受け取り額(US$, 98 29 57 15 11
ODAGNP(, 98) 11.9 23.0 4.3 0.6

    JICA国際協力総合研究所(2002, p. 15)をもとに作成

表2 各国の保健医療指標
カンボジア タ イ ベトナム ラオス 日 本
乳児死亡率
出生1000人中
(2000年)
95 25 30 90
5歳未満死亡率
出生1000人中
(2000年)
135 29 39 105
成人識字率
15歳以上
(2000年)
67.8 95.5 93.4 48.7 ――
妊産婦死亡率
出生10万件中
(1985-99年)
440 44 95 650
合計特殊出生率
(1995-2000年)
5.2 2.1 2.5 5.3 1.4
粗死亡率
(1998年)
13 13
粗出生率
(1998年)
34 17 22 39 10

      国連開発計画(2002)、UNFPA(2002)、JICA医療協力部(2002)より筆者作成


表3 各区における保健・医療システムの種類と数
中央区 研究機関 2
教育機関 2
国立センター 6
国立病院 8(1,786床)
地方区 保健センター 23
研修センター 4
地方病院 23(5,196床)
保健行政区 振り分け診療所 42
有床保健センター 116(13,908床)
無床保健センター 272
診療所 878

   出所:菅原等(2002, p. 74)




表4 障害種別障害者の割合

   出所:JICA企画・評価部(2002, p. 3)

表5. 原因別障害者の割合:男性

   原因別障害者の割合:女性

出所:JICA企画・評価部(2002, p. 5)

表6 保健分野の公的セクター財源(1996−2001)
財源/  
 /
1996 1997 1998 1999 2000 2001
政府より 16.2 17.4 12.0 32.7 26.8 32.9
多国間援助より ―― ―― ―― ―― ―― 21.0
2国間援助より ―― ―― ―― ―― ―― 30.2
NGOより ―― ―― ―― ―― ―― 14.1
対外収入 39.8 24.2 59.0 68.0 65.1 65.3
公的セクター収入 56.0 41.6 71.0 100.9 91.9 98.2
1人当たり出費 5.2 3.8 6.3 8.7 7.7 8.1
政府() 29 42 17 32 29 33
海外出資() 71 58 83 68 71 67

   MoH(2002b, p. 19)をもとに筆者作成

表7 2001年保健の公的セクター経費
政府 ドナー 合計
1000US$ % 1000US$ % 1000US$ %
中央保健省 4,141.93 4% 3,136.92 3% 7,278.84 7%
政策費 4,977.99 5% 11,131.37 11% 16,109.36 16%
国立病院・施設 5,781.72 6% 16,934.72 17% 22,716.44 23%
中央保健省小計 14,901.64 15% 31,203.00 32% 46,104.64 47%
プロビンス保健セクター 18,084.19 19% 34,141.81 34% 52,225.99 53%
合計 32,985.83 34% 65,344.81 67% 98,330.64 100%

   MoH(2002b, p. 19)をもとに筆者作成


表8 伝統治療師が使う方法
クルークメール 僧侶 霊媒師 伝統的産婆 アチャー
薬草 +++ −/+
カウンセリング&
アドバイス
+++ +++ +++
魔術的方法 +++ ++ −/+
占い ++ ++
身体的介入(ex.) +++ +++

   …多いほど頻度が高い    …行なわない    /…やったりやらなかったり
   出所:TPO(1997, p. 50)


表9 現在のプロビンスレベルでのサービス
プロビンス 人口(1998 MHサービス 外来 活動中のNGO
Banteay Meanchey 577,772 Yes No TPO
Battambang 793,129 Yes Yes TPO
Kampong Cham 1,608,914 Yes Yes
Kampong Chhnang 417,693 No No
Kampong Speu 598,882 Yes Yes SSC
Kampong Thom 569,060 Yes Yes TPO
Kampot 528,405 Yes Yes
Kandal 1,075,125 Yes No CCMH
Kep 28,660 No No
Koh Kong 132,106 No No
Kratie 263,175 No No
Mondulkiri 32,407 No No
Oddar Meanchey 68,279 No No
Pailin 22,906 No No
Phnom Penh 999,804 Yes Yes TPO, SSC,
リハビリセンター
Preah Vihear 119,261 No No
Prey Veng 946,042 No No
Pursat 360,445 Yes Yes TPO
Ratanakiri 94,243 No No
Siem Reap 696,164 Yes No SUMH
Sihanoukville 155,690 No No
Stung Treng 81,074 No No
Svay Rieng 478,252 No No
Takeo 790,168 No No
合計 10/24 7/24

    TPO(1999b, p. 11)をもとに筆者作成





表10 東南アジアの精神医療・保健の資源
国名 経済状態 精神保健予算 総精神病床数
(
人口万対)
精神病院病床
(
人口万対)
総合病院精神病床
(
人口万対)
精神科医数(人口十万対)
カンボジア 低所得 0 0 0 0.09
インドネシア 低所得 1 0.4 0.38 0.02 0.21
日本 高所得 4.9 28.4 20.6 7.8 8
ベトナム 低所得 0.63 0.59 0.04 0.25
フィリピン 中所得の低 0.02 0.9 0.56 0.3 0.4
タイ 中所得の低 2.5 1.4 1.4 0.6
ラオス 低所得 0 0.03 0 0.03 0.002
モンゴル 低所得 5 2.4 1.7 0.7 3.3

注:「経済状態」は世界銀行の2000年分類による
  「精神保健予算」は保健予算全体に占める精神保健予算の割合(%)
  +は「あるが詳細は不明」、−は「データなし」
    出所:山本(2003, p. 61)

表11 インタビュー対象者
==============================================
インタビュー時間(分)          年齢(歳)     経歴
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
A    62               27     SW養成過程7ヶ月
B    60               28     SW養成過程8ヶ月
C    86               29     SWインターンも含め6年
D    89               38     SWとして9年、精神科看護師兼任
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                              平成15年8月現在




図1 行政区とヘルスセクターリフォーム後の区分け

・政府の行政区
                  /\
                 /  \
                /    \
               /   国   \  
              / プロビンス(州) \
             /ディストリクト(郡) \
            /   コミューン     \
           /    ビレッジ(村)     \

・1996年のヘルスセクターリフォーム後
                             行政区
                  /\          ↓
                 /  \
                /    \
               /  中央区 \      =国
              /   地方区   \     =プロビンス
             /   保健行政区  \    =ディストリクト
            /              \    コミューン 
           /  Operational District   \    ビレッジ(村) 

         和泉(2001)、手林(2001)をもとに筆者作成


図2 カンボジアの州別地図


出所:The University of Texas at Austin(1997)
州の名前:
1. Banteay Meanchey 2. Battambang  3. Kampong Cham  4. Kampong Chhnang  5. Kampong Speu  6. Kampong Thom  7. Kampot  8. Kandal  9. Kep  10. Koh Kong  11. Kratie  12. Mondulkiri  13. Oddar Meanchey  14. Pailin 15. Phnom Penh  16. Preah Vihear 17. Prey Veng  18. Pursat  19. Ratanakiri  20. Siem Reap  21. Sihanoukville  22. Stung Treng  23. Svay Rieng  24. Takeo 


付録 インタビュー質問紙
Hello, my name is Tomomi Takahashi, and I am a student of Sophia University in Tokyo, Japan, Faculty of Social Welfare. At present, I am working on my thesis about mental health care in Cambodia, and would like to ask you a few questions. Please be frank with your answers, and the more detailed the answer, the better. These answers will in no way be used for any other reason but research, and secrets will strictly be kept. I would like to follow up with an interview with you based on the questionnaire, with your cooperation. Thank you very much for your time and cooperation.
<Regarding the profession of a Social Worker>
1. How old are you?
2. How did you become a social worker?
3. How long have you been working as a social worker?
4. What motivated you to become a social worker?
5. Would you tell me some things about your work and what your goals are?
<Regarding the public’s opinion towards the mentally ill>
6. Is there any common symptom found among the patients?
7. What does the family generally do for a member with a disorder/(s)?
8. What is the overall stance or view of people with mental disorders in your region?
9. What is the general understanding, or teaching, of them?
10. What is done for a patient whose symptoms are worsening to a level that is not treatable within your region?
<Regarding social work>
11. Before proper treatment by doctors and supports from social workers were introduced, how were the mentally ill treated by others and the community? Do you know of any historical details?
12. What is your impression about the impact of the introduction of social health care to Cambodia?
13. How do you think the people are reacting to this new introduction of social health care as opposed to traditional healing treatment?
14. What are some of the reactions you are getting from the people regarding your work?
15. Does your line of work include linking with traditional healing treatment? If yes, please write down about the work.
16. Being a social worker, what is your point of view towards traditional healing and the ways of the Kru Khmer?
17. What is Kru Khmer to the people? Is it just one way of healing, or does it have more of an importance?
<General questions>
18. What are some of the difficulties you face in your profession?
19. What sort of support is helpful for your profession?
20. What are some of the joys you feel in this profession?