アジアに自立生活運動を

高齢者を含む全身性障害者の介助サ−ビスでの能力強化の方法に関する
第一回アジア太平洋ワ−クショップ
報告書

アジア・ディスアビリティ・インスティテート
(ADI)
1995


目次

はじめに

自立生活技能プログラム
1、自立生活技能プログラムの特色
2、プログラム内容
3、プログラムの進め方

第二章 英語版自立生活技能マニュアル
1、英語版自立生活技能プログラムマニュアルの目的
2 マニュアル完成までの経緯

第三章 自立生活ワークショップの開催
1、ワ−クショップの企画
2、フィリピンでワ−クショップの開催
3 ワークショップ参加者
4 ワークショップの内容
5、ミニ・ドラマの内容
6、オープン・フォーラムの地元の参加者のプロフィール
7、ワークショップのプログラム
8、バコロッド決議

第四章 ワークショップ参加者の自立生活

2 トポン・クンカンチット(TOPONG KULKHANCHIT )
3 アルビン・ガトボントン(Albin Gaboton)
4 ベン・クラブデリア(Ben Clavderlia)
5 モイゼス・ディアス(Moises Diaz )
6 ビルギリリオ・カプナン(Mr.Virgilio Kapunam )
7 ミンダ・ソリアガ(Ms. Minda Soriaga )

第五章 アジアでの自立生活運動の展望

参考文献


はじめに

 
 アジア・ディスアビリティ・インスティテート(ADI)は1990年に作られた、障害当事者の世界団体DPI(障害者インターナショナル)のネットワークを通してアジアの障害者の自立を促進するための援助や、そのために必要な国内の環境を整えるためにアジアの障害者問題に関する啓発、研究を行うこと目的としている。
 
 その活動の一つが、アジアの障害者の間に自立生活運動を広めることである。そのため名古屋の車椅子センター、カトリック障害者連絡協議会、八王子のヒューマンケア協会を初めとする日本の自立生活センターの協力を得て、日本の障害者の自立生活を研修してもらうプログラムを1990年の設立時から実施してきた。すでにタイやフィリピンの障害者を中心に30人近くの身体障害や視覚障害を持つ障害者の自助運動リーダーの候補生達が日本を訪れている。
 
 研修終了生の数が増えるにつれ、フィリピンやタイかもっと自立生活運動について学びたいとの希望がだされ、スウェーデンのSTIL とヒューマンケア協会が全体の構想と資金面の協力を行い、フィリピンのKAMPI がロジスチックな面を担当し、ADIのコーディネーションのもと、このアジアで初の自立生活に関するワークショップが実現の運びとなった。
 
 すでにマニラの障害者を中心にフィリピン・ヒューマンケアが設立されるなど、思いもかけなかった事態も展開され、初期の目的であった自立生活の哲学の普及と言う点では大いに成果が上がったと確信している。またこのワークショップに触発されて、アジア型の自立生活の哲学を作る動きもでてきた。今後もいろいろな場を通して、アジアでの自立生活運動発展のために協力していきたい。

                    アジア・ディスアビリティ・インスティテート(ADI)
                              代表
                               中西 由起子

第一章 自立生活技能プログラム

1、自立生活技能プログラムの特色

 1989年に日本で最初に作られた自立生活センターであるヒュ−マンケア協会が発行した「自立生活プログラム・マニュアル」は、自立生活のノウハウを紹介したものとして二年間で二千部が出つくす程国内では受け入れられた。その後各地に設立された自立生活センターは、ヒューマンケアのマニュアルを基にプログラムを実施し、多くの障害者、特に重度の身体障害者の自立への道を開いた。またアルコール患者の人たちの自助活動にも、そのピア・カウンセリングの手法などは大いに影響を与えた。

 その特色は、次のような点にある。
○障害者自身が運営する、障害者自身のプログラムを意図したこと
 体験し克服してきた日常生活での知恵や文化を次の世代の障害者に伝える障害者自身は、社会的リハビリテ−ションの専門家であるという認識にたってプログラムは作られた。
○精神的自立を含めた総合的プログラムを目指したこと
 自立の要素として最も重要なのが自己受容や自己確立であることを踏まえ、生活技術訓練のほかに、プログラム全体にわたり精神的な面が強調されている。たとえけなされたり、差別されたりしなくても、褒められたり頼られる経験の少なかった障害者に自信をもって生きることができるよう自己開放を促し、長所を強調して自己意欲を育てるように配慮した。
○経験者の立場から自立の筋道を系統立てて構成したこと
 各章の冒頭で、その章の自立における位置や意味を明確にし、その問題点の除去や対応に着実に取り組めるように構成した。
○参加者とリ−ダ−となるピア・カウンセラ−との関係が対等であること。
 参加者が様々なことを学び、啓発されると同時に、リ−ド役となるピア・カウンセラ−も自らの自立できていない面に目覚めることもあり、それが次回のプログラムに反映され、深められる。プログラムは参加者とのフィ−ルドバックを重ねる中から常に革新され、完成された固定的なものではない。ピア・カウンセラ−にも自己変革を迫りる、流動的かつ新鮮さに溢れたものである。
○いい気味でのグル−プ内での競い合いによって自立を促進すること。
 プログラムの対象は、自立の度合い、年金、社会経験の差があまりない、障害者五〜八人のグル−プである。グル−プの利点は、目標の達成を競争できること、ロ−ルプレイや話合いなどで互いの経験の分かち合いができ、経験量を増やせること、一人では出来にくい練習(例えば、道で他人に介助を依頼する)がやりやすいことなどがある。

2、プログラム内容

 プログラムは十項目から構成されている。
○目標設定     −プログラムでの目標、自立生活に向けての目標
○自己認知     −障害の受容、障害と社会との関係
○健康管理と緊急事態−障害の知識、緊急事態の対処、健康的生活
○介助       −介助のニ−ド、介助者の獲得、介助者との人間関係
○家族関係     −関係の見直し、自立生活と家族、家族との理想的関係
○金銭管理     −収入と支出の把握、計画的支出、消費生活の問題解決
○居住       −住居に関する価値観、情報の取得、不動産屋回り、改造と増築
○献立と買い物と調理−食事の意味、献立、買い物
○性        −セクシャル・ヒストリ−、性のイメ−ジと価値観、性の知識、性的コンプレックス
○社交と情報    −興味と関心の確認と社交イメ−ジの拡大、社交の場の拡大、社交技能の向上

3、プログラムの進め方

 ピア・カウンセラ−が推進役、助言者となって、施設や作業所、または地域での自立を目指す仲間たち数名がクラスを編成する。
 参加者は自分の自立生活の度合いを計るIL受講表および自己評価表に記入して、カウンセラ−が一対一で行うインテイク・プログラムを受ける。上記の十項目のうち希望の多いものから順番にプログラムが編成される。普通三〜四ヵ月かけて週一回、十二〜十五回のクラスで一つのプログラムが完了する。二〜三回で終わるような短いプログラムもある。

 実施の際に、ピア・カウンセラ−は、思いがけない方向に話が進展したり重要な問題提起があるのが常であるので、適切な対応や激励、共感をしていくために、会話の流れや感情に惑わされずに、冷静にプログラムの進行を援助する。一回目のクラス終了後に、カウンセラ−はクラスの運営に関して自己評価を行い、次回のクラスに反映させる。
 参加者は三〜四ヵ月のプログラムの第一回目に、一人だけで外出する、金銭管理の方法を学ぶなど、最終回までの個別の目標をたてる。目標設定により、自己の能力を確信できるようになる。
 プログラム終了の際は参加者はインテ−ク・プログラムで使用した自己評価表に再度記入する。自分が受講前とどう変わったか、プログラムは有効であるかを確認するためである。 参加者の障害や社会経験に応じて、省略するプログラム、追加したいプログラムが出てくる。地域性、障害者グル−プの特性にあわせて、バリエ−ションを広げていくことが可能である。ピア・カウンセラ−はフィ−ルド・トリップ(野外学習)やパ−ティも適宜組み入れて、楽しく参加できるように進められる。 新クラスの編成時の第一回目には、クラス内の仲間意識作りに主眼が置かれる。プログラムの成果は、参加者同士の信頼感の有無によるところが大であるからである。

 ピア・カウンセラ−は、自分の価値観を決して押しつけず、相手の立場にたって考える。それぞれの生き方が個性的であり、それを尊重しあうことから豊かな社会が築かれるわけであるから、カウンセラ−とクライアントといった一方的な関係を目指すのではなく、互いに学び合う姿勢でプログラムが進められる。自己の努力で内面の改革を計っていこうとする障害を持つ仲間の傍らにいて、力づけ励ますのが、ピア・カウンセラ−の役割である。

第二章 英語版自立生活技能マニュアル

1、英語版自立生活技能プログラムマニュアルの目的

 1989年ヒュ−マンケア協会が発刊した「自立生活プログラム・マニュアル」は、自立生活のノウハウを紹介したものとして二年間で二千部が出つくす程国内で≪≪ 索引がここに生成されます ≫≫
は受け入れられた。研修のため来日したアジアの障害者からも、いつもその翻訳版を求められた。
 わが国の自立生活運動はかって欧米から多くを学び、また障害者リ−ダ−たちも惜しまず助言や支援をしてくれた。筆者自身も自立生活センタ−を始める前に米国で研修を行った時、彼らは宿舎、交通手段、通訳までも提供してくれ、親身になって協力してくれた。
 
 今アジア各国に英文のマニュアルを提供することは、彼らの根本的な自立生活の理念づくりに寄与することであり、我々の受けた協力への形を代えた御礼になるとも考えた。特に施設の十分でない国においてはCBR(地域に根ざしたリハビリテ−ション)で地域レベルでの自立が目指され、日本の地域ケアの先取りをしている面もある。わが国の施設中心主義は今地域ケアに移行しようとする際の大きな阻害要因となっていることから、アジア諸国で同じ過ちがくり返されてはならないと考えた。自立生活の理念を知ることはそのための大きな支えとなるはずである。

2 マニュアル完成までの経緯

 1992年、赤十字語学奉仕団とキャサリン・トンプソン、河野アデラ(日本在住の元KAMPI役員)などの協力を得て翻訳に着手し、十数回の校正を経て下版が完成した。この間に、介助者の訳語として使っていたATTENDANT が英語圏では付き人を指すとして嫌われ、PERSONAL ASSISTANCEという障害者の主体性をより尊重する言葉に変化してきており、訳語すべてを入れ替えねばならないというエピソ−ドもあった。2年間の時間と20数名の協力で、財団の助成を得てマニュアルは完成した。実に、フィリピンンでの自立生活のワ−クショップが開催される2週間前であった。

第三章 自立生活ワークショップの開催

1、ワ−クショップの企画

 1992年11月北京でDPI(障害者インタ−ナショナル)アジア太平洋ブロック総会が開かれた。そこでスピ−カ−として参加していたスウェ−デンのSTIL(ストックホルム自立生活共同組合)のアドルフ・ラツカの呼びかけで、オ−ロラ・エストレ−ラ(KAMPI=フィリピン障害者連合会長)と筆者が話し合い、自立生活運動をアジアに広める行動を起こすことが同意された。そのためにKAMPIが主催者となり、STILがスウェ−デン政府のODA資金を申請し、ヒュ−マンケア協会が講師を派遣することが早速決まった。
 1993年3月、アドルフよりSIDA(スウェ−デンの対外援助機関)の資金が取れてフィリピンで1月開催の目途がついた知らせがあり、「開発途上国における高齢者を初めとする重度障害者の介助サ−ビスにおける能力強化の方法に関するワ−クショップ」と題するプログラム試案が送られてきた。介助サ−ビスが主題となるとアジアでは特に上流階級以外は介助者を雇えないことから論議が難しいのではないかと指摘し、自立生活技能プログラムの英語版見本を送ってワ−クショップで使いたい意向を伝えた。

 開催まで10日程に迫った年末に、突然アドルフが参加不可能になっと電話してきた。は納得できる理由がそこにあった。養子を欲しがっていたアドルフ夫妻は、障害ゆえに養子を取れないとの行政決定に対して裁判を起こし、やっと勝訴した。コスタリカから養子をもらうことになり、新生児の誕生を現地で迎えるためワ−クショップの参加を見送らざるをえないとのことであった。
 急な事態に、すべて日本側だけでプログラムを作成することになった。アドルフはマニュアは申し分ない内容であると称賛し、それに沿ってのワ−クショップの運営を勧めた。新プログラムの焦点は、介助を含む自立生活全般に移った。

2、フィリピンでワ−クショップの開催

名称 高齢者を含む全身性障害者(persons with extensive disabilities )の介助サ−   ビスでの能力強化の方法に関する第一回アジア太平洋ワ−クショップ
共催 KAMPI(フィリピン障害者連合)
   ヒュ−マンケア協会
協力 STIL(スットクホルム自立生活協同組合)
   ADI(アジア・ディスアビリティ・インスティテ−ト)
後援 SIDA(スウェ−デン国際開発機関)
   PSF(フィリピン大統領社会基金)
   PAGCOR(フィリピンゲ−ム遊技協会)
   バコロッド市
   ネグロス・オクシデンタル県
日時 1994年1月10日〜14日
場所 ネグロス.オクシデンタル県バコロッド市コンベンション・プラザ・ホテル

3 ワークショップ参加者

タイ      トポン・クンカンチット(男性・頸損)タイ身体障害者協会 
           1960年5月28日生まれ
        ピソット・ロドテスト(男性・トポンの介助者)タイ退役軍人病院
           1957年4月5日生まれ
バングラディシ マダ−ブ・カングサ・バニク(男性・頸損)脊髄損傷者リハビリテ−ション・センタ−
           1960年4月11日生まれ
        モハメッド・イクバル・ホサイン(男性・マタ−ブの介助者)脊髄損傷者リハビリテ−ション・センタ−
フィリピン   ベン・クラブベリア(男性・頸損)KAMPIナガ支部
           1956年1月8日生まれ
        ラケル・クラベリア(女性・ベンの妻)
           1956年12月17日生まれ
        ピ−ウィ−・カプナン(男性・CP)KAMPI・CP協会
           1946年6月10日生まれ
        リチャ−ド・ダバ−ル(男性・ピ−ウィ−の介助者)
           1975年12月5日生まれ
        アルビン・ガトボントン(男性・頸損)KAMPIケゾン支部会員
           1965年1月18日生まれ
        コニ−・ガトボントン(女性・アルビンの妻)
           1962年11月15日生まれ
        ミンダ・ソリアガ(女性・頸損)HACI(KAMPIセブ支部)役員
           1940年12月7日生まれ
        レミ−・ジュマオアス(女性・ミンダの介助者)
           1954年9月15日生まれ
        モイセス・ディアス(男性・多発性硬化症/頸損)フィリピン車椅子と障害者協会会長
           1929年9月7日生まれ
        ロゼンド・カルデネス(男性・モイセスの昼の介助者)1974年8月31日生まれ
        エドガ−・アベラ(男性・モイセスの夜の介助者)
        ロランド・ボ−イ・ティロル(男性・脊損)HACI(KAMPIセブ支部)副会長
           1957年8月6日生まれ
   
事務局(進行) オ−ロラ・ベビ−・エストレラ−(女性・多発性硬化症)KAMPI
           1945年10月8日生まれ
   (書記) エレナ・サモンテ(女性)国立フィリピン大学心理学科教授
           1960年7月19日生まれ
   (進行助手)ラモン・オリベロス(男性)KAMPIボランティア
           1961年11月21日生まれ
   (書記助手)ルシレ・ロンダ(女性)KAMPIボランティア
           1951年9月19日生まれ

日本からの参加者
 講師       中西正司(頚損)ヒュ−マンケア協会
 事務局(進行)  中西由起子(ポリオ)アジア・ディスアビリティ・インスティテ−ト
 参加者      小川喜道 神奈川リハビリ−ション事業団
          源内幸雄 中西正司介助者

4 ワークショップの内容

 1月8日気温35度のネグロス島バコロッド市に着いた。0度の東京を発ち4時間後にマニラで中型機に乗り換え、1時間かかった。空港ごとにワ−クショップの開催を告げる垂れ幕が飾られ、気分は盛り上がっていた。翌九日からは、参加者が続々と到着し始めた。

 バングラディシやタイの頚髄損傷の男性、フィリピンの呼吸器障害もあわせ持つ男性等の重度障害者に加え、6名の介助を必要とする車椅子利用者の障害者と彼らの介助者が参加した。介助者を含めて20人程の小集団でワ−クショップが行われたため、親密な関係が築けた。

 基調講演で、自立生活運動の理念と自立生活センタ−のサ−ビスについて述べ基本的な概念の理解を深めたあと、ロ−ルプレイを行った。マニュアル所載の介助者とのトラブル事例集を使って、約束の時間に来ない介助者にいかに対応するかを演じて貰いながら、自立生活プログラムの運営方法を学んでいった。各国の代表とも同様の問題を抱えているため、自分の事例でやりたいという参加者には実演してもらった。

 ケ−ス・スタディとして2日間にわたり半日づつ、10名の参加者が自分自身の自立生活と介助者との関係についてスライド、OHPなどを使って語った。

 家族の問題を取り上げたセッションでは2グル−プに分かれ、保護的な家族の中から結婚して自立したい障害者のミニドラマを試みた。家族、特に親からの自立についてのアジア共通の問題が、その後討議された。

 参加者の経済状態(草の根のレベルであること)や障害程度(介助を必要とする全身性障害者)に条件をつけたために、地元の障害者はほとんど参加できなかった。それ故、障害者宅の訪問と彼らと自由に討議できるオ−プン・フォ−ラムをプログラムの中に入れた。何人かの自宅を訪問した後、オ−プン・フォ−ラで円形に座席を並べて、ワ−クショップ参加者が体験談を発表して地元の障害者から質問を受けた。

5、ミニ・ドラマの内容

 自立生活プログラム・マニュアル(38〜39頁)を使って2グループに分かれて演じられた。
 登場人物 ー主人公A子、その父、母、姉、弟、
状況 ー 主人公A子派、脳性マヒの障害者。養護学校の中等部を卒業してから、地域の作業所に週2回通っている。最近、そこで知り合った同じ障害を持つ青年と一緒に暮らしていきたいと考えるようになった。夕食の時に家族にその気持ちを伝える。
A子 ー あの、話があるんだけど、お母さん、B夫さん、知ってるでしょ、私と同じ作業所に来ている..... 。
  ー ああ、あの、足で電動車椅子動かす人ね。たしか××町の方から来てるって言ってたわね。
A子 ー そうそう。それで、その人とね、去年の一泊旅行で、夕食の後にみんなでお茶飲みながらずいぶん、ゆっくりと話したんだけどそれ以来仲良くなって、この頃は、一緒に暮らそうかとお互いにおもっているの。それで.....。
  ー (ごはんを食べていたところをぐっと詰まって)何を夢物語、言っているんだ。御飯をちゃんと食べろ!
  ー (あきれながら)全くですよ。何言ってるの自分のことだって満足にできないのに。
A子 ー (すでに涙ぐみそうになりながら)待ってよ、そういう言いかたってひどい。私は真剣に彼と話し合っているのよ。
  ー ちょっと待って、A子。私がもうすぐ結婚するの知ってて、そんな面倒な話、今、持ちださないでよ。それでなくても、お母さんやお父さん、大変なんだから。
  ー そうだよ、おねえちゃんの身にもなってやれよ。
A子 ー ひどいよ、まだ何もほとんど話させてくれないじゃない。もう、ご飯なんていい。
  ー まあ、まあ、急におかしなこと言い出すからみんな驚いているのよ。ご飯だけはちゃんと食べなさい。
A子 ー おかしなことって何よ。私が彼と暮らしたいってことのどこがお菓子の世。おねえちゃんだって、好きな人と結婚したいと思ってるんでしょ。何で私だけがおかしいのよ。もっとちゃんと聞いて。
  ー お姉ちゃんは働いてもいる。自分で働けて、それで結婚ということになるんだ。おまえのように車椅子で一緒になるなんていったら、人にどれだけの迷惑がかかるか知ってるのか。ふざけるのもいい加減にしろ。
  ー 結婚なんて、そんな易しいことじゃないのよ。
A子 ー 私はすぐ結婚するなんていってないわ。一緒に暮らせたらいいなって思ってるとと、そう言ってるだけ。とにかくいつまでも、二人とも親元にいられるとも、いたいとも思ってないの。
  ー 親のどこが嫌いなんですか。親だからこそここまで一緒に暮らせるのよ。
  ー そうだよ、他人だったらもうとっくに放り出してるぜ。
A子 ー 黙ってて、○男。貴方は何も知らないんだから。私が手や足が思うように使えないことがどんなに大変か知らないんだから、黙ってて。
  ー ちぇっ、何だよ。だったら、飯の時間におかしなこと言うなよ。飯がまずくなるよ。
  ー A子の気持ちだってまるっきりわからない訳ではないけれど、こんな大事なときに軽々しく言うのはがわるいのよ。
A子 ー 軽々敷くってどういうことよ。私は真剣よ。皆に私の気持ちを知って欲しいし、受け止めて欲しいのよ。
  ー とにかくそんな話はなしだ。お母さんがおまえの世話で疲れ切らないうちに、おまえが嫌な思いをしないような施設をだんだん捜そうと思っているんだ。それまではここにいていい。だから何も心配しないでいいんだ。
A子 ー ここにいていいて、どういうこと?私ずっとここにいていいとなんて思っていない。施設なんてどんないい施設だって、施設は施設よ。絶対いやよ。ワアー(といって泣き伏す。)
母、姉、弟 ー (シーンとしてしまう。)
父だけ黙々と御飯を食べている......。

 
6、オープン・フォーラムの地元の参加者のプロフィール

 ロドルフォ・アバラジェン(Mr. Rodolfo A. Abalajen )は42才で、国際貨物船の船員として世界をまわり、日本にも滞在したことがある。1988年に脊髄損傷となり、マニラでリハビリテ−ションを受けた。NORFIから事業資金を借り、定期的に訪問してくれるスタッフに指導を受けて、バコロド市内で家族と一緒に装飾用のバラなどの花や鑑賞用植物を育てはじめた。造園業をは成功し、道路の向かい側の土地も借りて事業を拡大した。フィリピンの交通手段であるトライスクル(後部に2・3人乗せて走れるように改造した自転車タクシ−)も運転手を数人雇っての営業し、トライスクル事業者協会の会長としても活躍している。また学校に近い場所柄をいかして、運転手と学生のためのキャンティ−ン(ジュ−スやスナックを売る店)を自宅の一部に開業している。肢体障害者の会の会長も勤めるなど忙しい毎日を送っている。以前は自ら障害者に対する偏見をいだいていたが、今では障害者である事は全く気にならない、と自信に満ちた様子で語ってくれた。妻は事業を手伝い、まだ小学生の一人娘もよく手伝いをすると嬉しそうに語っていた。

 マニュエル・タン(Mr.Manuel Tan )氏はバコロッド市に住む中国系フィリピン人で、生後7ヵ月の時に小児マヒにかかって以来、車椅子で生活をしている。高校を卒業後、通信教育で電子工学の勉強をし、数年間はラジオやテレビ等の電化製品の修理をしていた。しかしこの仕事は、障害を持つ彼にとっては大変困難なものだった。自分の経験により教育と訓練が、フィリピンの労働者が仕事を得る為にいかに重要な事かを知り、また動き回る苦労をなくすことにもなると考えて、1970年に友人から資金を借りて電子工学訓練校を開設した。ウエイソニック・ラジオ・テレビ教習所と名づけられた学校では、実際に役に立つ、ラジオ、テレビ、アンプ、ビデオなどの電気製品の整備と修理の技術を身に付けさせる事を目的としている。訓練生は週に5日間、1時間半、5ヵ月の間コ−スに出席する。彼は将来、この教室を教育文化運動省認定の学校にしたいと思っている。テレビやラジオ等の電化製品の修理の店も経営している。
 店と学校からの収入で、妻と4人の子供を養っている。島内でただ一人、国内でも数人に過ぎないといわれる電動車椅子の使用者となれるほどに、仕事は成功している。なお電動車椅子は国内で製造していないので、米国からの輸入品であった。

 メルコ−ル・クラリダッド・タンボス(Mr. Melchor A. Claridad Tumbos)は28才でADPの副会長を務め、全盲である。バコロッドの景気も良くなく失業者も多い状況では、大学を卒業したもののしばらく定職はなかった。最近バコロッド市国立国立高等学校で視覚障害者のクラスの非常勤講師として採用された。

7、ワークショップのプログラム

一日目(1月10日月曜日)
 0900−1000 登録
 1000−1100 記者会見
1100−1200 お茶
 1200−1300 開会式 
       司会 ア−リサ・ペチャラ、ネグロス障害者協会(ADI)書記
       国歌 − リサ−ル小学校聴覚障害児学級
       開会の祈り − クラティアン・ムライ神父
       歓迎の言葉 − ジョイ・バルデス市議会議員
               オ−ロラ・エストレ−ラKAMPI会長
       参加者の紹介 − ロウェル・ラナ−ADI会長
       歓迎の歌 − リサ−ル小学校聴覚障害児学級
              ヘンリ−・アマ−ルADI会員
       メッセ−ジ − アン・マリア・メンピンADI理事
       あいさつ − 中西正司ヒュ−マンケア協会事務局長
 1300−1430 昼食
 1430−1500 オリエン−ション オ−ロラ・エストレ−ラ
 1500−1540 参加者の自己紹介 進行−中西正司
 1540−1600 休憩
 1600−1700 基調講演「自立生活の概念と介助サ−ビス」 中西正司
 1900    バコロッド市主催の歓迎会

二日目(1月11日火曜日)
 0930−1030 ケ−ス紹介「介助を含めた自立生活への私のアプロ−チ」
       司会 ベン・クラブベリア
 1030−1100 休憩
 1100−1230 ケ−ス紹介(続き)
 1230−1400 昼食
 1400−1530 ロ−ルプレイと討議「介助サ−ビスに関する問題」
       司会 中西正司
 1530−1600 休憩
 1600−1700 ロ−ルプレイと討議(続き)

三日目(1月12日水曜日)
 0930−1030 ケ−ス紹介「介助を含めた自立生活への私のアプロ−チ」
       司会 モイセス・ディアス
 1030−1100 休憩
 1100−1230 ケ−ス紹介(続き)
 1230−1400 昼食
 1400−1530 ミニドラマと討議「家族関係の問題」
       司会 中西正司
 1530−1600 休憩
 1600−1700 ミニドラマと討議(続き)
 1900    ADI主催のカルチャ−・ショ−

四日目(1月13日木曜日)
 0930−1230 自立生活をしている障害者宅の訪問
        バナゴ町のルディ・アバラジン(男性・脊損)
          花の栽培、サリサリ・ストア−(雑貨店)経営、
          自転車タクシ−会社経営
        マビニ町のマン−・タン(男性・ポリオ)
          テレビ・ラジオの修理店経営、電子機器学校校長、
        グスティロ町のニンパ・ニコ−ル(女性・脊損)
          アパ−トの元管理人、手芸品製作、
 1230−1400 昼食
 1400−1530 ADI会員との話し合い「アジアでの自立生活運動概念のわかちあい」
       司会 ロウェル・ラナ−
 1530−1600 休憩
 1600−1700 ADI会員との話し合い(続き)

五日目(1月14日金曜日)
 0930−1030 記念撮影
 1030−1100 休憩
 1100−1130 ワ−クショプの評価 司会 トポン・クンカンチット
 1200−1230 決議文の討議と採択 司会 オ−ロラ・エストレ−ラ
 1230−1400 昼食
 1400−1500 閉会 司会 オ−ロラ・エストレ−ラ
        参加者の感想 全員
        参加終了証の授与
        あいさつ 中西正司


8、バコロッド決議

 最終日に採択されたバコロッド決議には、各国の政治的社会的な状況に沿って自立生活運動を推進していくこと、そのための行動部隊というべき委員会を設置することをDPIアジア太平洋評議会に要請すること、ESCAP(国連アジア太平洋経済社会委員会)に対してこの運動の推進に協力する要求していくことなどが盛り込まれた。

バコロッド宣言


 どこの国でも全身性障害者は自分たちの特別なニ−ドもっと注意を払うべく義務を負った社会において二流の市民として扱われてきたことを実感し、
 この地域に多くの全身性障害者が存在し、彼らの状況は貧困に密接に関連し、彼らのニ−ドに対処するプログラムも支援機構もないことを実感し、 国連アジア太平洋経済社会委員会(ESCAP)が自助グル−プの運営と障害を持つ人たちのエンパワメントに関するワ−クショップを行うことを評価し、
 我々、全身性障害を持つ人々の介助サ−ビスでの能力強化に関する第一回アジア太平洋ワ−クショップ参加者は、ここに次のように決議する。
 1 以下の目的でアジア太平洋地域での自立生活に関するタスク・フォ−スを創設する
   a. この地域の途上国に自立生活(IL)の概念を導入する
   b. 各国が自己の社会経済的、文化的、政治的環境にそってIL運動を発展させるように援助する
   c. ILセンタ−設立のためのガイダンスを行う
   d. 各国の普遍的な状況に応じた適切なILプロジェクトやILプログラムを作成する
 2 DPIアジア太平洋ブロック評議会に、評議会の機構の中にタスク・フォ−スを入れるように要請する
 3 国連ESCAPに、介助、ピア・カウンセリング、自立生活技能訓練、権利擁護を含むILプログラムの運営やIL概念を推進しようとする自助グル−プにもっと実質的な援助を差し向けるように要請する

第四章 ワークショップ参加者の自立生活

1 マダ−ブ・カングサ・バニク
 バングラディシからはマダ−ブ。彼は高校生の時椰子の木から転落し頸損となり、英国人女性バレリ−・テイラ−が創始した脊髄損傷者リハビリテ−ション・センタ−の最初の入所者として絵画の才能を開花させた。今ではセンタ−のピア・カウンセラ−として給料を取り、介助者を雇って外出するまでになっている。今回は職員の一人、イクバルを伴って参加した。


 2 トポン・クンカンチット(TOPONG KULKHANCHIT )
 陸軍士官学校を卒業し、中佐としてマレ−シア国境で従軍中ジ−プの転落事故で頸損となる。現在はタイ身体障害者協会会長として、車椅子組み立てセンタ−や支部づくりに奔走している。1990年にはヒュ−マンケア協会の米国自立生活センタ−研修旅行に参加し、自立生活運動の精神もよくわかっている。
 2階建ての家に母親、妹2人、キティ(子猫)の愛称を持つ美人の車椅子の妻と暮らす。寝室のドアをスライド式にし、浴室のドアを取り外しただけで、家は特別な改造をしていない。浴室は車椅子が一台はいるくらい広い。車は、日本式のハンドコントローラーをつけて改造した。オフィスはコンドミニアムの一階にあり、手押し車や車椅子がつかえるかなり急なスロープがついている。
 朝は5時半に起きる。というのは、母も妹たちも早く家を出なければならず、私も6時には仕事にいくからである。一人寂しく車を運転し、家から50分かけて事務所に着く。交通渋滞の場合には1時間以上もかかる。法律の施行のために政府機関ととの会議に出席したり、緊急事態で病院にいく以外には、事務所にいる。よく事務所で徹夜をし、家にシャワーを浴びに戻ることがある。時にはそのまままた事務所に戻ってくる。
 仕事で疲れている時や、ベッドと車椅子の座席の高さが違うときには、ベッドからまたはベッドへの乗り移りに介助が必要である。シャワーやトイレ、衣服の着脱、車の座席からまたは座席への乗り移りにも介助がいる。介助は一種のサービスであることを肝にめいじておかなければならない。だから私は決して介助者に指図はさせない。家や病院のヘルパーとは違う。
ミンダ・ソリアガは53才で夫と子供二人があり、フィリピンの国立の民族舞踊団の一員として活躍したこともある。1984年に夫が運転する車の事故でC−6、7の頸損になってからは、小さいときからついていた女性がずっと介助にあたっている。

3 アルビン・ガトボントン(Albin Gaboton)
 結婚していて、結婚式ビデオの編集を業とし、事故にあう3カ月前に生まれた娘、イングリッドがいる。マニラのサンタ・メーサにある祖父所有の家に家族と家事手伝いの人と一緒に住んでいる。住居は家の2階にある。1階が仕事場になっている。
 1983ー1987年にフィリピン島銀行(Bank of Philippine Islands)で信用調査官として働いていた。1987年の3月に、プール・サイドからダイビングする際に、首の骨を折ってしまった。頚椎の7番が損傷を受け、胸から下が麻痺し、手で握ることが上手にできない。
 障害者となった最初の1年は、家の中での問題の解決にあたった。その時の私の世界は家の中であった。着替えや食事、ベッドからまたはベッドへの移動など個人としてのニードや好みにいかに対応していくのかが問題であった。まず、車椅子のサイドを着脱式にし、助けなく簡単にベッドから乗り移れるようにした。次に、寝室と家のドアを広くし、車椅子が通れるようにした。3番目に、作業療法士と一緒に自分で食事ができるスプーンをデザインした。
 基本的な問題を解決してみると、家の外に大きな問題が待ちかまえているのがわかった。2階にすんでいたので、外出することが最大の難問であった。4人がかりで上へ下へと運んでもらわねばならなかった。そこで、ふつう目にするのとは異なるロ−プ式のリフトを自分で作ってつけた。現在抱えている問題は、移動である。一般的交通手段であるジプニーもバスも車椅子では使えず、タクシーはとても高い。

4 ベン・クラブデリア(Ben Clavderlia)
 ルソン島南部のナガ市に妻のラケルと住む。フィリピン大学工学部で修士をとり、現在はナガ市のフィリピン大学工学校の代理学長として教え、そのほかサイドビジネスとしてコンピューター販売を行っている。
 1981年11月27日に背中から45カリバー銃で打たれ、弾は肺を抜け心臓の大動脈も通り抜けて、脊髄のTー10を傷つけ多。これで障害が発生し、多くの問題が出てきた。最初の問題は、自分自身、もちろん私の家族に関することであった。入院自体にとてもお金がかかり、私は一年間入院し、リハビリテーションを受けた。結婚予定日の一ヶ月前であったので心理的問題も大きかった。そのためこの事故はとても精神的な傷を残し、私の家族とラケルも心に傷をおった。私は自分自身、ラケル、将来の親戚に対して私はまだラケルの愛に値するものであることを証明せねばならなかった。私は自分でそれを決心し、それからいろいろなことを話し合うことにした。事故後家に閉じこめられているという問題もあった。外出することはできなかった。それ故最初の計画は車を買うこととし、中古車を買うために借金をせざるをえなかった。
 個人的に事故に対処していくために、私は以下のような戦略をたてた。
 先ず、私はもう歩くことができないという事実を受け入れることとした。そして、何事にもそのための理由があるのだといわれた神に信頼を置くこととした。私がとても若かったときに事故は起きた。早い出世を約束されたとてもいい仕事を持っていた。学生だったときにはすでに短大の理事の試験を受け、短大の学部長になる資格をとるためフィリピン大学に送られ、戻ってきてからは直ちに副学部長に任命され、すでに短大の学部長の代理を務めねばならなかった。事故が起きたときには私はすでに学部長代理で、土木工学での主要科目を教えていた。
 次に、下半身麻痺となったために自分で今できることできないことを判断し、現在の状態の中でやらなければならないことを考えた。障害があるので、自分の力と能力に基づいて未来を考えた。例え車椅子に乗っていても、以前の職務を担うことができると、職場の人たちを説得しなければならなかった。最初彼らは何かが変わったと思い、躊躇した。火事になったら私はどうするのかとの質問するものもいたので、かれらを本当に説得せねばならなかった。
 次に団体に加盟することにした。その一つがKAMPIである。われわれは自分たちの障害に対処するために自分たちの権利を考えていかねばならなかった。現在私たちは介助者の問題を話し合っているが、最大の問題として強調しなければならないのは介助者たちのことである。特に私の場合には、自分で選んだたった一人の介助者にたよっていくことはできない。
私の妻も役所で働いていて、8時から5時までとても忙し意。朝7時に家を出て、夕方6時に帰ってくる。それ故他の人たちに頼まなければならない。他の人たちとの関係を作って置かねばならない。たくさんの人たちと友達になれば、その人たちが助けてくれる。しかしこれ4らの戦略がうまく働いても、問題や障壁はいつもあるので、自分で道を切り開いて行かねばならない。
 最初の障壁は、一つの所から別の所に移動しなければならないので交通である。もしあなたが社会の中のメインストリームにいなければならないなら、職場から家、家から職場、家からレストラン、家から公園などと、動き回らねばならないだろう。それが私の最初の問題である。
 二番目の問題は、ビルや公共の場所でのアクセスの問題である。一階にはスロープをつけるように法律で決められていても、事務所が2階にあれば問題はそのまま残る。ビルが4階建てでなければ、エレベーターをつけてくれと要求することはできない。人々は道があれば、近道をして時間を節約するでしょう。レストランが狭くて車椅子が人の邪魔になるなら、あなたはそこに行かない方がいいでしょう。市場では通路を通り抜けることさえできず棚を倒し、多分損害賠償をするでしょう。
 三番目は人の問題です。トイレに行ったり、何かを進めようとするとき、どうやってこの問題に対処したらよいのだろうか。最初に問題になるのは友人や介助者、そしてもちろん自分自身との間の時間の管理、つまり一般的な時間割に従ってはいられないということです。介助者が6時に朝御飯を食べるなら、私はその人のニードにそって8時に朝食を食べます。おなかが空いていたら、仕事をすることができますか。その人に先に食べてもらって、後で働いてもらいます。私は9時半に事務所に行き、この頃にはもう交通渋滞はありません。アクセス法の厳密な実施のために政府に調整を迫ることでも、人の問題はある程度解決できます。
 4番目の問題はコミュニケーションです。私が家を建てたとき、まず最初に電話をいれました。それで私は誰とでも連絡をとることが可能となりました。VHFの無線電話ももっています。手に入れやすく、音もうるさくありません。人から遠く離れていたり、アマチュア無線のクラブに入っていても、無線電話でメッセージのやりとりができます。



5 モイゼス・ディアス(Moises Diaz )
 1948年、18際の時に呼吸器系に問題がある多発性硬化症によって最初に障害者なった。イロイロのフィリピン大学の1年生になったばかりで、授業は厳しく、毎日よく勉強していた。ある時学期末のレポ−トを仕上げるために、体に悪いことであるとは知らずに、一晩中洗面器の冷たい水に足を突っ込んで眠気をさました。足の感覚がなくなり、1週間たってもしびれたままで、どんどん進行して学期末には障害者となった。家族の心理的支援やくよくよしても仕方がないとの自覚によって、割とたやすく障害の自己受容ができた。その時は、病気の原因がわからなかった。
 1年間休学中に手術も受けずに回復し、復学した。英語と数学の学士を取って卒業し、幸運にもマニラでジャ−ナリストの仕事を見つけ、ジャ−ナリズムの勉強を始めた。1953年に再び麻痺が戻り、手術後は病院を出たり入ったりの4年間を過ごした。再びどうにか歩けるようになり、1957年に大学を卒業したが、どの会社の就職でも面接の段階ではねられた。
 失望の中で新聞の教育省と夏期言語学院主催のセミナ−の開催通知を見つけ、600 人の応募者の中から11人が受講できた。その中から教育省に雇われた4人の一人となった。自分で稼いだお金で、自立生活が始まった。フィリピン大学大学院に通い、奨学金で米国のイディアナ大学で修士を取り、大学の教授と結婚し、別の奨学金で博士課程に進んだ。イエ−ル大学に移ろうと準備していた時、再び麻痺が起こった。
 フィリピンに戻り、数ヵ月働いた。麻痺は今度も進行性であったので、1965年には完全に四肢麻痺となった。字は書けなかったが、教育省の局長として、そしてフィリピン大学でも働いた。妻が博士号取得のため米国に戻るまでは、二人でフィリピン大学のキャンパスに住んでうまくいっていた。彼女はその後世界銀行で職を得て、米国に住まねばならなかった。私は米国での生活が好きでなく、彼女と一緒に住みたくはなかった。長期の別居がわかれる原因となった。1972年には引退したが、1989年までコンサルタントを務めた。
 現在、3つの障害関係のNGOで働いている。階段のない家の総支配人兼法人秘書、フィリピン車椅子と障害者協会の創設メンバ−兼会長、全国24のホ−ムの運営者であるので忙しく、各種の介助者を必要とする。1963−75年は大学のキャンバス内に、運転手と大学の学生の介助者とで暮らしていた。今の運転手は法学部の学生で、フルタイムの給与を払えなかったので住居と食事を提供している。毎朝8時にオフィスまで5分ほどを運転し、昼に迎えに来る。午後はまたオフィスに出る。介助には、アメリカでの就職待ちのフィリピン総合病院をやめた正看護婦を雇っている。文書を作成するのは、学生の介助者である。最初は1時間当たり2ペソ、現在は15ペソを払っている。常時援助を頼むのは難しい。家族でさえいなくなってしまう。一人は仕事に関する介助をし、もう一人は料理や家の修理などの家事をする。朝は介助者が食事を準備し、食事介助をし、服を着せ、褥瘡があるので包帯を替える。そして毎日病院に行けないので、カテ−テルを挿入し取り出しもする。会議等で話す時には介助者がおなかを押さえ、呼吸器の代わりを勤める。夜は寝室にいて、尿道感染を防ぐため2−3回目覚めた度に水を飲ませてもらう。また褥瘡を防ぐために寝返りも手伝ってもらう。つまり24時間介助者が必要なのである。オフィスでは3人の女性秘書がいる。それぞれのホ−ムには介助をする運転手がいる。20人の学生障害者の寮も運営してる。

6 ビルギリリオ・カプナン(Mr.Virgilio Kapunam )
 1937年に生まれた。早産のため、生まれたときからのCPである。両親は私に適した学校を見つけるのに苦労し、国立整形外科病院の特殊教育校に入れた。
 発明家になるのが夢で、フィリピン発明家協会に属している。
 サ−トス・ト−マス大学に入学したが、アメリカで自立するために勉強したかったので、この大学が好きでなかった。親は私の態度を気に入らず、私を思い通りにしようとした。数学を選考したが、親の管理や女の子のことが原因で3年で退学し、仕事を見つけようとした。
 アメリカのビザを申請したが、却下された。
 今は親と生活をし、介助者には着替え、入浴、食事を手伝ってもらっている。2階に上がることが一番難しい動作である。介助者が一人しかいず、一人では抱えて2階に連れていってもらえないので、もっと介助者が欲しい。家は裕福であるので、父親が介助者の賃金を出し、車も1台提供してくれている。他の家族ともうまくいっているが、外出に関しては遅く戻ると怒る。しかし父親はすでに高齢のため、かれが亡くなった時に備えて自立しておかねばならないと思っている。
 フィリピンCP協会の会長として、団体のためにコンピュ−タ−を手に入れたいと思っている。フィリピンの親はCPの子供を支配しているので、団体を作っていくのは難しいく、現在のの会員は25人である。

7 ミンダ・ソリアガ(Ms. Minda Soriaga )
 学生時代は、フィリピン民族舞踊団に属し、踊っていた。
 夫の車に同乗して事故にあい、勁損となった。責任を感じている夫は、できるだけのことをしようとする。しかし自分では手伝わずに、介助者任せである。障害者になってから1〜2年かかって、やっと自分にできることできないことが受け入れられるようになってきたて、忍耐強く鳴り、介助者の欠点も理解した。。
 事故のあと手に入れた、紐がついている病院ベッドに車椅子から乗り移るときに、自分で紐に捕まり、介助者が足を持ってベッドの方にくるりと回してくれる。便器を使用するときには車椅子から乗り移るため、入浴の際には浴槽内の入るに乗り移るために、2人の介助者がいる。夜の着替えやシ−ツの交換、食事の際の肉を切るときなどにも、介助者が必要である。いまん介助者はすでん8年いる。

第五章 アジアでの自立生活運動の展望

 5日間のワ−クショップでは、自らの意思で決定し行動するという自立生活の理念について理解が深まった。その証拠として、フィリピンの参加者の中で再重度のCPのピ−ウィ−からの提案で、同様なワ−クショップを続けて開催していくために各自献金を行った。

 経済的に多くの問題を抱えるアジアの国々で、これ程までに自立生活運動が受け入れられるとは予期していなかった。しかし、マタ−ブのような本職のピア・カウンセラ−の存在を許すほどアジアは奥深い。アクセス法でフィリピンは日本より進んでいるし、シンガポ−ルの統合教育は本格的なものである。アジアとの交流から得るものは、お互いに大きい。

 ヒュ−マンケア協会では、定期的なILセミナーの開催など海外との連携も、将来取り組むべき課題の一つであると考えている。またアジアの障害者が訪日し、自立生活運動を研修する機会もふえてきているので、今後はより長期にわたる研修体制を組むことが求められている。

参考文献

中西正司 「アジアに自立運動が広がった ー 英文マニュアル発刊とフィリピンでの初の自立生活技能プログラムの実施」、『季刊福祉労働』、1994年3月、62号、117ー119頁、現代書館
中西正司 「アジアに広がる自立生活運動 ー 自立生活プログラム・マニュアルのインパクト」、『月刊福祉』、1994年5月、106ー109頁、全国社会福祉協議会
中西正司 「自立生活プログラムによる自立生活訓練の歩み」、『総合リハビリテーション』、1991年10月、962ー965頁、医学書院
中西正司  "Independent Living: A Major Thrust for DPI "、1992年12月北京のDPIアジア太平洋総会にて発表
中西由起子 「障害者の自立ーアジアの現状」、『自立生活NOW1992』、66ー69頁、1992年9月、第3回自立生活問題研究全国集会実行委員会、東京
中西由起子 「国際協力を目指した国際交流ーアジアの障害者の自立をねがって」、『われら人間』、4ー5頁、63号、1992年12月、身体障害者自立情報センター法人本部
中西由起子 「当事者中心の国際技術協力体制の確立」、『リハビリテーション研究』、23ー25頁、78号、1993年12月、日本障害者リハビリテーション協会