マレーシアのCBRの現状と課題
      ―知的障害児者の自立をめざすPDK(Pemulihan Dalam Komuniti)の職業訓練―


2002年度 学部卒業論文

日本社会事業大学社会福祉学部福祉計画学科
安住恵子

               【目次】

序章----------------------------------------------------------------------------------------------------1
 序1.問題の所在――アジアの障害者の生活
 序2.本論文の対象・方法・構成

第沛ヘ CBR(PDK)-----------------------------------------------------------------------------------5
 第1節 CBR
 1.定義 
 2.歴史 
 3.実施 (1)コミュニティと社会資源 (2)実践方法
 第2節 PDK
 1.概要
 2.歴史 
 3.PDKのシステム上の問題点

第章 マレーシアの障害者福祉------------------------------------------------------------------------------11
 第1節 マレーシアの概要
 1.風土 
 2.国民性と生活 (1)国民性 (2)生活  
 3.現在までの歩み (1)独立国になるまで (2)政治体制 (3)経済開発
 第2節 マレーシアの社会福祉
 第3節 マレーシアの障害者福祉
 1. 障害者をとりまく生活状況 
 (1)障害者人口 (2)リハビリテーション (3)障害者雇用 (4)アクセス (5)自立生活(グループホーム)
 2.PDK実施の背景
 (1)教育の全般的な状況 (2)障害児者教育

第。章 PDKセラヤング(Selayang)------------------------------------------------------------------------19
 第1節 概要
 1.ビジョン 
 2.成立過程
 3.実践内容
 第2節 構成 
 1.クライエント (1)障害 (2)年齢 (3)民族
 2.PDKワーカーとボランティア
 3.経営
 第3節 現状と課題
 1. PDKセラヤングの現状 (1)成果(2)問題点(3)プラス面(4)マイナス面
 2. PDKセラヤングの課題 (1)PDKワーカーのかかえる課題 (2)PDKセラヤングの具体的な課題

「章 PDKセラヤングの職業訓練と障害者の自立---------------------------------------------------------------26
 第1節 職業訓練の導入
 1.概要
 2.実施機関
第2節 職業訓練の具体的内容
 第3節 障害児者の職業訓練に関するニーズ調査 
1. 職業訓練の対象者と調査方法
2. ニーズ調査結果の考察
 第4節 マレーシアでの自立の概念

第」章 マレーシアのCBR(PDK)の展望--------------------------------------------------------------------33
 第1節 マレーシア障害者福祉政策の中でのPDKの位置を考える
 1.PDKの問題点をどう克服するのか
 2.アジアのモデルとなるマレーシアのCBR(PDK)
 第2節 多民族国家マレーシアのCaring Cultureの中でのPDKの今後の展望
 1.多民族国家マレーシアのCaring Culture――寛容さと無関心
 2.Caring Society(支えあう社会)とCaring Culture
 3.PDKセラヤングの職業訓練からPDKの展望を探る

注-------------------------------------------------------------------------------------------------------37
文献リスト------------------------------------------------------------------------------------------------37
あとがき(謝辞)-------------------------------------------------------------------------------------------41

【関連資料】
資料氈|1  写真PDKセラヤングの概要
資料氈|2  写真PDKセラヤングの職業訓練
資料−1  予定されている障害者法について
資料−2  普通学校の教育組織改革と障害児の教育権
資料−3  国レベルの障害者雇用政策
資料。−1  クアラ・ルンプールの周辺地図
資料。−2  チェッシャーホーム(PDKセラヤング)の位置

  序章


 序1.問題の所在――アジアの障害者の生活

 「アジア太平洋障害者の十年」(1993年~2002年)が終わろうとしている。これは、アジア太平洋地域に障害者の完全参加と平等を実現するために展開されている。その間、アジアの障害者を取り巻く環境は改善されたのであろうか。
 約3億人の障害者がアジアで暮らしているという。戦渦に巻き込まれて障害を持った者が物乞いをしながら生きる一方で、社会保障制度をつかい地域で生活する障害者もいる。
 一部の先進国や経済的に成功した地域を除くアジアにおいて、障害児者はどのように生活しているかという素朴な疑問をもったことから、この卒業論文への取り組みが始まった。私はゼミでCBRが多くの開発途上国で障害者福祉に対して有効な実践的関わりをしている事例を知り、卒業論文のテーマに選択することにした。
 大学3年生の2月中旬、幾冊かの本を読んでいて、宗教も言語も生活習慣も異なる民族が、同じ国・地域社会に住みながら、比較的仲良く暮らしているマレーシアに興味を覚えた。そしてマレーシア社会の基盤となる理念はCaring Society(支えあう社会)であって、目ざすのは、Caring Cultureという多文化共生であることを知った。多民族国家の中で、各民族が相互扶助の援助形態を維持していることも知った。同時にある程度の経済発展を遂げているので、欧米制度に倣った学校教育や福祉も揃っていて、様々な社会資源をうまく活用している国であると直感した。これは今の日本で新たに標語となっている「自助−共助−公助」の援助形態の組み合わせと似ているとも思った。
 後述するように、マレーシアでは特殊学校制度や障害児者の施設・病院が量的には充分に整備されてはいない。しかし、障害児者は日常生活でミニマムな衣食住には困ってはいないし、普通学校での教育機会もある程度は提供されている。だが、日本もそうなのであるが、中重度の障害者、それも知的障害者に対する雇用機会はとても遅れている。
 マレーシアは、アジアにおいて経済、教育、福祉において中レベルの国であり、日本と比較すると障害児教育も障害者福祉も、まだ始まったばかりの状態といえる。それだけに、今後のCBRのアジアのモデルになりうるのではないかと考えたことも、今回マレーシアを調査対象に選んだ理由である。

 序2.本論文の対象・方法・構成

1.対象
この論文では、マレーシアのCBRであるPDKの活動を具体的に調査し、まずどのように障害児者が支援を受けているのかを見、次いでそれが将来の自立する生活に繋がっているのかどうかを検討する。
調査対象にするのは、マレーシアのPDKの一つであるセラヤング(Selayang)であり、知的障害者の職業訓練の実態を主に調べることにした。ここでの職業訓練は始まったばかりなのであるが、セラヤングのこれまでの活動とプログラムはとても評価が高いと聞いたので、これを選択した。
卒業論文で主に述べるのは、PDKセラヤングの現状と課題、職業訓練の導入とニーズ調査の結果分析である。
私が最も関心を持ったのは、マレーシアの知的障害児者は職業訓練を受けながら、どのような生活を将来望んでいるのかについてであった。この点を個別のニーズ調査の結果分析から明らかにし、さらに考察ではPDKの今後の展望にまで繋いでいきたい。

2.調査方法
調査は、2002年3月6日から3月21日までと、8月3日から8月21日までの計2回、6週間行った。
職業訓練を受けている障害児者がどのような自立に向けたニーズ(必要)を持っているのかを、個別ヒアリングによって調査した。PDKセラヤングでの第1回調査の時期には、まだ4つにグループ分けしたプログラムはなかったし、ここで取り上げる職業訓練プロジェクト(4グループの中の一つ)も発足していなかったので、活動の概要を見ただけであった。よって本格的な職業訓練調査は、8月に行った。
調査対象である職業訓練を受けている障害児者4名は、マレー語を使用しているので、英語ができる職員の助けをかりた。PDK職業訓練プロジェクトの責任者であるOT1名(マレー人女性で常勤)が主な通訳者であり、文献リストに掲げた一次資料は彼女から入手した。PT1名(日本人女性でパートで週二回くらい)にも日本語なので、情報をよくもらえた。組織の全容をよく把握しているPDKワーカー2名(マレー人常勤、男女)からも、組織機構や個人情報を補足的に聞くことができた。
 調査は、以下の質問項目に即して実施した。WHAT(何が)、HOW(どのように)、WHY(なぜ)などの質問に答えることが難しい(答えられない)質問項目では、PDKワーカーや、OT、PTからの情報をもとに質問をよりかみくだいて具体的にするか、イエス・ノーで答えられる質問に修正して、繰り返し対象者に質問していった。Aは身体障害なので答えは適格であった。Bは軽度知的障害、Cは重度知的障害、Dは中度知的障害なので、コミュニケーションの状況に応じて、質問の仕方をわかりやすくするために苦労した。現場をよく知っているPT(日本人女性)から障害児者が答えやすい質問項目に修正する際の助言をもらった。

表−1【2002年8月に4名に実施した質問項目】

プロフィール 年齢・性別
PDKにいつからなぜ来たか
障害 種類・程度・原因
職業訓練(VT) VTをどのように思うか
どのようなVTを受けたいか
なぜVTを選んだか
VTによって何を実現できるか
VTによって何を実現できないか
自分自身でVT以外に何をしているか
仕事 働くつもりか
どのような仕事に就きたいか
どのように生活するつもりか
自立についてどう思うか
その他

3.構成と各章の課題
 第沛ヘでは、CBRの定義・歴史・実施の在り方を検討し、次いでマレーシアのCBRであるPDKの特徴について述べる。
第章では、マレーシアの風土、国民性と生活、現在までの歩みを述べ、そのような中で障害児者がどのように生活していけるのかを見る。特に障害者をとりまく諸状況と、PDK実施に至る背景に留意してまとめている。
第。章と第「章が、この卒業論文の中心になる箇所である。PDKの一つであるセラヤングを2回にわたり現地調査したことを記述している。第。章では、まずPDKセラヤングの組織機構の概要を述べ、次に職員や利用者の人的構成、経営状況を紹介し、さらにPDKセラヤングの現状と課題までを分析している。第「章では、PDKセラヤングの職業訓練の導入経緯とプログラムを具体的に紹介し、そこでの障害者のニーズ調査結果を分析した上で、障害者の自立に向けての問題や克服すべき諸課題を明らかにする。
 最終章の第」章では、今回の調査から得られた結果に依拠して、マレーシアのCBR(PDK)の今後の展望を考察してみたい。

*付記:用語説明 
CBR(マレーシアではPDK)のリハビリテーション定義は第沛ヘで述べるが、資料氓フ写真説明に載せたような言葉、例えば農作業リハビリテーションは、医療モデルを意味するものではなく、生活モデルに依拠する概念として、ここでは用いている。
また久野論文では障害者教育とされているが、ここでは障害児の教育は、者も含まれているので、障害児者教育にした。

  第沛ヘ CBR(PDK)


 第1節 CBR

1.定義
 Community Based Rehabilitation(以下CBRと略す)は、和訳すると「地域に根ざしたリハビリテーション」「地域住民参加型リハビリテーション」等という。
 専門家と病院、施設などの専門機関が少なく、あるとしても都市に集中しており農村との地域格差がある発展途上国への障害者援助の方法としてWHO(世界保健機構)によってCBRは提唱され、1981年に「障害者自身やその家族、その地域社会の中の既存の資源に入り込み、利用し、そのうえに構築されたアプローチ」(中西・久野[1997]23)として定義された。
さらに1994年に、WHO、UNESCO(国連教育科学文化機関)、ILO(国際労働機関)によって「CBRとは、地域開発におけるすべての障害者のためのリハビリテーション、機会の均等、社会の統合のための戦略である。CBRは障害者自身、家族、地域社会の共同の運動、そして適切な保健、教育、職業、社会サービスによって実施される」(中西・久野[1997]23)と定義された。
CBRの目的は、地域社会で障害者の生活の質を向上させるために経済的で実行しやすい技術をつかってサービスを提供することである。また、地域社会の意識を向上させるために、障害者その家族と地域の人々を巻き込みエンパワーすることである。つまり、障害者自身を含む地域の人々による障害者問題解決の過程を通して、地域社会の問題を解決する地域づくりであり、地域社会の発展を図る地域社会開発である。
要するにCBRとは障害者政策の全般に関わる理念に近い考え方なのであって、特定の定まったプログラムや一定の組織化された集団活動を指すものではない。また、一般的に「リハビリテーション」とは、障害者を対象にする身体機能回復のための治療と訓練といった「医療モデル」として考えられやすいが、CBRは貧困や差別などのすべての障害を対象にする「生活モデル」を強調することに概念としての特色がある。いわば伝統的なリハ・モデルに対するアンチテーゼのような意味合いも込められている。

2.歴史
 CBRの萌芽は、第二次大戦後アジア・アフリカで国民国家をめざす民族独立運動が展開された約30年間に育った。CBRという考えが生まれた背景には、地域社会開発が関連している。そして、1960年代から70年代にかけて欧米先進国で公害問題が顕在化することで、環境・自然破壊の深刻さと、貧困・飢餓の拡大、その集約としての南北格差の拡がり等の諸問題に人々が気づくようになる。先進国が豊かになる反面、発展途上国の生活はこの間相対的に低下していった。その結果、先進国主導のモノ・ヒト・カネを提供する外発的な援助の効果が疑われるようになり、発展途上国が自ら問題解決できるような内発的な援助への見直しが本格化した。
 このような背景で、1975年に国連の経済社会理事会で「障害の防止と障害者のリハビリテーション」に関する決議が採択された。これは、1970年代前半までの障害者に関するいくつかの決議・採択と、世界人権宣言、国際人権規約、児童権利宣言を踏襲したものであった。WHOはこれを受けて1976年に「障害の防止とリハビリテーション」を採択し、ここで初めてCBRという言葉がつかわれた。また、1978年にはWHOとUNICEF(ユニセフ、国際連合児童基金)よって、「2000年までに万人に健康を」というスローガンの下でプライマリーヘルスケアの推進をうたう「アルマアタ宣言」が採択された。さらに1979年に最初のCBRマニュアルをWHOは発表し、3年間計画でアジア・中南米の9ヶ国でCBRの試験的な取り組みが開始される。そして1982年にCBR実践の試験プロジェクト評価会議の結果をふまえて、CBRの有効性が広く認められることになるのである。
 以後、CBRマニュアルとその活動が急速に普及し始め、1983年に「国連・障害者の10年の行動計画」の中にCBRの実践の奨励が勧告としてもりこまれた。1980年代後半になると、WHOの定義以外のさまざまな解釈に基づくCBRプログラムが世界各地で実践されるようになった。また、障害者に関する世界会議もCBRの分科会が設けられるようになり、1988年東京で行われたRI(Rehabilitation International)の世界会議では日本においても初めて独自のCBR分科会が組織された。1989年、WHOはCBRの実践をさらに普及するために、30冊の障害問題別マニュアルと4冊の指導者用のガイドを発行し、各言語に翻訳された。マニュアルは簡易な言葉と多くの挿絵を使用しており専門家でなくてもわかりやすい工夫がされていた。また障害種別に分冊されて、関係者が必要に応じて持ち運べるように編集されていた。指導者用のガイドは、障害者用、教師用、スーパーバイザー用、地域組織用があった。どれでも結果の達成評価表がついているので使用者自身でフィードバックしながら評価ができるようになっていた。
 1990年代になるとCBR実践は各国で一段と多様な広がりをみせるようになる。CBRは、1993年から新たに始まった「アジア太平洋障害者の10年」の課題の一つにも取り上げられた。加えてこの段階でCBRは、各国・各地域の社会・経済・文化的条件に応じて、また実施主体や規模によって、CBRの方法や内容をかなり多様化させて実践していたために概念の混乱をさけるべく、1994年にWHO、ILOそしてUNESCOが共同指針を発表した。小林はこの指針は、次の二つの重要な意義を含んでいるという。「その一つは、世界の障害者援助の方向性がCBRであることを再確認し、CBRの定義を整理したことである。二つ目は、この方針を保健・労働・教育の国際機関が協調して推し進めていくことを確認し、世界の国々にアピールしたことである。これは特に障害者援助の施策が脆弱な途上国の政府に対して、総合的な施策を促すためにも重要な意味合いを持った。」(小林[1996]174)
 同時期に、地域でCBRを実践してきた側からも、課題の検討や実践の評価を見直しが出されるようになってきた。その結果1994年にCBR評価に関する会議がインドで、翌年にCBRの課題と将来展望に関する会議がインドネシアで催された(1)。

3.実施
次にコミュニティと社会資源、実施方法からCBRの実施を説明する。 
(1)コミュニティと社会資源
CBRにおける「コミュニティ」の基準は何であろうか。CBRは表−2に示しているように、それは地理上の範囲で規定されるものではない。CBRは国、州、郡・県、村・地域社会といった様々なレベルで機能しており、各段階において入手しやすく効果の予測がつきやすい社会資源を利用している。これが現段階のCBRが到達している基準である。ここには、1970年代にCBRが試行錯誤しながら学んだ成果が生かされているといえよう。
以下で、アジアのCBRマニュアルの代表著作に依拠して、CBRの組織形態を、各レベルに即して説明しておく(久野・中西監修[1995]3、表−2も同じ引用箇所)。
現時点でのCBRは、国レベルで直接組織に関与することは少ない。しかし、補助金や全国的な広報・啓蒙活動の展開、リハビリテーション専門職の養成教育と研修プログラムなどの実施を命じることによって、州、郡・県、村・地域社会の各々の下位組織CBRを間接的に支えている。各省庁間の連携に関しては、各国ごとに差異はあるが、一応これがひな型になっている。
州レベルでは、州知事と各局の政策策定者等によって、長期間の職業訓練の実施、CBR委員会の設立、CBRワーカー特別研修プログラムへの資金的援助、障害者の社会参加をうながすイベントの企画等が主に行われている。
郡・県レベルでは、国の郡事務所長、宗教指導者や病院、学校、民間団体(NGO)、企業等によって、障害者の基金の設立、統合教育、職業訓練と評価の特別プログラムの実施、簡単な自助具に関する冊子の製作と配布等がなされ、村・地域社会レベルのCBR活動を支えている。
村・地域社会レベルでは、地域社会の長、宗教指導者、教師、ソーシャルワーカー、保健所、団体、商人等によって、障害児の早期発見と早期療育、簡単な自助具の開発、障害児の仲間づくり等の直接的援助が主に実施されている。

表−2【CBRの組織形態】

誰でもどのレベルでもCBRの資源になれる

地域社会レベル 群・県レベル 州レベル 全国レベル
・地域社会の長
・宗教指導者
・教師
・ソーシャルワーカー
・保健所
・女性団体
・地元の社会貢献団体
・商人


・国の群事務所長と宗教指導者
・群新聞とラジオ
・病院
・学校
・民間団体(NGO)
・企業の社会活動団体



州知事と各局の政策策定者
・保健局
・労働局
・教育局
・社会局
・情報局
・運輸局
・専門病院
・貿易組合
・リハビリテーションの専門職
・大臣と各省の政策策定者
・保健省
・労働省
・教育省
・社会省
・情報省
・運輸省
・法律の専門家
・全国版のテレビ、ラジオ、新聞
・国際的障害者の自助団体
・リハビリテーション
専門職の養成機関と研修プログラム

(2)実践方法
一般的に、地域の人々が主体的にCBRを実践するよりも、その有効性を知った政府やNGOが一定の地域を選び相談をもちかけて受け入れを頼むことが多い。本来のCBRの組織化の理念とは相反するのであるが、これがアジアでのCBR実施方法の現状でもある。
中西は以下の方法で段階的に実施されてきたという。

「(ウ)CBR委員会を結成する
(エ)定期的奉仕が可能なCBRワーカーを募集、選考し、図解されたCBRの手引書を参考とした専門家による訓練を行う。
(オ)障害者の調査を実施する。
(カ)少数の障害者を対象とした試行プログラムを計画し、着手する。
(キ)地域で手に入る技術、材料を使い、補装具、自助具を制作する。
(ク)正しい障害者観や障害予防の知識を育てるために、啓蒙キャンペーンを行う。
(ケ)障害者の雇用を進める。
(コ)障害者の自助団体を育成する。
(サ)評価およびフォローアップを行う。」(中西・久野[1997]39-46)

 第2節 PDK 

1.概要
序でも述べているがPDKとはマレー語でCBRという意味であり、行政主導のCBRを指す。中西は、「マレーシアでは、政府主導のCBRはPDK(Pemulihan Dalam Komuniti)と呼ばれ、小規模施設づくりを中心とする。PDKはNGOが実施するCBRとは異なったものとみなされている」(中西・久野[1997]93)としている。
 2002年3月の時点で、PDKはマレーシアに243、第。章で取り上げるPDKセラヤングがあるセランゴール州に30、ゴムバック地区に4ヶ所ある(2)。1976年にWHOによるCBRの提唱からマレーシアは、政策としてPDKを始めた。次にこのPDKの歩みをふりかえってみよう。

2.歴史
最初のCBRは1984年にWHOのコンサルタントであるパドマニ・メンディスの指導によって、55人の障害者を対象にクアラ・トレンガヌで始まった。その成功に刺激を受けて、社会福祉局とNGOが他の地域でも始めた。1992年に政府が、月に36人のボランティアのワーカーに300Rm(リンギット)(1Rm=現時点では約33円)の手当てを1年間支給したことによって、1994年初めには社会福祉局が統括するCBR(PDK)は74になった。また1995年には「CBR指針」が作られ、1997年にはCBRの質的向上を目標に、関係省庁の協力のもと全国CBR調整委員会が結成された。1998年からは「障害者の日(12月3日)」に優秀なCBRプログラムとCBRワーカーの表彰が始まった。

3.PDKのシステム上の問題点
そして久野は、PDKの問題点について以下のようにまとめている。
「CBRの開始当初は、地域社会や家族を巻き込んだ遠足や運動会、家族の勉強会などの多様な活動が行われていた。しかし、現在は、障害児のみを対象にした読み書きや生活指導などの狭義の療育活動のみとなりつつある。
 『CBR指針』においても述べられている地域社会の他機関との協力や啓発活動、また
成人障害者の自立生活を支援するための介助者の調整や外出援助、カウンセリングや所得創出活動支援などといった広義の生活支援は、ほとんど行われていない。」(久野[1999a]16)

  第章 マレーシアの障害者福祉



 第1節 マレーシアの概要

マレーシアという国について簡単に紹介しておこう(3)。CBRによる障害者政策にはその国の風土、国民性、政治、経済が深く関わっている。CBRの考え方は、その国の文化と生活の特色を生かすことを第一にしているのである。
1.風土
面積は、約33万平方Hで、日本の約0.9倍である。
国土は、マレー半島(通称西マレーシア)とボルネオ島北部(通称東マレーシア)の大きく二つに分かれる。マレーシアは、13州(マレー半島部のプルリス、クダー、ペナン、ペラ、スランゴール、ヌグリスンビラン、マラッカ、ジョホール、パハン、トレンガヌ、クランタン、ボルネオ島北部のサバ、サクラワ)と、連邦直轄区(クアラ・ルンプール、ラブアン、プトラジャヤ)からなる連邦国家である。クアラ・ルンプール(KL)が首都であり、世界最高の高さを誇るペトロナス・ツインタワーがある。多数の近代的な高層ビルがそびえ立つが、都市から離れると緑が多く自然が豊かな熱帯の国である。
気候は、1年を通じて高温多湿で、マレー半島部では北東モンスーンの吹く11月から3月にかけてが雨季で、南西モンスーンの吹く6月から9月にかけてが乾季に当たる。1年を通じて、平均気温、降水量、昼夜の時間の長さともほとんど変わらない。

2.国民性と生活
 (1)国民性
マレーシアは「多民族国家」といわれるように、民族、言語、宗教も多様性がある。
人口2327万人(2001年国勢調査値)であり、マレー系(65.1%)、中国系(約26%)、
インド系(約7.7%)、その他(1.2%)を占める。
国語はマレー語であるが、中国語、タミール語、英語もつかわれている。3言語を話せる人も珍しくない。
 国教はイスラム教であるが、信教の自由が憲法で保障されており、仏教、儒教、ヒンドゥー教、キリスト教、原住民信仰などの信徒もいる。
 
 (2)生活
各民族によって宗教、文化、習慣が異なり、互いに融合することなく独自の生活を送っている。例えばイスラム教徒のマレー系は、食事に関して、豚肉を食べてはいけない、アルコール類は飲んではいけないという制約がある。また、1日に5回の礼拝が義務とされている。

3.現在までの歩み
(1)独立国になるまで
1957年8月31日にマレーシア(当時のマラヤ連邦)は独立を果たした。この独立は他の東南アジアの国々と比べると遅い。現在のマレーシアという国が成立するまでの通史をふりかえる。
14世紀末にマレー半島南部にマラッカ王国が成立する。18世紀以降マラッカはヨーロッパ勢力のポルトガル、オランダに占領され、19世紀に入るとイギリスがマラッカ、ペナン、シンガポールを占領、マラヤ連邦を構成した。第二次世界大戦中は日本の軍政下に置かれたが、戦後は再びイギリスが軍政を敷き、英保護領マラヤ連邦となる。1956年に新憲法を制定し、1957年マラヤ連邦は英連邦加盟の独立国となった。1963年にイギリス植民地だった東マレーシアのサラワク、サバ、それにシンガポールを加えて独立連邦国マレーシアとなったが、1965年にシンガポールが分離独立する。 
 
(2)政治体制
独立以後、現在の政治体制が確立した。立憲君主制で、議会制民主主義と三権分立を採用している。連邦議会は上院と下院の二院制である。現在元首はサイド・シラジュディン第12代国王、首相はマハティール・モハマドである。国王は任期5年、スルタン会議で互選される。マハティール首相は、就任してから在任21年という長期政権を維持している。
 独立から現在までの4人の首相は最大与党である統一マレー国民組織(UMNO)の総裁が就任してきた。

(3)経済開発
 独立以後、マレーシアは、経済開発を優先して取り組み、一次産品の輸出国から中進工業国となった。その結果、ASEANにおいてシンガポールに次ぐ経済成長を達成した。

@1950年代
50年代からは農業国として錫と天然ゴム中心のモノカルチャー経済であった。
A1960年代
連邦政府による総合開発計画である5ヵ年の「マレーシア計画」(1966~)が始まった。
1969年にマレー系と中国系との間でマレーシア史上最大規模の種族暴動(5・13事件)が勃発する。その背景に人種間の経済格差がある。マレーシアの政治はマレー系、経済は中国系がそれぞれ握っている。多民族国家の調和と経済発展をいかに実現するかという難問を抱えながら開発は進められた。
B1970年代
5ヵ年計画による「新経済政策(NEP)」(1971~1990年)のもと工業国を目指した。NEPは、マレー人の経済的地位の向上をめざす「ブミプトラ(土地の子)」政策である。これは、マレー人を教育や企業経営などで優遇し、資質向上の自己覚醒を求めた。
C1980年代
1981年から就任したマハティール首相は、リーダーシップを発揮した独特の開発政策を掲げた。同年、日本と韓国の経済成長を支えた集団主義や勤労倫理をモデルに経済発展を図ろうとする「ルック イースト政策」を提唱した。そして、1983年に国全体を1つの株式会社とみなす「マレーシア株式会社構想」を示した。1986年から、外資の積極的な導入による輸出指向型工業化政策を推進し、高度成長を達成した。
 D1990年代
1990年に「東アジア経済協議体構想EAEC」を発表した。1991年には、マレーシアを2020年までに先進国入りさせるという国家構想「Wawasan(Vision)2020」を打ち出した。それを旗印に1995年に高度情報通信網の整備という「マルチメデイア・スーパー・コリドー(MSC)」、新国際空港(1998年開港)、新国際都市(PUYRAJAYA)等を進めている。「Wawasan 2020」を踏まえてNEP以降の「国民開発政策(NDP)」(1991~2000年)が発表された。
1997年の通貨危機では、強い制約を受けるIMFの支援を拒否し経済自主再建の道を選び通貨リンギット(Rm)の固定相場制(1ドル=3.80Rm)を導入し、1999年には力強い回復を示した。
E現在
2000年のGDPは551億ドル、一人当たりのGDPは3516ドルになる。1998年からGDPの成長率は年々プラス成長である。
「国民ビジョン政策」(2001~2010年)が発表され、マレーシア経済は労働集約型から知識集約型の知識基盤経済への移行を掲げる、いわゆるKエコノミー政策をめざしている。情報通信技術の活用、人材の育成、情報インフラの整備を積極的に進めるとともに、産業の生産性・効率性向上などを今後の重点課題としている。
ところで、長年マレーシアの政治、経済に権力をふるってきたマハティールは2004年の総選挙には出馬しないことを表明している。20年近くマレーシアを率いてきたマハティールが引退することで、新たな局面をむかえている。

 第2節 マレーシアの社会福祉
 
ここで、障害者をとりまく状況や政策にはいるまえに、基礎となるマレーシアの社会福祉について概観し、現状を押さえておきたい。
マレーシアは、2020年までに先進国の仲間入りをめざす「Wawasan2020」という国家構想を打ち出し、経済開発を優先的にすすめてきた。一方で、社会福祉の制度・政策をみると、経済開発にともなう社会問題への統制や社会的弱者を保護することに追われている。社会福祉サービスの絶対量が足らず、その内容も偏りが多いのが現状である。
マレーシアの公的な社会福祉は、国家統一社会開発省の社会福祉局が担当している。基本的にはそれぞれの州にある社会福祉局は独立して、州独自の条例による福祉サービスを行っている。ここにさらに連邦政府の国家統一社会開発省による予算化されたサービスが加わる。
サービスの絶対量の不足は民間が補っていて、実際にはNGOがサービス提供の主体になっている。つまり地域社会での直接の福祉サービスのほとんどが民間に依存している。そしてお互いに助け合わざるをえない経済状況にある人が多く、家族や近隣の互助が生活関連サービスの不足・欠陥を補完しているのが、マレーシアにおける生活実態なのである。
そこで1991年に策定された「国家社会福祉政策」でも、マレーシアの社会福祉の理念として「支えあう社会」(Caring Society)が提唱されている。萩原は、「支えあう社会」について以下のように説明している。
「マレーシアの社会福祉の基礎になっている理念は、『支えあう社会』(Caring Society)である。この理念は福祉を個人の善意、家族・親族の相互援助および地域の相互扶助にゆだねようとするものである。国家統一社会開発省の国家社会福祉政策指針によると、@他者の福祉の認識とケアの精神の涵養、A相互援助活動の活発化と福祉活動への拡大、B社会内での善行の保持と良好な社会関係の醸成、C社会資源の開発と活用、が「支えあう社会」の文化であると指摘されており、福祉は国家の責任ではなく個人間の相互扶助によるものであることが明確に示されている。」(萩原[1998]36-37)
政府は国家や州に頼るのではなく、国民が福祉問題に関心をもち、共同体の中で解決するように促しているのである。
要するにマレーシアには全国民を対象にした社会保障制度がない。社会問題を統制するため社会的弱者を保護する法制度がいくつかあるだけである。では、こうした社会福祉の現状から見て、障害児者教育や福祉はどのようなレベルかの予測はある程度は推測がつく。次節では、障害者福祉政策を概観してみよう。
 
 第3節 マレーシアの障害者福祉

マレーシアの障害者福祉は福祉、教育、医療、雇用に関して、国家統一社会開発省社会福祉局を中心に、教育省、保健省、人的資源省などで役割分担がされている。縦割り行政で連携はみられず、ここでも直接サービスでは民間が大きく貢献している。
現在、障害者の関連法令は、労働者保障条例(1952年)、被用者社会保険法(1969年)、統一建築物細則(1991年改正)、特殊教育規約(1998年)等がある。生活者としての障害者を支援していくという新しい理念をもつ法が制定される予定になっている(資料−1「予定されている障害者法について」参照)。 
本節では、全てを述べることが出来ないので、今回私が実施した職業訓練のニーズ調査に関連すると思われる事柄に絞って、障害者の生活状況を述べておく。

1.障害者をとりまく生活状況
(1)障害者人口
1996年の保健省のサンプル調査によると、人口の6.9%(推定数1518000人)が障害者であるという。(中西[2000d]160)
他に、社会福祉局に障害者の登録制度があり、2000年12月の時点で登録障害者数は、98452人である。内訳は、視覚障害が13743人、聴覚障害17692人、肢体不自由33559人、知的障害33275人、その他183人である。ここには内部障害、精神障害は含まれていない。しかし、登録は任意のため、統計では障害者は人口の1%未満である。登録することによって、税制上の優遇、経済援助、特殊教育の機会、職業訓練の機会、雇用の機会、交通機関の割引などのサービスが受けられる(末光編[2001]2)。

(2)リハビリテーション
公共部門と民間部門において、さまざまな障害者のリハビリテーションセンターと施設がある。よってここにあげたものは、その一部であることを断っておく。
社会福祉局の運営する知的障害者を対象としたリハビリテーション施設は、全国に5ヶ所ある。ジョホール・バールに成人男性と成人女性を対象としたものが各1ヶ所、セレンバンとトレンガヌに14歳以下の男女対象の施設、重度の男女を年齢問わず収容するクアラ・クブ・バルの施設がある(中西[1996]216)。5ヶ所すべての最大収容人数は980人である。リハビリテーションセンターの数が少ないうえに、対象者が制限されているため、待機者が多い。また、重度の対象者が多く、生涯施設となっている。
 公立の職業リハビリテーションは、主に軽度の身体障害者が対象になり、2年程度の職業訓練を目的としている。チェラス・リハビリテーションセンター、93年に開所されたスランゴールにある労働災害に遭った障害者を対象にした労働訓練リハビリテーションセンターがある。1995年にはバンキ障害者職業訓練リハビリテーションセンターが設立されている。この他に視覚障害者を対象にしたマッサージの訓練を行う施設などもあり、職業的自立の可能性が一応は開かれている(大塚[2000])。

(3)障害者雇用 
1988年に政府は公務員の1%を障害者から雇用すると決定し、2001年の時点で、446人が職を得ている(資料−3「国レベルの障害者雇用政策」参照)。
民間では雇用率制度は適用されないが、障害者を雇用する事業主には減税措置があり、4490人が雇われている。その内訳は視覚障害者が645人、聴覚障害者が1597人、身体障害者が1956人、知的障害者が292人である。
人的資源省は、民間での障害者の雇用の促進のために委員会を設置し、障害者に訓練を行う民間の雇用者には二重に税金の免除が受けられるように配慮している。そして、政府に登録された民間の団体が163あり、今年153の団体に適用された。
この他にも政府は、テレビ・ラジオ修理、裁縫、小規模店、飲食スタンドなどの事業を始めるときに資金を援助する自営業奨励プログラムも計画に入れている(中西[2001b]160)。

(4)アクセス
 91年に改正された統一建築物細則では、アクセスを考慮した基準やガイドラインが盛り込まれているが、実現されていない。都市部の公共建築物の内で階段にリフトやスロープをつけるぐらいである。そのため障害者が自由に動ける環境は整備されていない。
 だが、少しずつ障害者のアクセスが社会で見直されてきている。きっかけは、障害者自身による交通アクセスを求める運動である。
クアラルンプールには、高架を走るLRT(狭軌鉄道)という公共交通機関があり、スターとプトラの2種類の会社によって営業されている。94年に完成したLRT第一路線のスターは高架上にある駅へのエレベーターもなく、非常時の非難のときに安全確保ができないという理由で、車椅子を使用する者の利用を禁止するという方針を打ち出した。これに対して、200人以上の障害者が集まり交通アクセスを求める街頭デモが実行された。
その結果、スターは改修に20億円程度かかることなどを理由にそのままの状態であるが、第二路線のプトラについては、政府がエレベーターを完備するなど障害者が利用できるバリアフリー化の方針を決め、98年に部分的に開通された(久野[1999b]78-79)(クリスティーン[1998])(中西[2001a]160)。
 
(5)自立生活(グループホーム)
 マレーシアではまだ自立生活センターが設立されていないが、政府・福祉局や民間団体によってグループホームの形で自立生活は開始されている。グループホームを立ち上げるときに、生活習慣がマレー系、中国系、インド系によって異なるため、一つの民族で構成されることが多い。
クアラルンプール近郊のクポン地区には5つのグループホームがある。1984年に始めて聖ビンセント・カトリック教会がここにグループホームを開き、その後他の教会もそれに続き、チェッシャーホームなどの入所型施設にいた障害者が仲間数人と共同で家を借りるなどして、徐々に数が増えていった。彼らが生活しやすいようにグループホームはそれなりに改造されており、日常の運営は共同生活者に任されている。工場勤務、宝くじ売り、手工芸品の作成・販売などの職に就く者もいる。さらにグループホームから結婚をして出て行く者、一人暮らしを始める者もいる(久野[1999b]79-80)。

2.PDK実施の背景 
 国際障害者年の後、マレーシアでは就学できない障害児の教育問題が生じた。1984年の PDK実施の背景には、CBR概念の普及と、この障害児教育問題があった。そこで簡単に障害児の教育状況を説明しておく。 
(1)教育の全般的な状況
マレーシアは公的な学校教育制度では、今のところは義務教育ではない。しかし、就学率は比較的高く、しかも6歳からの初等教育6年(就学率97%)、下級中等教育3年(就学率83%)は無償である。上級中等教育(就学率56%)、大学予科2年、大学を中心とした高等教育は3年〜6年となっている(末光編[2001]35)。
そして来年から初等教育の義務化が導入されることで、今まさしく障害児の教育権の見直しが論議されている最中である(資料−2「普通学校の教育組織改革と障害児の教育権」参照)。

(2)障害児者教育
障害児者教育は、1981年に障害者福祉に関わる4省庁における省庁間責任境界検討会議で決定した各省庁の役割に基づいて、障害児者教育が推進されてきた。
マレーシアでは表−3で示すように、障害者政策は、リハビリテーション、教育等にそれぞれ異なる行政機関に分かれていて、対象者の障害の種類・程度・年齢によって、教育を実施する省局が異なる。そして、教育省、国家統一社会開発省、保健省のそれぞれで縦割り意識が強いために、サービス提供に際しての連携はほとんどない。生活者として生きる障害者やその家族は、そのつど新たな苦労を強いられる。これは特に農村部でひどく、それだけにPDKのような活動への期待も高い。
学校教育は教育省が直接関与しており、3つの広い範疇の視覚障害・聴覚障害・重度ではない障害のある子どもの教育の責任主体になっている。教育省の対象である視覚障害者、聴覚障害者、および教育可能な知的障害者(学習障害者)への教育は整備されつつある。国家統一社会開発省は、脳性麻痺を中心とする運動障害と重度障害のケアと訓練に責任を持つ。保健省は、スクリーニングや診断を通して障害者判定の任務を請け負う。
 それだけに今後のNGOへの期待は、縦割り行政を越えたネットワーカーとしての役割にある。また障害種別の専門性と、専門枠を越えたサービスを提供するために、マレーシア国内での自前の人材育成が、とくに専門職員の育成が大きな課題となっている。

表−3 【省庁間責任境界検討会議による各省庁の役割】

役割
教育省 聴覚障害者、および教育可能な知的障害者の教育
福祉省* 身体障害者、中・重等度の知的障害者、脳性麻痺者の教育
国家統一社会開発省* 学齢期(19歳)以上の障害者の登録、経済的支援、自助具の購入支援、地域社会に根ざしたリハ(CBR)の実施
保健省 早期発見、診断、検診
(*1990年に統合され、現在は国家統一社会開発省社会福祉局である)(表−3は久野[1999c]76を参照して筆者作成)

障害者の学校教育は、1996年の(新)教育法をもとに1998年に施行された教育(特殊教育)規約に準拠して実施されている。そして、公的な特殊教育プログラムでは、特殊教育校(Special School)、普通校における特別学級(Integrated Education)、同じ教室で学ぶ統合教育(Inclusive Education)の3パターンが認められており、10249名(1998年)の障害者が教育を受けている。マレーシアでは、普通学校内での特別学級での教育を統合教育、一般的に統合教育といわれている同じ教室で学ぶ場合をインクルーシィヴ教育として区別している(中西[2000a]67)。この点でも日本とは少し違うように思う。
教育規約の序文において、対象となる障害児者(特別な支援が必要な障害児者、つまりPupils with special needs)とは、「視覚、聴覚、または学習障害のある児童」と定義されている。
教育省の障害児者教育を受けられる障害児者(教育可能な者)によれば、「介助なしで生活が自立し、医師、教育省および福祉局の担当官より成る委員会によって国定カリキュラムに従うことが可能と判断された児童」とある。「以下の(1)と(2)を除く“教育可能な”障害者が、政府および政府助成を受けている学校の特殊教育プログラムを受ける権利を有する。(1)学習能力に問題のない肢体不自由児、(2)重複障害児や重度の身体障害か精神遅滞を有する児童」となっている(久野[1999c]79)。
 つまり、ここでの条件に当てはまらないと、障害児者は公的な学校教育を受けることができないのである。長年にわたり教育機会の均等は実現されず、障害の種類・程度・年齢によって障害児者は選別されてきたのである。

では、学校教育を受けられない障害者の施策はどうなっているのだろうか。公的な学校教育から排除されている障害児、すなわち身体障害、中・重等度の知的障害、脳性麻痺は、国家統一社会開発省社会福祉局の対象になっている。同省によって重度知的障害児者のための学校が5ヶ所設立されているが、絶対数が今なお余りにも少ない。
 
1984年にマレーシアにCBRが導入されたとき、PDKは、そのような地域に取り残された障害児者のリハビリテーションと教育機会のための受け皿になることを何よりも必要なこととみなした。このような背景から、PDKの対象や活動の在り方が具体的に形成されていくのである。
次章ではPDKセラヤングの組織機構について、順次具体的に説明していこう。


  第。章 PDKセラヤング(Selayang)


 RDKセラヤングは、スランゴール州ゴンバック郡セラヤングにあり、クアラルンプールから車で30分ほどかかる地方都市に位置する(資料。−1参照)。チェッシャーホームという障害者施設の敷地内にある(資料。−2の緑マーカー印の所)。チェッシャーホームは「障害者が自立して生活するための家づくり」を目標とするアジアを中心に世界中に点在するチェーン店のような障害者施設群である。第二次大戦後イギリス人チェッシャー氏の寄付で始まり、イギリス国内とイギリス植民地のアジアの国々に建設されていった(4)。
またPDKセラヤングは1998年にベストCBRに選ばれ、他のPDKへのスーパーバイザーの役割を果たすPDKワーカーもいる。つまり、ここで取り上げる事例は、都市近郊の優秀なPDKである。他のPDKよりも高く評価されているので、マレーシアのPDKを代表するものではないことを断っておく。

 第1節 概要

PDKセラヤングの概要については、職員から入手したパンフレットや、ワーカーたちの直接の助言や、卒業論文を仕上げる直前までEメールで相談した内容に基づいて、以下に述べる。
1.ビジョン
 「ビジョン:PDKプログラムは、‘地域の地域のための地域による’という任務と、全地域参加の重要性を強調する。
 PDKは以下の目的をもつ。
@障害児がリハビリテーションと学習をうけることができるようにし、彼ら自身の地域にある資源を利用し、子どものニードを考える責任が両親にあることを教える。
A政府やNGOの施設の不足を補う。
B慈善事業をとおして多民族地域を団結させ、国家統一と支えあう社会を実現する政策により、障害児とその家族に適切なリハビリテーションを受けさせることを手伝う。
C考え・経験・知識を共有し、同様に障害児のリハビリテーションと教育に参加する家族の時間と財政を保証する。
D障害児の両親とその家族の苦悩と障害児が施設に入所する失敗を減らす。」(Othman/Tawil[1999]を筆者が和訳)

2.成立過程 
1991年に障害児の父が、彼の子どもが障害のため普通学校に通えないことについて社会福祉局へ助けを求めに行った。職員はマレーシアケア(NGO)にPDKを立ち上げる前に、地域に何人の障害児がそのようなニーズを持っているかをアセスメントするように頼んだ(5)。その調査によれば、約90%の障害児の家族が彼らの子どものために組織されたプログラムに賛成するという結果を得た。
そして、PDKセラヤングは、マレーシアン・ケアがマンパワー派遣を、チェッシャーホームが建物提供をして、1992年2月15日に15人の障害児と2人の援助者で始められた。同年8月29日にPDKセラヤングは国家統一社会開発省から認可された(文献リストの4のC PDK ed, CBR HISTORY)。

3.実践内容
PDKセラヤングの関係領域は、訓練・デイケア・リファーラルセンター(病院等への転送、照会)・資源センター(例えば学部学生のための実習)の4つである。
PDKセラヤングは、センター型(center based)と家庭訪問型(home based)を両方持つ混合型である。日曜日にPT(資料氈|1G)、ST、OT(資料氈|1F)等によるリハビリテーション、月曜日と火曜日に家庭訪問、水曜日から土曜日に9:00〜12:00までセンターでプログラム活動をしている。例えばプログラム活動では、パズルやおもちゃをつかって簡単な読み書きや算数を学んだり(資料氈|1B)、歌ったり踊ったり劇をしたりすることもあった。他のPDKでは一週間のプログラムを決めているが、PDKセラヤングはクライエントの様子やニーズによってプログラムの内容を決めるため、特に一週間のプログラムの内容を決めていない。
 家庭訪問は、センターに来られないときに、1人に1ヶ月2回行われ、同時に言語療法や理学療法等が受けられる。私は2ケース家庭訪問に同行したが、2人とも肢体不自由児であった。1人は今まで親が背負ってPDKに連れてきたが、子どもが成長して無理になり(資料氈|1D)、もう1人は母親が妊娠中であり外出ができないという理由からであった(資料氈|1E)。
 他にパラリンピックにでるため定期的にボーリングをしたり、動物園やプールにでかけることもあった。
 
 第2節 構成

1.クライエント
PDKセラヤングに登録しているクライエントは64人で、センターに来る者は約50人、センターに来られない者は15人であり家庭訪問を行う。
 ここで、PDKに登録しているクライエントを障害、年齢、民族という項目に分けてPDKの特徴を説明する。表を見ると、肢体不自由児の分類項目はないが、PDKは様々な障害のタイプに対応していることがわかる。また登録されたクライエントは約175人もいる。けれども、表が示すクライエントの合計は、PDKに来なくなるか、他の学校やCBRセンターに転校するか、複数の障害をもつか、PDKが分類できない他の障害をもつクライエントがいるので、実際よりはずっと少なくなる。

表−4 【1992年から1999年 「クライアントの障害分類と年齢」】
年齢/障害 精神遅滞 脳性麻痺 自閉症 学習遅滞 ダウン症 視覚障害 聴覚障害
6歳以下 30 15
7~12 14
13~17
8〜24
25歳以上
合計 24 51 15 28
(表−4は次の文献を参照して筆者作成Othman/Tawil[1999]3)

(1)障害
 センターに来るのは知的障害、脳性麻痺とダウン症の子ども達が多い。
肢体不自由児についての障害分類の項目はないが、PDKはバスで子どもを送り迎えするため、移動に問題が多い中・重度の肢体不自由児にとっては継続的な通所は困難である。肢体不自由児は日曜日に行われる理学療法等のときによく来る。通所が無理な場合は、家庭訪問を行う。

(2)年齢
一応18歳でPDKを卒業することになっているが、親の希望で25歳以上の障害者も来ている。プログラム活動では、幼児と学齢期の子ども達が多い。

(3)民族
 マレーシアは都市部で中国系とインド系の割合が多くなる傾向があるが、PDKセラヤングではマレー人が民族構成比に占める割合が圧倒的に高い。
マレー人98人、中国人22人、インド人11人(1992年から1999年)である。(Othman/Tawil[1999]4)
これは、政府がマレー人を優遇するブミプトラ政策をとっており、かつPDKは半官半民であるため政策の影響を受けているからである。PDKは民族によって選別しているわけではないが、子どももその家族もマレー語を話すため他の民族は疎外感を感じてしまう。先生は4人ともマレー人(3人は英語が話せる)で昼食はマレー料理が出される。
一方でインド系や中国系を対象にしたNGOも発達しており、これがマレー人以外の人々がPDKセラヤングに来ない主な理由になっている。

2.PDKワーカーとボランティア
PDKワーカーは4人で、ボランティアは20人である。社会福祉局の指針では、PDKワーカーは最低限、SPM(高校卒業の試験)結果に基づくOレベルに達していることが資格要件とされている。普通学校で2年間教師をしていたPDKワーカーが1人いる。彼女の弟がダウン症であり、彼女の夫もPDKワーカーである。他のPDKワーカーは、近所に障害者がいて、それがきっかけになってPDKワーカーになった。身近に障害者がいることが、PDKワーカーを志願するようになる動機づけになる。PDKワーカーは1ヶ月(13日・66時間)に500Rmの手当が政府から支払われている。
 ボランティアは20人いる。プログラム活動のとき、障害児の母親が2〜3人来て昼食を作りその後かたづけをしていた。

3. 経営 
 収入は、社会福祉局から月々一定額の手当、例えばライオンズクラブやロータリークラブ等のようなスポンサーからの寄付と家族から1人1ヶ月約30Rmの寄付がある。家族からの寄付はほとんど障害児者の昼食代としてつかわれる。しかし、貧困家庭や兄弟姉妹が多く、払えない家族は無料である。月々によって違うが、1年で社会福祉局とスポンサーの収入比は、4:6ぐらいである。
 支出は、チェッシャーホームへの賃貸料(月500Rm)、ガス電気水道代、先生と療法士への給料、レジャ−などの様々活動に使われる。給料は、先生に500Rm、OTに600Rm、STに500Rm、家庭訪問のPTに400Rmが支払われる。 
経営資金を積極的に募ることによって、毎年増額できPDKセラヤングの活動も幅広く展開できるようになったという。

 第3節 現状と課題

1. PDKセラヤングの現状
PDKセラヤングの成果・問題点を見て、ついで比較のためにプラス面とマイナス面に分けて以下に示しておく(Othman/Tawil[1999]13-14を筆者が和訳)。
(1)成果
・障害児に教育を受ける機会を与える
・家族の負担を減らす
・障害児にリハビリテーションを受けられる場所を提供する
・障害児に他の子どもや仲間とのふれあいの機会を与える
・地域を福祉事業に参加させ、地域のきずなを強くする

(2)問題点 
・家族によっては、デイケアセンターや幼稚園代わりに利用される傾向がある
・低い予算で運営し地域資源を総動員するセンターなので、面倒見が悪いと判断する家族は子どもをCBRに行かせない傾向がある
・幼稚園や学校のように管理される傾向があり、かつその創設経緯からワーカーも各プログラムを幼稚園や学校教育と同じものだと思いやすい

(3)プラス面 
・例えば地域のホール、診療所、マンパワーなどの資源は、地域で快く利用できる
・CBRを立ち上げるとき、政府からの援助がある
・行政主導の独特の管理システムがCBRセンターの立ち上げを容易にしている
・地域によっては近隣住民の連帯が強いのでCBRセンターを運営しやすい

(4)マイナス面
・十分な基金の不足
・ボランティア精神の不足
・地域参加の不足
・活動やプログラムを実行するとき、巻き込まれる儀礼上のしきたりが多すぎる
・政府からの指針の不足
・訓練された職員が少ない
・建物、乗り物、用具の不足
・ワーカーの地域に関する知識不足
・ワーカーの話しやすいマレー語での適切な専門病院などへのリファーラルの欠如や資源人材の不足
・地域の人々が障害者のケアの責任は単に社会福祉局だけにあると考えてしまう傾向 

2.PDKセラヤングの課題 
(1)PDKワーカーのかかえる課題
どこのPDKでも最大の問題は、お金のやりくりとワーカーの質的量的不足であるとPDKワーカーはいう。
PDKは政府からの一定額の補助があるが、それに加えてスポンサーからの寄付を募り自主運営していかなくてはならない。セラヤングは、パサール(市場)が多いのでスポンサーも多く、寄付を募りやすい。だが、農村に行くほどスポンサーは見つかりにくくなり、PDKの経営は厳しくなる。 
PDKワーカーの訓練は2〜4週間だけであり、それさえも徹底されていない。またPDKワーカーは女性が多い。それは、PDKワーカーは、悪くない収入ではあるが、午前中までのパートタイムとみなされ、出産などによる長期の休みはとれず福利厚生もない。PDKワーカーの地位は、十分に認められていない。私が関わったワーカーの4人のうち3人が家族、または身近なところに障害児がいたことが、PDKワーカーになった動機であった。この点でもマレーシアはまだ福祉の中レベルにある国といえる。
 
(2)PDKセラヤングの具体的な課題
 特に、PDKセラヤングの課題は、まず地域社会との接点を見出すことであろう。地域を巻き込んだ、または地域に影響を与えるような活動を何かしているかと質問すると、スポンサーからの寄付が増えたことーこれはPDKの活動をアピールし理解してもらわなければ寄付は得られないからーとの回答があった。確かに、PDKワーカーは精力的にスポンサーから寄付を募り、子どもたちとスポンサーが開催するイベントにも積極的に参加していた。
しかし、障害児者たちと近隣の地域社会との関わりがほとんどみられなかった。大学生の実習を受け入れてはいたが、ボランティアはほとんどが障害児者たちの家族である。近隣の地域社会にとってPDKセラヤングとは一体何であろうか。
一方で、ゴンバック郡外のスナイブルにあるPDKで上記の質問をしたところ、近所の掃除や草取りに参加する、またスルタンの誕生日や中国正月(Chinese New Year)、ハリ・ラヤ・プアサ(断食明け大祭)には障害児の家族だけでなく、地域の人々をよんでパーティをしている、という。PDKセラヤングでもこのような地域交流を図っているPDKを参考に、地域の人々を巻き込んだ活動を展開していくことが求められる。

PDKは行政主導のCBRであり、小規模施設化しやすいシステムである。しかし、CBRは地域社会開発をめざす。それを実現するには、地域社会の偏見・差別を変える啓蒙・啓発が重要視される。そのためにPDKの存在意義は、地域社会の人々の参加意識を高め、それをくみとる場としてどのように地域社会に自らを位置づけていくのかに、今後の成功の鍵があるといえよう。
そのための前提条件になるのが、障害の有無にかかわらず、障害者と地域社会の人々が歩みよってお互いを理解しあうことであり、その拠点としてネットワークの役割を担うPDKを位置づけていくことが強く求められているのである。 

  「章 PDKセラヤングの職業訓練と障害者の自立


PDKは、狭義の療育活動から広義の生活支援への展開を図ろうとしている。ここより本論文で調査対象とした、PDKセラヤングで障害者の自立をめざす雇用への職業訓練が始まった。
私は2002年の3月と8月に3週間ずつ、PDKセラヤングを見学・調査したが、この間の5ヶ月間でもプログラム内容が変化していた。3月に行ったときは、PDKでは学齢期の障害児から成人した障害者まで一緒に同じプログラムを行っていた。しかし、8月に行ったときは、依然前述したプログラムも行われてはいたが、年齢と障害程度にあわせたプログラムも始まっていた。PDKセラヤングが職業訓練という新しい領域を模索しながら、開拓しているのかがわかる。
以下PDKセラヤングで始まったプログラムを紹介する。
年齢別にカリキュラムは下記の4つに分かれている。

年齢 プログラム
0~6歳 早期介入プログラム
7~12歳 個別教育プログラム
13~17歳(思春期) 個別成長期プログラム
18歳~ 個別職業訓練プログラム(職業紹介と自立生活計画も含む)

早期介入プログラム(資料氈|1J)、個別教育プログラム、個別成長期プログラム(資料氈|1K)は、PDKセラヤングのセンターの15m×15mの部屋をしきりを使って3つに分けるか、または、職業リハビリテーション訓練センターの3室を使って、1つのプログラムに1人の先生がつく形でそれぞれのプログラムが行われていた。特に、個別職業訓練プログラム(以下からは職業訓練と約す)は、他のプログラムから完全に独立して行われていた。教育プログラムと若干異なるためであろう。

 第1節 職業訓練の導入

 1.概要
PDKセラヤングで2002年7月4日から障害者の職業リハビリテーションセンターのCBRモデルを試行する職業訓練が、センターのプログラム活動として始まった。この職業訓練は、NCBRCC(PDKとNGOを管理・統括するNGO)から、試験的なプロジェクトとしてPDKセラヤングに提案された企画であり、同時にPDKセラヤングも職業訓練を始めようと考えており実施される運びとなった( 文献リスト4のA参照)。
マレーシアのPDKにおいて、職業訓練は先駆的なプログラムである。予算は5年後まで組まれている。

職業訓練について説明する(Project Proposal by NCBRCC[2002])。
使命:プロジェクトの使命は、地域の社会経済構造の不可欠な部分として、自立的生産的な生活に向けての職業リハビリテーションへの機会を与えることによって、障害者のQOLを向上することである。
ビジョン:プロジェクトのビジョンは、地域に根ざした職業リハビリテーションモデルを発展させ、設立することである。そして、それは、CBR職業リハビリテーションセンターとしてモデルになり、全国規模に見てニーズに合う職業リハビリテーションサービスを利用できない青年にとってのニーズの変化に対応することである。
目標:センターの目標は、障害児者が何をニーズ(必要)とするのかをデザインし、テストし、実行して、(もし必要があれば)修正もできるモデルを導くことである。地域社会での実用的なモデルとして、職業リハビリテーションセンターを設立することを目指している。
またそれは、CBRセンターや地域に設立された職業的な機関を利用できない障害者に対しても、全国的規模で採用することができるモデルである。目標は、彼らが5年間で自立生活の一環として地域の雇用機会に参加ができるように、必要な職業技術を身につけることにある。
 ここでの標語は、すばらしい。すなわち「直接の受益者は障害者で、間接の受益者は社会である」(Project Proposal by NCBRCC [2002]3)とある。

職業訓練では障害児者が経済活動の主体になることも視野に入れているが、彼らのQOLを向上することを使命に掲げている。そのための第一歩として、職業訓練によって障害児者自身が家族のために何かできるかを考えてもらい、彼らも一定の役割を担いつつ生活を営むことができることをPDKは目指している。これは同時に家族の負担の軽減にもつながるのである。 

2.実施機関
ここで提案されたパイロット・プロジェクトを支えている組織は、PDKセラヤング、チェッシャーホームとNCBRCCの三つである。
PDKセラヤングは、障害児者のリファーラルと訓練のために必要なゴンバック郡の中心的なセンターとして地域に参加するように位置づけられている。
チェッシャーホームは、PDKセラヤングにプロジェクトの立ち上げに必要な建物と設備を提供した。
PDKを統括するNCBRCCは、障害者問題に関するさまざまな政府機関と一緒に働き、プロジェクトの順調な進行を図る役割を担う。NCBRCCによって統轄された委員会によって、プロジェクトは監督される。職業訓練を行う人は主に、NCBRCCの職員であるOT、パートタイムの特殊教育者とPTであった。

 第2節 職業訓練の具体的内容

職業訓練は、火曜日から土曜日までのam9:00〜pm5:00に行われる。PDKセラヤングで実施されている具体的な職業訓練プログラムは、以下の4分野に焦点を当てている。
・情報科学技術(基本的なコンピューターの使用法)
・家事(domestic)援助(家事管理、食料調達、料理)
・農作業リハビリテーション(作物/食料生産、例えばハーブとマッシュルームの生産)
・健康維持のための身体的健康づくりプログラム(フィットネス)

スケジュール
プログラム
9:00-9:30 ヘルス+フィットネス・プログラム
9:30-10:00 休憩+ティーブレイク
10:00-11:30 農作業リハビリテーション
11:30-12:00 個人的な衛生(着替え、シャワーを浴びるなど)
12:00-14:00 家事援助
14:00-15:00 リラックス(祈りなど)
15:00-16:30 (個人で)コンピューター (グループで)職業訓練
16:30-17:00 ヘルス+フィットネス・プログラム

 8月の上旬までは職業訓練の時間に、それが行われる場所である職業リハビリテーション訓練センターの改修がされていた。その職業リハビリテーション訓練センターは、チェッシャーホームの建物の一部を使っている。センターの壁のペンキを塗って絵を描いたり、棚を組み立てたりして設備を整えている状態であった。
私が滞在している間に、家事援助(資料氈|2CからH)、農作業リハビリテーション(資料氈|2@とA)と健康維持のためのフィットネス・プログラム(資料氈|2B)は始まったが、情報科学技術は、コンピューターを注文したがまだきておらず始められていなかった。情報科学技術は9月中には始められるそうだ。職業訓練プログラムは、スポンサーをさがし寄付を募りながら、徐々に進められていた。

 第3節 障害児者の職業訓練に関するニーズ調査 

1.職業訓練の対象者と調査方法
職業訓練を受ける対象者は、ADLが自立していること、グループ活動ができることの二つの条件で選ばれる。所得獲得を目的とした職業訓練を受ける対象者を選出するため、職業訓練を行う人が聞き取りをしてアセスメントした結果、PDKセラヤングの地域住民では10人が該当した。そのうち定期的に職業訓練を受けている者は4人である。
 事前にPDKワーカーから彼らに関する情報を聞き出し、マレー語の通訳については職業訓練を担当するOTやPTの助けを得た。聞き取り調査は昼食後の休み時間や空き時間に実施した。

表−5 【障害児者の職業訓練に関するニーズ調査】
プロフィール 年齢・性別 20歳・男性 19歳・男性 17歳・男性 17歳・女性
PDKにいつからなぜ来たか 2001年・17〜19歳までは寄宿舎つきの特殊学校に通う 1992年・どこのセンターにも学校にも行けないから 1998年・どこのセンターにも学校にも行けないから 1999年・どこのセンターにも学校にも行けないから
障害 種類・程度・原因 脳血管障害・右片麻痺がある身体障害・6歳の時の交通事故 ダウン症・軽度 ダウン症・重度 ダウン症・中度
職業訓練
(VT)
VTをどのように思うか おもしろい 役に立つ 疲れる おもしろい 役に立つ 好き 回答得られず おもしろい 退屈 好き
どのようなVTを受けたいか 料理 料理 農業 農業 特になし
なぜVTを選んだか 自立 、レジャー、仕事、ADLの向上のため 親が怒るから でもPDKに来ることは好き 回答得られず 母親に言われて来る
VTによって何を実現できるか 自立生活 マレー語で本を読む、掃除 回答得られず 回答得られず
VTによって何を実現できないか なし なし 回答得られず 回答得られず
自分自身でVT以外に何かしているか 皿洗い、洗濯、掃除 簡単な料理をつくる、洗濯、 皿洗い 服をたたむ
仕事 働くつもりか はい はい 機会があれば働く はい
どのような仕事に就きたいか 掃除作業員 料理をつくる仕事 回答得られず ベビーシッター
どのように生活するつもりか 家族と暮らす 家族と暮らす 家族と暮らす 家族と暮らす
自立についてどう思うか 簡単 回答得られず 回答得られず 回答得られず
その他 母親が食べ物を売る仕事をしており、家にいるよりもPDKに送る方が楽であるので、VTを選択した。 母親がベビーシッターで、家が保育園状態。子どもが好きで、遊ぶのが上手。



2.ニーズ調査結果の考察
障害児者は、職業訓練に関して「おもしろい」、「役に立つ」、「好き」などおおむね肯定的にとらえている。受けたい職業訓練も現在行われている農作業リハビリテーションと家事援助と一致した。また、4人全員が就労の意志をもっており、清掃作業員やベビーシッター、料理をつくる人になりたいという具体的な夢をもっていた。
しかし、職業訓練の動機を自分の意志として具体的に回答したのはAだけである。BとDは親が職業訓練をすすめるから来ている。また、Cの母親は食べ物を売る仕事をしており、職業訓練へ子どもを送る方が楽だと考えているので、BやDと同じ利用動機である。なぜ、彼らは職業訓練を受ける際にしても、親に依存的なのであろうか。
それは、職業訓練を受ける対象者の条件には、親の理解と協力が含まれているからである。例えば、職業訓練は他のPDKのプログラムと曜日、時間が違う場合が多いのでPDKのバスを利用することができず、職業訓練を受けるためには、親が送り迎えをできるかどうかがサービス利用の前提になっている。そのため私が調査した期間でも、母親が病気のため移動手段がなく、職業訓練を休んでいる者がいた。農作業リハビリテーションでは、土地を持っていないと意味がないのだと勝手に思い込んでしまい、子どもを連れてこない親もいる。この他にも、セラヤングには市場があって安い生産物は購入できるので、農作業リハビリテーションを行っても、よい収入が得にくく、地域の実状に会っていないとの批判も出てきている。おおむね職業訓練は、自立を目指す障害児者の意志というよりも、親の強い希望によって何とか可能になっているのが現状といえる。 

 第4節 マレーシアでの自立の概念

私が障害児者に「将来はどのように生活するつもりか?」を聞く予定だと事前にワーカーに言ったところ、「家族と暮らす」という答えが当然のようにワーカーからまず返ってきた。また、身体障害をもつAは「自立は簡単さ」とさえ言ってのけた。これは一体どういう意味なのであろうか。
ここでマレーシアの障害児者の「自立」の概念について少し考えてみよう。
日本も含めて先進国での障害児者の「自立」は、必要な社会保障制度のサービスを利用しながら、自分で責任をもって主体的に生活を営んでいくという考えが主流になりつつある。
しかし、ヘランダーは、「自立」という概念は、途上国の現実とはほとんど関係のない先進国の概念であると主張する。途上国では、障害児者を外に出し自身で生活をさせるよりも、家族の中で彼らが一定の役割を担い相互依存的な生活を営むことが多い。
「もちろん、これは日常生活動作、移動、コミュニケーションにおける独立性が、大きな進歩として見られないということを意味するわけではない」という(ヘランダー/中野[1996]47)。このことをふまえると、Aの回答に納得がいく。Aは、ADLが自立しており、コミュニケーション能力もあるから、自立を簡単であると言ったのであろう。
そして、マレーシアでは全国民を対象にした社会保障制度はなく、障害児者を対象にした法律がまだ施行されていない。Caring Societyの実現とは、障害児者の生活を身近にいる家族に委ねることでもある。しかし、マレーシアでは「Wawasan2020」に向けて急速な経済開発が進み、これまで家庭で家事・保育を担う女性が労働力として期待されるなど、伝統的な家族共同体の弱体化の動きも出てきている。
とするならば、当然のことながら、これからのマレーシアの「自立」の概念も変化していくことになるだろう。

  第」章 マレーシアのCBR(PDK)の展望


 第1節 マレーシア障害者福祉政策の中でのPDKの位置を考える 

 1.PDKの問題点をどう克服するのか
今後のアジアでのCBRの在り方を考えるためにも、ここでマレーシアのPDK全般のシステムの問題点を、今回のセラヤングの調査結果と比較しながら整理して、克服の手がかりを探ってみよう。
マレーシアのPDKは、おおむね地域から孤立化しがちな小規模施設化の傾向を食い止められないでいる。またPDK職員のほぼ全員がパート扱いで、身分が不安定である。つまり1976年にCBRが提唱されて、1984年からマレーシアでPDKが実施されているのだが、組織形態はまだまだ弱いのである。
何よりも問題なのは、障害者福祉の縦割り行政や、たらいまわしの現状があるのに、PDKがネットワークの拠点になりにくいという点である。実績のあるPDKは少なくない。しかし、学校教員と同じような教育プログラムに集中する職員が多いのが、私には気がかりであった。立ち上げたばかりなので仕方がないのかもしれないが、職業訓練プロジェクトでも、生活者としての地域支援の視点が少ないように思われた。
 
PDK開始以来の未解決の問題を再度ここに出して、今後の克服の道筋を考察してみたい。
[小規模施設化]
PDKは、知的障害や脳性麻痺の学齢期の障害児を主な対象にし、教育リハビリテーションを中心としたサービスを提供していたので、小規模施設化へ向かってしまった。つまり、PDKは、対象の限定、活動の制限、地域社会の参加不足という弱点を有している。
そのために障害者への総合的な生活支援、地域社会への啓蒙・啓発ができないという、弱点をかかえている。
 
[学校に行けない障害児中心]
 またPDKは設立当初は、地域で学校に行けない知的障害者と脳性麻痺者に、教育リハビリテーションの場を与えることを主眼にしていたので、対象が子どもに限定されがちで、職業訓練はおろそかにされていた。また地域社会に当事者を参加させる支援も課題としてはすぐには取り上げられなかった。

 [対象の限定]
つまり今日でもPDKは学齢期障害児が主な対象であり、知的障害者と脳性麻痺者、ダウン症者が多い。肢体不自由者などは移動手段がないために、PDKに通うことができない者も少なくない。送迎バスはあるが車イス用のスペースはなく、送迎時の混雑ぶりでは乗ることにためらう者も多い。何よりも、高層アパートに住む肢体不自由者は、階段を下りることが出来ず、結局PDKに参加できないケースが多いと職員から私は聞いた。ここには、サービスの連携がうまくいかない、アジアの中位レベルの障害者福祉の現実が見えてくる。

[活動の幅の制限] 
職業訓練プロジェクトの導入は、本年7月4日からである。他のPDKでは今なお教育リハビリテーションが強調されている。しかも、障害児者全員を1ヶ所に集めて読み書きや算数などの、画一的なプログラム活動が主である。そのために学校教員と生徒の関係に似た雰囲気があって、PDKワーカーは「先生」と呼ばれている。
こうした教育リハビリテーションに偏ったPDKに対しては、専門的なマンパワーが期待されてしまうので、結果的には地域社会の人々やボランティアは参加しにくい。

[地域社会との連携の困難さ]
マレーシアは日本社会よりも厳しいトップダウン型(上意下達型)の縦割り行政である。そのためにマレーシアは中レベルの国としては、教育や福祉関連の機関・施設・人材などの資源がある程度揃ってはいるのだが、関連機関の数の不足、交通手段の欠如、機関相互の連携不足などの諸問題をかかえ込んだままで、国−州−郡−地域社会を繋ぐ積極的な資源活用にまでは至っていない。とりわけ問題なのは、社会資源の存在自体が農村に住む人々にはほとんど知られていない点である。2002年3月現在、マレーシア全域にPDKは243あるが、実践活動においてのPDK間の地域を越えたネットワークはほとんどないと、ワーカーは私に語ってくれた。

 ニード(必要)に応じた支援を、必要な時に平等に受けられることが、障害者の持つ本来の権利なのであるが、マレーシアの障害者福祉の現状では、これはなお克服されるべき課題のままになっているといえよう。
 
2.アジアのモデルとなるマレーシアのCBR(PDK)
 中西によれば(中西・久野[1997]100)、アジアではまだ障害者は単なるサービスの受け手とみられがちであり、PDK委員会にも、当事者はむろん、家族の参加もほとんどないということである。例えば、表−2に示したCBRの組織形態は、あくまでモデルのひな型にすぎない。多くのアジアのCBRは、国レベルから村レベルまで、マニュアルの指示通りには動いていないし、資金や職員不足、地域啓発不足によって、克服しがたい問題をかかえ込みながら、運営を軌道に乗せようと尽力している所が多いのが実状である。しかしここには、先進国が陥った誤り、すなわち大規模施設を建設し、知的障害児者を収容し、人生の大半を隔離されがちな施設で過ごさせる方法への、ハッキリとした批判精神が息づいている。経済的には中レベルの国であり、Caring Societyでもあるマレーシアでは、今のところに大規模な障害者施設を大量建設する動きは見られない。もちろん財源不足という現実もあるのだが、こうした地域優先の障害者政策を真っ先に展開する点でも、マレーシアはアジアの21世紀のモデルになる可能性は高い。

 第2節 多民族国家マレーシアのCaring Cultureの中での PDKの今後の展望 

 本論文では障害者の自立とは何かを、PDKの職業訓練を通して考えてきた。結びではマレーシアの風土や国民性・宗教・文化と関わっているCaring Cultureの中でPDKの今後の展望を、少し述べてみたい。

1.多民族国家マレーシアのCaring Culture――寛容さと無関心 
マレー系はブミプトラの政策にはやや鈍感である。中国系とインド系は、やや敏感である。しかし、民族間での相互扶助ネットワークがよく機能している。また中国系は経済分野をリードし、他方マレー系は大学入学者の割り当て率が多くて政治権力に近い人が多い。つまりうまく財力と権力のバランスがとれていて、ある程度の不満はカバーされる。そのためだろうか。近隣諸国のような目立つ対立は、今のところはない。
 しかし、経済が順調に発展し、政治も安定しているように見える反面、農村と都市の貧富の格差は大きく、社会問題になっている。それでも寛容さと無関心が同居したような独特の国民性が、各民族間・各地域間にある不満をやわらげているようで、暴動は起こらない。次に述べる「Caring Society(支えあう社会)とCaring Culture」の土台も、実はこうした民族間のすみわけと、政治・経済の在り方と関わっていて、うまく地域に根づいているのだと思う。

2.Caring Society(支えあう社会)とCaring Culture
PDKはマレー人優遇政策のブミプトラの影響下で組織されているが、同時にマレーシア全域で提唱されているCaring Societyの政策理念にも基づいている(萩原[1998]36-37)(戸部[1998]190])。
第章でもふれたがCaring Societyの考え方は、一般市民の福祉の関心を高める上で効果を発揮している。例えば、PDKセラヤングにも寄付(資料氈|1H「スポンサーからの寄付」)やボランティア(資料氈|1I「ボランティアが昼食を準備」)として、Caring Societyの考え方が貢献している。ただしこのPDKセラヤングのボランティアは一般市民よりは、利用者の障害児者の母親・家族の方が多かった。家族扶養意識はなお根強くあり、これがCaring Societyの核になっているのだが、それだけに障害受容が社会に向かって広がりにくい原因になっている。
しかも、これらの活動もそれぞれの宗教活動の影響を受けていて、障害者支援はしばしば慈善事業として捉えられがちである。マレーシアでは宗教的な相互扶助が根づいていて、障害者を施しや憐れみの対象としてみる傾向も強い。むろん家族に障害者がいることを隠す傾向も見られる。そのために障害者を自立しうる人間として認めようとしない偏見が、今なお根強くある。これもCaring Societyのもう一つの側面といえる。

3.PDKセラヤングの職業訓練からPDKの展望を探る
PDKセラヤングでは、2002年7月から職業訓練が始まった。実際に定期的な参加は、4名にすぎない、できたばかりのプロジェクトである。この論文の27頁に示したように、自立的生産的な生活に向けての職業リハビリテーションの機会提供を目標にしていて、同時にQOL向上も目ざしている。
実際には一例しか挙げられないのだが、軽度の肢体不自由の障害者Aは、自立とQOLの考え方がよく語られていて、障害者の機会均等の選択の幅を増やすよき事例になっている。現在でもマレーシアでは通常、家族と離れて勉学や仕事で都会に出てきても、親戚の家やルームシェアや寮に住むのが普通である。一人暮らしは稀なので、障害者の自立生活と言っても一人暮らしはあり得ない。私の聞き取り調査に対して、「自立は簡単さ」と答えたAも、家族と離れて暮らす自立生活という考え方は念頭にない。しかし、仕事をして自立するという意欲はハッキリしている。
この点では、PDKセラヤングの職業訓練プロジェクトの標語、「直接の受益者は障害者で、間接の受益者は社会である」(Project Proposal by NCBRCC [2002]3)の試みは、始まったばかりではあるが、成功していると評価できる。
私が調査先で出会った、多くの人々のエネルギッシュな活動を見ても、障害者の特別なニーズに応じた新たな展開に希望をもってよいように思う。

                【注】

(1) CBRの歴史に関しては、小林[1996]、笹瀬[1999]を主に参照。国連の動向に関しては、ニノミヤ[1999]、ヘランダー[1996]、佐藤・小澤[2002]による。
(2) 各州のPDKの数値については、マレー語の文献(Oleh[2000]8-10)による。
(3) マレーシアの概要については、外務省[2002a]、外務省[2002b]、外務省[2002c]、アジアネットワーク編[1998]、東京都議会議会局編[2001]、imidas2002による。
(4) チェッシャーホームの歴史と活動については、小林[1988]、小林[2001]の調査が詳しい。
(5) 1979年設立の「ニードのある人たちのケアのための」NGO組織である(中西[1996]220)。教会が職員の給料の半額負担。

               【文献リスト】

1.著書(日本語)
アジアネットワーク編『マレーシア現代情報辞典』星雲社,1998
小林明子『アジアに学ぶ福祉』学苑社,2001
佐藤久夫・小澤温『障害者福祉の世界』有斐閣アルマ,2000
地球の歩き方編集室編著『地球の歩き方 マレーシア・ブルネイ』ダイヤモンド社,2001
永井浩・小菅伸彦「東南アジア」『imidas 2002』集英社,2002
中西由起子『アジアの障害者』現代書館,1996
中西由起子・久野研二『障害者の社会開発』明石書房,1997
仲村優一・一番ヶ瀬康子編『世界の社会福祉3 アジア』旬報社,1998
ニノミヤ・アキイエ・ヘンリー『アジアの障害者と国際NGO―障害者インターナショナルと国連アジア太平洋障害者の10年』,明石書店,1999
東京都議会議会局編『海外調査資料 マレーシアの地方自治と経済政策』2001
萩原康生編『アジアの社会福祉』中央法規,1995
萩原康生『国際社会開発』,明石書店,2001
E.ヘランダー/中野善達編訳『偏見と尊厳』田研出版,1996
ジェームズ・ミッジリィ『国際社会福祉論』中央法規,1999

2.論文
畔柳久太郎「フィリピンの障害児・者福祉問題―エルシーガッチェス ビレッジの取り組みを通してー」日本社会事業大学卒業論文 1994
石本馨「マレーシアでのCBR活動」『作業療法ジャーナル』31巻10号,1997
石渡和美「アジアにおけるCBRの実践と日本のリハビリテーション」『発達障害研究』第18巻第3号,1996
小川喜道「CBRワーカーのコースから学ぶ」『総合リハビリテーション』24巻12号,1996
尾中文哉「アジアの開発途上国における障害者運動と自立生活」(安積純子、立岩信也他編著『生の技法』藤原書店 1995)
久野研二・中西由起子監修「FINDING OUT ABOUT CBR」1995.
久野研二「マレイシアのリハビリテーション:CBRの現状と課題」『リハビリテーション研究』第99号,1999a.
久野研二「マレーシア@障害分野の現状と課題―動き出した当事者活動―」『ノーマライゼーション』6月号,1999b.
久野研二「マレーシアA進む障害者の参加と機会の均等化」『ノーマライゼーション』7月号,1999c.
久野研二「障害と態度:尺度と啓発―最近の動向」『リハビリテーション研究』19,2001.
小林明子「アジア地域における民間施設チェッシャー・ホームが提起してくれるもの」『月刊福祉』第71巻5号 1988.
小林明子「今、途上国で盛んなCBRに目を向けよう」『リハビリテーション研究』78,1993
小林明子「CBRに学ぶ」『発達障害研究』第18巻第3号,1996
笹瀬晴代「CBRによる障害者問題への取り組みに対する一考察〜フィリピン・NORFILの実践を通して」 ルーテル学院大学卒業論文 1999
末光茂編『アジア福祉文化研究センター研究紀要』第3巻第1号,2001
高嶺豊「アジアのCBR展望における障害者の役割」『発達障害研究』第18巻第3号,1996
戸澤由美恵「マレーシアの社会福祉」『世界の社会福祉3 アジア』1998,p.185-p.228
那須野三津子「マレーシアにおける福祉アメニティの実践活動」『アメニティ研究』第2巻,2000.
中澤健「マレーシアにおける障害者の調査」『ノーマライゼーション』第16巻第7号(通巻180号)1996a.
中澤健「マレーシアのCBRの現状と障害者の生活の実状とニーズに関する調査について」『発達害研究』第18卷第3号,1996b.
中西由起子「CBRの概要とアジアでの実践」『海外社会保障情報』第114号,1996a.
中西由起子「途上国の発達障害児・者のインクルージョンのためのCBRの役割」『発達障害研究』第18巻第3号,1996b.
中西由起子「アジア・アフリカの障害者」『季刊福祉労働』76号,1997
中西由起子「アジア諸国の障害児教育」『季刊福祉労働』86号,2000a.
中西由起子「CBR(地域に根ざしたリハビリテーション)」『季刊福祉労働』87号,2000b.
中西由起子「障害をもつ女性たち」『季刊福祉労働』88号,2000c.
中西由起子「障害者人口」『季刊福祉労働』89号,2000d.
中西由起子「環境アクセス」『季刊福祉労働』90号,2001a.
中西由起子「雇用」『季刊福祉労働』91号,2001b.
中西由起子「偏見と差別」『季刊福祉労働』92号,2001c.
中西由起子「障害者の機会の均等化を進める法律」『季刊福祉労働』93号,2001d.
中西由起子「障害の原因」『季刊福祉労働』94号,2002a.
中西由起子「国際NGOの活動」『季刊福祉労働』95号,2002b.
中西由起子「リハビリテーション」『季刊福祉労働』96号,2002c.
萩原康生「アジアの社会福祉総論」『世界の社会福祉3 アジア』1998,p.27-p.50
Kennedy, Cille「WHO(世界保健機関)の国際障害分類の改訂作業と障害者のリハビリテーションへの影響」『リハビリテーション研究』第94号,1998
Parker, B Susan「リハビリテーションの新たな動きと地域協力」『リハビリテーション研究』第94号,1998
 
3.論文(英語・マレー語)
COMMUNITY BASED REHABILITATION.A PROGRAMME BY THE DEPARTMENT OF SOCIAL WELFARE.(発行機関・年度不明)
COMMUNITY BASED REHABILITATION.(発行機関・年度不明)
Kaur,Ranjit : COMMUNITY-BASED REHABILITATION IN MALAYSIA. 1997
Oleh,Disediakan.ed : SENARAI PROGRAM PEMULIHAN DALAN KOMUNITI(PDK).2000
Othman,Noraini/Tawil,Mohd Yusof : Study on the Social Development of People with Disabilities in Malaysia.1999
Project Proposal By NCBRCC ed. : THE CBR MODEL FOR VOCATIONAL REHABILITATION CENTER FOR PWD 2002.6.10
Sayed A Rahman B Sayed Mohd ed.: COMMUNITY BASED REHABILITATION TWELVE YEARS ON. p.1-p6.
United Nations ESCAP ed.: Asian Pacific Decade of Disabled Persons.1993-2002. June 1999.p.1-p.8.
 
4.パンフレット類ならびにPDKの小さな印刷物(英語)
@敷地内にPDKセラヤングがあるチェッシャーホームについてのパンフレットはSERANGOR CHESHIRE HOME
APDKの監督をするNGOについてのパンフレットはNational community based rehabilitation coordinating committee Malaysia(NCBRCC)
Bゴンバック地区にある4つのPDKを調整する委員会についてのパンフレットはPPPDK
CPDKワーカーによるタイプ印刷資料 PDK ed : CBR HIISTORY
DPDKセラヤングの経営収支について(マレー語なので卒論にはのせていない)
EPendapatan dari Januari 1999 sehingga- December 1999
 
5.インターネット情報
大竹雅子「マレーシア・サクラワ州NGOのCBRの開始を手伝って」第111回アジア障害者問題研究会報告,2000
大塚健一,「マレーシア・バンキ障害者職業訓練リハビリテーション・センターの設立準備とその後」第104回アジア障害者問題研究会報告,2000
岡由起子「機会の平等化におけるCBRの役割―アジア途上国を例としてー」
外務省「マレイシア(Malaysia)」2002a.
外務省「最近のマレイシア情勢と日・マレイシア関係」2002b.
外務省「マレイシアの政治・経済情勢及び日本・マレイシア関係」2002c.
クリスティーン・リー「マレーシアの交通アクセスを求める運動」第83回アジア障害者問題研究会報告,1998
中西由起子「アジア各国のCBRの概要」
中村安秀「ソロCBRセンター(Commutity−based Rehabilitation)報告,2000
パドマニ・メンディス「CBRを語る」,第100回アジア障害者問題研究会記念報告,1999
「CBRとは?」(筆者年度・不明)

* 日本語文献はあいうえお順

              【あとがき(謝辞)】

本論文の作成にあたっては、多くの人々の協力を得ました。ここに深く感謝の意を表します。
萩原先生からの紹介で、Sebestian先生にPDKセラヤングでの調査のコーディネートをしていだたき、レジャーにも一緒に連れて行ってもらうなどお世話になりました。  
また、日本社会事業大学卒業生である佐々木さんには、マレーシアの滞在時にホームステイをさせてもらうなど、無事に過ごせるようなご配慮をしていただきました。
中西由起子さんからは貴重な資料をもらい、かつアジア障害者問題研究会で適切な助言もいただきました。また研究会で紹介されたJICAの田中絹代さんにはPDKに関する情報をお聞きでき、その上資料も送って下さいました。
調査先であるPDKセラヤングにおいては、PDKワーカー、OT、PTの方々に調査を手伝ってもらっただけではなく、観光やホームステイまでサポートして下さいました。おまけに卒業論文の締め切り直前まで、私が書いた質問メモを手紙やEメールでチェックしていただきました。
そして、卒論を書き終えた今、PDKセラヤングとチェッシャーホームで出会った障害児者たちと過ごした日々を改めてふりかえっています。私はマレーシアで今年、春と夏の2回、これらの人々と一緒に生活しました。その経験からマレーシアが、Caring Societyであることを個人的にも実感しました。障害者が家を出て一人暮らしをするという形の自立生活が概念として存在しない、そういうCaring Societyあるいは多文化共生社会のよさは、日本人も少し学ぶ点があるように思いました。
最後になりましたが、卒業論文を御指導して下さった千葉和夫先生と萩原康生先生に厚く御礼申し上げます。

                  2002年11月26日