韓国の肢体不自由の人々の生活と彼らへのサービス

1 地域で暮らす韓国の肢体不自由者の生活

  第95回アジア障害者問題研究会報告          
  1999年6月5日
  ヒューマンケア協会自立生活研修プログラム韓国参加者

2 韓国小児マヒ協会の活動

  第88回アジア障害者問題研究会報告
  1998年11月7日
  正立会館・キム・ドンホ−

 韓国の障害者ー交流の現場から


  第77回アジア障害者問題研究会報告
  1997年11月8日
  自立生活センタ−立川・岡田智恵子

4 地域福祉センタ−の障害者プログラム


  
第57回アジア障害者問題研究会報告
  1996年3月9日
  韓国・東区地域福祉館 李光文


地域で暮らす韓国の肢体不自由者の生活

ヒューマンケア協会自立生活研修プログラム韓国参加者


1崔有美(チェ・ユミ) − 江南大学社会事業学科4年生

*松葉杖を使っているので、通学の際は母が運転し、帰りはスク−ルバスを使うこともある。大学敷地内での移動が大変な時には大学の福祉サ−ビスに頼んで、無料のリフトバスを使う。建物は階段が多いので、移動の距離が少ないようにクラスも工夫して取っている。
*1995年に18の大学で障害別の障害者の特別入学枠が採用された。一般の学生と同じ試験を受けて点が良くても、大学の最終会議で認められないと入学できないが、以前と比べて意志と学力があれば機会が与えられたという意味で良かった。今では33校が実施している。
2李成美(イ・ソンミ)

   − 女子パウロ会電子通信部ホ−ムペ−ジ管理者
*5年ほど今の仕事をしている。障害者用の免許を取って、自分で車を運転して通勤する。日本で電動車椅子を初めて使って、とても便利だった。
*カトリックの重度障害者が月に1度集う黙想の団体にボランティアとして近くの障害者を連れていくが、たいへんである。生活が苦しいメンバ−が多く、金持ちの人と引き合わせてそれぞれが支援を得られるようにしているが、支援者の事業の失敗でもっと大変になっている人もいる。
3朴賛五(パク・チャンオ) − 正立会館自立生活グル−プ・スタッフ
*18才になった1988年に車を買えるような経済状態ではなかったが、移動の問題が一番大切であると考えて、自立よりリハビリの意味で車の免許をとった。階段を車椅子にとっての障壁と考えずに、向こうに行くことを目的と考えて、目の前の問題を早く解決するために、丁寧に頼んで車椅子を持ってもらうか、誰もいない時は一人で這っていく。
*正規の教育を受けられなかった年配の障害者の夜間学校の教師を、大学1−4年の時やった。そこの運営委員と同窓会(卒業生と退職教員)の仕事をしている。
*IMFの施策の影響で、まず障害者次に女性、次に老人が解雇された。障害者への手当は増額されず、福祉財団の助成金はなくなり、篤志家が貧しい人のため地区福祉館に持ってきた米や金の寄付も減り、障害者の生活は脅かされている。
*焼身自殺をした障害者の遺体が持っていかれないように見張りをして、生存権を訴える運動をしたり、障害者雇用促進法制定の際には、経済界の2から1%への公務員の雇用率の減少に抗議のためハンナラ党を訪問したり、施設の不正などで権利擁護活動をしてきた。
*障害者は高校まで分離教育を受けているので、大学の入学は困難である。障害枠の設定は障害者を優遇することになる。国立大には枠がない。私立大は障害者用設備設置のために補助金はもらえない。
4李癸洙(イ・ケスウ) − 国際キリスト協会奉仕スタッフ
*以前障害者のフル−プホ−ムで生活していた。外出には主にはタクシ−だが、ボランティア団体の車を使うこともある。障害者は地下鉄が無料である。
*公共の設備や意識は向上しているが、自分の地域に病院や社会福祉館ができるのをあまり喜ばない。
*96年から徐々に経済状態は悪化しているが、教会から給料をもらっていて影響はない。 
 (通訳 小川理栄子、岡田智恵子)

<追加資料>障害者の運転免許について 朴賛五提供、小川理栄子訳
 障害者免許を取るには、身体検査にパスし、筆記試験を受け、次にオ−トマティックで、ハンド・コントロ−ル装置を等を備えている特殊車両で一般人と同じ試験を受け合格しなければならない。障害者の主な運転条件としては、
(1)9人乗り未満の車両
(2)オ−トマティック
(3)手動装置付
 最近特殊なケ−スが社会問題と鳴り、法が改正され、両足で運転できる装置がついている車で試験を受け、免許が取れるようになった。



韓国小児マヒ協会の活動


正立会館・キム・ドンホ−

*まだ障害者に対する政策も考えられていない1965年に、韓国日報に6人の小児マヒの弁護士や、判事、医師等の専門の職をもって活躍する障害者の記事が出た。社会から孤立し、人生を諦めていた当時障害を持つ人たちに対して自分を大切にしろという意味で、彼らは三愛会を結成した。三愛精神とは、自己愛、家族と隣人への愛、自立した人として公共の利益に供する生産的奉仕をいう。
*1966年には社団法人韓国小児マヒ児特殊教育協会に組織を変えて、1975年には身体障害青少年の教育施設として正立会館を作るまでの協会の主な仕事は、会館設立の資金集めであった。1950年代半ば−1960年代半ばに小児マヒの発生が一番多く、その時の子供が学生になったので、1973年には身体障害学生の調査を実施した。正立会館の初代館長にはファン・ヨンテ医師が就任した。教育館、体育館、プ−ルを持つ当時としては最大規模の施設であり、朴大統領、夫人、令嬢の支援を受けた。
*軍国主義の影響を受けて体育科目は学校の成績全体で大きな割合を占め、身体障害学生には決まった基準がなかったので不利になっていた。1977年に正立会館がその判定をする許可を文部省から得て、その点数が多くの学校で体育の成績に採用された。
*1977年には社会福祉法人韓国小児マヒ協会と名前を変え、経営の安定化を図った。1979年に大統領に人権擁護団体として表彰された。社会的成功を修めた障害者に、1981年より毎年三愛福祉賞を設けて贈っている。今までに授賞した 17 人は医師、漢方医師、画家、小説家などである。1987年に正立会館に総合体育館が作られ、1988年のパラリンピックでは2種目の開催に試用された。1993年に理事長に就任したソン・ヨンウック、館長に就任イー・ワンスーは共に障害者である。人権擁護活動としては(1)1982 年に身体障害に運転免許が出るようにした
(2)1982 年司法試験に4人の身体障害者が合格し、研修中優秀な成績で裁判官となることを希望したが、任用を拒否され、正立会館で大学生が抗議デモを行いマスコミにも取り上げられ、大法院(最高裁判所)で勝つ
(3)1986 年にカトリック医科大学で試験に合格した身体障害者の学生が、身体検査で合格を取り消され、抗議のため全国的な障害者大会を開いた
(4) 協会の要請で1986年にソウル市は職員採用の際に障害者の特別枠をもうけた
*1989年に会館は障害者の授産所としてサムソン電子の子会社となる正立電子を設立した。1997年末に電子は別の建物を完成させ、1998年はじめに別組織として正立会館から独立し、協会の所属組織とされた。120 人の障害者従業員と10人の補助者が勤めている。120 人のうち60人が会館内の寮に住み、社内結婚で30カップルが誕生した。
*1980年代には障害者の自助運動の牽引役であった韓国小児マヒ協会は、1990年代に同様な団体が出てきて活動を縮小した。活動のマンネリ化に批判が出たが、マンネリを脱しきれず後退している。新たに活動を展開しようとして、自立生活を取り上げることになった。
*障害者の登録制度があり、100 万人いると言われている障害者のうち昨年は30%の登録率であったが現在50%を超えた。これは車輌税の減免、LPガスの特別使用許可、道路使用料や電話代の割引が登録カードを出すことで受けられるからである。



韓国の障害者ー交流の現場から


自立生活センタ−立川・岡田智恵子

*大学で韓国語を専攻していたので、語学研修でソウルに滞在し、車椅子で動き回っていた。ソウル駅には車椅子用エレベ−タ−があったが動かなかった。地下鉄は階段ばかりで使用できず、バスは何時も寿司詰めで人が乗り降りしていても動き出した。そのためタクシ−が障害者にとってほとんど唯一の交通手段であった。町の中心部には車椅子用の公衆電話もあった。博物館等、アクセスのよい建物もある。アクセスの改善に取り組む、当事者が作ったNGO、韓国障害者イ−ジ−・アクセス運動(Easy Access for People with Disabilities Movement in Korea)もできた。
*95年にソウルで第1回日・韓障害者国際交流大会に出席したことがきっかけで、韓国障碍友権益問題研究所を通して韓国の障害者との交流が始まった。
*研究所は10人以上のスタッフをかかえ、グラビアの月刊誌「ともに歩む」の発行など種々の事業を手がけている。障害当事者の組織ではあるが、中心は軽度の障害者である。
*大会は差別とたたかう全国共同体連合(共同連)と研究所の共催で、分科会に分かれての話合いと施設見学、観光等からなる。1回目には日本から100 人もの障害者がソウルに出かけた。韓国の参加者はキリスト教関係の人が多かった。昨年の第2回は名古屋で開催され今度は韓国から100 人もが出席した。互いに発表しあって理解するだけで精一杯で、なかなか議論にまで至らなかった。
*今年の夏の第3回大会は、三育再活院(Samyook Rehabilitation Center )の施設を借りて開催された。ソウル郊外に新しい建物をつくり、病院、身体障害者のための幼稚園から高校までの特殊学級、ラジオやTV技術、電子デ−タ処理システム、金銀研磨、洋裁の職業訓練、体育館、電子部品の組み立てと金銀研磨を行う授産所を運営する、韓国最大のリハビリテ−ション・センタ−である。
*今回は実質的な議論を行うために、双方からの参加者が50人づつに制限された。同時並行で開催する形式ではなく、全員が参加できるように4分科会を順番に開いていった。
ー自立生活 重度障害者が介助者を使って地域で暮らしていることを理解してもらうのは大変であった。
ー労働 太田市の公務員試験で、片手が少し悪いだけの人がよい成績を取ったにも拘らず採用されず裁判で係争中の例もあり、韓国で障害者が雇用されるのは難しい。
ー統合教育 韓国では普通校の中に特殊学級を設置することが統合教育であるとの認識をもっていたことに日本側は、びっくりした。。
ー女性障害者 若い女性障害者を中心に既に団体が存在している。長老尊重、男尊女卑の社会の中での女性は家事をし子供を生む役割を期待されていることなど、問題点を語ってくれた。
重度障害者の参加は少なかった。せっかく同じ所に泊まっているのに通訳できる人材が限られて話がなかなかできなかった。意識の差が大きいことは、今後の課題である。




地域福祉センタ−の障害者プログラム


韓国・東区地域福祉館(全社協アジア社会福祉従事者研修生)李光文(イ・クウァン・ムン )

*韓国福祉財団は社会福祉法人であり、世界的キリスト教組織CCWAのメンバ−である。1948年にアメリカ人クラ−クが設立し、70年代より韓国人が会長となる。全国に350 人の職員がいて、15支部をもち、ソウルに本部がある。
*財団は児童、障害者、独居老人の援助を目的とし、収益事業と福祉事業を行う。
*予算は13億円で、歳入の内訳は政府補助49%、受益者負担20%、後援者18%、収入(ビル賃貸、少年少女家長紹介の本など)13%である。
*後援者は篤志家として困窮者に毎月一定額を援助する。社長、国会議員、スタ−などの7万人の会員が5万人に月平均3〜4千円を支援している。
*地域福祉館を22運営し、その2つは釜山にある。釜山市東区の東区社会福祉館は4階建のビルで、法律で設置が決まった地域福祉センタ−事業として1991年から政府に委託されている。23人のスタッフが9時から5時半まで勤務し、年間予算は4、600 万円(26%政府、収入71%、財団の支援3%)である。社会福祉法人の予算は政府70%、自己資金30%と法律で決められているが、活動をしていくにはこれでは少ないので内訳は前述のようになっている。
*センタ−には家族福祉(貧しい人に壁紙張り等の職業訓練)、保育園(貧しい過程の子供6人)、学童保育(親が働いている貧困家庭が対象、1〜4年生は午前で授業が終わるので)老人福祉(老人教室や、給食や入浴のサ−ビス、誕生会)、在宅福祉(少年少女家長や独居老人対象、洗濯、訪問看護、キムチづくり)、ボランティア(大半は大学生、彼らがいないと施設運営ができない)と障害者福祉のプログラムがある。
*障害者のためには障害児保育(5〜11才を対象に週5日個別と集団の指導)、障害児グル−プ・ワ−ク(中学生、週1回のリハ野外活動(15〜25才、ボランティアと共に)、デイケアセンタ−、在宅訪問(リハビリ、援助)を行っている。障害者の登録制度がある。釜山市では推定は8万5千人であるが、2万人しか登録していない。登録してもサ−ビスが受けられないし、家族が恥ずかしがるからである。
*少年少女家長とは親がいない子供で、1981年より政府に委託された18才までの生活保護者である。彼らのために奨学金、医療費の援助、職業訓練、キャンプなどのプログラムがある。貧しい子供と財団の青少年会館で暮らす少年少女家長もいる。そこでは無料で生活しながら地下鉄で新聞を販売し、仕事でのお金をためて独立する。キャンプは新聞社などから資金を受け、3泊4日で100 人、全国で2万人が参加する。
*障害児施設「ハンサランマオル」には132 人の重度身体障害児が居住し、リハビリ、教育等を受けている。
*法律で警察は迷子をすぐにさがす義務はないので行方不明の子供のために、迷子予防キャンペ−ンとコンピュ−タ−を使っての迷子捜し事業も実施している。