アジアのろう者ー言語選択の問題

日本手話研究所外国手話研究部・宮本一郎
(2000年5月13日 第106回アジア障害者問題研究会報告をもとに講演者作成)


 アジア各国における言語問題について、JICA主催「ろう者のためのアジア大洋州リーダー研修」で調査したり見聞したものをまとめたものであること、予め断わっておく。
 世界人類上の歴史を見ると、19世紀末に言語での民族復興運動が起こったという歴史事実が周知のことである。ろう者の言語である「手話」は、どうなっただろうか。
 1880年にミラノで開催された世界聾教育会議で、聾学校では「手話」を排除し、口話教育を施すべきと決議された。その以後、世界中のろう学校が口話法採用へ転向し、「手話」を蔑視排除するようになる。
 「手話」の復興運動は、米国で起きて、国際的な規模へと広まったという見解が一般的であると思われる。
1960年代にストーキー博士は、ろう者の「手話」が「言語」であると、学術的な論議場で公言した。それ以来20年以上の年月を経て、1980年代に、米国内の多くのろう者の間に「手話」は言語であると認識が広まる。これが米国内から欧州各国へと国際規模の社会現象となった。
 日本では、1878年に京都に最初の聾学校が創設される。それ以前は、寺小屋でろう児に読み書きや珠算を教えていた。創設以後、手話に関する研究資料が多く見られるが、1878年以前はまだ見つかっていない。19世紀末には、ミラノ会議決議の情報入手や口話法の導入があったが、日本においての口話法が確立されず、1920年代にようやく確立される。第二次世界大戦後、日本語への同化(手話は独自の言語体系を持つのに、日本語に準じようとした考え方)の動向が強まる。1991年のWFD(世界ろう者連盟)主催「世界ろう者会議東京大会」以降、「手話」を、音声日本語とは別体系の言語とみなす見方が広まるようになった。ろう学校現場では、依然として口話教育を施し続けているところがある。
 「手話」言語の広がり方は様々であり、日本の植民地であった韓国や台湾で日本手話を広め、モンゴルではソ連の手話が広まったという政治的なケースがある。フィリピンでは米国ろう者が組織したボランティア団体COOPが1970年代以降、地域活動を通して、アメリカ手話(ASL)教育を行ったという事実がある。ASLを習得したろう児やろう者は、以前から存在していた「手話」を使用する年配ろう者とのコミュニケーションが捗らず、フィリピンのろう社会が分断状態に陥った。しかし、現在、若い世代中心に作られたPFD(フィリピンろう者連盟)が、年配ろう者に会って古い手話を集めて残す運動を進めている。ASL排除の考えも起きているので、運動の行方を見ている。
 それらとは対称的なケースがある。スリランカの場合、スウェーデンろうあ連盟がろう者を派遣して、スリランカ手話辞典の編纂に協力して完了させた。タイの場合、アメリカのギャローデット大学が日本財団の援助資金を得て、5年以上手話辞典の編纂や講師養成に協力している。
 「手話」言語に関わる問題を幾つか挙げる。
 カンボジアの場合、フィンランドろうあ連盟から派遣して、壊滅状態の国状態の中で、ろう者コミュニケーションの確立と職業技術習得による自立を多いに支援した。支援活動終了による帰国との入れ替わりに、昨年フランスから聴者団体NGOが来て、(政府未公認)ろう学校建設に貢献した。言語教育に、ASLを教えることを選択している。ASLを教えていること自体が疑問だが、しかし、疑問がそれだけではない。このNGOのフランス人が、自国のフランス手話(LSF)でもないASLを選択すること自体が、自国のろう者とLSFの存在に対する無知な態度、或いは、無視行為といった、フランス社会構造の矛盾を露にしたものと捉えている。個人的には、あまり、快いものでないし、心が痛む。
 タイの場合、先に述べたが、問題は次のようなものである。米国の支援が、タイろう者の間に、手話言語学研究者・講師・ろう教師などの、大きな期待の出現に繋がるような話は聞かれていない。私どもの情報入手が不十分とも考えられるが、育成環境や研究環境の整備、フィードバックがどのように行われているか、その辺りの報告が出されていないことの疑問がある。
 日本においての活動について、まず、全日本ろうあ連盟。1998年に「アジア基金」を作り、既にネパールの聾学校校舎建設の補助、タイのろう児の奨学金に使った。JICA主催「ろう者のためのアジア大洋州リーダー研修」が毎年秋に行われ、その運営に協力している。それら運動は、1991年の東京会議以後であり、1991年が、日本の多くのろう者が視線を国内から海外へ向けるようになったことを理解できると思う。
 アジア方面で活躍されているNGOについて、日本のろう者社会とのコミュニケーション・チャネルが細いか皆無であるため、日本のろう学校で「口話教育」を視察して、途上国の聾教育現場へそのまま持ち込んだという盲目的なケースが多い。各団体や各NGOから出されている、ろう者・ろう教育関係の報告を読んでわかるように、この多くは、音を聞かせる努力や、口話教育に熱を入れているような、「手話」という単語すら見当たらないケースが大部分である。ネパールでは、昨年帰国した青年海外協力隊員がネパールの手話を習得、ろう教育現場で活かしたことが、現地のろう者やろう児にとっては大きな励みとなったと思う。
 音声言語が多数派である社会の中で、口話の習得が一番適切、或いは、最善方法としても、ろう者・ろう児にとっては、「手話」なしで口話の習得、そして、口話による知識獲得が並みではないことと、人格形成上では遅れを取るなどの問題がある。
 現在の青年海外協力隊では、電話対応能力の有無という条件が、ろう者の隊員志願の大きな壁となっている。ろう社会やろう教育に無知、更に、手話コミュニケーションができない隊員を途上国のろう学校などの現場へ送っても手話コミュニケーションが捗れないという問題と矛盾などが呈されているままである。国レベルからNGOに至るまでの様々な団体組織に、ろう者が自主的に参加できるような受け皿を整えることが、最優先的な解決すべき課題であると考えている。
 私自身は、「国際手話通訳」として協力関係を維持している。「国際手話」とは、エスペラント語でもなく、ジェスチャでもない。現在の学術的な用語なら、「ピジン」(異言語話者同士が、お互いの単語を共有するが、その文法が一定なルールが確立されたものではない)的である。「ピジン」ではなく「ピジン的」と、わざわざ、「的」と述べたのは、「ピジン」定義の一部が、「国際手話」の現状と一致していないためである。例えば、国際手話の単語表現が半永久的に固定されるものではなく、流動的である。又、例えば、オーストラリア的国際手話、日本的国際手話が存在するように、国際手話通訳の表現が一様でないことがよくある。(それでも、しっかりと翻訳が正しく伝わっている。)英語通訳などの音声言語での通訳者から見れば、摩訶不思議な現象と思えるが、国際手話通訳に関わる研究が大きく進んでいないため、未知な部分が大きい。

                            (2000年 5月 26日)