私の願い

DPIスリランカ ニマル・S・シルバ
M. Nimal, S. De Silva, D.P.I. Sri Lanka

 私はスリランカ西部県 (Western Province) ミヌワンゴダ(Minuwangoda )地域の一面水田に囲まれた小さい村でで生まれた。 父親は貧しい農民で、母は失業している主婦であった。 家族には兄弟3人と姉妹一人がいた。 家からおよそ5マイル離れた学校で勉強した。 多くの困難がある中、私は勉強を続けた。

 その間に、 私は 木から落ち、脊髄傷害を受け、結果として障害者となった。 脊髄に起きた損害に附随して起きた多くの他の健康問題に直面しなければならなかった。 褥瘡にさえ苦しんだ。 およそ6カ月間の入院の後に、三輪車を与えられ退院した。 家に連れて帰られたとき、両親は私に土着の治療を受けさせたが、良くならなかった。 それで、自分の部屋に閉じ込められた間に、私は瞑想とヨガの運動を始めた。 数カ月後、壁にしっかりとつかまって歩くことに成功した。 いずれにしても、このようにして着実に歩くことができた際にはステッキの助けを借りて歩けた。 この経験は私を黒たんの棒で自分のステッキを作るようになった。 苦しんでいたもう1つの健康問題は、脊髄損害者の間で非常に普通のことである尿管理ができないいうことであった。 この時期、スリランカには尿袋のコンドームはなかった。 けれども私そのようなことについて聞いていた。 私はからの塩性の袋と避妊用コンドームを利用して尿袋を発明した。 それを身につけて私はうまく動くことができた。

 そしてそれいよってもっと容易に自分で動き、活動できるようになった。 後に、私は何人かの政治家に会って、そしてアジア開発銀行電化プロジェクトによって電気を村につけた。 そしてshramadana 基礎の上に道さえつくった。 これを聞いて、ミヌワンゴダ地域の部の秘書が私を貧困削減プログラムであるジャナサビヤ(Janasaviya)のボランティアの調整官に選んだ。 私は決められた予算の中で貧しい家族が自分たちの生活を営み、彼らに経済的、社会的、文化的、政治的な指導力をつけさせる教育をする責任をまかされた。 貧しい者として、如何に貧しい人々が家族の死に経済的に苦しむかを理解し、宝石や他の貴重品を差し出させようとさえしていたので、葬儀寄付協会を設立した。それが村人の間で非常に人気が高くなり、他の村人の人々も会員となりたがった。

 一方私は、現 D.P.I. スリランカ会長メンディス氏 (Mr. Mendis) に会い、その団体の会員となった。 それから、我々は自分たちの目的を成し遂げるために精力的に働いた。 その後、そこで自分が打ち込んでいる奉仕の結果として自分で苦労して手に入れたお金で1対の松葉づえを寄付した。 私は ガンパハ(Gampaha) 地区支部 の会長に選ばれた。 さらに数か月後、西部県の会長に選ばれた。 1990年に、私は貧困削減プログラムジャナ・サビヤ (Jana Saviya)運動のボランティアの調整官になった。 他の社会福祉活動で残念ながら非常に忙しかった。

 運命は私にもう1つの問題をあたえた。 姉妹の2人の子供の養父にならなければならなかった。 これらすべての困難のために、自分の任務をつつがなく行うことが不可能であると感じ、会員資格だけを保持して D.P.I. の役員を辞めた。 けれども活発に貧困削減プログラムにはまだ従事していた。 けれども健康問題のためにどこにも行くことができなかった。 それで家に閉じこもって修理の仕事をした。 時間がたち、自分の村の電気と連絡道路が緊急に必要であることがわかった。 道路はその時蜂の巣のように穴があき、ちょっと激しい雨が降っただけで水没した。 それで、 私は、長い間やっていたヨガの体操に加わっていた同年齢の多くの若い友人たちがいたので簡単に若者のボランティアクラブを組織した。 いずれにしても、電気を手に入れて、そして Shrmadana 基礎の上に村への道を建設できた。 社会サービス に従事していた間に、自分自身の交通手段が緊急に必要だと感じた。 そしてオートバイを買って、手動装置をつけ自分のの三輪車を生産した。

 葬式寄付協会のメンバーが仏教徒のお坊さんに寄付をしようと決めた。 けれども私が間に入って、リハビリテーション病院の障害者のためにその金を使ってくれと頼んだ。 その時から、我々の年次の寄付はリハビリテーション病院への支援訪問になった。 2000年の年次寄付は2000年10月22日にされた。 今回は我々は軍人と民間人が治療を受けているラガマ( Ragama )のリハビリテーション病院入所者に2台の車椅子と食物を寄付した。

 私の次の目的は、障害者の苦しみと悩みをよく知っているので、その地域で他のボランティア団体や金持ちの人々の助けで大規模にこの寄付を行うことである。 それで、私の友人たちの皆さん、もし私の手紙がとにかくあなたの役立ちあなた元気づけるなら、村には電話がないので私の所にあなたの提案やコメントを送ってくれださい。 名刺の電話番号さえ私のものではありません。 私の家からおよそ5マイル離れている所の電話である。

           No. 122. Gemangedara, Minuwangoda, Sri Lanka.

                          (中西由起子訳)
                                    2001年2月