私の人生物語   〜前編〜

                    ジバン・マハルジャン

 人生は雨期に絶え間なくビュウビュウと荒れ狂う嵐のようだ。人間の人生とはある2つに分かれる分岐点に差し掛かった時どちらに曲がれば幸せなのか苦しみなのか?私達には分からない。私の人生とはなんとも悲しみに満ちたものだ。喜びと悲しみが入り混ざった私の人生物語をここに記する。
 私は(*1)ビックラム暦2031年4月10日、実の父母の間に生まれた最初の子どもであった。私は初めての男の子であった為、親戚一同手を取り合って喜んだそうだ。私は今となっては盲人となってしまったが、生まれた当時私は健常者であった。しかし、私が気付いた時にはもうすでに私の目からは光を失っていた。私は今まで一度も光を見たことがない。今私の目からどの様にして光を失ってしまったかという事を自分では覚えていない。私の母親、父親から聞いたところによると私が生まれて2週間後、私の目が化膿し始めた。私の村では昔からの言い伝えで、赤ん坊が産まれてから3ヶ月間は病気になっても医者に見せに行ってはいけないというしきたりがある。もし、医者に見せに行くと神様が怒るという迷信を信じているのだ。そういった理由で私は医者にかかることができなかった。医者の代わりに両親は村の祈祷師の所に私を連れて行った。ちゃんとした治療を施さずお祈りをしていたという。最終的には何の治療もせず、私が産まれて1ヵ月半後私の目からは完全に光を失った。
 私は何もこの事を理解していなかった。家族がこの様な昔からの迷信を信じ、しきたりに従う事は間違ってはいないと思っていた。私はいつも外に遊びに行っていた。
その当時はどの様にして歩くのかという事もまだ分からず、私は手探りしながら歩いた。そうして歩いているとあちこちで躓いたり、頭を打ったりという事は日常茶飯事であった。私が変な歩き方をしているのを見て近所の人たちは私を見て笑ったり、からかったりした。今でもこの事を思い出すと嫌悪感が込み上げてくる、しかしどうしようもないのだ。色々な差別から耐え抜いていかなくてはならないこの人生を私は今でも歩き続けている。
 私が小さい時、落ち着きのない子どもだったようで石を拾っては遠くに投げては、うろちょろ、うろちょろしていた。そうして遊んでいると近くを通りかかった人によく当たった。その時、その人は僕に対して
「このめくら!目無し!」
などと言った。
 こうして私の両方の目は見えなくなってしまった。近所の人たちは色々な私の悪口を言い始めた。ある人は、
「あの子は生まれる時にする宗教行事をちゃんとしなかったから神さまがお怒りになったんだ。」
と言った。ある人は、
「あの子は前世では悪人だったんだよ。だから、現世で結果的にそうなってしまったんだ。」
など、色々な事を口にし始めた。私が産まれた時、両親は私の誕生をどれ程喜んでくれただろうか。私がこんなに(盲人)なってしまってどれだけ両親は傷ついた事なのだろう。
 自分の初めての子どもがこの様な状態になってしまったのを見て両親は失望しているようだった。それからというもの、私を皆は厄介者として扱うようになった。しかし、母親や父親は自分の息子がどんな事になっても自分の子どもに変わりないと苦労をして私を育ててくれた。こうして私が6歳の時、私の妹が生まれた。妹が生まれてからは母親や父親にも幸せの波が波打った。
 妹が生まれてからは家族全員が幸せだった。両親は当然の事、私も妹を愛した。その時期までは盲目であっても私に与える愛は何も不足はしていなかった。それもあって私の幼児時代は楽しい時間を過ごす事ができた。その後もビックラム暦2037年頃に私の弟も産まれた。弟の誕生も家族一同手を取り合って喜んだ。その後も私に対する行為は何も変わりなく服を着せたり、ご飯を食べさせたりという事に関しては全く不便はなかった。しかし、ある一方ではこんな事を両親はし始めた。家に知り合いが来ると私を家奥に隠したり、私を外に出さずに家に置いたり、誰かが私の事を尋ねると口を硬くしたりするのであった。私にはただ単に服を着せたり、ご飯を食べさせたりするだけでそれ以外の事は何も私にさせてくれなかった。
 そしてある日の事、私が家の庭に出て座っていた。そこにある石を掴み放り投げていると近くを通りかかった小さな子どもの頭に石が当たってしまった。子どもは大声で泣き叫んだ。その声を聞いてその子どもの親が駆けつけてきた。そして、子どもの親は私を叱りつけ私の母親の所へ私を連れて行った。私の母親はその事を聞き激怒し、私を何回も何回も激しく引っ叩いた。なんとも口の悪い言葉で私を叱った。その時、私は思った。
(僕はなんと最悪な家庭に産まれたんだろうか?僕はこんな家庭なんかに生まれなかった方が良かったのに!)
私は何時間も泣き続けた。その日は私にご飯も与えないまま私を寝かせた。そして次の日、母親は私を連れて叔父の家へ預けに行った。私の母親には兄弟がいない為、私のおじいさんが私を育ててくれた。
 それからというもの私は一人ぼっちになった。その当時、私の心ではこんな事を思っていた。
(僕なんかもう死んでもいいんじゃないか?家庭内でも色々な事で私にえこひいきをし、社会では私は差別する。この地球上で僕が厄介物として扱われるのであれば、生きているよりもいっそのこと死んでしまった方がいいんじゃないか?)
しかし、私のもう一つの心がこう言うのだ。
(死んでどうなるというんだ?君は死んではいけない。もし、生きていれば君はこの社会を変える事だってできるかも知れないんだよ。何かこの社会を変えるような事を君が見せ付けてやればいいんだよ。)
こういった事を一日中考えながら時間が過ぎていった。そんな時間を過ごすのが私はとても辛かった為、女性作業員が働くカーペット工場によく足を運び、歌を歌ったり作業員達と話をしたりして時間を過ごすようになった。私の趣味は歌を歌う事であるが、小さい頃から歌を歌うのが好きであった。それもあって、私は歌を上手に歌う事ができる。
 こうして長い時間が流れていった。


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私の人生物語   〜後編〜


 そして、ネパール暦2038年にサイブー村のコカナ交差点付近に一つの学校が開設された。近所の友達は皆その学校に入学し、通い始めた。ある日、私は友達とともにその学校に行った。その学校の校長先生が私を見ると近くに来られ、私の事についての質問をし始めた。私もその質問の答えを返した。そして、校長先生は私に言われた。「それじゃ、今はここに座って勉強しなさい。そして勉強が少しずつ分かってきたら君のような人達(盲人)が勉強する学校を紹介してあげるね。」そして、私は「はい、分かりました。」と言って指定された席に座り勉強を始めた。その当時、この学校には今の様な点字で勉強するといった設備がなかった。ただ、教室に皆と一緒に座り話を聞くことしか出来なかった。その他には何もする事ができなかった。
 こうして、私は毎日、毎日学校に通うようになった。家ではおじいさんがいつも私に「学校なんかに行かなくてもいいんだよ。お前がどうやって勉強するんだよ?」と言われていたが、私はそう言われてでも学校に通った。学校に通い、ただ座っているだけでも私は色々な事を勉強する事ができた。新しいネパール語の単語も覚える事ができた。そして、ある日、校長先生は私の両親に盲人でも勉強が出来る学校へ通わせてはどうかと話を持ち出したが、私の両親は賛同しなかった。その日、校長先生は一日中私の両親を説得しようと試みてくれたのだが、私の親はその話を直接拒否する事ができず、「分かりました。考えてみましょう。」と言ってその日は家に帰った。家に戻り両親は私の事について話を始めた。そして、最終的には私を校長先生が言われていた盲人の為の学校には通わさずに家に置いておくことに話はまとまった。私はこのことを聞いてとても悲しかった。私は一人部屋に閉じこもり考えた。(何?目が見えないというだけで勉強する権利がないのか?教育を受ける権利っていうのは健常者だけのものなのか?)こう考えているうちに一日があっという間に過ぎていった。翌日、私は学校に行った。校長先生は私に尋ねた。「昨日の話はどうなったの?」私は昨日の家での話、校長先生が紹介した盲人の為の学校に通わせない事を話すと、校長先生はこう言われた。「それじゃ、もう明日から学校に来なくていいよ。ここでは、ただ座って話を聞くだけだもの。なぜここに来る必要があるの?」私はこの事を聞きとても悲しくなり家に戻った。それからは学校にも通わず家にいるようになった。そして、時々このような自分の生活に嫌気が差してきた。私はよく考えた。(僕の生涯とはこんなものだ。ただ単に時間が過ぎていく。一生で僕は何も出来ないんだ。)こうして時間が流れた。
 ネパール暦2048年頃、同じ村人の一人プレム・パクタさんが盲人福祉協会で働いておられた。ある日、プレタ・パクタさんは私に何かできないかと私の家を訪ねてきてくれた。彼は色々と私の事について質問をされた。私はその質問に答えた。彼は私にこういう質問もされた。「君は何がしたいんだね?」「僕に一体何ができるんでしょうか?」「君は本を読むことができる。何でもする事ができるよ。」「それじゃ、僕は勉強したいんです。」「よし、それじゃ分かった。君が勉強できるように努力してみるよ。」こう言って、彼は私と約束をしてくれた。その時、私はとても嬉しかった。その日彼はそれだけを言って帰ってしまった。この日から私の頭の中は、学校で勉強することだけでいっぱいだった。そしてネパール暦2048年(*3)ファグン月24日(*4)レインボークラブ(盲人支援のNGO)の一人の会員とプレタ・パクタさんが私の家に来られた。その日、彼らは私を(*5)アダルサ・ソウル・ユバック小学校で勉強させる話をされた。それを聞いて私は喜びの領域を越えたみたいだった。その学校に私はネパール暦2048年(*6)チャイットラ月16日入学した。その学校にはレインボークラブからの援助で私が勉強する為の道具や教科書が送られてきていた。そのレインボークラブからビッダヤ・ダイバさんが学校にダヤラム先生を含めた学校の先生に点字の研修をする為に来られた。初めの1年間は学校の事務所で点字を学んだ。点字がすべて読み書きできるようになると、ダヤラム先生は一気に小学4年生に飛び級させてくれた。それから、私は一生懸命勉強をした。学校で勉強した事で理解が出来なかったところはダヤラム先生に質問しにいった。一生懸命勉強した成果もあり、毎年度、学年末試験にも順調に合格していった。そして、高学年になった。毎年度、何かといろいろな問題が出てきたが、自分でその問題を解決してきた。
 しかし、私が8年生になった時、大きな問題が立ちはだかった。その時、もう勉強をやめてしまわないといけないかも知れないという様な状況に立たされた。それは何故かというと、この年ネパール政府は教育課程方針を変え教科書も全て古い教科書から新しい教科書に取り換えてしまったのだ。突然の事でどこからも点字で書かれた新しい教科書は学校には届かなかった。教科書が届かないので新しい教科書を点字に直す作業を学校でしなければならなかった。その時、ダヤラム先生が新しい教科書を全て点字に直す作業をしてくれた。(*4)ダヤラム先生は名前が「ダヤラム」だけでなく性格もやさしくて親切な人だ。彼はこんな困難な状況でも気落ちせず勉強を教えてくれた。でも、その様なダヤラム先生の努力がその当時、僕には分からなかった。ダヤラム先生が努力をしてくれているその反面、僕は先生に嘘をついて騙すような事もした。というのは、そうせざるを得なかったのだ。何故かというとその当時、私には勉強をする為の文房具が不足していたのだ。この文房具の不足で宿題ができなかった事があった。宿題をしないで学校に持って行くとダヤラム先生は「何故宿題をしてこなかった?」と私を叱った。一方では両親に「文房具を買う為にお金が必要だから・・・」とお金を要求しても、両親は私にお金をくれない。また、一方では「勉強を何故してこない。」とダヤラム先生は私を叱る。こうしてダヤラム先生の説教から逃れるために私は様々な言い訳をしてダヤラム先生に嘘をついた。こうしてダヤラム先生に嘘をついても、時々その嘘を見破られてしまう事もあった。先生は嘘をついている事は分かっていたらしい。私が嘘をついて学校に行かなかった日にはダヤラム先生はわざわざ私の家まで家庭訪問をしに来てくれた。私にも勿論のこと叱ったが、私の両親にも何度も何度も私の事を言い聞かせてくれた。しかし、私の両親はダヤラム先生の助言を右の耳で聞いて、左の耳から抜かした。このような色々な理由もあり、私は勉強を段々としなくなってきた。しかし、ダヤラム先生には私に何としてでも勉強させようと色々な方法で勉強を教えてくれた。ダヤラム先生の努力が実り、私はネパール暦2056年の(*7)SLC(大学入学資格国家試験)の2次試験に合格する事ができた。
 キャンパスに通うために頑張ったのだが水の泡となって流れてしまった。試験に合格したその年、私はキャンパスに入学する事ができなかった。試験に合格はしたものの、両親の理解が得られずに、キャンパスに入学するお金を出してもらうことが出来なくて、現在はボランティアという形でブグマティ村にある(*8)「障害者支援協会」で電話番の仕事をしている。今でもキャンパスで勉強する為に色々な努力をしている。勉強をして将来、成功するのかしないのかという事は分からない。私の家族の障害者に対する誤った考え方で私は大変苦労し悩んできた。今でも家族の考えと私の考え方の違いで私は悩んでいる。私はどれだけ悩まないといけないのだろうか?それは未来だけが知っているのだ。私が歩んだ悲しみの道を私よりも後に生まれた障害者の方たち誰一人歩まないように、そして私が受けた苦しみをもう二度と他の障害者の方たちに体験させないようにと、私は神にお願いする。


障害児教室で教えるジバン君


小学校の隣りにある障害者ホステル


ジバン君と教え子たち


障害児教室の明るい子どもたち

写真提供 和田雅行さん


障害児の世話をしているスタッフ

 私は色々な苦しみに耐え抜いて小・中学校を卒業した。しかし、私は何が一番悲しいかと言うとSLCに合格してもまだ家族が私を認めてくれない事だ。高等教育を受けるためにキャンパスに行きたいと私は家族に相談したが、家からはお金を出してはくれなかった。私は父親に何度も何度も説得をさせた。しかし、全て無駄に終わった。反対に父親は包丁で私の心を突き刺すような言葉で私にこう言った。
 「お前なんかにお金を出して勉強をさすのは、川岸に洗濯物を干すようなもんだ。無駄なんだよ。お前が勉強して最終的に何が出来るってんだ?もう中学生まで勉強したんだからもう十分だろうよ。もういいじゃないか!もう勉強なんてやめちまえ!」しかし、私は頑固にも父親に説得をし続けた。私はできる限り父親を分からせようと努力した。
 最後にお願いをする。私達を障害者だといって見下すような事はしないで欲しい。もし皆の前で話す機会があるのなら私達障害者もあなたと一緒の国民なのだと言いたい。教育を受けるというのは、ネパール全国民の権利であり、障害者は教育を受けられないという事はない。健常者だけが教育の権利を持っているのではない。障害者も同じ人間であり、同じ国民であり、同じ権利がある。障害者にも高等教育を受けられる機会をもっと与えて欲しい。私達障害者も高等教育を受け国の発展の為、社会の為に何か手助けをする事が出来る。だから、障害者を見下すのはやめて愛そうじゃないか。障害者に施しをあげるのではなく教育を・・・・

                    終わり

(*9)その後、本人の説得により両親の理解が得られ就学にかかる費用の半分を両親が、残りを「ブンガマティ・パサ協力会」を通じて北海道の谷口さんご夫妻からのご支援で今年(2002年)の1月からキャンパスで勉強をしています。


 
註)
*1  ビックラマ・ディティア王によって導入され、その名にちなんで呼ばれている暦で、紀元前57年から始まり今現在でもネパールでは使われている太陽太陰暦。現在ビックラム暦は2059年である。(西暦2002年4月現在)ビックラム暦の新年は西暦4月14日からである。
*2  盲人支援協会の名称
*4  ファグン月は太陽暦11月
*3  ブングマティ村にある1年生〜5年生までの国立小学校の名前
*5  チャイットラ月は12月
*6  ダヤラムという名前の意味は、ネパール語で「ダヤ」(思いやりの心、親切な行い、いたわり)、「ラム」(ヒンドゥー教の神様の名前)である。ブンガマティ村で16年間小学校教員をしながら、余暇時間の殆どを障害者の支援のためのボランティア活動に費やしている。12年前から彼が取り組んでいる障害者支援活動を彼の教え子たちが支えている。地道な彼の活動と人柄はブグマティ村の人々にも認められている。
*7  全国共通学力試験(この試験に合格すれば高校に入学する事ができる。日本でいうセンター試験のようなもの。)
*8  ネパール語で「アパンガ・セワ・サン(障害者支援協会)」は、ダヤラム氏によって5年前に設立された。地域に住む障害者の生活向上に向けてさまざまな活動を展開している。事務局のメンバー9人のうち6人は障害をもっている。
*9  今年大学入学を果たした (和田雅行氏の2002年 3月 15日 のメールでの報告)

点字をネパール語訳   ダヤラム・マハルジャン氏
ネパール語を日本語訳  松枝千富(ゆきひさ)氏  (須賀 誠氏ネパール活動経過報告 の友人)


資料提供 JANNET和田雅行氏 2002年 3月 29日
前半は、「ブンガマティ・パサ協力会※」の会報第1号、後半は第2号(2002年8月25日発行)「ブンガマティ・パサ協力会」に掲載。
※旧ネパール友の会(パサクラブ)

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ジバン・マハラジャンくんの近況 
須賀 誠


会報1号、2号で紹介しました「私の人生物語」の執筆者、ジバンくんはその後支援者がみつかり、昨年までサノティミ・キャンパスで勉強をしていましたが、キャンパスで知り合った女性とめでたく結婚となりました。その為キャンパスは残念なことですが中退せざるを得なくなりました。彼自身、随分迷ったようですが、生活の基盤を作る為にと、障害者職業訓練センターでのトレーニングを選び、いまはそこでコンピューターを勉強しています。それと平行して、盲人協会からの奨学金を受けて音楽学校でタブラ(ネパールの民族楽器)のレッスンを受けています。こちらの方もうまくいけば、音楽で生計を立てることもできるでしょう。2月には子共も生まれ、一児の父親となったジーバンくん。家族の為に頑張ってほしいものです。

ブンガマティ・パサ協力会会報 第3号(2003年8月25日発行)より