*弱視。ダスキンの留学制度で来日。94年に米オ−バ−ブルック盲学校でコンピュ−タ−を学び、95年よりミャンマ−・キリスト教フェロ−シップに勤務。
*1914年に初めて聖公会宣教師がやってきてビルマ盲人宣教団を作り、パッサ−牧師が国内各地で多くの盲人の物乞いに出会ったのをきっかけに、3人の盲人男性を集め男子盲学校を創設。18年には牧師夫人の兄弟で視覚障害のウイリアム・ジャクソンが校長となった。同年にモ−レンミャイにできた2番目の盲学校は女子校であり、コグ−の3番目の盲学校は30年につくられ男子のみであった。ウイリアムは良い訓練者であり、読み書きを教えた。*ウ・ベ・ジは老年に達して視覚を失い、点字板をもらって英語点字が国内で初めて使用できるようになった。彼が発明したミャンマ−点字は完璧ではなく、後に消滅した。現在は、幼稚園から小学4年までスペリングを習うための6点が一つの文字を表す長い表記の点字と、中・高で使われる音に基づいた短い表記の点字の2種類が使われている。
*ウイリアムは31年に死亡し、48年に独立後は国が門戸を閉ざしたため、牧師夫婦は国を離れ、盲学校のレベルは低下した。
*63年には最初の盲学校が聖マイケル盲学校として政府の管轄下に入った。63−73年には盲学校では小学校レベルの教育がなされた。
*73年の調査で、193020 人の盲人が見つかった。その0.2 %が読み書きができ、全体の85人は経済的に自立していた。多くの盲人が戸口で聖書を暗唱しお金を乞うていた。
*74年に14人でミャンマ−・キリスト教盲人フェロ−シップが作られ、自己支援カイン・バプテスト宣教協会の全面的支援で、キリスト教関係の一室や、木の下で学習を行った。81−91年にはCBMの支援で土地を得て、ビルがつくられた。盲人を会長にする規約を作り、政府に提出中である。規約ができれば、WBU(世界盲人連合)に正式加盟できる。*フェロ−シップは81年にヤンゴンに教育レベルの向上、自立生活技能訓練、完全参加の推進を目的に教育センタ−を設立。150
人の定員のところ148 人の生徒がいて、教育(小、中、高の教育と大学生への支援)、職業訓練(白杖と針金のハンガ−作りや手編みと機械編みの編み物、日本式マッサ−ジ)を行う。全ての宗教の盲人を受入れ、全国135
の少数民族からも生徒がきて、寮で生活する。授業は6月初めから3月まで、5−25才を対象。職業訓練は一般教育に適していない18−25才を対象。教会や篤志家の寄付が予算の多くを占め、学校のPRを兼ねた学生バンドの各地の訪問、慈善夕食会などでの資金集めもする。北部につくられたミチナ教育センタ−は50人の定員でカチンの人のみを対象とし、センタ−での教育と、一般教育に適さない人を対象とする兎の飼育や農業によるリハビリを行うCBRを実施。視覚障害児はその導入前には親が働きに出ている間には木に縛りつけられていたり、ラジオを聞くだけしかなく近所の子に石を投げられれば投げ返す動物のような扱いを受けていた。盲人コンピュ−タ−・センタ−も運営し、教科書も作っているが、紙が高く生徒全員に行き渡っていない。大学生には試験に必要なテキストのみ点約している。*社会福祉・救済・再定住省は18-45
才の身体障害者のための、写真、シルク・スク−リン、大工の訓練センタ−、聾学校、知的障害児の学校、重複障害児の学校を運営している。盲学校も運営し、センタ−の2ヵ所と合わせて盲学校は全国に3ヵ所、僧侶が経営する小グル−プの盲人が働く作業所が10ヵ所ほどある。聖公会運営の聾学校もある。