カンボジアの地雷障害者の現状と課題 −障害者に見る暴力性−
2003年度卒業論文

立命館大学国際関係学部国際関係学科
古家明子

目  次

1, はじめに
2, カンボジアの地雷と障害者の現状
   1) カンボジアにおける障害者
   2) 地雷被害の現状
   3) 地雷が使用された経緯
3,地雷による障害者に見る暴力性
   1) 直接的暴力としての地雷の使用
   2) 構造的暴力
     @ 貧困
       a.選ばざるを得ない地雷原での生活
       b.インフラの不備
       c.医療設備の不備
       d.治療費の節約
     A 社会的差別
       a.偏見
       b.教育・就業の機会
       c.カンボジアの生活
   3) 文化的暴力
4,解決に向けての政策的課題
   1) 国際社会は?
   2) 国家は?
   3) NGOは?
5,まとめに

1,はじめに

 2000年9月に出された世界銀行のミレニアム開発目標の達成において、貧困の削減が提言された。その中で、障害者問題の解決が貧困削減における重要なものになるという考えが登場している。1)2003年9月には「障害と貧困」に関するセミナーが世界銀行とJICAの共催で行われ、障害と貧困の問題が開発において、切り離せない問題だという認識がされた。なぜなら、発展途上国における障害の主要原因が貧困を原因とした紛争・内戦、栄養不良、医療の不備、事故・災害であり、先進国の事故や先天性、老化による障害原因と比べても明らかに異なっているからである。また、発展途上国において、障害は経済的、社会的、文化的な権利を抑圧し、貧困状態を悪化させることに繋がる。この貧困と障害のサイクルからもわかるように、発展途上国におけて、貧困と障害という二つの要素の相互作用により、障害者は自己実現を阻害されていると考えられるのである。
 今回、この論文では、発展途上国の障害者の一例として、カンボジアの障害者、特に地雷による障害者を取り上げ、彼らの現状を暴力の観点から検討したいと考えている。このカンボジアの地雷障害者の問題は、地雷や障害、貧困という枠を越えた問題であり、人々の生活における平和を脅かすものとして、研究する価値は大きい。ちなみに、ここでいう平和とは、「暴力のない状態」を指し、暴力には幅広い概念が存在していることに先に触れておきたいと思う。ヨハン・ガルトゥングの定義によると、「暴力」とは、戦争のような直接的暴力、貧困や差別といった構造的暴力、また、それらを助長、正当化する文化的暴力という3つを指している。そして、カンボジアの地雷障害者は、これら3つの暴力が関係している事例であり、発展途上国の障害者問題を理解する上でも、重要な役割を果たすものとなりうるだろう。

2,カンボジアの地雷と障害者の現状

 まずはじめに、カンボジアの地雷と障害者の現状について見てみることにする。第一に障害者について、第二に地雷問題について、第三に地雷使用の経緯について述べていく。この章を通してカンボジアの現状を数字的に見ることで、地雷と障害者問題についての理解を深めたい。

(1)カンボジアにおける障害者
 カンボジアの障害者は赤十字国際委員会(International Committee of Red Cross: ICRC)によると、推定17万人の障害者が国内に存在すると報告されている。また、カンボジア国内調査では障害者は30万人を超えるというデータもある。この数のばらつきは、カンボジア国内において正確な障害者の登録や確認がなされていないためであるが、障害者の人数はカンボジアの国民の1.5パーセントから3パーセントを占めている。障害者の障害の内訳をみると、四肢障害(Unable to use one or more limbs)が22.1パーセント、手足切断(Amputee of one or more limbs)は18.2パーセント、視聴覚障害(visual impairment)は11.5パーセント、一生傷(Permanent disfigurement)は10.9パーセント、精神障害・遅延は(Mentally disturbed or retarded)は7.4パーセント、聴覚障害(Deafness /hearing impairment)は4.3パーセント、脳性麻痺(Paralyzed)は4パーセント、複数障害(Multiple disability)は2.8パーセント、言語障害(Muteness /severe speech problems)は2.0パーセント、ろうあ(Deaf-mute)は0.7パーセント、その他(Other)が16パーセントであると、カンボジア経済社会国内調査で示されている。

<資料1>障害者内訳

Disability type

Percentage
Unable to use one or more limbs

22.1

Amputee of one or more limbs

18.2

Visual impairment

11.5

Permanent disfigurement

10.9

Mentally disturbed or retarded

7.4

Deafness

4.3

Paralysed

4

Multiple disability

2.8

Muteness

2

Deaf-mute

0.7

Alcohol problem

n/a

Other

16

Total

100

出所: Disability Action Council
 http://www.dac.org.kh/

 この特徴としては、他国に比べ手足切断の障害を負っている人が多くいるということが言える。なぜならば、そこには、障害原因が関わっている。カンボジアにおいて、その主な障害原因の一つに地雷による事故が上げられ、その他にも、医療事故、ポリオ、内戦の被害、先天性などの原因がある。また、近年では極度の交通手段の発達により、車・バイクが増えたことで、交通事故が増加している。
 上記でも少し触れたが、地雷の被害により障害を負う人がカンボジアでは多く、その割合は、障害原因の1〜2割を占めている。カンボジアの地雷の現状については次項で述べるが、カンボジアでは地雷や不発弾での死傷者が1979年から1999年までの20年間に4万人から5万人に達している。地雷・不発弾で負う障害では、手足の切断が40パーセントを占め、同時に手足・身体の負傷が40パーセントになっている。その他、やけど、視力喪失、聴力喪失、麻痺などの障害も地雷により負うことがある。地雷でのけがは、その地雷の種類によっても異なるが、重傷なけがを負うことが多いと考えられる。これは、地雷が本来、人を殺すよりもけがをさせることを目的にした兵器であるからだ。2)実際の地雷による被害の様子を見てみると、最も一般的な地雷である爆風地雷では、地雷を踏んだ時の圧力により地雷が爆発し、その威力で足の下部が吹き飛ばされたり、筋肉がつぶれ押し上げられたりする。また、地雷に含まれる火薬の量・質により、けがが大腿部、性器、臀部にまで及ぶこともあり、けがの程度としては重傷となる場合が多い。この地雷が爆発する時には、同時に周辺の石や泥、草を巻き上げ、身につけていた衣服が爆風により傷口に入り込むため、けが以外の部分、つまり、化膿箇所が広範囲となり、より大部分の切除が必要とされることもある。<資料2 省略>
 次に、爆風地雷と並んで使用される破片式地雷では、爆発時に地雷自体が細かく分断され飛び散ったり、地雷に内蔵されていた金属片が飛び出したりする種類の地雷であり、そのため、爆発の被害は体全体にまで及ぶ。けがの度合いとしては、飛び散る金属片の大きさや、地雷と被害者の接触距離により異なるが、金属片がより大きいほど、けがもひどく、また、直接、破片式地雷に接触してしまうとほぼ即死する程の威力がある。また、地雷から飛び出た金属片が体内に残り後々の障害として被害者を苦しめることもある。
このように地雷は確実に、被害者に重傷となるけがを負わせる構造になっており、障害を負う原因になっている。そのため、カンボジアでは地雷被害を原因とする障害者が多く存在しているといえる。

(2)カンボジアにおける地雷被害の現状
1997年時点で、約6000万個から1億個近い地雷が、少なくとも世界71カ国の国に埋められている、と赤十字国際委員会(ICRC)で報告がされている。この数は近年、過多下報告だといわれているが、それでも約3000個近い地雷が埋設されているということは間違いないものだと言われている。その中で、地雷の被害により、1日に70人、およそ20分に1人の割合で、世界のどこかの国で地雷を被爆し、死傷している人が存在している。その中で、カンボジアは最も地雷被害の多い国だといえる。カンボジアの地雷埋設数としては正確なデータがなく約400万〜600万個の地雷が埋設されていると考えられてのだが、この埋設数は約1000万個以上の地雷が埋設されているといわれるアンゴラやエジプトといった国に比べ、少ない。しかし、カンボジアにおける地雷埋設面積は国土、18.1万平方キロメートルの約1パーセントである1900平方キロメートルであり、国土に対する地雷の割合は1平方マイル(2.56平方キロメートル)に対し142個と世界で一番その割合が高くなっている。<資料3>

<資料3>残留地雷数

出所:長有紀枝 
「地雷問題ハンドブック」

また、国民一人あたりの埋設地雷数は0.83個〜1.3個もある。このため、地雷による被害は多発し、後を絶えない。赤十字国際委員会96年の調査では、被害率が最悪の時期(1994年)では国民236人に1人が地雷により死傷しているという結果が出ている。

<資料4>地雷埋設国における被害率 (ICRC96年データ)

国名

被害率
カンボジア

1/236人

アンゴラ

1/470人

ソマリア

1/650人

ウガンダ

1/1100人

ベトナム

1/1250人

モザンビーク

1/1862人


出所:外務省HP
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/arms/mine/index.html

このような被害状態において、地雷及び不発弾による死傷者が4万人から5万人に達し、およそ2万人5000人が現在も地雷による障害を負った状態で生活しているのである。
 より詳しく地雷による被害者を分析してみたい。まず、主な被害者であるが、カンボジアのモンコル・ボレイ病院で治療を受けた患者のうち、その64.4パーセントが兵士、35.6パーセントが民間人であった。


<資料5>地雷被害者内訳―民間人と兵士の割合 モンコル・ボレイ病院データ

出所:長有紀枝 「地雷問題ハンドブック」

また、被害者の年齢であるが約71パーセントが成人男性、子どもは22パーセント、女性は7パーセントである。

<資料6>地雷被害者内訳‐年齢別

出所:ICBL Youth Action Forum
http://www.icbl.org/youth/jp/

しかし、このデータは病院に運ばれ、治療を受けることができた人の年齢であり、死亡した人は対象に入っていない。特に、体力的に弱い女性や子どもの中には治療を受ける前に死亡してしまうケースが多い。子どもを例に挙げると、子どもの場合、大人との体格差から同じ地雷でも、大人であれば膝下部分で済む負傷が、子どもによっては下半身全体への負傷となり、傷が大きくなる。このため、地雷被害に遭う子どもの85パーセントは病院に運ばれる前に死亡しているとさえ言われている。このような例からも実際の被害者の中に占める子どもと女性の割合は増えると推測できる。
 現在では、カンボジアでは、地雷除去活動がすすめられ、また地雷回避教育も行われているため、地雷による被害は減少しているといえる。カンボジア国内では現在もCMAC(Cambodian Mine Action Center)、HALO Trust、MAG、RCAF(国軍)が地雷除去活動を続けており、過去に活動していた団体と合わせて、1992年から2002年の間に、199.98平方キロメートルの地雷が除去された。しかし、いまだに4460平方キロメートル、3037地域には地雷・不発弾が残存していると思われており、1640ヶ所の村では地雷により土地が高度に汚染されている。このため、地雷被害による死傷者は近年減少傾向にはあるが、絶えることはなく、1996年に3046人、1997年に1651人、1998年に1685人、1999年に1153人、2000年に861人、2001年に825人の死傷者が出ている。

(3)カンボジアの地雷使用の経緯
 地雷が世界で初めて用いられるようになったのは、1861年に始まったアメリカの南北戦争の時期である。その後、第一次世界大戦、第二次世界大戦と敵の侵攻を防ぐ地雷は防御兵器として大量に利用されるようになった。そして、その地雷がカンボジアで初めて用いられるようになったのは、第2次世界大戦終結より20年近く後のベトナム戦争の時期であるが、カンボジア国内の地雷の製造は行われていなかったため、これら地雷は諸外国の勢力から持ち込まれたといえる。
1963年に始まったアメリカ対北ベトナム軍のベトナム戦争は、隣国のカンボジアにも影響を及ぼすものであった。1967年には、カンボジアの元首であったシアヌークから許可を得た北ベトナム軍が自軍の基地とホーチミン・ルートと呼ばれる補給路をカンボジア東部の一部に建設し、これらの施設を守るために地雷を周辺に埋設させた。これがカンボジアで記録されている、最初の地雷使用である。その後、この補給路の壊滅を目指したアメリカ軍が空からの地雷散布と陸からの地雷埋設をカンボジア、ベトナムの国境付近で行った。このようにして、地雷はカンボジアには関係のない戦争により国内に持ち込まれたのである。しかし、地雷埋設とその被害はベトナム国境付近だけでは収まることはなかった。なぜならば、1970年以降カンボジアの国内で勃発した内戦のより、対立する各派が多くの地雷を継続的に使用するようになったからである。
 1970年、独裁体制だったシアヌークに対抗するロン・ノル将軍がクーデターを起こし、シアヌーク政権が倒れた。そしてロン・ノルを首相とする政権が成立することになる。これが、その後20年以上続くカンボジアの内戦の始まりである。このロン・ノル政権は腐敗や汚職が激しく、クメール・ルージュ(ポル・ポト派)やカンボジア共産軍といった反政府の各派が抵抗し、3派による戦いがカンボジア全土へ広まった。この3派とも地雷を使用していたため、戦争の広がりとともに地雷もカンボジア全土に埋設されるようになった。1975年、ポル・ポト派がロン・ノルから政権を奪取した。ポル・ポト派は大虐殺を行ったとして世界に知られているが、それだけでなく地雷の使用も積極的に戦略として取り入れ、多くの地域をその支配下においていった。1979年、ベトナムがカンボジアに侵攻し、ポル・ポト派はその政権を奪われ、次に親ベトナムであったヘン・サムリンの政権が誕生する。この頃、それまでの内戦とカンボジア各地で起こった飢饉にタイ国境付近へ非難して難民が数多く存在し、また、政権を追われたクメール・ルージュがタイ国境付近へと逃げたこともあり、彼らのカンボジア国内への流入を恐れたベトナム軍が、タイ国境からラオス国境までをK5障壁ベルト3)と呼ばれる大規模な地雷原で覆い、その流入を阻止しようとした。この時、約100万個の地雷がこのベルト地帯に埋設されたのである。一方、カンボジアの国内ではベトナム軍とヘン・サムリン政権、それに抵抗するシアヌーク派、ソン・サン派、ポル・ポト派の一部が争っており、数多く保持していた地雷を使い続けていた。そして、この争いは1991年にパリ和平協定が結ばれ、また1992年に国連カンボジア暫定統治機構が入るまで続くことになり、地雷の使用が終わることはなかった。1992年になりカンボジアでPKO活動が行われ、選挙に基づく民主的な政権が成立することで内戦は終了することになる。しかし、その一方で、地雷という兵器は、その性質上、誰かが接触するまで爆発せず、半永久的に存在するため、20年間に及ぶ内戦で使いつづけられた地雷は、内戦が終了してもなお、人々を狙いつづけることとなった。
 このようにして、カンボジア国内には大量の地雷が埋設されることになったのだが、内戦が終了し、10年以上経った現在でも地雷の被害に遭う人、またその被害により障害を負った人が存在しているのである。

3,地雷による障害者にみる暴力性

 カンボジアの地雷の被害には、平和学でいう3つの暴力が関係していると考えられる。この3つの暴力は、第一に「直接的暴力」である地雷使用、第二に「構造的暴力」である障害者の抱える貧困と社会的差別、第三にそれら差別を助長した「文化的暴力」である。この章では、カンボジアの地雷障害者が抱える、これら3つの暴力をそれぞれ検討していきたい。

(1)直接的暴力としての地雷使用
 カンボジアで障害者が増えた原因として、内戦における大量の地雷使用という直接的暴力がある。先の歴史でも延べらように、カンボジアの内戦では大量の地雷が意図的に使われた。そのため、地雷はカンボジアにとって「選ばれた兵器」といわれ、また使用方法にも特徴がある。
 第一に、内戦時において、地雷に関しては大量に使える武器であったことである。地雷は一個につき3ドルから10ドルと比較的安い値段で購入でき、真空管と火薬を使い簡単に製造できる兵器だ。このため、内戦において資金源が限られていたり、長期の争いで資金が底を着いてくる各勢力は、積極的に安い地雷を活用した。また、カンボジアの内戦においては対立する各勢力の背景に支援をする外国が存在したことで、地雷を仕入れることが容易であり、常に大量に供給されていた。例えば、親中勢力であったポル・ポト派は中国製の地雷を、カンボジア侵攻をしたベトナム軍とプノンペン政府軍はベトナム製地雷と支援国であった旧ソ連製地雷を、その他の各派も自ら安く仕入れた、大量の地雷をストックしていた。また、この他にもベトナム戦争時に散布されたり、埋設されたりしたアメリカ製の地雷もある。これを証明するものとして、現在除去され、発見されている地雷の種類のうち、その9割近くが外国製であるということだ。除去された製造国は主に、中国、旧ソ連、ベトナム、旧ユーゴ製のものが多く見つかっている。このように、大量に安く地雷を手にすることができたからこそ、カンボジアでは地雷を好んで使用されていた。
 第二の特徴は、カンボジアの地雷が防御だけでなく、攻撃のために大量に使用されたことにある。地雷の本来の働きは、支配する地域や要衝といった重要拠点を守ったり、敵の侵入を防ぎ、その進行を遅らせたり、敵を誘導させたりするために使用するものであり、典型的な防御兵器であった。しかし、カンボジアではこれら防御のためだけでなく、攻撃のためにも地雷が使用されたと言われている。例えば、敵や住民を通常兵器で攻撃し、意図的に地雷原へ追い込み地雷に接触、殺傷することを目的としたり、敵支配地域の周辺に地雷を埋設することで、地域の住民の被害と農作物への打撃を狙ったテロ目的といったために地雷使用がされていた。このため、地雷は重要拠点に限らず、畑、森林、村落、学校など、様々な場所に埋設された。このように使うことで、制限のある軍人や兵士の代わりとして地雷が活用したのである。しかし、場所を問わずに地雷を埋設したことで、内戦が終了しても、人々の生活範囲内に多くの地雷が存在する結果となり、民間人の被害が多発することに繋がった。
 第三に、地雷の埋設における常識を全く無視した形での、無差別な地雷使用が行われたことである。1980年に採択された特定通常兵器使用禁止・制限条約の地雷・ブービートラップに関する議定書内4)では、地雷を埋設する場合には地雷地図の作成を義務付けている。この義務の意味するところは、地雷地図を作ることで、戦後の地雷除去が容易になるということである。この条約に関していえば、カンボジアは締結していなかったのだが、条約以前に、地雷の使用方法として地雷地図の作成は当然行われるべきものとして認識されている兵器であった。しかし、カンボジアでは地雷地図はほとんど作成されず、その記録すら残っていない。これは地図の作成が、各派上部から一切指令されなかったということだ。また、地雷埋設の方法に関しても、通常の埋設形式である「一定の奥行きと一定の幅の範囲内に、幅1メートルに対し1個の割合での埋設」ではなく、同じ箇所に集中して地雷が埋設されるなど、むやみに大量の地雷使用がなされた。<資料7 省略>この地雷地図の無視と埋設の乱用は、地雷除去はより困難なものとし、進まない地雷除去作が地雷被害をより拡大したといえる。

(2)構造的暴力
 構造的暴力とは、暴力が社会の有様に深く根ざした構造的なものとされており、地雷による障害者を見ると二つの構造的暴力が見えてくる。まず一つ目に「貧困」である。これは、国家や社会、個人の貧困が地雷の被害をより深刻なものにしたということだ。二つ目に「社会的差別」である。社会における差別が、障害者を自立や自己実現から遠ざけているのである。この「貧困」と「社会的差別」という二つの構造的暴力の視点を詳しく見てみたい。

@貧困
 a.選ばざるを得ない地雷原での生活
 第一に、地雷での被害が拡大した理由として、人びとが貧困のため地雷原の中での生活を選ばざるを得なかったということがある。1992年、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)が平和維持活動(PKO)を行った際、タイ国境付近へと避難していた35万人の難民たちの帰還活動を始めた。この時、カンボジアの国民が希望する場所へ、ただ派閥闘争の激しい地域や地雷・不発弾の多い村落を避けることを原則とした、送還事業が行われていた。しかし、難民が帰還を希望する肥沃な土地と豊かな農産物の採れる土地の中は、人気が高く、帰還希望者が殺到していたのだが、地雷や不発弾が多く残っていたりして、帰還に適した土地といえない所も多かった。そのため、その土地への帰還はなされず、別の土地へと送還する措置が取られた。しかし、送還された土地にはすでに先に帰還した人やそこに暮らす住民がおり、自らの土地を手に入れることができないこともあった。そのため、送還された土地から、自らの意思で豊かな土地を求め移住し、危険な土地である地雷の多い土地へと移っていった人も多く存在することになった。そうして、地雷のある土地に暮らし始めた人たちは、その後、地雷被害に遭うようになった。
 また、地雷原に住む人は生活のために、地雷原の中へ自ら足を踏み入れていることもある。赤十字国際委員会(ICRC)がカンボジアの北西部のバンテアイ・ミエンチェイ州で行なった調査で、地雷の被害に遭った約8割が、自分が地雷原にいるということをわかっていたというのだった。しかし、彼らはそれでも、地雷原に足を踏み入れざるを得なかったのである。なぜならば、それは生活をする上では必要な行為であったからである。CMAC(Cambodia Mine Action Center)の話によると、2002年の時点で、地雷原に住む46992世帯の人は田畑を持っておらず、さらに、27361世帯の人は田畑をも持っていない。この田畑を持っていない人の生活源は主に森林であり、森林で蛙や薪を取り、それを売ることで生計を立てていた。しかし、森林というのは地雷が多く、地雷事故の51パーセントが森林で起こっているというデータもある。最初は比較的安全な森林で薪を拾っていても、資源が底をつけば、より危険な森林にまで足を踏み入れざるを得なくなっていった。
 別の例としては、地雷除去を仕事として金を稼ぐ人の存在がある。彼らも生活のために地雷除去の仕事を選ぶしかなかったと言える。地雷除去はCMACや軍、NGOにより行われていたのだが、除去にはマーキングから優先順位を決め、除去という形を取るため、除去が行われるまでにも時間がかかった。このため、街で地雷除去を仕事とする人が出てきた。P・デービス著の「地雷に浮かぶ国カンボジア」ではキロ38村に住む地雷除去屋について取り上げているのだが、92年にその村で地雷除去屋をしていた9人のうち、4人が地雷被害で亡くなり、3人がけがをしたと書かれている。それほど、危険と隣り合わせの仕事である。だが、地雷除去をする彼らの多くは、土地をもたず、農業ができないため、危険を冒してでも、軍で得た地雷除去の技術で生計を立てていたのである。
 このように、地雷原で生活をしている人々は、土地を持たず、貧困の中で、その生活を選ばざるを得なくなり、その結果、地雷に接触し、障害を負うことになってしまっているのだ。

b.インフラの不備
 第二に、国の貧困によるインフラの不備が地雷の被害をより深刻なものにしたことがある。カンボジアに実際に行くと、今も、カンボジアではインフラが整っていないことがわかる。例えば、道路に関していえば、アメリカのCIA(Central Intelligent Agency) の2002年データでは、カンボジア公道の総距離35769キロメートルのうち、舗装されている所は約1割の4165キロメートルだけであり、残りは舗装されていないという数字が出ている。また、交通手段としてもバイクや自転車が中心の中で、数少ないトラックや荷車に揺られてでも、病院へ移送するに時間がかかると考えられる。このインフラが整っていないことが、カンボジアの地雷被害を深刻なものにしたのである。 赤十字国際委員会(ICRC)が地雷被害国で行った調査では、6時間以内に病院に到着できた地雷被害者は、病院に到着できた人の中の25パーセント、6時間から24時間以内は45パーセント、24時間から72時間以内は15パーセント、72時間以上かかった人が15パーセントもいるというものであった。

<資料8>地雷被害者の院到着時間 ICRCデータベースより

出所:長有紀枝 「地雷問題ハンドブック」

カンボジアでは、病院到着までの平均時間は12時間ともいわれている。これは、地雷被害が人里や村から離れた森林の中で多く起り、また、交通手段の発達していない地域で事故が起こっているからだといえる。
 だが、この12時間という時間は地雷の被害者にとっては深刻な問題である。なぜならば、地雷で被害を遭った場合、6時間以内に適切な治療を受けることができれば、50パーセント以上の生存率が確保できるとされているからだ。しかし、上記のように、6時間以内で病院に到着できるのが全体の25パーセントという数字からも、6時間以上かかる被害者はより低い生存率になっている。この6時間という時間であるが、これは感染症予防には大事な時間でなのである。感染症予防では6時間以内の治療は、「安全ネット」と呼ばれ、この時間内に抗生物質を投与することで感染症が防げるのである。だから、この時間内に抗生物質が投与できなかった場合には、より広範囲な負傷部分の切断をしなければならなくなったり、合併症も起こしたりして、死に至る場合もある。
 このように、インフラが整っていないことで、病院へ早急な移送ができずに、本来ならば膝下の切除で済むだろう障害でも、より重度の障害を負うことになったり、感染症、合併症などの新たな症状を発症してしまったりするのである。このインフラの貧困がより障害者の障害を重くしているのだ。

c.治療設備の不備
 第三に、貧困による不十分な治療設備が、病院にたどり着いた地雷被害者を待ち構えているのである。せっかく、病院へたどり付けても満足な治療ができないことも、カンボジアでの地雷障害者が置かれた状況である。まず、医療施設に関してだが、カンボジアの医療体制を見てみると、医療施設は、コミューン、ディストリクト(郡)、プロビンス(県)、国の順に、施設規模も大きく、設備も整ったものがそろっている。その中で、最も、村落の住民に近いレベルで活動しているのが、コミューンにあるヘルスセンター(保健所)である。このヘルスセンターは、日本で公衆衛生を担当する保健所とは異なり、看護婦5)を中心としたスタッフが配置され、初期的な医療を提供する診療所に近い役割をなしている。しかし、ヘルスセンターには通常、診察室、ワクチン摂取室、分娩室の設備しか作られていないため、手術と入院をすることはできない。そのため、地雷によりけがをした人が移送されるのはディストリクトにある郡病院だと考えられる。だが、この郡病院にも問題がある。郡病院には診察室、ワクチン摂取室、分娩室のほか、手術室と簡易の入院施設が作られているのだが、この手術室は無菌状態ではない。なぜなら、カンボジアでは電力供給設備がまだ整っておらず、病院も例外でなく電力不足である。このため、冷房が完備できていないのだ。無菌状態にするためには、窓を一切作ることができないのだが、一年中気温の高いカンボジアにおいては、冷房のない中で、締め切った無菌の手術室を作ることが不可能である。このため、手術室であっても、湿気と暑さを逃すためには、天井付近の壁に窓をつけることは欠かせないのである。また、手術室だけでなく、医療器具、資材にも限りがあるため、地雷被害者が手術を受けた時には、錆びたはさみが使われることも珍しくなく、輸血用の血液や薬が不足してしまうこともあった。
 同時に病院で勤める医師に関しても問題を含んでいる。ポル・ポト時代に多くの知識人が殺されたことで医師も例外ではなく殺害され、ポル・ポト時代が終了する頃には、国内に医師が数十人になっていたとも言われている。また、ポル・ポト政権以降も内戦が続いたために、学校へ通うこともままならない情勢がカンボジアでは続いた。そのため、人びとの識字率や就学率も低く、医師になる勉強ができた人も限られていた。このため、カンボジア国内における医師の数が足りずに、患者に対し満足な治療が与えられないこともあった。
 これら、医師や医療設備の不備は先進国では、考えられないことだが、カンボジアでは日常茶飯事のことであった。このように、カンボジア国全体の貧困が、社会福祉に影響を与え、医療設備、医師が不十分な状況に陥ることとなった。このため、この状況下で、治療を受けなくてはならない、地雷被害者も満足な治療が得られなかったことはいうまでもない。

d.治療費の節約
 最後に、被害者の家族の貧困が満足な治療を受けられない結果に繋がったことがある。バンテアイ・ミエンチェイ州のモンゴル・ボレイ病院では赤十字国際委員会の支援があったため、その薬代や輸血用血液代の支払いはせずにすむのだが、すべての病院が国際組織やNGOから援助を受けられるわけではなかった。そのため、支援が全くされていない病院においては、すべての費用は患者が払うことになる。地雷でけがを負った人は平均4回の手術と32日間の入院が必要だとされているのだが、この章の「選ばざるを得ない地雷原での生活」でも書いたように、地雷被害に遭う人の多くは貧困層であることを考えると、これらの治療に対応できる資産を持っているとは当然考えられない。このため、治療費を一切払うことができない人も多くおり、被害者の約61パーセントが治療のため、借金をしているといわれている。ある病院のデータでは、入院患者の43パーセントが医師の知らない間に、もしくは同意もなしに退院をしてしまったとの報告がある。また、無断で退院をしなくても、入院中の治療費を安くするため、薬や食事を節約してしまう家族もいる。そのため、傷の回復に必要な抗生物質や鎮痛剤が十分に得られず、栄養状態も悪い状態で、なかなか傷が回復できずに、再手術が必要となってしまう例もある。
 また、手足切断を余儀なくされた人は、その後の生活において義足が必要となってくる。1992年のデータでは、2万5千人いる四肢切断者のうち、義足が供給されているのは5千人だとされている。しかし、現在ではカンボジア国内で多くのNGOや国際組織、世界各国により義足の無料提供の支援がなされているため、義足の供給数は増えていると考えられる。ただ、実際に、どれだけの人が無料で義足を手に入れることができているのか、というデータはない。もし、個人で義足を購入するとなると、義足一足が125米ドルから200米ドル(15000円〜24000円)であり、農村部における一家の一月の平均収入が90米ドル(10800円)前後の人びとには容易に手に入れられるものではないことは確かだ。また、義足を手に入れても、舗装されていない、でこぼこ道での義足の使用は、日本で3年間使用可能な義足でもカンボジアでは1年程度しか使えないと、義肢装具支援活動を行っている日本のNGO「希みの会・HOPE」は言っている。6)
このように、被害者個人や家族の貧困が十分な治療やケアを受けることを困難にしている。
 カンボジアにおける貧困は、地雷原での生活を強いるだけでなく、インフラ・医療施設の不備を引き起こし、より重い障害を負う原因になっている。また、貧困が十分な治療を受けることを阻害している。このように貧困は、個人から国家のレベルまで影響を及ぼし、ひいては地雷被害者を生む原因となっていることがわかる。これこそ、貧困が構造的暴力であるといっていいだろう。

A社会的差別
 貧困のために障害を負った人は、その後、社会的な差別を受けることになる。その中でも障害者に対する偏見と教育・就業の機会からの隔離が、障害者たちの自己実現や自立というものを遠ざけている。そしてこの差別により、貧困から抜け出せない、という悪循環の中にいるのである。

a.障害者に対する偏見
 カンボジアで障害を負った人が抱える問題として偏見というものがある。これは、社会における地雷障害者の地位がより低く見られているということである。
 第一に、障害者がおかれた家族・異性からの偏見である。カンボジアでの地雷被害が農村部に多いことはこの論文でも何度も紹介しているが、農村部においては、家族全員が重要な働き手である。その中で家族の一員が地雷で障害を負ってしまうと、障害者である彼ら、もしくは、彼女らは農業に従事することは困難になるのある。そのため、既婚の男性であれば、その後の生活の不安から妻が実家に帰ってしまったり、既婚の女性であれば、夫から農業ができないお荷物と思われ、夫に逃げられたりして離婚してしまう人も少なくない。また、このような異性からの差別は未婚の男女でも同じである。未婚の男性の場合、カンボジアでは、結婚相手が見つかったならば、花嫁になる相手の両親に結納金を払うという習慣がある。これは男性が女性を養うことができる能力を問うためのものだ。しかし、障害を負うことで、十分な収入を稼ぐ力がなくなってしまう。そのため、初めから結婚をすることすら諦めている男性もいる。未婚の女性に関しては、農業に従事することも日常の家庭責任を果たすこともできず、また、義足姿の容姿を気にして家に篭もる事が多く、自分は結婚ができないと確信している。そのため、自分の家族の家事手伝いを一生して過ごすことを余儀なくされている。このように、家族において障害者が排除されている。
 第二に、世間からみた障害者への偏見がある。障害者の中には、家族や友人から拒まれることを恐れて故郷を捨てたり、家族から援助してもらえずに、都市に出て街で物乞いをする人も少なくはない。実際、2002年に訪問したアンコール・ワット周辺やプノンペンの市場でも物乞いをする障害者の姿を多く見た。彼らは、道に立ち、そばを通る観光客、住民の人に「お金をくれませんか」と声をかけていた。このような人の一部に飲酒や、麻薬、暴力行為、挙句の果てに強盗などを繰り返す人もおり、そのため、障害者全体が偏見の対象で見られている。また、この偏見のために、都会での職が見つからず、物乞いを続けるしかできなくなっているのも事実である。

b.教育・就業の機会
 障害を負ったことで、十分な教育につけず、職が見つからない、という状況にある人も少なくない。そして、そのために貧困から抜け出せない人もいる。1998年に開催された「NGO東京地雷会議‘98」に参加したパトリシア・カレンはカンボジアについて次のような報告をした。「地雷の爆発から生き残ったカンボジア人のほとんどは教育らしい教育を受けたことがなく、農作物を受けることや大地を耕せなくなったら、他に生きる術を持っていないのである。膝上しか持たないものは水田での仕事に参加できない。(略)農村社会において、地雷を踏んだが生き残った子どもたちにとり、最大の損失は、教育へのアクセスである。遠くの学校へ歩いていくことは不可能であり、歩くこと以外の移動手段をもたない貧しい家族は何もできないのである。」7)この言葉からも、障害者が抱える教育・就業へのアクセスの困難がうかがえるのではないだろうか。
 教育に関していえば、1998年の時点で、障害者の児童のための学校は2つしかできていない。カンボジアの国自体の識字率も68.7パーセント(人間開発報告より)の中で障害者の教育に取り組む優先順位は低いのである。また子ども自身が障害を負っていなくても、両親のどちらかが障害を負っていれば、兄弟の面倒を見るため、働くために学校に行くことを諦めざるを得ない状況になっている。このように、学校へいけないことが、十分な教育を受けられずに職業を得る機会を逃している。
 就業の機会については、東京会議での報告のように障害により農業従事が困難になっている。そのため、職業訓練を受けることを希望する人も多い。しかし、職業訓練を提供する施設が少なく、提供しているNGOのセンターにおいても、定員に対し、その何十倍もの応募者が殺到し、職業訓練を受けるまでに長く待たなければならないという状況である。また、障害の種類によって、職業訓練にも制限があり、例えば、テレビ修理ならば手が自由に使えなければ仕事をこなせないという面も存在しており、職業選択にも影響を与えている。このことからも、障害者が職業を選ぶということは困難であることがわかる。

c.カンボジアでの生活
 最後に、実際に2002年にカンボジアを訪問したことで、カンボジアと日本の生活の違いが明確になり、カンボジアの社会においてバリアフリーという生活が困難な状況であることがわかった。社会が障害者への対応ができるほど豊かではなく、障害者にとっては生活しづらい状況が彼らの抱える社会的差別の一つである。
 まず、建物の構造がある。近年、日本においてもバリアフリーという概念が浸透してきて入るが、カンボジアにおいてはバリアフリーの達成というものは困難であるといえる。例えば、都会であるプノンペンであれば、私が訪問した建物の中で、エレベーターが設置されているものはなかった。ホテル・NGOが経営する病院・スーパー・市場のどれに関しても、上階へあがるのには階段が設置され、道路から建物に入るにも段差があり、階段が設置されているところも多かった。義足ならば、まだ、階段を使うことができるにしても、車椅子を使わなければならない障害者では、利用が困難な状況である。一方、農村部においては、伝統的な家の造りからして高床式であり、居住スペースが2階部分にあたる。このため、車椅子では、生活も困難であるように感じられた。
 また、交通に関しても、カンボジア特有の問題が生じている。前記したが、カンボジアでは舗装された道路が少なく、多くの場合が赤土や土の道である。この道ではでこぼこしているところが多く、安定して車やバイク、自転車が通ることが難しい。そして、障害者の交通手段に関しても、障害の度合いにより義足義手でも自転車やバイクに乗れる人はいるのだが、こういった庶民の一般的な交通手段を使えない障害者も多い。そのため、彼らが単独で移動することが困難になり、病院や学校へ行くこともままならず、家に閉じこもってしまうこともある。このような身近な生活環境が障害者の健常者と同じように生活すること術を阻害していると思われる。
 この章で挙げてきた3つの社会的差別である、偏見、教育・就業の機会、生活状況が障害者をより一層、自立と自己実現の道から遠ざからせているのである。

(3)文化的暴力
 カンボジアでは地雷障害者のような手足が切断された人や不運の人に対して、悪い「カルマ」を持つ人だと考えられ、近づいたり触れたりすることで、彼らが持つ不運が移ると考えられている。この考えが、より一層障害者に対する偏見を残酷なものにしている。そして、この障害者に対する差別を正当化している原因はカンボジアの文化的習慣にある。
 カンボジアで現在、仏教を信仰している国であるのが、歴史的にさまざまな文化と宗教が混合され、形成されている。8世紀以前には、カンボジアではインド芸術の影響を強く受け、9世紀から12世紀までのアンコール時代には、インド、ギリシャなどの文化の影響を受けた宗教、建築、装飾、彫刻、遺跡群といったクメール文化が出来上がった。その例として、現在世界遺産に登録されているアンコール・ワット遺跡群がある。この遺跡群もヒンズー教の寺院であった。このようにカンボジアの信仰では複数の哲学が混雑に絡み、文化ができている。
 カンボジア文化の特徴はまず、階層的世界観が強いことである。地位の高い者は徳が高いものとして尊敬される。この地位というのは、生まれつきのものであり、前世での行いによって決まると考えられている。これは一種の「宿命」の思想である。そして、この思想は仏教よりもバラモン教の影響を強く受けているのである。仏教において、「宿命とは、現世における現世の行い」と考えられているのだが、バラモン教では「地位の低い者、貧しいものなど社会的な弱者は、生まれついての欠陥を持っており、前世の徳が足りない」とされる。そのため、障害者に対しても、彼らに同情的な感情を持つよりも、前世の徳がなく、障害を負っても当然だ、障害は生まれながらにして背負った運命であるという偏見感情を持つことに繋がっており、偏見を正当化している。また、この「宿命」の思想は地雷の被害に遭った人自身にも障害に対し内向的な感情を与えている。それは周囲の目が偏見というだけでなく、自らも障害を負ったことは「どうしようもない」、「なにもできない」と自信を失わせ、社会へ出て行くことを自ら困難にしているのである。

4,解決にむけての国際的取り組み

 第3章で述べてきたように、カンボジアにおける障害者は多くの暴力を抱えた中で、自己実現が阻害されていると考えられる。では、この暴力をいかに解決し、障害者がより暮らしやすい社会を作っていけるのだろうか。このことについて、国際社会、国家、NGOという視点から考えてみたい。

(1)国際社会は?
 赤十字国際委員会を始め、アジア開発銀行、JICAといった多くの組織がカンボジアの社会福祉分野に対して支援を行っている。その中で、今後の障害者に対する支援として期待したいものが、「貧困と障害、そして開発」という視点からの支援である。これは、1993年から2002年のアジア太平洋障害者の10年においても、障害者問題を開発問題として取り扱うべきだという意見が発展途上国から述べられている。まず、現在の開発の枠組みに障害者問題を取り入れ、国際社会でも今まで別々に支援されてきていた都市開発、農村開発、女性問題の中に障害者を取り込むことである。これをすることにより、障害者を社会的弱者の地位に位置付けるのではなく、農民や女性と同じラインでのエンパワーメントにつなげることができると考えられる。また、2000年に採択されたミレニアム開発目標の「2015年までに貧困を1990年レベルの半分に減らす」ということも、貧困層の2、3割が障害者であることを考慮すると、貧困撲滅策のインフラ設備、教育、医療、保健の向上といった国際的な支援の中に障害者への視点を入れることで、障害者の生活の向上に貢献できると考えられる。
 このように、国際社会においては障害者問題を社会保障の対象としてではなく、社会を構成する一員としてともに強制できるシステム作りを支援することが望まれ、国際社会として、障害者を他の人々と共生できるような、社会構造を作り出していくことが大切である。そして、その支援はカンボジアに対する支援にも共通できることであり、障害者が社会においてもエンパワーメントしていけるような状況が作り出せれば、現在、カンボジアの障害者が抱える状況を改善していけるのではないだろうか。

2)国家は?
 カンボジアは障害者に対する社会保障を整える必要があると考えられる。その一つにカンボジアの法制定である。現在のカンボジア王国憲法において、障害者に関する明確な規定ははなされていないのだが、関連条項として第31条の基本的人権、第36条の職業選択の自由、第66条の教育を受ける権利、第72条の医療と健康についての項目に当てはめることができる。8)この憲法で書かれている権利を障害者にも等しく与えられるようにしていかなければならないだろう。また、障害者に関する「カンボジア障害法」の素案が障害当事者団体である、カンボジア障害協会(CDPO)により作成され、2000年に社会省に提案されている。そして、この案とともに、社会省においても草案が作られ、JICAの協力の下、指導、修正がなされている。この法律は今年、2003年には成立されるということになっている。この法律では、より明確に障害者の権利と利益を強化・保護しているものであり、平等な社会への完全参加ができるようにされている。この法律をただの文章にすることなく、実際の行動として国がその内容を守り、障害者がより一層、暮らしやすい制度を整えていかなければならない。
 第二に、障害者に対する社会保障である。社会福祉を所管する社会省では、身体障害者のリハビリ支援や職業訓練、児童労働防止、孤児・里親対策など幅広い事業に対し、国自体の貧困を原因とする、限られた予算という制約の中、すべてのサービスをNGOの協力に頼るという状態になっている。しかし、その制限の中でも、いかに、多くの障害者に対する支援が行なえるのかが重要である。現在、国からの援助として行われているものは、元兵士であった障害者にしか与えられていない。だが、この援助をカンボジア国内に存在する17万人近い障害者のすべての人に対するものへと確立しなければならない。そしてリハビリ、教育、職業訓練を総合的に行い、それにアクセスし易い環境、つまり最低限度のインフラ・交通手段の整備が望まれる。
 障害者が抱える暴力においては、国自体の貧困が解決できれば、カバーできる部分も少なくない。しかし、実際にはカンボジアという国はまだまだ発展段階にある国である。それでも、障害者との共生を国として進めていくことで、障害者も生産者、経営者として国の成長を助ける人員へと転化させることは可能ではないだろうか。だからこそ、自国民の声に耳を傾け、カンボジアという国、地域に根ざしたリハビリテーション、職業訓練が行なえるよう、国内で活動するNGOや国際組織との協力関係を作ることが大切である。

(3)NGOは?
 NGOに関していえば、現在も14の義肢・リハビリセンターがプノンペン及び12の州で活躍、9つの障害者に対する職業訓練も行われている。その中で、障害者の問題を解決する上では、やはり障害者と地域の繋がりが重視された支援が必要になるのではないだろうか。
 職業支援を例にしていえば、障害者の人をただ訓練するだけでなく、職業訓練で得た技術がいかにその地域で受け入れられているのかということが重要だろう。せっかくの技術も、利用されなければ収入には結びつかない。しかし、障害者に対する偏見がある状況下で、障害者だけに関心を持ち支援していたのではいけないだろう。NGOは、その活動の特徴として、自団体がターゲットとする相手への支援を行っている。だが、障害者支援においては、障害者だけに教育や就業の支援するのではなく、障害者とその周囲の人や地域とともにいかに発展するのか、という視点を持つことが大事だ。なぜならば、それは障害者の社会参加を促進し、周囲の協力が得られる状況が作りやすいと思うからだ。
 また、義肢製造・リハビリセンターに関しても、将来的にカンボジアの国民が自立して組織を運営することを考えなければならないと思う。現在、プノンペンにある国立リハビリセンターで義肢・車椅子の提供とリハビリを行っているアメリカの退役ベトナム兵の団体では、すべての義足と車椅子が無料で提供されているが、その背景には一つ200ドルの義足と1つ150ドルの車椅子という負担をアメリカがしているのである。義肢が今までに1万個、およそ1億8000万円分の提供されたことを考えると、義肢・車椅子提供は支援なくしては成り立たないのである。だが、NGOは本来、発展途上国における支援を目的としており商業的なものではないため、他国のニーズに合わせて活動拠点が変化することもある。だから、カンボジアで現在行われている支援が永遠に続けられるということは疑問である。その中で、支援離れになったときに、カンボジア人だけで障害者が求める義肢提供とリハビリを行っていけるのだろうか?この点にも考慮した事業展開が必要だろう。

5,おわりに

 この論文を通して、カンボジアにおける地雷と障害者の現状、彼らが抱える暴力、そしてそれらを解決する取り組みについてみてきた。その中で、特に地雷による障害者にみる3つの暴力では直接的暴力、構造的暴力、文化的暴力が複雑に絡み合うことで、より障害者の抱える問題を複雑化させていることが理解できる。これらの暴力はもうすでに障害者にとっては過去のこととなっているものもあるのだが、今現在も月に80人近い地雷被害者が出ていることからしても、対応が求められるものに違いない。その中で、今現在いる障害者の人も今後不運にも障害を負ってしまうかもしれない人も、差別や貧困に苦しむことなく、社会の構成員の一員としてすべての人々と共生できるようにしていかなければならない。だからこそ、この問題をカンボジア国内だけでなく、国際社会、NGOを通した取り組みとして検討していかなければならないだろう。
 最後に、今回はカンボジアという国を例にあげたのだが、いまだ地雷や不発弾の被害にあったり、内戦に巻き込まれたりして障害を負う人は世界中に存在する。その中で、今回のカンボジアがその他、途上国特有の貧困と障害の関連であることは間違いないだろう。だからこそ、より多くの国に目を向け、少しでも多くの障害者と貧困に苦しむ人たちが、社会参加と自己実現ができるように、協力していくことが、今私たちに求められているのではないだろうか。