フィリピンの障害者の暮らし


カトリック障害者連絡協議会が主催する「アジア障害者に本自立生活研修」に参加した障害者のエッセイです。

ラッケル・エスティラー
ろう者教育、アクセス、向上協会書記

1997年度研修生

 私は8才のときに耳が聞こえなくなり、聾学校に行かせてもらうこともなく育ちました。他の人たちがみんな聞こえているのに自分だけ聞こえない世界で暮らすということは、私にとってつらいことでした。教育を受けられなかったことと、いつも両親に頼らなくてはならなかったことがその大きな理由です。私はひとりでいるときはいつも怖がっていましたし、ちょっと近所のお店に行かなくてはならないときでさえ誰
かに付き添ってもらう必要があったのです。私は一生親戚に頼っていかなければならないのだと思っていました。
 高校卒業後、未亡人の母と私はアルベイ(Albay)をはなれ、メトロマニラに移り住みました。マニラでは私は母と家にいて、母が家事をするのを手伝うだけでした。ときどきは私は飽き飽きして、家を出ようとしました。私はまた他の女性たちのように自立した生活を送れるようになりたいと思っていました。しかし私の家族はそうすることを許しませんでした。私が途方に暮れるかもしれないと心配したのです。
 ある日、ある工場が聴覚障害の労働者を探しているという広告を母がテレビで見ました。母は私を応募に連れていき、やがて私は見習いとして雇われました。私は、たくさんの耳の聞こえない人々が一カ所にいること、そして彼らが手を使ってコミュニケーションを取っているのを見て驚きました。私はいつも世界中で耳が聞こえないのは自分だけだという孤独感を味わっていたのです。ソーシャルワーカーの人がボランティアで私に手話を教えてくれ、一ヶ月で私は基本的な手話を修得しました。そのとき私は22才で、自立した生活を送ろうとして、難しい仕事を始めたのでした。
 収入は少ないものでしたが、私は稼ぐことができて幸せでした。というのも、得たものを母と分け合うことができましたし、そしてそれは自立した生活への第一歩だということを知っていたからです。いまは私は付き添いなしで出かけることができますし、ろうの友達もたくさんできました。
 6カ月後、私は副管理者に昇進しました。私は他のろう者が聴者と意思の疎通を図る必要があるときには手助けすることを始めました。会話と読むことができたので通訳したのです。私は、ろう社会が何を必要としているか、どのように聴者と関わっていくか、ということに敏感になっていました。私は、ろう者にも他の健常者と同じように働く能力が備わっているということを経営者
側に納得してもらおうとしました。
 私は今政府郵政省で手紙の仕訳作業の夜勤をしています。私の収入で、私と私の家族を養うことができます。仕事の他に、私はろう社会で活動しています。新しく組織したフィリピンろう者連盟の立ち上げのために働く、ろうのリーダーのグループの一人です。ろうや種々の障害者のための組織を通して、私は、より弱い立場のろう者のために必要な奉仕を行うともに、雇用、教育、アクセシビリティの機会をろう者にも平等に与えられるよう活動に権利擁護活動を行ってきました。政府や非政府組織が行う障害者関係のセミナーや会議に数多く出席してきました。
 また私は教会でも活動していて、世話係をしたり、子供への宣教活動では美術工芸の教師をボランティアでしています。家で時間があるときは、家族が家事をするのを手伝っています。家族は私がいろいろ活動しているのを知っているので、精神的に支援してくれます。また私は友達と水泳に行ったり、映画を見たりして過ごします。でも今は私たちの組織のLEADで秘書をし、フィリピンろう協会で委員をするのにほとんどの時間をとられているので、友達と外出することは滅多にありません。 私は政府組織や非政府組織が先頭に立って開催する様々な会合やセミナーに出席しています。またときどき、ろう者の生活を向上させることを勉強するために高学歴の人々とつきあっています。
 私はもっと良い安定した仕事につき、また仲間たちの為に良い働きができる為に大学卒の資格を得られればいいと思います。そしてもしできれば、いつの日か最初のろうの弁護士になり、信頼されて、ろう文化や、ろう者としての権利や特権の向上を図りたいと思います。でもこの夢は実現できません。なぜなら私たちの国はろう者に対する受け入れ能力がないのです。特に大学については私のような貧乏な者には授業料
を払う余裕がありません。でももし政府が政策を変えて、すべての人の要求に応えてアクセスをよくするならば、私の夢は実現するかもしれません。


マリア・レネテル・エスパデレ・カバレロ
KAMPI(フィリピン障害者連合)コタバト支部会長/政府役人
2001年度研修生


 KAMPI全国事務局が第10回IL研修プログラムへの推薦者の一人として私を選んでくれたことに、まず感謝したい。それは名誉なことであり、チャンスが与えられれば、自分の団体の日常活動に十分有益な知識や経験をよりよく身につけると思う。私は28歳で、8人家族の最年少である。Midsayap市の市評価事務所で働いている。Cotabato県MatalamのBarangay Patadonで1990年11月18日に起きた自動車事故による左足切断が私の障害である。左足は葬られ朽ちたが、私の精神は生きている。普通の生活を送り、身体障害をものともせず生活を送らねばならない。以下が、私の毎日の家、職場、長を務める団体での活動と、小さな将来の夢、達成しようと努力している夢である。
 毎日早く5時には起きる。ベッドから飛び出す前に、朝の祈りをする。家事の手助けをし、市役所と地元の警察署の近くにある家族で経営する食堂のさまざまなメニューを準備し料理する手伝いをする。遠慮せず言えばこの分野で私には技と経験があるので、母が私の料理の仕事振りを信用している。唯一の慰めは、支援者たちがほめてくれる時であり、準備したもの全て食べてもらえる時である。
 身支度をする前に、学校に行っている7歳の娘の世話をせねばならない。彼女は私の人生での唯一の希望の源である。私がシングルマザーであることによる苦難や犠牲にかかわらず、彼女はいつか私を自慢できるだろう。夜寝る前には、彼女のその日の学習の復習を手伝い、身の回りの清潔に気を配る。
 8時きっかりに、casual utility worker Iとして働いている市評価事務所にいなければならない。日常業務の中には、事務や来訪者への応対が含まれる。事務所の仕事は、土地や建物、不動産税の対象となる機会の評価である。毎金曜午後はスポーツをする。障害はあるが、同僚に混じって参加できる。仕事をしていく上での唯一の問題は、行かなければならないところに行くという移動である。行きたいところに連れて行ってくれとよく同僚に頼む。できる限り自立して両親、兄弟、姉妹が一息つけるように彼らが手伝わねばならない量を最小限にしようとしている。
 障害者団体の長として、月2回は会員と会合するようにしている。彼らの問題を知り、会の問題を討議するためである。忙しいが毎月第2、第4金曜日に会合を召集している。聴覚、言語、視覚、精神障害のクラスをよく訪問する。我々が達成した主要プロジェクトのひとつは、科学技術省からの食肉加工の生計プロジェクトである。省からの機械と道具で食肉を加工し、実際に会員は利益を得られる。最近覚書書にサインし、現在機械を入れる建物を手に入れたら貸し出されるように省の地域事務所に機械と道具が準備されている。
 ある程度の困難にかかわらず、幸せで仕事に満足している。仕事は悲劇的事故によってもたらされた苦痛、退屈、気落ち、怒り全てを克服する助けとなった。事故により二人の命が奪われた。その一人は2歳の甥であった。母と兄も重傷を負い、私の足も切断され、私の人生も完全に変化した。骨折した足の治療のための9ヶ月に渡る入院がどんなに苦痛か退屈かを、誰も想像できなかった。医師が処方した薬が効かず、私の苦痛は単に長引いたようであった。18歳の誕生日は病院で祝った。同じ年頃のほとんどの女の子はデビューパーティをし「自立」に喝采をあげているのに、私は病院のベッドで祝っているので自己憐憫に陥っていた。傷の痛みに加えて、切断することを知ったボーイフレンドは離れていった。身体的苦痛と精神的苦悩によるもがきを中止しようと、何度自殺しようとしただろうか。事故前は、自分の町の祭りで美の女王であったし、大学時代にはミス人文学部に入賞した。自慢するわけではないが、美しい足と顔、しみのない肌は私の財産であり、それゆえに参加したどんな美人コンテストでも優勝した。左足を救うためにできることは何でもするからと両親は医者に懇願したが、それは無駄に終わった。1991年6月に整形外科専門医William P. Leonに率いられた米国の医師団がたまたまフィリピンに医療ミッションとしてきていた。彼らは重症の整形外科の患者を探していた。そのため彼らはDavao City Mission Hospitalを訪れ、私を発見した。彼らは専門家だから期待以上のことをしてくれ切断を免れるいいアイデアを持っているのではないかと考えた。さらなる後遺症を避ける唯一の方法は足の切断であり実際に命を救うことであることを彼らから聞き、ショックだった。とても受け入れられなくても、両親と私は医師たちの意見に負けた。切断後セラピーのため3週間病院にとどまったが、Leon医師はアメリカでは足を失っても生きていられれば切断は妨げではないと言って、私たちを慰めた。引き続き援助をしていくからと云ってくれたが、どのようなものなのかは私たちには分らなかった。1991年10月になって、ダバオ地域病院のYap担当医が私をさがし、カリフォルニアのグレンドラにあるFilipino Community Hospitalに私をよこすようにとのLeon医師からの手紙を受け取った。そのニュースを聞いたことは救いのサインであった。1992年2月に何が起こるのかわからないまま一人でフィリピンを発った。私は花とチョコレートを持ったアメリカの21人のフィリピン人医師の歓迎を受けた。私はフィリピン人とアメリカ人の医師の両方から丁重な扱いを受けた。総合的整形外科治療を受け、最後にファイバーグラスでできた最新式の義足が装着された。滞在中はLeon医師が養父となった。しかし残念ながら要求された7ヶ月のセラピーを完了できなかった。多分、初めて両親から離れたし、その時若すぎたので、私にとって孤独な滞米生活であった。
 普通のひとのように、努力してかなえたい夢がある。仕事場で臨時のUtility Workerをやってきた。雇用保障は不安定である。事務局長が辞めさせたければいつでも、私は再度失業する。いつか事務所で常勤職員とされるように祈っている。このことによって、娘はさらに明るい未来が保障される。会員に関しての夢もある。省からの生計援助をできるだけ早く実現させたく、そうすれば生活水準を確実に上げる食肉加工業を始められ、彼らがすでに社会の中心に統合されていると感じられる。障害を持っている誰かが普通の人たちに公正に平等に扱われ、政府のプログラムや手当てを平等に使えることも夢見ている。 
 自分の分野で多くの助けとなった障害関連問題に関して多くのことを学んできた。障害を持つことは成功への妨げではないとわかった。身体的、精神的、知覚的制限により他の人たちから遠ざけられている人々の生活を違うものとするために私はきっとモデルになれる。今私は彼らの団体のリーダーであるからには、さまざまな障害の人をどのように扱うかをすでに学び、それは私にとって有益であるとわかった。この団体に属しているので、我々が国内および外国で認められてきたからには特に自分たちの権利のために戦うため、障害者の権利についてもっと学ばねばならない。     (訳 中西由起子)

レナンテ・サルセド・ダバ
アンティケ障害者協会会長/土木技師
2001年度研修生


 障害は成功への妨げではない。完全で健康な人が普通の幸せな生産的生活をする妨げにもならない。
 昔は、私に多くの困難があったことは事実である。貧しい6人家族に生まれた。10歳のとき父が死んだ。母は病気がちで、他の生活手段を持たなかった。兄たちや妹は仕事がなかった。障害にもかかわらず、生きるために地元の市場で魚の干物を売り、小学校から高校までの勉学を支えるために少しは稼がねばならなかった。
 神の恵みを受け、私のことがNgoの関心を引き、障害者への資金支援団体に連絡してくれた。オランダのLiliane Foundationが奨学金の対象者としてくれた。土木工学で学士を取るよう大学の学費を出してくれた。悲しいことに卒業前に母が亡くなった。Liliane Foundationが薦めてくれた自分の県にある孤児院/障害者センターにとどまることを決めた。学費を払ってくれただけでなく、右足の補装具もくれた。そのときやっと、自分の仕事と責任を行うために楽に歩くことができた。
 卒業後、試験のための予習コースを受けた。受かるために努力や苦労があった。1ヶ月以内に自分の件の土木会社のひとつに職を得た。苦学生として兄弟を助けるために稼いでいたとき一緒に働いた大学の講師のおかげによる。
 私の人生に訪れた機会に感謝し、他者への責任に目ざめながら、私は障害者協会に時間を使おうと決意した。アンティケ障害者協会のメンバーとなり、4年後の2000年に副会長に選ばれた。1ヵ月後県の障害者協会連合が私をkampiの理事に選んだ。それは全国レベルで地区を代表する役職である。
 土木技師、自営業者として、仕事で現場に行かねばならない。足場を歩き、健常者ができる監督をするのが楽しい。これは私の最初の仕事である。フィリピンの国際建設会社でも働くことを夢見ている。そしたらもっと仕事について学び、腕を上げ、効率的、効果的になるの必要な専門知識を得るチャンスがもてる。国内の障害者団体に時間を続けてささげるつもりである。本当のニーズがある草の根で働くことである。障害者福祉を推進する期間の支援や援助をもっと受け、お返しに彼らが生産的で自己充足するようエンパワーする助けができる。仲間の障害者のおかげで     (訳 中西由起子)