インドの障害者の状況

第84回アジア障害者問題研究会報告
1998年7月11日
インドDPI会長/インド国立身体障害者研究所副所長 PKマリック


*医師として国立整形外科的障害者研究所(NIOH)で19年働き、今は技術担当副所長である。脊髄損傷による障害者として、障害者の全国団体インドDPIを設立し会長でもある。妻は民間団体ビカシ・バハラティ福祉協会で書記の役員を努め、教育、医療、障害者福祉等の活動をしている。
*インドには9千万人の障害者がいると言われる。政府はNIOHを含めて6ヵ所のリハビリテ−ション・センタ−(身体障害3、言語障害1、聴覚障害1、精神障害1)を運営している。この大半は医療リハビリを行っているだけで、退所した人の住居や生計の問題を考えていない。障害者の90%は農村か半都市化した場所に住むが、政府のシステムはその人たちに届かない。民間のサ−ビスすべてを合わせても、5%の障害者しか恩恵を受けられない。
*1974年3月30才の時に事故にあい、障害者となった。その時にはハンセン病の医療を行っていた。米のハワ−ド・ラスク博士に続いて仕事をするように励まされ、マドラスの大学院でリハビリテ−ション医学を専攻した。80年に今のセンタ−に入る。ハンセン病者は、私がハンセン病を専門としていると知って訪ねてくる。月に5−6人である。近くにマザ−・テレサの修道会が運営するハンセン病のリハビリテ−ション・センタ−があり、私の研究所から補装具のスタッフが出向いたり、私も医療の相談があれば行く。センタ−では世界中のその修道会のメンバ−のためのサリ−を織っている。
*今でも障害者に対する態度は同情が基盤となっている。ポリオで両下肢に障害がある患者は車椅子は人の目につくのでいやだと言い、今まで通り両手をついて蛙のように跳んで歩く方を選んだ。研究所スタッフで補装具センタ−の主任は片足が義足であるが、若いときに松葉杖を使って町を歩くと乞食と思われて人々にコインを投げられた。鉄道事故で片手を切断した男性は腕の骨に割れ目を入れる手術を受け、鋏のようにものがつかめるようになった。
*1974年の事故から2年目に、マドラスの大学で英国から来た車椅子でやっと動けるようになった。事故後1年半は、父も兄弟も従兄弟も医者なのにどうしたらいいか分からず、家でキャスタ−がついたものを使って我慢しなければならなかった。1980年代からは月収が5千ルピ−(30ドル)以下の障害者には、収入証明書を持って研究所に来ると政府からの車椅子を与えることができるようになった。90年代になり、経済リハビリテ−ションに目が向くようになった。重度CPで言語障害を持つ患者が、おばが両親と自分のために月に400 ルピ−(10ドル)をくれていたが6ヵ月で定年になるのでどうしようかと相談に来た。私に1000ルピ−を提供してくれた人がいたので、それで香料スティックを買って売れば月に6000ルピ−稼げることになった。
*1996年にインド障害者法が制定された。
*山駿地帯の治療にこられない障害者のために、研究所は山でキャンプ(仮設診療所)を行っている。ポリオの子供は背負われて来る。