韓国の障害者の交通アクセス運動

第127回アジア障害者問題研究会報告
2002年3月2日
韓国・正立会館(ダスキン・アジア太平洋障害者リーダー育成事業3期生)パク・チャノン


*小、中、高校は自宅で自習し、25歳で大学に入学。ソーシャルワーカーとなる。現在は障害者自身が設立した国で初めての利用施設、正立会館のスタッフである。ヒューマンケア協会の自立生活研修、JIL(全国自立生活センター協議会)の所長セミナーに引き続き、3回目の来日である。
*60年代から軍人大統領が続き、87年に市民が選挙しても軍人が3番目の大統領となった。92年に初の民間人が選出された。軍人大統領の時代には多くの民衆の運動があった。
*500人以上の会社や軍人、公務員のみを対象とした医療保険は、70年代に制度が整っても一般人には良くならなかった。朝鮮戦争での傷痍軍人には、今でも国から年金や介助の費用の援助が出ている。
*60年代はポリオの障害者が目立ち、その中の軽度の人は勉強し医師や弁護士、画家等になった。新聞が彼らの成功話を取り上げたのを機に、後輩を援助しようと三愛会を作った。もう廃止されたが小学校から中学に進むのに試験があった70年代には、身体検査で障害者が除外されるた。三愛会のメンバーが大統領に手紙を書き、事情次第で入学が認められるようになった。体育では点数をもらえないので、障害者用の体育試験を作り学校に代わって試験した点数が採用されるようにした。
*80年代は運動の年である。朴大統領の死により一般市民の民主化運動が起こった。障害者は大学で、工学、医学、薬学を専攻できなかった。拒否された人は大学に行かない、専攻を変える、自殺などの道を選んだ。この時初めて大学生が障害者と共に運動をした。彼らは卒業後労働運動に入り、障害者は大学を卒業して障害者運動を始めた。ソウル、テグ、プサンなど全国のいろいろな大学で入学拒否反対運動が起こり、学生の民主化運動と一緒に行った。
*70年代には他にも多くの出来事があった。交差点の段差の解消を訴えて、障害者大学生が薬物自殺をし、そのニュースで障害者大学生のネットワークが初めてアクセスのことを考えるようになった。82年にはソウル市がバスや電車で通勤できる軽度な障害者18人を初めて雇用した。
*81年の国際障害者年を記念し国が福祉館などの施設を作ろうとした。住民が家の価格が下がるので反対し、障害者と対立した。山の上や、町外れなら問題がなかった。82年に母親が12歳のポリオの子どもを殺したが、新聞はこれを大ニュースとしなかった。
*87年に2番目の軍人大統領が辞め、民主化運動が勝利し、障害者も運動も力を自覚した。88年に200−300人の障害者が国の障害者支援が優先されるべきとして、パラリンピックの反対運動をした。福祉法に義務規定を追加し、法律を強化した。障害者雇用促進法の制定を求め、従業員の2%の雇用を義務として、実施しなければ給与と同額を罰金として払うようになった。
*92年には民間人大統領が誕生したことで、運動は全般に弱体化する。
*大学構内で障害者学生の電動スクーターでの死亡事故があった。94年には禁止されていた露店で音楽テープやアクセサリーを売っていた障害者が、商売道具を取り上げられ焼身自殺をした。そのため500人の障害者の生存権を求めるデモが行われ、初めて火炎瓶が投げられた。初めて障害者運動が学生の運動をリードした。95年には障害者の大学での入学枠ができ、重度障害者がたくさん入学したが、アクセスの問題で退学者がで、訴訟も起こった。90年代後半は障害者運動が弱体化するが、専門家がそれをカバーした。
*2001年1月22日に地下鉄4号線烏耳島駅では垂直型リフトのワイヤーが切れて70代の車椅子使用者パク・ソヨプ氏が転落して亡くなった。以下はそれを切っ掛けとするアクセスを求める運動を扱ったテレビ番組(2001年5月放送)である。

地下鉄ソウル駅で自分たちの権利を求めて車椅子イス障害者と支援の学生とが線路に降りてデモを行い、警笛を鳴らして近づいてくる電車を止めた。正立会館内のノドル夜間学校の学生が中心で、校長がリーダーであった。国はリフトから落ちて死んだ障害者の家族にお金を払い事件を終結しようとしたが、彼らは事故原因の究明と安全基準を求めた。警官4人が各障害者ついて運び上たが、一般市民が見ていたので逮捕はしなかった。駅前で事情聴取を受け夜になって逮捕された。リフトは120Kgまでで、自分で操作し時間がかかる。地下鉄8線の360駅に80のエレベーターと132のリフトがあり、両方が備えられている所もあるので、40%ほどの駅が使える。夜間学校近くの駅は大きな公園の隣りなので、設置の場所がありエレベーターがつけられた。34歳の女性は母親が付き添い小学4年まで学校に行けた。今は自宅から一人で地下鉄で通学し、夜間学校のシャトルバスが駅に迎えにる。昨年は夜間学校から国家試験で高校に4人、中学に2人が合格した。毎週水曜日には歌、趣味、運動などの好きなクラスを行う。市役所前で毎日昼休み交代で移動の自由を求めてピケをはり、2ヶ月ほど続けた。病気のため学校に行けず夜学で勉強した女性は、車椅子で入学した大学で人間としての権利がないことを感じ、アクセスの悪い大学を訴訟した。図書館のアクセスは良くなった。何故自分の学校だけ訴訟したのか、学校の名誉を考えろと言われ、彼女は傷ついた。3年生の彼女は後輩のために訴えた。4月20日の韓国障害者の日に50人が集まり電車に乗り込み、ソウルの繁華街でデモを行った。

*7月には市役所の前でテントを張った。8月には警官に駅前への移動を許された。要求の対象はバスに変わり、毎月バスに乗る運動を続けた。


報告:その後の交通アクセス運動の進展  

アジア・ディスアビリティ・インスティテート
中西 由起子

 2002年8月12日から障害者移動権連帯は、5月にソウル地下鉄5号線鉢山駅のリフトでユン・ジェボン氏(61)が転落して亡くなった惨事に対するソウル市の公開謝罪を要求して, ソウル乙支路にある国家人権委員会を占拠し籠城を始めた。ハンガーストライキを続ける朴敬石(パク ギョン ソク)移動権連帯の共同代表(ノドル障害者夜学校長でもある)の身を案じた日本の自立生活センター協議会(JIL)は国内で支援基金を集める同時に、海外の障害者活動家100人以上にソウル市長ならびに韓国人権委員会への抗議のメール送付の依頼を送った。受け取った人はそれを転送するかたちで、世界的な支援のネットワークができた。

障害者移動権連帯の要求

1 ソユン・ジェボン氏の惨事について、日刊紙の広告を通じてのソウル市の公開謝罪
2 二度と障害者が転落して亡くなったりケガをしたりしないように地下鉄の駅舎にエレベーターの設置
3 障害者が安全で便利にバスを利用できるように「(仮称)低床バス導入のための推進本部」の設置

 篭城中にはハンストを続けるパク氏を先頭にデモを行なったり、映画の上映、支援コンサート等も開かれた。31日目となる9月11日には、午後2時頃重症障害者20余名がリフト障害者墜落惨事についてソウル市の公開謝罪を要求し、 地下鉄線路を占拠した。ソウル市が彼らの要求を一貫して無視し, 実効性ない対策を立てただけだったので障害者たちが憤慨し、劇的な闘争となった。                 

 約1時間間の地下鉄線路占拠して市民にメッセージを送った後、警察が投入され, 線路を占拠した障害者と周辺にいた支援者全員が連行された。

 12日には逮捕の際の負傷者の発生など、警察の非人間的な扱いを糾弾し仲間の釈放を要求する記者会見を行なった。



 ストは38日目に勝利といえる結果で終了した。ソウル市は連帯の要求を受け入れ、2004年までにすべて地下鉄駅でのエレベーターの設置と、新設される低床バス導入推進委員会に連帯代表3名の参加を約束した。
 2003年10月1日にはソウル市内で3カ月間のノンステップバスの試験運行に入った。その後、

2004年7月に民主労働党の玄愛子(ヒョン・エジヤ)議員[1]を中心に、16名の与野党議員により「障害者老人妊婦等の交通手段の利用及び移動保障に閑する法律」(以下、移動権保障法)が発議された。それ以後の細かい動きをあげてみると以ドのようになる。
8月一60人の与野党国会議員により「移動権保障法推進国会議員の集まり」(議員連盟)が納成される。
9月一移動権保障法推進共同対策委員会(以.卜、共対委)締成
11月一民主労働党、共対委とノンステップバスツアーを遂行。
12月17日一同会建設交通委員会に「移助権保障法」と、政府案となる「交通弱者移動便宜増進法」が上程。
12月23日一建設交通委員会により「交通弱者移動便宜増進法建設交通委員会代案」で、移動権の明示と低床バス導人の義務化が決定。
12月27日一建設交通委員会常任委員会で「代案」を可決。
[2]

 交通弱者移動便宜増進法の全文は、http://www.dpi-japan.org/4news/worldnews/051109-2.htmを参照してほしい。

註1 2004年の選挙で民主労働党の候補者リスト一位となり、車いすの国会議員として活躍中。
 2 崔栄繁(2005)韓国で、交通弱者移動便宜増進法が制定、2005年 9月、34頁、日本障害者リハビリテ−ション協会


                                           (2005年11月19日)