カンボジア・キエンクリアン職業訓練センターの活動

第123回アジア障害者問題研究会報告
2001年11月10日
JICA障害者リーダー訓練コース研修生Mr. Svay Sokun
          

* 妻は歯科医院職員、17、14、11歳の娘がいる。82年に結婚し、83年に最初の子供が誕生。
* 兄弟は4人。1976年に父はポルポト兵に連れて行かれ、行方不明に。母は栄養失調でなくなった。子供だけ集められ、お粥を配給され、3年8ヶ月20日間土を運んだり開墾する重労働をさせられた。その前に中学校までは終了していた。1979年にポルポトが支配を始めたときには21歳、姉は24歳であった。姉は教師となり、結婚し別の家に住み、自分で妹と弟を養うために技術省で働き始めた。給与の代わりに1ヶ月21キロの米を支給されていた。
* 1984年に18−30歳までの青年を対象とした徴兵のくじに当たり、自分が行けば弟は兵隊にならずにすみ守れると思った。3年たてば戻れると言われた。共産主義ゆえ大変であった。1987年にポルポト派とシアヌーク(フセイン派)の間で戦いが起こり、多くの人が駆り出され、武器を運んだり、道作りを行った。兵隊の訓練を受けていない人までもが使われ、死亡した。
* 負傷し、陸軍病院に4ヶ月入院。重症になっていたのでベトナム・ホーチミンの病院に飛行機で輸送され、9ヶ月入院した。歩くこともできずよくならなかったので、戻ってきて、また政府が旅費を出してくれハノイの病院に入院した。かなり重度の人はこのような支援を受けられた。ハノイでの治療に2年間かかった。
* 元兵士には月に10ドルほどの手当てが支給される。家族がいると子供一人に付き0.6ドル加算され、障害者であると7ドルプラスされる。今は合計で20ドルくらいの手当てをもらっている。妻は13−14ドルの収入がある。
* 帰国後は子供の世話をしていた。そしてプノンペンで洋裁や籐家具、車椅子、革製品の製作をやっていた難民を助ける会(AAR)で10ヶ月間、食費と宿泊を提供され訓練を受けた。スタッフから開店する革製品の店に誘われ、訓練を終了した10人が移った。月55ドルの給与をもらい、他の訓練修了者が家で作った革製品を店に持ってきて売った。経費と労賃を計算し、販売価格を決めた。AARに800ドル借り、自分たちで運営できるようにし、たくさん稼げたときに100ドル、150ドルと返却していった。93年からマネジャーとなった。98年からは治安が悪く、観光客はプノンペンに寄らず直接アンコールワットに入国してしまうので、状況は厳しい


キエンクリアン職業訓練センターでのSvay氏


販売されている革製品
                                (写真提供、中西由起子、2002年1月11日撮影)
* アンコールワットがあるシエムリアップの2カ所の店から、注文を受けて売っている。10ドルの品では8ドルがショップに入ったが、現地では15ドルほどで販売している。製品の輸送にはAARの車を使う。
* キエンクリアン職業訓練センターの中に店があり、障害者が二人働いている。他に4人が製作にあたっている。市内ではほかに美術館とNCDP(全国障害者センター)の店ハーフクラフトに製品をおいている。同様に障害者の手工芸品を販売しているリハブクラフトは日本に直接製品を売っているので、ライバルではない。
* 職業訓練センターには33人のスタッフがいる。テレビ・ラジオ修理、バイク修理、洋裁を訓練している。ブリキ細工のコースは市場の品より劣るため、養鶏は鶏が死んだため、籐製品は競争相手が多いため閉鎖された。皮製品作りは、93年に始まり、95年に終了した。車椅子製造では、障害者の家を訪ねて、貧しい人には無料で提供している。バッタンバンやシムリアップの遠方まで今は届けている。車椅子配布前に視察を行い、渡す。以前は月30台生産していたが、今は10台ほどである。