フィリピン・作業所

1 最近の障害者の福祉工場の現状 

  第112回アジア障害者問題研究会報告
  2000年11月11日
  JICA障害者リーダーコース研修生 

2 カンボジアとフィリピンの授産所


  
第96回アジア障害者問題研究会報告
  1999年7月3日
  JICA障害者リハビリテーションコース研修生
  階段のない家訓練開発・広報担当官 アンゲリタ・エバンジェリスタ

3 階段のない家の活動


  
第52回アジア障害者問題研究会報告
  1995年10月14日
  JICA障害者リ-ダ-コ-ス研修生 カルメン・ズビアガ

 フィリピンの障害者の共同組合活動


  第86回アジア障害者問題研究会報告
  1998年9月12日
  マルティブハイ多目的協同組合 フランシス・ラミリ




最近の障害者の福祉工場の現状
      
 階段のない家 ー バージナ・モンティラ


*階段のない家は1973年に作られ、120人が居住している。400人が梱包、コンピューター、グリーティングカード製作、リサイクル、車椅子製造などの仕事をしている。
*工場職員は採用後1年はリハビリと技術訓練を兼ねて敷地内の寮に住めるがその後は外のアパートを探して通うことになる。自分も同じ職場で働く車椅子の夫と2歳の子供と外で生活している。別の場所に障害をもつ高校、大学生の寮がある。小学生は敷地内で生活し、彼らの食費や身の回りの品の購入にスポンサーがついている。
*アジアの金融危機の影響は暫くでなかったが、状況が悪化し今年度はあまり採用できなかった。JICA研修に来る直前に障害のない人が先ず対象となり、何人かがレイオフされた。出来高払いで働く障害者は2グループに分かれ、1週間交替で働くことにした。正規職員は26日間分もらえるはずの給与を2日はボランティアで働いて24 日分もらえることとした。クリスマスカード販売で120万ペソの収益を目標にしているが、毎年それが達成できてクリスマス・ボーナスがもらえた。
*ビジネスと福祉の2種類のサービスを提供している。工場の収益は教育、移動機器の援助などに回される。支部は重度障害者の施設となっていて、小規模作業所としての活動からの収入がある。
*学校がアルミ缶を集めて寄付してくれるので、それを管の形にしてもらい、つえ、松葉杖、車椅子をつくる。そのため鉄製6,200ぺソ、ステンレス製15,000ぺソ(約48,000円)、アルミ製8,000ぺソという、ステンレス製より軽くてよいアルミ製の車椅子の方が安く販売できるという逆転現象がおきている。



カンボジアとフィリピンの授産所

 階段のない家訓練開発・広報担当官 ー アンゲリタ・エバンジェリスタ


*高校時代に加盟。大学で経済を専攻し卒業後結婚し自宅に。戻ってきて働き始めた。
*「階段のない家」は障害者自身が自立し生産を行うNPOである。授産所と4ヵ所の寮がある。金属製品部では車椅子、松葉杖、ウオ−カ−を、木工品部では教材、小さな家具、学校の椅子、縫製品部では装飾品や台所用品を作り、包装部では医者用製品サンプル、キャンディ、動物の薬の包装をしている。寮には2年以上住めない。400 人のスタッフの内60%は障害者である。全国20ヵ所の支部である家では、5人に1人の割で介助者が付き、重度障害者や知的障害児が暮らす。実地職業訓練(授産所4部門で学びながら収入を得る)、再入学(事故に遭い勉強できなかった人のため、寮もある)、レクリエ−ション(車椅子のバスケットボ−ル、テニス、ダンス)、移動補助具の提供(ソ−シャル・ワ−カ−の評価によっては宝くじ協会であるフィリピン・チャリティ・スウィ−プスティックの資金で全額出してもらえることもある)、職業斡旋(大学卒業者や職業訓練修了者)、CBR(リサ−ル州14市町村で施行プログラムを実施)、セミナ−や訓練(親のため、特に農村では障害は受け入れられていない)のプログラムがある。
*昨年は米国ミス車椅子(Ms. Wheelchair USA)の支援で、ミス車椅子コンテストを実施。
*昨年の下院選挙では運動し、障害者のジェスタコット氏が当選。上院にはポリオで歩けるヘレラ氏や障害部門代表者のア−ト・ボハ−ル氏の障害者がいる。     


階段のない家の活動

JICA障害者リ-ダ-コ-ス研修生 ー カルメン・ズビアガ


*階段のない家は、1973年にフィリピン・マニラに作られた、身体障害者のためのリハビリテ−ション・職業訓練施設である。24ヵ所に支部に当たる家をもち、サマ−カルバに紙のリサイクルをする授産所をもつ。支部はグル−プ作りを行っただけで、管理下にはない。
*国立整形外科病院にいた15人程の障害者が職業訓練も何もなくたいくつし、その多くが家族に捨てられ行くところがない事を、ベルギ−人修道女ベレリア−ナが知った。小さな家を見つけ、1966年に病院を出たがっていた10人の男性の最初のセンタ−とし、次に10人の女性のために改造した家を作った。1970年までに12ヵ所の家で手工芸品など小さな物を作った。各家はリ−ダ−を選び、重度、軽度を問わず一緒に生活した。72年にSr. ベレリア−ナがオ−ストラリアでのRI会議で会ったシドニ−階段のない家の脊損の男性が、援助を申し出た。73年にライオネル・ワットが来比し、12人の障害者リ−ダ−と2人のベルギ−人修道女とでフィリピン階段のない家が始まった。
*政府は資金要請に応えず、75年にベルギ−政府の援助を受けた。土地4haはマニラ大司教区から借り、79年に完成した第一期分のビルに体力があり8時間労働が可能な自立の候補者25人が移り、車椅子の修理や個人や病院に販売用の生産、編み物、刺繍、木製教材製造を始めた。プロのマネ−ジャ−が雇われている。現在は4ヵ所に120 人の訓練生が居住。5年後には自立して退所する。ここ以外に仕事がない人の家捜しと改造は手伝う。
*外国の援助に頼るだけではなく国内で資金を作るため、86年に私が雇われ、地域教育資料の作成、マスコミとの連携、製品や仕事の宣伝、政府機関への訓練や技術援助の依頼を行う
*車椅子製造部門では3人の障害者と4人の非障害者、品質管理を担当する電気技師のベルギ−人ボランティアが働く。アジアで一番良い車椅子を作る。昨年10月に日本障害者リハビリテ−ション協会を通しての郵政省ボランティア基金で買った機械で、月産30〜35台が80〜100 台に向上した。学校用椅子やチャイムをつくる余力がでた。木製の教育機器や教材は公立や民間の学校、幼稚園に売られ、業者を通して輸出もする。洋裁部門では女性障害者と一緒に障害者の妻や親戚も働く。120 人が多国籍製薬会社の薬、シャンプ−、キャンディの包装をしている。その75%は障害者である。ペロペロキャンディの部門で3交代で働く60人の半分が障害者である。コンピュ−タ部門では最初の5台がゼンコロからの寄付で、オ−ストラリア政府も15台寄付してくれ、20人がオ−ストラリアとニュ−ジ−ランドの電話の入力をしている。
*全体で400 人が雇用され50%が障害者であり、管理職では95%が障害者である。生産部門は78%が収入、22%が寄付など集めた資金で運営される。
*CBRを14町村と1都市で始めた。2000人以上の障害者が調査でわかり、障害者を含めた400 人のボランティアが働く。3つの医療大学よりの30人の理学療法の学生が4ヵ所で家を回り、患者を見つけ外に連れ出す。資金を貸し小規模事業が始められ、地方政府と連携して経営が向上するようにする。そのため県に協議会をつくり、政府に働きかけている。
*障害者教育プログラムは大人と子供を対象とし、普通校で学ばせるために高校・大学生のための寄宿舎がマニラのクバオにある。


フィリピンの障害者の共同組合活動


第86回アジア障害者問題研究会報告
1998年9月12日
マルティブハイ多目的協同組合 フランシス・ラミリ


*前身は。ケゾンで一番アクセスが良いといわれるトリニティ・カレッジで寮に住んでいた12人の障害をもつ大学生が、大学でのアクセス法の実施を目的として作った団体である。大学はスロ−プを設置する代わりに、入学金を上げると言った。
*卒業してからの行く先として、1991年9月10日に設立した。オフィスはケゾン市にあり、スタッフ10人全員が全て障害者であり、大半が身体障害者で、運転手のみが非障害者。
*共同組合作りの訓練にも参加し、最初の3年間で是非とも成果をあげようとした。一番に始めたのがサリサリストア−と養鶏であったが、鷄の配達が難しいのでやめた。小規模電気修理店も、自分たちの能力を客が信じてくれず来なくて、止めた。
*地域に根ざした生活プロジェクトを行っている。若い人から50才までの人が働いている。
(1)学校用の机やテ−ブル付き椅子、金属や木製の家具を製造 − CBMの資金による。働いている30人はほとんど男性で、視覚、身体、聴覚の障害者である。昨年は教育・文化・スポ−ツ省が、初めて障害者による製品を購入してくれた。土地はカルオカン市から借りているが建物は自分たちで作った。忙しくても機械の音がうるさいので10時には止める。
(2)バッグの製造 − 7人の女性障害者が担当し、切断や聴覚の障害者である。
(3)ミニ・コンピュ−タ−・センタ− − 3台のコンピュ−タ−を持ち、DTPでニュ−スレタ−、カ−ド、名刺、パンフレントを作る。車椅子、松葉杖、聴覚、軽度の歩行障害の障害者が働く。オランダのNGO、ラボバングの支援を受けた。
*最初は障害者を説得して組合に加入させた。今は希望者が多すぎるので、来年から3年間2ヵ所でCBRを実施する。昨年環境調査を行い、140 人の子供や大人の障害者が発見された。大半は補装具やリハビリテ−ション、雇用のニ−ドを持っていた。彼らは劣等感故に自分たちを低く見ていて、アクセスの良くない環境の中で事態が更に悪くなっている。
*部門によって異なるものの、最小限生活を賄えるまでの収入になった。全員通ってきていて、大半がスラムに住む。今は海外からの支援がない。景気が悪く多くの学校からの注文がなくなったが、フィリピン議会が購入品の10%は障害者からと決議した。新政権で大統領、上院議員、大臣が新しくなったので、一から交渉を始める。
*KAMPI(フィリピン障害者連合、フィリピンDPI)の会員である。マニラに障害者の協同組合がもう一つある。バギオとトレド、ケゾン県で組合作りを指導した。