マレ−シア・バンキ障害者職業訓練リハビリテ−ション・センタ−の設立準備とその後

第104回アジア障害者問題研究会報告
2000年3月4日
都立世田谷工業高校・大塚健一


*仕事の都合がつかず青年海外協力隊員としての派遣の機会を逃し、97年に東京都の聾学校で教えていた時JICAシニア・ボランティアとなり、マレーシアで1年間働いた。
*マレーシアでは2020年までに先進国入りをしようとの政策に基ずき、マハティール首相が1991年に発表した5ヶ年計画の目玉の一つとして福祉をあげていた。その計画に沿って、バンキ障害者職業訓練リハビリテーション・センターが建設されることになった。
*派遣された時には、既に日本の仙台のリハビリテーション・センターをモデルとして病院棟とモスクを中心に扇状に各種訓練棟を配置した建物が作られていて、施設設備用配線も完了していた。職員寮もあった。また欧米からのボランティアの話しに乗せられて購入した温水療法の装置も完備していた。建物のアクセスは良かった。
*職員も事務職5名、介護2名、看護5名、医師1人、OT1名、ソーシャル・ワーカー2名、運転手1名、コック1名、庭師1名がいた。社会福祉省からの若手の所長は職業訓練のことを知らなかった。入所者はまだ募集されていず、補助車をつけて3輪にしたバイクで通勤できるような軽度の障害者が2人事務手伝いにいるだけであった。
*要請内容は施設の立ち上げ全般に関する基礎作りであった。所長に先ずカリキュラム作成を依頼された。職業訓練の中に、木工、金工、裁縫、パイプ、コンピュータなどのコースが計画されてはいた。
*初めの3ヶ月は、施設や職業訓練所の現状を視察して歩いた。その後は職業訓練のため入所する人がいるのかどうかや、障害者関係の自動車、機械やコンピュータの訓練を見た。国公立の機関ではマレー系の職員が多く、入所者はマレー系とは限らず中国系の人が多い所もある。これは財力にも関わり、あずける側、働く側の立場の相違を感じた。
*カウンターパートがいなかったので、ソーシャル・ワーカーを相手に技術移転を行うことになったが、彼女も職業訓練を知らなかった。所長に社会福祉省より職業訓練専門家を配置するように頼んだが、結局任期の間には誰も来なかった。職員は給与が低く待遇の良いところに移りたがっていて、医師も仕事がなく移動してしまった。建物は社会福祉局が開催する所長会議などの全国レベルの行事に使用されたり、大臣の訪問を兼ねて2度総会が行われた。職員は施設の修繕や維持の仕事で忙しかった。
*バンキは新国際空港に近いクアラルンプール郊外の都市であり訓練を終了した障害者を雇ってもらえそうな日系の電気メーカーもある。バンキの近くにコンピューターを中心として都市計画作りが進行する中、電気大学も開設されていた。そのためセンターはコンピューターの訓練を希望した。センターを訪れた社会福祉局長もコンピュータを希望した。
*国内での専門家の訓練が十分でなく数が少ないので、先進国からの専門家をあてにしている。教育大学で専門家を育成する政府の動きが肝要である。
*カリキュラム等の情報収集に力を注ぎ、資料は置いてきた。その後4回訪問しているが、所長も代わり、昨年8月の段階でも、まだ稼動していなかった。コンピューターは元々あった1台にJICAより寄付された2台しかなかった。様々な課題はあるが、専門家のいない施設から専門家による福祉が自国で行われることを願いながら帰国した。